『赤のミスティンキル』 第一部

§ 第三章 “炎の界”へ

(一)

 “炎の界《デ・イグ》”への門が存在するというデュンサアル山。
 麓の町をあとにして“門”に至るまでには相当の道のりがあることを、ミスティンキルは“炎の司”の長老エツェントゥーから聞いていた。
 長達が住む“集いの館”がある山の、その隣にそびえる岩山を登ることおよそ一刻。今度は山を割くようにして断崖が待ちかまえているのだ。底知れぬ奈落を越える手段は二つ。吊り橋を渡るか、翼を用いて飛び越すか、である。この絶壁の向こう側は平原となっており、一本の小径がデュンサアル山へと続いていく。
 デュンサアル山の登坂路をしばらく登ると傾斜が緩やかになり、空き地が広がっているという。そこにそびえる二本の石柱こそが門――次元を越えて“炎の界《デ・イグ》”とアリューザ・ガルドを繋げる唯一の場所なのだという。

 “炎の界《デ・イグ》”へと赴かんとする二人の若者は、最初の内こそ他愛もない話を交わしていたが、山道を登るにつれ空も暗くなり、次第に言葉少なになっていった。とくに、この半日歩きづめのミスティンキルは、少しでも気を抜いたら倒れてしまいそうなほどに疲れ果てていた。
 だというのに、なぜ歩みを止めようとしないのか。先ほどからウィムリーフがさんざん言うように、長に侮辱されたあまり、依怙地になっているせい、なのかもしれない。だが、単にそれだけではないような気もしていた。彼自身把握できていないが、なにかが自分の奥底に触れているような、そんな奇妙な感覚をも覚えているのだ。

 岩山を登りきると、いよいよとっぷりと日は暮れ、山々の黒い輪郭が夜闇の中から浮かび上がってくる。デュンサアル一帯の山々の中にあって、ひときわ存在感を誇示するのは、やはり雄大なデュンサアル山に他ならない。漆黒にそびえるあの山からは、人の住む地域では感じることの出来ないある種独特の雰囲気――自然をも超越した何らかの力が伝わってくるようだ。
 暗闇の中で活発になるのは野生の動物に限ったことではない。自然と共に生き続ける精霊達や、太古から存在し続けてきた闇の力、さらには魔界の眷族すらもうごめくと言われている。黒き神が封印されて長い時が流れたとはいえ、魔族の力が悪ふざけをすることもあるのだ。世界の色すべてが薄れている今、ランプや月のほのかな光だけでは、こういった闇を照らし、消し去るにはあまりにも頼りないというものだ。
 ウィムリーフはランプを地面に置くと、一言二言呪文を唱える。すると彼女の右の掌から小さな光球が浮かび上がり、二人の周囲を煌々と照らし出した。
「へえ。そんな魔法が使えたんだな」
「冒険家としてのたしなみ、かしら。でもあたしが使えるのはいくつもないわ。魔法使いにとっては、こんなものは魔法の初歩みたいなものなんでしょうね。でも、アイバーフィンらしく風の力を使役するほうが、あたしにとってはしっくり来るけどね」
 風の司たる娘は得意げに答えた。例えばあの長のように、人によっては嫌味にも聞こえるような言葉でも、彼女の口から聞くと不思議と気にならない。それはウィムリーフの飾らない性格のせいなのだろう。

「っとっと……」
 ふっと気が抜けてしまったミスティンキルは、足をふらつかせて地面に倒れ込んでしまった。
「ミスト!」
 ウィムリーフが心配そうに顔をのぞき込む。
「へへ。情けねえ。岩山を登りきったから安心しちまったんだろうな。でもまだ道は長いんだから……」
「道は長いんだから、少しここで休んでいきましょう」
 ミスティンキルの言葉を遮ってウィムリーフが言った。
「……徹夜の護衛。昼間から山道を歩きづめ。加えて食事もろくに摂ってない。それじゃあへばって当然よ。……ねえ、少し眠りなさいな。あたしが見張っててあげるから」
 ミスティンキルは意地になって上半身を起こそうとするが、もはや体が言うことを聞こうとしない。
「せめて……もう少しでも先に進みたいんだ……」
「はいはい。ミストの決意が固いのは感心するわ。これだけ頑なな意志をもってすれば、試練だって難なく突破できるかもしれない。けれどもね、意志が強いっていうのと、聞き分けがないっていうのはまた別。それに、ここから平原に行くのに吊り橋を渡らなきゃならないでしょう。そこで今みたいに倒れ込んだら、奈落の底に真っ逆さま、よ。そうなっちゃったら、いくらあたしが翼を持っているといっても助けられないわよ。……おとなしく休みなさい。それともあなたたちには、『“炎の界《デ・イグ》”に行く前には断食して、不眠不休で歩きづめなきゃならない』という掟でもあるっていうの?」
 ミスティンキルは折れた。大の字になって天上の空を見上げる。と、頭が起こされてウィムリーフの膝に乗せられた。
「そう。一刻の間だけでも眠るといいわ。次に鐘が聞こえてきたときに起こしてあげるから」
 言われるままにまぶたを閉じる。ウィムリーフの優しさ、暖かさを感じながら、ミスティンキルは眠りへ落ちていった。

◆◆◆◆

 どこともしれない虚ろな空間。これが夢の産物であることをミスティンキルは自覚しながらも、周囲を包む白い闇に四肢を捕らわれたように、動くことがまるで出来ないでいた。

〔呪われたウォンゼ・パイエめが。貴様などが龍人を名乗る資格などありはせぬぞ!〕
 どこからともなく、罵る声が聞こえてくる。これは“司の長”――あのマイゼークの声か。
「“司の長”たちは、海に住むドゥロームなど同族だと思っていない。……俺もそうさ。ましてお前などに、我らが村長の葬列に居合わせてほしくないものだ」
 今度聞こえてきたのは、デュンサアルに着く前、葬儀に参列していた男の声。
 こんなものは幻聴だ。実際に聞いたことなどない、おれが勝手に思いこんでいるだけだ――そう思っている最中でも、さらにさまざまな罵言が容赦なく頭の中に響いてくる。
 旅商達、酒場に居合わせた者達、波止場の水夫、街道ですれ違った旅人達。かつての旅先でミスティンキルが出会ってきた人々が口々に罵る。“忌まわしい力の持ち主”と嘲笑する。

「黙れ! おれの持っている力が忌まわしいだと?!」
 たまらずミスティンキルは声を張り上げた。すると怒りの感情と共に赤い色が――魔力が顕現した。“司の長”達を襲ったあの時にも似て、それは空間を覆いつくすように膨張していき――ついに雷鳴のような音と共に弾けた。
 途端、それまで激しく飛び交っていたすべての雑言は消え失せ、空間には静寂のみが佇む。

――ほら、見るがいい。お前の持つ力とはかように恐ろしいものなのだよ。
「親父殿?!」
 模糊《もこ》とした空間から浮かび上がってきた姿は他でもない、彼の家族だった。ミスティンキルが避けたくもあり、しかしながらもっとも会いたいと望む人々。
 ミスティンキルの抱く複雑な想いとは裏腹に、父母も兄も一様に、悲しさと恐れを併せ持った表情でミスティンキルを見つめる。少年時代から見慣れていたその表情こそ、彼がもっとも見たくないものであった。だからミスティンキルは家族の眼差しから目を背けようとした。が、全身がこわばっているためにそれすらも出来ない。
 耐え難い視線を一身に受けていた時間はいかほどのものだったのだろうか。彼らはくるりと身を返し、漠然とした白色の中へと消えていった。最後までその表情を変えぬまま。

 ようやく呪縛から放たれたミスティンキルは天を仰いだ。はち切れそうなまでに膨らんだ感情の中にあってなお強く感じとれたのは、あまりに深い悲しさだった。漁師の次期首領としての後継者争いが始まり、“力”を持つがゆえに一族から疎んじられ――ミスティンキルが孤独を覚えるようになってからずっと、誰に知られることなく密かに抱え込んでいた感情。

 そして彼の意識が現実へ戻ろうとしているのが分かる。それは嬉しいことだった。いつもと変わらずに振る舞えば、この夢のように辛い感情を吐露することもない。なにより、ウィムリーフが自分を包み込んでくれるのだ。
 最後に、ミスティンキルは思った。
 自分の力の強大さゆえに迫害され続けてきたのなら――
「なんでこんな力を、大きな魔力なんかを……おれは持ってなきゃならねえんだよ?」

 それはミスティンキル、運命という名の必然が待っているから。
 歴史という名の物語の流れへと飛び込んでいくから。
 その時が、いよいよ始まる。

 意識が覚めていく中で最後に聞こえたのは、覚えのない声。それはいったい誰の言葉だったのだろう――。

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(二)

 さわさわと、木々の葉擦れの音がさやいでいる。

 ミスティンキルは仰向けに寝転がって漆黒の宙と星々の瞬きとを凝視していた。そしてようやく、自分が悪夢から目覚めていたのを知った。天高く昇っている白銀の月は、今宵ほぼ完全な円を象っている。月は常にかたちを変えるもの。二十八日すなわち一ヶ月という周期をもって、月は満ち欠けを繰り返すのだ。おそらく明晩は満月となることだろう。白銀がくすんで見えるとはいえ、その独特の神秘性にミスティンキルは魅了されるのだった。
 やがて、こぅん、という鐘の音が耳に届いてくる。風に乗って麓から運ばれてきたのだろう。一日の終わり、闇の時間のはじまりを告げるその鐘は六回鳴らされる。次の鐘が鳴るのは朝を告げるとき。それまでの間は“刻なき時”と呼ばれており、闇が支配するこの時間、人々は眠りに落ちるのだ。

 天上を見上げていたミスティンキルの視界は唐突に遮ぎられた。不意をつかれ、何事かと思ったミスティンキルは、思わずびくりと身を震わせた。だがそれは見慣れたものだった。ウィムリーフがミスティンキルの顔をのぞき込んだのだ。ウィムリーフの膝を枕代わりにして寝入ったのを思いだし、ミスティンキルは安堵の息をついた。一方、ウィムリーフは一言ことばを唱えて再び光球をともらせる。魔法の光は彼らの頭上へと浮かび上がるとほのかな光を発し始め、やがて周囲を明るく照らしだした。
「どうやら起きたみたいね。疲れは少しはとれた?」
 鼻先、すぐ真上からのウィムリーフの問いかけに、ミスティンキルは首を縦に振った。疲弊していた体力は回復し、感覚も冴え渡っているのが分かる。
「ぐっすりと一刻ほど眠りこんでたわよ。それで、こっちのほうは、ふくろうが二羽飛んでいったのを見た他は、とくだん何も起きなかったわ。……どう、もう少しこのままにしている?」
 ウィムリーフの慈しむような眼差しがミスティンキルを捉えている。
 目が覚めてしまったからには、いつまでも彼女の膝の上に頭をのせていても仕方ないだろう、とミスティンキルは思いながらも、ついついウィムリーフの視線に見入ってしまうのだった。彼女の群青の瞳はいつにもまして澄んでおり、それ自体が光を放つようにも見える。
 奇麗だ、と彼は素直に感じ入っていた。彼女の青い瞳は優しく微笑みかけてくる。

「……奇麗だね、赤い瞳が。まるで赤水晶《クィル・バラン》みたい」
 ウィムリーフの意外な言葉であった。忌まわしい力を象徴するかのような、この赤い瞳を誉められたことなど、未だかつてないのだから。
(赤い瞳。赤い……力、か)
 ミスティンキルは、今し方見ていた夢を反芻するように目を閉じた。夢の輪郭は既に失われ、すべてを思い出すことは出来ないが、それが痛切なまでに辛いものであったことだけは覚えている。心の奥底に密かにしまい込んでいた感情を、思わず吐露してしまうほどに。
「なあウィム……。おれ、寝てるとき何か言っていたか?」
 あれほど心に突き刺さる夢だ。もしかしたら、寝言を言っていたのかもしれない。おそるおそるミスティンキルは訊いてみた。
 ウィムリーフはかぶりを振った。
「寝言は言ってなかった。でも、ミストが夢を見ていたとしたら……なにか悲しそうだった。それは伝わってきたわよ」
 感情の波動が伝わってしまうのは、ミスティンキルのみならずウィムリーフ自身も、大きな力をその身に秘めているためだろう。それが都合のよいときもあれば悪いときもある。今は、どちらだろうか。
 ミスティンキルは上半身を起こすと、膝を抱えて空を見上げた。
「そうだ、おれは夢を見ていた。あまり思い出せないけれども、どうにも辛い夢を。……おれの持ってる力は、どうあがいても忌々しいものなのかもしれないな」
 口をついて出た言葉は、普段らしからぬ弱音だった。今は――自分の弱さを彼女には知って欲しかったのだ。彼女と出会ってから今までの間にも、過去の自分の境遇を話したことはあったが、こうして感情を吐露することで自身のもろさをさらけ出したのは、ミスティンキルの記憶している限りでは、はじめてだった。

 ウィムリーフは即座に否定をした。
「忌まわしいというのとは違うんじゃないかな? あたしだってミストと同様に大きな力を持っているんだから、あんたが自分の力を怖がる気持ちは分かるつもり。……そう、こんなことがあったわ」
 彼女もまたミスティンキルと同様に天上を仰いだ。何か思い出そうとしているようだ。そしてようやく、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。

“――人間が、おのが持つ力を行使しようとしたとき、よきにせよ悪しきにせよ結果がもたらされる。たとえ悪しき事象が及ぼされたとしても、力そのものが悪なのではない。力を行使する者の気の持ちようがすべてなのだ。しかしだからこそ、心せよ。自分を強く保て――”

「これは、“風の界《ラル》”の王エンクィが言った言葉よ。あたしが“風の界《ラル》”に赴いたことがあったってことは前にも話したと思うけど、そのとき風の王に会ったの。エンクィに言わせると、あたしには純粋な青い色が――大いなる力が宿っているんだって。……それでもたぶん、ミストの力にはかなわないだろうけれども、アイバーフィンとしては珍しいほど、魔力に恵まれているんだって。だからあたしは生まれながらにして翼を持っていたりしたらしいのね」
 ウィムリーフは、ただ慰めているのではない。彼女なりに真実を語っているのだ。“風の界《ラル》”の王エンクィは、ディトゥア神族の一人である。一介の人間が、神に対面できることはまずあり得ない。彼女が秘めた力の大きさが推し量れるというものだ。
「魔力に、恵まれているだと?」
 ミスティンキルは起きあがると、ウィムリーフの言葉を反復した。
「そう、あたしは『恵まれている』と言ったわ。エンクィも言ったように、魔力っていうのは行使する人次第で良くも悪くもなるものだからさ。ミストもそう落ち込まないで! あんたの力はけして忌々しいものなんかじゃない。炎の司ミスティンキルという人を、世の中の人が知るのはこれからなんだから。……だから、きっちりと試練を乗り越えるのよ!」
 ウィムリーフはばんと、ミスティンキルの背中を叩いて励ますのだった。ミスティンキルは心の中で礼を言った。

“力を行使する者の気の持ちようがすべてなのだ。だからこそ、心せよ。自分を強く保て”
 そして、風の王エンクィが語ったとされるこの言葉は、後々までミスティンキルの記憶に刻み込まれたのだ。

 ごうっと音を立て、一陣の風が強く吹き付ける。
「……風が出てきたな」
「さっきからそうだったんだけど、この周囲の風の力が、もとに戻っているみたい。なぜなのかは分からないけれどね。これだけ風の力に恵まれていたら、あたしも今だったら飛んでいけそうよ。……ほら」
 ウィムリーフはそう言って軽く地面を蹴る。と、彼女の体はふわりと宙に浮かんだ。
「見て! 今だったらいつもと同じように飛べるよ」
 ウィムリーフがいかにも嬉しそうに、くるりと宙返りをしてみせると、翼をきらめかせて空高くまで飛び上がってみせる。ミスティンキルは小さく笑みを浮かべ、彼女が空を舞う様子を見ていた。
 その時。
 なんかしらの感覚が、心の奥底をざわりと触れた。ふと勘が働いたミスティンキルが、視点をデュンサアル山の中腹へと移すと、二本の赤い炎が、蛇の舌のようにちろちろと揺れ動くのを見た。あのあたりに“炎の界《デ・イグ》”に至る門があるに違いない。
 “炎の界《デ・イグ》”が自分達を招いているのだ。あるいは、龍王その人が呼んでいるのか? ――ミスティンキルの研ぎ澄まされた感覚はそのように訴えかけている。
 だとしたら一刻も早く、扉のあるところまでたどり着かねばならないだろう。
「さてウィム、降りてこいよ。行こうぜ! どうやらおれたちが今夜デュンサアル山に向かうことは、間違ってなかったようだからな」
 こうして二人は再び山路を歩き始めた。

◆◆◆◆

 風に乗って届いてくる狼の遠吠えと、木々のざわめきとを耳にしつつ、岩山の頂上をしばらく歩くと道は途切れ、巡礼者の行く手は阻まれる。山を割くような断崖があるのだ。だがこれは先刻、“司の長”エツェントゥーから聞いたとおりである。
 断崖を越えるには細長く頼りない吊り橋を渡るほかないのだが、その吊り橋の横には一件の山小屋があった。デュンサアルへの巡礼者のための休息所として建てられたのだろう。もしくは、聖なる山を守護する守人《もりびと》の詰め所をも兼ねているのだろう。
 灯りのともった山小屋を横目に見ながらも、ためらうことなく二人が吊り橋に向かおうとしたその時、山小屋の扉が開き、小屋の中から一人のドゥロームが現れた。

〔止まれ!〕
 槍を片手にした守人のドゥロームがあからさまに警戒をしながら駆け寄ってくる。ミスティンキルほどではないが、背の高いこの若者は――もっともドゥロームとしては平均的な身長だが――二人のすぐそばまでやって来ると、怪訝そうにミスティンキル達の様相を伺う。
 龍人の正装である赤い長衣をまとった男。それに、瑠璃色の短衣と白くゆったりとしたズボンを着た女。ふわりと宙に浮く魔法の光球。
 この守人に自分達はどのような印象で受け止められているだろうか。怪しい者だと思われても仕方がない。加えて、ウィムリーフの衣装はアイバーフィンの正装なのだ。これでは銀髪を染めた意味がない。だが、種族の正装でなければ、事象界に入ることが出来ず跳ね返されてしまうこともままあるのだ。
“デュンサアルに住むドゥロームは、アイバーフィンを快く思っていない。”
 ともに旅をした旅商から聞き知った言葉だ。その言葉どおり、デュンサアルには偏狭な龍人が多いことをミスティンキルは身をもって知った。海洋地域出身のミスティンキルすらまともに取り合ってくれないのだから、太古に敵対していたアイバーフィンに対する扱いはいかなものになるというのだろうか。
(へんなことで咎められるのはごめんだ)
 ミスティンキルは内心不安を感じながらも、感情をあらわにすることなく守人と対峙した。そして眉をひそめた。この若者のがっしりとした体格と、厳めしい顔つきには見覚えがある。憤りを覚えるほどにあの龍人に似ている。自分を侮辱したあのマイゼークとかいう長の若い頃は、このような容姿であっただろうと思わせる。

〔ふん……魔法使いか? けったいな術を使うなど……〕
 ふわふわと浮いている光を訝しげに見ながら若者は問いかけてきた。彼の若い声色は、マイゼークのような低い声ではなかったが、気分を害する口調はあの老人譲りである。
〔よそ者が、聖なる山になんの用あって赴こうとするのか? しかもすでに深夜――“刻なき時”に入っているというのに〕
「けして怪しい者じゃない。おれは――海の向こうのラディキアから来た、ミスティンキル・グレスヴェンドというんだ。“炎の司”になる試練を受けるためにデ・イグに行こうとしている。“炎の界《デ・イグ》”への門はいつでも開かれている、と“司の長”エツェントゥーどのから聞いたから、今こうしてやって来たんだ。……あんたは長からなにも聞いていないのか?」
 ドゥローム語を話す若者に対して、ミスティンキルはアズニール語で返答した。自分まで龍人の言葉でやりとりを行ったら、言葉を解さないウィムリーフにはあたかも密談のように聞こえてしまうだろうから。
 くっくっと、含み笑いをしたあと若者は言った。
〔知ってるとも。君の話は聞いている、遠方の海辺からわざわざお越しなすった同胞どのよ。私はマイゼーク・シェズウニグの長子ジェオーレという。……しかしこんな夜更けにこそこそ闇に紛れて――まるで魔の眷族のように――やって来るとは、父の読みどおりだったよ。しかしながらこれは予想できなかったな……同行者がいたとはな〕
 守人ジェオーレの表情は笑ってはいない。また、彼の口から出る言葉は言葉遣いこそ柔らかではあるが、きわめて辛辣なものであった。デュンサアルに住む者以外は信用ならない、そんな様子が言葉の端々から伺いとれる。

 ジェオーレの鋭い目つきがぎろりとウィムリーフを凝視する。服装からアイバーフィンであるということがばれたのだろうかと、ウィムリーフは心配そうにミスティンキルを見た。
「……バイラルの女か。デュンサアル山になんのようだ」
 ジェオーレは、ややたどたどしいアズニール語で話しかけてきた。
「ウィムリーフと言います。あたしも、このミスティンキルと一緒に“炎の界《デ・イグ》”に行くんです。……龍王様に会いたい一心で、ここまでやって来たんですよ」
 気を取り直した彼女は臆することなく、持ち前の快活さで答えた。
「ふん。ドゥロームであっても会うことが叶わないお方だぞ。ましてバイラルなど……我らの“炎の界《デ・イグ》”に入ること自体がとうてい無理だ。たどり着いたところで、業火に身を焦がされて、魂すらも消し炭になるぞ」
 ジェオーレはウィムリーフなど歯牙にもかけない様子で言い放ったのだが、“炎の界《デ・イグ》”に赴こうとしている二人は、とりあえずほっとした。この若者は、どうやら実際にアイバーフィンを見たことがないのだろう。彼女が着ている翼の民の衣装には、まったく気付く様子がない。あくまで、ウィムリーフの黒く染め上げた髪の色のみで種族を判断しているようだ。
「我らの“炎の界《デ・イグ》”、だと? ……なあ、あんた思い違いをしていないか。“炎の界《デ・イグ》”はドゥロームの持ち物じゃあないはずだろう? 誰のもんに属するものではない、とエツェントゥーどのからは聞いているぞ」
 ミスティンキルの言葉に対しジェオーレはわざとらしく頭を押さえ、悩んでみせた。あからさまにミスティンキルの感情を逆撫でしようとしている。
〔ああ。エツェントゥー様も、余計なことをおっしゃるものだ……。たしかに海辺の漁師どのが今言ったことは間違ってはいない。が、海の住人たちは忘れてしまわれたのだろうなあ。我らドゥロームの誇りがあることを。炎を司る我らにとって、他の種族の者達が“炎の界《デ・イグ》”に赴くのは好ましからざることだ〕
(ここの連中は、誇りってやつの意味をはき違えてるんじゃねえか? そんなのは、単なるくだらねえ偏屈だ)
 ミスティンキルは苦々しく思ったが、口に出すことはなかった。

「さあ、もういいだろう。その槍を引っ込めてくれよ。おれたちはデュンサアルを登る。そして“炎の界《デ・イグ》”に行くんだ」
〔……それはならないな〕
 威嚇するように声の調子を落としたジェオーレは、手にした槍を横につきだして道をふさいだ。
「不敬なウォンゼ・パイエ(海蛇の落人)を行かせてはならないとの命を受けている。ましてバイラルまで同行しているとあっては、なおさら通すわけにはいかない」
「……マイゼークの差し金か?」
 今まで抑えてきた憤りを隠しきれなくなったミスティンキルは、食ってかかるような勢いでジェオーレに言った。
〔差し金とは酷いことを言うな。確かにわが父の指示であるが、これは“司の長”じきじきのご命令と思え。お前が我らと同じ炎の民、龍の末裔だというのなら、これに従う必要がある〕
「そんな命令など聞けるか?! そこをどけよ」
 ミスティンキルは、ジェオーレの槍に手をやると、力任せに押しのけ、強引に通り抜けようとした。
「これ以上進もうというのなら、それは“司の長”に刃向かったということを意味する。……デュンサアルの掟に従って罰せられるぞ」
 ジェオーレは槍を手にしていない左手を後方の吊り橋のあたりに向けて、高く掲げた。すると、吊り橋の入り口あたりの地面から勢いよく炎の柱が幾本も立ち上り、壁となって行く手を阻んでしまった。

〔……年若いからといって、この私をなめるなよ。私とて炎の加護を受けし者、炎を操る者――“炎の司”だ。こうして道をふさいでしまえば、お前たちにはどうすることも出来ないだろう。無礼な赤目よ。この炎が消せるか? ……無理だな。いくらお前が強大な魔力を持っていたとしても、おのが力の使い道を知らなければ、為すすべなど何もないからな〕
「ああ、確かに今のおれでは何も出来ないな。でもな……突破してみせてやるよ。あんたが思いもかけないような方法でな!」
 そう言ってミスティンキルはウィムリーフのほうを振り向いた。
「ウィム……さっき、風が出ていると言ってたよな。どうだ、いけるか?」
 ウィムリーフは一瞬戸惑ったが、この龍人の若者の言わんとしていることを理解し、渋々ではあるが頷いた。
「風はさっきと変わらないわ。いける……けれど、罰せられるというのはどうなの? それはデュンサアルの――ドゥローム族としての掟に反することになるんじゃない?」
「掟だって? どのみち、このへんぴな村を出ちまったらそんなものには意味がねえよ。だいたい、こんな了見の狭い連中の言うことなんかを『はい、そうですか』と聞いていられるか?! おれは我慢ならねえな。ウィムだってそう感じないか?」
 ウィムリーフは頷いた。彼女の表情はミスティンキルの言い分には幾分納得しかねている様子だが、だからといって堅物なジェオーレの言葉に従うつもりも無さそうだ。傲慢で偏った排他性こそが誇りである、と思い違いをしている守人に対して、彼女なりに怒りを感じているのは間違いないだろうから。
「なら、決まりだ。……行こうぜ!」
 ミスティンキルはニヤリと口元を歪ませて、再びジェオーレの方へ向き直った。

 ジェオーレはそのやりとりをただ聞き流していた。彼らがどうあがこうと、炎で遮られたこの吊り橋を渡ることなど出来るはずもないのだから。彼ら同士のやりとりは無駄なあがきにすぎない。たとえ泣きついてきたとしても、ここから先へ通してなどやるものか。
 そう侮っていただけに、ミスティンキル達が次に為したことは、この若者の理解の範疇をまったく越えていた。

 決意を固めたウィムリーフはミスティンキルの背後からそっと手を伸ばし、胴回りを抱きしめると――彼ともども高く跳躍した!

〔飛んだだと?! ばかな!〕
 槍を落とし、半ば呆然とした様子のジェオーレが徐々に小さくなっていく。彼の哀れなまでに呆けたさまを楽しむかのように、上空のミスティンキルは笑ってみせた。
「まんまと突破されました、とマイゼークに伝えてやれ! どのみちおれは、エツェントゥーどののお墨付きを貰っているんだ。……なあ、嫌味ったらしいマイゼークのせがれさん! この試練が終わったら、今度は同じ立場で――“炎の司”としてお前に会ってやるよ!」
 余計なことを言わないの、とウィムリーフのたしなめる声が背後から聞こえてくる。
 ジェオーレにはもはや怒声を張り上げるほか為すすべがない。世界が色褪せてから自然の持つ力が弱まった。龍人の飛ぶ姿を見かけなくなったということは、おそらく“司の長”の命令で飛ぶことが禁じられているのだろう。ジェオーレは追ってくることはなかった。かりに追うことが出来たとしても、“風の司”ウィムリーフに敵うはずもないだろうが。ジェオーレは苦しみ紛れに攻撃を仕掛けてきた。吊り橋を阻んでいた炎の壁が大きな火の玉へと姿を変えて二人に襲いかかった。ウィムリーフは、ミスティンキルの大柄な体を抱きかかえたまま、いともたやすく避けてみせ、さらには風の力を用いてその火球を吹き飛ばしてしまった。
「まったく、無茶するわねえ! ミストも、あたしもだけれどもさ。……こうなったらどうあっても“炎の司”となって、しかも色を元に戻す方法を龍王様から聞きだして帰ってこなきゃね!」
 背中越しに聞こえるウィムリーフの声は、やけに楽しそうだ。底意地の悪い守人に一泡吹かせて気が晴れたのだろう。
 ウィムリーフは光の玉を消すと、精神を集中させるために一つ二つ大きく呼吸を繰り返す。と背中から、夜の闇をも照らすように白い光が煌めく。

 時折輝く翼を広げたウィムリーフに抱きかかえられ、赤目の若者は雄大なデュンサアル山を見た。今また山腹からちろりと炎の舌が姿をのぞかせた。

◆◆◆◆

 風をかき分け、空を疾駆する。
 デュンサアルの大きく黒々とした山容がぐんぐんと迫ってくる。
 みたび、山腹のとある一点から炎の柱が上がるのが見えた。ウィムリーフもそれに気づき、自分達を呼び寄せるように立ち上るそれに向かって、見えない翼を羽ばたかせるのだった。

 炎に誘われるまま、彼らは空き地へと降り立つ。すると二本の石柱から炎がすうっと消え失せた。そのものが意志を持っているようなこの炎は、アリューザ・ガルドの産物ではないだろう。次元の狭間を通り越して“炎の界《デ・イグ》”から流れ込んできているに違いない。
「ありがとうよ、ウィム。重くなかったか?」
「重かったわよ! 大柄なあんたを運ぶのは骨が折れる仕事なんだからね」
 そう言いつつウィムリーフは興味深そうに柱をまわり、冷たくなった石の肌をべたべたと触っている。夜の闇に覆われているために周囲の情景が把握できないが、空き地には二本の柱以外めぼしいものは何もないようだ。そしてこれこそが“炎の界《デ・イグ》”へと通じる扉に他ならない。
 ミスティンキルは、ここで自分達が何をすべきなのか、分かっていた。エツェントゥーから聞いた言葉にしたがって、彼は二本の柱の中央に立つ。ウィムリーフも彼の横に並んだ。
「ウィム、覚悟はいいか? いよいよ行くぞ」
 自分自身の声がやや震えているのが分かる。物質界であるアリューザ・ガルドとはまったく様相を異にする異次元に転移しようというのだ。恐怖、不安、期待。様々な感情が織り混ざる。
「……いいんだな? 帰ってこられないかもしれない」
「ミストの力をもってすれば、大丈夫。試練に打ち勝つことが出来る。あたしが保証するわ」
 差し出されたウィムリーフの手を堅く握ると、いよいよミスティンキルは覚悟を固め、ことばを発した。

【デュレ ウンディエ ゾアル イリリエネキ】

 それは龍の言葉。放たれる音そのものが魔力を持ち得るという、太古の言語だ。言葉を放つと同時に、柱の石の裂け目から炎が吹き出して石柱全体を赤々と包み込む。視界が歪に曲がり、アリューザ・ガルドの情景が徐々にうっすらと消し去られていく。
 ――我赴かん、イリリエンのみもとに――

 柱の頂から炎が高々と立ち上ったその時、二人の姿はかき消えた。

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(三)

 まことを語るただひとつの歴史書には、このように記されている。

 幾百万の昼夜をさかのぼってもまだ足りないほど太古のこと。
 原初の世界には“色”という概念そのものがありえなかったという。
 暗黒と、漠然とした白のただ二つのみが存在していた、と歴史は語り継ぐ。
 殺伐とした原初の世界を統治し、幾千年に渡って栄華を誇っていたのは古神といわれる荒くれる神々達。だが彼らは始源の力、つまり強大な“混沌”の力の氾濫によって滅びの時を迎え、その後アリュゼル神族に取って代わられた。

 アリュゼル神族は、もともとは古神達と時を同じくして原初世界に誕生したのだが、世界の果てへと飛び去ってしまった。諸次元の彷徨の果てにふたたびこの世界へ復帰したのだ。
 そしてアリュゼル神族とともにこの世界へと流入してきたものこそが、“色”。
 魔力そのものを内包する“原初の色”だ。世界の新たな構成物であるこれら原初の色は、いくつもの帯状となって空を包み込むと互いに絡み合い、無数の色を織り上げていく。やがて原初の色は万象事物へと染みこんでいった。それまで無機質だった世界は、無数の色をして美しく彩られるようになったのだ。
 これがアリュゼル神族により創られる世界――アリューザ・ガルドのはじまりとなる。

 “炎の界《デ・イグ》”が、物質界アリューザ・ガルドと繋がるようになったのは、アリュゼル神族によって世界創造が行われているさなかであった。
 次元の隔壁を飛び越えてアリューザ・ガルドに顕現した最初の龍こそが、美しい深紅の巨躯を持つ龍王、イリリエンである。
 アリューザ・ガルドに現れた龍王は、アリュゼルの神々にこう申し立てた。
【各次元へと繋がる門――“次元の扉”を解き放たれよ。さすれば事象界は地上と近しい存在となり、火が、水が、大地が、そして風が、この地にさらなる祝福と癒しをもたらすのだ】
 イリリエンの言葉どおりにアリュゼル神族は次元の扉を開け放った。これによって火・水・土・風の事象界はアリューザ・ガルドと密接に繋がるようになった。“炎の界《デ・イグ》”の住人であった龍《ドゥール・サウベレーン》の多くも、物質界目指して飛び去っていった。

 世界に関するすべての原理が整ったアリューザ・ガルドでは、アリュゼル神族が最後の創造を行った。人間の創造である。
 水の加護を受け、森と共に生きるエシアルル、空を駆ける風を力とするアイバーフィン、大地に息づく力――龍脈を感じ取るセルアンディル(のちのバイラル)。彼ら三種族がアリュゼル神族によって創造された。だが火は――すでに龍達が司る事象であったために、火の加護を受ける人間は創造されなかった。
 しかし意外なことに、孤高の存在であると思われた龍達の一部は人間に大きな関心を寄せ、また人間の生き方に憧れたのだという。彼らはおのの叡智を結集して人化のすべを形成し、人間となった。
 炎の加護を受けるドゥローム族とは、人化したドゥール・サウベレーン達の末裔なのだ。

 アリューザ・ガルドでは四種族によって人間の生活が営まれていくことになった。
 それから歴史は数々の激動とともに幾星霜を重ね、現在に至ることになる。

◆◆◆◆

 火という事象そのものの発祥の地であり、龍達の生まれ故郷である“炎の界《デ・イグ》”。
 そこに今、新たな訪問者が流入してきた。ミスティンキルとウィムリーフ。彼らは見事に次元の壁を飛び越えて、“炎の界《デ・イグ》”への転移を果たしたのだった。
 ゆらゆらと舞うようにして、二人は炎の中に佇んでいた。人の姿から、<赤>と<青>という色の固まりへと姿を変えて。

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(四)

 見えるもののすべては、陽炎のごとく揺らめく赤と橙。つまり火という事象。
 深淵の縁から先の見えない天上に至るまで、この広大な空間はひとつの大きな炎によって占められていた。まさしく“炎の界”である。
 物質界に生まれた者が“炎の界《デ・イグ》”を見たとき、それまでの自身の常識に照らし合わせて、こう考えるかもしれない。
 この奇妙きわまりない世界には大地が存在するのか? はたまた空間の果てが存在するのか? と。
 距離の概念というものは、この世界においては重要な要素ではないのだが、それを理解するに至る人間はほぼ皆無だろう。だが事象界へ入ろうとする者は、理解の範疇を越えるさまざまな出来事を、この世界の理《ことわり》として受け入れなければならない。
 「あり得ないことだ」という拒否の意志をあらわにした時、事象界はその意識を拒絶する。拒絶に陥った人間の意識は、運が良ければ事象界からはじかれて物質界へと送還されるだろう。が、運が悪ければ物質界へ帰還できずに、意識の尽きるまで次元の狭間を漂うか、そうでなければ意識そのものを事象界に融かされてしまうだろう。その行き着くところは、死。
 では、今この世界に現れた二つの意識はどうだろうか?

 抽象的な世界の様相は瞬時に変貌を遂げる。それまでゆらゆらと緩慢にたちのぼるように揺れ動いていた炎の空間は、激しく立ち上る業火のイメージへとたちまち趣を変えた。
 だが炎に包まれているというのにまったく熱さを感じない。そして一切の音はない。
 絶えることなく揺れ動く炎と静寂とに支配された幻想的な空間。これが“炎の界《デ・イグ》”の本質であった。

 炎の舞い上がるさまにあわせて<赤>自らも空間をふわふわと漂っているのが分かる。しかし、本来持ち得ていたはずの浅黒い手足が視覚できず、さらには体の重さの感覚すら感じ取れないというのは不自然きわまりない。だが<赤>はこの事態を当たり前のものとして認識した。ここは、アリューザ・ガルドとは異なった原理が支配している、と理解したのだ。
 龍人ミスティンキルの意識は、純粋な赤を有する雲のような固まりとなっていた。赤い固まりは大きさにすると、人間の頭ほどにあたるのだろうか。だが内部にはたぎる力が凝縮されているのが感じ取れる。これこそが自身の持つ、まったき赤い魔力そのものなのだろう。
 そして自分のすぐそばを飛び回っている青い球は、自身の恋人の意識体だ。留まることなく色を変える炎の中にあっても、なお鮮やかに見えるこの<青>もまた、<赤>と同等の大きさを持っている。そして快活な気性をあらわすかのように跳ねまわり、姿を真円にまた楕円にと頻繁に変貌させていた。先に意識を覚醒させていた<青>は、<赤>がようやく目覚めたのを喜ぶかのように<赤>の周囲を弾んでみせた。

 二色の意識体は荒れ狂う炎の流れに任されるまま、しばらく空間を漂っていた。深淵から突き上げてくるような激しい業火はやがて収まり、ちろちろとくすぶるような炎へと移り変わった。同時に、天上の空間からは太陽を想起させる色を持った、赤白い炎が滝のように流れ落ちてくる。その大瀑布がもたらす眩さは“炎の界《デ・イグ》”全域を明るく照らし出した。すると今まで濁り淀んでいた周囲の空間が徐々に澄んでいき、はるか遠方の領域まで見渡せるようになった。

 空間の至る所には、赤水晶《クィル・バラン》のように煌めく球体が浮かんでいた。その大きさはまちまちで、一軒の小屋程度のものから小高い丘を覆うほどに大きなものまで様々だ。それら球体は硬質な固体ではない。炎が凝縮して作り上げたものだ。
 近くにあった球の一部分が内側から盛り上がると、なにやら白く細長いものが現れた。<赤>にとってそれは生まれて初めて目にするものだった。ドゥール・サウベレーンだ。
 その白いドゥール・サウベレーンは、龍としては小柄なのだろう。すらりと細い体をしており、球から抜け出すとすぐさま巨大な翼を広げて飛び去っていった。
 この球体は、“炎の界《デ・イグ》”に住む龍達の住居なのだ。よく見ると、炎の空間の中に何匹かの龍達が飛び交っているのが分かる。
 だとすると、遙か向こうにひときわ大きく見える球体は――。

 海に落ちるときの真っ赤な夕日を連想させる、あの巨大な球体こそが、世界の中心に位置するものであることを<赤>は悟った。また同時に炎の王イリリエンがいるという気配も。
 次に<赤>は思った。“炎の界《デ・イグ》”で自分が受けるべき試練というのは、一体いつから始まるのだろうか、と。“炎の界《デ・イグ》”への行き方についてはエツェントゥー老から詳細を聞いていたのだったが、こと試練の内容については一切聞かされることがなかったのだ。
 試練の事を<青>に語ろうかと思案したものの、静寂が包むこの世界で会話という行為そのものが成立するのか訝しかった。

 その時。音なき声が届いた。
 この声は空間を響かせて到達するものではなく、<赤>の意識下に直接語りかけてきたのだ。
【……アリューザ・ガルドの住人か。炎に焼かれることなくよくここまでたどり着いた。自身の姿を想起し念じればいい。そうすれば物質界本来の姿が映し出される】
 声は龍《ドゥール・サウベレーン》の言葉で語りかけてきたが、周囲には何者も存在しない。この声は<青>にも届いていたらしく、今は鞠のように跳ねるのをやめ、動きをとどめている。ここは姿なき声に従うべきだろうと<赤>は考えた。
 <赤>と<青>が念じると、二つの色は瞬時に人間の姿を象った。赤い装束をまとったドゥロームと青い衣装を着たアイバーフィンの姿へと。

◆◆◆◆

 物質界と同様の姿で、ミスティンキルとウィムリーフは炎の中に立っていた。足下に地面と呼べるものはないが、確かに足場は存在しているようだった。
 ミスティンキルは自分の手足を見た。それは見慣れた自分の体に他ならないが、やはり物体的な感覚を把握できないのはもどかしかった。手足を触ろうにも空気のようにすり抜けてしまう。
 ウィムリーフの黒く染めてあげていたはずの髪の色は、きれいな銀髪に戻っていた。事象界にあっては、事物はその本質のみを映し出すのだろう。
 そして彼女の背中にあるのは、二枚の優雅な翼。白い羽根が輝いて映える。アリューザ・ガルドでは目にすることがかなわなかった翼は今、明らかな「かたち」を伴って顕現している。こうして見ると、アイバーフィンが“翼の民”を名乗っているのもうなずける話だ、とミスティンキルは思った。“天界《アルグアント》”の御使いとは、おそらくこのような翼を持っているのではないか。そう思えるほどに、彼女の背中に生える純白の翼は神々しさを感じさせるものであった。
 そしてウィムリーフは驚いたような顔でミスティンキルの背中を指さした。

 ばさり。ここがアリューザ・ガルドであれば明らかにそのような音がしただろう。ミスティンキルは背中に異質感を感じて首を後ろに向けた。
 そして彼は目を丸くする。
 ミスティンキルの背中にあるものもまた、翼だった。彼が背中に生やす黒い翼は、アイバーフィンの白い羽根とは違い、猛き龍の翼である。試練をこれから受ける身だというのに、なぜ翼を有しているのかミスティンキルは分からなかった。ウィムリーフは生まれながらにして翼を有していたと言うが、ミスティンキルの出自はそうではないことを知っている。

【見事。赤きドゥローム、お前は試練を乗り越えたのだぞ】
 今度は間近から、音を伴って声が聞こえた。その低い声は先ほど意識下に届いた声と同じものだった。
 二人の目の前で炎の空間が揺らめき、とぐろを巻いて歪む。その中から何者かが出現しようとしている。ミスティンキルは一瞬、歪んだ空間の中に蒼い龍の巨躯を見たような気がした。
 とぐろが消えて空間が元に戻ったとき、そこには一人の人物が佇んでいた。その“彼”の風貌を一目見て、ミスティンキル達は思わず身構えた。
 ミスティンキルと同じような背丈を持つ“彼”は白い長衣を羽織り、帯を締めた腰の左右には一振りずつの太刀が収まっている。
 しかしミスティンキルが警戒した理由は、“彼”が武器を持っているからではない。“彼”の容姿が、人間とは根本的に違っていたからだ。

 頑丈な蒼いうろこに覆われた四肢。手足に生えた鋭い爪。そして顔つき。それらすべてがドゥール・サウベレーンの姿そのものであった。一本の金色の角を頭の頂点にいただいた巨大な蒼龍こそが、彼本来の姿なのだろう。
 だが今は、蒼龍は人間大の姿へと変貌し衣をまとい、二本の力強い後ろ脚のみで立っていた。
【“炎の界《デ・イグ》”の中心部まで人間が訪れたのは実に久しい。よくここまで来たものだ】
 龍頭の衛士は右手を挙げて、敵意がないことを示した。
【そう怯えなくてもいいだろう? わしの姿が怖いか? ……わしは守護者アザスタン。龍王様に仕える者よ】
 アザスタンはそう言って、細長い金色の目をさらに細めた。

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