『フェル・アルム刻記』 第一部 “遠雷”

§ 終章

一.

 〈帳〉の館にルード達が辿り着いて、一ヶ月が過ぎようとしていた。

「ハーン! 起きろぉー!」
 ルードは扉に向かって呼びかけた。しかし返事がない。仕方なくルードは扉を強く叩き、もう一度声をあげた。すると扉の向こう側から、いかにも眠たそうな声が帰ってきた。
「ルード君……お願いだからもう少しだけ寝かせてくれよぉ」
「なに言ってんだよ。剣の稽古をつけてくれるんだろ? それが俺達の日課なんだぜ?」
「今日は休んでもいいよ。僕が許すからさぁ……」
 ハーンの気のない返事にルードはさすがに頭にきた。彼は無理矢理にでもハーンを起こそうと、大きな音を立てて扉を開け、ハーンの部屋にずかずかと入っていった。
 ハーンは毛布にくるまるようにしてベッドで寝ていた。ルードは毛布に手をかけると、力ずくでそれを取り払った。
「ああ……僕の毛布……」
 ルードが取り去った毛布を、ハーンは名残惜しそうに見つめていた。
「さあ、もういい加減にして起きろってば! 今日が最後なんだろ?」
「……みんなは? どうしてる?」
 ハーンはそれでもベッドに横たわったまま、眠そうに声を出した。
「〈帳〉さんもライカも起きて、朝食の支度をしてるよ」
 そう言ってルードは毛布を部屋の隅に片づけてしまった。まだハーンは毛布を未練ありげに見ていたが、むくりと起き上がると大きくのびをした。

 扉の向こう側からライカが顔を出す。両手に抱えたかごには今朝とれた鶏の卵が見えている。朝食に使うつもりなのだろう。
「あ、ハーン、今お目覚め?」
 彼女はそう言うと、廊下を通り過ぎてしまった。
「ふぅ……昨日の夜、あんなに騒いでいたっていうのに、本当、みんな元気だねぇ」
 やれやれ、といった具合でハーンは身を起こす。
「じゃあルード君、外で待っててくれないか。僕もすぐ行くからさ」
「……もう一度、寝るなよな」
 ルードが釘を差す。
「大丈夫だって。ちゃんといつもどおり剣を教えるってば」
 ルードが部屋を出ていくと、ハーンは大きくのびをして、ぽつりとつぶやいた。
「ライカも……僕がちょっと家を空けるだけなのに、宴会を開かなくてもよかったのにさぁ……」
 そう言って大きく口を開け、あくびを一つ。昨夜の宴で一番騒いでいたのはハーン自身だったことを、当の本人は忘れているらしい。
 ハーンは窓を開けると、朝の草のにおいを胸一杯に吸い込んだ。今日も晴れ渡った、心地のいい日になりそうだ。

 厨房ではライカが鼻歌を歌いながら朝食の準備をしていた。
「あら、〈帳〉さん、おはようございます」
 ライカは今入ってきた〈帳〉に、にこやかに挨拶をした。〈帳〉はうなずくと、手に持っているものをライカに差し出した。
 今やライカもこのフェル・アルムという異世界に慣れた。フェル・アルムの言葉こそ解さないものの、館の住人達がアズニール語を話せるため、不都合はなかった。
「畑の芋がそろそろ食べ頃なのでね。いくつかとってきた。使うといい」
 〈帳〉は落ち着き払った声で言った。
「あ、ちょうどよかったわ。卵をどうやって調理しようか、ちょっと考えていたところだったんですよ。うん、これでまとまった。ありがとうございます!」
 ライカは芋を受け取ると、さっそく調理を始めた。
「私も手伝おうか?」
 芋の泥を落としているライカを、横目に見ていた〈帳〉が訊いてきた。
「いえ、いいですよ。昨日の宴会でたっぷり手伝ってもらっちゃったし。今日はわたしが全部やります」
「そうか。では私は部屋に戻ることにするよ」
 〈帳〉はそう言って厨房を後にしようとして立ち止まった。
「そうだ。ハーンは今どうしている?」
「いつものとおり、朝のお稽古です。ルードにたたき起こされてましたけどね。ふふ……。ハーンったら酔っぱらって『明日が最後なんだから、僕の技を披露してあげるさぁ』なんて自信満々に言ってたのに」
 ハーンの口真似を交え、ライカは楽しそうに言った。
「……ハーンらしいな。妙なところでぬけてるのは」
 〈帳〉は口の端をつり上げ笑う。今日に始まったことではないが、彼はあまり表情を変えない。

 かん……!
 模擬戦用の剣どうしがぶつかる音がかすかに聞こえた。厨房の入り口にたたずんでいる〈帳〉は、窓から外の様子を見た。少し離れた草原で、ハーンがルードに剣を教えている。
「あの悪戯《いたずら》坊主も、ずいぶんと剣が上達したようだな」
「いたずらって……またルードがなんかしたんですか?」
「まったく。昨日の宴の後、部屋に戻ろうとしたら扉が開かない。取っ手のところに紙が張ってあって『書斎の机』と書いてあった。そこに行ってみたらまた紙が置いてあって……そんな調子で結局、鍵を見つけるのに半刻も費やしてしまった」
 窓の外を見ながら憮然と語る〈帳〉。ライカはそれを聞きながら笑いを漏らしていた。〈帳〉はきまりが悪そうな顔をする。
「ルードか……。最初会った時はもっと物静かな少年か、と思っていたのだが……」
「そうね……私も、もう少しおとなしい人なのかな、って思いました。でも、あれだけ突拍子ないことばかり起きれば誰だって気後れしますよ。ここに辿り着いてやっと落ち着いて、ルードも安心したんでしょう」
 〈帳〉はそれを聞いて視線をライカのほうへと戻す。彼女の横顔は幸せそうだった。
「ハーンが揶揄《やゆ》したくなるというのも、分からんでもないか」
「はい?」
「……なんでもない。私は自室に戻っているから、出来あがったら教えてほしい」
 〈帳〉はそう言って厨房を後にした。彼は大きな決断を胸に秘めていた。

 かん!
 大きな音とともに、ハーンの剣が手から落ちた。勝負あった。ルードは剣を構えたまま、にいっと笑った。
「はははっ。どうだハーン!」
 得意満面のルードに対し、ハーンは照れ笑いを浮かべる。
「いやぁ……まいったねえ。またやられちゃうとは……」
 ハーンは再び剣を構えた、とその時。
「二人ともー、ご飯が出来たわよぉ!」
 風を伝ってライカの声が届いた。それを聞き、対峙する両者は剣をおろした。

「じゃあ、今日はちょっと短いけど、これで終わりだね。ご飯にしよう」
 ルードとハーンは剣を腰に下げ、並んで館へと歩き出す。
「どうかな、俺の腕前は?」
 道すがら、ルードは真面目な表情で、師たるハーンに訊いてきた。以前は生傷が絶えず、そこかしこにあざが出来、ライカに治療をしてもらっていたのだが、世話好きなライカの出番もこのところ減ってきた。
「うん、かなりいいよ。君がここまで伸びるとはさすがに僕も思ってなかったしねぇ。町の警備兵として、すぐに雇ってもらえるぐらいはあると思うよ」
「……そこまで言われると嬉しくなっちゃうな」
 流れる汗を手ぬぐいで拭いつつもルードは喜色満面だ。そこには思い悩んでいた一ヶ月前までの姿はない。自身の運命に真剣から対峙する覚悟を決めたからだ。そこからゆとりが生まれ、彼の持つ全てをおもてに出せるようになっていた。
「しばらく“あれ”を――ガザ・ルイアートを握っていなかっただろう? 剣の助けがあれば、ルードだってサラムレの剣技大会で、結構いいところまで行くんじゃあないかな?」
 ルードは知っている。剣の“力”が自分の技量を補ってなおあまりあるものだということを。そして、ハーンの実力はおそらく、フェル・アルム屈指のものであることを。剣技大会の優勝くらい、どうということはないはずだ。ハーンは、自分が無名であろうとするために、わざと負けているのではないだろうか? 最近ではルードはそう考えている。
 以前ルードは、本気で手合わせしてほしい、とハーンに頼んだことがあった。ハーンは快諾してくれたものの、全く勝負にならなかった。一瞬にして間合いを詰められ、剣をはじかれ、胸元に彼の剣を突きつけられたのだった。
 しかし、負けたというのに気分は不思議と爽やかだった。

 重い音を立てて、館の玄関の扉を開けた。
「お腹空いたなあ……。おっ、いいにおいだなあ!」
 卵が焼ける匂いが玄関まで流れてきたことで、ルードの食欲は増した。いそいそと食堂へ向かう。ハーンはゆっくりとした足取りで、彼の後をついていく。ハーンにとって、帳の館で食事をとるのは、これが最後になるかもしれない。

 ハーンはスティン高原へ赴く。
 ルード達の境遇を彼の家族に説明し、納得してもらうために、一ヶ月滞在したここ、〈帳〉の館を後にするのだ。その後は各地を巡り、変わったことがないかを調べる。ルード達と再び会えるのは、当分先のこととなるだろう。

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二.

 朝食はすんだ。今朝の食事は刻んだ芋を卵の中に入れたという、オムレツ風のものであった。昨晩の宴会でお腹を膨らませていた彼らにはうってつけのものであった。もっともルードは、ライカにおかわりをせがんでいたが。
 ルードとライカは食事の後片付けをしている。未だ食卓にいるのは〈帳〉とハーンだけだった。
「ハーンよ」
 ハーンが奏でるタールの演奏に一区切りついたのを見計らって、〈帳〉が声をかけた。
「ん、どうしました?」
 ハーンは顔を上げると、にっこり笑って答える。
「君が旅立つ前になんなのだが、ちょっと話がしたいのだ」
 小声でそう言うと、〈帳〉はちらと厨房のほうを窺う。
「ここでは少し話しづらい。ルード達にはまだ話すべきではないからな。……悪いが私の部屋まで来てくれないか?」
 それだけ言って〈帳〉は食堂を後にした。
 残されたハーンは肩をすくめ、やれやれ、と言った面もちで少し遅れて席を立った。

 それからしばらくして、後片付けの終わったルードが厨房から顔を出した。普段ならここでお茶の時間となるので、何を飲みたいか、ハーン達に訊こうとしたのだ。だが彼らはいなかった。
「あれ? どこに行っちゃったんだろう?」
 頭を掻きながらルードは、皿を拭き終わったライカを見る。
「ああ……〈帳〉さんとハーンなら、話があるからって、ちょっと前に出てったわよ」
「よく聞こえたなぁ」
「わたし達アイバーフィンはね、風を味方につけてるせいか、あなた方バイラルより耳ざといのよ」
 ライカは、くすりと笑った。悪気はない、と言いたげに。
「だったらライカも、早く俺に教えてくれりゃあよかったのになぁ……」
 食器を棚に戻しながら、ルードは悪態をついた。
「でもねぇ……『わたし達にはまだ話せない』って〈帳〉さんが言ってたし……」
「そうか」
 それだけ言ってルードは厨房を出ていこうとしていた。気付いたライカはルードの裾をむんずとつかんで制止する。
「ちょっと、どこに行くのよ?」
「え……ああ……」
 自分の行動を瞬時に止められたルードは、ばつが悪そうにライカを見た。
「だめよ、邪魔しちゃあ。わたし達には関係ないでしょう?」
「いや、邪魔はしないさ。勝手に聞くだけだから」
「……盗み聞き? ……たちが悪いわ、やめておきなさいよ」
 ライカは幾分冷たい視線をルードに投げかけた。ルードは少し躊躇したが、顔を少ししかめ、口を開いた。
「なんかさ、“謎”のにおいがするんだよ」
「何よ、それ?」
 ライカは、ルードの裾から手を離した。
「あれだけ、フェル・アルムの真実について色々と教えてくれた〈帳〉さんがさ、この期に及んで俺達に内緒にしておくことがあるなんて……きっと何かがあるに決まってる」
「そんなに大げさなことかしらねぇ。他愛のないことかもしれないわよ?」
「そんなことはない! ……多分」
「それに、いつか〈帳〉さんかハーンが説明してくれるでしょう? 『今はまだ話せない』ってことは」
「いや、俺の好奇心はたった今知りたがってるんだ。だから……行って来る! 悪いな!」
「あ……。……もう!」
 ライカの悪態を背中で聞きながら、ルードはそそくさと食堂から出ていった。

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三.

 ルードは、杉板張りの廊下をそろりそろりと忍び歩きをしていた。館は、〈帳〉ひとりで住むにはあまりにも大きく、ルード達が居住している今も、それは変わらない。スティンの麓のベケット村で一番大きいとされる旅籠、〈椋鳥《むくどり》の房〉よりさらに大きいものだろう。
 忍び足で階段を上ると、そこには〈帳〉の部屋があった。ルードは重厚な雰囲気を醸し出している鉄の扉まで近づくと、そっと耳を当てた。かすかに二人の会話が聞こえてきた。

「……さすが……分かってましたかぁ……」
 この間延びした声は、ハーンだ。
「……“果ての大地”……ガザ・ルイアートの存在を知っている者などいません……」
 これは〈帳〉の声だ。
 途切れ途切れでしか聞こえず、何を言っているのか分からなかったが、ルードは一つ、気になった。大賢人であり、またそれ以上の存在である〈帳〉が、ハーンにきわめて丁寧な口調で話しているという点だ。
 なおもルードが扉に右耳を押し当てていると――不意に反対の耳が引っ張られ、激痛が走った。
「痛ってえ!」
 とっさにルードは大声を出してしまい、耳を押さえる。ルードが横目で見ると、そこには両手を腰に当て、半ば呆れた表情を浮かべているライカがいた。

 彼女は溜息をもらした。
「情けない格好ね、ルード……」
 ルードも言い返せず、ライカを見つめたまま座り込んだ。
 ぎいっ……
 音を立てて扉が開いた。ルードの表情はまたもひきつる。〈帳〉はそんな彼を見下ろしながらも険しい表情を崩さなかった。ルードは何も言えない。〈帳〉の態度が彼の返答を拒否するかのようだった。
(この人はいつもそうだった……)
 〈帳〉は滅多なこと以外では表情すら変えず、またその口調も同様だった。あまりに長い年月が彼の心に壁を作り、孤独にしてしまったのか、あるいは自らの咎《とが》ゆえに悩んでいるのか――。それでもルード達が来て騒ぎ出してからは、ずいぶんと人間らしさを持つようになった。奇妙な言い方ではあるが、ルードにはそう思えた。
「……聞いていたのか、ルード」
 〈帳〉は重い口調で話した。
「なんだ……ルードかあ」
 ハーンは扉の隙間からひょっこり顔を出した。こちらの声は相も変わらず軽快だ。
「ごめんなさい。わたしがルードをちゃんと止めておかなかったから……ほら! ルード!」
 ライカは申しわけなさそうに言いつつルードを立たせ、謝ることを促した。
 ルードは立ち上がるとおそるおそる〈帳〉の顔を窺った。表情は相変わらず険しい。
 三人の緊張状態を打ち破ったのは、ハーンの一言だった。
「別に僕は聞かれてても困らないんだけどなぁ」
「しかし! ……今ここでことをややこしくするのは……」
 毅然とした表情を崩さずに振り返り、〈帳〉は反論する。
「ややこしく?」と、ルード。
「あ、いや……」
 〈帳〉にしては珍しく、ルードの一言に狼狽した。次の言葉を紡けないほどだ。
「とにかく。わたし達は食堂に戻りますから。……きりのいいところでお茶を飲みに来てくださいね」
 ライカは〈帳〉に向けてにっこりと笑うと、ルードの腕をつかみ、去っていった。連れ去られていくルードは〈帳〉の言いかけた言葉が気になっており、今まで怒られていたことすら忘れて、訝るような表情をしていた。

* * *

 ルード達が視界から消えると〈帳〉は重い扉を閉め、つぶやいた。
「そう、いずれは彼らにも語らねばなるまい。しかしながら、それほど急を要する事柄でもない……もっとも――」
 彼は、すでに腰掛けていたハーンに声を向けた。
「……あなたが、以前と同じ存在である、というのなら、いかに事実が過酷であれ、彼らに……そう、まわりはじめた運命をすでに背負っている彼らに、さらに重い荷を背負わせなくてはならないのですが、どうですか。あなたは――?」
「ひとりのバイラルとして生きるしかない。それが僕の背負った“罪”ですからねぇ……」
 外の景色を眺めながら頬杖をつき、ハーンはきわめて普段どおりの口調で話した。
「カラファー生まれ。戦士にしてタール弾き。術の力を覚醒させ、術使いともなった。……それが僕、ティアー・ハーンの本性です。それ以外の何者でもありませんよ、僕は」
「ひとりのバイラル……か」
 〈帳〉は椅子に深く腰掛けると、ハーンと対峙した。賢人はハーンの瞳をじっと見つめる。真意を見きわめるために。
「あなたの瞳には一点の曇りもない。分かりました。あなたはもう別の存在なのですね。たとえ記憶を残していても……」
「〈記憶〉は残っていません。〈知識〉として蘇ったんですよ。十三年前、“ニーヴルの事件”によって術が覚醒したと同時にね。……だけどそれは全てじゃない。ただ明確なのは、赤ん坊の時からフェル・アルムに生き、そして、今ここにいるという僕――ティアー・ハーン――の人生だけです」
 〈帳〉の眉がぴくりと動いた。
「しかし、覚えておいでなのだろう? “あれ”を。……我々とのあの――」
 ハーンは〈帳〉の言わんとしていることを察した。
「ええ、覚えてますよ。ただし先ほど言ったとおり、記憶としてではなく、知識としてね。あなたの犯した過ちについても……理解出来ます」
 それを聞いて、〈帳〉は黙したまま頭を垂れた。
「一ヶ月前、あなたは僕達に言いましたよね。事実の隠蔽《いんぺい》は、何も生み出さない……かりそめの緩慢な平和を求めるあまり、フェル・アルムは多くを犠牲にしてしまった、と。……そして、こうも言ってましたっけ。おそらくフェル・アルムには遠からず秩序の崩壊が訪れる、とね。無理矢理せき止められた流れは、ほんの些細なきっかけで崩れるかもしれない。小さな一点にしか過ぎなかったひび割れは徐々に大きくなり、気付いた時にはとても人の手には補えるものではなくなってしまう。最後は濁流となって全てを飲み込むのです……」

 ハーンは少し考え、付け足した。
「いえ……別の“力”の干渉を招くことも考えねばなりませんよね。〈帳〉、あなたもそれを憂えているのでしょう?」
「触手の化け物と、星なき暗黒の空。それが意味するものは、“混沌”の到来……」
 〈帳〉はぽそりと言った。
「アリューザ・ガルドを含め、多くの人々の置かれた状況を混乱させたくはないのですが……最悪の事態だけは避けねばなりません。……私は力を失いました……あなた達だけが頼りなのです。……デルネアを止めねばならない。さもなければ大いなる“力”に飲み込まれてしまう……」
 悲しみに満ち満ちた真摯《しんし》な瞳で〈帳〉はハーンを見つめた。

「……やれやれ……」
 ハーンの日溜まりを感じさせる声が〈帳〉の心を癒す。
「力を失ったって言っても、あなたの場合はもともとがあまりに強大でしたからねぇ、大魔導師殿。魔法に関しちゃあ僕は未だにあなたの足下にも及びませんよ。……しかしまあ、こんなご時世に僕の記憶が目覚めて、世界の運命を握る人となってしまったっていうのは……結局のところ僕はかつての僕と同じ役柄を担っているってことなんでしょうかねぇ?」
 ハーンはゆっくりと腰を上げると、戸口に歩いていった。
「どうするのです?」
 〈帳〉が声をかけた。
「そろそろ戻ってお茶にしませんか? ルード達も怪しんでいるでしょうしね。……それと、僕達の立場は今までどおりでいましょうよ。あなたは大賢人。僕は一介のタール弾きにして戦士。ティアー・ハーン以外の何者でもない、って言ったでしょう?」
「……それもまたしかり、か……。では下に降りようか。ティアー・ハーン、君の旅が無事であることを祈って」

 〈帳〉もまた立ち上がり、自分の部屋を後にしようとしたが、ふと躊躇した。
「どうしましたか?」
 取っ手に手をかけ、部屋を出ようとしたハーンが振り返る。
「……ハーン、君はここから出たあと、何をしようというのだ、本当のところ?」
 それを聞いてハーンはにんまり笑ってみせた。
「やっぱり分かっちゃうんですかねぇ。確かにスティンには行きますよ。その後はそう、街道を南下しつつ異変がないか調査して……最後にはアヴィザノへ赴きます」
「なんと、ひとりでか?!」
「ええ。中枢の情勢を知っておきたいですし……もし今デルネアが中枢にいるのなら、警戒がいかに厳重であれ、会っておきたいですから」
 ハーンは大したことがないように、さらりと言ってのけた。
「ハーンよ。ひとりではあまりにも危険だ。やめたほうが賢明と思うが。言っただろう、彼の“力”がどれだけ危険か。それに彼は、人の心に入り込むのに非常に長けている。私でさえ彼に会うのはきわめて慎重にならなくてはならないのだ。まして君は、ニーヴルの残党として認識されることもあり得る。あきらかに君の身が危険にさらされるぞ。やはり、我々と合流したあとのほうがいいのではないか?」
「いえ。こういうことって、ひとりのほうがかえって感知されにくいもんです。それにね、もし彼と会えたとしても、すぐに剣を交えたりはしませんよ。……彼に訊くべきことっていうのがあるでしょう? それに、あらゆる意味で機が熟さねば、たとえ彼を倒したとしても、今回の崩壊はとどまることなく、むしろ進行するでしょうしね。でも、彼と対面叶い、時の利得たりと感じたら、迷うことなく戦うでしょうけど」
「では……あくまで単独で行こうというのだな」
「はい。あなたとルード達は還元の切り札なんです。あなたの知識。ガザ・ルイアートを得たルードの“力”。ライカがこの世界に来たことで生じた、アリューザ・ガルドとの空間の接点。それら全ては取っておかなきゃならないと思うんですよ」
 それを聞いた〈帳〉は、厳しい表情を浮かべたが、やがて部屋の奥へ行くと、ひと振りの剣をハーンに差し出した。

「だが君とて大きな切り札には違いないのだ」と〈帳〉。
 ハーンは剣を受け取ると、鞘から剣を抜き、刀身をさらした。片刃の剣には意匠がほどこされてはおらず、無骨ともいえたが、その刀身からは確かに活力が感じられた。光から隔絶された闇のように黒い刀身は、全ての光を吸収してしまうかのように、ちらりとも光らない。そのような漆黒の刀身を凝視していたハーンは、やがて鞘に収めた。
「これは……」
「持っていくがいい。聖剣がルードを携帯者と見なした今、君は短剣しか持っていないだろう? これは、漆黒の導師スガルトを倒した魔導師、シング・ディールが鍛えし剣。名を“漆黒の雄飛”――レヒン・ティルルと冠する。君も感じているように、闇の波動に包まれている剣だ。さすがにガザ・ルイアートの強大さと較べたら劣りはするが、持ち主は強大な闇の加護を得る。……以前のあなたとは違う君を――ハーンを信じているから、これを託すのだ。存分に使ってほしい」
「ありがとう。僕を信じてくださって。それを裏切る行為はイシールキアにかけてしません」
「では行こうか。君が出かける前の、最後の休息となるが」
 そう言って〈帳〉は重い扉を開いた。
「なあに、またお会いしますよ。アヴィザノから戻ったらね! 言ったでしょう? ちょっと家を空けるだけなんですよ」
 ハーンはそう言って〈帳〉の部屋から出ていった。彼の背中を見ながら〈帳〉はそっと笑みを浮かべ、扉を閉じた。

* * *

 ルードは食堂に戻ってきてからというもの、渋い顔を崩さなかった。手をあごにやり、肘を突いたまま椅子に腰掛けている。ライカはその隣に座っていた。
「ねえ、大丈夫よ。ハーン達が何か企んでるわけじゃないのは、ルードだって分かるでしょう?」
 最初はルードの行為に怒っていたライカも、さすがに彼の悩む姿を心配げに見つめるようになっていた。
「そりゃあ、分かってるさ」ルードは姿勢を崩さない。
「……でもさ、俺の知らない何かを、あの二人は知ってるんじゃないか? 俺が話を聞いていたと分かった途端、雰囲気が変わった。今さら何をごまかす必要があるっていうんだ?」
(ここに辿り着いて一ヶ月。俺達は家族のように暮らしてきた。そんな俺達に話せない事情がなぜあるっていうんだ? 水くさいな。それとも、俺達が知る時期ではない、ということなのか? あの二人の間の……秘密については……)

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四.

 楽しかったお茶の時間も終わった。四人は板張りの廊下をきしませながら、玄関へと向かった。
 玄関の扉を開け放ったライカは、陽の光のまぶしさに思わず目をつぶる。
 ライカが玄関から外に出ると、続いてルードと〈帳〉が、最後にハーンが表に出てきた。すでに玄関前には馬が荷物を載せ、待機していた。
 ハーンは軽やかに馬に乗ると、
「さあて、と。じゃあ行ってきますね……と、そういえば、“外”には出られるんですか?」と言った。
「待ってくれ、今結界を解く。……三人とも目を閉じてくれ」
 〈帳〉はそう言うと、低い声で呪文を唱えだした。何を言っているのか、ルードには分からなかったが、足下の感触が変わってきているのは分かった。
「さあ、いいぞ。目を開けてくれ」
「ああ……」
 ルードは思わず感嘆の声をあげた。

 ――そこは一面の荒野だった。ひと月ぶりに見る、外の世界。ルードは今すぐにでもハーンとともに自分の村に戻りたい衝動に駆られた。だが、今の自分達は危険と隣り合わせなのだ。ハーンが危険の有無を確認するために旅立つというのに、自分までついて行くわけにはいかない。

 ルードは望郷の思いを押さえ込み、馬上のハーンを見上げた。涙がこみ上げてくるのを必死にこらえながら。
 そんなルードの気持ちを知ってか知らずか、ライカがちらとルードを見る。
「どうしたの?」小首を傾げる動作が可憐である。
「いや、なんでも……。そうだな、ハーンが道すがら食い過ぎて、食料が尽きて荒野のど真ん中でぶっ倒れなきゃいいなあ、なんてね」
「おーい……。それじゃあまるで僕が何にも考えないでいるみたいじゃないか」
 拍子抜けした声でハーンが言った。
「だってそうじゃないか。ハーンがこの家であんなにだらしない生活をしてた、と思うと、つい、ね。普段もあんな感じなんじゃあないのかあ?」
「ぐ……」
 あまりにも図星のため、次の言葉が出ないハーンだった。
「むむ……。ルード君だって、僕と似たようなものじゃないのかな? この前だってさ……」

 互いのずぼらさを罵りあう二人。取り残された二人は、またか、と半ばあきれながら、お互いの顔を見合わせた。
「いつもと変わらないですね。いつまでもこんな感じが続けばいいのに……」ライカが笑う。
「なに。じきにそうなるものだ……」
 〈帳〉はそのあと何か言葉を続けようとしたが、和やかな雰囲気を崩すかもしれないと思い、やめた。
「そうですね。わたし達、頑張らなくちゃ! そうしなきゃ、わたしだけじゃない、ルード達、この世界の人々は幸せになれないんですもの。……うん。頑張りましょう!」
 ライカが、〈帳〉の言わんとした言葉を代弁する。
「そうだな」〈帳〉は、ただ静かにうなずいた。

 ルードとハーンの言い争いは、ライカの一声でぴたりと収まった。
「じゃあハーン。叔父さん達や……ケルンやシャンピオ……村のみんなによろしく。家出同然で飛び出して来ちゃったから、つらくあたられるかもしれないけどさ……。すまないけど」
「なあに、そんなこと気にしなくっていいんだってば。君のせいじゃないんだから。……ま、僕らの状況を嘘いつわりなく話すか、それともちょっとお話を作るか。……それはその時の雰囲気に合わせて考えるさ」
「ハーン、とにかく、無理しないでね」と、ライカ。
「ありがとう! 焦って無理を強いたりはしないさ。旅の途中は出来るだけ気楽にいこうとは思ってるんだよね。じゃあないと心身が参ってしまうよ。でも、だらっと気を抜くのとは意味が別だと思ってる。勘違いはしないよ」
「そうね。わたし達も肝に銘じておくわ。今のハーンの言葉」
 ライカはそう言って手を差しのばす。ハーンも馬上から手を伸ばし、二人は固く握手を交わした。
「四人で、デルネアに会いに行きましょう」
 ハーンはうなずいた。
 ルードもライカも、ハーン単独でデルネアに会わんとしているのを知らない。それは〈帳〉とハーンの間の秘密だった。

「では……!」
 ハーンは馬の手綱をつかむ。
「僕、本当に行きますけど。〈帳〉、何かありますか?」
 帳はただ首を横に振るのみ。
 ハーンは笑みを浮かべ、うなずいた。
「分かりました。あなた方の信頼に感謝します。天土《あまつち》全ての聖霊達にかけて僕は応えましょう。そして、あなた方に祝福のあらんことを!」
 三人はしばしハーンと無言のまま対峙した。
「うん。頑張ってくれ、ハーン! あんたからいつ返事が来てもいいように、俺達も準備を怠らないようにするよ」
「ふふふ。心強いねぇ、ルード君。じゃあ、また会おう!」
 そう言って、いよいよハーンは馬を歩ませた。
「天土の聖霊ねえ……。ハーンも時々大げさなこと言うわよね。そこがまた面白いけれど」
 手を振りながらライカは、横にいるルードに話しかける。
「それがティアー・ハーンさ!」
 ハーンは目配せをして答えた。その言葉を最後に、ハーンは三人に背を向けて、馬を早足で進ませ始めた。残された三人は、ハーンの姿が丘の向こうに見えなくなるまで見送っていた。

「行っちゃったわね、ハーン」
「ああ……」
 ルードもライカも、目は未だ丘を眺めている。しばらくの間三人は“遙けき野”の乾いた風を身に受けていた。
「さて、では私達は戻るか」
 〈帳〉が言った。
「もう少しだけ……ここにいます。いいですか?」
 ルードは相変わらず前方を見据えたまま、言葉だけ返した。
「そうか……」
 〈帳〉はそう言うと、近くの岩に腰掛けた。
 ルードは、スティンの山々が見えないものかと目を凝らしたが、枯れた荒野以外、何も見えない。
「“遙けき野”――本当にここって何にもないんだな……」
「寂しいところよねえ。まるで、世界中にわたし達三人しかいなくなっちゃったみたい……」
 ライカの言葉を聞いてルードは思った。もし世界が崩壊してしまったら、こんな情景になってしまうのだろうか。生命は絶え、荒廃した大地のみが永久に残る――。いや、この空の下に大地など無かったかのように、全てが消え失せてしまうのかもしれない。

「さてと」
 決意も新たに、ルードは胸の前で拳を握りしめた。
「〈帳〉さん。戻りましょう。ハーンとはまた会える。その時のために、今は館に帰りましょう」
「分かった。目を閉じてくれ」
 〈帳〉は立ち上がると、再び呪文を唱え始めた。
 ルードは足下の感触が変わっていくのを感じながら、心の中でハーンに呼びかけた。
(ハーン、近いうちに……)

『ルード……おそらく近いうちに、また会いましょう……』
 ルードの脳裏を一瞬よぎるのは大人びた女性の声。どこかで聞いたことのあるような声。今回は夢うつつではなく、確かにルードの耳に聞こえてきたような気がした。

運命は廻りはじめる。

誰が意図することなく、自然に。

〈第一部・了〉

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