『フェル・アルム刻記』 第一部 “遠雷”
§ 第五章 ルードの決意
一.
重厚でありながら透明感あふれる音がいくつも重なり合い、明かりのともった煉瓦《れんが》造りの部屋に響き渡る。確かな運指でタールをつま弾くのは、ハーン。
ルード達は何事も無かったかのように、クロンの宿りの旅籠〈緑の浜〉にいた。ハーンはソファーに深く腰掛け、思慮めいた、それでいて楽しそうな表情を浮かべながら演奏をし、ルードとライカは入り口付近で、彼の演奏に聴き入っている。
ハーンの左の指先がタールの弦を強くかき鳴らし、曲が終わることを告げると、ルード達は拍手をした。ハーンは、そんなルード達のほうを見てにんまりと笑った。
「そして僕達は結局、ここに戻ってきたってわけだよ……」
タールを右腕で抱え込み、感慨深げにハーンが言った。
クロンの宿りに着くまでの道中では疾風と出くわさずにすんだ。一行は、クロンの宿りで一日ゆっくりと休んでから旅立つことにした。急ぎの山越えは、馬に乗っていてもかなりつらいものだった。旅慣れたハーンや、毎日の羊との生活で鍛えられたルード、山間に暮らすライカ。そんな彼らであってもだ。
カウンターの木戸が開き、宿の主であるナスタデンが部屋に入ってきた。
[ハーンよ、あんた達の部屋の準備は整ったよ。ほら、あんた達も疲れてんだろう? ゆっくり休みな!]
そう言うと彼は、一行についてくるように、と促し、体を揺さぶるようにして部屋へと案内した。まず部屋に通されたのはライカだった。フェル・アルムの言葉を解さない彼女は何も言わず、主人にお辞儀をして部屋に入っていった。
ルードは自分の部屋に通されると主人に言った。
[ありがとう、ナスタデンさん!]
[うん。旅ってのはな。それまで知らなかったような、いろんなものを見つけられるもんだ。そこから何かしかを学べば、ひと回り人間が大きくなる、と俺は思ってるんだ。あんたにはそういうことを期待しておくよ!]
ナスタデンはそうルードを激励すると、扉を閉めた。
ルードは大きく伸びをし、ベッドにどさりと倒れ込んだ。
すると急に睡魔が襲いかかってきて、ルードの頭は考えることを拒否しはじめた。
「疲れた……」
言うなり彼の両のまぶたはごく自然に閉じていき、眠りに落ちていった。
* * *
ルードが目を覚ました時、すでに昼近くになっていた。旅の疲れは完全にとれたとは言えない。全身にだるさを感じながら、ルードはしばらくベッドの上で何をするでもなく、ごろごろとしていた。
(俺達、追われてる身なんだよな……なんか実感が湧かないよなあ。こんなゆっくりしていて大丈夫なのかねえ?)
そう考えて大きなあくびを一つ。
その時、扉がノックされた。
「ルード、起きてるかい?」と、ハーンの声。
「ああ……」
ベッドにうつ伏せたまま、ルードは眠そうに返事をする。
「入るよ!」
言うなりハーンは部屋に入ってきた。ルードも、もそりと起き上がる。
「疾風がこの町に来てしまったみたいだ!」
「ええっ!?」
突然のハーンの言葉に、ルードも眠さなどどこかへ吹き飛んでしまい、自分が置かれている現況を急に実感した。
「そんな、本当に?」
「うん、こいつは冗談抜きだよ。さっきナスタデンの奥さんが買い物をしている最中に、君達のことを訊いて回っている人に出会った、って言うんだ。名前や、風体までこと細かにね。そんなことを訊く人なんてふつういないだろう? すぐに出発しないと! それでも、一戦交える覚悟はしておいたほうがいいよ! もしかしたら、町の中で出くわす、なんてこともあり得るしね! ……やつが、こんなに早く来てしまうなんて……ちょっと甘く考えていたよ」
ハーンは額に掌を押し当て、自分を呪うようにそうつぶやくと、部屋を出ていった。
ルードは急いで飛び起きて着替えると、荷物を持って玄関に急いだ。ハーンとライカはすでに玄関で待っていた。ライカはこれまで同様、自分の髪を隠す格好をしている。
「なあ、ハーン」
「何だい?」
「俺達の名前や、格好までばれちゃったってことは……スティンの人達、大丈夫かな……」
「……ああ、大丈夫さ。奴らは無関係な人に危害を与えたりはしないよ。目標はただ一つ。当事者――僕らだけさ」
ルードはうなずくと、玄関の扉をぎいっと開けた。
用意のいいナスタデンは、一行の馬を表に連れてきていた。
[ありがとう!]
ハーンは荷物をくくり付けると、さっそうと馬にまたがり、ナスタデンに礼を言った。
[何やら……ひどく大変なようなにおいがするがよ、十分気を付けて行けよな!]と、ナスタデン。
一行は主人に別れの挨拶をすると、馬を急ぎ足で歩かせた。
通りの雰囲気はいつもと変わらない。町ゆく人々も普段と変わらぬ生活を、何の気なしに送っている。だがルード達は違う。周囲の和やかさとはかけ離れた、緊迫した空気が集まっていた。
どくん、どくん、と。ルードは自分の心臓の確かな鼓動を感じていた。手綱を握る手にも、力がこめられる。彼の前を行くハーンも、どこかしら焦っているように見えた。
疾風らしい人物に出くわすことなく、ようやく彼らは町から出る石造りの門をくぐった。そこに辿り着くまで途方もなく長い時間を費やしたようにルードには感じられた。三人が三人とも焦燥の念に駆られているようで、そんな空気がお互いに伝わりあい、より一層どつぼにはまっていく。
クロンの宿りを出て少し行くと、人々が暮らしている環境から離れ、あたりは急に閑散とした風景になる。南には青々としたスティンの山々が、また遙か北にはごつごつとした岩地が広がっている。
前方はただまっすぐに石畳の街道が続いているが、その彼方では、荒涼とした大地がかげろうで揺れている。それが遥けき野。鍵を握るとされる人物、〈帳〉が住んでいる地域だ。
遙けき野に着くまで、少なくとも二日はかかるだろう。その間、敵に襲われずにすむ、という保証はどこにもない。今までは幸運が続いていただけなのだ。ルードは自分の背筋が寒くならずにはいられなかった。
そして、その時はやってきた。
二.
「ハーン……」
最初に小さく声を出したのはライカだった。
「うん」
ハーンは彼女の言わんとすることを理解したのか、前を向いたまま、小声で返した。
ルードは彼らの雰囲気から状況を察した。
(疾風が来たのか……。でも、やっぱりライカは俺よりハーンを頼ってるんだよなぁ……)
緊迫した状況の中ではあるが、ルードは一瞬、ハーンに嫉妬するのだった。
ライカがルードの肩をたたき、彼は我に返った。その途端、嫉妬めいた感情は消え失せ、代わって恐ろしいまでの緊迫感に支配されてしまう。
「異様な風の流れが伝わってくるのよ……」
「そう、すさまじい殺気を感じるんだ」
「疾風……なのか?」
ルードがその言葉を口にした時、心臓が飛び出るような恐怖を感じた。“常識”から超越した現実、本来は遠くにあるはずの死という概念を肌に感じたからだ。
「そうだよ。奴だ」
ハーンは前を見つめたまま語りかける。
「殺気はどんどん近づいて来ている。かなりの勢いでね。……今さら馬を走らせても、追いつかれるのは……こりゃあ時間の問題だろうねぇ……」
ハーンはそう言いつつ、左手で馬の鞍を探る。そして彼の手は、探しているものを握りしめる。あの圧倒的な“力”を持つ銀色の剣だ。
ルードは戦いだけは避けたかったが、そうせざるを得ない状況になっているのだ。ハーンはルードのほうを振り向いた。
「なぁに、君達が戦うことなんてないさ。僕が……ひとりでかたをつけるよ! ……奴と戦う。こういうことを言っちゃうのはいけないんだろうけど、どこかで期待していたんだよ。かの“疾風”と剣を交えるってことに、さ」
この切迫した場でありながら、ハーンにはどこか余裕のようなものがあるように感じられた。彼も先ほどまで焦燥に駆られていたのだが、一度腹をくくってしまうと度胸が据わるのだろう。幾多の修羅場をくぐり抜け、なおまた戦慄を求める戦士としての彼がそうさせているのか。
ハーンが馬を止めた。ルード達はハーンの一挙一動にすらどきりとした。ハーンは彼らのほうへ馬を寄せ、いつもの日溜まりのような声で言うのだった。
「さあ、君達は何もしなくていい。僕に任せてくれればいい。そう、見ているだけで。――!」
「あっ!」
ハーンとライカが、ほとんど同じく声をあげた。
とっさにライカは低く小さな声で言葉を紡ぐ。それが終わるとともに、突然強い突風が渦を巻き、彼らの周囲を包んだ。ほぼ時を同じくして、ルード達を狙ってきた数本の矢が風によって力を失い、何ラクか手前にぽとり、と落ちたのだった。
風がやむ。
ハーンは馬の向きを変え、前方を――矢の飛んできた方向を見据える。ルードもそれにならい、恐る恐るではあるが向きをただし、ハーンの後ろに馬をつけた。ルードは心臓が張り裂けそうではあったが、きっと前を見据えた。そして彼は見た。ものすごい勢いで自分達に近づきつつある黒い人影を。
ルードはあらためて自分の身体を巡る血潮を強く感じ、手綱を握りしめた。ライカも、ぎゅっと彼にしがみついてくる。
「ありがとうライカ。今、風を起こしてくれたよね?」
ハーンが言った。
「そう。私にはこれくらいしか出来ないから」
「あとは僕に任せてちょうだいな」
「でも、あんな遠くから矢をとばせるような腕だぜ? ハーンも気を付けてよ」
今までならばライカの言葉を受けて『じゃあ俺には何が出来る?』と悩むルードだったが、そんな余裕は持てなかった。
やがて男の顔がはっきりと見て取れるようになった。薄汚れたマントに身を包んだ、中背の男が馬を駆っている。あからさまに発散させているその殺気にルードは押され、男を凝視したまま動きを奪われた。
ハーンはただ静かに男を見ていたが、「下がって」と、ルード達に言い残し、男のほうへと近づいていった。
[……どうしましたかぁ?]
男はハーンのそばに落ちた矢を見つめている。
[やはり、お前か! ベケットの酒場に居合わせていただろう。あの時から妙な感じを抱いていたのだ、俺は]
威嚇のこもった、低い声で男は言った。
[えーっと、何でしたっけ?]
ハーンはとぼけてみせたが、耳を傾けることなく男は言う。
[お前は普通の人間と何か違う、とその時ですら思っていたがな、確証した。今、俺の矢が不自然にそれたな?!]
そう言って男は馬から下りた。
[起こるはずのない風が突然起きた。人為的な、奇っ怪な風がな。それがどういうことか分かるか?]
ハーンは動じない。うすら笑みを浮かべながら馬を下りる。
ルード達も馬を下り、ハーンから遠ざかった。男はルード達を一瞥すると、ハーンを睨みつけた。
[そのようなことが出来るのは、俺の知識の上では限られた人間だけなのだ!]
殺気がハーンに叩きつけられるが、ハーンは平然としている。へえ、などと、とぼけた感嘆をする始末だ。
男は冷たい声で続けた。
[貴様……ニーヴルか? 奇怪な技を使う……。だとしたら、神隠しなどという事件も納得出来る]
[やれやれ、勘違いしてませんか? 僕はただ旅をして――]
[答えろ! 貴様がニーヴルの残党か、否か!]
有無を言わせない威圧的な口調で男が言った。ぴりぴりとした緊張感が周囲を覆う。
ハーンはあごに手を置き、考えるふうをみせていたが――おもむろに口を開いた。
[……もし僕が、そうですよ、なぁんて言ったら?]
[お前を殺す! 確実にな!]
言い終わらないうちに男は瞬間的に間合いを詰め、隠し持っていた剣をハーンに突き立てた!
ハーンも、即座に馬から剣をとり、応戦する。
がいん……という鈍い音。
必殺の一撃を失敗した疾風は、間合いを取り剣を構え直す。そしてまばたきする間もなく、再度ハーンに攻撃をしかけた。
ハーンは鞘を抜き剣身をさらす。きらりと鈍く銀が光り、ハーンは疾風に立ち向かう。そのまま、神業的な速さで剣を振り下ろした。
刺客は攻撃を諦め、さらに間合いを取る。そこにハーンの攻撃が炸裂した! まばゆい閃光がハーンの身体を覆い、次には白い弾が放たれ、疾風に命中した。
[うぐはっ……]
男は声にならない悲鳴を上げつつも、懐に忍ばせていた短刀を投げつける。ハーンは避けきれず、胴をかする。ハーンは、白い服に血がにじんでいくのを気にかける様子もなく、二撃目の光弾を刺客に投げつけた。
[ぐわぁっ!!]
最初のものよりさらに大きな光球が疾風を直撃し、数ラクも吹き飛ばした。
[さすがは疾風。……でもさ、僕もこんなとこで君なんかにやられちゃうわけにはいかないんでねぇ。だから手加減はまったくしないよ!]
傷を受けた胴をさすりながらそう言って、ハーンは剣を構え走り寄る。
[ニーブルめ! 反逆者があ! 殺してやる!!]
疾風は血を吐き捨てると即座に起き上がり、素早く攻撃の態勢に移った。
[はぁぁっ!]
気迫のこもった疾風の声。今回の競り合いは疾風に分があった。彼はハーンの剣の鋭い一撃を受け止めると、ハーンに体当たりをかました。鈍い音がする。
「うわっっ!」
衝撃はすさまじく、ハーンは十ラク以上も吹き飛ばされた。ハーンはうつ伏せになったまま動けず、呻き声を漏らす。
疾風は急に、ルードとライカのほうを向いた。その眼光は鷹のような鋭さを持っていた。
「……!!」
空気が、止まる。
ルードの心臓が一度、大きな音を立てた。
疾風が大声で言い放つ。
[小僧ども! このニーヴルの男を処分したあと、すぐ貴様らも消してくれる。こいつのことを人心を惑わすニーヴルと知って旅を続けているのなら、なおさらな!]
[そんなこと、させやしない!]
ハーンが立ち上がり、駆け寄る。疾風に向けて剣をなぎ払った。刃が銀色の帯とともに、唸る。疾風はそれを軽くよけると、再びハーンのほうに向き直り、剣を構えた。
そして、剣の応酬が始まった。
幾度も剣を超人的な速さで合わせ、そのたびに火花が散った。かと思えば、お互い牽制しあい、相手の隙を誘う。力技のみで戦う場面、冷静かつ理論的に攻撃を組み立てていく場面、意表を突いて足払いなどの体技を仕掛ける場面など、彼らの戦いは刻々と変化していった。
ルードは自分の立場すらも忘れ、この戦いに見入っていた。彼にとって実戦を見るのが初めてである上、この戦いは剣の達人同士の死闘なのだ。お互い躊躇することなく相手を倒すことだけを考えている。この情景を目の当たりにして、ほかのことが考えられるわけがなかった。
渦巻く殺気を常にぶつける疾風。
対するハーンはそれを受け流すがごとく、落ち着いた表情をしている。笑みをみせてもおかしくないほど、余裕のていであった。ハーンのほうが相手より一枚上手のようにみえる。疾風の動きをほぼ読み、追いつめられるそぶりも無い彼は、剣技大会で毎回優勝していてもおかしくない。細身の身体から繰り出される技は、それはとても信じがたいものであった。
「ハーン、勝つわよね?」
ルードの後ろでライカが話しかけてきた。そして不安げに、彼女の指がルードの握りしめた拳に触れる。
「え? ああ。……うん、そうだな、……大丈夫、勝つさ」
我に返ったルードはそう言ってライカの手を握る。ルードとライカはお互いを感じることで、不安を少しでも取り除こうとしたのだ。
しかし――ルードは見逃していなかった。ハーンの服に滲む血の朱が、徐々にではあるが大きくなっていくのを。先ほどの刺客の体当たりで、傷口が大きく開いてしまったのだろう。加えて、村に戻る時に遭遇した化け物との戦いで、ハーンは胴を痛めているはずだ。
(長引くと……まずいぜ……ハーン!)
言葉には出さなかった。ライカを不安にさせるわけにはいかなかったから。しかしルード自身、恐怖の念に襲われ、彼はせめて、ライカの手を強く握りしめた。
疾風は分かっているのだろう、勝機が見えてきたことを。
ハーンの攻撃がいっそう激しさを増す。何回か疾風を追いつめるものの、そのたびに疾風も窮地をくぐり抜けていた。ハーンの顔からは以前のようなゆとりが消え失せている。
対する疾風は、疲れの表情などまるで見せない。術の直撃を受け、さらに剣の傷を何カ所もつくっているというのにも関わらず。彼は痛みを感じないのだろうか、いや、死すら恐れていないのかも知れない。
「ああっ!!」
ルードと、ライカは一斉に驚きの声をあげた。
ハーンの剣が弾かれてしまったのだ。剣はハーンの手の届かない場所にまで飛ばされた。ハーンは一瞬戸惑ったが、術を行使しようとした。彼の右手が白く光ったその刹那、ハーンは疾風の体当たりをくらい、吹き飛ばされた。
[勝機!]
「ラ、ライカ!?」
「ハーン!」
三人の声が奇妙に重なる。
疾風はハーンにとどめを刺さんと駆け寄る。
ライカは――彼女の行動は予想外だった。彼女はルードの前に躍り出て何やらつぶやくと、両手を前にかざしたのだ。
「ライカ!!」
ルードは知っていた。彼女の姿勢が何を意味するのかを。
次の瞬間突風が起き――
[うおおっ!!]
標的に命中した!
ライカの起こしたかまいたちが疾風を切り刻む。彼には避けようがなかった。鋭利な空気の刃は、ひゅんひゅんという鋭い音とともに彼に襲いかかり、そのたびに細い血の筋が、舞い上がった。
風がおさまった。
ゆらりと立ち上がった疾風の目には、もはやハーンは映っていなかった。彼はぎろりと、鋭い目でライカを睨みつけた。
ライカは殺気に飲まれ、動けなくなった。怯えているのがルードに伝わってくる。
[小娘がぁっ!]
疾風が吠える。
「あ……わたし……」
刺客の言葉は分からなくとも、ライカは震えあがった。
疾風は即座に懐に手をやると、ライカに向かって何かを投げつけた!
(短刀だ!)
短刀はきらりと光り、まっすぐライカを狙っている。当のライカは――やはり動けない!
ルードの想いが、一瞬にして一つにまとまった。
(俺に何が出来る?)
先ほど心の奥にうごめいていた、彼の純粋な想い。
それが今、もぞりと音を立て、心の表層に躍りでた。
(何が出来る……今!)
(……これしかない!)
ルードは何のためらいもなく、想いのままに行動した。
ざぐり――
それは瞬く間もないほど短い間の出来事だった。
ライカは知った。自分の前にルードが立ちはだかるのを。次に彼女は、 ルードの身体に当たる、鋭い音を聞いた。
ルードはしばらくそこに立っていたが、声もあげずに地面へと倒れ伏した。彼の胸に刺さっているのは――短刀だ!
「ル……、ルード!!」
我に返ったライカは悲痛な声で叫んだ。
ルードは身を呈してライカを凶刃から守った。それこそが、ルードに“出来ること”だったのだ――!
「ルード、ルード!」
ライカはルードの前にかがみ込む。
ルードは朦朧とした意識の中、胸に突き刺さった短刀を何とか自力で抜いていたが、あとはどうしようもなかった。暖かい血がどくどくと湧き出て、服を汚していくのが分かる。目の前には今にも泣きそうな面もちのライカの顔があった。
「ルード、ねえルード! しっかりしてよぉ!」
ライカはルードの頭を抱き抱え、涙をこぼしはじめた。ルードは自分もまた泣いているのに気がついた。
(そうか……俺、もうすぐ死んじまうんだ……)
死が、鮮明に感じられた。だが恐れはない。
(今、ライカを守れなかったら、それこそ後悔するだろう……)
(そうだ、これでいいんだよ……)
(これでよかったんだ……)
三.
しばらくして、ルードの意識は急に明瞭になった。目をゆっくりとあける。
光しか感じられないぼんやりとした情景から次第に焦点が合い、ハーンと、ライカの顔が視界に飛び込んできた。身体が動かない。ハーンが手当をしてくれたのだろうか、胸の痛みは薄れているが、湧き出す血は止まらない。すでに、手足の感覚がなくなってしまっていた。
あたりは静まり返り、何も聞こえない。
それは――緩慢過ぎるほどの平穏さだった。
「ハ……ハーン」
本当に自分の声かと訝るくらい、それは弱々しい声だった。ハーンは、その声を聞いて安堵の顔を見せる。彼自身、まだ胴から血を滲ませているというのに。
「奴……は……?」
「大丈夫」
そう言ってハーンは、ルードの手をしっかりと握りしめる。
「君とライカのおかげで、まちがいなく倒したよ。どうやら彼は、ルードとライカが事件の中心だというふうには思ってなかったみたいだね。僕こそが危険なな存在だと、勘違いしてたみたいだった」
ハーンは血糊がべったりとついた剣を見せた。ハーンが疾風を屠った事実から、幼い頃の戦争の記憶がルードの頭をよぎった。が、そんな嫌悪感は、自分の胸からあふれる血によって押し流されてしまった。
「わたし……でも!」
ライカがしゃくりあげながら声を出した。
「でも、ルードがこんなことになっちゃって……」
彼女は顔を涙でくしゃくしゃにして、ごめんなさい、と何度も何度も謝った。そんなライカを見て、ルードは両手をゆるゆると伸ばし、ライカの頬にそっと触れた。ライカはルードを見つめ、両の手でぎゅっとルードの手を握りしめた。
「ルードぉ……うう……」
「ちょっと俺も……しくっちまったよね……」
死が自分をいざなっているのを知りながら、ルードは落ち着いた、優しい声でライカに語りかけた。
「でもさ、後悔なんかしてないよ? ……だって俺は、ああいうふうにすべきだったんだからさ……」
そこまで言って、ルードは激しく咳き込んだ。なま暖かいものが口の回りに流れる。
「ルード!!」
異口同音に二人が言う。
「……ごめん。ここまでみたいだ……ライカ……頑張って、ことを最後まで見届けてくれ……」
「いやよ……ルード……一緒に行くって、私を帰してくれるって約束したでしょ?」
ライカはルードの手をもっと強く握りしめた。彼女のいじらしい言葉を聞き、ルードは目頭が熱くなるのを感じた。
「ライカ、分かってくれ……悪いと思ってる。……ハーン……」
「……なんだい?」
「ライカを守ってほしい……それと……」
「うん?」
「ハーンの持ってる剣を、もう一回握らせてくれないか?」
ハーンは、横に置いてあった銀色の剣を持ち出すと、疾風の血糊をふき取った。そしてルードの両腕を胸の上で十字に組ませると、剣をルードの両手に握らせた。剣は陽の光を受けたためか、一瞬まばゆく光った。
「ルードだったら、この剣を使いこなせるさ」
ハーンはにっこりと笑って、優しく語った。
「ありがとう……」
ハーンの言葉のせいか、剣を握った手から何かが流れ込んでくるような気さえした。だが、もはやルードは、意識を保つことすらつらかった。
目を閉じてしまえ! という心の声がだんだんと大きくなってくる。
(……そうだな……)
(それも……いいかもな……)
(ライカ……ごめん……)
(帰る方法を見つけるって……約束したのにな……)
そして――
ルードはゆっくりと目を閉じ――
意識が無に帰すのを感じながら――
死に向かって行った――