『赤のミスティンキル』 第二部

§ 第五章 魔境の島

(一)

 ――ここに、魔導王国ラミシスの興亡について、あらためて著述する――

 今から遡ること千年ほど昔。世は統一国家アズニール王朝の時代。
 古代史研究家ノスクウェン・ルビスは、西方大陸《エヴェルク》のアル・フェイロス遺跡での探索中に一冊の本を見いだす。これこそが、古代アル・フェイロス時代に記述された魔法書だった。
 ルビスは親友の術使いクェルターグ・ラミシスと共に魔法書の判読に没頭していき、失われた魔法の体系を復活させた。ここに魔法学が誕生し、大規模な研究が進められることになった。
 術の素養を持つ者達がルビスらのもとを訪れるようになり、やがてルビスの住むヘイルワッドの町は、魔法研究の中枢として大いに発展していくことになるのだ。

 魔法体系は、クェルターグの孫ジェネーアの代には完成の域に達し、さらなる魔法研究が深耕されていくが、ジェネーアはその過程で錯乱状態に陥り、自ら発動した魔術によっていずこかに行方をくらました。
 ジェネーア・ラミシスは失踪後、魔法の禁断の領域である不死を追求しはじめた。
 ラミシスのもとに集った魔法使いのうち、最も才覚を現した者こそがスガルトであった。不死の研究の過程において、ジェネーアは自らの体を滅ぼし、魂をスガルトに宿らせたという。

 スガルトは“漆黒の導師”を名乗り、東方大陸《ユードフェンリル》南部の島に、ラミシス王国を興した。この魔導王国の目的は不死性を求めること。魔法という大いなる力を究極まで肥大化させることによって神々の領域に近づくことをその目的としていたのだ。

 ついにラミシス打倒の勢力が決起した。その筆頭は魔導師シング・ディール。彼はスガルトの血族であるが、漆黒の魔導師の狂気から逃れるために離縁していた。ディールはアズニール諸卿より助力を受け、軍勢を引き連れてラミシスに攻め入る。
 しかし、大陸と島とを隔てるスフフォイル海を渡る際、強力な魔力障壁に阻まれて戦力は壊滅、ディールは敗走することになる。

 ディールを助けたのは龍《ドゥール・サウベレーン》のヒュールリットだった。朱色《あけいろ》のヒュールリットは、“黒き災厄の時代”以来、未だ目を覚まさない龍達を呼び起こした。
 龍達はディールと共に行動を起こした。ディールとその軍勢は龍に乗り、“壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼによる魔法障壁を打破してついに魔導王国へと至った。
 戦いをくぐり抜けたディールはヒュールリットと共に、王城オーヴ・ディンデの玉座の間に降り立った。魔法を極めた王スガルトといえども、龍とディールの力には敵わず、ディールの鍛えた剣、漆黒の雄飛“レヒン・ティルル”によって葬り去られた。
 王を失ったラミシスは浮き足立ち、アズニール軍と龍達によってあっけなく滅び去った。

 ――以来この島を訪れる者は絶え、邪気は消え失せ、島は自然に還って静けさを取り戻すのだった――

◆◆◆◆

 そして――
 今なお、ラミシスの島の全容は杳《よう》として知れない。人が住まない、人の立ち入りを拒絶する領域であるために、調査を行う必要がないことも理由のひとつだ。ただ、過去この地を訪れた者が記した文献や、冒険者――カストルウェンとレオウドゥール――の勲《いさおし》、ラミシス王国の人間が描いた地図によって、ある程度判明している部分もある。
 例えば大きさは、島と言うより陸地と言ったほうが近いと思われる。端から端まで踏破するのにかかる日数は、仮にすべて平地だとしても徒歩で一週間は要するとされている。ゆえに、アリューザ・ガルド北西にあるフェル・アルム島よりさらに大きな面積を持つというのが憶測だ。
 島の南東――王城がある中枢部と、中央部――枯れ野と呼ばれる平民の居住地域は平野だが、島はそのほとんどが森林で覆われている。ラミシス建国に際しては農耕地の確保のために大規模な開拓が行われたであろう。が、自然の力には勝てず、ラミシスは国家として大きくなることはできなかった。

 島の全域にわたって、海に面している周囲の陸地はすべて断崖絶壁となっており、ユードフェンリル大陸からの渡航者の往来を拒絶する。波の浸食によるものか、分厚い氷河が削り落としたものか――形成の経緯は定かではないが、ともかくこの岸壁は、三フィーレから高いところで四フィーレもの高さを誇る。
 当時、ラミシスの王国から逃げ出す者は、壁の塔からの監視の目を盗みながら、垂直の断崖に挑戦しなければならなかったのだ。飛行の術を行使できるような高位の魔法使いを除いては。落ちたとしたら下は岩場。助かるはずがない。ただし例外はある。大陸とのわずかな交易のために小さな港がもうけられ、その区域からのみ長く狭い坂を伝って島内に入り込むことが出来るようになっていた。

 ラミシスの島は外界とは隔絶された空間なのだ。

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(二)

 “壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼ。
 白い塔は、島の北西の突端――険しく切り立った岸壁から天を貫くようにまっすぐそびえ立っており、高さは四フィーレにも及ぶ。人工建造物としては他に類を見ない大きさである。唯一、匹敵するものは西方大陸《エヴェルク》にある世界樹くらいのものだろう。ただしあれは自然の創りだした奇跡だ。

 この塔は魔導王国ラミシスの非常に重要な防衛拠点であった。他国に攻め入るためではなく、防衛を目的として建造された。
 魔導師が編み上げた魔法を塔の構造が増幅させ、スフフォイル海に向けて強力な魔法障壁を展開させることができた。この壁は忌まわしい呪詛を持っており、アズニール軍をたやすく壊滅に追い込むほどの絶対的威力を持っていた。ラミシスの防衛体制は鉄壁だったのだ。
 しかし魔導師ディール率いるアズニール王朝軍は、次には龍《ドゥール・サウベレーン》達と共に攻め入り、龍の膨大な魔力をもって魔法障壁に対抗し、激しいせめぎ合いの果てについに障壁を突破したのだ。魔導師達は次なる障壁をすぐさま作りあげたものの、急造の魔法障壁では大いなる龍の力に勝てなかった。そしてこの地で龍と魔導師による戦いが繰り広げられる。三日三晩にわたる攻防の果てにアズニール王朝軍は“壁の塔”の攻略に成功、塔は陥落したのだった。

◆◆◆◆

 時は現在。
 襲いかかってきた竜《ゾアヴァンゲル》達を討ち果たしたミスティンキルとウィムリーフは、再び蒼龍アザスタンの背に乗って空を飛び、陸地を目指した。ただし霧がまとわりついてくるため、おおよその方角しか分からない。そこで地に詳しいヒュールリットは先行し、道案内役を務めるのだった。
 ミスティンキルもウィムリーフも今や精魂使い果たし、龍の背びれに寄りかかって茫然としていた。初めての戦闘行動。しかも竜との戦いである。
「あんな化け物をよく倒せたもんだな、おれ達は……」
 誰に呼びかけるでもなく、ミスティンキルは独りごちた。
 二人は各々の水筒から水を口に含み、またため息。その間の抜けた顔では“竜殺し”の勇者の名が泣くというものだが、それでも二人はぼうっとしたままだ。なんにせよ生きていてよかった。それが二人の共通した認識であろう。
 やがてウィムリーフが口を開いた。
「あの竜達は、塔に巣くっていたのかしらね? そして彼らの縄張りの中へとあたし達が進入したものだから攻撃を仕掛けてきた――。」
「さてな。ともかく、あんな連中と真っ向から戦うのはもうこれきりにしてほしいよな。これからはもっと平穏に、遺跡の探索をしたいもんだぜ」
「本当ね、ミスト」
 言ってウィムリーフは微笑む。
「でも、備えは万全にしておかないとね。これからはいろんなかたちで、様々な困難が待ち受けているに違いない。あたし達は特別に身体を鍛え抜いてるわけでも、剣技を習得しているわけでもない。けどその分、身体の中に力を持っている。純然たる赤と青という魔力をね。大きなその力を魔法に変えて、危険をくぐり抜けていきましょう。大丈夫、あたし達ならきっとできる!」
 二人はまた口に水を含んだ。
「そういやさ――最後の龍を倒したときのウィム、凄かったな。竜を二匹、一瞬のうちに消しさっちまうだなんて。あれこそ必殺の攻撃魔法だ。――月での魔導復活の時、ウィムにもちゃんと魔導は継承されてたんだな」
 ミスティンキルは戦いのことを思い出す。ウィムリーフが発した二本の青い氷柱が一瞬で竜達を貫いて、青白い光とともに消滅させたことを。当の本人たるウィムリーフの顔を見るが、彼女の表情は今ひとつ冴えない。
「ごめん。覚えてないのよ。あの時――いきなり襲ってきた竜を目の前に見てしまって、あまりの突然な事に動けなくなるし頭は混乱するし――真っ白。とにかく怖くて目を閉じたのは覚えてる。死にたくないって思ってね。……それで次に意識が戻ったときには眼前で竜が消え失せるところだったのよ」
 ウィムリーフは懸命に当時の様子を思い出そうとしているが、その間の記憶だけはぽっかりと抜け落ち、空白のままなのだ。しかし実際に、攻撃の魔法はウィムリーフによって発動された。
「今までだって、何度あたしが願っても魔法は発動されなかったのに、今回は発動した。……本当にあたしの力だっていうの? 分からない……」
「ふうん。あれはウィムの本能がそうさせたのかもしれないぜ? ここ一番って時にはウィムも強力な魔法が使えるかもしれない。お前さんは頭がいいから、おれ以上に力を引き出せると思うよ。……まあでもこれから先、そんな大それた魔法を使わずにすむに越したことはないんだがな。危険な目なんかあいたくねえし」
 気にすんな、そう言ってミスティンキルはウィムリーフをいたわった。一方のウィムリーフはまだ合点がいかない様子で晴れない笑みを浮かべた。
 やがて霧がぱあっと晴れ、太陽が顔を見せた。

◆◆◆◆

 冒険家一行はいよいよ島の上空に入り、“壁の塔”にさらに近づいた。
 天へ突き抜けるようにまっすぐ伸びる、板のような造形の建造物はまさに壁そのものである。
 ミスティンキルら二人はそびえ立つ塔の存在感に圧倒されていた。遠くからでも表面に描かれた壁画が見事だと分かっていたが、こうして近くで見ると精緻を極めていることがよく分かる。石を彫って創られた見事な芸術品だ。しかも単なる作品ではない。人や獣、龍を象った図像は、それ自体に意味を含ませていることが伺える。塔の形状や色、中央の魔法陣――これらの図像を総括することによって、魔法的な力が生み出されるのだろうか。かつての魔法障壁や、今しがたの微弱な魔力を含んだ霧のように。

「魔法的になにか意味があるんでしょうね。図画にしても建築の様式にしても。中央の魔法陣もほんとう、見事なこと。……これは描かなきゃならないわ! 意味なんか、今は分からなくてもいい。図書館かどこかで文献をあたってみれば、なんかしらの答えは出るはず」
 戦いで疲れていることも忘れて、ウィムリーフは自分の荷袋をがさごそとあさり、画材用具を探し出した。彼女の、この冒険にかける情熱は相当なものである。
「見つかった! まあなんにしても、すべては着地してからね――アザスタン。聞こえるかしら?」
 ウィムリーフの呼び声にアザスタンが【応】と答える。
「夕方も近いだろうし、今日はそろそろ終わりにしましょう。塔のそばに降りて、寝床を設営しないと。……ミストもそれでいい?」
 ミスティンキルは黙ったまま、こくりと頷いた。彼の腹時計はそろそろ夕方近いことを告げている。
「あたし達が疲れたざまじゃあ、島に跋扈《ばっこ》する悪鬼や怨霊相手にやられちゃうわ。とにかく英気を養わないとね!」
【ならば約束どおり、私の案内はここまでだ。私は自らの領域へ戻る】
 ヒュールリットが告げる。
「ヒュールリット、あなたは来ないの?」
【ああ。ラミシスの王を打ち倒したという過去の因縁があるゆえに、私はその因縁に縛られて動けなくなる恐れがある。つまり呪いだ】
 朱色の龍は答えた。
「なら、仕方ねえな。もともとおれ達だけで行こうとしていたんだから、あんたを煩わせるわけにもいかねえだろう。ここでおさらばだな」
 と、ミスティンキルは淡々と言った。
【――だが、ふむ。貴君らを捨て置くのは私の義に反する。竜殺しの勇者達よ、魔境を巡る冒険家達よ、もし貴君らに危険が迫り、助けを求めるのならばいつでも参じよう。赤水晶《クィル・バラン》を天にかざし真円を描き、貴君らの名を明かしたあとにこう唱えるがいい。

“ケルスタ・アーンエデュヴイガック・ノマ・ヘウルリェット(召致に応じよ、汝が名はヒュールリット)”

――と。さすれば私は駆けつけ、助けになろう】

 それからアザスタンは巨大な塔をくるくると旋回したのち、塔の入り口近くを選んで着地した。周辺には高い木はそびえ立っていない。塔が日光を遮ってしまっているためだろう。
 背中に乗っていたミスティンキルとウィムリーフはおのおのの荷物を背負って飛び降りた。
「さあ、ようやく到着ね!」
 ウィムリーフは晴れ晴れとした表情でそう言い、大きく気持ちよさそうに伸びをした。ミスティンキルもひさびさの土の感触に思わず顔をほころばせた。
【――では私は戻る。この地はまさに魔境。何があるか分からぬから気を許すなよ。ミスティンキルにウィムリーフ。貴君らに誉れあれ。そしてデューウ《はらから》よ、龍王様よりの使命を無事果たしてくれよ】
 朱色《あけいろ》のヒュールリットはそう言い残して北方の空へと飛び去った。来るとき同様、猛烈な速さで。みるみるうちに彼の姿は空の彼方へ見えなくなっていく。
「ありがとう、偉大な龍、朱色のヒュールリット!」
 ミスティンキルとウィムリーフは手を振ってヒュールリットと別れた。

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(三)

 かくして――蒼龍アザスタンの背に乗り、朱色《あけいろ》のヒュールリットを説得し、竜《ゾアヴァンゲル》どもを討ち果たしたミスティンキルとウィムリーフは、とうとう目的地であるラミシスの島へと降り立った。龍《ドゥール・サウベレーン》を味方につけた彼らは、デュンサアルから旅立ってわずか二日あまりでやってのけたのだ。

 上陸した彼らが、否、ウィムリーフがまず行ったことは、島の命名であった。今まで名前がなかったこの島の正式名称を、フィレイク王国の由緒正しい地史学会に申請しようというのだ。市井に伝播するには長い時間がかかるだろう。しかしウィムリーフはずいぶんと前から――ひょっとするとこの旅に出ると決意した頃からかもしれない――このことを考えていたようだ。
 彼女はまず、島にある大きな二つの死火山を古のハフト語で名付けた。南西の山を“ロス・ヨグ”、南東の山を“ロス・オム”とした。そして島の名前は“二つの角”を意味する“メリュウラ島”とした。
「どうかしら?」
 目を輝かせているウィムリーフに対し、ミスティンキルは苦笑しながら頷いた。
「ウィムがそうしたいんならそれでいいんじゃねえか。この島は今からメリュウラ島だ」

 古い文献や唄によると、ミスティンキル達が今いる“壁の塔”から南東へ、つまりロス・オムの山の方角を目指して進んでいけば、魔導王国ラミシスの中枢たるオーヴ・ディンデ城がある地へとたどり着けるとのことだ。そこに行くまでの道のりは決して容易なものではない。魔導王国が存在したのは遙か昔のこと。今や島の環境はほぼ自然に還っているからだ。
 かつてこの島を踏破したカストルウェンとレオウドゥールの冒険を語った勲《いさおし》によると、森をくぐり抜け湿原を歩き、居住地たる枯れ野を通り越し平原を闊歩して、ようやくオーヴ・ディンデに至るという。ただし彼らは強力な結界に阻まれて、ついに城にはたどり着けなかった。魔導王国崩壊後、オーヴ・ディンデに入城できた者は誰一人としていないのだ。
 そして今。ウィムリーフは空を飛行して――アザスタンの背に乗って――オーヴ・ディンデへ向かうことを決めた。森や湿原といった自然に阻まれることなく、しかも短時間で到着できるからだ。なんとしてもオーヴ・ディンデへ入城すること。それが今回の冒険行においてウィムリーフが達成するべき第一目標なのだ。魔導をも復活せしめた自分たちの魔法力があれば、オーヴ・ディンデを囲む結界についても、あるいは何とかなるかもしれない。それにほかの場所については、オーヴ・ディンデの調査が終わった後に余裕をもって回っていけばよい。食糧が尽きない範囲で。
 いよいよ明日から、メリュウラ島での探索行が始まる。

◆◆◆◆

 夕方。野営地の設営を終えた彼らは、思い思いの行動をとっていた。
 ミスティンキルは新鮮な魚を夕食にするべく、木の枝で急造した簡易な竿を手にすると、断崖から飛び立って眼下の岸辺に降り立った。四フィーレもの高さを恐れることなく飛び降りることができたのは、ただひとえにひさびさの釣りを楽しみたかったからだ。
 潮のにおいがなんともいえず心地よい。そういえば釣りをするなんて故郷を離れてからとんとしていなかったな、とミスティンキルは思い出した。故郷のラディキア群島沖で、彼ら漁師は日がな一日舟に乗って釣り竿を垂らしていたものだ。凪いでいる沖合でゆったり過ぎていく時間を楽しむこともあったし、無理を押してしけた海に乗り出してひどく後悔したこともある。
(網を張ったり、海に潜ったりなんてこともやってたな)
 このスフフォイル海の遙か西方には、暖かなラディキアの海が広がっている。漁師仲間達は元気でやっているだろうか。今となっては懐かしい日々を、ミスティンキルは素直に回顧できる。嫌なことも多々あったし、それが元で故郷から離れてしまっているわけだが、今更憤慨するには至らない。自分を追い出した者達に復讐してやるという感情も、まったく湧かなくなっていた。
 確固とした力を手に入れたために。そして、得難い相棒を得たために。

 ミスティンキルは針と餌、そして重りを糸につけると海へ向かって投げ入れた。それから岩肌に座り込み、遙か崖の上、“壁の塔”を仰ぎ見る。ウィムリーフがそこで滞空していた。
 ウィムリーフは画材を手にして、“壁の塔”を入念に描写している。魔法学の衰退した現在にあって、これほどまでに大きな魔法図象など他の地方では決して目にすることなどあり得ない――この世界に存在する四つの魔導塔あとを除けば。
 ウィムリーフは一刻ほどかけて丁寧に海側の壁画を写し終わると、今度は裏に回ってまた描き始めた。遙か下方から見上げると、彼女の姿など豆粒ほどにしか見えないが、それでも楽しくて仕方ないさまがはっきりと伝わってくるのだ。ミスティンキルは笑みを浮かべた。

 さて、そんな彼女の熱心な様子を見ているうちに、ミスティンキルも夕食には十分な魚を釣り上げることができたので、心残りながらも釣りを切り上げることにした。魚を入れた網を担ぎ上げると、岸壁の上、野営地を目指して飛び上がっていく。

 夜を迎えると空気が肌寒く感じられるようになった。ここの気候はデュンサアル周辺ともまた違う。人里などないせいだろうか。
 ミスティンキル達は野生の動物達や悪戯好きな鬼どもを寄せ付けさせないために野営地に篝火《かがりび》を起こした。さらにウィムリーフが風による結界を張る。
 そうして得た食事の時は何とも言えず楽しいものだった。久々にアザスタンも龍戦士の姿をとり、三人で魚料理を楽しんだ。

◆◆◆◆

 夜も更けた頃、ミスティンキルは悪夢に苛まれていた。それは忘れ去っていたはずの、かつて頻繁に見ていた夢だった。

 悪夢は白い闇を映す。そしてそのどことも知れない虚ろな靄のかかった空間に浮かび上がってくるのは、やはり昔と同じくミスティンキルの家族達だ。彼らは一様に悲しさと恐れを併せ持った表情でミスティンキルを見据える。彼らの眼差しから目を背けたいと願うが、体はこわばり全く動けない。かつてこの悪夢を見続けていたときと同じく。
 ――二度とうちには戻ってくるな。忌まわしい、赤目のミスティンキル!
 家族の慈悲のない総意が悪意に満ちたひとつの大きな声となって、ミスティンキルの心を打ち砕いた――

(なんで……あんなひでえ夢をまた見ちまうなんて……!)
 ミスティンキルは呪縛から目覚めた。毛布の中で、彼は涙をぽろぽろと流しているのに気付く。
(くそ!)
 彼は上半身を起こして涙をぬぐう。この行き場のない悲しみと怒りをどこに向ければいいのか。手近にある毛布を殴りつけることしかできなかった。多少気が晴れたところで周囲を見ると、ウィムリーフの姿がない。しばらく待ってみたが帰ってくる様子がないので、心配になったミスティンキルはテントから外に出てみることにした。

 断崖の上。果たしてウィムリーフはそこに佇んでいた。彼女を覆い包むのは、彼女自身の魔力である青い光。ウィムリーフは青くほのかに輝きながら、天上の月を身じろぎせずに見つめていた。月は円に近づきつつあり、放たれた月光は海に照らされて妖しくうごめく。聞こえるのは海風の響きと波の打つ音のみ。
 その光景が、触れてはならないもののように美しかったので、ミスティンキルは声をかけるのをためらった。
「――起きたのね」
 ウィムリーフは頭をミスティンキルの方に向け、そう言った。心なしか、彼女の声色はいつもより冷たく感じる。魔力に覆われているせいだろうか。
 ウィムリーフは静かに言葉を続けた。
「あたしも目が覚めちゃったんだ。……なんとも……いやな夢を見てね。目が覚めたら覚めたで見てのとおり、魔力が身体を包み込んで解けないし……。なんとなく外に出て月を見たくなった。こうして月を見てるとさ、ああ、あれからひと月が経ったのかあ、って思いにふけちゃって。――あたし達が月から帰ってきてからひと月なのよ。ほんとう、いろんなことがあったなあって……これからも――」
 言って、彼女は自分の身体を軽く両腕で抱きしめるような仕草を見せた。月光のもと、青い光に包まれた彼女は本当に美しい。そしてどこか悲しげなふうにも見える。
 ミスティンキルはテントに戻るよう言おうと思ったが、やめた。ウィムリーフの背中から両肩に手を置くと、共に月を眺めていることにした。青い光はミスティンキルをも包み込む。それはどこか異質な感じさえしたので、ミスティンキルは内心不安を覚えた。
「せっかくここまで辿り着いたっていうのになんでだろう。どうにも穏やかでいられないのよ」
「不安なのはおれも同じだ。おれもいやな夢を見ちまっていたからな。不安なのは、でっけえことをやろうとしてるからだろう。でもおれ達はあの月で、でっけえことをやってきた。だから今度も大丈夫だ」
 それから彼らは一言も語らず、ただ月を見ていた。月が雲に隠れるまでの間、ずっと。ここは二人だけの空間だった――誰にも、野生生物や魔物にも邪魔されない――。今のこの時間こそが彼らにとって貴重な時間だということを、知らず知らず感じ取っていたのかもしれない。

 月が隠れると彼らは無言のままテントに戻った。だがウィムリーフを覆う青い力はそのまま。彼女がどう願っても元に戻らないので、仕方なくウィムリーフは、お休み、と言うと寝てしまうことにした。一方のミスティンキルも毛布をかぶった。そしてすぐに眠りに落ちていった。夢は見なかった。

◆◆◆◆

 翌朝、毛布にしがみついているミスティンキルをウィムリーフはたたき起こした。そこにいたのはいつものウィムリーフであった。身体を覆っていた青い力も消え失せている。本当に、今までどおりの彼女。
「さあ、おはようミスト! 食事をとったら出発するわよ!」
 ウィムリーフは朗らかに言い放った。

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(四)

 今日の朝食は昨晩の残り物だが、それでも彼らにとって新鮮な食材は大したごちそうだった。これからの冒険行では食事に関して期待など持てない。ここが全貌知れぬ魔境の島ゆえに。ほかのことを差し置いてもまず自分の命を守る事こそが一番大事なのだ。

 朝からウィムリーフは機嫌が良い。今も鼻歌を歌いながらにこにこと自分の荷支度をしている。
「さあて、一気に王城へ――オーヴ・ディンデへ進むわよ!」
 ウィムリーフは真っ先に旅支度を整えると高らかに宣言した。彼女は南西のロス・オム山を――王城の方角を指さす。
 それを合図にアザスタンは龍戦士から巨大な蒼龍へと変化《へんげ》し、ミスティンキルとウィムリーフはその背に乗る。準備万端。アザスタンは大地を蹴り、大きな翼をはためかせた。
 いよいよメリュウラ島での冒険のはじまりだ。

「……霧が出てきたな」
 ミスティンキルは、龍の背越しに眼下の草原を見下ろして言った。早朝も草原には朝靄が立ちこめていたが、今はもっと濃い霧へと変化している。
「この島は一年を通じて濃い霧に覆われているって文献にあったからね。……アザスタン、もっと上空まで昇っていって! 霧が視界を遮らない高さまで!」
【応】
 アザスタンは言葉を返すと頭を天空に向け、ぐんと急上昇を始めた。そびえ立つ“壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼの頂上をも、あっという間に追い越してしまう。
 蒼龍の急上昇に対してウィムリーフは余裕の体《てい》だが、ミスティンキルは肝を冷やし、龍の背びれにがっしりとしがみつく。
(この野郎。こういう心臓に悪い動きは無しにしようって言ったじゃねえかよ!)
 彼が龍に悪態をつこうとしたとき、それを察知していたかのようにアザスタンは上昇をやめ、再び緩やかな滑空飛行に移った。ミスティンキルは大きく息をついた。

 前方にはうっそうと茂る森林地帯が広がっている。この森林もまた濃霧に包まれており、なんとも言えぬ神秘的な静謐《せいひつ》さを醸し出している。地面を歩く人間にとっては迷いの森以外の何物でも無いが、こうして上空を飛んでしまえば何のことはない。三者は遙か前方に見えるロス・オム山を目印に一直線に飛ぶ。龍の飛行は安定しており、行く手を阻む雨雲などもない。昼下がりには森を脱けることができるだろう。それでも半日も費やすというのだから、森林地帯の広大さが推して知れよう。
「でっけえ森だなあ!」
 ミスティンキルが感嘆する。
「確かにね。魔導王国が在った日にはちゃんと径がつくられていたんでしょうけど、もう大昔の事ね! もうすっかり自然に還ってる。……知ってるかしら。“世界樹”があるウォリビアの大森林は、この森よりずっと広いのよ。あたしもそこに行ったことないけどね」
 ウィムリーフは感慨深そうに言った。
「エシアルルと、その王が住む森、か」
「世界樹には絶対に行ってみたいわ! ファルダイン様にもきちんと謁見するの」
 ウィムリーフは目を輝かせて言った。

 今より二百年ほど前、カストルウェン王子とレオウドゥール王子はこの島の探索を終えたあと、世界樹に赴いてエシアルル王ファルダインに謁見し、島の様子をつぶさに語った。二者の体験談から不安を感じたファルダインは朱色《あけいろ》の龍、ヒュールリットに騎乗してオーヴ・ディンデへ向かおうとした。しかしオーヴ・ディンデ城は結界に阻まれており、力ある二者をもってしてもどうすることもできなかった。魔導王国が滅びたのちも、形容し難い謎と脅威が存在し続けている――心せよ。それは先だって、ヒュールリットがミスティンキル達に明かしたとおりである。
 ヒュールリットはミスティンキル達を希望だと考えている。そして彼は願っている。ミスティンキル達の冒険をもってして、数百年に及ぶ自らとラミシスとの因縁に終止符を打ってほしい、と。

「……そう。オーヴ・ディンデの謎を解き明かしたら――ファルダイン様とヒュールリットにきちんと報告しなきゃ。挫けてなんていられないわ」
 ウィムリーフは前方を真っ直ぐに、きっと見据えた。彼女の真摯な眼差しからは、成し遂げようとする強い意志を感じる。
「……いい調子ね。湿原を抜けるあたりまで今日は進もうかしら。あ、あとこの森の名前どうしよう?」
 彼女は手帳を手にしてしばらく楽しげに思案に暮れたあと、
「“シュバウディン森林”。古《いにしえ》のハフト語で“黒と白”って意味。この黒い森と白い霧の対比をそのまま表してみたの。ね、どう思う?」
「いい響きだな。いいさ、ここは今からシュバ……」
「シュバウディン森林」
「そう、それにしよう。ああ。それでいい」
 ミスティンキルは純朴に笑ってみせた。

 だが、そんな二人の高揚した気分は突然水を差されることになるのだ。
 順調にシュバウディン森林の上を飛び続け、霧の向こうにそろそろ森の終わりが見えてきた頃――

◆◆◆◆

【……呪いだ】
 不意にアザスタンが唸った。
【気付かんか? わしは飛行するものに対する呪縛に食らいつかれた。これは強すぎる。龍のわしをもってしても破れんぞ】
「アザスタン?!」
 突然の悪い知らせに二人はぎょっとした。
【……きついな。だが森だけは我が誇りにかけて越えてみせる。そのあとは……】
 龍は小さく啼くと速度を落とし、苦しそうに鼻からしゅうしゅうと煙を出した。翼をはためかせるのを止め、広げたままの滑空飛行を続ける。徐々に、ではあるが速度も高度も下がっていく。
「おい、だいじょうぶなのかよ?!」
 ミスティンキルはおたおたと慌てた。
【ふん。……戦慄すべき“魔界《サビュラヘム》”に乗り込んだときのことを思えば、この程度大したものではないわ】
 アザスタンは負けん気を叩くが、気力体力の衰えはミスティンキルにも見て取れるほど酷いものだ。このままではアザスタンは呪い殺されてしまうのではないか。
 しかし――そもそもどれほどの呪いなのだろうか。ミスティンキルはふと思った。魔導を継承した自分ならばもしかしたら解呪ができるかもしれない。
(どれ、どんなものなのか、やってみるか)
 ミスティンキルは安易な気持ちで翼を解放しようとした。

「――!!」
 途端、耳をつんざく轟音と共に、ミスティンキルの視野が暗黒に染まった。
「ぐ……が……!」
 痛い! 今まで感じたことのない奇妙な激痛が、翼から心の臓にまで即座に到達する。翼はちぎれ、身体はばらばらに、心臓は破裂する――錯覚にすぎないのだろうが、ミスティンキルは自分が千々に砕けていくさまを感じとった。たまらず身をよじるが全くの無意味だった。
「――!!」
 呼吸ができない! 体力気力が根こそぎ無くなっていく! 自分ではどうしようもできない! “炎の界《デ・イグ》”ですら、自分自身をしっかりと保っていたというのに!
 たまらずミスティンキルは翼をしまった。
 すると暗黒の世界はまったく元の様相に戻った。ミスティンキルは胸を押さえ、荒々しく息を吐きながら膝をついた。
「ミスト!」
 ウィムリーフが彼を抱きかかえた。
「……いや、もう大丈夫だ、ウィム。翼を出そうとするな。呪いに取り込まれるぞ……」
 ぜいぜいと荒く息を吐き出しながらミスティンキルは忠告した。
「……おあいにくさまだけど、試してみたあとよ。ぞっとしないわね」
 ウィムリーフは苦虫をかみつぶしたような面持ちで言うと、身を抱きしめてぶるぶると震えた。彼女もミスティンキル同様、呪いとやらに挑んでみたのだ。結果二人は、解呪などとうてい及びもしないことを思い知らされた。古来より呪いを解ける魔法使いというのは経験を極めた者に限られているという。魔導を継承したはずの二人をもってしても、対象たる呪いのなんたるかを知らなければ解く事、打ち克つ事はできない。今の二人では呪いの本質に辿り着く前に呪い殺されてしまう。
「魔導王国に残った呪い? ……ヒュールリットはこんな事一言も言わなかった。この呪いはいつから発動し始めたのかしらね?」
 怪訝そうな表情を浮かべるウィムリーフは次に、龍に呼びかけた。
「アザスタン! もういいわ! 無理しないで早く降りてちょうだい! あなたの事が心配なの!」
【……】
 蒼龍は無言のまま降りる体勢を取る。大いなる力を持つ龍にとっては屈辱に違いない。呪いを打ち破れずに屈するというのだから。それでもアザスタンは冷静さを保ったまま着地する場所を見極め、ちょうどよい広さの空き地に降り立った。

「アザスタン……」
 荷物を背負ったウィムリーフは龍の背から飛び降りると、申し訳そうな面持ちで蒼龍を見上げた。
【構うな。どのみち降りるほか無かったのだ】
 龍は言うと、龍戦士の姿を象った。
「ごめんなさい。でも徒歩だけで島を行く計画も立てていたし、食料だってちゃんと見越しているわ。……なるべく抑える必要はあるけれど。じゃあ、いいかしら。行くわよ。……こっちへ」
 周囲はうっそうとした針葉樹に囲まれているが、ロス・オム山の方角を記憶していたウィムリーフは道無き道を迷わず進み始めた。ミスティンキル、アザスタンが後に続く。周囲には相も変わらず霧によって覆い尽くされ、三人の視界を遮る。
 ミスティンキルはふと思い立ち、簡単な術を行使した。赤く小さな光球が三人の前方に現れると、半フィーレほど前方に飛んでいく。
「こんな迷いの森じゃあ、真っ直ぐ進んでるつもりが堂々巡りになっちまうことだってある。あれは正確にまっすぐな位置を指し示す珠だ」とミスティンキル。
「ありがと。ちょっとした獣よけにもなりそうね」
 ウィムリーフは彼に微笑み返した。
「もうすぐ、森の出口に行き着くはず。そうしたらひと息入れましょう」
 言って彼女は前を向き、ひたすら歩いた。

 木々をかき分けて悪戦苦闘しながら進むこと二刻ほど。ようやく彼ら三人は森から抜け出ることに成功した。濃い霧が視野を阻むのは変わらないが、おそらくこの先に湿原地帯が広がっているはずだ。
「ふう……」
 ミスティンキルは汗をぬぐうと、どかと地面に座り込んだ。残り二人もそれにならう。言葉にこそ出さないが、疲労困憊していた。
「疲れた? 無理もないか」
 ウィムリーフは、自身も大きなため息をついて、漠然と前方を見渡した。
 この白い霧の遙か向こう、湿原を踏破し平原を歩き通したその先に、魔導王国の中心部が――目指すオーヴ・ディンデ城がある。
 だが。
 飛行という手段が失われた今、その道のりは間違いなく険しく危険なものになりそうだ。ウィムリーフは顔をしかめた。

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