『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 序章

一.

 ユクツェルノイレ湖。
 それは、フェル・アルム北部と南部を隔てるようなかっこうとなっている湖であり、フェル・アルムの創始者、神君ユクツェルノイレをたてまつっている聖なる湖でもある。

 千年前、フェル・アルムに秩序をもたらしたユクツェルノイレ。
 しかし実はフェル・アルムの千年の歴史が偽りのものである、などと誰が信じようか?

 ユクツェルノイレ湖から流れ出るフェル・クォドル河の流域は、二十メグフィーレ四方、広大かつ肥沃な平野となっている。それゆえフェル・アルム南部域には数多くの町や村が点在し、町と町を結ぶ街道には人の行き来が絶えない。
 春を迎えて二ヶ月あまりが過ぎた。すでに初夏の日差しが降り注ぐようになったというのに“中枢都市群”と称される南部域は、帝都アヴィザノを中心に置いているため、未だに建国千年祭が華やかに催されていた。

 鉱山都市オルファンもそんな街の一つだ。
 中枢都市群の南はずれに位置し、農業が産業の中心となっている南部域にあって、唯一鉱業が盛んな街である。
 今夜は十日ぶりに祭りが行われているものの、鉱山を閉めるわけにもいかなかった。ラーリ鉱山は良質の鉄を産出するためだ。町の男達の何割かは不平を漏らしながらも、今日も坑道に潜っていた。
 後《ご》六刻も過ぎになると男達はようやく仕事を終え、めいめいの家に戻る。活発な者はその後で祭りに参加するのだろう。
 そして彼らは感謝を新たにするのだ。今ある平和に。そして、この地に平穏をもたらした神君ユクツェルノイレに。
 今日一日も平穏に終わるものと、誰も信じて疑わなかった。

* * *

 彼は、目の前の光景が未だに信じられなかった。狂気の一歩手前の冷静さ。怯えきった自分の息遣いのみが、やけにはっきりと聞こえる。叫ぶことも、逃げることも出来ない。自分の身が死に直面している、というのに。
 のそり。地を這いながら、“それ”は暗闇から現れた。夜のとばりに包まれているというのに、球状の漆黒が存在しているのが彼にも分かった。
[うわあああああ!!]
 男の精神はとうとう破綻し、狂気が彼を覆い尽くした。這い出てきた異形の“それ”を間近で見てしまったがために。フェル・アルムの常識では考えられないもの。存在すら許されないもの。
 男の奇声は次の瞬間止んだ。ぐしゃり、という鈍い音とともに。男の頭を“それ”の腕がつぶしていたのだ。首を失った男の胴体が、どさり、と無造作に倒れた。
 爛々《らんらん》と輝く三つの赤い目を細め、“それ”は天に向かって吼えた。その鳴き声は人のものでも、獣のものでもない。大地に響くような低音と、空気を引き裂くような高音。双方の入り交じったこの世ならざる声は、人気《ひとけ》のないラーリの山中にこだました。
 “それ”はしばらくして、元あった暗闇の球の中に還っていった。しかし漆黒の球は消えることなく、ゆっくりと、動き出したのであった。

 この夜、空が星一つない空虚な暗黒に包まれていたことを知る者は、ごくわずかであった。

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二.

 ぽつり……。
 雨の滴が金髪の青年の頬に一粒、二粒落ち始めた。それまで寝ていた青年はびっくりしたように声をあげて飛び起き、彼の馬のところに走った。
「まさか、眠りこけちゃうなんてね……」
 青年は馬の荷物からテントを取り出すと、早速テント張りを始めた。

 ハーンが〈帳〉の館を旅立ってはや一週間。遙けき野越えは今日無事に終わり、夕暮れ時には緑で覆われた草原に辿り着いた。安心感からか彼は草の中でまどろんでしまったのだ。おそらく今はすでに“刻なき夜の時間”――深夜になってしまっているのだろう。
「まずいね……風邪引いちゃうなぁ」
 テントはひとり用の小さなもので、すぐに組み上げられた。
 彼は次に、聞き慣れない言葉で二言三言つぶやいた。すると彼の周囲のみ、雨が避けて降るようになった。ハーンが時折使う魔法――“雨よけの術”である。幸いにもこれは通り雨のようだが、ハーンは、雨粒がテントを叩く音を好きではなかった。

『ハーンって、変なところで神経質なんだもんなぁ』

 館に残してきた友人のぼやきをふと思い出し、ハーンはほくそ笑んだ。そして、完成した術によって雨が避けていくのをハーンは満足げに見回し、テントに入ろうとした。
(……何!?)
 刹那、寒気が彼の全身を通り過ぎた。かつて、一度だけ味わった悪寒である。ハーンは空を見上げた。その顔が急に険しいものになる。
(まただ……)
 頭上の空は雲に覆われているが、西のほうは雨雲から天上が時折見え隠れしている。その空はいつになく黒く、星をまったく映さない。あるのはただ、空虚な暗黒のみ。
 その時、彼の腰にある漆黒の剣“レヒン・ティルル”が、かすかに震えているのがハーンに分かった。闇の波動に包まれた剣は、暗黒の空の存在を喜んでいるかのようだった。もし剣に意志があるとするのなら。
「違う。あの空はお前のためにあるのじゃない。同調してはいけないよ。あれはお前などには過ぎる暗黒なのだから……」
 幼子を諭すかのような口調で、彼は剣に話しかけた。
(太古の“混沌”……か。さすがにあれには太刀打ち出来ないな。ルード君とガザ・ルイアートに賭けるほかない……)
 ハーンは剣の柄をなでながら、想いに耽ていった。
 大きなあくびが出る。
「だめだ……疲れちゃったよ。……もう、何にも考えないでとっとと寝てしまおっと!」
 言うなり彼はテントの中に潜り込んだ。また明日考えればいい。星なき空も、そしてデルネアのことも……。

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三.

[またしても星が消えた……か。〈隷《れい》の長《おさ》〉よ、我《われ》を尖塔に呼びだしたのは、これを見せるためか?]
[はい、〈要〉《かなめ》様。空をご覧下さいませ。空間に“変化”の兆しがある時は、決まってこのような空になっております]
[……ふん。見ていて気色のよいものではないな。しかも、このひと月半のうちに二回も起こるとはな。外界からの干渉が未だ収まっていない、というのか……。“疾風《はやて》”のひとり――北に向かった者の消息が絶っているそうだな? その後、何かつかんだか?]
[いえ、かの者からの報告は……スティン高原の麓、ベケットからが最後です。『確信に近づいた』……と。おそれながら〈要〉様、私はそれ以上存じません]
[ふん。……隷どもを統率する貴様がそのていたらくとはな、失態としか言いようがない]
[……は……申しわけございませぬ]
[あとの“疾風”どもは? 何かしらの情報をつかんでいるのか?]
[は、そのほかの者は全員帰還しておりますが、何も……]
[ふむ。……では、“疾風”どもをみな北に回せ。スティン周辺を徹底的に調べ上げる必要がある]
[承知いたしました。早速その旨連絡いたします]
[安穏とはしておれぬぞ、〈隷の長〉。“疾風”より、逐一状況を受け取るよう、体制を整えておけ]
[はい。ほかの隷達を総動員いたします]
[……貴様、今の状況を甘く見ておるのではあるまいな? 我が世界がほつれつつある、というのだぞ]
[承知しております]
[……〈隷の長〉よ、次の失態はないぞ。失敗をした時は貴様は無くなるものと知れ。……我は森へ戻る]
 〈要〉――デルネアは自らの下僕にそう言い放つと、身を翻し、ひとり塔を降りていった。

 塔と宮殿を結ぶ渡り廊下からは、帝都アヴィザノの様子が一望出来る。デルネアはしばし留まり、眼下に広がる深夜の街を眺めた。
 数刻もすれば、いつもと変わらない朝がやってくる。デルネアは自分の寝所に向かっていった。途中、“せせらぎの宮”の中庭で、王宮付きの使用人らしき女と出くわした。こんな深夜に出歩くことは、王宮の人間であっても許されない。それを分かっていてか、女は急ぎ足でデルネアのすぐ側を通り過ぎていった。まるでデルネアが存在しないかのように。
 女が彼を無視したのではない、デルネアが自らの気配を完全に消していたため、彼女は気付かなかったのだ。たとえ人の行き交う昼間であったとしても、気配を消したデルネアに誰ひとり気付くことはない。
 “天球の宮”直属の、デルネアに絶対服従する術使い――“隷”以外、デルネアの存在を知る者はいない。それがフェル・アルム国王――ドゥ・ルイエ皇であってもだ。
 要――物事を動かす要所。デルネアは自分の呼称をたいそう気に入っていた。
 せせらぎの宮に入る前に彼はふと足を止めた。
「我が世界がほつれつつある……か」
 デルネアは再び頭を空に向けた。それまで空虚だった空は、幕が開けるかのように、東から西へと順に星を映しはじめた。
(〈帳〉……)
 恋い焦がれる想い人を呼ぶかのように、デルネアはかつての友人の名をそっと心の中でつぶやいた。
(今の我の心境が分かるとしたら、お前は笑うか? この世の危惧を初めて感じている我を。だが我は我の為すべきことを為す。この平穏な世界を、永久に存続させるためにな……)

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四.

 市街を取り囲む城壁から陽の光が市内に射し込む。帝都アヴィザノは朝を迎えようとしていた。
 前《ぜん》一刻を知らせる鐘が鳴り、城壁に立つ四つの砦からラッパの音が市内に響く。人々の生活がまた始まるのだ。
 『せせらぎの宮』と称される石造りの宮殿には、フェル・アルムの政を司る王家の人間達が居住する。朝のラッパの音を聞きつけた宮廷付きのタール弾き達は静かに、めいめいの旋律を奏で、中枢の人間達に朝の到来を告げるのだ。

* * *

 彼女は朝の日課として、例のごとく図書室で歴史書を読み耽っていた。凛とした瞳が文字を追う。漆黒の髪を掻き上げる動作にすら、知性を感じさせる。年齢は二十歳をようやく過ぎたころで、少女という世代から脱却しようとしていた。
 名をドゥ・ルイエ。六年前亡くなった父王からその座を引き継いだ、フェル・アルムの王である。
 美麗な顔と黒髪。切れ長の瞳は知性と情熱を醸し出している。ただ、女性にあまり似つかわしくない言動が、令嬢としての気品をわずかながら失わせている。もっとも、それに異を唱える者など存在しなかった。王としてのカリスマが、言動すらも魅力に変えてしまっていたから。王になる前も、なったあとも、宮中を抜け出しお忍びで町を歩き回ることしばしばで、気さくな態度から、民からは慕われていた。
 ふと彼女は入り口に人の気配を感じ、視線を本からあげた。

[ようございますか、サイファ様]
 戸口のところに立っているのは、乳母のキオルだった。ルイエが本名を呼ぶのを許している人間は、そう多くない。ドゥ・ルイエとはそもそも、神君ユクツェルノイレの息子の名前であり、フェル・アルムの主が代々受け継いでいるのだ。
[構わぬ、入るがいい]
 ルイエは少し顔をほころばせながらキオルを招いた。
[今朝もお元気そうで何よりです]
 キオルは朝の挨拶をした。
[そう見えるか……?]
 ルイエはそう言って大きくあくびをしてみせた。
[……陛下、はしたのうございます]
[ああ、分かっている。でも、どうもここのところ夢見が悪くてな、ろくに寝つけぬ]
 ルイエはそう言いつつも、もう一度あくびをしてみせる。キオルは少し眉をひそめながら見ていたが、思い出したように話し出した。
[そうでした。陛下、司祭様が陛下に話をしたいとおっしゃってます。身を整え、空の宮にお越しくださるようにと]
[司祭殿が!?]
 司祭の名を聞いた途端、ルイエの表情が厳粛なものに変わった。

 司祭。有事の際、神より神託を受け、ドゥ・ルイエにその旨を伝える存在。司祭の地位は、高位の大臣と同格のものではあるが表だった活動を行うことはない。それゆえ存在を知る者は宮廷でも限られている。

[分かった。すぐに向かう]
 言うなりルイエはすくと立ち、キオルを従わせながら、身支度を整えるために自分の部屋へと向かった。
(一体……なんだというの?)
 嫌な予感がしていた。サイファが王となってからの六年間、今まで司祭と会ったことなど無かった。ところがついふた月ほど前、彼と初めて対面したのだ。

『“神”は不穏な動きを感じ取られています。“疾風”を全土に展開していただきたい』

 あの時、司祭はそれだけ言い残すと去っていった。いくらドゥ・ルイエであるとはいえ、司祭の告げる神託は絶対であり、腑に落ちないながらもルイエは、“疾風”――中枢の陰に生きる、刺客――を総動員させたのだった。
 あれからそう時間が経っていないというのに、また自分を呼び出すのはなぜか? ルイエは不安に苛まれた。

 せせらぎの宮を出て、二十フィーレほど北に進んだ小高い丘の頂上に、空の宮はある。玄関を入ると、こじんまりとしているが天井の高い部屋がある。ステンドグラスが周囲を囲むほか、全く何もない真っ白な宮。司祭は一体ここで何をしているというのか。
[陛下、よくお越しくださいました]
 しゃがれた声を出しながら、司祭は両手を広げ、ルイエを歓迎した。一見恭しい態度にみえるが、その実、冷徹な感情をにおわせている。司祭という立場抜きで、ひとりの人間としてみた場合、ルイエはこの老人に嫌悪の情を抱くだろう。
[世辞はいい。あれからふた月も経っていないというのに……また何かご神託が降りたのか?]
 ルイエはぶっきらぼうに言い放った。
[左様です、陛下。私はかつて、あなた様のお父上に神託を申し上げました。もう十三年も前になりましょうか……]
[ニーヴル――反逆の徒を討つために“烈火”を――中枢麾下の精鋭の戦士達を出撃させた、と聞いている]
[そうです。そして、私は陛下にまた一つ、重要な神託を告げねばなりませぬ]
[……司祭殿、一つ私のほうから質問をさせていただきたいが、よろしいか?]
[何なりとどうぞ]
[二ヶ月前に貴殿からの神託を受け、私は疾風を各地に送り込んだ。だが結果、特に異常は無しと聞いている。あの時の件と、貴殿が今言われようとしている神託と、何か関係があるのか?]
[大いにございまするぞ陛下。また、陛下は一つ失念しておいでです。疾風のひとりが北方スティンにおいて消息を絶っていることを……表沙汰にはしておりませぬが、これは捨て置けますまい]
[そうであったな、失礼をした。確かに忘れていた]
 ルイエは憮然と言う。
(細かいところをちくりちくりと刺してくる……苦手な男だ)
[では、神託を申し上げましょう]

 司祭があまりに唐突にその言葉を言ったため、ルイエの胸は締め付けられた。罰を申し渡される直前の罪人は、このような感情を抱くのだろうか、彼女はそんなことすら考えた。ルイエの胸中と裏腹に、司祭――〈隷の長〉は語り始めた。
[大いなる“神”クォリューエルが、神君ユクツェルノイレに告げた言葉を申し上げます。スティンの地において不穏な匂いあり。それはかのニーヴルをも凌ぐものであるとのことです。災いの種を調べ、取り除くため、全ての疾風をスティンに送り込むよう。災いが大きくなる兆しがあれば、すぐさま“烈火”を差し向けるよう、陛下にお願い申しあげます]

 そして、中枢が動いた。

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五.

 中枢が動き始めた、その夜のこと。
 アヴィザノの西、半メグフィーレほどのところに、果樹園――ロステル園があった。小高い丘には一面草木が生い茂り、その所々に果物畑があるのだ。子供にとっては難儀な場所であるのだが、この夜、一つの小さな影が動いていた。
「まったく、ジルのやつめぇ……」
 草木をかき分け、小さな影はとぼとぼと歩いている。十をようやく過ぎたくらいの少年は、まだあどけない声で、二十回目の悪態を付いていた。
「オレのいっちょうら、ずたボロにさせやがってぇ……」
 枝や、いばらの棘などに引っかけたため、少年の服は至る所ほつれていた。
「大体あいつの力が未熟だからいけないんだ。ちっくしょう、“転移”の途中でオレだけ落っことしやがって……ジルは今頃ふっかふかのベッドで高いびきでもしてんだろうなぁ」
 ぶつぶつぶつぶつ、少年の愚痴は続く。
「腹……へったよぉ……」

 半刻も歩き通し、少年がさすがに弱気になった時、ようやく道が開けた。下り坂を装飾するアーチ状の蔦のトンネルの向こう側に、アヴィザノの外壁が見えたのだ。少年は思わず拳をぎゅっと握りしめる。
「やったぁ! 見てろジルめ、のうのうと寝てたら、たたき起こしてやるからなぁ!」
 少年は変わらずの悪態を付きながらも、顔をほころばせた。

 その時。“闇”が現れた。周囲が夜のとばりに包まれているというのに、それよりさらに暗く禍々しい漆黒が出現したことを少年は知った。暗黒の球は、蔦のトンネルを音も出さずに上ってくると、少年の眼前で停止した。
 のそり。
 地を這いながら、“それ”は現れた。フェル・アルムの常識では考えられないもの。存在すら許されない異形のもの。三つの赤い目が爛々と輝く。
「へええ……」
 少年の口からこぼれた、拍子抜けした声は、恐怖のゆえか、それとも――。
 ぐしゃっ
 一瞬後。鈍い音がした。

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六.

 帝都アヴィザノは次の朝を迎えた。
 晴れた空に靄がうっすらとかかるさまは、何とも幻想的だ。宮廷仕えの楽士達が奏でる朝の音楽も、ゆったりとした心地のよいものであった。今日一日がよき日であるよう、人々は偉帝廟《いていびょう》に眠るユクツェルノイレに祈るのだ。
 だが、鏡の前のこの女性の顔は、憂鬱そのものだった。
[酷い顔……]
 ルイエはろくに寝付けないまま、朝を迎えていた。

 昨日の朝方に神託を聞いた後、ルイエは即座、中枢の刺客達を北方に回すようにと命令を下した。これは異例のものであったが、彼女の姿勢は国王らしく毅然としたものであった。
 しかし。
(私ごときが、人々の命に関わるような決断を下していいものだろうか?)
 その後自分の部屋に戻ってきてから、答えの出ない疑問に頭を悩ませた。自分が発した言動が意味すること、その重圧に耐えかねて、寝屋《ねや》に入った後、ひとり泣き明かした。
 物事を進めるためには、何かしらを切り捨てて行かねばならない時がある。それが非情の決断であったとしても。王という、人々を先導する立場であれば、なおさらだ。ただ、それを理屈で理解していても、感情的に割り切れるようになるほど、彼女は大人ではなかった。

 ばふっと音を立てて、ルイエはベッドの上に横たわる。しばらくうつ伏せのまま、突っ伏していた彼女だったが、
[……決めた!]
 小さく宣言した。

[サイファ様ぁ!?]
[すまぬ、キオル。夕刻には戻る!]
 ルイエ、否、サイファは早足で歩きながら後ろ手に髪を縛りつつ、キオルに言った。キオルは信じられない面もちだった。サイファを起こすために彼女の寝室の扉を開けた途端、サイファがあわただしく出ていくのだから。しかもその格好たるや王族の衣装ではなく、市井の少年のような姿なのだ。
[陛下ぁ!!]
 呼び止めたところで無駄なことは、キオルにも分かっていた。お忍び姿で表に出ようとしているサイファを止めたことのある者は、宮廷広しといえども存在しなかった。
[陛下ぁ……!!]
 廊下には、キオルの情けない声のみがこだましていた。

* * *

 昼下がり。噂を聞きつけた近郊の人々で、ロステル園は異様な混み具合となっていた。化け物がぐちゃぐちゃになって死んでいる、と言うのだ。百人ほどの大人が、果樹園の入り口でたむろしている。
[ほらほら、子供の見るもんじゃないよ! 帰んな!]
 化け物を一目見ようと繰り出した人々の固まりから、十歳を少し過ぎたばかりの少年がはじき出された。
[ひゃっ!]
 少年は、可愛い悲鳴を上げながら、どつかれた後頭部をさする。
[いたいよ! 大体コブつくってるとこをわざわざ叩くこたないだろが!]
 少年は少し涙目になりながらも悪態を付いた。
 大きなコブをつくったというのは昨晩遅く、苦労の末やっと宿に辿り着いた兄が、安穏と眠っている弟への腹いせに思い切り殴った、という経緯がある。もっともこれは弟――ジルが主な原因をつくっていたわけであるが。
「くっそう……ディエル兄ちゃんの馬鹿野郎」
 そうは言いながらも少年ジルは、再び固まりの中に入っていこうとする……が、その甲斐もなく、再び押し出された。
 そのまま後ろ足でふらつくジル。こつんと、 背中に何か堅いものが当たって、しりもちを付いた。それは人の脚。見上げると、端整な顔立ちの若者が立っていた。

 しばし見つめ合う二人。
[なんだよ兄ちゃんは? ……いてっ]
[男に見えるってぇ? 私が……!]
 ジルを軽くこづいた若者は、腰に手を当ていささか機嫌悪そうに言った。
 ジルはズボンの埃を払い、起き上がるとまじまじと若者を見た。服装から見るに、華奢な美少年と言えなくもない。だがその顔立ちと艶やかな髪は女性のそれであり、何より胸の膨らみが明らかに女性を主張していた。ジルは目をしばたかせ、そして一言。
[姉ちゃん。も少し女らしく振る舞わないと、お嫁のもらい手無くなるよ?]

 ごんっ

 一瞬後。鈍い音がした。
[いっっってえ!]
 ジルは頭に二つ目の小さなコブをつくる羽目になった。
[なんだよう?! 子供の可愛い冗談じゃないかよう]
[人が気にしていることを、ざぐりとえぐるからだ]
 黒髪の女性は、ぶっきらぼうに言い放つ。
[しかし……この人混みはなんだというんだ?]
[なんだ、姉ちゃん知らないのか? 昨日の夜、ここで大事件があったんだぜ? なんたって、得体の知れない化けもんが倒されたってんだからなぁ!]
 ジルは、まるで自分が倒したとでも言うように、胸を張って威張った。実は兄の為したことだというのに。
[で、それを見ようとこの人だまりか。坊やも見に来たのか?]
 彼女は、幾分柔らかな口調でジルに語る。
[坊やだぁ? おいらはジルって名前があるんだ!]
[そう、すまなかったね、ジル]
 彼女は膝をかがめ、目の高さをジルに合わすと、先ほど自分が叩いた頭をなでた。
[私はサイファ。ジルも化け物を見に来たの?]
[そうなんだ。でもさ、大人って頭堅いんだよね。『子供の見るもんじゃない』とか言って見せてくれないんだ!]
 サイファは破顔した。ジルが口をとがらせて文句を言う姿があまりに可愛かったからだ。
[そう……見たいのか?]
 サイファはそう言って顔を突きだし、ジルとの顔の距離をいっそう近くした。ジルは照れて、顔をほのかに赤くしたが、次の瞬間には目をきらきらと輝かせた。
[見せてくれるの?]
 サイファはうなずいた。
[男っぽいだの、嫁のもらい手がないだの、金輪際言わないと誓うならね]
 そうは言っても、どうしても口調が男っぽくなってしまうのに気付く。性分だから仕方ないのだが。
[へっ……。そんなこと言わないさ。うん、イシールキアにかけて言わないよ!]
[いしー……なんだって? よく分からないが……まあいい。ほら]
 サイファは体をさらにかがめると、ジルに催促した。
[え、何?]
[肩車してあげるから、乗りなさい]
[いいの?]
[見たいんだろう]
[う……うん]

[ちょっと、ごめんよ]
 サイファは少しでも見えるようにと、人混みをかき分け前に進んだ。とは言え、サイファの背丈では前方の男達の背中の隙間から、かいま見るのがやっとである。
 人の列が少し動いた。その時、彼女は一瞬だけ“それ”を見た。人と獣と爬虫類の様相を併せ持ったような、おぞましい化け物の死骸を。
[うわ……]
 サイファの頭の上からのジルの声も、言葉に詰まり、何を言ったらいいのか分からない様子だ。
 『化け物』と呼ばれている真っ黒なそれは、頭と思われる部分を粉砕され、地面にその巨躯を横たわらせていた。異形の身体はすでに朽ちかけていたが、死体が発するであろう臭気が一切しなかったのが、かえって不気味であった。
 目の前の化け物は〈いきもの〉ではない。“太古の力”の尖兵たる魔物だ。そのことを知っている人間は、この閉じた世界フェル・アルムに存在しない。
[うっ……]
 サイファはその骸の異形さに吐き気を催し、顔を背けた。
 ジルは表情も変えず、化け物を見つめて一言。
「兄ちゃん……倒すにしても、もっときれいに倒しといてくれよな……」
 ひとりごちたその非難の声は、誰の耳にも聞き取れなかった。今の言葉は、フェル・アルムの言語ではなかったからだ。
[姉ちゃん、大丈夫かい?]
 ジルはフェル・アルムの言葉に戻すと、心配そうにサイファに訊いた。サイファはうなだれ、化け物から目を背けたままだ。
[いいよ、姉ちゃん。どんなもんなのか、おいらも分かったからさ、ここから出ようよ!]
 サイファはジルの年齢不相応な気遣いに苦笑しつつ、その場から立ち去った。

 その後の道中で、サイファとジルはすっかりうち解け、アヴィザノ市内で別れた。また会うことを約束して、二人はそれぞれの場所へ戻る。
 サイファはせせらぎの宮へ。
 ジルは、彼の兄の待つ宿屋へ。
 鬱屈した気分晴らしにと、ロステル園まで足を運んだサイファは、そこで出会った少年と息があった。共通点などいくら探しても出てきそうにないその組み合わせは、傍目から見るとさぞ奇妙だったろう。
 これが、ドゥ・ルイエ皇サイファと、双子の少年の片割れジルとの出会いだった。

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七.

 フェル・アルムを包む封印。それがほころびつつある今、それぞれの思惑で前進しようとする者達がいる。

 ルード。
 ライカ。
 ハーン。
 〈帳〉。
 デルネア。

 そして、ほころびをくぐり抜け、二人の子供がこの世界に降り立った。

 ディエルとジル。

 片や異形のものを苦もなく倒し、片や空間を渡る。人ならざる力を持った、しかし無邪気な子供達。なかば気まぐれでやってきた二人が、運命の五人にもたらすものは何なのだろうか?

「どう? 兄ちゃん?」
 アヴィザノの宿の一室にて。ジルが訊いている相手は、彼とそっくりの姿をした少年だった。あえて違いを挙げるとすれば、ジルのほうが髪の色素が薄いという点くらいだろうか。
「……ここは見た感じ平和そうな世界だが……どっかに違和感がある。……見つけたぞ、“力”だ! 一つはこの都市のどこかにでっかい“力”を持つやつがいるな。それから……ずっと北のほうに……これ、剣か? ……すごい“力”を持ってんな……」
 ジルの双子の兄、ディエルは目をつぶったまま何かを感じとっている。彼が“力”と呼ぶ何かを。
「この世界……今までは封印が強力で行けなかったけど、封印が弱まった今、入ってきて正解だったかもしれないな。なかなかに面白そうじゃないか。おい、ジル!」
 ディエルは目を開けるとジルに命じた。
「オレは剣が気になるんだ。多分よ、オレ達が今まで見たことがないくらい、とんでもない“力”を持ってるぜ、こいつ。……だから、オレを北の……」 と言って、フェル・アルムの地図上、遙けき野あたりを指さす。その場所は的確に、ルードが所有するガザ・ルイアートのありかを示していた。
「……このあたりに飛ばしてくれ。ジルも一緒に来るか?」
 ジルはかぶりを振る。
「この街にもでかい“力”があるって言っただろ? だったらおいらはここで探りを入れてみるよ」
「とか言ってよ、お前の言ってた姉ちゃんに会いたいだけなんじゃないの?」
「うん」
 無邪気に即答するジルに、ため息をつくディエル。
「お前って、きれいなお姉ちゃん見るとすぐそれだもんなぁ……そりゃあ、オレも会ってみたいけどな……」
「ダメだよ。サイファ姉ちゃんに可愛がられるのはおいらひとりで十分だもん。兄ちゃんはとっとと……」
 ジルがこめかみに指をあて、何かつぶやくのを聞き、ディエルは慌てた。
「……! ちょっとまて! 今度は間違わずにちゃんと飛ばせよ! またへんなとこ……」
 ディエルの言葉が終わらないうちに、ジルの力が発動した。ディエルの身体が球に包まれたかと思うと、次の瞬間消え失せていた。
「いってらっしゃーい!」
 ディエルがさっきまで座っていたベッドに向かって、ジルはにこやかに手を振った。

 そして――。
 この日を境に、フェル・アルムの夜空を覆うはずの星達が一切見られなくなった。
 空虚な暗黒はついに、夜空を支配してしまったのだ。

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