『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 第七章 スティンを目指す

一.

 水の街サラムレを後にしたルード一行は、大河クレン・ウールンを左手に見ながら、スティン高原へと続く東回りのルシェン街道を進んでいた。夜を徹し、まる一日馬を走らせた彼らだが、二度目の朝を迎える頃には疲労の色が強く、一休みする必要があった。
 そんな折り、家の並びらしきものが朝日に照らされて陰をつくっているのを見つけた。休息の場所を求めて入り込んだところが、この廃墟だった。

 十三年前、この地域一帯では中枢の戦士達と反逆者ニーヴル達とによる、最後の凄惨な戦いが繰り広げられていた。戦いの場、すなわちウェスティンの地と呼称される平原には、あちらこちらに小さな村が点在していた。ここもそんな不幸な村の一つである。
 赤い鎧の戦士達が反逆者を追い込むために放った炎と、抗うニーヴル達が己の力で作りあげた火球が渦を巻き、平穏に過ごしていた村々を焼き払う。哀れな住民達は、ニーヴルによって殺されたのか、使命遂行せんとする烈火達の巻き添えをくらったのか、今となっては知る者などいない。
 ただ明らかなことは、戦火に巻き込まれたその村からは、災いによって深い痛手を受けた人々が一人、また一人と立ち去り、ついに村からは人がいなくなったという事実のみである。後に残ったのは、焼かれて緑を失った木々と、もとは石造りの家であったがれきの山――つまり廃墟であった。

「酷い……わね」
 ルードと肩を並べて歩いていたライカは、銀髪をさらりとかき上げてつぶやいた。
「確かにな」とルード。
「ここら辺一体はみんな焼かれちゃったんだな……俺も小さかったから、よくは覚えてないけど、こんなに酷い有り様だったなんてな」
 ここはルードの生まれ故郷なのだ。二人は周囲を見渡しながら、人気のない小道をとぼとぼと歩いていた。まるで時間が動いていないかのように、十三年前の戦禍を未だ色濃く残している場所。だが、時間はしっかりと、確実に動いていたのである。

 破れさびれた村の跡地が自らの故郷であることを知ったルードにとっては、ふるさとに戻れたことは嬉しくもあり、またつらくもあった。が、十三年という歳月と、何より今の自分に課せられた使命とによって、彼は目の当たりにしている現実と向き直れるほど強くなっている。ルードは深く頭を垂れて黙祷を捧げると、気遣う〈帳〉やライカを逆に励まして、ひとときの眠りについたのだ。
 二、三刻も過ぎて、夏の日差しがまともに照りつけるようになると、たまらずルードは眠りから覚めて、ライカとともに村を見て回ることにした。二人はしばらく休息地の辺りを廻るように歩いていたが、ライカが小道の跡を見つけ、村の北のほうへと足を向けた。

「そう言えば、あの木……」
 ルードは立ち止まった。前方に見える木、いや、かつて木であったものから、何かを思い出した様子だ。
「あれね。かなり大きな木だったのね」
「そうだな。何となく俺は覚えてるよ。でっかい木がぽつんと立っててさ、木登りしたり木の実を取ったり……色々したもんだ。でも、まだあの木だって生きてるぜ」
「セルアンディルのあなたには、土の力が木に流れ込んでるのが分かるから?」
「それもあるけどさ、ほら、よく見てみなよ」
 かつて焼かれ、もはや幹しか残っていない大木であるが、生きることを続けるために、ごつごつとした根をしっかりと幾多にも下ろしていた。緑を生い茂らせていたであろう枝々は無くとも、それでも樹皮をぬって新しい緑が芽生えようとしていた。
「ふうん……ちゃんと生きてるのね」
 ライカは素直に感嘆した。
「でっかい木じゃあなくなっちゃったのが残念だけどね。でもあの木が、俺が遊んでた木だとしたら……お、そうそう。その向こうには池があったんだっけ!」
 幼い頃にかすかに残っている自分の記憶を頼りに、ルードは懐かしそうにうなずいた。
「俺はよく覚えてないんだけどさ、池の中のでっかい魚を捕ろうとしてたらそのまま落っこちちゃったらしいんだ。がばがばって溺れてるのをどっかの爺さんに助けられたって、ニノ叔母さんから聞かされた。『お前のいたずらぶりはその頃からはじまってたんだね』ってね!」
「ふふ……」
 和んだ空気が二人を包んだ。
「っていうことはだ、あの木の向こうに残ってる家が……俺の家ってことになるな!」
「ルードの家?」
「そうさ、俺の家だよ! ライカも来いよ!」
 にっこりと笑って、ルードは走り出した。

「へえ?」
 生家に辿り着いたルードは、周囲を見て喜んだ。誰もいないと思われていたこの廃墟だが、実のところ人々が生活を営んでいたのだから。
 ルードの家の辺りはまだ戦争の被害も少なく、多くの家が残っている。そんな住む人のいなくなった家々に、いつの頃からか人が集まりだしていたのだ。今では町を形成しているクロンの宿りが、そもそもは人々が寄り集まることからはじまったように、ルードの生まれ故郷は、新たな住人達によって生まれ変わろうとしているのだ。
「人の寄りつかないところだとばっかり思ってたけど、人が住み着き始めてるのね。ねえ、ルードの家はどれなの?」
 ルードは目の前にある堅牢な石造りの家を指した。蔦に覆われている煙突からは、昼食時だからだろうか、一筋の煙がもくもくと立ち上っていた。
「誰か住んでるみたいよ? せっかくふるさとに戻ってきたのに、どうする?」
「どうするって……ここはもう、俺の家じゃあない。昔そうだったってだけで、今となってはここに住んでる人の家だよ。この村が活気を取り戻してくれただけで、俺は満足だよ。俺の家は、スティンにある叔父さんの家だけで十分なんだ」
 ルードは破顔して答えた。
「昔、酷なことは確かにあったけど、村そのものが死んだわけじゃない。その気持ちさえあれば、立ち直らせることだって出来るんだ! つまりさ、諦めずに希望を繋いでいけば、酷い状況だって変えられるってことだよな」
 ライカはうなずいた。
「希望は捨てるな……か。わたしって、ルードに励まされてばっかりね」
「俺達も頑張らなきゃいけないしね。さて、そろそろ戻ろうか? 〈帳〉さんの放った術が返ってくる頃だ。ひょっとしたらハーンの様子をつかんでるかもしれないからな」
 ルードは、名残惜しそうに生家をあとにした。しかし気持ちは不思議と晴れやかであった。

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二.

「戻ってきたか」
 重々しい声。切り株に腰掛けていた〈帳〉は、渋りきった表情で二人を迎えた。
「〈帳〉さん、ハーンからの返事はありました?」
 よっこいせ、と声をかけて、ルードはその横に座り込んだ。
「あった。私の放った術が今し方戻ってきて、ハーンの所在が明らかになったのだ。彼は無事だ。しかし、決していい知らせとは言えないぞ」
「どういうことなんです?」
 ルードは身を乗り出して訊いてきた。
「クロンの宿りが“混沌”に飲まれた」
「飲まれたって……なくなったってことですか?!」
「そうだ。いよいよ世界の崩壊がはじまったのだ」
 〈帳〉は重々しく語り始めた。
「ハーンは昨日ようやく意識を取り戻したという。しかし、彼のいたクロンの宿りは、すでに“混沌”が押し寄せていた。――ここからでもスティンの山越しにかすかに見えるあの忌まわしき黒い空だ。黒い空は“混沌”そのものを伴って、クロンの宿りをひと飲みにしたという……恐ろしい事態がついにはじまったのだ! 我々はデルネアと対峙すると同時に、“混沌”に対しても向き合わなければならなくなった。……私がこのようなことを言うのは、きわめて恥ずべきことなのだが、我々は一ヶ月もの間、我が館に留まる必要があったのか? せめて、ハーンとともにデルネアのもとを訪れたほうが良かったのではないか? 悔やまれてならないのだ」
「……ハーンはデルネアに会いに行ったんですか?!」
 ライカが驚いた。
「左様。今だから言うが、ハーンが旅立った目的とは最終的にはそれが狙いだったのだ。ああ! あの時、彼とともに旅立っていれば、今頃デルネアと対峙出来ていたかもしれないというのに……」
 〈帳〉は頭を抱えた。後悔の念と、自らの決断の甘さに苛まれながら。
「……それは……どうなんでしょう?」ライカが口を開いた。
「今〈帳〉さんの言ったとおり、たとえデルネアに会ったとしても……その時にどうすればいいんだか、どうすればアリューザ・ガルドに戻る方法を教えてもらえるのか分からないです。すくなくとも私には分からないんです。そう……今だからこそ、どうすればいいのかっていうのが見えてくるんじゃないでしょうか? それに……世界が混乱してしまってるから、逆にわたし達が疾風を煙に巻けているっていうようにも思います……酷い言い方かもしれないけど」
「……『もしも』っていうのを今考えてもしようがないですよ。ライカも言ったけど、今の俺達だからこそ出来ることっていうの、結構多いと思いますよ」
 ルードも続けて言った。
 〈帳〉は彼らの顔をじっと見つめていたが、やがて喉の奥から笑いがこぼれてきた。
「ふ、ふふ。なるほど。考えが曇っていたのはこの〈帳〉のほうだったのだな」
「ご、ごめんなさい! 失礼なことを言うつもりじゃなかったんです」
 ライカが謝ろうとするのを〈帳〉は制止した。
「そうではない。君達二人は、かつてのアリューザ・ガルドの英雄達に匹敵するような、確固たる考えを持っている。それは素晴らしいことだ。やはり、館で過ごしたひと月という時間が君達を大きく成長させたと思えるな。
「たしかに、ハーンと我々が行動をともにしていたら、おそらく中枢アヴィザノへまっすぐ向かっていただろう。が、その結果がどうあれ、その間にクロンの宿りが“混沌”に飲まれることになるのは避けられなかった。ハーンはひとりで北方に向かい、結果として――ひとにぎりではあるが――クロンの人々を救ったのだ。ハーンは、その時に出来うる限りの最善の選択をしたということか……。
「ともあれ、事態は依然安穏としてはいられないのだ。いや、むしろ危惧すべき状況に陥りつつある。世界が確実に破滅に向かっている今、私達は可能な限り、為すべきことをせねばならないのだ。ハーンがそうしたようにな。……急ごう。まずはマルディリーンの提言どおり、スティンに向かわねばならない。かの方が明言されたのであれば、おそらくはスティンでハーンと会うことによって、何かが変わるのかもしれない……それが何なのか、私のごときでは分からないが」
「マルディリーンに会えたというのも、俺達が〈帳〉の館に留まっていたからじゃないかな、とも思えますよ」
「そうかもしれないな。物事はよいほうに考えるに限る。これは君達から教わったことだ。本に囲まれて過ごしていただけでは、何の解決も見いだせないこともあるのだよ」
 〈帳〉にしてはじつに珍しく、にっこりと笑った。
「デルネアの動向はようとして知れないが、恐るべき太古の“混沌”はついに世界を侵しはじめた。しかし、終末を救う鍵となる二つの“力”――聖剣と、もう一つ。その“力”が我々にあると教えてくれたのは、マルディリーンだ」
「鍵、ですか。物事がうまくいくかどうか、それはわたし達次第なのですね?」
 とライカ。
「そう。運命の渦中にあるとはいえ、最終的に結果を出すのは大いなる意志でも、神々の力でもない。我々自身なのだ」

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三.

 広大なウェスティンの地。壮絶な戦いが繰り広げられたこの地だが、凄惨たる当時の状況を感じさせないように静まりかえっている。しかしながら、街道沿いには慰霊碑が築き上げられ、献花の絶える日は無い。遠い日の出来事とはいえ、人々の心には悲劇が深く刻み込まれているのだ。
 だが、フェル・アルムの民にはニーヴルを弔う気持ちなどはなかった。ニーヴルは王宮を侵した反逆者。フェル・アルムの民にとっては敵以外の何者でもなかった。真実が歪曲されて伝わっているとは言え、ニーヴルの術士達の魂が安らぎを得る日は、果たして来るのだろうか?
 ルード達は、沈痛な面もちで決戦の舞台を通り過ぎていった。ここを通り越すと街道はクレン・ウールン河と別れ、いったん南に大きくくねったあと、今度は北に進路をとる。なだらかな傾斜が続く丘陵地帯を登っていくと、やがてスティン高原の麓、ベケット村やコプス村、ラスカソ村に辿り着く。

 とっぷりと日が暮れた頃。一行はようやくウェスティンの地を通り抜けた。
「俺の故郷からラスカソまで、結構歩いた記憶があるけど……このまま今の調子で馬を進めると、どれくらいかかるんでしょう?」
 世界全体が闇に包まれ、丘陵地帯にさしかかったところでルードが〈帳〉に尋ねた。
「二日ほどで辿り着くだろう。おそらくはハーンのほうが私達より少し早く高原に到着しているだろうがな」
「二日! よし、もう少しだ! 頑張っていこうぜ!」
「〈帳〉さん……転移の魔導を使って辿り着くことは出来ないんですか?」
 ライカが訊いた。
「実のところ、魔導を行使出来るだけの魔力であれば、すでに癒えている。だが……」
「夜の闇の中じゃ魔導は使えない、てことだよ。“混沌”に捕らわれるかもしれないからな」
 〈帳〉に先んじて、ルードは知ったふうな口調でライカに言った。
「それももちろんあるが」〈帳〉は言った。
「ようやく回復した魔力を、転移のために使うことは出来ないのだ。デルネアと相対した時のことを考えて、力を温存しておきたいのだよ。……私の予感では、おそらく彼のこと、こちらの説得においそれと応じるはずもないだろうからな」
「戦うってことですか?」と、率直にルードが言う。
「ルードよ、鋭い感性だな。そういうことになるかもしれない。いや、おそらくいずれ戦うことになるだろう。悲しいことだが、強大な“力”を得ている彼は絶対的存在としての驕慢に満ち満ちている。それを突き崩さねば、還元のすべを知ることは叶わないだろう……。彼に幾ばくかの良心が存在しているのであれば良かったのだが、今のデルネアは『人間ごときを超越している』と考え、人間らしさのかけらもなくなっている。まこと、悲しいことだ……。彼と戦うことが最善の手段だとは思えない。力でもって力を突き崩すなど、むしろ愚かしいとも言える。しかしそうするしか手がない。いや、悲しいかな、私にはそれ以外に考えられないのだ」
「デルネアに勝てる見込みはあるんですか?」
「いや。彼の“力”はあまりにも強い。私ごときでは勝てるとは思えん。だが、なんでもいい。デルネアが人としての心を取り戻してくれるのであれば、私は……」
 〈帳〉は続く言葉を紡げずに、うつむいて押し黙った。
 ルードは考えた。仮にケルンやシャンピオら友人達と戦う羽目になったら、敵対するかたちになったら――どうする?
(とっても悲しいことだけど……〈帳〉さんはその悲しみから逃げずに、面と向かい合おうとしている)
 〈帳〉に降りかかっている悲しみの深さを、ルードは少しでも理解したような気がした。
「……けれど〈帳〉さんだってひとりじゃない。俺やライカ、ハーンがついてるんですよ。なんと言ったって、聖剣があるんだし」
「ありがとう。その言葉こそ心強いものだ」
 〈帳〉は言った。
「だがデルネアとかけ合うのは、私だけでいい。君達には、より重要な使命があるのだから。フェル・アルムを元あった大地に戻すには、運命の中心に存在する、君達の強い意志が必要なのだ。そして、おそらくは聖剣の“力”も」
 ルードはおもむろに、腰に差してある銀色の剣を抜き出した。この剣は明らかに、圧倒的な“力”を内包しているのだろうが、ふだんはみじんも感じさせない。
「思い出した。そういえば、夢で見たわ」
 ライカが言った。
「その剣。そのう、よくは覚えてないんだけど、闇をうち払ってくれたことだけは印象に残ってるの。夢の中が闇に包まれた、ちょうどその時ルードが剣を手にして、闇を追い払ってくれたもの」
「ライカの夢のとおりかもしれない。おそらく、“混沌”をうち破る鍵を持ち合わせているものこそ、その聖剣にほかならないだろう」
 〈帳〉はルードの剣を見ながら話した。
「ガザ・ルイアート……」
 ルードは刀身をじっと見つめた。
「この剣のことを、俺はまだよく知らない。教えてくれますか? ……なんでもいいから、この剣について」
 ルードの言葉を受けて〈帳〉は語り始めた。

「ガザ・ルイアートは、アリューザ・ガルドに数ある剣の中でも、もっとも強い“力”を持った剣だ。黒龍の剣“タリア・レヒドゥールン”、アル・フェイロスの名だたる剣“スウェル・シャルン”、私がハーンに手渡した漆黒剣“レヒン・ティルル”……。数々あるが、かのガザ・ルイアートは、ディトゥア神族の“八本腕の“土の界《テュエン》”の王”ルイアートスが自らの腕を落として創り、鍛え上げた剣。アリューザ・ガルド最大の災い、冥王を封じた剣なのだ。
「今をさかのぼること千年以上昔になろうか。アリューザ・ガルド全土を冥王ザビュールが支配していたのだ。憎悪の衣をまとった冥王は、魔界“サビュラヘム”を創り出した神であり、そもそもはアリュゼル神族。アリュゼル神族に従っているディトゥア神族が束になってもかなう相手ではない。だが、“光”の力を内包したガザ・ルイアートのみが、冥王を倒す手段となり得た。
「聖剣はルイアートスから“宵闇の公子”レオズスに託された。レオズスは闇を司る神ではあるが、ザビュールに屈することのない気高い意志を持ったディトゥア神だ。本来はな。……その後の“魔導の暴走”の際に、“混沌”に魅入られたことはレオズスにとっても悲劇だった。――話を戻すと、レオズスは聖剣を握る資格を持つ者を探し、ついにイナッシュを見いだした。イナッシュとレオズスはともに魔界《サビュラヘム》に乗り込み、戦いの果てにザビュールを討ち果たしたのだ。
「冥王が倒されて以降、聖剣の所在は知れなかったのだ。が、なんということか、このフェル・アルムに存在していたのだ。北方、果ての大地でハーンがこの剣を見つけたこと、それ自体も運命なのかもしれない。ともあれ今、聖剣はルードを所持者と認め、大地の力をルードに授けた、ということだ」
「大地の力は確かに感じますけどねえ」
 大地の加護を受ける民、セルアンディルとなったルードはしかし、怪訝そうに言う。
「神を倒すなんて。、そんな大それた剣には思えないですよ……あ、でもあの時! ハーンが危険だと感じたあの時、こいつはとてつもなくまぶしい光を放った。その時の剣の“力”は……うまく言えないけど凄まじかったです」
「聖剣は今、本来持てる“力”を発揮していないのだろう。何かしらのきっかけがあれば……そう、おそらくは……」
 〈帳〉は言葉を止めた。
「ガザ・ルイアートは、純粋たる“光”を持っている。我々魔導師が追い求めたものの、ついに求めることが出来なかった究極の色、“光”。それこそが“混沌”をうち払う鍵を握っていると思いたい……」
「冥王のことは、わたしもおじいちゃんから聞いたことはありますけど、じゃあ“混沌”というのは何なんですか?」
 今度はライカが訊いた。
「“混沌”か……」
 北にある漆黒の空を見上げて〈帳〉はつぶやいた。
「“混沌”。実のところ私にもよく分からない。だから私の知る限りにおいて話そう。アリュゼル神族達が存在するより遙か昔。その頃の世界には“色”などは存在せず、荒ぶる古き神々が支配していた。“混沌”は神代において、世界に存在していた大いなる力の一つ、と言われる。
「……それ以上は私も分からない。文献をあさってみたところで、“混沌”の正体など出てくるはずもない。次元の狭間、イャオエコの図書館であっても、“混沌”に関する明確な本があるかどうか……。ただ言えることは、“混沌”に飲まれてしまったが最後、二度と現世《うつしよ》に戻れないということ。抽象的な存在ゆえに、倒すことなどが出来ないこと。唯一出来うるのは、遙か彼方に追いやることだけであろう」
「追いやる……その役目を果たせるのが聖剣、か」
「左様。そして、何よりルード、君自身の意志なのだよ」
 ルードは黙ってうなずき、光を持たないガザ・ルイアートを鞘に収めた。
 神封じの聖剣。この剣が本来持っている“力”を発動すれば、強大なデルネアとも渡り合えるかもしれない。そして、クロンを飲み込んだ“混沌”すら跳ね返すかもしれないのだ。今のルード達にとってガザ・ルイアートは、まさに希望を繋ぐ剣であった。
 しかし――剣は未だ真の“力”を発揮していないのである。

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四.

『スティンの丘陵を夜に越す愚かさ』
 フェル・アルムにはそんな格言がある。「せっかくの好機会を逃す」という意味が込められているのだ。
 五百年前のドゥ・ルイエ皇であり、芸術に造詣の深かったリジナーは「なぜ我が祖先はこの地に宮殿を建てなかったのだろうか。余が造った中庭など、この景色の前にはかすんで見える」と言ったという。
 それほどまでに、スティンの丘陵から見る景色は美しい。
 北方はスティンの山々を目の当たりに出来、南方にはセルの山がちらと見える。目をおろせば西にはウェスティンの平地と、そこを流下する大河クレン・ウールンの流れがあり、東には巨大なシトゥルーヌ湖が紺碧の色をたたえているのだ。

* * *

 ルード達は夜どおしかけてスティンの丘陵を北へ北へと歩んでいた。高原の麓、ラスカソ村に辿り着くまでは足を休めない、と決めていたのだ。朝を迎えて、全貌を現したスティン丘陵の絶景に、一行の心はいくらか癒されはしたものの、足を止めて感慨に耽ることはしなかった。心なしか、北方に見える黒い空が大きくなっている気がしたからである。

 昼頃、ルード達は旅人が言い争っているのを目にした。
 不吉な黒い空を恐れて北方から丘陵をおりてきた旅商達は、南方から上がってきた避難民と出くわし、北に進むのをやめるように忠告した。が、避難民のほうは、[南ではみんなの言葉が変わっちまった! 化けもんだって出てきている。これこそ呪いだ]と言いはり、逆に旅商に北に戻るように言い聞かせた。そして言い分を言い合っているうちに喧嘩になってしまったのだ。
[商人達についていくべきです。むしろそのほうが安全です。化け物達と戦うすべは傭兵達が心得ていることでしょう]
 〈帳〉は両者にそれとなく、南に向かうように説いて、立ち去ろうとした。
「じゃあ、なんであんた達は北に向かおうとしてるんだ?」
 立ち去る際、旅商のひとりが声をかけたが、ルード一行はそれには答えずに馬を進めた。

「聞きました? あの人、最後のところだけアズニール語を使ってたんですよ」
 ルードは言った。
「ああ。南からはじまったアズニール語の覚醒は、思いのほか早く北にまで伝わっているようだな」
 〈帳〉が言った。
「あの人が言ってたけど、本当に呪いなんですか?」
 とライカ。
「フェル・アルム世界自体が、本来あるべき姿に戻ることを望んでいる、その象徴的な出来事と言えるだろう。言葉の復活は呪いなどではないよ。私達の、そして彼らの心の奥底で眠っていた、アリューザ・ガルド住民としての意識が覚醒したことなのだから」
「でも、そのせいで世界中が混乱しちゃっているわけですよね」ライカが言う。
「およそ考えられる常識の範疇を逸脱しているからな。……悲しいが、私にはどうも出来ない」
 〈帳〉はうつむいた。
「私達が出来うること、私達でないと出来ないことについて考え、そしてなさねばなるまい」
 その言葉は、〈帳〉自身に言い聞かせているように、ルードには聞こえた。
 ルードは、スティンの山裾から見え隠れする、忌まわしき空を見据えた。明日にはいよいよスティン麓の村々に、そして高原に辿り着く。マルディリーンがルードに語った“ルード達の為すべき道”。それがハーンに会うことなのは明らかだ。
 だが果たして、そこから何がはじまるというのだろうか?

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五.

 さらに経ること一日。
 途中、魔物の襲撃にもあわず、ルード達はことのほか早く、麓の近くまで辿り着くことが出来た。夕刻には街道沿いにぽつりぽつりと民家が見えはじめ、日が暮れる頃にはラスカソ村の門にまで辿り着いた。
 サラムレを出てから四日も経つというのに、まともな休息など数えるほどしか取っていない。いかに一行が丈夫な体を持っているとはいえ、疲労はずっしりとのしかかる。一行は、スティンに辿り着いたという達成感を感じる前に、襲いかかる睡魔と戦っていた。
 ルード達は手近な宿に入ると、即座にベッドに横になった。毛布の心地よさを存分に感じながら、いつしか彼らは寝入ってしまった。

* * *

 ふとライカは、ざわめく喧噪によって目が覚めた。風を感じるアイバーフィンは、バイラルより遙かに耳ざといのだ。外の様子がどことなくおかしいことに気付き始めた。

――なぜ逃げようなんて言い出すんだ? あんたは……
――分からんか!? あれを見ろよ……黒い雲だ! 俺達のクロンは、あれに飲まれて何もかも無くなっちまったんだぞ!

(黒い雲って?! まさか!)
 窓際を通り過ぎた声に、ライカは飛び起きた。長いこと馬にまたがっていたため、全身を襲う筋肉痛に顔をしかめつつ、彼女は窓の外を見る。はっと大きく目を開いて、窓硝子に張り付いた。
 窓の向こうの情景――本来そこにあるべきスティンの山々を覆い包んでいるのは――黒い雲だ。“混沌”を呼び込むその暗黒は、とうとうスティンの山を飲み込み、高原に迫るところまで近づいていたのだ!
「ルード! 〈帳〉さん!」
 ライカは同室の二人を揺さぶり起こした。
「うん? ……まだ夜なんじゃないのか?」
 寝ぼけ眼で外を見たルードは、不機嫌そうに言うと再びごろんと横になった。
「しゃんと起きてってば!」
 ライカはルードの片腕を持つと、唸りながらルードを起こそうとした。
「暗いのは夜だからではない。ルードよ」
 〈帳〉は言った。
「どうやら時すでに遅かったかもしれんな……黒い雲が、ついにこの地まで飲み込もうとしているようだ」
「まさか?!」
 ルードはがばりと起きた。それまで彼の腕をつかんでいたライカはよろめき、壁に頭をぶつけた。
「……! ルードぉ!」
 後頭部を押さえて、ライカはうらめしそうにルードを見た。
「ご、ごめん、ライカ」
 ルードは窓の外を見つめた。信じたくない事実を目の当たりにした彼の表情がこわばる。
「……そんな!!」
 ルードは窓に駆け寄った。ライカはルードの横に並び、忌まわしい状景をともに見つめた。窓の格子をつかむルードの指が、ガチガチと震える。ここから高原まで辿り着くより早く、黒い雲――“混沌”が高原を覆うだろう。
 ようやくここまで来たというのに、自分達は何も出来ずに、スティンの高原が飲み込まれるのをただ見ているしかないというのか? とてつもない恐怖と同時に、深い哀しみと悔しさに包まれたルードだが、出来ることは窓をガタガタときしませることぐらいだった。
「……〈帳〉さん! 魔導を使って、あの高原まで行けないの?! ハーンは、あの中にいるかもしれないのよ?!」
 ルードの様子に見かねたライカが〈帳〉に向かって叫んだ。
「そうするつもりだ」
 〈帳〉は言った。
「どうやらハーンも今、高原にいるようだ。先だって放っていた術が、彼の位置を教えてくれた。ハーンを助けなければ!」
 〈帳〉はすくと立ち上がった。
「とにかく外へ! ある程度の広さがないと、転移の魔導が行使出来ない」
 ライカもこくりとうなずき、戸口へ急いでいた。黒い雲など何するものか。ライカの顔には強い決意が込められていた。

 しかし――。
「待った!!」
 絶望を感じながら外の様子を窺っていたルードが叫んだ。
「雲が……雲の様子がおかしい」
「どういうことなのか?」
 〈帳〉はルードの後ろから、窓を覗き込んだ。
「あれ……見えますか?」
 ルードが指をさした。
「あれは……ムニケスの山の辺りでしょうか?」
 ルードは見ていた。黒い雲は忌まわしげな渦を巻きつつも、一つところに集まりつつある。その様は、さながら竜巻のよう。黒い雲は、スティンの山のとある一点に足をおろしているかのように見えるのだ。
「私は片目しか見えないからな……様子を聞かせてくれ」
 〈帳〉が言った、その時。
「見て! 剣が!」
 ライカの言葉にルードは振り返った。壁に立てかけてあったガザ・ルイアート。その刀身が、まばゆいばかりに光り輝いているのだ。刀身を鞘に収めてなお、まばゆく輝く光は、人智を超越した荘厳な感じを抱かせるものだった。
 ルードは黒い雲の様子が気になりながらも聖剣を手にとって、決心したかのように刀身を露わにした。その瞬間、刀身が放つ、まばゆいばかりの光に周囲は覆い包まれ、ルード達は目をつぶった。

 ルードの頭の中に去来するのは、膨大な量のイメージ。光を放つ聖剣が所持者に送り込んでくるそれは、かつての聖剣所持者の様子、戦いの歴史であった。それらのイメージは一瞬にしてルードの中を駆け抜けていったため、ルード自身も把握しきれなかったが、聖剣自身が経験した最大の出来事、冥王ザビュール降臨についてはルードの脳裏に鮮明に焼き付いた。英雄イナッシュと宵闇の公子レオズス、それに対峙するは禍々しき冥王――。ルードは、まるでその場に居合わせたかのような衝撃すら覚えた。

 聖剣は徐々に光を失い、刀身の色はまたもとの鈍い銀色に戻っていった。
 全てが収まって。一同はお互いの顔をただ見合わせるしかなかった。ややあって、ルードが言った。
「そう言えば……黒い雲だよ! あれはどうなったんだ?」
 ルードは剣を手にしたまま、窓際に戻った。
「え?!」
「どうした?」
 ルードの驚きように、〈帳〉とライカは窓に駆け寄った。
「見てよ、〈帳〉さん、ライカ! 無くなってる。雲が山の向こう側にまで退いてるんだ!」
 ルードの言うとおり、今までスティンの山々を覆い隠さんとしていた黒い雲は姿を消しており、山の頂の向こう側にちらりと見え隠れするまでに退いていた。
「確かにな……。だがハーンが言っていたように、雲がいったん退いた後、“混沌”が押し寄せるのか?」
 それこそ三人が恐れていることであった。彼らはもはや何も語らず、固唾を飲んで次なる変化を見守った。
 だが、何も起きなかった。
 黒い雲はスティン山地の頂の向こう側まで後退したまま、留まっている。
「……ともかく、高原へ行ってみませんか? ハーンがいるはずなのでしょう?」
 ルードは拍子抜けをした面もちで言った。ライカと〈帳〉もうなずき、宿の外へと出るのであった。

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六.

 黒い雲の到来。それが何を意味するのか、人々はすでに分かっていた。クロンからの避難者達は南に向けて村を去る支度をはじめていた。
 どよめき、逃げ惑う人々をかき分け、ルード達はようやく魔導の行使に十分な静かな場所を見つけた。
《ウォン!!》
 〈帳〉は息を整えつつ、喚びだしのことばを唱えた。“遙けき野”越えの際にルードが目の当たりにした魔法の力場が辺りを覆う。

《マルナーミノワス・デ・ダナッサ・フォトーウェ!》

 大いなる力よ、我らがために現前せよ。
 そういう意味を持つ古代語を〈帳〉が言い放つと、深緑の力場は半球を象った。〈帳〉は奇妙な呪文を唱えつつ周囲の切り株や雑草、がれきなどから魔力のもと――“色”を抽出して半球に張り付かせていった。

《マルナ・ハ・フォウルノーク、スカーム・デ・ダナッソ!》

 大いなる力よ、我らを誘いたまえ。
 転移の魔導を発動させるこの言葉を唱えた瞬間、半球に張り付いた雑多な色は紡ぎ合わされ、一つの色にまとまったかと思うと、半球は凝縮して一点に集い、光を放った。

* * *

 魔導が形成した透明な球状空間の中にルード達はいた。が、それもつかの間。たちまちのうちに球は消え失せて、見慣れた風景の中にルード達はたたずんでいた。
 そこは森の中の小径だった。ルードの勘からすると、高原の中の林ではなく、スティン山地の山の中のように思われた。あてどなく小径を歩きつつ、ルードはきょろきょろと辺りを見回した。
「ここにハーンがいるんですか?」とライカ。
「間違いない。この近くにいるはずだ」〈帳〉が答えた。

 ここは、果たしてどこなのだろうか? ルードが感じ取れるれるのは、懐かしい風景である、ということ。ここで日がな一日ケルンら友人と遊んでいたのは遠い昔のようだ。
「どこかで見たような景色かしらね?」
「……そうか! ここはムニケスだよ!」
 ルードの顔色がぱあっと晴れ、彼は早足で歩き始めた。
「ついて来なよ。俺とライカが始めて会った場所がここだったんだ。……間違いない。もう少し行ったところに野原があって、そこでライカが倒れてたんだ」
 ルードの言葉どおり、うっそうと生い茂る木々の向こうに、ちらちらと広場が見え隠れし始めた。やがて風景は開かれて、ルード達は野原に辿り着いた。ルードとライカが出会った野原に。そして――。

 そこには二人の人間がいた。ひとりは剣を杖の代わりにして座り込んでいる子供。もうひとりは――草むらに埋もれるようにして伏している若者であった。
「ハーン?!」
 紛れもなく、金髪の青年はティアー・ハーンである。ようやく友人に会えたという喜びを隠さずに、ルード達はハーンの元へと駆け寄った。
 だが喜びもつかの間。ハーンは動く気配を見せないのだ。
「ハーン! 大丈夫か! ハーン!」
 ハーンの容態が尋常でないことを見て悟ったルードは、ひざまずいてハーンの身体を揺すった。
(まさか?!)
 最悪の事態すらも考えたルードは、おそるおそる背中に耳を当てて鼓動を確かめた。
「どう……なの?」ライカが不安そうに訊いてきた。
「何とも言えない……けどハーンは生きてる……」
「そう。……だけど、オレはそれが恐い」
 言葉を発したのは、ぐたりと疲れ切った表情をした子供だった。
「兄ちゃん達って、ハーン兄ちゃんの知り合いか?」
 よっこらせ、と起き上がった子供はルードに訊いてきた。
「ああ、そうだよ」
「もしかして、ルードってのはあんたなのかい?」
「そうだよ」
 子供の言葉遣いをやや気にしながらも、ルードは答えた。
「そっか……」
 子供は周囲を歩きながら、腕組みをして考える様子をみせた。そしてうなずくと再びルードの元に歩いてきた。
「オレの名前はディエル。ハーン兄ちゃんとは北の……ええと……クロンってあたりで知り合ったんだ。ルードの名前は兄ちゃんから聞いてたよ」
「ハーンと一緒だったのね?」
 ライカは膝を曲げ、ディエルの目の高さに合わせて言った。
「そうだよ……姉ちゃん達、黒い雲って知ってるかい? 多分知ってるだろうけど」
「知っている。全てを飲み込む、禍々しいもんだろう?」
 ルードの言葉にディエルは顔をしかめた。無理もない。ディエルはかの地クロンでまさにそのさまを目の当たりにしているのだから。
「俺達は見たんだ。黒い雲はついさっきまでスティンの山――つまりここらへんまでやって来ていたんだ。けど、雲は今、山の向こうまで下がっている……どういうことなんだ?」
 ルードが訊いた。
「“あれ”は当分こっちにはやって来ないよ。オレ達が――んにゃ、兄ちゃんがくい止めたんだからな」
 ディエルは元気なく答えた。
「この兄ちゃんが、“混沌”の侵攻をくい止めたんだ」
「“混沌”……」
 それまで後ろで黙っていた〈帳〉が口を開いた。
「確かに……恐ろしいことだ……」
 〈帳〉はそう言ってハーンの横でひざまずいた。
「ハーン。あなたが“混沌”を追い返したのは素晴らしい。が……しかし……」
 〈帳〉は険しい表情をして、目を伏せた。
「ぐ……」
 その時。ハーンがうめき、ぴくりと体を動かした。

「ハーン!!」
「やあ、ルード……だね? ようやく会えて嬉しいよ……」
 ハーンは弱々しく声を発した。
「無理するなよ、ハーン」
「だいじょう……ぶ」
 ハーンは震える手を伸ばし、ごろりと仰向けになった。その顔色からは溢れる生気など、みじんも感じられない。
「こんなざまを見せてしまって……申しわけがないね」
 ハーンはディエルに顔を向けた。
「ディエル。僕の剣を取ってくれないかい?」
「ダメだよ!」ディエルは手に漆黒の剣を持ちながらも、大きく首を横に振った。
「じきに僕は闇に囚われてしまう。……その前に、僕しか為せないことをしなければならない……。だけど僕の力だけではだめだ……力を補うために漆黒剣が必要なんだ……さあ……」
 ハーンが弱々しく手を伸ばし、ディエルはおずおずと漆黒剣レヒン・ティルルを手渡した。
「よし……ルード?」
「なんだい?」ルードはハーンのもとにひざまずいた。
「聖剣を……ガザ・ルイアートを貸してほしい……。剣に……“力”を与えるんだ……」
「“力”だって?」
「時間がない……はやく……」
「わ、分かった」
 ルードは聖剣を差し出した。ハーンは満足げにうなずくとゆっくりと目を閉じた。
「ふう。感じる……僕の“知識”が、僕自身の記憶として甦ってくるのを……。そして、僕の役割が分かった……。聖剣の覚醒だ……。それが僕の使命なんだ……」
「ハーン」
 心配そうに〈帳〉が声をかけた。
「大丈夫ですよ。〈帳〉。僕はもう……大丈夫です。あの時のようには……」
 何が大丈夫なのか? そしてあの時とは? それはハーン当人と〈帳〉にしか分からなかった。
 ハーンはガザ・ルイアートの刀身に手を置いて――。

《レック!!》

 力強く言い放った。ハーンが唱えたそれは、〈帳〉のものと発音は違えど、明らかに喚びだしのことばだった。

《ルイアートス・デル・マルナーン、ダナズス・リー・イェン・フォトーウェ!》

 その瞬間、ガザ・ルイアートの刀身中央部に刻まれていた紋様が色をなしてぼうっと浮かび上がってきた。紋様の色は、ハーンが言葉を紡ぐたびに、さまざまな色に変わっていく。
 ルードはただ、その様子を見つめるしかなかった。なぜハーンがこんなことを出来るのだろうか。疑問を持ちつつもなお、剣の変化に冷静に見つめている。そんな自分に戸惑いながらも、答えは出せそうになかった。
 そして、ハーンの呪文は完成した。

【…………!!】

 ハーンが発した最後の言葉は短いものであったが、およそ人間には発音不能と思われる奇妙な言葉であった。
 そして――。
 聖剣の刀身がまばゆく光りはじめたかと思うと、ついには剣の全てが光に包まれた。太陽を間近に見ているかのようなまばゆさに、ルードは目を閉じた。

 ようやく光が収まって、ルードは目を開けた。ディエルやライカはまだ目をつぶっている。
 見ると、手にしているガザ・ルイアートの中心の紋様は、それ自体が光を発していた。何より感じるのは――あまりに強大な聖剣の“力”。
「……ハーン!?」
 ルードは我が目を疑った。ハーンが宙に浮かんでいるのだ。漆黒の剣をしっかと握ったまま苦悶の表情を浮かべている。
「……え?」
「ハーン!」
「兄ちゃん!」
 ようやく目を開けたライカ、〈帳〉、ディエルも、目の前の事態の異常性に言葉を出せないでいた。
 ハーンは全身をわなわなと震えさせながら口を開いた。
「聖剣の“力”は発動させたよ……でも僕自身は……耐えられるのか? この……闇の衝動に!」
 ハーンの身体はゆらゆらと空中を揺れていた。が。
「かはっ!!」
 鮮血を吐き出したハーンは空中でがくりと倒れ込むかたちとなり、意識を失った。
「ハーン!」
 意識を失ったハーンの身体は――急にぐうっと空高く舞い上がり、いずこかへと飛び去っていった。
「ハーン!」

 ルードの声はむなしく周囲に響き渡るだけだった。

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