『赤のミスティンキル』 第二部

§ 第七章 召喚 デュンサアルより

(一)

 ミスティンキル達がメリュウラ島にてヌヴィエン川をさかのぼり始めた日の朝方、ハーンとエリスメア父娘はドゥローム(龍人)達の聖地、デュンサアルに着いた。港町ウォレから商人達と共に旅を続けて六日目のことだ。
 デュンサアルまでの道中では、地元のドゥローム達からミスティンキルとウィムリーフの話を聞くことができた。旧来の思考に縛られていた“司の長”達をあっと言わせ、ドゥロームの聖地デュンサアルに新風を巻き起こした彼ら。若き“炎の司”と“風の司”。ハーン達が出会ったドゥロームのほとんどがミスティンキル達を賞賛していた。彼らもまた、ものの見方を変えたのだ。
 ハーンとエリスメアは、渦中の人物に会うのがますます楽しみになってきた。そうしてここ、デュンサアルが旅の終点、となるはずだったのだが――

『ミスティンキルとウィムリーフか。あの二人はもうここにはいないぜ。……もう一週間ほど前になるかな。この大陸から海を挟んで南東にある島へ行ったよ。ラミシスの遺跡に――それも龍様と一緒に、ときた!』

 デュンサアルで得たこの情報は、ハーン父娘をひどく落胆させた。ミスティンキル達と話をつけ、彼らをフェル・アルム島へ――魔導師ハシュオン卿のもとへと送り届ける。そうしてハシュオンのもとで魔法についてしっかりと知ってもらう。そのはずだったのに――。彼らはがっくり肩を落としてデュンサアルの旅籠に入っていった。
 朝食後、父娘は宿泊する部屋へと通された。旅人向けにあつらえられた、居心地が良さそうな広い部屋だ。ハーンは荷物を床に、楽器――小さなマンドリンを机上に置くと、ベッドにごろんと寝転がった。手足を伸ばして天井の一点を見る。
「かくして魔導を継承した者達は、魔導勃興の地に赴いた、か……」
 眉をひそめ、ハーンは言った。
「そういう行動を取る可能性もあるって、私達は確かに予想していたけれど……」
 エリスメアはもう一方のベッドに腰掛ける。こちらも浮かない表情だ。
「ふむ。ここまで行動が早いとは、正直言って予想外だったね。月から帰還してわずか三週間ほどで、彼らが次の冒険に出発するとは、ね」

 冒険家というものはひとつの冒険を終えたあと、すぐに次の冒険に出かけたりしないものだ。資金の工面もあるが、それ以上に最優先すべきは自分の命なのだから、準備にあたっては慎重にもなる。ハーンは友人達の姿を思い描いた。冒険家テルタージ夫妻のことを。そして、その孫娘ウィムリーフのことを。
「ウィムリーフ……冒険家を目指す功名から先を急いでしまったのか……?」
 ハーンはぽつりと呟いた。
「『自信は時として過信となり、身を滅ぼす』――ルードからは教わらなかったのか?」

「父さま、これからどうしましょう?」とエリスメア。
「うーん。……正直言うと旅の疲れもあるし、ここでゆっくりとしていたい。ミスティンキル達が帰ってくるのを待っていたい。しかし、だ――」
 しかし――ミスティンキル達は冒険を成し遂げて何事もなく帰ってこれるのだろうか?
 今となって、二人の胸中は落胆よりもっと強い感情に支配された。それは不安であり危機感である。勘が働いたのだ。言葉で表しきれるものではないが、魔導を知る者があの地に至った時、とてつもなく大きな“なにか”が動き出してしまうと、二人とも直感したのだ。ただ、根拠はない。
 ミスティンキル達が旅立って早八日。しかも龍に乗っていったという。空を滑空する彼らに追いつくことは不可能なのではないか。それに彼らはあの地で、すでに何かを為してしまったのではないか。だがハーンもエリスメアも、何もしないうちから諦めることなどできない性分だった。ハーンはがばりと起き上がった。
「彼らに追いつこう! 魔導王国があったあの島へ。……“なにか”が起こりそうな、いやな予感がする。二人の目的地はおそらく中枢部、オーヴ・ディンデだろう。なるたけ急ぐからには、こちらも空を往く必要がある。だから今回にかぎり――神獣を召喚しようと思う」
「ええ。……って、ええ?! 父さま?! まさか神獣ってあの……」
 父の提案の、あまりにも想像を絶する事柄にエリスメアは唖然とするほか無かった。
「そう。エリスが考えてるとおり、『あの』神獣のことだよ。あれならば龍よりもずっと速く空を駆けることができる」
「……本気なの?!」
「もちろん本気さ。ああ! こんなことになるんだったら、ガレン・デュイルでエリスと合流した時、すぐにでも喚び出すべきだったなあ! それだったら彼らがデュンサアルにいる時分に間に合ったのに……」
 ハーンは頭をぼりぼりと掻きながら悔やんだ。

 神獣。
 ディトゥア神族の長たるイシールキアが、アリュゼル神族の長たる“天帝”ヴァルドデューンから授かった、純白の体毛で覆われた四匹の一角獣だ。
 その名を、東方の守護イゼルナーヴ、西方の守護ファーベルノゥ、南方の守護エウゼンレーム、北方の守護ビスウェルタウザル。アリューザ・ガルド四方の守護者である。
 誇り高い彼らがアリューザ・ガルドに顕現することはほとんど無く、普段は夜空に煌めく星に身を変えて天上遙か高くに在る。そこからアリューザ・ガルドを守護しているのだ。極めて高い神性を持つ存在を地上に召喚することは、神々でなければ為し得ない。
 『もっと早く喚び出すべきだった』とハーンは悔やむが、単なる移動のためだけに利用するなど、主であるイシールキアはもとより神獣自身が拒絶するだろう。結果的に、今の時点だからこそ神獣を召喚するべき事態となったのだ。

◆◆◆◆

 ハーン父娘は旅籠でのんびり休養したい気持ちを無理矢理押し切り、まさに後ろ髪を引かれる思いでデュンサアルをあとにした。
 それから南へ歩くこと一刻ほど。彼らは人気の無い丘陵地に辿り着いた。ここなら大がかりな魔法を行使しようが何をしようが、人目に付くことはない。

「……これから僕はディトゥア神のレオズスとして、イシールキアに会ってくる。これまでのいきさつを説明してさ、『アリューザ・ガルドに危機が生ずるかもしれない。ことは急を要するので神獣を貸してほしい』ってお願いするよ。……たぶん一刻もしないで帰ってこれるだろうから待っててくれるかな。うん。心配はしないでいいよ。彼もまた、僕の大切な友人だ」
 “宵闇の公子”レオズスは過去において“混沌”に魅入られ、同族のみならず世界を敵に回したことがある。八百年ほど昔のことだ。それからレオズスは人に倒されたのちにイシールキアらディトゥア神族によって裁かれ、また紆余曲折を経て今のティアー・ハーンとなっている。
 神族の長と会見することについてエリスメアは心配しているようだったが、当の本人はけろりとしており、過去のことなどまるで気にかけていないようであった。
 ともあれレオズスは荷物――剣も楽器も――を下ろして身軽になると、左手を前にかざした。ひと息、念を込める。ハーンの全身が一瞬、闇一色に染まる。そして彼の目の前にぽっかりと黒い穴が穿たれた。イシールキアがいる次元へ通じる通路が作られたのだ。神同士のやりとりなど、一介の人間が及ぶところではない。人間であるエリスメアは、父が帰るのをここで待つしかなかった。
「あ、あの父さま……。お気を付けて」
「任せておいて! すぐ戻ってくるから待っていて!」
 レオズスはにこやかに片手を振ると、空間の縁にまたがるようにして穴の中へ入っていった。レオズスがいなくなるやいなや、穴の周囲には細かな電光が幾筋も走り、そののち黒い穴は消えてなくなった。

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(二)

 父が去り、エリスメアはひとり、丘陵地に立つ。
 青空の下、初夏の日差しが草原を美しい緑に彩る。鳥の声が聞こえる以外に音はなく、のどかな風景が広がっている。また丘陵地を囲むように、デュンサアルの山をはじめとしたイグィニデ山系が青々と連なっている。
 魔導王国ラミシスのあった島に行く。可能性としては考えていたが、まさか本当のことになろうとは。実感がわかない一方、不安と焦燥感は今も強く抱いている。。
 しかし今の彼女の胸に去来する思いはそれだけではなかった。神獣に騎乗するということ。それはエリスメアにとって、たいそう心躍るものとなった。神獣に乗った人間など、彼女の知るかぎりでは存在しないのだ。夜、東の空に輝くイゼルナーヴの星か、もしくは南天に煌めくエウゼンレームの星か。あの星の光が神獣となり、この地にやって来るというのだ。自分がこの世界の物語を綴る、その一端を担おうとしているとは! これもまた予想外であった。

(父さまが帰ってくるまで、しておくことは無いかしら?)
 出立するにあたって最低限必要な装備――食料等――は確保できている。用意は周到だ。さらに弦楽器《タール》弾きであるハーンはちゃっかりと、小型のマンドリンまで持ってきている。
「あとはこの写本……」
 エリスメアは自分の荷物の中から一冊の本を取り出した。ハーンと共に旅立つ前、アルトツァーン王立図書館の文献を書き写しておいたのだ。

『未踏の地ラミシス ~カストルウェンとレオウドゥールが行いし、魔導王国ラミシス遺跡の冒険行について――数多くの吟遊詩人の歌より~』

 エリスメアは腰を下ろすと本を開き、読みふけっていった。
(そうね。冒険に憧れて、自分にもこんな体験ができるかもしれないとなれば、それはわくわくするでしょうね。神獣に乗ろうとしている私の胸が今、こんなにも高まっているように……)
 書を読みつつエリスメアは、まだ見ぬ二人の――今は島を冒険しているであろうミスティンキル達の心境を自らに重ねていくのだった。
 そして時は過ぎていき――

◆◆◆◆

 ――バズン!
 不意に何かが大きく弾ける音がした。それまで読書に没頭していたエリスメアはびっくりして面を上げた。
 数フィーレ先、空間の一部に黒い穴が開き、細かな電光がしゅうしゅうと白い煙を上げてその周囲を覆っている。父が帰ってきたのだ。
「お帰りなさい!」
 エリスメアは漆黒の穴に向かって声をかけた。
「ただいま、エリス」
 闇の中からひょっこりとハーンが姿を現した。ほどなく、次元をつなぐ穴はすうっと空間に溶け込むように消滅した。
「なんとか話を付けたよ。一匹貸してくれるってさ。これから喚ぼう!」
 こともなげにハーンは言った。本当にイシールキアは自らの神獣を貸すことにやすやすと応じたのだろうか。それはハーンしか知らないことだ。ハーンはエリスメアの前に立った。
「……で、喚ぶんだけどさ、エリスにも力を貸してほしいんだ。魔力を――“色”をいくつか抽出してくれないか。小石程度の大きさでいい。数色を丸めて空中に浮かべてほしい。それと僕の魔力とを一体化させてレオズスの“印”を作る。それから喚び出しを始めるって算段さ」
「分かりました。では魔導で定石どおりの七色の魔力を出すわね。後は父さまに任せます」
「うん。頼んだよ」

 エリスメアは目を閉じ、大きく一呼吸し――
《ウォン!》
 魔導のはじまりのことばを発した。
 同時に彼女は目を開き、踊るように腕を動かす。――と、地面から、木々から、大気中から、魔力を帯びた“原初の色”が次々と顔をのぞかせる。エリスメアは指を細かく動かし、“原初の色”から魔力の糸を紡ぎ、裁ち切る。エリスメアはそれらを自分のもとまで引っ張り出すと、頭上に滞空させた。その色は白、黄、緑、紅、紫、黒、蒼。“原初の色”の一部たる七つの色だ。
 エリスメアは人差し指をくいと曲げる。すると七本の糸は次々に丸まり、それぞれ単色だが鮮やかな色彩を持つ球となった。
「お見事」
 ハーンの賞賛に対してエリスメアは笑みを浮かべ、小さく頷いた。

「じゃあこれからは僕の番だね。……むん!」
 気合い一声、ハーンは胸元で両手を組み合わせ、自分の中に宿る漆黒の魔力をわずかばかり引き出した。これも頭上のものと同じく小さな球となっている。彼は漆黒の球を手のひらに置くと目を閉じて軽く念じる。と、漆黒の球は七色の球を呼び寄せて次々に吸い込んでいった。
 次にハーンは、人間には発音不可能な神代の言語を発した。その言霊を受けて黒い球はパンと弾け、重層構造を持つ星形の紋章へと姿を変えた。これがレオズスの“印”だ。
 そうして彼は南天、エウゼンレームの星がある位置を向き、黒い紋章を右手で高く掲げた。
「エウゼンレーム! 汝が主、イシールキアの許しを受け、“宵闇の”レオズスが命ずる! 南方の守護者エウゼンレームよ、我が元に来たれ!」
 エリスメアにも通じるように、朗々としたことばをハーンは放った。瞬刻、薄い硝子の板が割れるような音を立ててレオズスの紋章は粉々に砕けた。それは一陣の風に舞い散って周囲の空気に溶け込む。と同時に、ハーン達の周囲は薄墨を水に溶かしたごとくに暗くなり、ぶうんと低く唸り始めた。やがてそれはどうん、どうんと打ち鳴らされるのが体感できるまでの重い音となって大気を震わせた。この領域は今や、召喚の儀式にふさわしい超常の様相を呈している。
 見上げれば、空にきらりと、青白く光るエウゼンレームの星が現れた。夜にならないと顔を見せないはずのその星は、地上の振動に呼応し、力強く脈打つように瞬きはじめた。
 ドン!
 唐突に、大気の振動がぴたりと止む。空間の色は元に戻り、静寂が周囲を支配する。すると南天の星は太陽のごとくさらに眩く輝き――光の軌跡をあとに残しながら天空を動き始めた。
 神獣エウゼンレームがレオズスの召喚に応じたのだ。

「来るよ! エリス!」
「ええ!」
 エウゼンレームが向きを変え、地上に向けて降下し始めた。
 自分達はとてつもないものを喚び出したのだ――! しかしハーンとエリスメアは怖じ気づかずに覚悟を決め、この光を注視した。尋常ならざるものが、途方もない速さでもってこちらに向かってきている。その勢い、まさに神速。
 二人がエウゼンレームの姿を空にかすかに捉えた次の瞬間――突如、轟音が巻き起こって大地が大きく揺さぶられた。ハーン達はとてもではないが立っていられず、その場にぺたりと座り込んだ。
 やがて地震が収まる。神獣が地面に衝突したのだと二人は知る。そして震源となったもの――光輝に覆われたものの姿を見る。
「……これが神獣……エウゼンレームか……」
 二人は神獣が降臨したという事実を認識した。ハーンにしてもはじめて間近で神獣を見たのだった。

 強烈な光が止む。もうもうと土煙が立ちこめるその中心地点に、果たして神獣は威風堂々と立ちそびえていた。
 馬ほどの躯体。純白の豊かな毛並み。豹のようにしなやかで力強い四肢を備えた、翼のない一角獣、エウゼンレーム。顔立ちは馬ではなく、鼻面のない龍のようにも見える。神々しい気配を発するこの存在は首を動かし、喚び主の所在を確認した。エウゼンレームとハーンの視線が交錯する。青い瞳を持つ神獣は、特徴的な細長い目をさらに細めた。

「エウゼンレーム。よく召致に応じてくれたね」
 ハーンは穏やかな口調で語りかける。そして両腕を大きく左右に開き、歓迎する意志を示した。エウゼンレームはすうっと頭を垂れ、恭順する姿勢を取った。ハーンはエウゼンレームの元まで行くと、気高い獣の角を二度三度なで上げた。
「……よし。僕が君を喚び出したレオズス。で、こちらの娘が僕の子、エリスメアだ」
 心の奥底まで見透かすような厳格な眼差しで、神獣はエリスメアを見据える。エリスメアは目を背けず、ぺこりと神獣にお辞儀をした。彼女の動作が堅いのは緊張しているからだろう。
「君にはこれから僕達二人を乗せて、南東の――魔導王国があった島へと飛んでいってほしい。いいね?」
 それを聞いてエウゼンレームは静かに四肢を落とした。自分の背中に乗れ、というのだ。ハーンとエリスメアは頷くと、神獣に騎乗した。
「……エリス、しっかりと彼の身体に掴まっていて。たぶん、想像できないほどとんでもない速さでかっ飛んでいくだろうからね!」
「はい!」
 エリスメアは顔をこわばらせたまま応えると、ぎゅっと神獣の背中にしがみついた。ハーンもエウゼンレームの首に手を回して身体を固定する。
「よし、行こう! エウゼンレーム!」
 ハーンはぽんぽんと、と神獣の首を叩いた。

 エウゼンレームはすっくと立ち上がり、猛然と丘を駆け上り始めた。この時点ですでに馬の速さを凌駕している。そして丘の頂に至るとエウゼンレームの四肢は力強く大地を蹴り上げ――天空向けて飛び上がったのだ。
 上空目指して、神獣はぐんぐんと速度を上げつつ走っている。集中していないと意識が後方に置いていかれそうな、とんでもない加速だ。このままではすぐにハーンの手にも負えなくなるだろう。
「エウゼンレーム! 人が乗ってるからね、あまり速くしないでいいよ。そうだな、ええと、ハヤブサ程度――あ、いや、それよりもっと遅くていい。そんな程度の速さを上限としてくれないか?」
 慌ててハーンはエウゼンレームに命じた。
 エウゼンレームは大気を蹴飛ばしながら、それでもなお勢いを緩めない。前方からの凄まじい風圧が、騎乗している二人に襲いかかる。が、それはすぐにエリスメアの風よけの術で防がれた。神獣も強烈な加速を止めている。奇妙な静寂に包まれ、エウゼンレームは空を駆るのだった。

 目指すは南東のオーヴ・ディンデ。とうの昔に滅びた魔導王国の中枢部。その、まだ見ぬ地へと二人は思いを馳せる。何事もなければ半日程度で辿り着くのではないか。ハーンもエリスメアもそう思っていた。

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