『赤のミスティンキル』 第二部

§ 第八章 魔導塔 ヌヴェン・ギゼ

(一)

 さて、物語は再びミスティンキルら三者の冒険行に戻る。ミスティンキル達がメリュウラ島に上陸して七日が過ぎ、彼らはとうとう島の東部域に至った。
 この日、彼らはヌヴィエン川をさかのぼって森の中へと入っていき、大きな滝の側壁をよじ登った。大滝は、ウィムリーフによって“黒壁の瀑布”と名付けられた。よじ登った傾斜地が壁のように急で、降りかかる滝のしぶきによって岩が黒く濡れていたから、とウィムリーフはしたり顔で説明する。それを聞き、分かった分かったと苦笑するミスティンキルであった。
 各人とも相当苦労して登っただけあり、涼やかな川岸にいても身体の内側から汗がにじみ出てくる。アザスタンでさえ疲れの色が見える。手足を使って登坂するなど、およそ龍《ドゥール・サウベレーン》らしくない慣れない行動だろう。彼らは汗が引くまでの間、岩場に座り込んでしばしの間休むことにした。

 ごうごうと勢いよく音を立てて水が滝口から落下していく。視点を川の上流へと転じると、ほどなくヌヴィエン川のはじまりの地、美しく静謐《せいひつ》なヌヴィエン湖に至る。湖面は鏡のように、ほとりにある木々の緑と空の蒼とを映している。
 そして――白き魔導塔ヌヴェン・ギゼがそびえていた。石造りの塔の高さはおよそ半フィーレ。地上部の幅は半フィーレ弱だろうか。その外壁は四つの平面によって形成されているようだ。

 今度は南東方向へと目を向ける。その盆地はかつてのラミシス中枢域。そして中央部にはオーヴ・ディンデ城があったのだ。朱色《あけいろ》の龍、ヒュールリットが言うように、オーヴ・ディンデは今なお結界に閉ざされているのだろうか? この位置からは湖畔の木々が邪魔になって盆地の様子がまったく眺望できない。が、あのヌヴェン・ギゼの屋上からなら望むことができるだろう。

 盆地の向こう側には、今やロス・オム山の雄大な姿がいよいよ迫って見えた。ごつごつとした山肌や沢の様子までくっきりと見てとれる。山が火を噴くのを止めてすでに久しいが、中枢域の盆地が形成されたのは太古の火山活動によるものだ。
 この高地は盆地をぐるりと囲んでおり、ヌヴェン・ギゼのほかにも三つの塔がある。ここから東に位置するシュテル・ギゼ、南に位置するゴヴラット・ギゼ、そして盆地を挟んだ真向かい、南東の高地にあるロルン・ギゼである。ラミシスが在りし頃にはそれぞれの塔において魔導の研究が行われていたほか、中枢域を守護する役割も果たしていたとされる。これらの塔も、今いる位置からではまったく見えない。

◆◆◆◆

 ひとときの休憩を終えてとりあえずの活力を取り戻した一行は、湖のほとりに沿って残る石畳を道なりに歩む。次第にヌヴェン・ギゼへと近づいていく。塔はかつて王国が在ったときのままに、崩れることなくそそり立っているようだ。
 平滑な外壁の隅部には、上から下まで細い植物模様が二本絡まり合う彫刻が施されている。壁の中央上方と、左右の隅部上方には各々一カ所ずつ計三カ所、内部へ通じる小さな四角い穴が開けられている。穴はどれも、鳥が入れる程度の大きさしかない。弓矢を射るための狭間窓にしては使い勝手が悪すぎる。何か別の意図があって設けられたのだろう。もっとも、塔の所有者が不在となって久しい現在では鳥の巣となってしまっている。
 壁面には巨大かつ精緻な魔法図象が彫り込まれている。それは大きく幾何学的なモザイク模様が重なり合うようにして連続的に描かれていて、模様の中には判読できない古代文字が羅列してあった。

「みごとな壁画ねえ! これは絵に描いておかなきゃ」
 ミスティンキルとウィムリーフは横に並んで歩く。塔というラミシスの遺跡を目の前にしてウィムリーフは俄然やる気を出している。
「あたしにはあの壁画が何を表しているのか分からない。せめて文字が読めたらいいんだけど――。あーあ。博識な魔法使いがここにいればなあ。いろいろ教えてくれるでしょうに」
 ウィムリーフは残念そうに肩をすくめてみせた。
「おれが物知りな魔法使いじゃなくて悪かったな」
 ミスティンキルはウィムリーフを軽く小突いた。頭を押さえ、なによ、とウィムリーフが怒ったふりをする。
「まあとにかく。おれ達には大きな魔力がある。強く念じればいろいろな魔法だって産み出せる。でも、魔法の知識ってやつはからっきしだ。その辺の胡散臭いまじない師などと変わりゃしねえ。……なあ、アザスタン。龍のあんたならあの壁画のこと、なんか分かるんじゃねえのか? 伊達に長く生きてねえだろ?」
 ミスティンキルは首を後ろに向け、アザスタンに訊いてみた。
「愚かしいことを訊くな、新参の“炎の司”。龍が知るのは炎の理《ことわり》。バイラルが研究していた魔法のことなど微塵も知らぬよ」
「なんだ、駄目か。しかたねえな」
 ミスティンキルは悪びれることなく、ただ肩をすくめた。
「しかしなあ。そんなにすごい魔法使いなんて今の世界にいるのやら――ん?!」
 まったく唐突に、ミスティンキルは奇妙な感覚に陥った。魔法に関して、自分が“何か”を失念している気がしたのだ。とても大事だったはずの“何か”を。だが頭をひねって思い出そうとしても、記憶に模糊《もこ》としたもやがかかったよう。けっきょく彼は諦めて、疑問を頭の片隅に追いやることにした。

 湖から塔に至る地面には、石造りの水路が一本まっすぐに形成されている。その傾き加減からすると、塔からの水を湖に流すつくりとなっているようだ。もっとも時を経た今となっては水路として機能しておらず、その形跡のみが残されているに過ぎない。
「さ、行ってみましょう。塔に着いたらいったん休憩するわ」
 意気揚々としたウィムリーフに促されて、一行は水路を辿って塔の下へと向かうのだった。

◆◆◆◆

 そうして彼らは塔の真下に辿り着いた。
「やれやれ。ようやくひと息つけるぜ!」
 ミスティンキルは荷物をどすんと下ろし、気持ちよさそうに大きく背伸びをした。それから靴を脱ぎ捨てると草原に仰向けになった。
「お疲れさまでした。はい、これ」
 ウィムリーフは荷物の中から携帯食を取り出してミスティンキルとアザスタンに渡した。風光明媚な湖の情景を見やりながら、一行は食事をとることにした。
「寝ながら食べないでよね」
 ウィムリーフはミスティンキルに釘を刺す。それを聞いてよっこいせと、ミスティンキルは起き上がった。

「……どこかに入り口があるはず。さっきも言ったけど、登ってみましょうよ。中枢部の景色を塔の上から見てみたいわ。結界のことも気になるしね」
 食事の最中、ウィムリーフが念を押すように塔の探索を提案した。
 ミスティンキルはカストルウェン王子達の勲《いさおし》を思い起こした。かつてカストルウェンとレオウドゥールは、この塔を含む四つの塔に巣くう竜《ゾアヴァンゲル》を退治したとされている。それならばカストルウェン達が用いた入り口や、竜達が入り込むだけの穴がどこかにあるはずだ。
「オーヴ・ディンデって、ここから遠くないんだろう? 先に進まなくていいのか?」
 ミスティンキルは尋ねた。
「今日はここで野営しようと思うのよ。ちょっとばかり早いけれどね。しっかり休んで、明日は早起きして出発して――いよいよ目的地に乗り込むのよ!」
 握った拳に気合いがみなぎる。ウィムリーフはたいそう嬉しそうだ。
「ありがとう。二人のおかげで、冒険はとうとう山場を迎えるわ……。そりゃあさ、最初の予定どおり空を飛んで行ければ御の字だったけれどね」
「違えねえな」
 ミスティンキルは笑う。おかげでずいぶんと苦難の道を歩んだものだ。
「まあそこは、冒険らしい冒険ができたと思って前向きになりましょう」
 そう。達成感もまたあった。今回の冒険行で得た経験は間違いなく、これから先の冒険に活かされるに違いない。オーヴ・ディンデに入れるかどうかに関わらず。
 ミスティンキルは大空を見つめる。見渡すかぎりの蒼が続く空。そして雄大な山、木々の緑と乳白色の塔があるこの風景に、一行の心は洗われる思いだった。

↑ PAGE TOP

(二)

 それから半刻ほどの間、横になって仮眠を取ったのち、三人はいよいよ行動を開始した。ヌヴェン・ギゼの探索だ。

 正面の壁は継ぎ目が巧妙に隠されており、入り口らしきものは見当たらなかった。屋内と唯一繋がっているのは湖に至る水路だが、人が入り込める大きさではない。一行は塔の周りをぐるりと廻ってみることにした。
 最初の角を曲がると、離れたところに石造りの廃墟を発見した。窓から中の様子を覗いてみると、屋内はぼろぼろに朽ち果てているが、幾人かが居住できるつくりになっているのが分かった。塔と関わりを持つ人間達がここで生活していた証だ。
 道を戻り、また塔の入り口を探す。次の角を曲がって建物の背面部に出ると、壁面が大きく崩れているのを発見した。
「見て。あそこから入れそうね」
 ミスティンキルも頷いた。

 近づくにつれ、壁の崩落がかなり大きいことが分かった。巨大な生物の出入りも容易いだろう。
「竜の巣。ここがそうだったのね」
「するってえと、勲《いさおし》にあるカストルウェン達の竜退治。あの話は本当だってことか。……にしても、ここで竜とやりあったのかよ。魔法無しでよくやるぜ」
 一週間ほど前に竜と空中戦を演じたミスティンキル達は、あの獣の躯の大きさと頑強さがどれほどのものか身をもって知っている。ここにいた竜は巣を作るに際して、この堅牢な塔の壁に体当たりして突き崩したのだろう。
(今、また竜が巣くっていたら……)
 ミスティンキルの脳裏に一瞬不安が頭をよぎるが、すぐに思い直した。たとえ竜がいたとしても、今の自分達の敵ではない。すでに“竜殺し”の名を勝ち得た身なのだから。むしろ――
「塔の主《ぬし》っていうのがもしいたとして、それが竜だったりしたら――塔の探索は諦めてオーヴ・ディンデへ向かうわ。力は温存しておきたいもの。力を使うとしたら、それはここじゃない」
 ウィムリーフが小声で言った。ミスティンキルも彼女と同じことを考えていた。
「そうだな、賛成だ」
「先ほどから内部の気配を探ってはみたが、竜の気配はわしには感じられんぞ」
 アザスタンの助言をウィムリーフは傾聴し、頷く。そして目を閉じて耳をそばだてた。彼女は“翼の民”アイバーフィン。風を操るがゆえに耳ざといのだ。そして彼女の聴力は、竜のような巨大な生き物の息づかいを感知しなかった。
 まだ油断はならない。ウィムリーフはそうっと頭を突き出して中の様子をうかがう。窓らしい窓はない上に、(当然ではあるが)明かりは灯っていない。そのため内部は暗く虚ろな空間が広がっている。静寂のみがそこにはあり、竜が生息しているという気配は微塵も感じられない。竜達はずっと前から――もしかするとカストルウェン達が討伐してからこのかた、この地域にはいないのかもしれない。
 ウィムリーフは振り返った。
「大丈夫。入るわ」
 ミスティンキルとアザスタンは同意する。三人はがれきを上り、塔内部へと入っていくのだった。

◆◆◆◆

 入り口付近からはわずかに光が差し込んでいることもあって、石造りの床のところどころに雑草が茂っているのが見える。先頭のウィムリーフが飛び降りて軽やかに着地する。ばさばさ、かさかさと、暗がりの中でかすかな気配が動き回ったかと思うと、またしんと静まりかえった。
 三人は顔を見合わせる。獣特有の匂いが漂っているので、塔の内部はなにかしらの小動物のすみかとなっているのだろう。この程度なら問題ないと判断して、ミスティンキルとアザスタンが塔の内部に侵入する。大柄な彼らは音を立てて着地した。かさかさという気配こそするものの、その主は姿を現そうとはしない。
「……明かりを付けましょう。ミスト、魔法の明かりをお願いできる? たいまつ程度の明るさでいいわ」
 ウィムリーフが小声で言った。
「……いいのか? でっかい化け物が壁にベターっと張り付いてたりしてな」
「ちょっと、嫌なこと言わないでよ!」
「あと、天井にこうもりがずらーっと――」
「やめなさい!」
 ミスティンキルの軽口にウィムリーフは顔をしかめた。ミスティンキルはへへっと笑って人差し指を掲げると、指先に炎を灯した。魔力によるその火の玉を頭上あたりまで上昇させる。すると、おぼろげながら内部の様子が見てとれるようになった。

 一行はぐるりと周囲を眺める。塔外部は意匠を凝らしたつくりとなっていたが、その内部は打って変わって簡素なつくりとなっている。四方の平滑な壁面がそのまま頂上へと伸びている。階層の区別はなく、また壁の仕切りもいっさいなかった。言うなれば空っぽの構造だ。
 ただし、外へ流れる水路付近を見ると、硝子の欠片のようなものが大量に散らばっている。塔の上部から下部にかけて、かつては何かしらの構造物があったという痕跡だろう。竜が巣穴で暴れた際に構造物を壊してしまったのかもしれない。残念なことに今のこの状態は、塔本来の姿ではないのだ。
 ミスティンキルは炎をゆっくりと上方へ昇らせてみる。こうもりか、はたまた鳥類か、時折翼を持つ生物が映し出される。彼らに敵意はないようだ。
「ミスト、あれ!」
 不意にウィムリーフはミスティンキルの袖をつかみ、上方を指さした。何かがきらりと光ったのだ。ミスティンキルは炎を明るくして、さらに真上へと昇らせる。そうして塔の天井あたりまで至ると――
 “それ”が天井の四隅から伸びた鎖で宙づりになっているのを見た。青みがかったその立方体。“それ”はまるで――

「“封印核”?!」
 信じられない、とばかりにウィムリーフは両手で口をふさいだ。その立方体はわずかながら魔力を内包しており、なにより月の世界で目の当たりにした“封印核”を想起させるものだったのだから。天井に吊されている立方体――“魔導核”は、この魔導塔の構造において、要《かなめ》となるものだと推測できた。
「……でも、月のやつとは違うか……?」
 ミスティンキルは訝しんだ。月の“封印核”はこの世ならざる物質で構成されていたし、もっと大型だった。なにより“封印核”にはシャボン玉を象った膨大な魔力が凝縮されていた上、“彼”がいた。“大魔導師ユクツェルノイレ”が――

 刹那、ミスティンキルは鮮明に思いだした。月の世界で魔導を解放する際、かの大魔導師が語ったことを。
「そうだ! ユクツェルノイレ!」
 思わず彼は大声を上げた。

◆◆◆◆

――「アリューザ・ガルドでウェインディルを見いだせ。彼らの住まいはあえて私からは言わない。……魔導に関しては彼だけが大いなる導き手となるだろう……」――

 ユクツェルノイレの言葉は、ミスティンキルとウィムリーフ、魔導を復活させた二人にとって運命的であり、極めて重要な忠告だった。編纂していたさきの冒険記にも彼の言葉を記そうと、もともと二人して決めていたはず。なのだが――
 なぜ自分達は、ユクツェルノイレのこの言葉だけをすっかり忘れてしまっていたのだろうか?
 なぜウィムリーフは冒険記の総仕上げを後回しにしてまで、半ば強引に今回の冒険を始めたのだろうか?
 自分達は冒険よりもまず真っ先に、ウェインディルという人物を探さなければならなかったのではないか?
「……なあウィム、ちょっと」
 問いただそうと、ミスティンキルは真剣な面持ちでウィムリーフを見据えた。対して、ウィムリーフは上方を見つめ、だんまりを決め込んでいる。ミスティンキルとは視線を合わそうとしない。まるで青い“魔力核”に魅入られてるかのようだ。
 ミスティンキルは構わず言葉を続けた。
「おれ、思い出したんだがな。ユクツェルノイレの言葉だ。ほら、月の世界にいた大魔導師の。あの人が言ってたこと、覚えてるだろう? ウェインディルを見つけなきゃならなかったんじゃないのか。おれ達は」
 変わらず、ウィムリーフは無反応。ミスティンキルは顔をしかめる。
「……もうこんなところまで来ちまったからな、今さらどうこうしてもしかたねえがよ。……なあ、ウィムよう、ウェインディルを探そうぜ。この島の冒険が終わったら」
 いくら語りかけてもウィムリーフは微動だにしない。
「なんでおれ、今まで忘れてたんだろう? でもウィム。お前は覚――」
「ウェインディル……」
 彼女はぽつりと呟いた。
「……ウェインディル……?」
 同じ言葉をか細く繰り返す。
(ウィム? どうしちまったんだ?)
 怪訝に思いつつミスティンキルは言葉を続けた。
「おい、なあ。聞いてんのか? いい加減こっち向けよ。お前だって覚えているだろう? おれ達が月の世界で――」
 その時ようやく、ウィムリーフがミスティンキルのほうへ向き直った。

 瞬時にミスティンキルは総毛立った。ウィムリーフの気配にただならない異質さと畏れを覚えたのだ。それは昨日の夕方感じたものと同質だ。自身を包み込んだ青い光を嫌ってふさぎ込んだあとのウィムリーフの様子と。
「覚えている……? 忘れていた……? ユクツェルノイレ……」
 不明瞭な返事。ウィムリーフの目つきはうつろだ。彼女の瞳はミスティンキルではなく、何か別のものを見ているように思える。
「いいえ、――ここに来なければならなかった――」
 ウィムリーフは再度、天井を見つめる。まったく会話がかみ合わない。奇行に走ることによって彼女は自分をはぐらかそうとしているのか?
(あり得ねえよ。だってウィムリーフだぜ)
 ミスティンキルは否定した。聡明なウィムリーフはそんなことなどしない。大事にあたってはウィムリーフはいつだって真摯な態度でミスティンキルに接してきた。いつの頃からか彼自身定かではないが、ミスティンキルは彼女に対し全幅の信頼を置くようになっている。
(あり得ねえんだが……今のウィムは一体どうなっちまってんだ? 気が触れちまったのか?)
 困惑しつつもミスティンキルは再び上を見た。するとどうしたことか、“魔力核”がほのかに青く明滅しはじめたのだ!

↑ PAGE TOP

(三)

「おお……?!」
 ミスティンキルは驚きの声を上げた。さらに時を同じくして――ウィムリーフの全身がまたしても青い光に包まれていく!
「……!」
 ミスティンキルは言葉を失う。取り乱したりしないよう、必死に自分を抑える。
(なんだ?! これ以上、一体なにが起きようとしてるんだ?!)
 ウィムリーフの発する淡い光によって、周囲が青く照らし出される。彼女はまるで自身の異変に気付いていないかのごとく表情を変えず、天井の“魔力核”を見つめている。微動だにしない。ただ、口元だけがかすかに動いている。何かを囁くかのように。
 ミスティンキルはアザスタンを一瞥した。押し黙ったままの彼だが、いつもの平静さにはやや欠けている節がある。
「お、おい、ウィム!」
 ともかく彼女を正気に戻そう。強硬手段だ。ミスティンキルはウィムリーフの両肩をがっしりとつかんだ。細いがしっかりした肩を。
【己を戻せ! ウィムリーフ!】
 その時、アザスタンが龍の言葉を強く発した。龍の発する言葉――その魔力たるや、人のそれとは比べものにならないほどに強い。ウィムリーフの身体が微動し――今度こそ彼女の瞳に意識が戻った。

「あ……れ? どうしたんだろう? あ……あたしまた光ってる……!」
 ウィムリーフは自分の身体を見やって戸惑いの声を上げた。
「大丈夫なのか?! ウィム」
 ミスティンキルは肩を抱いたまま問いかける。赤い瞳と群青の瞳――その視線が重なり合う。ややあって、ウィムリーフはこくりと頷いた。
「大丈夫よ……」
 そう言った彼女は間違いなく、ミスティンキルの知っているウィムリーフだった。そして彼女はそっと、ミスティンキルの手に自分の手を重ねてきた。その柔らかく暖かい感触。ミスティンキルはとりあえず安堵した。
「今さら……思い出したわ。馬鹿だ……」
 うつむき加減に、ウィムリーフが自嘲する。
「思い出した?」
 ミスティンキルが訊く。
「ユクツェルノイレが言った言葉よ……。本当、今さらよね。なんてあたしは馬鹿なんだろう……!」
 俯いたままウィムリーフは声を震わせる。入り交じった負の感情をなんとか押し殺そうとしているのがミスティンキルには分かった。
「ウェインディルを探すって強く決めてたのよね。あたし達二人で。だからあたしは絶対に忘れるはずなかった。……けれど……なんでだろう……? なんで忘れちゃってたんだろう……? もう、わけが分からない!」
 ウィムリーフの感情が堰を切ってあふれ出た。こうなっては彼女自身でもどうしようもなく、ただ嗚咽を繰り返す。
「それにまた……ほら。魔力がこうして出てきちゃってるし。ねえミスト。あたし、どうにかなっちゃってるのかな? 毎日毎日、あたしの身体が青く光るなんて……それがだんだん早くなってるなんて……!」
 ウィムリーフは顔を上げてミスティンキルを見た。涙で顔がぐしゃぐしゃになりながらもウィムリーフは苦笑いを浮かべる。彼女のこんな弱く痛々しい姿を見るのは、ミスティンキルにとってはじめてだ。彼自身も動揺を隠せない。それでも彼は震える手を伸ばし、ひどく苛まれている恋人をぎゅっと抱きしめた。
「馬鹿。そんなわけあるか。この島にラミシスの魔法が残ってるから、それに反応してるだけだ。島から出れば元に戻る」
 彼の言葉は当てずっぽうのでまかせでしかない。だがそれでも、ミスティンキルはウィムリーフを安心させたかったのだ。
「ミスト、ありがとう。ごめんね……」
 ウィムリーフは指でそっと涙を拭った。ミスティンキルは彼女の頭を二度、三度と優しく撫でる。彼女の暖かさ、柔らかさを感じていると、自分の動揺はすうっと消えていった。

 しばらく経って、ウィムリーフはミスティンキルの腕の中から離れた。ウィムリーフは涙を拭い、呼吸を整える。凛とした表情。それはいつもの、賢く落ち着き払ったウィムリーフだ。
「ウィム……」
 ミスティンキルは笑みを浮かべ、恥ずかしそうにミスティンキルとアザスタンを見た。
「取り乱してごめん。とにかく今は、この冒険に集中しましょう。メリュウラ島からデュンサアルへ帰ったら、二つの冒険記をまとめて完成させるわ。……そうしたらあたし達、新しい旅をはじめましょうよ。ウェインディルを探す旅を」
 ウィムリーフは気丈に言ってみせた。
「さ、行きましょう。そこの壁づたいに階段があるわ。あれを上っていけば屋上に出られそうよ」
 見るとウィムリーフの言うとおり、四方の壁の一つに階段が設けられ、つづら折りになって天井まで伸びている。彼らはそちらに向かった。

◆◆◆◆

 ウィムリーフを先頭に三人は一列縦隊になり、壁面に設けられた狭い階段を慎重に上っていった。強固にしつらえてあるように見受けられるものの、塔が建造されてから八百年もの年月を経ている。階段が朽ちていないか、足元を一歩一歩確かめながら上を目指す。
 そうして天井まであとひと息、青く明滅する“魔力核”に並ぶ高さまでようやく上がってきた。
 塔の壁面には外へ繋がる小さな穴が三カ所だけ開けられており、鳥が巣を作っていた。先ほど外を見渡して塔を確認したときと同様だ。三人は鳥達を刺激しないように階段を上っていく。
 一方、天井から鎖で吊られている奇っ怪な立方体は、硝子かなにかでできているようだ。核の内部にはなにかしらの魔力が存在している。詳細は分からないが、それがよくないものであるとミスティンキルは直感した。

「――夢を見ていたのよ。ずっと」
 先頭を行くウィムリーフが独り言のように語り出した。
「デュンサアルの宿で、あたし達がやってのけた冒険を書き綴ってるときにね、もう次の冒険のことを考えちゃうのよ。せっかく東方大陸《ユードフェンリル》の南端まで来たんだから、ラミシスの遺跡に行ってみたい。そう思うようになってから、なんていうのかな……奇妙な夢を見はじめたのよ」
 こつ、こつ、と階段を上りながらウィムリーフは言葉を続ける。
「……あれは夕暮れ時。どこか知らない宮殿の中にあたしひとりがいるの。そしてたったひとりで歩いて行くのよ。どこの宮殿なんだろう。大陸にはないような様式で、とても綺麗だったわ。しばらく歩いていると誰かに呼ばれた気がして――ふと気付くと、いつからかあたしは長い螺旋階段を降り続けているの。で、あたしの少し前には人の影のようなものが歩いているの。あたしは影の後を追うように階段を降りていくのよ。それからあたしは――」
 そこでウィムリーフは言い淀んだ。
「――。そんな夢を何度も何度も続けて見てるうちに、夢の場所はオーヴ・ディンデ城で、オーヴ・ディンデがあたしを呼んでるんじゃないかって。……夢の中の出来事だからうまく言えないけれど、運命的なものを直感したわ」
 ウィムリーフは立ち止まり、振り返った。彼女を覆う青と“魔力核”が放つ青。二つの色合いはいかな偶然によるものか、酷似していた。瞬く周期すらも同調しているように見える。
「そう、ここに来なければならなかった」
 先ほどと同じ言葉を――しかし毅然と――ウィムリーフは言ったのだ。
「ウィム?」
 ミスティンキルには彼女が何を言わんとしているのか分からない。彼は返す言葉が見つからずに戸惑った。そんなさまが可笑しいのか、ウィムリーフは妖しげにくすりと笑った。
「さあ、行きましょう」
 そう言って彼女は階段を再び上っていく。訝りながら後の二人もついて行く。

 こうして階段を上り詰め、ウィムリーフはとうとう天井部に至った。目の前には石造りの厚そうな扉がある。これを開ければ塔の頂上に出られる。
「よっ……やっと!」
 気合い一声、ウィムリーフは重厚な扉を真下から押し上げた。外から差し込むまばゆいばかりの光が、彼らの目を眩ませた。
「重そうな扉だな。手を貸すぜ」
 彼らを覆っているぎくしゃくした雰囲気を吹き飛ばそうと、ミスティンキルは声をかけた。
「平気!」
 ウィムリーフは即答し、歯を食いしばって腕に力を加える。どすんと重い音を立てて扉が開放された。
「ふうっ……出るわよ!」
 ウィムリーフに続き、ミスティンキルも光の中へ――ヌヴェン・ギゼの屋上へと躍り出ていくのだった。

◆◆◆◆

 そうして三人は屋上に立つ。地上から半フィーレの高みにいて、周囲の全てを見渡すことができるのだ。淀んだ空気と陰鬱な闇が支配する中から出てきたので、高地の空気がとても心地よい。

 彼らがまず確認したかったのは、オーヴ・ディンデの現況だ。カストルウェンとレオウドゥール両王子が、そしてエシアルル王ファルダインと朱色のヒュールリットすらも、オーヴ・ディンデに辿り着けなかった。強力な結界は、いまだに存在しているというのだろうか?
 三人は円状に広がる盆地を遠望した。空気が澄んでいるために盆地の全容が眺望できる。戦火を逃れたラミシス王国時代の建造物がそこかしこに残っているのが分かる。あの地域こそがかつてのラミシス王国の中枢部。そして中央には王城たるオーヴ・ディンデがあったのだ。が――
「やっぱり……」
「見えねえ……か……」
 ウィムリーフもミスティンキルも言葉を失う。
「結界……」
 アザスタンが忌々しそうに言った。
 盆地の中央部――オーヴ・ディンデ周辺の領域が不自然にぼやけて見通せない。半球状を象ったそれこそが結界だ。オーヴ・ディンデは今なお、結界の向こう側にあるのだ。三人が受けた呪いといい、先ほどの青い“魔力核”といい、この島にはいまだに何かしらの魔法が残存している――あるいは発動されたのか――?

「ウィム……。見てのとおりだが、それでもお前は行くっていうのか?」
「行くわ! もちろんよ! 何言ってんのよ!」
 こともあろうかウィムリーフは激昂し、ミスティンキルに噛みついてきたのだ。
「結界なんて解いてみせる! あたしはあそこに行くためにこの冒険を始めたのよ! 万策尽きるまでやってみせる! このままおめおめと帰るなんてわけにはいかないのよ!」
 彼女は、らしくもなく吠え、ミスティンキルを睨んだ。面を食らったミスティンキルは、もはやだんまりを決め込むしかない。さらにウィムリーフは、鋭い眼差しで結界を凝視した。彼女の醸し出す執念たるや尋常ではなく、アザスタンまで圧倒されてしまっている。

 しばらくの間、ウィムリーフは結界を睨み付けていたが、やがて目を閉じると大きく一呼吸した。冷静さを取り戻したのだろう。彼女の顔つきが穏やかなものになる。
「……降りましょう。これで探索は終わり。あとはゆっくり休みましょう」
 ウィムリーフは二人に、まるで憑き物が落ちたような晴れやかな様子で言う。そうしてくるりときびすを返し、階段をこつこつと降りていくのだった。

 腑に落ちないのは屋上に残されたミスティンキルとアザスタンだ。ウィムリーフはどうしてしまったのか。
「なんなんだよ。あいつは。気が触れちまったのか? 本気で心配になってくるぞ。アザスタンはどう思う?」
 ミスティンキルは口をとがらせた。
「……先ほどのウィムリーフだが、自我をほぼ喪失していたぞ」
 アザスタンは言う。
「自我を喪失?」
 と、ミスティンキルは聞き返す。
「ウィムリーフが青に包まれた前後のことだ。“魔力核”を見上げて認識したときとも言うが……あの娘はおかしかった。今までに無い、異様な気配を感じた」
「ああ……」
 ミスティンキルは頷いた。彼女が記憶を失ったというだけならまだいい。虚ろになったり激昂したりと、こうも様子を豹変させるとは、ミスティンキルの知っているウィムリーフらしからぬことだ。彼女に何が起きているのか。
「そりゃあその、疲れてたんだろう。こんなきつい冒険をしてきたんだ。おれだってフラフラだからな」
 ミスティンキルは言い繕う。それがでたらめで、自分を安易に安心させたいがための言葉だと分かりつつ。
「否。そのような表層的な要因ではないだろう。体力も精神も、あの娘は強靱だ。おぬしも知っておろうに」
 龍はすぐさま看破した。
「じゃあ……」
「なあミスティンキルよ。あれは――今し方わしらが見ていたウィムリーフは、本当にウィムリーフだったのか……? 彼女自身が分かったうえでの言動なのか?」
 ミスティンキルの言葉を遮り、アザスタンは真摯に問うた。しばし、ミスティンキルは押し黙った。取り繕っていても仕方がない。龍のアザスタンは嘘などすぐに見抜いてしまう。ならばとミスティンキルは、自分なりの推論を吐露した。
「……誰かがウィムリーフを操っていたとでもいうのか?」
「あるいは。それもあり得る」
 アザスタンの言葉にミスティンキルはぐさりと心をえぐられた。
「……なんのためにだよ?」
 ぶっきらぼうなミスティンキルの問いに対して、アザスタンは目を細めた。ややあって彼は答えた。
「……魔導王国の、復活」

 それを聞いてミスティンキルは目を見開いた。
「はあ?! よりによって……馬鹿馬鹿しい! そんなこと――」
「可能性としては捨て置けぬぞ。この地に来てこうも魔法が発動しているのはなぜか? 偶然か?」
 ミスティンキルは二の句が継げなくなった。どくどくと、鼓動が早まっているのが分かる。動揺しているのだ。
「どう思う?」
 龍は容赦なく、ミスティンキルの返答を求める。
「……魔導を継承したおれ達がこの島に来たことで、今まで眠っていたラミシスの魔法を起こしちまったのかもしれない……ウィムにばかり変なことが降りかかるのは分からねえけどな」
「ラミシスの中枢域、そしてオーヴ・ディンデ。かの地になにがしかの答えがあるのだろう。進むほかはない。罠かもしれないと知りつつもな」
「……ウィムのやつがなんかの鍵になっていると?」
「今までの状況を踏まえると、そう考えるべきだろう。ともあれオーヴ・ディンデまでの道のり、わしらはより注意せねばならない。魔法の発動にも、ウィムリーフの異変にも」
 アザスタンはそう言うと階段を降りていった。
「それでもだ。……おれは、あいつを、信じてる」
 ミスティンキルはひとりごちた。彼女の身に何か起ころうとしているのならば、自分が助けないとならない。その意志を固めた。

↑ PAGE TOP

(四)

 いろいろなことが起こった塔から降りて、三人は水路のある正面へと戻った。ヌヴェン・ギゼに辿り着いて最初に休憩を取った場所だ。その安らいだ雰囲気は先ほどと寸分も変わらない。すっかり変わってしまったのは三人のほうだ。
 ミスティンキルは草原にごろりと仰向けに寝転がった。これ以上動きたくないと言わんばかりだ。肉体的にというよりも、精神的にかなり堪えた。アザスタンも木陰で座り込んでいる。一方――
「お疲れさま。あたしはこれから壁の模様を描くけど、ミスト達はもう休んでもらってかまわないわ」
 ウィムリーフは柔らかな口調で言った。先ほどの変容など無かったとすら錯覚するまでに。
「これからって、お前」
 ミスティンキルは気怠そうに上半身を起こした。
「うん?」
 ウィムリーフは画材を手に取ると、ミスティンキルに聞き返す。
「おれのことはいい。お前こそ休まなきゃいけねえよ……あー、そんな身体なわけだし」
 ウィムリーフの身体は今なお青い光に包まれている。
「こんな身体? そうね。光ってるけど……あたし自身、とくにどうといった異常はないみたいだし、気に病んでもないから安心して」
 ウィムリーフは笑ってみせようとしたが、一転、表情を曇らせた。
「本当……さっきはミストにもアザスタンにもいろいろ迷惑かけちゃったわね。あたし、どうにかしてた。冷静じゃなかったわ。ごめんなさい」
 ウィムリーフは二人に対してそれぞれ頭を深く下げた。
「いや、いいって。顔あげろって」
 ミスティンキルは優しく言う。異変のことはさておき、なるべく普段どおり彼女と接しようと意識する。
「正直に言っちまうと、やっぱりお前のこと心配なんだよ、おれは。いくらなんでも頑張りすぎじゃねえのか。疲れてんならそうだって、はっきり言ってくれ! あんまり根詰めるなよ!」
 ウィムリーフはゆっくりと顔を上げ、ミスティンキルに微笑んでみせた。
「へえ? 優しいんだ、ミスト。……気遣ってくれてありがとう。まあ、そりゃあ疲れてるわよ。でも描くのは楽しいから平気。あとはしっかり食べて、夜ぐっすり寝れば回復するわ」
 二人のやりとりはいつもの雰囲気に戻っているようにみえる。
「――この魔導塔のこと、もっと記録しておきたいのよ。これは冒険家としての使命ね。絵を描ききったら今日はもう動かないから、安心して」
「そうだな――」

(おい)
 承知しかねたアザスタンがミスティンキルに念を飛ばしてきた。
(おぬし、それで納得できるのか。言葉面だけで)
(それなりには……)
(言い淀むとはおぬしらしくない。納得できないのならば問いただせ。先ほどのわしの言葉が引っかかっているのだろう?)
 アザスタンの念には圧力がこもっている。
(ああもう、分かった!)
 ミスティンキルは念を打ち払うと、あらためてウィムリーフに語りかけた。
「ウィム。そのう……」
 ウィムリーフを傷つけないようにとミスティンキルは言葉を選びながら、どうにかしゃべろうとする。今の二人を取り巻く、心地よい雰囲気を壊したくない思いもある。
「なんていうかな、ええと、そうだ。さっきウィム、夢を見てたって言ってたじゃねえか」
「……? うん」
「お前、魔法をかけられてるとか、ないか? 夢を見ていて暗示にかかるとか、そういう話を聞いたことあるぜ」
 ウィムリーフは信じられないとばかりに、びっくりした表情を浮かべた。
「ええい。……おれも物を上手く言えないからな。たとえばだ。ラミシスの亡霊やなにかに操られてるふしはないか? それがお前をオーヴ・ディンデに誘い込もうとしているとか……」
 それを聞いてウィムリーフは吹き出した。
「あたしはあたし。きちっと自分を保ってるわ。操られてなんかない。大丈夫よ。――でもごめんね。そこまで気にかけてくれて」
 ウィムリーフはかがみ込み、目線の高さをミスティンキルと同じくすると、神妙に頭を下げた。
「ああ、わかったわかった! いやな、お前が自分のことをちゃんと分かってるっていうなら問題ねえんだ」
 ミスティンキルは咳払いをした。
「よし……分かったよ。じゃあおれはちょっと休むから、野営の支度をする前に起こしてくれねえか? それまで絵を描いてていいぜ。それに、飯食ったらちゃんと休めよ。今夜の見張り、ウィムの分はおれがやっておくから」
「そうするわ、ありがとう。それじゃあ、お日様が隠れる前に起こしてあげる」
「おう、頼んだぜ。んじゃあ失礼して、お休み」
「――待て、ウィムリーフ」
 そこにしびれを切らしたアザスタンが割って入った。

 アザスタンはやおら立ち上がる。ウィムリーフは察したかのようにすぐさまアザスタンのいる場所まで歩き、彼と真っ正面から対峙した。龍頭の戦士は黙したまま、ウィムリーフの群青色の瞳を見ている。
「おい、アザスタン」
 ミスティンキルは起き上がり、やや語気を荒げてアザスタンを睨む。アザスタンは今ここで何をしようというのか。
「大丈夫」
 ウィムリーフはアザスタンを見たまま、左手を差し出してミスティンキルを制止する。
「……ことを荒立てんなよな、アザスタン」
 舌打ちをして、渋々ミスティンキルは了解した。
 しばらくの間、アザスタンとウィムリーフは向かい合う。双方とも身動き一つとろうとしない。

【龍の瞳を真正面から捉えるとは、さすがだな、ウィムリーフ】
 アザスタンが龍の言葉で語りかける。そしてちらと、ミスティンキルを一瞥した。それから視線をウィムリーフに戻す。
 群青の瞳と白い瞳――鋭く視線が交差する。しばらく、周囲を沈黙が支配する。
【……ふむ。まあいい。絵を描くというのなら好きにするがいい】
 やや時を経てアザスタンが言った。彼はどすんと座り込むと再びだんまりを決めた。何事もなかったかのように。
 ウィムリーフはほうっと大きく息をつくと、ミスティンキルのそばまで戻ってきた。

「ウィム、何をされた?」
「アザスタンはあたしのことを試したわ。『お前は何者か』とか『ラミシスを復活させようとしてはおるまいな』とかね」
 ウィムリーフは苦笑する。
「野郎――!」
 ミスティンキルは憤慨し、アザスタンを睨み付けた。当のアザスタンはうつむいて目を閉ざしたまま、なんの反応も示さない。
「なんてこと言いやがる!」
「待って! そりゃあね、そんなこと訊いてくるなんて今まであり得なかったけど、アザスタンが不審がる気持ちも分かる。ミストだって変だと思ったでしょう?」
 ミスティンキルは押し黙り、目を伏せた。
「アザスタンには『あたしのことを信じてほしい』って、必死に心の中で訴えた。――龍の瞳を見ながら向き合うのは怖かったけど、アザスタンは分かってくれたわ。あたしはあたしだってことをね!」
 ウィムリーフは目くばせをした。それだけで、ミスティンキルのすさんだ心が癒されていく。
「ほら、疲れてるんでしょう? 休んでしまいなさいな。時間が来たら起こしてあげるから」
 ウィムリーフの言うとおり、ミスティンキルは身体を横たえた。ウィムリーフは横にしゃがみ込むと、ミスティンキルの頭を優しく撫でる。
 ミスティンキルは、自身のいきり立った気持ちが安らいでいくのを感じていた。ウィムリーフの存在は彼にとって何物にも代えがたい大切なものだと、こうしているとあらためて思い知る。
「ウィム。お前も無茶はするな。おれ達にできることがあるなら言ってくれ」
「あたしはただ絵を描くだけよ」
 彼女は笑おうとして、一転、表情を曇らせた。
「そうね。あたしがまたぼうっとして……おかしなことをやらかしたら、あんたが抑えてね。……ごめん。さっきから『大丈夫』なんて言ってるけど、やっぱりそのうち半分は不安だわ」
「不安か。……だろうな。おれがお前の立場だとしてもそう思う」
 ウィムリーフは黙って聞き入る。
「そして、お前が妙なことをしようとしたら全力で止める。任せろ」
 ミスティンキルはそう言って手を上に伸ばし、ウィムリーフの頭を撫でた。
「力強いお言葉、ありがとう。お願いね。……ふふっ、人の立場になって考えるなんて、ずいぶん人ができてきたじゃない、ミストも」
 ウィムリーフは目を細めた。魔導を継承し、さらに“炎の司”の地位を得て、ミスティンキルは成長した。だが一番彼に影響を与えたのは――
「そりゃあ、誰かさんのおかげだろうよ」
 ミスティンキルの手はウィムリーフの手を捉え、両者の指が絡み合う。
「ね、あたしに安心をちょうだい、ミスト」
「ああ……」
 そう言うと二人はしばし見つめ合い、軽く口づけを交わした。

 太陽は西へと傾きつつある。草の匂いと涼やかな風を感じながら、ミスティンキルはウィムリーフの顔をぼんやりと見つめる。しかしほどなくして、まぶたが重くなってくる。
「……眠くなってきた。ちょっと寝るわ」
 ここでは静かな時間がゆっくりと流れていくようだ。ヌヴェン・ギゼについて、そしてウィムリーフについて気がかりな点はある。しかし今はさておこう。眠りに就いてしまおう。ミスティンキルは安らぎに包まれながら、睡魔に身をゆだねていくのだった。
「はい、お休み。またね」
 ウィムリーフは立ち上がると、それきり黙り込んだ。

↑ PAGE TOP

(五)

 ――目覚めは突然だった。

 ミスティンキルは身体を激しく揺り動かされながら起こされた。彼を起こしたのはしかし、ウィムリーフではない。アザスタンだ。
 時は移り、今や夕暮れ時のようだが、日が山裾に隠れるには少しばかり時間が早い。
「アザスタン……? どうした?」
 なかば気分を害しつつ、ミスティンキルは訊いた。
「起きろ。いよいよ由々しき事態になるやもしれぬ」
 アザスタンの様子を見るに、なにやら尋常な様子ではない。彼がこのように動揺するさまなど見たことがない。なにか嫌な予感がする。ミスティンキルは些末な感情をぬぐい去り、アザスタンの顔を見上げた。
「聞け。ウィムリーフが飛んでいった。オーヴ・ディンデに向けてまっしぐらだ」
「飛んでいっただと?!」
 眠気など一瞬で吹き飛んだ。がばりとミスティンキルは飛び起きた。

↑ PAGE TOP

前章へ || 扉頁に戻る || 次章へ
SSL標準装備の無料メールフォーム作成・管理ツール | フォームメーラー

↑ PAGE TOP