『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”
§ 最終章 万象還元
そして今――ルードは真っ青な空間にたたずんでいた。
天上からは澄明《ちょうめい》な光が注ぎこんでいる。体が震えるほど冷涼なこの場所にあっても、光は暖かくルードを包む込む。光には、聖剣が持ち得ていた畏怖などかけらも感じさせない、自然のありのままの姿があった。
「ルード!」
再び頭上からジルの声。見上げると、まばゆいまでの光がルードの目をくらます。それが陽の光だと気付くには少し時間がかかった。太陽の存在など、ここ数日忘れていたのだから。
すっと、光を遮る影。それはジルだった。そして傍らにはルードの仲間達が――。
彼らもまた宙を浮遊しており、音もなくルードの高さまで降りてきた。
「やあ、ルード君!」
茶目っ気たっぷりにハーンは片目を閉じて、自分達の無事をルードに伝える。〈帳〉は力なく、ハーンの肩に寄りかかっていた。おそらくは自身の魔力を使い果たしてしまったのだろう。
そしてライカが――今までいつもそうであったようにルードに笑いかける。言葉にならない。ルードの唇はわなわなと動くほかなかった。
「やれやれ、間一髪で間にあったよ! ルードってば空間の歪みに落ちかけてたんだよ? もうちょっとでおいらの手に負えないところまで行っちゃうとこだったんだから、存分に感謝してちょうだいよ」
ジルは自慢げに胸を張ってみせる。
「……“還元のすべ”ってやつが働いた、そこまではいいんだけれどさ。反動で空間に大きな歪みが出来ちゃって、みんな空間の狭間に落ちちゃいそうになったんだ。――げんに、デルネアの家来達はみんなその中に落ちてしまったんだけど――なんとかライカ姉ちゃん達はおいらが見つけ出せたんだ。けど、気が付いた時にはルードがどっかに吹き飛ばされちゃってて、実はどうしようもなかったんだけどね――なんと、ライカ姉ちゃんがルードの声を聞きつけたんだってさ!」
ルードはライカの顔を見る。照れくさそうにはにかむ、そんなライカの表情がとても愛らしく映った。
「――でその時、おいらもルードがどこら辺にいるのか分かったんだ。しかも運が良かったんだよね。ルードが歪みの手前で止まっててくれたんで助かったよ! それに、ウェスティンにいるディエル兄ちゃんが、ちょうど反動の力を抑えてくれてたし。だからおいらも空間をかいくぐってルードをたぐり寄せることが出来たってわけだけど……ねえってば……ひょっとしておいらの言ってること、全然聞いてないんじゃあないの?」
ジルがぼやくのも無理はない。ルード達、運命の最中にあった仲間達は肩を寄せ、嬉しそうに抱きしめあっていたのだ。
「まったく……。まあ、また会えてよかったよなぁ。うん」
やれやれと、ジルは大げさに両手を横にあげてみせた。
「……さて、と! おいらもやることはきっちりやってのけたし……ぼちぼちと行くとしましょうかね。ねえ、ハーン!」
ハーン達はジルのほうを見た。
「なんだい、ジル」
「あとのことは任せたからね! おいらはディエル兄ちゃんのところに還るから! ええと、あと色々言いたいこともあったんだけど……あはは……いざとなるとうまく言えないや。……じゃあ、またいつか会えるといいね!」
感きわまりそうになる感情を抑えようとしているジルがいじらしい。
「分かったよ。あとのことは僕に任せていいからさ」
ハーンは笑った。ジルは肩をすくめ、おどけてみせる。
「それじゃ! おいらはここからおさらばするよ!」
そう言ってジルは“音”を発して、透明な球体を作りあげた。それは風船のように膨張し、ルード達をすっぽりと覆うように広がった。
「こいつは、おいらからの置きみやげだよ。この中にいる限り、まっさかさまに落ちることなんてないからさ。――じゃ、さよなら、だね!」
そしてジルは陽気に宙でとんぼ返りをすると、空間を割るようにしてふっと消えてしまった。
「ジル、本当に色々と、ありがとうな!」
「最後に、サイファにもちゃんと会ってあげてね」
「ディエルにもよろしく言っといてちょうだいな!」
ジルが渡った空間は今にも閉じようとしていたのだが、ルード達の呼びかけに応じるように、ジルの片手だけが隙間からにゅっと現れ――まかせてくれと言うようにひらひらと舞い――そして空間が閉じた。
「ほんと、あの子も明るい子だったねえ」
ぽん、とハーンの手が後ろからルードの頭にのせられた。彼は自分の子供達をあやすかのようにルードとライカの頭を優しく撫でるのだった。
「ハーン、くすぐったいって。それにちょっと恥ずかしいよ」
ルードは、そしてライカも照れたように笑う。しかしハーンは撫でるのを止めず、当惑する二人の表情を楽しんでいる。
「なんと言っても本当、よくやったよ。……さあ、ごらんよ。僕らの下にある景色を、さ!」
言われるままに、ルードは真下を見た。それまで白い空間だったそこにあったものは――。
「わわっ?!」
ルードは驚き、ハーンの上衣の裾をきつく握った。あまりの仰天のためか、ルードの口はぱくぱくと開くものの、そこから言葉が紡がれることはない。
「きゃっ!」
ライカもまた小さく悲鳴を上げる。瞬時に状況を見て取った彼女はとっさに翼を広げ、ルードのほうにぐるっと回り込むと、彼の身体を支えようとする。
「ちょっと! まさか……わたし達、空にいるわけなの?!」
そう。彼らのいる青い空間は大空だったのだ。
天空と呼ぶに相応しく、見渡す限り澄み渡る青。頭上にはさんさんと太陽が輝いている。“混沌”の襲来の最中、半ば忘れかけていた、当たり前ながらも美しい自然の風景の最中にルード達はいるのだが――彼らの足下には何もなかった。
慌てふためくルード達のさまを見て、ハーンはくっくっと声を殺して笑った。
「大丈夫だよ。ジルが言っただろう? あの子が残してくれたこの球の中にいる限りは、落ちるなんてことないんだからさ」
ルードはばつが悪そうにハーンの裾から手を離すと、おそるおそる真下を見ることにした。その横でやはりルードを支えるようにしながら、ライカも眼下を見やる。
「わ……」
小さく、ライカから感嘆の声があがった。
* * *
そこには――世界が広がっていた。
遙か下には広大な平野があり、ところどころに街らしきものが見える。それらは中枢都市群と呼ばれる南部の街の集まりであろう。つと視線を北方へずらすとそこは湖。太陽の光を受けたユクツェルノイレ湖の水面はきらきらと輝いて見えた。そこからさらに視線を移す。うすぼんやりと見える平原は――決戦の地、ウェスティン。
「驚いた……な」
ルードは目を丸くしながら、大地の様子をきょときょとと見て回った。
「俺達は今、フェル・アルムの上にいるってわけなのか!」
スティン山地、ムニケス山頂で目にした景色よりも、さらに多くの風景が映っている。
「そう。僕達は今フェル・アルムの空高く、しゃぼん玉のような球に包まれて、大地を見渡してるってわけさ。だけれどもね、それだけじゃあないんだ。ほら、今度はこっちのほうを見てごらんよ。……どう? 見えるかな?」
ハーンの指さす方向を、ルード達は見た。
「海……か? こうしてみると、やっぱりでっかいんだな! スティンから見るシトゥルーヌ湖も大きいもんだと思ってたのに、それすらちっぽけに見えてくるなんてさ……」
「そう、海。もちろんそれもそうなんだけど……見えるかなあ? 僕の指さす先のずっと向こうだよ」
ルードは目を細め、食い入るようにして凝視した。延々と続く海の彼方――そこにあるものを目にした時、ルードははっとなってハーンに振り向いた。
「……!! まさか――俺達はとうとう……」
ハーンはにっこりと笑ってうなずいた。
「僕達がいるのはフェル・アルムの上空ばかりじゃない。還ってきたんだよ。アリューザ・ガルドにね!」
ルードはライカと顔を見合わせ、そして――。
「やったぞ、ライカ!」
ルードは破顔してライカに飛びついた。ライカは一瞬驚くものの、ルードと顔を合わせ笑いあった。
「見ろよ! とうとう俺達はやったんだ! ほら、ライカ……俺達は今、アリューザ・ガルドを見てるんだぜ!」
ライカから離れると、興奮冷めあがらぬままにルードはまくし立てる。そしてルードとライカは視界に入るもの全てを見ようと、再び周囲をぐるりと回った。
広大な青い海。やがて海は陸地へと繋がり、その彼方にちらりと見えるのは、雪をいただいた高山。そこがライカの故郷、アリエス地方というところなのかもしれない。
目を右へと転じると、トゥールマキオの森など比べものにならない大森林が見えた。エシアルルの住むというウォリビア、アブロットの二大森林であろうか。その森の奥、うっすらと雲が覆っており見渡すことは叶わないが、ライカが語ってくれたようにあの雲の向こう側には、バイラルが築いた国家があるのだろう。ルードはまだ知らぬ世界を目の当たりにして身震いした。
なんという大きさなのだろう! このような美しい世界の中で、人は歴史を紡いできたというのか。
* * *
「あれ? なあ、俺達、だんだんと落ちてやしないか?」
先ほどから人の歩く速さ程度ではあるものの、ゆっくりと球が降下していくのにルードは気付いた。
「……この球体を作ったジルがアリューザ・ガルドからいなくなり、もといた世界に戻ったからだろう……」
憔悴しきった声を放ったのは〈帳〉だった。
「〈帳〉さん! だいじょうぶですか?!」
〈帳〉は首を縦に振るものの、その顔色は青白く、生気が失せているかのようだった。
「……私の持てる魔力全てを注ぎ込んだのだからな……もうこのような大魔法を行使することもあるまいが……」
ルードは心配そうな表情を浮かべるが、それを見た〈帳〉は、それでもかすかに口元をゆがめ、無事であることを伝えようと笑ってみせた。
「……そうか……還元のすべは発動したのだな……」
〈帳〉は周囲を見渡し、そしてやや翳りを落とす。
「発動と引き替えに、もう一方の目をも失うのかと思っていたが、景色を目の当たりにしているというのは、私に災厄は降りかからなかった、ということか」
「ディエルが反動の力を押し返してくれたんでしょう。フェル・アルムの人々も無事だと思いますよ。……僕達が為そうとしたことは成功したんです」
ハーンは努めて朗らかに、〈帳〉に語りかける。
「見てください〈帳〉さん! ほら、わたし達はアリューザ・ガルドに戻ってきたんですよ!」
ライカもまた、喜色満面に浮かべつつも、一方では球が降下しはじめているのに不安を感じているようだった。彼女は未だに翼を広げているようで、時折きらりとした粒子がこぼれ落ちるのだった。
「ふふふ。ライカ。球が降下してるからって、そうおっかなびっくりしなくても大丈夫だよ。まさかジルもこの球の効き目がなくなるような、やわなことはしていないだろうしさ」
ハーンが言った。
「そりゃあ、わたしだってジルの力を信頼してないわけじゃないわ。でも、念には念を入れたほうがいいでしょう? だからわたしは翼を広げてるのよ」
ライカは誇示するかのように自らの翼を現すと、大きくはためかせて空中を舞ってみせる。そのさまはいかにも心地よさそうであった。
「それにね。フェル・アルムでの色々なことを通して、“絶対”なんてことは絶対にないっていうのが分かったの」
蝶のようにふわりと周囲を飛び回りつつライカは言った。
「へええ。上手いこと言うね!」
ハーンはライカの言葉がいたく気に入ったようで、自分の口から反復した。
「あのあと――デルネアはどうなってしまったんだろう?」
ルードは思い出したように言った。
「……彼はトゥールマキオの森とともにあるのだ……」
〈帳〉はそう答えると、それ以降口を閉ざした。
球体はゆっくりと降下し続ける。それにつれ、寒々とした空気がだんだんと暖かくなる。遠方の風景は徐々に霞んで見えなくなり、その一方で眼下に広がる景色は輪郭を鮮明にしていく。
そして――ついにルード達は地面へと降り立った。
ここはアリューザ・ガルドの大地。
フェル・アルムという世界、“永遠の千年”とうたわれた世界は、もはや無い。
ただ、人々の記憶に刻まれるのみ。
* * *
足下が大地に触れると同時に、球はしゃぼん玉が割れるかのように、ぱちんと小さく音を立てて割れた。
降り立った場所は断崖だった。潮の匂いが鼻につく。
すぐ目の前には見渡す限りの海が広がり、波は規則正しく音をあげて岸壁に打ち付けている。
だが、この辺り一帯の絶壁に、ルードは不自然さを覚えた。
岩肌が露出しているところもあれば、樹木が不自然に海面に向かって突きだしているところも、土砂が崩れ海面にぼろぼろとこぼれ続けているところもある。まるでつい最近、地面が丸ごとえぐり取られたかのようなのだ。ルードは興味深そうに周囲を眺める。
「ここは、トゥールマキオの森の入り口。ここから先には、うっそうとした森があったのだ。ほんの先ほどまでは、な」
〈帳〉は大きく息をつくと、がっくりと力なくひざまずいた。トゥールマキオの森は消え失せてしまった。フェル・アルムの還元に際して、森の持つ全ての力が解き放たれたのだろう。
「デルネアは……再び空間を閉じ、彼は未来永劫あの空間から出ることはない。トゥールマキオの大樹とともに、彼は永遠にも等しい時間をひとりで紡ぐこととなるのだ……」
〈帳〉はそう言うと同時に、突如地面に伏せて泣き崩れた。感情をひた隠しにしてきた〈帳〉は、ここにいたって堤が決壊したかのように自らの悲しみに襲われたのだ。
〈帳〉はひとしきり泣いたあと、涙に濡れた顔を起こし、本来は目の前に広がっていたであろう森に向かって言った。
「なぜ! なぜ私ひとりだけがおめおめとアリューザ・ガルドに戻ってきたというのだ! かつての仲間達を失った私には、もうすでに残っているものなどない――デルネアとともに、あの地に残るのが罪人たる私の望みであり、責務であったのに、それすら果たせなかったとは!」
ハーンは〈帳〉に近づき、真正面から彼と向き合った。
「しかし、結局のところ、デルネアはあなたに残ることを良しとはしなかった。デルネアもまた、悲しい人間であったのだけれども、せめてあなたにはアリューザ・ガルドに戻ってほしかったんですよ。それがデルネアの持っていた、人の心の現れだと思ってください」
ハーンはひざまずいて、〈帳〉と目線をあわせた。
「そして僕もまた、あなたを残すべきではないと思ったんです。あなたは術が発動したその時、隷達と同じように空間の狭間に落ちようとしましたね? 自らを破滅に追い込むことが赦しを得る唯一の方法だと思っていたから」
うつむいたまま〈帳〉は、言葉もなくうなずいた。
「そんなあなたを止めたのは、僕なんですよ」
「罪を滅ぼすためにも、私はここに戻ってきてはならなかったのだ。アリューザ・ガルドに戻る資格など、私にはない……」
ハーンははっきりと、しかし優しく否定した。
「それは違いますね。資格がないと考えているのはあなた自身のみです」
ハーンは〈帳〉に立つよう促す。その表情はいつものハーンでありながら、またディトゥア神族のレオズスとしての威厳も見せていた。
「アリューザ・ガルドに戻ったあなたには、これからつらいことが多いのかもしれません。けれどね、あなたはデルネアとは違う道を生きなければならない。彼は最後まで理想にこだわるあまりに、ついには自らの世界に籠もってしまったけれども――あなたにはフェル・アルムの現実を見据えることが出来る。フェル・アルムの人々とともに未来を築き上げていくというのは、あなたにしか出来ないことです。そしてあなたが自分の為したことを罪と感じているのならば、まさにこれこそが罪を償う手段なのですよ。……ウェインディル」
「その名前……」
臙脂のローブをまとった彼は複雑な表情を浮かべ、ハーンを見た。
「ウェインディル・ハシュオン。あなたの本来の名前です。もうあなたは〈帳〉という呪縛から解き放たれるべきでしょう」
〈帳〉という名を失ったエシアルルは小さく震え、うなずいた。
「分かった……。貴方の言うとおりなのだろうな……。私は今、〈帳〉の名を捨て、かつてのように……ウェインディルと名乗ろう。私はフェル・アルムの未来を見定めていく。だが、人々が真実を――今まで闇に葬られてきたフェル・アルムの真実を知った時、その衝撃に耐えられるのだろうか……」
「え……と、ウェインディルさん」
ルードはやや戸惑いながらも白髪のエシアルルの名を呼んだ。
「フェル・アルムの人達だって弱くなんかない、と思います。スティンに向かう途中で、俺のふるさとに立ち寄ったじゃないですか。あそこはニーヴルの戦いにのまれ、もう人なんか住むようなところじゃあないって思ってた。でも、廃墟となった村に人々が住むようになってたんだ」
ルードは北方へ目を向けた。いくら目を細めても、連なっていた山々の姿を目にすることなど出来ないが。
「……スティンだって無くなってしまった。けれど、羊飼いのみんなは、これからどうしようか、っていうのを多分一生懸命考えてるに違いないです。……うまく言えないけど、そういった強さってのをみんな持ってると思う。俺はそれを信じたいし、あなたにも信じてもらいたい……」
「そうだな……君達の前向きさには、いつも教わることばかりだ。私は……そう、サイファのもとを訪れよう」
ルードの言葉を聞き流すかのように、呆然と目の前の海を見つめていたウェインディルだが、言葉は彼の心に確実に届き、揺り動かしていた。
ルードは聖剣所持者として、運命の中心に存在していた。しかし、過去のアリューザ・ガルドにおいて『英雄』と賞された人物のような才覚や、人を超えた技量を彼は持ち得なかった。たしかにセルアンディルとしての力を身につけ、また、おそらくはライカと同じく二百年の時を生きる長い寿命を持つようになった。だが、その変化によってルード自身の心が、デルネアのように変容していくことはなかった。彼は自身を貫いたのだ。聖剣ガザ・ルイアートが、彼を所持者として選んだのは、もしかしたらルードの純粋な心を知ったゆえなのかもしれない。
そして――デルネアと渡り合い、ウェインディルの心を動かしたのは――結局のところ、一介の羊飼いの少年だった。
* * *
「さあて! いつまでもここにいても埒《らち》があかないんじゃないかなあ?」
ルードの言葉に満足したのか、ハーンは場の雰囲気を明るくしようと努めているようだった。
「……ねえ、ルード。この後、あなたはどうするつもりなの?」
ライカはルードを上目遣いで見ると、つぶやくような声で尋ねた。
「そうだなあ……」
ライカの言葉から彼女の不安を感じ取ったルードは、彼女に向き直った。
「俺は、というよりは、俺達がどうするか……ってことでいいんだよな?」
ライカが殊勝にうなずくのをみて、ルードの顔はほころぶ。ルード達の旅はまだ終わらないのだ。
「まずはサラムレに行こうと思う。叔父さん達やケルン達が、あそこに避難してるだろう? もちろんサイファにも会って、礼を言っておきたいし。……それからは……そう、ライカとの約束を果たしにいかないとな……」
アリエス地方――ライカのふるさとに行き、ライカを無事に送り届けること。これこそが最後に残っている約束だった。
だがそれはライカとの別れを意味する。どうにもやるせない寂しさに葛藤する日がいつかは来るだろうと旅の最中も思っていたが、その時は迫り来る困難に直面していたために心の片隅へと追いやられていた。しかしアリューザ・ガルドに還ってきた今、ほど遠くない未来に別れは現実のものとなるだろう。
けれどもライカは――今度は不安を吹き飛ばすように、にっこりと笑って――ルードにこう訊くのだった。
「……で、それからはどうするつもりなの……わたし達は?」
意外な言葉だった。
ルードはぽかんとした表情をしたままライカを見る。
「え……約束を果たしたあと、俺達がどうするのかってこと?」
彼女の沈黙は、つまり肯定。今さらわたしに言わせたいわけ? といった面もちをして、ルードの答えをじっと待っている。
「そ、そうだな……」
ルードはライカへの愛おしさを深く感じながら、照れくさそうに鼻を掻いてみせる。
「この世界ってのを俺は見てみたい。それは前から思ってたんだけど、今こうやって空からアリューザ・ガルドを見ると、もうたまらなくなったんだ! 大きな森にも、そのまた向こうにある国々にも俺は行ってみたい! ……そう思ってる」
「それは面白そうね、ルード!」
ライカはそう言うと、嬉しそうにルードの腕に絡まる。
「フェル・アルムでの旅って、たしかに危険なことや分からないこともたくさんあったけど……いろんなところに行って、いろんな人に会えた……。今はまだ実感が湧かないんだけど、多分あとになって振り返ったら、わたしにとってすごく意義のある時を過ごせていた、そんなふうに思えるんじゃないかしらね。だからこれからも――」
――世界の情景に触れたい。さまざまな人に会ってみたい。
それは彼らが、フェル・アルムでの旅を通じて膨らませていった情熱。その情熱が希望を生み出していったのを知っているからこそ、ルードとライカはさらに旅を続けていくのだ。
お互いへの想いも募らせ、はぐくみながら。
「ふふふ。いいねぇ……」
二人に置いてけぼりを食う感になったハーンは肩をすくめてみせる。
「でもそうしたらさ。今となっては島となった、このフェル・アルムから、エヴェルク大陸に渡る方法ってのを考えないとね」
「あ――」
ルードとライカは立ち止まってしまった。
「ライカの翼で飛ぶっていうのは……?」
「うーん……とてもじゃないけど無理よ。アイバーフィンだって一メグフィーレも飛べればいいほうなのに、ここからエヴェルク大陸の端っこまで、そうね……少なくみてもその十倍はありそうだもの……」
首を傾げつつ、難題に思い悩む二人にハーンは声をかける。
「ま、今悩んだってしかたないよ。だいじょうぶ。なんとかなるって。ほら、今までもそうしてきたようにね!」
「ハーンも気軽だねえ、相変わらず」
ルードは苦笑しつつもハーンに同意した。
「〈帳〉さん……いや、ウェインディルさんは、これからどうするんですか?」
しばらくうつむいて考えたあと、ウェインディルは言った。
「そうだな……君達とともに過ごしてこられて、今まで本当にありがたいと思っている。けれども私は……君達とここで別れることにしたい」
「え……〈帳〉さん?! なぜです? 俺達と一緒に行ったほうがいいんじゃないですか?」
ルードは素朴な疑問を投げかけるが、ウェインディルの表情を見た途端、それがひとりよがりな考えであることに気付いた。
「今はただつらいばかりだが……。さすがにこの岸壁から身を投げたりはしない。私はエシアルルの理に従って生き続けるよ。けれどもしばらくは……この胸の底からわき起こる気持ちの整理がつくまでは、この地にてひとりでいたいのだ……頼む」
哀しみを必死に堪えつつ、ウェインディルは言う。そしてそれきり、再び海のほうを見て押し黙った。どのような表現でも言い尽くせないほどに、彼の哀しみは計り知れなく深いのだろう。
ルード達は、その背中に別れの声をかけ――彼の哀しみがいつの日か癒されることを願いつつ――岸壁をあとにしていくのだった。
まず目指すのは南部のいずこかの街。そこからフェル・アルムを北に巡っていくのだ。
* * *
こののち、ルードとライカはフェル・アルム東方に位置する大陸、エヴェルク大陸へと渡っていく。
一つの大地しか存在し得なかったフェル・アルム世界では、航海術は発展するはずもなかったが、海を渡るにおいてハーンがレオズス自身の力を行使したものとも思われる。
そしてなお、二人の旅は続いていく。
ティアー・ハーンはルード達を見送ったあと、ウェインディルのもとに赴く。宵闇の公子は陰ながらに、フェル・アルムの地を支えていこうというのだ。もっとも奔放な彼のこと、いずれはアリューザ・ガルドの何処かへと旅立つのだろう。
彼らの物語はひとまず幕を閉じることになる。
イャオエコの図書館。林立する本棚のいずこかに、この物語は書物となって、ひっそりとたたずむこととなるのだろう。いつの日か、図書館を訪れた誰かによって、ひもとかれるその時までは。
* * *
それから季節は巡り――。
荒涼とした大地にも、再び春が訪れようとしていた。
春。
北方のスティンの山々が“混沌”に飲まれて消滅してしまった今、もはやそこに羊飼い達の姿を見ることはない。
上流の山を失ってしまったクレン・ウールン河の流れもすっかり枯渇してしまった。流域の平原――ウェスティンの地は痩せ細り、かつての面影はない。
しかし望みが失われることなどない。
羊飼い達は東部域、セルと呼ばれている山地にて新たな生活を送ろうとしている。
そしてこの地にもかすかに、だがしっかりとした、新たな希望が生まれようとしているのだ。
ウェスティンと呼ばれていた荒野の中にひとり、彼女は立ちつくし、思いを巡らすように目を閉じていた。
目の前の土はやや盛り上がっている。そこに友が、やすらかに眠っているのだ。
墓には一振りの剣が置いてある。近衛隊長だった親友の生前には、美しい銀色を放っていた剣。長いこと墓標の役割を果たしていたため、今となってはすっかり赤錆てしまっていたが、この錆は剣の価値を無くすものではない。“混沌”の襲来をはねのけたものの、すっかり荒れ果ててしまったこのウェスティンの地に、恵みの雨がもたらされた証にほかならないのだから。
彼女は目を開けると、ひざまずいて剣の柄を手に取る。この剣で自らの髪を切ってから、九ヶ月が経とうとしている。彼女の艶やかな黒い髪も、元どおりの長さにまで伸びていた。
こうして春が巡ってくるまでの間に、色々なことがあった。
まず、遙か昔より隠蔽されてきた、本当の歴史が公開された。
それまでにも、アズニール語の復活や、魔物の襲来によって苦しんでいた人々だが、真実に直面することによってさらなる混乱に陥った。しかしながら、今は人々もそれらの現実を――アリューザ・ガルドの世界にいるということを受け入れ、立ち直りつつある。
彼女自身も帝都アヴィザノに帰還してのち、枢機裁判に身をおき、ドゥ・ルイエの絶対的権限を自ら放棄した。今の彼女は、幼少の頃よりの名前でもって、この地を治め導いている。
そしていずれはこの大地にも、東方の国々から人々がやってくるのだろう。彼女の友人達が東方に渡り、今なお旅を続けているように。
「――ルミ。そろそろ私は行くよ。また近いうちに来るからね。こんな……何もない寂しい場所に、あなたが眠っているのは私にとってつらいんだけど……」
サイファはしかし、ふと笑みを浮かべる。気付いたのだ。それまで剣の置いてあったところに何があるのかを。
彼女は魅入られたようにそれを眺めつつ、言葉を紡いだ。
「でも……枯れてしまってるのは今だけね。色々なことがゆっくりだけれども動いている……。ここもいつの日か、緑豊かな大地へと育っていくに違いないのね……」
サイファはゆっくりとかがむと、そこに芽生えようとしているほんのちっぽけな草を――しかし確かな生命をはぐくむ、希望をもたらす若芽を――愛おしむようにそっと撫でるのだった。
数多に存在する物語の一つ。
――閉ざされた大地“フェル・アルム”と、
運命の渦中にあった者達、そして聖剣の物語――ここに終わる。