『赤のミスティンキル』 第二部

§ 第九章 事態急変す

 ウィムリーフが飛び去った。
 ミスティンキルにとってアザスタンの言葉は衝撃的で、まったく信じがたいものだった。ここ、魔境の島の冒険行を強く望んだのはウィムリーフだ。そして冒険においては冷静沈着に判断を行い、二人をここまで導いてきた。その彼女が単身先走るなど――あまりに身勝手で軽はずみとしか言いようがない。なにより、理不尽だ。
 その一方で、青い光を帯びたウィムリーフの姿が脳裏に浮かんで離れない。果たしてウィムリーフはいつから、ウィムリーフのものではない気配を醸すようになったのだろうか?
「飛んでったって、いや、まさかな」
 はは、とミスティンキルはしらけた笑いを浮かべて虚勢を張る。
「だってよ。おれを起こすって、あいつはさっき言ってたぞ。……ほら。あいつの荷物はここにあるんだぜ?」
 ウィムリーフが背負っていた荷物袋をぽんと叩く。荷物を置いたまま出発するなどあり得ない。これは彼にとっての安心材料だ。
 その時ふと、ミスティンキルは異様な“なにか”をかいま見た気がして、そちらを見やり――唖然とした。

 なんと、魔導塔がまたしても変貌を遂げていたのだ。
 今度は塔内部ではなく、外部の異変だ。ヌヴェン・ギゼの平滑な外壁に描かれている魔法図象が一面、仄《ほの》かに発光している。その色は青。塔内部に吊されている謎めいた“魔力核”の青と、なによりもウィムリーフが内包する魔力の青とも同色だ。

「塔にいるのか? あいつは」
 きっとそうに違いない。ミスティンキルは安易に決めてかかろうとした。
 ――否。
 ウィムリーフは、この塔の仕掛けを作動させてしまったのだろう。塔が本来果たすべき役割を調査して冒険誌に記すために。
 ――それもまた、否。
「しかたねえ。見てくるか」
 ミスティンキルは相反する思考を巡らせたまま、塔の入り口を目指して駆け出そうとした。
 だが。
「ミスティンキルよ。ウィムリーフは青い光をまとって飛んでいった。もうここにはおらん。そしてあの娘が飛び去ったその時から、塔の図象はあのようになった」
 酷な事実を受け入れろ、とアザスタンは宣告する。
 ミスティンキルは立ちすくみ、ぎり、と歯をきしませた。
 ――ああ、分かっているんだ。それでも――

 それでもなお、一縷《いちる》の可能性を信じながら、ミスティンキルは“探知の術”を発動させた。しかし反応はなかった。ヌヴェン・ギゼの塔はおろか、この周囲一帯に彼女の気配はないことを、とうとうミスティンキルは認識してしまった。
 否。先程からとっくに分かっていたことだ。なぜなら、蒼き龍《ドゥール・サウベレーン》の言葉に嘘はないのだから。
 ミスティンキルの希望は断たれた。ウィムリーフは本当にいなくなってしまったのだ。自分達を置いて。
「どうしてだ。ウィム……」
 しばし、彼の思考は完全に停止する。

 それから――
「なあ。あいつ……帰ってくるだろうか?」
 ミスティンキルは呆けたように呟く。彼の問いかけに龍は応じない。ミスティンキル自身、これは愚問だと思っている。
 喪失感が漆黒の口を開き、ミスティンキルを底知れぬ深淵へと突き落としていく。心に穴が空くとはこういうことなのだと、彼は存分に思い知ったのだった。

 故郷を出てからミスティンキルはただ孤独だった。見知らぬ他人を恐れ、心を閉ざしていた。
 いまだ記憶の片隅に残っているその事実を、まざまざと思い出してしまう。

◆◆◆◆

 赤い瞳を持ったミスティンキル。力を持つがゆえに彼は妬みや畏怖、差別を受け続け、ついには故郷を追い出される羽目になった。
 ミスティンキルは憤り、失望し、ついには復讐を決意した。
 龍人《ドゥローム》の聖地、デュンサアルで試練を受けて“炎の司”となり、故郷の連中を見かえしてやる。――暗澹《あんたん》たる野心を秘め、彼は東方大陸《ユードフェンリル》南部を目指し、単身旅をする。
 だがいかな運命の計らいか、その状況は思いもかけず変転する。

 昨年の冬、彼は西方大陸《エヴェルク》から船に乗り、カイスマック島に降り立った。西方大陸《エヴェルク》と東方大陸《ユードフェンリル》、二大陸間をつなぐ交通と貿易の要衝である。
 ミスティンキルとウィムリーフは図らずも、ここで出会った。そして同じ船に乗り込み――二人は意気投合した。共にデュンサアルを目指す旅をしようと。
 ここに二人の旅が始まった。

 東方大陸《ユードフェンリル》。二人は船を下り、港町フェベンディスから大陸南方へと繋がる街道を旅した。だがすでに時機を逸していた。大陸中部、ザルノエムの荒野では冬の嵐が猛威を振るっており、陸路でデュンサアルへ向かうことは叶わなかった。そうかといって海路も使えない。流氷が通年より早く南下してきたためだ。やむを得ず二人は、アルトツァーン王国の宿場町、ナダステルにて逗留することとなる。季節が変わるまでの間。

 それから彼女と過ごした日々は、何ものにも代えがたいものとなった。
 アルトツァーン王国中を旅して回った。北方、メケドルキュア王国にも足を延ばした。互いの趣味を語り合った。ウィムリーフがミスティンキルに学問を教えようとし、これは失敗した。人生の境遇や悩み、不安について打ち明け合った。酒を酌み交わした。嫌なことも言ったし喧嘩もした。いつしか一つの部屋で生活を共にするようになり、愛が育まれた。互いの存在が、かけがえのないものへと高まり、自分の隣にいることが当たり前となった。

 そして春。
 荒野を越えて南方のエマク丘陵へ。ついに聖地デュンサアルへと至り――彼の念願は叶った。“炎の司”となった彼はついに、過去という悪夢から解き放たれた。恨み辛みなども、もう無い。
 ウィムリーフは、ありのままの彼を受け入れてくれた。明朗快活な彼女と一緒だから、ミスティンキルは新しい人生を歩むことを決心した。その第一歩こそが、この冒険行だ。二人の長い旅のはじまり。そうなるはずだった。

 だが今、彼にとっての新たな日常、心のよりどころは、思いもかけないかたちで唐突に失われた。

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(二)

「あいつはひとりで行っちまった。……そういうことだな」
 事実を事実として、ミスティンキルは受け入れざるを得なかった。ちらりと、塔の屋上を一瞥する。
 対するアザスタンは言い淀み、少し思案した後に口を開いた。
「ひとつ、ぬしに謝罪せねばならない。すまぬ。わしが至らなかった。ウィムリーフを制止できなかった。わしは彼女の魔力に屈したのだ」
 アザスタンは首を垂れ、懺悔《ざんげ》した。
「なんだって?」
 ミスティンキルは思わず聞き返した。アザスタンが再び、信じがたい言葉を口にしたからだ。

「制止できなかった、だと?」
 ミスティンキルはぽつりと呟く。間を置いて彼は言葉の意味を理解した。頭に血がかあっと上ってくる感覚を覚えた。アザスタンに殴りかかりたい暴力的衝動に駆られるが、すんでのところで感情を抑え込んだ。握った拳をわなわなと震わせる。
「なあアザスタン、おれの気持ちが分かるか? 今、おれは自分の気持ちを殺している。いつまで抑えきれるか分からねえ。……あんたの言ったとおりだ。あんただったらウィムを止められただろうに! なんでできなかったんだ!」
 ミスティンキルは烈火のごとく怒り、吠えた。
「……こうしてぶちまけたところで、今のくそったれな有様がどうにかなるわけじゃねえが、それくらいは言わせろ」
 低い声に憤怒の情念をはらませて言葉を吐いた。
「……おぬしはウィムリーフの連れ合いだ。その権利はある」
 アザスタンは首を垂れたまま、静かに同意した。
「だろう。だけど……くそっ! ウィムがいなくなるなんて、こんなことになるなら、おれだってのうのうと眠らなかったのに! なんなんだ! なんでこうなっちまってるんだよ! おかしいだろう!」
 ミスティンキルの怒りは、今度は自分自身に向けられた。悪口雑言を並べて自身を罵る。ウィムリーフのことを誰よりも理解していたつもりだったのに、その実まったく分かっていなかったことに憤っていた。

「ウィムリーフを止められなかったのには理由がある。我ら龍というものは元来、おのが誇りのために安い言い訳などするものではないと考えておる。だが今は違う。誇りなどよりも大事なものがある。わしに弁明をさせてくれ」
 ミスティンキルの怒りが鎮まったのを見計らい、アザスタンは言った。
 ミスティンキルは苦い表情のまま無言で頷き、アザスタンに続きを促した。
「わしらが先ほど塔から降りてここに戻ってきたあと、……わしは今し方まで意識を失っていたのだ」
「……はあ?」
 ミスティンキルは自分の耳を疑った。
「おかしなことを言いやがるな。それともおれの耳が変なのか? あんたはさっきここで、ウィムと真っ向からやり合ってたじゃねえか。おれはしっかりと見ていた。それを知らない、だと?」
「失礼。そうだな。ウィムリーフと対峙したあの時まで、わしは己を保っておった。そしてウィムリーフの思惑を聞き出すのは難しいことではないと思っておった。わしは己に驕《おご》っておったのだ。
「だが、彼女の心に問いかけたまさにその時、あの娘は尋常ならざる大量の魔力を一気に放出させ、わしに差し向けてきたのだ――! まったき青を宿した魔力が波濤《はとう》のように押し寄せてくる。おぬしには見えなんだか?」
 ミスティンキルは首を横に振った。
「そんなもの、かけらも感じなかったが?」
「ふむ。わし以外には認識できぬように、限定的に魔力を展開したというのか。それでいてあの威力……。ウィムリーフもまた、魔法使いとしてかなりの手練《てだ》れだったということか」
「あいつが魔法使いだって? “風の司”じゃなくてか?」
 ミスティンキルは訝しむ。
「さよう。あの娘の、魔法使いとしての才覚だ」
 アザスタンは言葉を続ける。
「ともあれ、事態はわしにとってまったく予期せぬものとなった。怒濤《どとう》の魔力に対して抗う時間などないまま、わしは魔力に飲まれ――なすすべなく前後不覚に陥った。次にわしが気付いたとき、すでにウィムリーフは塔の上にひとり立っていた。地べたにおるおぬしとわしを一瞥すると、躊躇《ためら》うことなく空中に舞い、飛び去った。――これがわしの認知する一連の顛末《てんまつ》だ」
「待てよ。あんたはウィムとやりあった後もちゃんと意識があったんだぞ? それも覚えてねえのか?」
「その記憶は無い。ぬしにはわしがまったく事も無げに見えたのか? ならばそれはわしの無意識がなしたもの――いや、それともわしはウィムリーフに操られていたのか……? とにかく分からんのだ。まったくもって」
 アザスタンは釈然としない様子だ。長い時を生きてきた聡き龍ですら知り得ぬことが世界には存在すると、まさかここで思い知らされることになるとは。

「ウィムは言ってた。あんたと向かい合っていたときに『自分を信じてほしい』と訴えたと」
「否。彼女はわしになにも語らなかった。あの熾烈な魔力攻撃を『信じてほしい』と解釈するのは不可能だ。まったく解せぬ。あの娘の本性が掴めぬ」
 アザスタンは降参だとばかりに首を振った。
「……もし覚えているなら教えてくれ。あいつはどんな顔をしていた? おれはウィムの背中しか見ていなかった」
 アザスタンは鼻から煙を吐いた。人がパイプをくわえ、煙をくゆらすように。
「普段のあの娘のままに。だが魔力でわしを圧倒したあの時、ふと笑みを浮かべたように記憶している。……ああ。あれはウィムリーフらしからぬ、冷徹なものだったな……」
「ウィム……」
 ミスティンキルの表情が陰る。ぎり、と。再び歯をきしませた。
「今までおれはずっと手玉にとられてたってのか? ここでこういうことが起きると知って、おれ達を連れてきたのか?」
 それに対して龍頭の戦士は無言を貫いた。ことごとく、彼らにとっては理解の範疇《はんちゅう》を超えていたのだ。

◆◆◆◆

「――追いかけよう。あいつを」
 ミスティンキルは毅然と顔を上げて意を決した。

『お前が妙なことをしようとしたら全力で止める。任せろ』
 先ほどウィムリーフに誓ったばかりだ。そのときの彼女は、ミスティンキルのよく知るウィムリーフだったと確信している。
 彼女がなぜ自分達を置き去りにしたのかは分からない。しかし必ず追いかけてつかまえて、全てを明白にする。そして今度は三人でオーヴ・ディンデへ堂々と向かうのだ。別れてなどやるものか。
「アザスタン、おれは飛ぶぞ!」
 ミスティンキルは威勢よく言い放つ。アザスタンが制止するが、ミスティンキルは聞く耳を持たない。向こう見ずでも構わないとミスティンキルは思っていた。己を鼓舞していないと負の感情に落とされてしまうと恐れていたのだ。
(塔の上まで飛び上がる! あの屋上がいいか。見晴らしがいいところから“探知の術”を使って、あいつがどこにいるか突き止める!)

 彼は目を閉じて頭を上に向ける。それから意識を研ぎ澄まし、“飛ぶ”というイメージを脳内に思い浮かべる。意識は空の方角を向き、心身が軽くなったような感覚をつかみ取った。
 こうして準備は整い、覚悟も決めた。物質界では目視できない、ドゥロームの黒い翼を慎重に広げる。

 だが刹那、あの忌まわしい呪いが覚醒し、ミスティンキルに襲いかかった!
 きぃんと、耳をつんざく轟音が彼の脳内を蹂躙《じゅうりん》する。ミスティンキルが目をかっと見開くと、今度は視野全体が暗黒に染まっていくのが分かる。翼の生えている背中のあたりから激痛が走り、明確な殺意をはらんで心臓に到達せんとする。さらに、『死ね』と。『滅べ』と。彼の意志すらも邪悪ななにかによって浸食されていく――
「があっ……!」
 ミスティンキルはよろめき、自分の身体を抱きしめるようにして痛みに耐えようとした。しかし呪詛は絶対的な効力を発揮しており、人の身ごときで抗えるものではない。強大な魔力を内包するミスティンキルをしても、である。
 彼は呪いを畏《おそ》れた。“飛ぶ”という意志を否定すると、激痛はすうっと治まった。
 戒めから解放され、彼はがくりと膝を落とした。身体が重い。両手を地面についてぜいぜいと息を吐き、ただ目の前の地面を見つめる。鼻先からぽたりぽたりと汗が落ちる。

 この島で自分達に降りかかった呪いはまったく弱まっていない。ミスティンキルはあらためて、翼を広げて飛ぶなど不可能だと思い知った。
「どうしたってんだ、おれは。おれの翼は! あいつは飛んだってんだろう?!」
 ミスティンキルは悔しさのあまり、拳を握りしめて地面に叩きつけた。二度、三度と。惨めな自分を叱りつけるように。

 沈黙が周囲を包む。太陽は西方のロス・ヨグ山の向こうに隠れ、時は夕暮れから夜の刻になろうとしていた。

 助けがほしい、と。ミスティンキルは切に願った。同時に、自分がなにか重要なことを失念しているとも感じた。だがそれがなんなのか、すぐには思い出せそうになかった。

 怒り、失望、喪失感、悲しみ――幾多もの感情が複雑に織り混ざり、ミスティンキルを苛《さいな》む。つう、と。ミスティンキルの瞳がうるみ、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出た。嗚咽をぐっと堪えながら立ち上がり、よろめきながら歩く。その先にウィムリーフの荷物袋がある。ミスティンキルはがばりと袋に覆い被さり、顔を伏せた。
「なんでもいい。お前に会いたい。おれがなにもできないままだなんて……」
 打ちひしがれた彼は、純粋な思いのたけを口にした。
「どうか助けてくれ……」

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(三)

 その呟きを、ミスティンキルの切なる願いを、アザスタンは聞き逃さなかった。
「ならばぬしの願いに応えよう。ミスティンキル。わしが飛ぼう」
 アザスタンの決意。その言語は龍のものではなかったが、とても力強いものだった。
「あんたが?! 呪いは平気なのか?」
 ミスティンキルの心は大きく揺り動かされた。涙などこぼれるに任せ、彼は真摯な瞳でアザスタンを見る。希望を見出そうとするかのように。
「龍の威厳にかけて、なによりおぬし達のために、わしはわしの為すべき事を為す。……呪いについてはいまだよく分からぬ。だが、わしは龍よ。人間と同じ秤で比べるものではないぞ。まかせるがいい。かつて“魔界《サビュラヘム》”に突入し、冥王ザビュールとも相対したこのわしに」
「アザスタン……」
 ミスティンキルは再び希望を見出した。赤い瞳が生気を取り戻す。

「いいな。ウィムリーフを見つけ、合流するぞ」
 龍頭の戦士アザスタンはそう言うと天を仰いで口を大きく開き、猛獣のごとく吠えた。アザスタンの身体はみるみるうちに変化し、巨大な蒼龍となった。
【さあ、乗れ】
 アザスタンは巨躯を落とし、ミスティンキルに騎乗を促した。ミスティンキルは龍の脚からよじ登る。うろこで覆われた頑強な背中を歩き、巨大な背びれをがっしり掴んで座り込んだ。
「無茶するなよ! この塔の上まで飛んでくれ。おれはそこからウィムの居場所を探る!」
【応】
 アザスタンは振り返って応える。それから誇らしげに巨大な翼をはためかせ、呪いなどなにするものぞとばかりに、ふわりと宙に浮かび上がった。

◆◆◆◆

 龍は上昇する。一瞬にして木立の中から塔の頂へ。アザスタンが塔の屋上に着地すると、ミスティンキルも龍の背から降り立った。
「アザスタン、身体は平気か?」
【支障はない】
 蒼龍は返答した。

 いつしか月が現れていた。ほぼ真円を象った白銀の月は、天球高く位置をとっている。月はそこから地上に向けて仄かな光を注ぐ。
 ミスティンキルは盆地の方向、オーヴ・ディンデへと視線を向けた。だが夜の帳《とばり》が降りつつある今、ラミシスの中枢域を目視でうかがい知ることは困難極まる。それにあの領域は奇妙にも、月明かりすら遮断しているかのようにすら感じる。ミスティンキルは“探知の術”を発動させた。

「……いた」
 ミスティンキルはすぐさま発見した。名状し難い闇の領域で青く光る一点――ウィムリーフの魔力を。
【ウィムリーフを見つけたのか】
 と、アザスタンが訊いてくる。
「ああ……だがあれは……」
 言葉を返すミスティンキルだが、ウィムリーフの姿そのものを捉えているわけではない。術の効力によって闇の中から青い魔力を認識したに過ぎないのだ。ウィムリーフの顔が見たいと、ミスティンキルの気持ちがせかされる。
 そして――ウィムリーフのすぐ近くにオーヴ・ディンデを封じる結界があることも、ミスティンキルは探知した。半球状の結界は今、周囲の闇よりさらに昏《くら》い、漆黒をまとっている。あれを長く直視し続ければ気が触れてしまうと、ミスティンキルの本能が訴えかけてくる。
「信じられるか? あいつ、もうオーヴ・ディンデに着いちまった!」
【ほう……】
 龍は琥珀の瞳を細め、オーヴ・ディンデの方角に向ける。大したものだとでも言いたげに。

 もともとの予定ではヌヴェン・ギゼからオーヴ・ディンデに至るまで、徒歩で半日はかかると三人は考えていた。仮に“風の民《アイバーフィン》”の翼を用いても一刻はゆうにかかるだろう。それなのに彼女はすでにあの地に降り立っている――果たして青のウィムリーフは、龍の翼を得たとでもいうのだろうか。

『結界なんて解いてみせる!』
 激昂したウィムリーフが言い放った言葉だ。“今のウィムリーフ”ならば、結界を解いてしまうかもしれない、とミスティンキルは直感した。
「例の結界はそのままだ。解かれたわけじゃねえ。そのままでいてくれ、ウィム……」
 ミスティンキルは祈るように言った。
【我らは行くか? わしが飛べばオーヴ・ディンデまで辿り着くのにそう時間はかからん】
 ミスティンキルの心を読んだかのようにアザスタンが言う。
「ちょっと待った。もう少し様子を見させてくれ」
 “探知の術”を発動している今なら分かる。あの結界が外部から魔力を集めているのだということが。

 結界を起点として、ごく細い線が空高く延び、四方へ分散している。それらは各々曲線を描いて空を渡り、うちひとつはここ、ヌヴェン・ギゼの小窓に行き着いている。その先を辿れば塔の“魔力核”に行き着くだろう。
 微量の魔力が塔から結界に向けて流れ出ているのが探知できた。結界を起点とするほかの三つの線もそれぞれ三つの魔導塔に繋がっているに違いない。すなわち――ここより東のシュテル・ギゼ。南東のゴヴラッド・ギゼ。南のロルン・ギゼ。
 ヌヴェン・ギゼを含めた四つの塔から流れ出た魔力は、中心部たる結界の地で混じり合ってひとつになる。それによって魔法が発動し、崩壊した王城を常に外部から遮断しているのだ。

 魔導王国ラミシスはとうの昔に滅び去った。主を失ない、自然の姿へとほぼ還ったこの島において、得体の知れない魔法や呪いがなおも発動しているのは、過去から綿々と続いているこの魔力構造によるものだろう。“魔力核”の魔力の源がなにに起因するものなのか、それになぜ今までこの構造が朽ち果てたり破壊されずに残ってきたのか、謎は深まるばかりだ。

◆◆◆◆

 ミスティンキルは視線を元に戻した。それから何の気なしに、ぐるりと屋上の様子を探る。すると中央部、分厚い扉付近に何かがあるのに気付いた。塔内部へと繋がっている扉付近に。
 訝しがりながらもミスティンキルは近寄っていく。彼の予感は当たった。それはウィムリーフの持ち物だったのだ。一冊の本と画材。ミスティンキルはそれらを拾い上げた。

 ウィムリーフは――地上で塔の壁画を模写したのち、再び屋上まで上ってきた。そうして彼女はなにを思ったのか、ここで本を放棄して身ひとつとなり、翼を広げて飛び去った。
 ミスティンキルはこみ上げてくる感情を抑える。
(お前は、こんな大事なものまで捨て置いたのか。オーヴ・ディンデに着いたら必要なものだろう? いろんなことを書き留めたいと思うだろう? 違うか? まったく、お前らしくない……)
 ミスティンキルは文字が読めない。しかしこれは熱意あふれるウィムリーフが書き連ねた作品だ。単なる文字や記号の羅列などではない。頁をめくるにつれ、ウィムリーフが一生懸命にペンを走らせる情景が浮かび上がり、堪えたはずの涙がこぼれそうになる。だが今は感傷に浸るときではない。為すべきことを為すときだ。ミスティンキルは本をかかげ、アザスタンに呼びかけた。
「ウィムの忘れ物だ! おれは、あいつにこれを渡さなくっちゃならねえ。さあ、今度こそ行くぞ、アザスタン。オーヴ・ディンデへ!」
 ミスティンキルが言い終わるやいなや、それは起きた。

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(四)

 ガドンッ!

 それは直下から強く突き上げられる振動だった。唐突な出来事に、ミスティンキルはよろめいて姿勢を崩した。大岩同士が激突したかのような爆発音が轟《ごう》と響き渡る。
「……っ! 今度はなんなんだ?!」
 ミスティンキルは用心深く周囲を確認する。一見したところ状況は依然変わっていないようだが、床の振動は止まらない。
「地震?!」
【いや、自然の現象ではない。魔法によるものだ。こちらに来れば分かる】
 そう言われてミスティンキルは元いた場所まで戻り、アザスタンが見たものを確認した。眼下――
【ぬしにも見えているだろう? この塔から魔力が放出されている。いわば魔力の川だ。奇妙なことだ。高みから水が流れ落ちるかのごとく、魔力が空を渡ってオーヴ・ディンデの方向へ向かっている】
「ああ。分かる」
 流出量はもはや先程までの比ではない。“探知の術”に頼らずとも目視できる。まるで洪水だ。流量はみるみるうちに増え――ついに流出口である小窓が耐えきれなくなり、壁が大きく崩壊した。そこからさらに大量の魔力が噴出し、怒濤のように――しかし音はなく――空中を流れていく。

 ミスティンキルは青い濁流を呆然と見つめながら、これはとんでもないことが起きたな、と思った。だが奇妙なことに、こんな事象に対してなんの感情もわかない。危機感すらない。まったくもって現実味が希薄なのだ。
(塔の中はどうなっているのか。動物が住んでいたが大丈夫か)
 むしろミスティンキルにとっては、そのほうが気掛かりだった。だが気持ちを切り替える。
 魔力の流れ着く先――すなわちあの結界において、なんらかの魔法が発動されるだろうということは何となく分かる。そのための魔導塔なのだから。だがなにが起きるのか、さっぱり見当が付かない。想像できないゆえに恐怖を感じないのだ。
 彼が恐怖を覚えるとしたらそれは、魔法が発動されたその時のことだ。恐るべき結果を認識したとき、はじめて慄然とするのだろう。

「なあ。これはウィムの仕業だと思うか? あんたはさっきウィムのことを、手練れの魔法使いだと言っただろう」
【分からぬな。可能性はあるが明言できない。ここまで大規模な魔法事象を起こすには、果たしてどれほどの力量が必要とされるのか――それともただの一人で発動できるものなのか――わしには分かりかねる。魔法使いではないゆえに】
「……そうなのか。おれも分からねえ。魔法の知識のひとつすら、ものにできていない。それなのに『魔導を継承した』などよく言えるもんだ、おれは」
 ミスティンキルは自嘲して腕を組む。青い激流の、その先端を目で追いながら。

【ウィムリーフ同様、ぬしは大きな魔力を備えておる。ぬしらは月の界にて大事を為し遂げた身。二人の力の強大さは、我が王も認めている。忌憚《きたん》なく言うと、ぬしらの魔力はともに、世界に影響を及ぼすほどに大きいのだ。
【人間はしかし、魔力だけでは魔法を行使できないのだろう。魔法を発動させるにあたっては詠唱なり儀式なり、媒介とするものや助力がなければならない――委細は分からぬが。
【だがおぬしは例外だ。『そうあれ』と望めばそのとおりに魔法を行使できる。間違いなく、人の身としては過ぎた才能だ。天賦の才能を持つ魔法使いは、歴史上何人もいたことだろう。ぬしはそういった魔法使いと肩を並べる可能性は持っている。だが決定的に及ばない点が二つある。分かるか? 考えてみろ】
「ひとつはさっき言った。魔法の知識がねえってことだろう。もうひとつは……」
 なにか言い出そうとしてミスティンキルは考えあぐね、黙ってしまった。
【経験だ。知識と経験がおぬしには決定的に欠けておる。ぬしは月で魔導を継承したと言った。それは認めるが、本当の魔法使いになったとまでは果たして言えぬだろう。本来ぬしはまだまだ学ぶべき立場なのだろうよ】
「……『ウェインディルを探せ』っていうのはそういうことなんだな……」
 ミスティンキルは、ほぞをかむほかない。悔やんでももう遅すぎる。この現状を、これから起こりうる現象を、どうにか打破せねば先はない。ウィムリーフに会うこと。まずはそれだ。結界の領域において、どのような魔法が発動されようとも――

 床の揺れが収まった。ミスティンキルが身を乗り出して下方を見ると、魔力の放出が止んだことが分かった。その流出口は大きな洞《ほら》と化している。周囲の外壁は魔力の大量放出により損傷し、構造がかなり脆《もろ》くなっているようだ。石のかけらがぽろぽろと落下していく。その数は次第に多くなっている。
「なあ、おい。ここにいるとまずいんじゃねえか? この塔、崩れ落ちるかもしれねえぞ!」
 アザスタンも肯定した。
【魔導の塔が、いよいよもってその役割を終えたことを意味するかもしれん。どうする。わしはいつでも羽ばたけるぞ】
 その時――
「――!」
 ミスティンキルは、はっとなった。遠方の闇の中、三つの方向で閃光が続けざまに走るのを確認したからだ。

◆◆◆◆

 ――ドン!
 ――ドン!
 ――ドン!
 光から遅れることしばらく、立て続けに爆発音が風と共にここまで伝わってきた。
 発生源はどこかとミスティンキルが探ってみれば、果たして彼が思ったとおり、それは三つの魔導塔だった。ここ、ヌヴェン・ギゼの魔法図象が青く発光しているのと同様に、遠方に位置する兄弟の塔はそれぞれ赤、緑、黄に彩られている。
 それからミスティンキルは、鮮やかに煌めくものが三つの塔からほとばしるのを見た。あれらもまた、色を帯びた魔力そのものだろう。空を伝い、四つの塔が結ぶ中心点――結界の地――を目指して猛烈な勢いで押し寄せていく。四本の濁流がぶつかり合うまでそう時間はかからない。魔力同士が衝突したとき、なにが起こるのだろうか。そして、ウィムリーフはどうするのだろうか。

【超常の様相を呈してきたか。覚悟せよ、赤のミスティンキルよ。事と次第によっては、アリューザ・ガルド世界に影響する事態が勃発するかもしれぬぞ。わしらは真っ先にその事態と向き合わねばならなくなる】
 “世界の色褪せ”のときと同じように、またしても自分は世界そのものと関わってしまうというのか。それが“運命”というものなのだろうか。
「どのみち、行くしかねえだろう!」
 ミスティンキルは発破をかけた。ヌヴェン・ギゼの崩壊が始まった。ほどなくしてこの屋上は瓦解するだろう。ミスティンキルは龍の背中に座した。
「さあ、飛んでくれアザスタン! さっきおれは『無茶をするな』と言った。けれど今度は違う。無茶をしてくれ!」
【応】
 アザスタンは翼を広げて空中に舞い上がった。

 時ここにおいて、龍はとうとう本領を発揮した。隼もかくやとばかりの凄まじい速度をもって、風を切り裂くように飛ぶ。真下には青い魔力の流れ。それよりも速く龍は空駆ける。四つの魔力が衝突する前に、あの地へ到着できるかもしれない。
 背後で、ヌヴェン・ギゼが崩落していく音が聞こえた。だが彼らは振り返ることなく、黙したまま前を見て進むのだった。

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