『赤のミスティンキル』 第一部

§ 第五章 魔導を得る

(一)

『……ナク・エヴィエネテ!』
 その呪文はおそらく、ディトゥア神族の複雑きわまりない言語を、並の人間にも発音できるようにと簡素化されたものなのだろう。龍王から聞いたそのことばを、ミスティンキルは意味も分からぬまま唱えた。声がややうわずり震えていたのは、人智を越えた業、すなわち次元を跳躍することに対する恐れのためか。転移に失敗すれば、炎の界にもアリューザ・ガルドにも再び戻ることは叶わず、身が滅びるまで次元の狭間のただ中をさまようほか無いのだ。
 事実、彼の唱えた呪文の発音は、やや正確性に欠けており、ひょっとすると彼は次元の狭間の彷徨者と成り果てていたのかも知れない。だが、ミスティンキルが生まれついて持ち得ていた強大な魔力と、魔法に対する素質が、呪文の効力を本来あるべきものへと修正した。なによりそれ以上に、今のミスティンキルは強い意志を持っていた。何が何でもウィムリーフに会うという意志を。
 強い意志――願いは、ほかの何よりも勝り、力を発揮する。
 そして目の前の空間がとぐろを巻いて歪みゆき――門をくぐり抜けた先もまた、星の瞬く夜空が天空一面に広がっていたのだった。

 空の様相こそ先ほどの情景と酷似しているようだが、どうやら次元の跳躍は発動したようだ。今はまったく別の場所に佇んでいるのだということを、彼の感覚が彼自身に教えてくれた。
 ミスティンキルの背後では、次元の門が姿を消していった。ふと、ミスティンキルが振り返った時には、すでに門はあとかけらもなくなっていた。これでもう、“炎の界《デ・イグ》”には戻ることが出来なくなった。龍王イリリエンが言ったとおり、これから先は“自由なる者”イーツシュレウとやらに会うしか、アリューザ・ガルドに帰還するすべはないのだろう。

 ここは月の界だという。アリューザ・ガルドの空に浮かび、白銀の光を夜の地上に落とす、あの月だ。
 夜空を埋め尽くす星々の本質とは、諸次元のそれぞれが放つ煌めきだ、と龍王は言った。弱々しく灯る星もあれば、輝きを放って強く存在感を主張する星もまたある。
 ならば煌々と照る巨大な星――月というものは、それら星々の中でも特別な存在なのだろう。それに、毎夜かたちを変える月を見上げる時、人は誰しも、何かしら敬虔な感情を胸に抱かずにはいられないのだ。

 実際のところ、月の世界は神秘的な雰囲気に包まれていた。そしてここは、“炎の界《デ・イグ》”ともまた異なる摂理が支配する世界でもある。“炎の界《デ・イグ》”では、精神体のみが自身の全存在であったのだが、ここでは違うのだ。完全な物質界であるアリューザ・ガルドほどではないにせよ、月の世界では、物質という概念が確固として存在しているのだろう。
 彼の身体が落下しかけたのは、まさにそのためである。
 この世界に顕現して、ミスティンキルは実体を得たのだが、あまりに突然の変化に対して彼の翼は順応できず、刹那、揚力を失ったのだ。慌てふためいたミスティンキルは意識を集中させ、懸命に翼をはためかせつつ宙に留まるのであった。肉体の重さを気にかけることなく、彼が自在に飛べるようになるには、まだ時間を要するようだ。
(あいつはなんだって、あんなにやすやすと空を飛び回れるんだ? おれはこうやって、はためいてるのが精一杯だってのに)
 彼は眉をひそめ、背中の翼を見る。“炎の界《デ・イグ》”で、あれほど鮮明に象られていた翼は、今や姿を失いかけ、半透明になっていた。ドゥロームやアイバーフィンが持つ翼というものは、本来は物質的な存在ではないのだ。アリューザ・ガルドに帰還すれば、全く見えなくなってしまうのだろう。

 ようやく落ち着きを取り戻したミスティンキルは、次に周囲の様子を見やった。
 足下には大地が広がっている。それは、硝子か水晶で構成されているような硬質で透明な世界だ。また、大地ばかりでなく、岩も樹木も一様に硝子細工でこさえたかのような玲瓏とした美しさを持っている。冷たく乾いた風が吹くと、それらはしゃらりという軽やかな音色を奏でるのだった。
 この世界そのものが発光していた。ところによっては仄かに、また鮮やかに光が放たれている。その色はアリューザ・ガルドから見上げる月の色と同じく、白銀だ。幽玄として美しい月の世界。

 ウィムリーフが先に着いているのならば、早いところ合流しなければならない。彼女こそが自分に安心を与えてくれる人なのだから。ミスティンキルははやる心を抑えつつ、彼女の気配を探った。
 そして、鮮明かつ純粋な青い色のイメージが、彼の心に優しく触れるのを感じた。他でもない、ウィムリーフが体内に秘めている色だ。“炎の界《デ・イグ》”ではその色を鮮明にあらわしていたのを思い出す。
 ミスティンキルは、彼女の気配が感じられた方向を見やった。右手前方には大きな湖が、宝石のように煌めく水をたたえている。湖の中央には妖しく光り輝く建造物があった。目をこらして見ると、純白を放つそれは尖った円錐状をしており、おそらくは巨大な塔のようなものだろうとミスティンキルは考えた。
 橋らしいものはどこにも見あたらない。尖塔にたどり着くには、飛ぶか泳ぐかするほかなさそうだ。
(さてと。……ウィムのやつはあそこにいるのか。おれが龍王のところで怖ええ目に遭ってた間に、とっとと先に行っちまいやがって。……まったく、つれない奴だな、ちょっとは待っててくれてもいいじゃねえか!)
 ミスティンキルは軽く悪態をついたが、銀髪の恋人の気配が感じ取れることに嬉しさを隠し通すなど、出来るものではなかった。彼は塔を目指して翼を大きくはためかせた。
 ふと、何とも形容しがたい奇妙な印象が、ミスティンキルの脳裏に一瞬だけ浮かんだ。ここに来たことがあるような、それともいずれここに来ることになるような――それはある種の既視感にも似た感覚だった。しかし、彼が明確に意識する前に消え去ってしまった。

◆◆◆◆

 アリューザ・ガルドの時間に換算すると、おそらくは四半刻もまだ経たないのだろう。
 しかし、“炎の界《デ・イグ》”で翼を得て間もないミスティンキルにとって、物質界に近しい月の空を飛ぶというのは、思いのほか骨の折れることだった。身体の頑強さにはいささかの自信があったはずなのに、湖の上空にたどり着くころには息はとうに上がっていた。なにより、“飛ぶ”という動作に対して意識を集中し続けなければならないのが堪えた。精神体のみで飛んでいた“炎の界《デ・イグ》”の時とは勝手が違うのだ。
 アイバーフィンとドゥローム。アリューザ・ガルドにおいて翼を持ち得る二種族であるが、“翼の民”を名乗るアイバーフィンに対して、自分達すなわち龍人ドゥロームはさほど自在には空を飛び回れない種族なのではないか、とミスティンキルは思った。隼のように滑空できるウィムリーフが、アイバーフィンの中でも特別な資質の持ち主なのかもしれないが。
 荒ぶる息をなんとか整えて、再び塔を目指して進もうとしたその時、足下の湖面がこれまでにないほどにまばゆい光を放ちだした。湖面だけではない。水晶のように煌めいていた月面一帯が、突如として強く輝き始めたのだ。ミスティンキルは白銀の光に眩惑され、それまでなんとか保っていた集中力をついに途切れさせてしまった。
 当然の結果として、翼は羽ばたくのをやめ――ミスティンキルはなすすべなく、眼下に黒々と広がる湖面に向けて真っ逆さまに落ちていくのであった。

 ミスティンキルの身体は水面に叩きつけられ、彼はそのまま水中深く沈み込んでいく。すると、湖底もまた地上の様子と同様に硝子質の岩肌が広がっているのが知れた。アリューザ・ガルドでは目にすることの出来ない幻想的な水中の世界。
 だが、岩肌は燦然と光り輝きはじめた。ミスティンキルは眩しい光をまたしてもまともに見てしまった。たまらず彼は目を覆い、急いで浮かび上がった。
 ミスティンキルは飲み込んだ水をはき出すと、立ち泳ぎしながら、前方に高々と屹立する塔を恨めしそうに見やる。
 あの純白の塔は、磨き上げられた真珠で出来ているのだろうか。ミスティンキルが旅の途中で通り過ぎた王国――西方のファグディワイスやフィレイク、そして東方の大国アルトツァーン――のいかなる城の塔とも趣を異にしている。またこの真珠の塔は、人間達の建造した建物とは比べものにならないほど高くそびえ立ち、また、いかなる芸術家をもってしても表現しようのない精緻さと美を併せ持っていた。塔には至るところに小窓が開いており、時折その内側から小さな影が見え隠れするのだった。彼らは、この世界の住人なのだろうか。
 そして、何気なく塔の頂上を見たとき――。

「……!!」
 ミスティンキルの全身は一瞬にして鳥肌立ち、硬直した。湖水の冷たさゆえではなく、塔の頂上から感じられる圧倒的な力によって。先の龍王の厳格な神気ともまた違う、超常的な力が一つところに凝縮し存在しているのが感じ取れる。その力こそが、封印された魔導に他ならないことをミスティンキルは直感した。
 ウィムリーフはすでに龍戦士アザスタンに導かれ、魔導の封印されていた場所に到着していたのだ。だがミスティンキルの感覚は、未だに魔導は解かれていないことを告げる。
 塔の頂上に見えている巨大な円形の蓋が、幻想的な情景の中にあってさらに異彩を放っていた。その鈍色に輝く重厚な蓋は、塔の柱から吊されているわけではない。上空に留まっている、という表現が正しいのだろうか。
 あれは上空の一部を封印しているのだろう、ぴったりと固着して動く様子を見せない。重々しい蓋の向こう側に、魔導のすべが結集されて封じ込められているのだ。あの巨大な蓋をこじ開けたその時こそ、大いなる魔導は解き放たれる。そして、“色が褪せる”という、アリューザ・ガルドの異変は収まるのだ。

 ミスティンキルは塔の頂を目指して再び飛び上がろうとしたが、出来なかった。彼の翼は疲労のあまりもはやぴくりとも動こうとしない。ミスティンキルは舌打ちした。
「ちくしょう。あともう少しだってのに、使えねえ翼だ! こうなったら泳いでいくほかなさそうだな……ちょっと距離があるのが辛いけど、この程度だったら泳げるな」
 その時、声が突如、頭上から聞こえてきた。
「……この湖を泳ぐだって? どんなに自信があるか知らないけれど、やめておいた方がよいぞ。ここに棲む強欲なワニクジラに食われて、その腹の中で過ごしたいと望むのなら別だけれどな」
 ミスティンキルが真上を見上げると、空中に二人の人物が立っていた。彼に声をかけたのは、まだ年端もいかない、あどけない少年のようにみえた。奇麗な栗毛色の髪を肩のあたりでそろえた小公子は、まるでアルトツァーン貴族のように膝元まで覆う濃紫の上衣を羽織っていた。
 そして隣で滞空しているのは――。
「ずいぶんと遅かったじゃないの、ミスト。すっかり待ちくたびれちゃったわよ」
「ウィム!」

 この時、ようやくミスティンキルは心の底から安堵した。
 自分にとってかけがえのない少女にようやく再会できたのだ。彼女の銀髪は、月光を浴びてさらに美しく光り輝く。
 ウィムリーフは湖面に足先をつけて軽やかに静止するとかがみ込み、ミスティンキルに両の手をさしのべてきた。
 ずぶ濡れのミスティンキルもまた手を伸ばし、彼女の掌中を流れる血潮を感じ取れるまでに、固く握りしめるのだった。この暖かみをもう逃したくないと、ミスティンキルは強く思った。
「痛いってば……ミスト……ひゃっ?!」
 水中から引き上げられたミスティンキルは、彼女を強く抱きしめたのだ。普段めったに露わにすることのない、愛おしいという感情を、今はウィムリーフにすべて受け止めて欲しかったのだが――。
「冷たいっ……ちょっと! そんなずぶ濡れのままひっついてこないでよ!」
 対するウィムリーフの仕草はつれないものだった。
(こいつときたら……おれがどんなにお前に会いたかったのか……! そんなこと分からねえだろうなあ……)
 思いの丈をウィムリーフにぶつけるつもりだったミスティンキルは、すっかり毒気を抜かれてしまった。だがせめて彼女の背中に手を回し、冷たいと喚くウィムリーフの声をよそにさらにきつく抱きしめ、そして離れた。
「ふん、……ばか」
 離れ際にそのように耳元で囁く彼の憎まれ口の真意は、ウィムリーフに伝わるだろうか。

「ばかって……まあ、いいわ。あんたの言葉の足らないところは今に始まったもんじゃないものね。……あたしは塔で待っていたのよ。そしてようやっと、ミストの気配が感じられたから、来てみたんだけど……ここで水浴びしてたってわけなの?」
「……違う。誰が好きこのんで服着たまま飛び込むかよ。ここまで何とか飛んできたんだけれど、力尽きて落っこちたんだ。どうやらおれは、ウィムみたいにはうまく飛び回れないらしい。……おれを引っ張っていってくれねえか?」
 ウィムリーフはしようがないな、というような柔らかな表情を浮かべると、ミスティンキルの両手を掴み、見えない翼を羽ばかせて舞い上がった。
「時はいよいよ満ちたようだな。ついてこい龍人。イーツシュレウが案内するぞ」
 不思議な薄墨色をした瞳をミスティンキルに投げかけて、その少年――イーツシュレウはあたかも氷上を滑るようにして、空中を歩く。目指すは、魔導が封じられた真珠の塔の頂上。

 長かった不可思議な冒険行も、ここに来てようやく終わろうとしているんだ、とミスティンキルは感慨にふけるのだった。
 さらなる物語は、これから紡がれていくのだが、それはもちろん今のミスティンキルの知るところではなかった。

↑ PAGE TOP

(二)

 ウィムリーフの手に引っ張り上げられつつも、ミスティンキルは周囲の様相を見やった。ウィムリーフが翼をはためかせて、尖塔の頂上に向け舞い上がるにつれ、月の世界の容貌がよく見て取れるようになる。まばゆく光り輝くこの月世界の様は、たとえるなら白銀の発光体を内部に持つ貴重な鉱石、青水晶《リフィ・バルデ》が極限まで光り輝き、世界の一面を覆い尽くしているかのようだ。
 そして、月面の白銀と空の黒を分ける地平線は、ミスティンキルにとって見慣れないかたちを取っていた。右端から左端に至るまで、奇麗に円弧を描いているのだ。アリューザ・ガルドでは、このような地平線を見ることなど決してあり得ない。ミスティンキルが海に出ていたとき常に見ていた水平線は、どこまでも平らに続いている。世界に果てというものがあるとするのならば、おそらくそこに至るまで平らかに伸びていくのだろう。

 だが、この月は違う。察するにこの世界は、どうやら球状を象っているようだ。アリューザ・ガルドから見上げる月は、美しい円を描いている。その見たとおりのかたちを、月の世界は持っているのだ。
「たまげたもんだな。月っていうのは丸い世界なのかよ」
「アリューザ・ガルドに戻ったら、すぐに冒険誌を書き上げなきゃ、ね!」
 ウィムリーフはやや苦しそうに言葉を返す。大柄なミスティンキルの身体を引っ張りあげるのは、やはり難儀なことなのだろう。
「さっきあの子――イーツシュレウからいろいろ聞いたんだけどね。たとえば月の世界は、“幽想の界《サダノス》”つまり死者の国と“次元の門”によって繋がっているとか、ミストも言ったように丸い世界なのに落っこちないとか……“炎の界《デ・イグ》”からこのかた、驚くことばっかり続いてるもんだから、戻ったらデュンサアルの宿でもいい。とにかく忘れないうちに全部を書き留めておかないと」

「ほかにも色々ある。例えばほら、ここ一帯のように自ら光り輝く大地がある一方、この裏側の半球は光を放たない。アリューザ・ガルドから見上げる月の姿が常に移ろうのは、そのためだよ。月とアリューザ・ガルドとは毎夜ごとに次元が繋がるんだが、月の位置は日々変化している。……そしてアリューザ・ガルドから見れば、間もなく満月が姿を現すことになるんだろう。それはこの月ともっとも密接に繋がる夜だ」
 二人のやや斜め上前方では、イーツシュレウが滑らかに浮遊している。“自由なる者”を名乗る少年、その実は見かけよりはるかに年を経ている栗毛の彼は振り返り、柔和な子供らしい声色で語った。
「アリューザ・ガルドの龍人、ここ月の世界は、どうか? イーツシュレウがここに来てすでに千年近く経とうとしているが、この美しい光景には飽きることなど無いものだよ。月の住人――精霊達も楽しませてくれるしな」
「……なあイーツシュレウ。あんたが、この月の世界の支配者なのか?」
 ミスティンキルは、あどけないかんばせを持つ少年に向かって訊いた。
「違う。月は精霊達の故郷であって、とくに支配者などはいない。それにイーツシュレウは“自由なる者”。その名のとおり、何ものにも縛られず、また司らない。そのような者は、数多いるディトゥア神族にあって、このイーツシュレウだけだろうけれど」

 ディトゥア神族!
 驚いて顔を見合わせる二人。無理もないことだ。ディトゥア神族の中には人前に姿を現す者もいるが、神族であるということを気取られないために、自らの神気を露わにすることは滅多にないものだし、そもそもディトゥア神族と出会った人間自体少ないだろう。
 ミスティンキルとウィムリーフは、まるで惚けたかのように栗毛の髪の子供を見上げた。対するイーツシュレウはそんな彼らの様を見て、面白そうにくすりと笑うと言葉を続けた。
「……何ものも司らぬということは――おのが持ち得る力の限りにおいてだけれど――神としての力を自由に使えるということ。だからだ。かつて“自由なる者”イーツシュレウは望んでこの世界に来た。膨大な魔力の封印を見守るために」
「で、ではイーツシュレウ様! ならば今こそ、その封印を解くときなのです。……あたしたちが住むアリューザ・ガルドが色あせてしまったのは魔導の封印が原因だと、“炎の界《デ・イグ》”の長、龍王イリリエン様から聞いています。だからこそ、あたしたちがここに来たわけで……」
 ウィムリーフの口調が先ほどまでとはがらりと変わったことに、ミスティンキルは苦笑を漏らした。分からないでもない。あの小柄な少年が、その実は神々のうちの一人だというのだから。だが、厳格な龍王イリリエンと比べれば、目の上を浮遊するこの少年神は、はるかに穏和な性格をしているようだ。
「しかしさ、イーツシュレウ。ディトゥア神族だってんなら、わざわざおれたちがここまで来なくても、あんたがさっさと封印を解いちまえば事は収まったんじゃないのか? それだけの力は持っているんだろう?! ……痛てて……ウィム……」
 ウィムリーフの言葉に、間髪入れずにミスティンキルは言った。それに対して、神様に対してなんて口の利きようなの?! と言わんばかりに、ウィムリーフは彼の両手首を強くつねりあげるのだった。吊り下げられる格好を強いられているミスティンキルにはなすすべがない。
 だがイーツシュレウは、とくに気分を害したようでもなさそうだ。
「龍人。君の言い分も身にしみて分かる。けれどもそれだけは……出来ないんだ。“自由なる者”イーツシュレウだって、ディトゥアとしての役割を越えた権限を行使することは叶わないから。偉大なるアリュゼル神族が、世界の存在そのものをもたらす。われらディトゥア神族はアリュゼルに臣従し、それら世界の各事象を司る。……アリュゼルやディトゥアの神々のなかには、単体の事象に束縛されない例外もおろうが、数は少ない(冥王ザビュールや宵闇の公子レオズスのようにな)。だが君たち人間が創造されて以来、運命を切り開き“歴史”という物語を紡ぎゆく役割を担うのは、大概において人間のみなのだ。だからイーツシュレウにたとえ力があろうとも、魔導の封印を解くことは、してはならない。……まあ、本音を言ってしまうとだ。なんにも出来ずに手をこまぬくしかないというのは、イーツシュレウとしても歯がゆいことなんだがな。実に……」
 イーツシュレウは腕を組んで顔をしかめると、もっともらしくうんうんと唸ってみせた。

 ――我らやディトゥアの神々は、いかなる世界の潮流に対しても、自ら率先して新たな流れを作ることを禁じ手としている。運命を切り開く役割というのは、唯一人間のみ有しているのだ――
 そういえば、龍王も同じようなことを言っていたのをミスティンキルは思い出した。
 先ほど湖中に落下しずぶ濡れとなったミスティンキルは、衣服から伝わる水の冷たさのためではなく身震いした。
 自分自身が運命を切り開こうとしている。歴史を紡ごうとしている。おそらく後に編纂されるであろうウィムリーフの冒険誌によって、自分達の名前は世界中を駆けめぐるに違いない。増長しようとする生来の性分を何とか抑えながらも、高ぶる快感は収まらない。そのためにミスティンキルは震えるのだった。

◆◆◆◆

 そうしているうちに彼らは塔の頂へとたどり着いた。白を基調としていながらも、時折虹色の光沢を放つ、真珠の床に降り立った。この尖塔はその名の通り、上るにつれて筒が狭くなっており、ここ頂上部は下層部からするとはるかに小さい。安宿の二部屋分ほどの中にすっぽりと収まるのではないかとすら思える。
 そして――彼ら三人のちょうど真上には、巨大な円盾のような蓋が存在している。蓋を通してすら、内部にある膨大な魔力がびしびしと肌に伝わってくる。ごくり、とミスティンキルは喉を鳴らした。
 目指していた地にようやく到着したミスティンキルがまずはじめに行ったことは――冷たい水を含んで重くなった赤い上衣と靴を脱ぎ捨てることだった。
 この突然の行動にはさすがのディトゥア神の一人とはいえ、呆気にとられるほかない。我に返って制止しようとしたウィムリーフが言葉を放つ前に、彼はとうとう下衣のみの姿となってしまった。
「ウィム……言いてえことはだいたい分かる。……けど、あんなずぶ濡れの服着たままだったら風邪ひいちまうだろうが」
 二の句どころか一言も告げられなかった、口を大きく開いたままのウィムリーフに対して、とくに悪びれる様子もなく、ミスティンキルは言い切った。
 一瞬の沈黙が覆ったあと、イーツシュレウがぽつりと漏らした。
「……人間とは豪胆になったものだな。かつてここにやって来た魔導師達は、それは慎重だったものだが。千年も時が流れると人の考え方も様変わりするというんだな」
「そうじゃなくて……ミストの言動が独特すぎるんです……さすがのあたしでも、今回の行動だけは予想できなかったわ……」
(あたしたちは、神様を御前にしているっていうのよ、ミスト。それなのにあんたのする事ときたら……)
 頭が痛い。とうに怒りを通り越してしまったウィムリーフは、もはや指一本を額に当てて、大きく溜息をつくほか無かった。
「ふうん……。では事が済むまでの間、服を乾かすようにと、精霊達に頼むとするか」
 ウィムリーフはぺこりと頭を下げた。

「さて、と。身軽になったところで、さっさとケリをつけるとしようぜ! この分厚い蓋を開ければいいんだろう?」
「まあそう急くな、龍人。間もなく夜の刻が訪れる。その時こそアリューザ・ガルドとの次元が繋がるのだ――ほら、見やれ」
 羽根を持つ小さな精霊達がやって来て二言三言話した後、イーツシュレウはミスティンキルの頭の高さまで浮かび上がり、前方の虚空を――星々が瞬く暗黒の宙を指さした。
 やがてその宙の中からぼんやりと、巨大な“もの”が姿を現しはじめた。やがてくっきりとした輪郭を描き出す。彫像か、はたまた岸壁か。途方もなく高くそそり立つその巨大かつ堅牢な塔の頂では、山々が連なるように円をつくる。そして褪せた青が山々の円冠の中を彩る。その青は――水……海なのだろうか? さらにその中心部、かすかに小さく緑色が見て取れる。二粒の豆のようにすら見える小さなその緑は、ややもくすんで見えるが、それでもなお確固たる存在感を持っていた。陸地だ。
「あれこそが、人の住む世界――アリューザ・ガルドだ」
 イーツシュレウは言った。
 物質界、人間達の住まうアリューザ・ガルドは広い――だが、そこから繋がる諸次元とは、人の子では想像だに出来ないまでに広大だったのだ。果てもなく。

 しばし、二人は言葉を失った。

◆◆◆◆

「こ、これが……アリューザ・ガルドのすべてだってのか?!」
 しばらく後に、ようやくミスティンキルが発した言葉だった。彼の横に立つウィムリーフは、手を口に当ててその世界の様を凝視するしか出来ないでいる。
「どうだ、驚いただろう? 翼人に龍人!」
 イーツシュレウは彼らの周囲をくるくると飛び回りながら、なぜか自慢げに言ってのける。
「こんなものを見せられて驚くなという方が無理ですよ……」
 ようやくウィムリーフが、抑揚少なめに口を利いた。
「信じられない……長い筒の頂上にあたしたちの住んでる大地があって……海が広がっていて……さらに周囲を山が取り囲んでるなんて……。じゃあアリューザ・ガルドの底って、一体どうなっているんだろう……」
「奇っ怪きわまりないけれども、底なんて概念は無いらしいぞ。延々と果てなく、あの絶壁は続いてると言われている。この月は、アリューザ・ガルドと“幽想の界《サダノス》”とを結ぶ役割をも果たしているために、『死者の魂が見るアリューザ・ガルド』というのがどんなものかを、こうしてかいま見ることが出来るわけだけれども……」
 ふわりと浮かんだまま手を後ろに組み、まるで学び子達に教え説くかのようにイーツシュレウが言った。
「アリューザ・ガルドに住む生きている人間にとっては、世界に果てなど存在しない。いくら外洋に出てもあるのはただ一面の海だけ。けれども、死者の魂にとっては違う。死した人の魂は海を渡り、いや果てにある“果ての山々”すらも越えるのだ。ほら、円環状に連なるあの山々がそれだな。……そして山を越した魂はいよいよ、アリューザ・ガルドの岸壁にたどり着くわけだが、ここで生前の行いに対して裁きを受けることになる。無垢な者も罪人も、基本的には分け隔てなくこの月へと登り来る。そしてさらに次元を越えて“幽想の界《サダノス》”にて住まうわけだ。……だけれど、あまりにも業が過ぎた魂は、あの岸壁から突き落とされ、まさしく永遠に救われることが許されず落ち続ける――こう言われているな」
 そこまで言うと、イーツシュレウはくるりと二人の方を振り返った。
「これが、アリューザ・ガルドだ」

「……さっきから思ってたんだけど……あんたって、見かけの割には意外と物知りなんだな」
 ミスティンキルにとっては、そう言うほか無かった。
「む。なんだか、あまり嬉しくない褒められ方をされてるようだけれども……まあいい」
 イーツシュレウは口を尖らせた。
「“自由なる者”には司るものがないから、一つところに束縛されない。だからたまに、気が向いたときには次元の狭間を越えて“イャオエコの図書館”で本を読んだりもする。イーツシュレウはそこで得た知識を披露しているに過ぎない。『受け売り』とかいうやつなのかもしれないな。けれども人間にとってアリューザ・ガルドの全容を知るなど、今の世を生きる者のなかでは君達が初めてだろうさ」
「確かに……これってとんでもなく貴重な体験だわ。お爺さまたちだってこんな事知らないはずだし……」
 アリューザ・ガルドに向かって凝視を続けながら、ウィムリーフは小声でひとりごちた。

「……いよいよ時は満ちた」
 イーツシュレウは真顔で、宣告するように言い放った。あどけない少年の声色でありながらも、その言葉の端々には神でしか具現出来ないであろう威厳に満ち満ちているのだった。
「アリューザ・ガルドは夜の刻を迎え、今や月の界と完全に繋がった。さあ、歴史を刻む人間よ、褪せた色を戻すために、今こそこの蓋を開けて、封じられたる魔導を解き放つのだ! ……事が為し遂げられたその時、イーツシュレウは力を放ち、君達をアリューザ・ガルドへ帰還させる!」
「おう! とっととケリをつける」
 ミスティンキルは力強く答え、イーツシュレウの頭をぽんぽんとはたいた。子供扱いされたその神は、不服そうに頬を膨らませ灰色の瞳でにらんだ。
「おれたちの最初の冒険誌の締めくくり……きちんと書いてくれよ、ウィム!」
 ウィムリーフは頷く。
 そして二人は首を上に向け、鈍色の巨大な蓋を見やった。

 歴史を動かすということ。
 そのとてつもない出来事に今、真っ向から対峙しているがために、かつて無いほどに緊張はいや増し、自然と鼓動が早まっていく。手足を流れる血潮の音すら聞こえるようだ。
 だが、それと共にミスティンキルは、自分の内に秘められた赤い魔力が徐々に膨張していくのを感じていた。膨大な力が沸き上がり気分を高揚させていく。
 そして申し合わせたかのように――二人は同時に跳ね上がった!

↑ PAGE TOP

(三)

 ミスティンキルの全身にみなぎった魔力はついに、体外に放出されはじめた。純粋な真紅の魔力は、持ち主の強靱な肉体に薄い衣のようにまとわりつくと、いよいよ鮮明に色づくのだった。あたかも彼の魔力が、天蓋の向こう側にある大いなる魔力と共鳴するかのように。
 ミスティンキルの真正面にはウィムリーフがいる。彼女もまた、今やそのすらりとした身体全身を純粋な青い魔力でまとっていた。ウィムリーフを包む魔力の彩りは、ミスティンキルのそれと比べれば、やはり僅かばかりながら劣っていた。だが“風の界《ラル》”の王エンクィ直々にその力を認められただけあって、アリューザ・ガルドに現在するいかなる術使いをしても、彼女の魔力を越える人間は存在しないのだろう。
 青い色に包まれた銀髪の翼人の背中には、二枚の純白の翼が鮮明に顕現し、左右に大きく広げられていた。さらに、月面から目映く放たれる白銀の光が、ウィムリーフの青い衣装と白い肌、それに群青の瞳をもひときわ美しく鮮やかに映し出すのだった。
 一瞬ミスティンキルは、対峙している彼女がまるで別人であるかのような奇妙な錯覚にとらわれた。しかしウィムリーフの青く大きな瞳は、好奇心溢れる彼女ならではの意志の強さを物語るように、きらりと輝いていた。ウィムリーフの瞳を見て、ミスティンキルも安心する。

 ミスティンキル自身もまた、背中に龍の黒い翼を得ているのを自覚していた。ウィムリーフから見れば、彼のまとう真紅の魔力の膜と、生来持つ赤い瞳だけが異様に輝いて映っているに違いない。
 黒い髪と龍の翼、露わになった褐色の肌と、放たれた真っ赤な力。かたや青い膜に包まれたウィムリーフは、銀の髪と群青の瞳、そして白い羽根と肌の持ち主。対峙する二人は、その何もかもが対照的と言えた。
 だが、二人の想いは同じ。変わることのない互いへの愛と、そして――使命感。龍王イリリエンから自分達に課せられた使命を成し遂げるということ。
 二人は翼をはためかせてさらに舞い上がり、ついに分厚い円盾の蓋に二人の手が届くほどの位置にまで近づいた。

 二人はまじまじと、重厚な蓋を見つめる。この大きな円状の蓋は、鏡面仕上げの銀皿のごとくつるりとしているようだが、鈍色に曇った表面は周囲の情景の何ものをも映し出さず、月の光を受けて時折きらりと光るのみだった。
 だが、この蓋をしらみつぶしに調べても、開けるための取っ手らしきものはどこにもない。ならば、どうやって開ければいいというのだろうか? ミスティンキルは思案するも、結局答えが浮かんでこない。ウィムリーフも、ただ首を横に振るばかりだった。
 意を決したミスティンキルが恐る恐る右手を伸ばし、表面に指が触れたその時だった。

 ――「魔導のすべを、解放するときが来たというのだな」

 男のくぐもった声が、蓋の向こう側から聞こえてきた。

◆◆◆◆

「そうだユクト。この間イーツシュレウが言ったとおりだ。いよいよ時は満ちたのだよ」
 下方から、イーツシュレウが声をあげてきた。
 しばらく、沈黙が周囲を包む。ミスティンキルもウィムリーフも、蓋の向こう側の声がどのような反応をするのか、待っていた。

――「……人よ。君の持つ魔力が強大なことは私にも分かる。私もかつて魔導師と呼ばれた身ゆえに。しかし人よ、君には魔導の封印を解くということの重要性が分かるか?」

 と、男の声。
「あんたは、“魔導の暴走”というやつを知っているんだろう? おれは、吟遊詩人の歌でしか聞いたことがないけれども、あれが本当に起こったっていうんなら、魔導のすごさが少しは分かる様な気もする」
 ミスティンキルは訊いた。ややあって、男の声がした。

――「そう。私は当時まさにその渦中にいた魔導師の一人だ。魔導とは、魔法体系の頂点に位置するものである。が、強大な力というものは諸刃の剣であり、それは魔導も同様。魔導が及ぼす力とは、下手をすれば世界そのものをも危うくしてしまうほど強大なものにもなりかねない。――かつての“魔導の暴走”のように。だが時は移り、魔導の封印は別の問題を起こしてしまった。それが今、君達が直面していると聞いているアリューザ・ガルドの色のことだ。……魔導の封印を解くというのならば人よ、私ユクツェルノイレと約束をしてほしい。決して……決して、過去の災禍を再び招くような愚挙を犯さない、ということを。……どうか、これだけは守ってほしい」

 魔導師ユクツェルノイレと名乗るその声は、七百年前に自身が体験した出来事――“魔導の暴走”の大惨事を思い起こしたのだろうか、哀しみに震えた声で言った。
 使命を託されている二人は顔を見合わせ、次に下方から二人を見上げている“自由なる者”の顔を見て――三人して頷いた。彼らは今、“歴史を動かす”という決意を確認したのだ。
「……おれの名はミスティンキル。ドゥロームだ。おれは……そうだな、龍王イリリエンに誓って、あんたの言った言葉を守る」
「あたしはアイバーフィンのウィムリーフ。ウィムリーフ・テルタージと言います、魔導師様。……あたしは、風の王エンクィの名の下に、あなたが今おっしゃった言葉を胸に刻み込み、遵守することを誓います」
「……ユクトよ、聞いてのとおりだ。ならばだ。この“自由なる者”イーツシュレウが、ディトゥア神として証人になろう。我らが長イシールキアの御名をお借りして、ミスティンキル、ウィムリーフ二名の言葉、人間の宣誓として確かに聞いたぞ!」

◆◆◆◆

 ぴしり、と音がした。重厚な天蓋の中央部にわずかに亀裂が入ったかと思うと、それはみるみるうちに蓋全体に広がりゆき――薄氷が砕け散るような、しゃらんという軽い音と共に、重厚な蓋は崩れ去り、月の空気に触れたと同時にすぐさま融けて無くなった。
 蓋が消え失せたその向こう側は――正しく言えば“何ものも存在しなかった”。あえて表記するとすれば――無理やりねじ曲げられたのだろうか、いびつに歪んだ“澱み《よどみ》”の空間が“あった”――としか言いようがない。
 この常軌を逸した空間は果たして、魔導の封印を行うために月の世界に赴いた当時の魔導師達が、持てる魔力と叡智の全てを振り絞って創りあげたのか、もしくは――これもまた星々の数だけ存在する諸次元の一つなのかもしれない。推し量ることすら困難だが、明らかに分かることが唯一ある。それはあの“澱み”に無防備に立ち入れば、ただでは済まないだろう事、のみ。
 だから、ミスティンキルもウィムリーフも、身を震わせてすぐさま戦慄の空間から目をそらした。超常的なその空間は実在感というものに全く欠けており、“炎の界《デ・イグ》”や月世界の様相の幻想的な非現実性を体験してきた二人をもってしても、こればかりはとうてい耐えきれなかった。
 人智を越えたあの異常な空間を見つめ続けていたい、もしくは入り込んでみたいという、相反する欲求もまたあったが、これを受け入れてしまったが最後、狂気に陥るに間違いない。

 ややあって――我に返ったミスティンキルの目の前には、真四角で象られた立方体の底面が現れていた。
 この立方体の高さは、ミスティンキルの背丈の倍近くあるだろう。ミスティンキル達が今見ている立方体の下部にこそ何もなかったが、中部から上には無数の球がふわふわと浮かんでいるのが見て取れた。常に七色に輝きを放っているそれらこぶし大の球体は、しゃぼん玉を想起させるように儚く見えるものの、球体同士が触れあっても割れることはなかった。しゃぼん玉の一つ一つに、魔力が――原初の色が凝縮されているのだ。
 そして、立方体のちょうど中央には――横たわっている人の姿があった。
「ああ、姿なき友ユクト! 蓋が消え去った今、再びじかに君の実体に会えたな。じつに七百年ぶりだ!」
 イーツシュレウは、はしゃいだ声をあげてウィムリーフの横に舞い上がってきた。

↑ PAGE TOP

(四)

 ミスティンキルとウィムリーフ、そして“自由なる者”イーツシュレウは、空をさらに昇った。
 この空にある尋常ならざる澱んだ空間に、吸い込まれやしないかと懸念したものの、目前にある不可思議な物体に対する好奇心の方が勝った。

 無色透明な立方体の平面は鏡面のようになめらかで歪みひとつ無い。まるでフィレイクあたりの老練の硝子職人が、長い歳月を投じて仕上げたかのような出来映えだ。その立方体の周囲をイーツシュレウがふわふわと浮遊し、ミスティンキルとウィムリーフは、立方体を間に挟んで対峙する格好となった。
 ミスティンキルが恐る恐る上空を見上げると、もとから存在しなかったかのように、あの異質な空間はいつの間にか跡形もなく消え去っていた。
 そうして、いよいよ彼らは、澄み切った立方体の中核部を見据える。

 この物体の中心から真っ先に目に飛び込んでくるのは――深紅、金、褐色という色のイメージだった。彩度の異なるこの三色は、二人の網膜に強く焼き付いた。目を閉じても残像として残るほどに、鮮明に。

 まず、深紅。
 ユクツェルノイレがまとっているローブの色。
 深い赤一色に染め上げられた魔導師のローブは、ドゥロームの正装――炎を象った意匠が前面部に縫い込まれている赤い長衣――に似ているようでいて実はそうではない。ドゥロームの正装とは違い、あの深紅の衣には刺繍や意匠がいっさい施されていないのだ。唯一きらりと光るものがあるのを除けば。
 月の光を受けて銀色に煌めく“それ”は、小さな紋章だった。両襟《りょうえり》すその周囲に小石ほどの大きさの紋章が十三個ずつ取り巻き、そして右胸部にこぶし大のものが一つ縫われている。合わせて二十七個。見たこともない奇妙きわまりない文字が、それぞれの紋章の中心に据えられ、その周りを細微な螺旋文様の紋章が編み紡がれているのだった。
 装束の色と紋章の数が示す事柄はただ一つ。つまり、この横たわる男は、かつての魔導学の全盛期において最高位の魔導師であった、という証だ。

 そして、金色。
 夕暮れ時の茜さす空と同色に染まった大地の中にあって、黄金に波打つ麦穂を想起させる――そのような色。
 この魔導師がアリューザ・ガルドにいた時分は、その長い金髪が深紅のローブによってさらに際だって美しく映えていたことだろう。
 だが今や髪はくすみ、ほつれてしまっており、黄金色が本来持ちうる美しさを台無しにしてしまっている。加えてところどころに白髪が見え隠れしている。
 これらは彼の老いの兆しを示すものではない。彼や他の魔導師達が、魔導をこの地に封じるに至るまでの間に経験したであろう辛苦の数々を刻むものなのだ。

 魔法が全盛の時代だったというのに、それまで長年まで研究してきた魔導学の膨大な知識をすべて禁じてしまうことについて、時の権力階級層の人間達や、魔法貴族達からの反発はさぞや大きいものであっただろう。それまでの自分達が権力のよりどころにしていた“力”そのものを使えなくしてしまうというのだから。結果として当時の魔術師達の主張が受け入れられ、『魔導の公使は危険である』として魔導を行使するすべは封印された。
 これまでのミスティンキルとウィムリーフには、“陰謀”という名を持つ人間の暗い側面によってどれほどの無垢な血が流されていったか、どれほどの苦痛に耐え忍んだのか――人間の歴史が遺した傷というものに対しておよそ想像もつかなかったし思考すらもしなかった。でも、今は痛みの一片を切実に感じ取ることが出来る。この魔導師の白髪のほんの一房からすらも。

 褐色。
 それはユクツェルノイレの肌の色。
 ミスティンキルの日焼けした肌に比べると、若干明るい色をしているようだが、まるで死人の肌のような冷たさをも感じる。
 彼が金髪であることと併せて察するに、この大いなる魔導師は、バイラルの氏族の中でもラクーマットびとに属するのだろう。金髪と、青もしくは緑の瞳を持つ褐色人。ミスティンキルが西方大陸《エヴェルク》を旅していた時分、ファグディワイス王国の領土内でとくによく見かけた氏族だ。
 ファグディワイスは、ミスティンキルの故郷ラディキア群島と国家規模での交易が盛んである。たとえバイラル以外の種族、龍人《ドゥローム》であっても他のバイラルと同様に、旅先の人々は迎え入れてくれたのをミスティンキルは思い出す。当時、全ての物事に対して斜に構えていた自分でさえも受け入れてくれたのだ。

 ユクツェルノイレは、立方体の中で仰向けの姿勢を崩さず、微動だにせず横たわる。八百年弱という期間、彼はずっとそのままの姿勢で留まっていたのだ。
 無精ひげともいえる短いあごひげを蓄えた彼のかんばせからは、表情というものが消え去っており、まるで深い眠りに引き込まれて戻れなくなってしまったかのように、彼の両の目は固く閉じられている。
 魔導師の齢はバイラルにして三十半ば、といったところであろうか。短命なバイラル族の社会にあっては、世代の中心的存在となって人々の生活を支える、そんな年齢といえる。
 だがユクツェルノイレにとって、“社会”という認識、“時間”という概念は、もはやなんの意味をもなさないものなのだろう。おそらくは魔導が封印されてからこのかた、八百年弱もの長きに渡り、ユクツェルノイレは他の世界から完全に隔絶されていたのだから。魔力を制御するという重責をたったひとりで背負い込み、時折語りかけてくるのはイーツシュレウの声だけ。ユクツェルノイレひとりが存在する孤立した世界では、何事も移ろうことも、起こることもありえず……ただただ長大な歳月のみが緩慢に過ぎ去っていったのだ。
 八百年! なんと気の遠くなる歳月であろうか。

◆◆◆◆

 小さなディトゥア神は、あぐらをかいた姿勢のままふわふわと飛び回り、ミスティンキルのところまでやって来た。
「久しいなあ、ユクト。そちらはどう? 変わりはないか?」
 彼はそう言って立方体の表面を軽く二回ノックした。さも嬉しそうな表情を浮かべながら友人の姿を見やっている。
 こうして端から見ると、大きな薄墨色の瞳を輝かせているこの神の仕草は、ひとりの純朴な少年のそれと全く変わらない。ミスティンキルはまた、ぽん、と彼の頭をはたいたが、今度はにらまれることはなかった。

――「……相も変わらず。特に変わりませんよ、イーツシュレウ。私の“存在”という定義そのものが変化したということ以外はね。……あなたが見ている肉体には、すでに私の精神は宿っておりません。あれは半ば死んでいると言っても差し支えないでしょう。魔導を封じたあの最後の時から、バイラルにとってはあまりに長すぎる時を経て、この核の中でいつしか私の精神は肉体から離れゆき……この“封印核”そのものと一体となったのです。今の私は“封印核”に宿った“意識”そのものに他ならないと考えていただきたい」

 太く毅然とした男の声が、立方体の全方位から響く。その声は先ほどまで、重厚な蓋越しに聞いていたくぐもった声と違い、まったく鮮明なものとなっていた。声そのものからは、魔導師が持つ生来の気品が伝わってくる。

 

 そして“封印核”――誰がそう名付けたのか、もはや定かではないが、その立方体の中には人の手では制御しきれないものが封じられている。
 すなわち、当時の魔導師達が費やした労力と蓄えた知恵、そして増大させた魔力。
 それらが無数の小さなしゃぼん玉の中と、封印核の中に充満している空気に、全て凝縮されているのだ。
 たとえミスティンキル本人の意識下では気が付かなくとも、また言葉では表現できずとも、その圧倒的な様に対して、赤目を持つ炎の司の冴えきった感覚は戦慄に震えていたのだ。

「ユクツェルノイレ――そう! 昔……なんかの本で見たことがあるわ、その名前」
 ウィムリーフが額に指をあてて思い出そうとしながら言った。彼女は相変わらず、ミスティンキルから“封印核”をとおして真向かいにいる。
「ええと、たしか……“魔導の暴走”を食い止めるために、魔導師たちの筆頭に立っていた大魔導師だったはず。……それで、そのあと“宵闇の公子”レオズスがアリューザ・ガルドに君臨したときにいつの間にか行方不明になったとか……」

――「君の明瞭な記憶のとおりだよ、翼の民の娘。まさに私のことだ」

 そこでミスティンキルが言葉を挟んだ。
「ちょっと待ってくれ。……それじゃあ、『暁の来復をもたらした者達の勲《いさおし》』に唄われてる、ええと……
『……デルネアはかの剣を見いだし“澱み《よどみ》”より還り来たるも、“まったき聖数を刻む導師”デイムヴィンは遂に戻ることあたわず……』
 というようにある、その“デイムヴィン”ってのが、あんたのことなんだな?」
 ミスティンキルは両手と顔を立方体の表面にぴたりと押しつけ、ほんの数ラク先に横たわる魔導師の肉体に問いかけた。

 そしてユクツェルノイレは肯定した。
――「そう。私のことだよ。ユクツェルノイレ・セーマ・デイムヴィン。これが私の真名」

 そう発せられる言葉と共に、立方体の表面が振動するのがミスティンキルには分かる。

 『暁の来復をもたらした者達の勲』には三人の人間の名が高らかに謡われている。つまり、“竜殺しの”デルネア、“預幻師”クシュンラーナ、そして、森の民エシアルル族でありながらも、卓越した才能と魔力を有する“礎の操者”ウェインディル。
 レオズスを打ち破った三者を讃える勲の中にあって、ほんの数節のみ触れられている名前が“デイムヴィン”である。“まったき聖数を刻む導師”とも呼ばれた彼は、ウェインディルの師であり友であったのだ。

――「私は魔導学の隆盛と暴走、さらにはレオズスの脅威を目の当たりにしてきた。そして魔導学の終焉と……さらに加えて言うならば、時を超えた今この時、まさに起ころうとしている魔導の復活をも……か。私の人生は、つねに魔導とともにあった。帳を降ろすこの時に至るまで、な……」
 大魔導師は感傷的に言った。そして言葉をさらに紡ぐ。
――「もはや限られた時間しかないが、レオズスが出現してから今までに、私が経験した出来事について語らせて欲しい。いや……継承する者には是非とも聞いてもらいたいのだ」

◆◆◆◆

 こうしてユクツェルノイレは、自らの体験を語り始めた。
――「“宵闇の公子”レオズス。彼は“混沌”に魅入られて己を失った、忌まわしくも哀しいディトゥア神だった。レオズスがアリューザ・ガルドに驚異をもたらす存在となり果ててしまったゆえに、人間達は彼を打ち倒すしかなかった。だが、一介の人間ごときが――たとえ魔導師であっても、神に対抗できる技などを身につけているはずもない。アズニール王朝生え抜きの精鋭騎士団ですらレオズスに軽くあしらわれ、彼の操る恐るべき“混沌”の欠片によって抹消されたのだ」
――「我々四名は密かに古い文献を読みあさり、ついに神を倒す手段を見つけた。唯一レオズスを倒しうるという剣を見いだすために、私と剣士デルネアは“閉塞されし澱み”という禍々しい世界に入り込んだのだ。あの世界はとてつもなく強力な力場によって支配されていた。暗黒とひどい臭気と重苦しい空気が常に我々を苛んだ。そして、いくつものおぞましい情景、狂気とも言える超常の空間や、身の毛もよだつような異形の生き物達を常に目にしつつ、それでも正気をなんとか保ちつつ、為すべきことを為すために突き進んでいった。……が、あろう事か私は遂にその空間の異常性に魅せられ、精神が保てなくなってしまった……。しかも我が友をも狂気に巻き込もうとたくらんだが、勇敢なデルネアはそれを拒んだ」
 ユクツェルノイレの声がやや震えてきている。それは悲しみという感情のあらわれに他ならない。何とか押し隠そうとしているのが痛切に伝わってくる。
――「こともあろうか、デルネアと私は正面きって戦うことになってしまった! これは悲劇としか言いようがない!」
――「痛ましい戦いの果てにデルネアが勝った。……その後、デルネアが“名もなき剣”を手に入れアリューザ・ガルドに帰還し、ついに三人によってレオズスが倒されたということ。そしてその後の彼らの顛末については、そこにいる我が小さな友人――イーツシュレウから聞き及んでいる。……我ら四者は皆、大きな悲しみを受けるようにと宿命づけられていたのだろうか……? それとも人智を越えた何かを得るためには、それ相当の代償が必要だというのか……?」

 封印の核全体を振動させ、魔導師の声が響いた。音の余韻がひどく哀しげに聞こえ、耳に残った。

 しばし経ってユクツェルノイレは、その後の自身のことについて語った。
――「私はデルネアと違い、戻ることが叶わなかった。……いや、狂人と成り果てた私は、もとの世界へ戻ることを拒んだのだ。“澱み”の空間にある超常的な“力”に魅入られ、それら全てを我が手にしたいという欲望に駆られてしまったために……。デルネアと刃を交えた後の記憶は定かではないが、しばらくして私はようやく自身を取り戻した。が、もはや時はすでに遅かった。……私は自分自身に呪詛を吐いた。取り返しのつかないことをしてしまったのだから」
――「かつての自分を完全に取り戻すために、そしてアリューザ・ガルドへ帰還するために、私は“澱み”の空間から何とか抜け出し、何年もの間に渡って諸次元をさまよい歩いた。……ある世界では人々は私を神のごとく畏れ敬い、またあるところでは異端者として蔑み嫌われ、独房に繋がれたこともあった。なぜか私は老いることがなくなっていた。まるで千年を生きるエシアルル達のように、三十半ばの姿のままであり続けたのだ。」
――「アリューザ・ガルドへ帰還してみれば、すでに五年の月日が流れていた。レオズスは倒されたもののアズニール王朝は崩壊し、諸勢力が勃興していた。アリューザ・ガルド全土に戦乱の嵐が吹き荒れていたのだ。私は、デルネア達三人に会おうと願ったが、混乱に包まれた世界の情勢によって拒まれた。乱世にあっては、たとえ山一つ越えることですら命を賭する必要があったのだ。結局彼らには会えずじまいだった。そして、私には私なりに魔導師の長たる者として、やらなければならないことがあった。つまり、魔導のすべをいずこかへ封印することだ」

 ユクツェルノイレはさらに、自分たち魔導師が直面した受難の数々を語り続けた。だが、ついに月の世界に赴き、魔導を封印する儀式を執り行うことが出来たのだ。月に行った魔導師達の人数は十名たらず。そして封印に際しては彼らの魂そのものを奉じるしかなかったのだ。彼らの命と引き替えに、あの空間が形成され、また封印核が出来上がったのだった。そしてもっとも魔力を有していたユクツェルノイレが、封印核の中心に入り、封印を守り続けてきたのだ。
 その封印が時を経た今、ミスティンキル達によって解放されようとしている。
 魔導の復活。それは、アリューザ・ガルドにおいて新しい時代を招来するものなのだろうか?

◆◆◆◆

――「さて……魔導の封印を解く前に、再び見てほしい。世界の姿を」
 ユクツェルノイレの声は、アリューザ・ガルドの姿を見るように、とミスティンキルとウィムリーフに促した。
 それは真珠の塔の頂から見ることのできる、アリューザ・ガルドの全貌であった。頂上が平らとなった逆さつららのようにも見えるあの世界は、相も変わらず色あせた様を見せている。
――「魔力を開放すれば、アリューザ・ガルドの色は元に戻る。だが、開放した魔力を制御するべき者が必要だ。私はその任を……君達二人に託したい」

 魔導師の声は朗々と響いた。

「……おれたちが?! その、つまり……魔法使いになれっていうのか?!」
 ユクツェルノイレの言葉にミスティンキルは困惑した。
 “炎の司”の試練と、さらに龍化の資格を得る事に対しては、彼なりに覚悟は決めてアリューザ・ガルドから転移した。龍王イリリエンによって魔導が今回の件の発端だと聞かされたときは、心のどこかでまだ見ぬ魔導に対する憧憬の念、自分の力にしたいというかすかな欲望はあった。だが、事ここにおいて、まさか本当に自分が魔法使いになろうとは、思いもよらなかったのだ。封じられた魔力を開放して世界に色がよみがえりさえすれば、そこで自分達の使命は終わるものとばかり思っていた。使命を下した龍王イリリエンは知っていたのだろうか? 赤い魔力をうちに秘めた自分が魔導の継承者になるということを。

「じゃあ、ユクツェルノイレさん。もしあたしたちが継承を拒んだら、どうなさるつもりなのですか?」
 ウィムリーフが問いかけた。

 ややあって声が響く。
――「私の個人的な思いとしては、魔導の継承は君達にこそ委ねたいのだ。現世《うつしよ》において、君達ほどの魔力を備えた者など居ない。……ウェインディルはアリューザ・ガルドに戻っているようだが、もはやかつての力を失って老いており、また彼の弟子もまだ本来の資質を発揮するには至っていない。……だが、もし君達が魔導の継承を拒んでもそれはそれで構わない。ウェインディルと彼の弟子にその任を委ねたいと思う。魔力に乏しい彼らにとってやや重責やもしれないが」
――「しかし、少なくとも魔導の解放と色の復活については君達の力が必要だ。元々君らはそれを果たすために、ここ月の界へ来たのだろうから」

 しばし間をおいてミスティンキルは言った。
「けれども、だ。……面白そうでもあるな。魔導、か!」
 彼の赤目がきらりと光る。“力”をどん欲に求める生来の気質が再びちろりと炎をあげたのだ。
「“炎の司”であること以外に取り立てて特技のない、一介の漁師のおれが大魔法使いになれるってのか? しかも、そこらでやっている、見せ物のようなちんけな“まじない”じゃない。本物の魔法を使いこなせるっていうのか? 一体どうすればいい? 俺は文字がろくに読めないし、もちろん魔法の呪文のうちのひとつだって知らない」

――「アリューザ・ガルドでウェインディルを見いだせ。彼らの住まいはあえて私からは言わない。……魔導に関しては彼だけが大いなる導き手となるだろう。だが心せよ! 彼と会うまでは決して……決して自身の多大な力に酔いしれるでない。膨大な力は諸刃の剣であるというのが世の常なのだからな」
 それは、エツェントゥー老から、そして龍王イリリエンから何度と無く聞いた、多大な力に対しての心構え。ミスティンキルとウィムリーフは共にうなずき、聞き入れた。

 そしていよいよ大魔導師は宣告した。
――「もういいだろう。私はもはや語るべきことを全て語った。……魔導を解放することにしよう。君達の有する魔力を全て解き放ち、この“封印核”を打ち砕くのだ!」

↑ PAGE TOP

(五)

 ――全魔力をもってして“封印核”を打ち砕け――

 そのユクツェルノイレの言葉を聞いて、すぐにウィムリーフが言葉を返した。
「わかりました。でも、それでいいんでしょうか? 他に方法は……ないんですか?」
 ウィムリーフが躊躇している理由。それはミスティンキルにも分かった。ユクツェルノイレの意識は“封印核”と同一化している。という事は、この目の前にある立方体を粉々にしてしまえば、大魔導師の肉体はおそらく失われてしまうだろう。そうなった時、彼の意識は――魂はどうなってしまうのか。それは一つしか考えられない。ミスティンキルは、“封印核”全体を見やるようにして訊いた。
「そうだ。ウィムの言うとおりだ。ぶっ壊しちまう? ……そんなことをしたらあんたの体はどうなる? 今、おれたちとしゃべっているのがあんたの意識だとしたら、それはどこに行ってしまうんだ?」

――「あれにある私の肉体は失われるだろう。そして、私の意識の向かう先はただひとつ」
 ユクツェルノイレは答えた。
――「死者の世界、“幽想の界《サダノス》”」
 ユクツェルノイレの声は妙に穏やかだった。自分が死に至ることがあたかも宿命であることを、むしろ望んで享受するかのように聞こえる。
――「あの身体に再び魂を宿らせることが出来ないものか、私とて考えなかったわけではない。……だが結局のところ方法はただ一つしかなかったのだ。……君達はアリューザ・ガルドの色を取り戻すためにここまでやって来たのだろう? だとすればためらう理由は何もない。君達の魔力を開放してくれ。私も核の内部から同調する」

「でも……!」
 ウィムリーフの言葉を制止するかのように、封印核はぼうっと赤い輝きを帯びた。

――「気遣ってくれてありがとう。だが私の命数はすでに尽きているべきものなのだ。……今の私は摂理に反した存在。『奇っ怪な運命』とやらに翻弄されたまま生きながらえているにすぎない。バイラルは君達長命種と違い、百の齢を迎えられることなどほぼあり得ない。たいていはその前に老衰して死に至るものなのだ。もし君達がほんとうに私のことを考えてくれているというのならば、なおのこと――魔力全てをぶつけるのだ。その時となってようやく呪縛から解放され、私は穏やかに“幽想の界《サダノス》”に赴けるというものだから」
 地上に生きる者として当然しかるべくして訪れるのが死。だが今までの彼には死ぬことが許されなかった。魔導の封印を守るという使命を担っていたから。しかし魔導を解放するとき初めて、彼は全てのしがらみから解き放たれる。そう。死こそがユクツェルノイレの望む全てであった。

「……魔導の封印が解けたら、イーツシュレウはここから去る。もともとはイシールキア(ディトゥア神族の長)から、魔導の封印を見守る旨を受けて、もう長いこと月にいたのだからな。その必要が無くなったら……これからは“自由なる者”として、各地をぶらぶらと渡り歩こうと思う」
 イーツシュレウは淡々と言ったあと、目を伏せた。神にも人間に対する情というものはあるのだ。今の彼は懸命に悲しみを抑え込もうとしているように、ミスティンキルには見えた。
「いずれはこうなることになるものと予想は出来ていたから、だからユクト……長きに渡る辛苦を乗り越えたのだから、その分も含めて“幽想の界《サダノス》”で安らかに過ごしてしかるべきだ。イーツシュレウは君に幸あれと願う。そなたは良き友であった」
 感情を押し殺したまま、イーツシュレウは語った。

――「ありがとう。イーツシュレウ。……そして人よ。魔導のことをよろしく頼む。この後、忌むべき事が起きぬよう、再び封印が為されないよう――魔法が常に人にとって良き存在たらんことを願う」
――「では、魔力を解放するのだ。二人とも目を閉じて……呼吸を大きく繰り返し……そうだ。他のことは何も考えなくていい。自分の深層に存在している力を体外へと出すように、想像するのだ」

 ユクツェルノイレの言葉どおり、二人は目を閉じて意識を集中させた。今もミスティンキルの身体全体を赤い魔力の膜が取り囲んでいるが、それが徐々に大きく強く膨張していくのが感じとれる。

――「いいぞ。そのまま力を強めていって……私が“開封のことば”を唱えよう……」

――<アーディ>!

 そして――。
 それがユクツェルノイレの最期の言葉となった。

◆◆◆◆

 ミスティンキルは目を閉じる。心の中を無にして、ゆっくり、天上を仰ぐ姿勢をとる。
 まぶたに映るのは暗黒ではなく、月の光のイメージだ。白銀が白々と映えていた。
 やがて網膜に、自分の魔力――まったき赤がぼんやりと浮かび上がり、じわじわと白銀を打ち消してゆく。
(魔力よ……おれの力……。おもてに出てこい……)
 仰いだままの姿勢で大きく呼吸をひとつ、ふたつ。……みっつ。
 まぶたの裏側に映る赤は徐々に鮮明に色を写しだし、同時にミスティンキルの心をも高揚させていく。ミスティンキル自身も、自分を取り囲む赤い魔力がさらに力を増しているのが分かった。
 おもむろに両手を水平にかざす。掌から魔力を放出させるような情景をミスティンキルは頭の中で描いた。

 そして――
――<アーディ!>
 ユクツェルノイレによって“開封のことば”が放たれると共に、ミスティンキルは仰いでいたこうべを戻し、かっと両の目を見開く。深紅の両目は今や、ぎらぎらと輝いていた。
「出ろ!」
 ミスティンキルがそう叫ぶと同時に、彼の身体に絡まっていた赤い魔力の薄絹は霧散し、瞬時に両の手に集まる。さらに、彼自身の内部に存在する膨大な力もまた、掌の一点に集まった。
 龍《ドゥール・サウベレーン》の放つ業火のように、両の手から勢いよく赤い魔力が放たれ、“封印核”の半分を覆い包む。彼の想いによって肥大した赤い力は、炎のような象形となった。それは、ミスティンキルが炎の司であるためだろう。火が氷を溶かすように、赤の魔力によって徐々に立方体の表面が溶けていく。
 その反対側で、ウィムリーフもまた魔力を解き放っていた。彼女は両手をぴたりと“封印核”の表面に押し当て、青い魔力を放出させる。彼女の掌を中心として、風にたなびく水のように波紋が幾重にも広がり、立方体を崩していく。
 双方の魔力が重なる部分では、赤と青が螺旋状に絡み合い、核の外周に見事な円環を形成させた。

 黒い翼の持ち主が真っ赤な魔力を“封印核”に叩きつけ、その反対側では白い羽根の持ち主によって青い魔力が放たれ、“封印核”を振動させている。各々の髪の色、つまり黒と銀は、魔力を発動した本人の色を受けて、妖しくも華麗に色づく。
 そして彼らの魔力がぶつかり、融合する中心部では縦の輪が創られ、有機的にうごめきながら廻り、同時に赤・青・紫と色を変化させながら煌めいている。
 この時、月に住む様々な種類の精霊達は、真珠の塔を覆い尽くす鮮やかな色を見て、一様にこう思ったに違いない。
 ――美しい――と。

 “自由なる者”イーツシュレウもまた、同様に感じ入っていた。だが、惚けてばかりもいられない。彼自身はこの儀式そのものに干渉することは出来ないが、もし悪しき力が芽生えた場合はそれを断ち切るよう、心構えをしていた。また同時に、月からアリューザ・ガルドへ繋がる“次元の門”を招来しようとしていた。

 やがて、ぴしり、という音と共に、“封印核”の表面の至るところに亀裂が走った。
 その様はまるで、湖上に張られた分厚い氷が強大な力を受けて割れていくよう。がらがらという大きな音が立方体から響くたびに亀裂は広まっていく。もう少しの時間で“封印核”が割れるのは確実であると思われた。

 だが、いくらミスティンキルが膨大な魔力を有するといっても、人間である以上、体内にある魔力は無尽蔵ではない。ミスティンキルは、自身から放出されている魔力がそろそろ枯渇しそうなことが感じ取れた。
 ウィムリーフもまた同様。彼女はすでに魔力を出し絞ってしまったのだろうか、それまで彼女を覆っていた青い魔力の膜すら消え去ってしまっていた。普通の人間であれば――また並の術使いであってすら、いつ倒れてしまってもおかしくない状態なのだろうが、冒険家を名乗る彼女の強い意志がウィムリーフの身体を何とか支えていた。肩で荒く息をしながらも、そのまなざしは相変わらず真摯だった。
「……だいじょうぶよ。ミスト」
 彼女の言葉を聞いて安心したミスティンキルは、これが最後とばかりに体内に残存しているだろう魔力を全て解き放つよう、自分の中で思い描いた。
「……よし。行けぇ!」
 かけ声と共に、紅蓮の魔力が“封印核”の中心に向けて放たれた。

 ミスティンキルの魔力が“封印核”に触れると同時に、内部にあるユクツェルノイレの身体からも大魔導師が有する魔力が放射状にほとばしった。ユクツェルノイレの持つ赤い魔力が立方体内部の壁にぶち当たると、それらはいくつもの奇妙な文字と化していくのであった。
 “呪紋”。
 魔法をかじったことのある者であれば、その名前くらいは聞いたことがあるだろう。かつての魔導師達が用いていたそのすべは、魔力をさらに増幅させ、術の効果を最大限に発揮させるものだ。
 外から受ける魔力と、内側から放たれた呪紋。その二つの衝撃によって、ついに“封印核”は砕け散った。

 そして“封印核”内部にあった無数のしゃぼん玉は、はかなくも次々と割れゆき――その内に封じ込められていた膨大な魔力がいよいよ外に放たれようとしていた。

◆◆◆◆

 魔力のこもったしゃぼん玉は、ひとつ割れるたびに轟音を放ち、周囲の空気をも震わせる。解き放たれた魔力の大きさは圧倒的なものであった。小さな玉に凝縮されていた魔力は爆発と共に膨張し、ミスティンキル達に襲いかかるのであった。
 ミスティンキルら三人はその衝撃のたびに何とか堪え忍ぶのだが、内包していた魔力をすでに完全に失ったユクツェルノイレはそうではなかった。真紅のローブは千切れ、彼の肉体は、やわな石膏のようにぼろぼろと崩れ去っていった。だが、不思議と“悲しい”という感情は芽生えなかった。
 なおも迫りくる強力な魔力に抗おうと、ミスティンキルは腕を胸の前で十字に構え、守りの姿勢をとった。衝撃のいくらかはしのげるものの、それでも彼に向かってくる力の量は絶大なものであった。
 しゃぼん玉が割れて、轟音と共に色の帯が出現する。ひとつ、またひとつと……。

 そのうちにミスティンキルは、自分の身体に何かが起こっているのを知った。先ほど放出しきってしまい全く失われたはずの魔力が、今や再び自身の体内にみなぎっているのを感じる。それは、解放された色の帯――魔力の本質が、彼に与えたものだった。
 数々の色の帯が彼に与えたのはそれだけではない。いつしかミスティンキルは、今まで聞いたこともないような言語が大量に自分の体内に入り込み、頭から足の先に至るまで、ぐるぐると循環するのを感じていた。ミスティンキルには解することが出来ない言葉であったが、おそらくは太古に存在した“力”を持つ言語のうちのいずれかなのだろう。
 ミスティンキルは抗うのを止め、魔力の渦に流されるままになろうと決意した。すると魔力を帯びた色達は一斉にミスティンキルの周囲を取り囲み、彼にさらなる膨大な情報をもたらす。それは、魔導を扱うすべであり、呪文であった。並の人間であればその情報量のあまりの多さに仰天して卒倒したか、はたまた衝撃に耐えきれず、心身を破壊されて死んでしまったかもしれないが、魔法使いとして卓越した素質を生来持っているミスティンキルは、それら全てをあるがままに飲み込んだ。
(入ってくる……これが魔導、というやつか。分かるぞ、こいつは……この力はすごいもんだ!)

 多彩に組み合わされゆく魔力の帯に取り囲まれ、ミスティンキルの視界からはウィムリーフやイーツシュレウの姿が見えなくなってしまっていた。二人が無事であることは感覚的に掴み取れる。だが、唯一失われたものがあるのを知った。
 つまり、ユクツェルノイレはすでにここにはいないということ。彼の気配は失われ、おそらくは“幽想の界《サダノス》”へと旅立っていったのだろう。

 ミスティンキルの意識が次第にぼやけていく。彼の中を突きぬけた様々な色の帯は、そのまま真っ直ぐにアリューザ・ガルドへと向かっていった。幾重にも渡る色の帯がこうして解放されゆくことで、“原初の色”の流れは本来あるべき姿に戻るのだ。そして森羅万象あらゆるものが、今までどおりの色に彩られることだろう。
 アリューザ・ガルドに色が戻る。
 ミスティンキルは確かな達成感を味わいつつ、意識を失っていくのだった。

↑ PAGE TOP

前章へ || 扉頁に戻る || 次章へ
SSL標準装備の無料メールフォーム作成・管理ツール | フォームメーラー

↑ PAGE TOP