『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 第十章 終焉の時、来たりて

六. 聖剣の意志

 かの者の名は、レオズス。
 灰色の空のもと、引き立つ金髪。
 今し方まで魔物とまみえていたのか、ややも血にまみれた衣。
 衣の白に反発するかのような漆黒の剣。
 そして内包する膨大な“力”は、純粋たる闇。
 宵闇の公子レオズス。
 遠い昔、アリューザ・ガルドに君臨し、そして〈帳〉達と相対した張本人が、このウェスティンの地に現前している。

「いよいよもって、この世界は終わる。……デルネア、君の犯した罪は重いよ」
 レオズスは今一度、ルード達が飲み込まれていった亀裂をのぞき込んだ。暗黒がぽっかりと口を開き、それがどこまで続くものか、果てなど知れない。
 いや、デルネアが渾身の力をもってこじ開けた歪曲した空間には、本当に底など無いのだろう。ルード達の命が無事だとしても、彼らは永劫、落ち続けるしかないのだ。
 レオズスは口元を歪ませた。
「よくも、ルードとライカを……」
 怒りのあまり、彼の身体からは漆黒の気が漏れた。その気を歓迎するかのように、レオズスの持つ漆黒剣――レヒン・ティルル――は低い唸り声を周囲に響かせた。

「……一つ、訊きたい」
 一方、デルネアは恐怖心と困惑が雑多におり混じった感情をなんとか抑え込むと、先ほど奪い取った聖剣を左手に構え、レオズスに相対した。彼の左腕が小刻みに震えているのはレオズスの圧力のせいか、それとも、かつてアリューザ・ガルドを恐怖に満たしたレオズスへの畏れか。
 聖剣の“力”により、デルネアの切断された右腕はすでに血を止めていた。が、失った右腕は戻ってこない。
「あれなる“混沌”を招来したのは御身ではないのか、レオズスよ」
 北に去っていった黒い雲は、再び襲いかかる時を待っているかのように忌まわしくうねり、時折雷鳴のような轟きをあげた。命を得ているようなその動きは、きわめて禍々しい。
「違う!」
 レオズスはあからさまに怒りをぶつけた。
「今思えば、僕がこうしてこの地にあること、それ自体は“混沌”の力によるものなのかもしれない。来たるべき時に、再び“混沌”が安定した統治をするために。そうすれば僕は、アリュゼル神族や冥王とも対等に渡り合えるほどの力を御していたかもしれない。でも……」
 金髪の公子は一歩、また一歩と足を進め、デルネアとの距離を縮めていく。
「でも、僕はそれをうち破った。今の僕は、ディトゥア神族としてのレオズスであり、かつバイラルとしてのティアー・ハーンなんだ!」

 感情を露わにしたレオズスは、自身の闇の“力”を発動させた。漆黒の闇がレオズスの目の前に集約し、球のように姿を変えると、デルネア目がけて鋭く飛んでいく。デルネアはすでに攻撃を読んでおり、即座に聖剣を構える。と同時に聖剣は光り輝き、レオズスの放った漆黒を四方に霧散させた。が、デルネアも“力”の反動をくらい、衝撃のあまり二、三歩後ずさった。
「なんだ。御身の“力”とはその程度か」
 デルネアは侮蔑を含んだ言葉を発した。
「なるほど、確かに今の御身には“混沌”を感じぬ。だが昔、我らが戦った時のような威圧感はまるで感じぬぞ、レオズス。畏怖するには値せぬわ」
 くっくっと、デルネアは口を歪ませて笑う。
「だがな、今の我は御身……お前すら上回る“力”を得た! 見よ!」
 デルネアは、なおも震える左腕を高く掲げて聖剣を示した。
 すると、聖剣の刀身からは一条の光がほとばしり、天空高く突き抜けていった。光が灰色の空と接触したその瞬間、空の一点は青い色に染め上げられる。光と灰色との接点は互いに反発しあい、波紋状の衝撃が空そのものを揺さぶる。その波紋は北に存在する“混沌”にまで波及し、“混沌”の支配下にある空は歪み、苦悶を感じているように激しくのたうち回った。
「聖剣の“力”が狂おしいまでに我の中に流入してくるのを感じる。我は今や“混沌”すら消し去る“力”を持ったのだぞ。“混沌”を消し去ったあかつきにはレオズスよ、貴様を葬り、この世界にある脅威を消し去ってくれる」
「やめてくれ!」
 たまらずレオズスは、自身の持つ漆黒の剣を構え、デルネアに斬りかかる姿勢を見せた。
「光の本質を受け入れられない君が、下手に“混沌”を刺激しちゃならない! フェル・アルムに現前した“混沌”はほんの一角に過ぎないよ。この地にある“混沌”を刺激したために、始源の力たる“混沌”そのものが覚醒すれば――――フェル・アルム、アリューザ・ガルド、ディッセの野、次元の扉――――ありとあらゆる次元にまで“混沌”が波及し、“混沌”の支配下のもと、終末を迎えるんだ……!」

『フェル・アルムを覆う結界が崩れ去り……本来人の世界にあってはならない、強大な太古の力を招き寄せかねない。もし、それを呼び寄せてしまったら、フェル・アルムのみならず、存在する世界全ての終末を呼ぶことになるやもしれぬ』

 かつて、〈帳〉がルード達を前に語った予言が今、現実のものになろうとしている。
 レオズスはデルネアを見据えて言葉を続けた。
「あまりに酷なことだけれども、聖剣所持者を失った今となっては、あの“混沌”を消し去るすべはなくなった。だが、せめて滅びの時を迎えるのは、この世界だけにしたい。……デルネア、剣を僕に返してくれ。そうすれば聖剣は単なる一振りの剣に戻り、“混沌”を刺激することもなくなる」
 それを聞いた途端、デルネアは嘲笑した。
「ふん。結局のところお前は“混沌”に魅入られたままなのではないか。綺麗事で我を弄そうとしても無駄だ。お前の望みはこの地を“混沌”の支配下にすることだろう? 相も変わらず……お前という存在は疎ましいことこの上ない!」
「違う! 話を……」
「聞けるか! 聞けるものか! 我らアリューザ・ガルドの人間が苦しんだのも、このフェル・アルムを創造したそもそもの原因も、すべてお前に責がある! レオズスよ! お前に呪いあれ!」
 デルネアはレオズスの間合いまで一瞬のうちに駆け寄ると、剣を打ち付けた。レオズスは、レヒン・ティルルの漆黒の刀身をもって切り結び、聖剣の攻撃を阻む。が、今のレオズスの“力”を持ってしてもデルネアの“力”には敵わず、レオズスは顔をしかめた。“光”の力をまともに食らっている漆黒剣は金切り声をあげた。
「さあ、今こそ滅せよ、レオズス! 貴様の行った過去の凄惨なる罪も、そして“混沌”も、全て我が浄化する!」
 勝機とばかり、少しずつ聖剣の刃がレオズスの顔へと近づいていく。遙か昔に戦った時とは力の差が反転し、今や力技ではデルネアが勝る。
「君には無理なんだ、デルネア! 聖剣を手離してくれ!」
 なおもレオズスは叫んだ。
「聞けぬ願いだな。“混沌”の手先たる公子よ。我のことより貴様の身を案じたらどうだ。――?!」

 デルネアは急に顔をしかめた。
「なんだと言うのだ……この痛みは……!」
 先ほどから続いている左腕の震えはさらに大きくなっていく。デルネアは苦悶の表情を満面に浮かべた。
「聖剣から入り込んでくる……“力”が!」

「ガザ・ルイアートが君を所持者と認めていないからさ。これ以上保持していれば、聖剣の“力”が暴走し、君を破滅に陥れるぞ!」
 レオズスは自ら進んで自身の剣を鞘に収めた。もはや、デルネアには戦うことなど出来ないと知っているように。
「知ったふうなことをほざくな! 闇の存在たる貴様に何が分かるというのだ……!」
 デルネアは全身を震わせながら、レオズスに打ちすえた剣を引くと、慎重に後ずさった。
「聖剣の“力”こそが、我を至上の存在に……ぐっ」
 しかし、デルネアの言葉に反して、彼の身体は激しい苦痛に苛まれているようだ。ついにデルネアは片膝を落とした。愕然と頭を垂れる。
「聖剣が……我の意志に反するとでも言うのか。信じられぬ……!」

* * *

「僕は聖剣のことを知っている。君以上に、ね」
 レオズスはデルネアのもとに近づき、しゃがみ込んだ。
「聖剣を生み出したルイアートスから直々に剣を受け取ったのは僕だ。聖剣所持者の介添人として、イナッシュに同行して冥王と戦ったのも僕だ。なぜなら君の言ったとおり、僕の本質的存在は闇そのものだから。僕は聖剣の影響を受けない唯一の存在だ。また、光に相反する闇だからこそ、ガザ・ルイアートの持つ“光”がなんたるか、分かるんだ」

 デルネアは襲いかかる膨大な“力”になおも必死に耐えつつ、レオズスに顔を上げた。その顔には今までの尊大な表情はなく、絶望がありありと浮かんでいた。
「我はこの“力”に打ち勝って、そして……」
 その言葉も今となってはむなしく響くのみ。圧倒的な聖剣の“力”はデルネアを蝕み続ける。今なおデルネアが聖剣を持ちえているのは、デルネア自身の持つ圧倒的な“力”と、執念によるものである。しかし、それもほどなく尽きることだろう。ガザ・ルイアートは、自身が認めた者以外には容赦なく、膨大な“力”の流入をもって、過酷な責め苦を与え続ける。
「聖剣の“力”は打ち勝って得るものじゃない。受け入れるんだ。でも君にはそれが出来なかった。聖剣の意志は、君を所持者と認めなかったから。聖剣にとっての主は、今なおルード・テルタージにほかならない。君にもそれは分かっているはずだ。さあ、聖剣を返してくれ。これ以上の災厄は、僕らの望むところじゃあない」
 “光”の浸食はとうとうデルネアの全身に達した。デルネアはとうとう聖剣を手放し、力なく座り込んだ。
「我は……このフェル・アルムは……どうなる……」

 レオズスは哀れむ表情をみせつつも、光をほとばしらせる剣を左手に持った。途端に聖剣は光を失い、銀色に鈍く光る剣へと戻ってしまった。
「まず、君は負けたことを認めるべきだ、デルネア」
 レオズスは頭を北に向けた。青い瞳が悲しみに染まる。とうとう“混沌”の勢力が濁流のごとく進撃を開始し始めたのだ。ほどなくこの地は“混沌”に飲まれることだろう。
「この世界は終末を迎える。そう、君だけじゃない。僕達も負けたんだ……」
 レオズスは唇を強く結んだ。たまらず涙がこぼれ落ちる。
「なぜ! ルード達を……!」
 彼はデルネアの胸ぐらをつかみ、感情も露わに怒鳴った。
「聖剣の“力”を発揮出来るのは彼だけだというのに! “混沌”を消し去るのは彼の役目だったのに、それも出来なくなった! デルネア、君の責任は重い。君の魂こそ未来永劫呪われるべきだ! ……何より、彼らは僕にとってかけがえのない友人だというのに……失ってしまった」
 呪詛の言葉を聞いたデルネアは、苦悶にまみえた顔をレオズスに向けた。
「友を失っただと!? アリューザ・ガルドに仇をなした貴様などに言える言葉か!」
 その蝕まれた体のどこに力が残っているのか知れないほど、彼の言葉は強く放たれた。
「……そうかもしれない。君にとって僕は今なお、憎むべき存在なのに変わりはないのだろうし」
 レオズスは自虐的な表情を浮かべた。
「けれども、今となっては全ては虚しくなるのみ、かな。今はただ、静かに終末を受け入れるしかないようだね」
 それから、デルネアとレオズスは申し合わせたかのように、ともに北方を向いて押し黙った。

 もはや戦いは終結した。
 〈帳〉達とそして隷達も、レオズス達のもとに集まってきた。隷達はデルネアを取り囲み、手当を施そうとしたが、デルネア自身が無言で、しかし固く突っぱねた。
「みんな……ごめん」
 レオズスはそれきり言って、うつむいた。何か言葉を紡ごうと口を開くものの、それは音にすらならない。
「……もう、終わりなの?」
 力なく、サイファはぽつりとこぼした。その様子はまるで彼女らしくなく、生来のほとばしるような活気がみじんにも感じられない。
「ねえ! ライカ姉ちゃん達の――」
 いたたまれなくなったジルは、ディエルの袖を引っ張った。
「お前に言われなくたって、分かってるってば! 今、見ようとしている!」
 弟の言わんとすることを遮り、すぐさまディエルは自身の“力”――“法”と称される超常的な力――を用いるため、目を固くつぶり、音を発した。ディエルの体全体が淡い緑色の光に覆われる。
 ディエルの“法”によってルード達の“力”の所在をつかめたのなら、彼らは無事なのだ。奈落から救う手だては見当すら付かないが、今はとにかく無事でいてくれれば――。
 ディエルは目を閉じたまま、沈黙を続ける。
 それがサイファを不安にさせるのだろうか、彼女は両腕を組み、祈る仕草を取った。
「大丈夫、ルード達はまだ無事だって」
 ジルのいたわる声に、サイファはただ小さくうなずいた。

 しかし――なおも流転する運命は彼らに、希望を残していた。それは、残されたほんの僅かな希望。奇跡というものにほかならない。
「……みんな、まだ諦めるのは早いぜ」
 ディエルが目を開けて言った。
「かすかにだけど感じたんだ。ルードとライカ姉ちゃんは生きている!」
 重苦しい雰囲気が、やや軽くなる。ルードが戻れば、聖剣は彼のものとなり、本来の力を発揮するだろう。しかし、どうやって戻るというのか。
(そうか……!)
 〈帳〉は閃いた。そして彼は自分の考えを、奇跡のことを話した。
「ルード達はここに帰って来なければならぬ。そのかすかな希望を繋ぐのは――ライカ。今は彼女に託すしかない」
「ライカが……」
 サイファは、先ほどルード達が落ちていった奈落を恐々と見下ろした。

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七. 希望を繋ぐもの

 ライカが目覚めたのは、周囲に感じる異様さゆえだった。
 ライカの体を包んでいるのは、ねっとりと重苦しい暗黒のみ。それ以外何も無い。今、自分が落下しているという感覚はあるものの、本来そこにあるべきはずの音――風を切る音などはまるで聞こえてこない。落ちる、というにはあまりにも不自然な落下感であった。

 虚ろだった意識が次第に覚醒していく。そして、この異様な空間が自らの夢の産物なのではなく、現実のものだと知った途端、心臓が張り裂けそうなまでの悲愴感に苛まれた。
(そうだ! わたしとルードは落とされたんだった……!)
 ライカは自分の置かれた境遇をようやく認識し、感情にまかせるままに悲鳴を上げた。
 しかし、どんなに喚こうとも、その声はまったく響くことなく、暗闇の中に吸い込まれるようにうち消されてしまう。周囲を取り巻く暗黒は、他の介入を拒む意志を持つような、ずしりと重い威圧感を持ってして、音そのものの存在を否定した。そこにあるのは滅びをもたらす“混沌”ではなく、純然たる黒い色。安定した闇の世界。
 奈落の底の岩に叩き付けられるか、または凄まじい風圧による息詰まりによって、すでに命を落としていてもおかしくないはずだ。しかしライカの体は、底なし沼の中に沈み込んでいくように、深淵に向かってゆっくりと落ち続けていく。
(ルード?)
 重苦しい暗黒の中、ライカはルードの姿を探した。だが墨をまき散らしたかのような空間は夜の闇よりなお濃く、彼女自身の体すら暗闇の中にとけ込んでしまっていた。
 もし、ルードを見いだせなかったら――?
 ライカは最悪の事態を必死で否定しようと、ルードの名を呼ぼうとした。彼女の声は暗黒の中に消し去られるだろう。無駄な行いだとは分かっているが、ライカが何もしなければ、ルードの存在が闇の中へと失われてしまう――そんな強迫観念にとらわれそうになった。
 じわりと、熱いものが目の奥から沸き上がってくる。ライカはせめて泣くまいと、涙を拭おうとした。
 が、どうしたことだろう。右腕が重く感じられる。まるで手首が動かないのはなぜだろうか。だが、その感触は嫌なものではない。むしろ暖かく、心地よい――
(ルード!)
 手首をつかんでいたのは、ルードの右手だった。がっしりとした手が痛いほどに彼女の細い手首を締め付けている。その痛みがライカには嬉しかった。
 ライカは左手で涙を拭きはらうと、ルードの腕をつかみ、体を手繰り寄せた。今の彼には意識が無いのか、目を閉じたままだ。しかしルードの体は暖かく、確かな生気を感じる。ライカはたまらず、両の腕で彼を強く抱きしめた。
(よかった……生きてるのね)
 彼が目覚める様子はないが、無事であることが分かり、ライカは安堵した。

 ルードを抱きしめたまま、あらためて周囲を見回す。自分が本当に〈見回す〉という行為をしているのか、ひょっとしたら相も変わらずただ一点だけを凝視しているのではないか、と疑いたくなるように、暗黒はどこまでも濃い。ルードに頬を寄せても彼の顔が分からないほどに。
 天上と思われる場所を見上げても、漆黒が支配しており、一点の光すら存在する余地がない。
 自分達は今どこに行こうとしているのか?
 この奈落には果てがないことを、ライカは薄々感じ取っていた。死した後、世界の果てにあるという“果ての断崖”から落とされた、不浄な咎人《とがびと》の魂のように、自分達も救われることなく落ち続けるほかないのだろうか?
 死などは望むところではない。二人ともにまだ命を繋ぎ止めているのだ。同時にそれは死んではいないだけに過ぎない。自分達の状況はきわめて絶望的なのだ。この奈落から抜け出す方法など、ありはしない。
 けれども、ルードをこのままにしておくわけにはいかない。彼の意識はまだ戻らないが、息遣いを、力強い鼓動を感じるのだから。なんとしても必ず、皆の待つ大地へと帰還しなければならない。
 知らず知らずに、ライカの唇が彼の名前を呼ぼうとしているのに彼女は気付いた。
「ルード……」
 自分の声がかき消されないように、ルードの耳元に唇を寄せてライカは囁いた。
「ルード」
 再度呼びかける。
 が、彼の意識は依然戻らない。構わずライカは何度も呼びかけた。彼の名を呼ぶたびに、自分もまた勇気づけられるのが分かるから。

 何度呼びかけただろうか。ようやくルードの意識が戻った。まだ事態がつかめないのだろう、ルードもライカがしたように、周囲を見回しているようだ。
「ここは? ……そうか、俺達は落とされたんだっけな」
 彼の戸惑った声が伝わってくる。お互いの吐息が感じられるほど近くにいるというのに、くぐもった小さな声しか聞こえないというのは、あまりにもどかしい。ルードは落胆のためか、小さく溜息を吐いたようだ。
「落ちていってるのか。まるであの時みたいだな。……覚えてるか、ライカ? 俺達がはじめて会ったあの時を」
 そう。精霊のまやかしにあい、ライカがレテス谷の崖から落ちている間の一瞬だけ、アリューザ・ガルドとフェル・アルムは繋がり――全てが始まったのだった。
「あの時は俺がライカに触ったことで不思議な力が起きたんだ。けど、今はどうも出来そうにない、のかな……」
 もはやルードには為すすべが見つからないのか、聞こえてくる声は弱々しくもあった。

〈あの時――。〉
 ルードの言葉にライカは引っかかりを覚えていた。
(あの時、わたしはどうしていたんだろう?)
 絶望を追いやるすべが、答えはすぐそこにある。
 所在が曖昧になりつつある、数ヶ月前の記憶の糸。その断片を必死に探し、紡ぎあげ――
 ――ついにライカは知った。
 今、自分が出来ること。自分にしか出来ないであろうことを。そして、希望を繋ぐすべは今や、自分のみが持ち得ているということに。
(あの時の願いが聞き届けられなかったのは、ひょっとしたら今この瞬間のためなのかもしれない……)
 思いつつライカは、ゆっくりと目を閉じた。
 まぶたの裏に思い浮かべたものは、アリューザ・ガルド北部のアリエス地方。その山岳の小さな村、ウィーレルだった。そこは自分が住んでいた場所であり、ルードが連れて行くと約束してくれた、帰るべき場所。次に浮かんできたのはライカの家族。祖父。そして行方知れずとなってしまった父、母。
(分かる……分かるよ。どうすればいいのか。……父さん、母さん)
「大丈夫。ルードがわたしを守ってくれたように、今度はわたしが救ってみせるから!」
 そして、確固たる自信とともに、ライカは祈った。
(風の世界ラル。そして風の王エンクィ。今この時だけでいい。わたしに力を授けてください!)

 瞬間。それは起きた。

 ライカは落下がやんだのを感じた。ちりんと、鈴の鳴るような透明感のある音が聞こえたかと思うと、どこからか、小さく青白く光る球体が数個出現していた。それはライカ達の周囲を取り巻き回りつつ輪を形成した。その輪は次第に小さくなっていき、そして次には、輪の一端から延びた白い線状のものが、自分の内部にそっと、暖かく触れるのを認識した。
 と同時に、彼女の視界一面は、白一色に埋め尽くされた。

 強い祈りは自身の力を呼び起こし、そして――

* * *

「……来た」
 膝をつき、暗黒の奈落を長いこと凝視していたサイファはそうつぶやいた。
「来たって、何がさ?」
 ジルに訊かれたサイファは顔を闇から離すことなく、しかし笑みを浮かべて答えた。
「私達の希望が、よ」

 その時、ぽっかりと口を開いている暗黒の中から何かが浮かび上がってくるのをサイファは見た。白く輝き、時折ゆらゆらと揺れ動きながらも勢いよく暗黒の縁から出ようとしている。その白いものは見る見るうちに昇りあがり――ついに裂け目から飛び出した。
 ウェスティンの地にいる者達は一同、その様子に釘付けとなった。デルネアや隷もまた、ただ見入るのみ。
 信じられない。そのような面もちでレオズスはゆらりと立ち上がった。さすがのディトゥア神もあっけにとられたまま、今し方飛び出した白いものが宙に浮いているさまを、ただ見つめている。

 繭が割れるように、柔らかな白の中心が裂ける。中にいるのは間違いなく、ルードとライカだった。ライカはルードを抱きかかえながら、仲間に無事を報せた。ルードはライカにつかまりながらも、友人に手を振ってみせた。
 目を赤く腫らせたレオズスはようやく笑みを取り戻し、うなずいた。
「ああ……おかえり」
 レオズスが腰に収めている聖剣も、主人の帰還を喜ぶように、再び輝き始めた。
 ライカ達を包む白いものが再度、その存在を誇示するかのように上下に大きく動くと、それは次第にある“かたち”をとる。

 翼。

 今、ライカの背にあるのは、白く輝く翼にほかならなかった。風の事象界に属するため、本来は物質的な存在ではない二枚の翼はしかし、あたかもそこに実在するかのように大きくはためく。すると、数枚の羽根のようにも見える小さな粒子はきらきらと光り、地面へと舞い散った。
 空はいよいよ、灰色から暗黒へと変わり、“混沌”の襲来が間近に迫ったことを知らしめる。
 だが、そのような滅びをもたらす黒の中にあって、彼女の翼はきわめて幻想的に映る。希望をもたらしたライカが、神からの御使いであると錯覚したとしても、それは不自然なことではなかった。

《フローミタ アー ラステーズ コムト、アルナース……》

 思わず〈帳〉は、アイバーフィンの言葉をつぶやいていた。

“翼の民の娘よ、来訪を歓迎する”

 〈帳〉の館で、彼がライカにはじめて語った言葉でもあった。今やライカは、その名が現すとおり、翼を持つ者となったのだ。
 ゆっくりとライカは地面に降り立つ。と、彼女の翼は次第に小さくなり、彼女の背中へと消えていく。
 腐った大地の感触は、ライカの嫌悪感を呼び起こし、なおも差し迫る滅びを目の当たりにしているという現実を思い知るが、それでも再びこの大地に戻れたのは嬉しいことこの上ない。
「今、戻ったわ」
 一条の希望を繋ぎ止めたライカは、ぐるりと取り囲む仲間達に向かって小さく、しかし力強く言った。

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八. “光”と“混沌”と

 滅びの時が近づいている。
 黒い空は一時ウェスティンの地から退いたものの、消滅したというわけではない。
 かつてクロンの宿りを阿鼻叫喚に陥れた時のごとく、黒い空はいよいよ灰色の空を侵略し、今やウェスティンの地の上空を再び漆黒に塗り染めていた。
 漆黒の彼方には、さらに黒きものが明らかに存在している。
 宙の深淵たる闇よりもさらに絶望的なまでに黒い、あのように忌まわしくも超常的な存在は、色の概念一括りではもはや語り尽くせない。
 ありとあらゆる色の存在を拒絶する、まったく色無きもの。
 それこそが“混沌”。始源にして終末の存在。
 “混沌”が、漆黒の空の彼方から押し寄せる――黒よりもさらに黒い波を象り、北方からうち寄せようとしている。否、うち寄せるのではなく、覆い被さるという表現こそが相応しいのかもしれない。その波濤の上部は、おそらくはスティンの山々の頂よりさらなる高みにあるのだろう。
 この大津波の到来こそが、世界の終末を意味する。ウェスティンの地に覆い被さり、“混沌”のもとへと洗い流すその時、全ての希望は消え失せる。
 ほどなくフェル・アルム全土は、猛威を振るう始源の力を前にして、為すすべなく消滅するのだろう。しかし、“混沌”を追いやる力もまた、ウェスティンの地に存在していた。
 超存在に唯一拮抗する“力”と意志が。

* * *

 翼からこぼれでた最後の粒子がきらきらと輝きながら舞い降りる。それが地面に染みこむように消え去ってしまうと、周囲は再び暗黒に包まれた。
 ライカはぐるりと取り巻いている仲間達に微笑みながら、ルードの背中に回していた腕をそっとほどいた。
 ライカの翼によってウェスティンの地に帰還したルードは、あらためてアイバーフィンの少女のほうに向き直り、肩をつかんだ。
「ライカ……」
 ルードは愛おしげに、目の前の少女の名を呼ぶ。と、ライカはやや当惑しながらも、彼女らしい可憐な仕草でルードを見上げた。
 目の前にいるのはいつもどおり、飾ることのないライカの姿。さきほど闇の中から抜け出した際の彼女は、御使いのごとく神々しいまでの雰囲気をたたえていたようにも思えたが、実のところ彼女はあくまで彼女のまま。そんなライカを見ながらもルードは、安堵している自分に気付いた。
 飾ることがないと言うのならば、ルードも同じだった。
 セルアンディルの力を得、さらに聖剣所持者となった今となっても、自身が持ち得た“力”に増長することなく、あくまで自分自身を貫いている。
 ルードだけではない。宵闇の公子レオズスも、ドゥ・ルイエたるサイファも、栄華と絶望とをともに心に刻んでいる〈帳〉も、そして神の使徒たる双子も――彼らの持つ、奢ることない純朴な精神が互いに引き寄せ合ったのは、運命のもとによる偶然かもしれないが、彼ら自身が希望を生み出そうとしているのは必然であったのに違いない。
「ライカ」
「うん?」
 ライカの声。つかの間、思いに耽っていたルードだが、彼女が自分を見上げているのに気が付いた。ライカの顔をあらためて見つめると、ルードの心は詰まる。ルードにしてみれば、思わず名前を呼んだものの、次の言葉が浮かんでこない。何をしゃべればいいというのだろうか?
 感謝、歓び、愛おしさ――万感胸にせまったルードは、心の中に去来する全ての感情を、一片の言葉へと紡ぐすべを知らなかった。
 だからルードはライカを引き寄せ、言葉では伝えきれない想いを、直接彼女の心に伝えるかのように強く抱きしめる。
「痛いって、ルード……」
 そう言いつつもライカは拒む様子はなく、ルードの想いを受け止めるように、彼の背中にそっと手を回した。
 ややあって、二人はどちらからともなく、そっと相手から離れた。そのさまを揶揄《やゆ》すように口笛を吹いたのは――やはり金髪の青年にほかならなかった。
「さあルード、これで約束は守ったつもりよ?」
 ライカは、はにかみながらも笑ってみせた。ルードを守る、という約束は無事果たされたのだ。
「なら、最後に残ってる約束もちゃんと守らないとな!」
 ルードもまた、照れ笑いを浮かべながらもライカに言った。
「そう。破るわけには……いかない」
 今度は強い意志を込めて、ひとりごちた。超然たる事象の向こうにある、平凡な日常をつかみ取るのだ。

 ルードがあらためて周囲を見てみると、仲間達の輪から外れたところに、デルネアの姿を見いだした。座り込んだまま、皆とは――隷達とすらも――目を合わせようとしない彼は、自分と剣を突き合わせていた時のデルネアとは別人のように思えた。あの時の彼を包み込んでいた野心、覇気といったものが一切感じられない。自分のいない間にどういったことがあったのかは分からないが、デルネアをここまで打ちのめすほどの決定的な出来事が確かにあったのだろう。自身が望まざるにせよ、明らかにデルネアは敗北を受け入れていた。
 ぽん、と後ろからルードの肩が叩かれた。ルードは振り返ると掌をあげて、友人に軽く挨拶をする。こうして面と向かうのは本当に久しぶりの感がある。スティンで対面した時は、事態の異常性を前にして、再会の喜びなど感じるいとまがなかったのだから。彼は手を差しのばしてきた。
「よく、戻ってきたね。ルード君」
 普段と変わらぬ口調を保とうとするが、それでも震えて聞こえるのは、彼なりにこの再会には感慨深いものがあるのだろう。ルードもまた、再会を喜ぶように小さくうなずいてみせると、彼の手を握りしめた。
「……あんたもね。ハーン。いや、宵闇の公子殿と呼んだほうがいいのかな?」
「今までどおりで構わないさ。君からそんなふうに呼ばれると、どうも体中がかゆくなるみたいでたまらないからね」
 ティアー・ハーンは苦笑を漏らした。
「まあね、宵闇の公子レオズスなんて呼びかた、がらでもないよなあと思ってたんだ」
「久々に会ったのに、君も酷いこと言うなあ?! 僕だってディトゥア神族のひとりなんだよ?」
「そうは言っても、とてもじゃないけどハーンが神様だなんて思えないぜ」
 ルードはそう軽口を叩きながら、暗黒の空を仰ぎ見た。

 “混沌”の波はすでに上空まで至っており、いよいよ音もなく静かに、しかし尋常ならざる重圧をもって、全てを押しつぶそうとしていた。
「こいつが……」
 『これが“混沌”だ』と、そのあとに続けるべき言葉があったのだが、声に出してそのものの名を呼ぶことすらおぞましく、また恐ろしい。
 デルネアと相対した時とはまた異なる恐怖が、ルードを襲う。それは絶対的な存在を目にした時の人間の本能が呼び起こすであろう、畏怖の念なのかもしれない。ルードの足は知らずと震えだした。ライカもルードの袖にしがみつき、恐怖に耐えている。
「そう、これが“混沌”だよ。フェル・アルムに現れた“混沌”は、ほんのかけらに過ぎない。けれども、フェル・アルムの全てを滅ぼすには十分な力だろうね」
 ハーンは真摯な表情で天上を仰いだ。
「始源の力、“混沌”は、そもそもは世界が生まれた時と同じくして生み出されてしまった、負の極限の存在。これに飲まれたら最後、逃れることは出来ずに大地は消滅する。そして人間のように意志を持つ存在は、“混沌”の意識の一部に成り果て、永遠にも近い時間と向き合うことになる。けれども、そんな虚無と絶望の果てにある安定に、かつての僕は魅入られたんだ」
 宵闇の公子たるハーンは語った。
「ルード、君が戻ってくれたことで、世界を滅びへの道から逸らせるかもしれない。今、聖剣を返すよ。あとは――聖剣と、その所持者である君の行動に任せるほかない。さあ、もう今はしゃべる時間すら惜しいくらいなんだ。受け取ってくれ」
 ハーンは、刀身に輝きを取り戻した剣を差し出した。ルードは手を伸ばしながらも、ちらと横目でデルネアの表情を窺った。目を虚ろにしたまま、空の様子にすら関心を示そうとしなかったデルネアだが、ルードが剣を手に取ろうとしたその時、ぎろりとルードを凝視した。
 またさっきのように壮絶な死闘を繰り返すのか、とルードは動揺したが、もはやデルネアの眼差しからは、狂気じみた覇気をみじんも感じ取ることがなかった。
「ルードよ、我は敗れたぞ!」
 デルネアは吐き捨てるように言った。
「忌々しくも貴様の言ったとおりだった。聖剣は我のものにはならなかったのだ。だがこれで、貴様達が勝ったわけでもない――貴様が聖剣所持者だというのならば、為すべきことをやってみせるがいい」
 デルネアもまた、世界の行く末を見定めようとしている。彼自身の思惑どおりに世界が、そして人が動かなかったとはいえ、デルネアが世界を憂えているのに昔から変わりはない。
「その“力”を、我にみせてみろ」
 いつの頃からか心に芽生えた増長が彼を曇らせたとはいえ、デルネアもまた本質的には純粋なのであった。
「ああ」ルードは返答した。「聖剣の答えを、聞いてみる!」

 そしてルードはガザ・ルイアートの柄を両手で握り、目の前に戦うべき相手がいるかのように構えてみせた。
 剣の柄を通して圧倒的な“力”が流入してくるが、すでにそれはルードにとっては馴染み深いものとなっていた。しかし、聖剣の意志はさらに強まっていく。“力”のみならず、何か音にも似た感覚がルードの体を駆け抜けていく。ルードはこの感覚には困惑したが、聖剣の“力”を受け入れるべく力を抜くと、体を流れる音が次第に一つにまとまっていくのを感じた。やがてそれは一つの音となり、鐘楼の鐘のようにルードの頭に鳴り響いた。
「ガザ・ルイアート……」
 頭に直接入り込んでくるその音は、はじめ高らかなものだったが、次第に落ち着いた音色へと変えていき、優しくルードの心を包み込みながらも語りかけてくるようになった。ルードにとっては、その心地よい音が聖剣自身の声のように思えた。母親の子守歌のようにルードの心に染み入ってくる優しい音に、ルードは心の中で問いかける。
(“混沌”をうち倒せる方法があるというんなら、俺にそのやり方を教えてくれ!)
 頭の中の音は瞬間、止まった。まるでルードの問いかけに対して考えているかのようだったが、今度は幾重にも共鳴する、明朗な和音が奏でられるようになった。ルードは調べに聞き入りながらも、ガザ・ルイアートの意図することを必死に探った。
 ぽろん、と竪琴のように透明感ある音が鳴ったのを最後に、聖剣は語るのをやめ、ルードの頭に静寂が訪れた。
 その瞬間、ルードは為すべきことが分かったような気がした。それは自分にしか出来ないことではあるが、けして難しいものではない。余計な念は捨て無心となり、純粋なままに向き合えばいい。
(俺がやること……分かったよ。ガザ・ルイアート。それでいいんだな?)
 主人の問いに答えるかのように、ガザ・ルイアートは剣そのものから周囲に対して、きぃんと鳴り響く高らかな音を放った。
 それが止んだと同時に、刀身が暖かみを帯びた光に包まれる。剣全体を包みこんでいくその光はさらにまばゆさを増していく。
 ガザ・ルイアートは“聖剣”であることを放棄したのだ。

* * *

 ルードは柄を握りしめつつも、剣の変わりゆくさまを呆然と見つめるほかなかった。気が付くと柄の持っていた金属らしい感触、さらには剣そのものが持っていた重さそのものすらなくなっていた。
 有るものは、他を絶するまでの圧倒的な“力”。聖剣はここに至り、剣としてのかたちを放棄して、一つの絶対的な“力”としてのみ存在するようになった。
 “光”そのもの。

 ルードだけではなくデルネア、そしてその場に居合わせた全ての者が目を見張った。
 ルードは手元にある、棒状となった“光”の存在を見つめた。膨大な“力”を秘めながらも、優しく暖かい感じを併せ持っている。
「すっ……ごい」
 ディエルは一言漏らしたきり、言葉を失った。“力”を求めていた彼にとってすら、今のガザ・ルイアートを形容する言葉がないのだ。
「なんてこった……どれくらいの“力”を持ってるんだか、オレですら全然分からないなんてな……」
「まさか、あれは“光”だというのか?」
 〈帳〉が驚きの声をあげた。
 かつてのアリューザ・ガルドの魔導師達が、追い求めてついに得ることが叶わなかった魔導の究極、“光”の本質が今ここにあったからだ。

 アリューザ・ガルドにおいては、あらゆる生命・物質に魔力を帯びた何かしらの“色”が内在している。魔導を行使する際には、それらの色を物質から抽出し、あたかも織物のようにあやまたず、呪文を唱えながら編み込んでいくことで力場を形成する。出現した力場に対して“発動のことば”を唱えることによって、術が発動するのだ。
 “光”とは、全ての色を内包した究極の存在。世界に存在する全ての色を織り込んだ際に出来上がるとされている力場なのだ。

 その究極が今、このフェル・アルムにある。
 “礎の操者”、“最も聡き呪紋使い”と称された〈帳〉が、語るべき言葉を失うのも無理はなかった。
「ガザ・ルイアートは、いつの頃からか、僕らの想像を超越した存在になっていたんですよ」
 ハーンは〈帳〉に言った。
「もともとはルイアートスが創り上げた、土の加護を持つ剣だった。それが冥王との対決を経て、剣は思いもよらない力、つまり“光”の力を内包するようになって――そして今の“混沌”との対峙によってそれが顕在化した。“光”そのものの存在にまで、あれは昇華したんだ」
「……確かに、あれほどの“力”を魔導のように発動させれば“混沌”を追いやることも出来よう」
 〈帳〉の言葉にハーンが応じた。
「そればかりじゃあない。悠遠の彼方に封じられたかの黒き神――冥王ザビュールの存在を、今度は完全に滅せられるかもしれません」

 そしてハーンは、ルードをそして周囲の者達をも鼓舞すべく、明朗な声で高らかに歌い上げるかのように語った。
「さあルード! これが僕達の切り札だ! “光”をどのように使えばいいのか、僕には分からないけれども、聖剣所持者の君だったら分かるはずだ!」
「……ああ、分かったとも! ガザ・ルイアートが俺に教えてくれたよ」
 ルードは自信を持って答えた。ルードは天に向かって貢ぎ物を差し出すかのように、“光”をのせたまま両手を掲げた。
「行け、ガザ・ルイアート! その“光”をもって、“混沌”をうち砕いてくれ!」
 その言葉は、複雑な抑揚を持つ呪文でも、人間には発音不能な神族の言葉でもない、ごく普通のアズニール語だった。
 〈帳〉が訝しむ様子が見て取れる。しかしルードは分かっていたのだ。ガザ・ルイアートに対しては、事物の摂理や詠唱の法則などといった難しいことを考える必要などない。純粋に祈る気持ちのみが、この膨大な“光”を、大いなる“力”と変えて発動させる源になるのだ、と。

* * *

 果たして、ルードの感覚は的中した。
 ガザ・ルイアートであったその“光”は、主の命を受けたと同時にその手元から離れると、長く延びる一条の“光”となって天高くまっすぐ突きあがっていくのだった。“光”は凄まじい速度で上空に突きあがっていく。時折、樹から枝分かれした筋のように光の線が放たれ、そのたびにウェスティンの地一帯は明るく照らし出された。
 “光”の先端が槍のごとく尖る。そしてほどなくその穂先は、ウェスティンの大地を今や飲み込もうとしていた“混沌”の波の中心部に音もなく衝突する。大地に押し寄せようと、低くたれ込めてきた忌まわしい波は、“光”の突入と同時に動きが鈍り、やがて氷になったかのように動きを止めざるを得なくなった。
 “光”はなおも“混沌”の中へと突き進もうとする。だが“混沌”も必死に抗い、深々と突き刺さった“光”の穂先を強引に引き抜こうとする。“光”の侵入していく一点に力を凝縮させるべく、波を螺旋状に歪ませた。
 両者の接点には、この世のいかなる者すらも想像し得ないまでの超越した力が結集しているのだ。
 地上に残った者達は一同固唾をのんで、終末の空の様子に見入っていた。声をあげることすらままならないが、おそらくは誰しもがルードと同じ願いを持ち、状況を見つめていることは違いないだろう。

 突如、世界そのものを揺るがさんばかりの轟音が、地上と空を支配した。
 それは“光”と“混沌”の、両者があげる勝ち鬨の咆哮のようでもあり、またお互いの力に抗うべくして発する苦悶の叫び声のようでもあった。
 やがて、“混沌”に突き刺さった“光”の中心部から放射状に、幾千に及ぶとも思われる稲妻のような細い光の筋が放たれる。その各々は空に沿うように筋を伸ばしていくと容赦無く“混沌”に襲いかかる。暗黒に包まれていた空一面が煌々と輝きを放った。
 “光”の力が徐々に“混沌”の内部に浸透し――そして空そのものが大きく揺らぎ、大地も呼応するかのように激しく揺れ動いた。見上げていた者達も、もはや立っていることが叶わず、地面にへばりついた。
 大地の鳴動に耐えきれず、ルードも突っ伏した。腐りかけた大地の粘質はやはり気色悪いものだったが、すぐ近くには、暗黒へと続く穴を空けたままの断崖がある。またしてもあの奈落の底に落ちるわけにはいかない。ルードはその場に踏みとどまろうと、必死で手近の土を握りしめた。地に伏せたルードが感じていたのは、体が引き裂かれるような轟音と、激しく波打つ大地の揺れ。それらは永遠に続くかのように繰り返されていく。
 ルードは恐怖におののいたが、意を決して体を返し、上空のさまを見上げた。
 ルードの目を捉えたのは、くらむばかりの“光”が空全域に広がっていくさまであった。それを見た途端に、まるで意識が吸い取られるかのように、ルードは動けなくなった。

 “光”と“混沌”がせめぎ合う戦いはなおも続いていたが、ついに天上で大音響が轟きわたった。その音は断末魔のようであり、この世の何ものもが出しえないような邪悪と、憎悪と恐怖を兼ね備えた、恐るべき音であった。しばらく大地も空も、その鳴動に任せるままに揺れ動いていたが、やがて静まり、静寂が訪れた。

 そうして、ルードが我に返った時、空からは黒い色が払拭されており、ただただ虚ろな灰色のみをぼんやりと映していた。この空虚な薄墨は、もはや空とも天上ともつかぬ、何ものも存在しない空間となってしまったが、これが一つの結果であることをルードは知った。

 “光”が、“混沌”を追いやったのだ。

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