『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 第四章 水の街サラムレにて

一.

 夕方、そして夜を過ぎてもルードら旅の一行は歩みを止めることがなかった。暗黒に覆われた夜の空を見上げて感じるものは、不安と恐怖のみ。各々は感情に押しつぶされないように何をしゃべるでもなく、黙々と馬を進めていった。
 しかし、夜の世界は決して安穏としていられるものではない。闇を渡って、魔物が出現するかも知れないからだ。現に朝までの間に、ルードは二匹の化け物を倒していた。
 魔物の様子を見計らって斬りつけた刀身が鈍く輝き、魔物は一撃のもと屠《ほふ》られる――。
 ルードの太刀筋を〈帳〉が賞賛するも、ルードはどうしても忘れられないことがある。切り裂く時の肉の感触、断末魔の叫び声、何よりライカの怯える顔――。それらがかつての幼い頃の記憶と重なる。もしデルネアと対峙して、彼と一戦交えることになった時、自分は戦えるだろうか? 馬上でルードは、剣の鞘をさぐりながら自らに問いかけた。
(ハーンに習った剣術だけど、俺は……人を斬るためには使いたくない!)

 北方スティン山地に端を発するクレン・ウールン河は、下流に行くにしたがって河幅を広げ、サラムレ周辺にあっては半メグフィーレにもなろうか。山からの雪解けの水が河の流れを豊かに潤している。美しく、静かなたたずまいをみせている河。十三年前、様々なものが流れ着き、水が朱に染まった惨状など、みじんに感じさせない。
 夜どおし馬を歩かせたルード達は、朝焼けに色を染めている美しい大河を前にして、語る言葉を持たなかった。海、そして大河とともに時を重ねてきたサラムレの街は、古来より水上の交通が発達している。ルシェン街道を南下してきた旅人はクレン・ウールン河を船で渡り、そのまま市内へと入っていくのだ。
 時は七月四日の朝。ルード達は朝一番の船に乗り込むと、しばし水上の人となった。

 波に合わせてゆらり、ゆらりと身体が揺れる。初夏の朝方の暖かな日差しを受けながら、ライカは今、自分が夢うつつにあることが何となく分かっていた。隣にいるはずのルードの声が、やけに遠く聞こえる。水夫と話してるであろう会話の中身を、ライカは知ることが出来ない。それは自分の知らない言語だから。ちくり、と刺すような不安を感じながらも、ライカは意識を夢に向けていった。

* * *

 緑の情景が辺り一面を覆っている。

 あきらかに夢の世界と思える中でライカは気が付いた。すると緑は彼女の思ったままに、よく知っている感のある草原と森とに姿を変えた。さらに向こう、高く灰色にそびえる壁のようなものは、ひょっとしたら谷地の崖なのだろうか?
(ここは……ウィーレル?)
 ライカがそう感じた瞬間、全ての景色はなじみ深いものに変貌した。
 アリューザ・ガルドの北方、アリエス地方。ふるさとのウィーレル村の道ばたに彼女は立っていた。右手にあるのは友人の家の牧場。牛達が草をはんでいる。そして、空を見上げると、アインの山からレテス谷に向けて、ひとりのアイバーフィンが時折翼を光らせながら滑空している。
 その女性はライカに気付いたのか、飛ぶ向きを変えて、手を振りながらライカのほうに降りてこようとしていた。
(…………?!)
 ライカは驚き、口元をおさえた。彼女はミル・シートゥレイ。ライカの母親だったのだ。
(お母さん……)
 二年前に山で行方知れずとなった母親。今自分は夢の中にいるのだ、と分かっていてもこみ上げてくる感情。ライカは熱くこぼれる涙を隠すことなく、母親ミルの様子を目で追っていた――。

 だが、様相は瞬時に一転した。青い空が暗黒に染められたのだ。ミルは慌ててライカのもとに辿り着こうとするが、すぐに暗闇の中に捕らわれ、消え失せてしまった。
 それまで緑に映えていた野原は、その地面が波のごとく不自然にゆらぐと、どろどろに腐り始め、遠くのほうから徐々に暗黒の中へと姿を消していく。ほどなく、ライカの足下の土までが腐りはじめた。ライカは逃げだそうとした、が、腐った土にくるぶしが浸かりこんでおり、動けない。しかも何かが足首を押さえ込んでいる感すらある。
 野原を消していった暗黒の中から、闇の球体が迫ってくる。ライカの前で球体は割れ、中から魔物が姿を現した。そのものには定まったかたちなど無く、黒々とした腕と思えるものが、どろどろとした粘液のような何かを滴らせながらゆっくりとライカの身体を捕らえんとする。
 叫び声をあげたくても声が出ない。周囲を見渡しても、すでに村の姿などかけらも残っていない。
(これは夢よ……)
 ライカは現実的に思いつつ、夢の中の様子に絶望していた。

 その時、暗黒を切り裂いて一条の光が射し込み、魔物を消滅させた。いつの間にか、ライカの目の前には一降りの剣が浮いていた。聖剣ガザ・ルイアート。そしてどこから現れたのか、ルードが剣を手にすると、彼は頭上に剣を掲げ――。
「ライカ」

* * *

「ライカ?」
 その呼びかけでライカは目を覚ました。ルードがかがみ込んで、ライカの顔を窺っている。ライカはしばし、今見ている光景が夢なのか現実なのか把握しかねた。
 ようやく、先ほどの光景が夢であったことを理解したライカは、ほうっと大きくひと呼吸を入れる。少しずつ、夢の中身を忘れていくのを感じながら。
 しかし、寂しさ、やり切れなさ――ライカは、そんな感情に押し流されそうになっているのが分かる。〈帳〉の館にいる時分からこのかた、全く感じずにいたというのに、ここに来ての不安はなんなのだろう?
「疲れてるんだろ? もう少し、宿に着くまでの辛抱だ」
 ルードはライカの隣に座り込み、大きく伸びをした。と、ライカが彼の裾をつかんできた。ルードを見つめるその顔は何かを言いたそうだったが、ルードには分かりかねた。
「どうしたのさ」
「ううん、なんでも。……ちょっと疲れただけかな?」
 ライカは自分でも不自然だ、と思うような笑みを浮かべ、ルードの肩に頭を預けた。
 やがて船は水門をくぐり、サラムレの街へと入っていった。

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二.

[へぇぇ!]
 ルードは船上から街並みを見て、感嘆の声を上げた。彼にとっては全く目新しいものだったからだ。幼い時分に何度か両親とともにサラムレに行ったことがあるらしいのだが、ほとんど覚えていない。ただ、水路沿いに何艘《そう》も浮かぶ船が印象的だったことは強く記憶に残っている。
 〈帳〉はひとり艫《とも》に立ち、ライカは静かに街の景観に見入っていた。
 水の街サラムレは、区画ごとにまとまった建造物と縦横に走る水路、そして多くの橋によって構成されている。フェル・アルム北部と南部を結ぶ拠点だけあって、街は開放的で、活気にあふれている。その喧噪が普段とは違う雰囲気であるのに気付くのはもう少し後であったが。

 一行は〈ラミヒェールの旅籠屋〉という名の、石壁を蔦で覆ったやや大きめの宿に落ち着くことにした。三人とも別の部屋か、少なくとも女性のライカだけには別の部屋を用意させよう、とルードは思ったのだが、意外にも当のライカが「ひとりだけ部屋が離れるのは嫌」と言ったのだ。
 旅の一行は大部屋に通された。ルードとライカは何より早くそれぞれのベッドに横たわる。
「ふうっ……」
「ふかふか……ベッドで寝るのってやっぱり幸せ……」
 ルードとライカは口々に言った。
「疲れたな……しばらく休むといい。街の噂とやらを訊くのはそれからでいいだろう。風呂に入るのも良し、とにかく十分疲れを癒しなさい。ここからまたスティンまで、また長い道のりなのだからな」
 そう言って〈帳〉が少年達を見ると、すでに彼らは静かに寝息を立てていた。
「やれやれ」
 〈帳〉は苦笑して二人に毛布を掛けると、ひとり部屋から出ていくのであった。

(町中で聞こえていたあの声……間違いない……)
 先ほどから妙に気がかりなことがあった。世間には疎いはずの〈帳〉であってさえ、違和感がぬぐい去れなかった。街の喧噪の中に、明らかに異質な声が混ざってきこえるのだ。
 例えば調和している合奏の中、一つであれ外れた音を出してしまったら、それは非常に目立つものとなる。そして〈帳〉は、先ほど聞こえた『調子外れの音』が何であるのか確信していた。
 階下に降りた〈帳〉は、宿の主人に挨拶する。
[この辺りで、人が集まる酒場などはないかな?]
[ふん。あんた、芸人さんかい?]
 主人は〈帳〉の頭から足までを眺めて言った。まじないが効いているため、〈帳〉の容姿は辺りの人と変わりなく映っているだろうが、臙脂のローブはやはり目立つ。
[それなら三軒右隣の……いや、ここを左に出て橋を渡った先にあるほうがいいかな? 〈雪解けの濁流〉てえ変な名の酒場があるよ。この界隈じゃ一番大きいだろうね]
[私は長いこと北のほうにいて、サラムレに来たのも久しぶりだからな。この街は最近はどんな様子かな?]
 それを聞くなり、主人の顔が曇った。
[わしもよくは分からないんだが……。三、四日ばかりか? ここら辺の雰囲気がいつもとは違う。いや、それだけじゃないな。商人さん達の話を小耳に挟んだんだが、中枢のほうじゃあ大昔の言葉がいきなりしゃべれるようになった人達で溢れかえってな、かなり騒動になってるらしい。さらに噂ではニーヴルが……]
 そこまで言ってはっとなった主人はしゃべるのを止めた。
[ふむ。少々しゃべりが過ぎたかな? まあ、〈雪解けの濁流〉に行くといいさ。あそこは旅商人が多く集まるから、あんたが芸人だっていうなら稼ぎも多かろ?]
[ありがとう。、夕方くらいになったら行ってみるとするよ]
 〈帳〉は再び部屋に戻ろうとした。そして――。

「おもての通りを右に出たところの橋だったかな?」
 おもむろに、しかし明らかに普段と異なる発音で主人に呼びかけた。
「いや違う。左に出たところの橋だ。看板が出てるから分かるだろうて」
 主人は何気なくそう言って、それまで読んでいた本に目を通し始めた。発した声が普段とは全く異なる『音』を発していたことに、主人は気付く様子がなかった。

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三.

 夕方近くになり、ようやくライカが目を覚まし、ついでルードがむくりと起き上がった。〈帳〉はルードとともに酒場に向かうことにしたのだが、ライカもついてくると言いだした。
「だがライカ。君はここにいたほうがいいのではないか? 言葉が分からないだろうし、ちと物騒だぞ、夜の酒場というのは?」
「分かってます……でも……」
「でも?」ルードが聞き返す。
「でも……」
 ライカは目を泳がせて、どのような言葉を言うべきかしばし考えた。
「ルード。まさかわたしを置いて、おいしいものを食べに行こうっていうんじゃないでしょうね? なんと言ってもついてくわよ!」
 それが空元気であることを、ライカ自身は分かっていた。

 この街に来てからの彼女を苛んでいる疎外感。自分の知らない言葉がまかり通っているというのは、なんと心細いことなのだろうか。ふと、今朝方見た夢の一片が頭をよぎった。これからを暗示させるような暗い夢。彼女達に待ち受けている過酷な使命が、夢のかたちをとったのだろうか? いずれにせよ彼女の胸中のみにしまい込むには大き過ぎる。そんなつらさを隠すためにライカは笑うのだ。その笑いに隠された感情を、ルードは分かってくれるのだろうか?

(そんなの、わがままで勝手な希望だわ)
 冷静に見つめる、心の中のもうひとりの自分が囁いた。
「俺に振るのかよ? 〈帳〉さん、どうする?」
 ルードはちらと〈帳〉を見、そしてライカを見る。ライカは腕組みをしたまま、ルードの回答を待っているようだった。
「むぅ……」
「どうなのよ?」
「まあ俺は……いいと思うけどさ」
「じゃあ、決定ね! さ、行きましょ! いいでしょ、〈帳〉さん?」
 ルードの言葉が終わらないうちに、ライカは彼の腕をとってそそくさと歩き始めた。
「やれやれ、困ったお嬢さんだ……」
 〈帳〉は苦笑すると、二人の後をついていった。

 ライカはまるで上機嫌のようで、しきりにルードに笑いかける。そんな彼女につられてルードも笑い返すのだった。
(ライカどうしたんだろ? 妙に明るいな?)
 ルードは、どこか心に引っかかる感じを持ちながらも、ライカの快活さを前にして違和感は隠れ去った。
(ま、明るいことはいいことだし……。俺も楽しくなるからいいか)
 忙しげに行き交う人の間をくぐりながら、一行は〈雪解けの濁流〉を目指した。ふだん山村で暮らしているルードにとって街の雰囲気は珍しいもので、彼はひっきりなしに周囲を見渡していた。
 ふと、ルードは奇妙な雰囲気を感じた。見ると、道ばたに座り込んでいる痩せこけた男が焦点の合わない虚ろな眼差しで、そこかしこに目を向けていた。
「ふん、だから言ったじゃねえか、あの野郎、俺の言ってることに……」
 男の言葉は完全に常軌を逸していた。誰に言うでもなく意味のないひとり言を繰り返す男を横目に、ルードは道を急いだ。
「あれってアズニール語じゃないの?」
(そうだ! あの口調はアズニール語。俺達しか話せないと思ってたのに、一体いつからこんな風になっちゃったんだ?)
 ルードはそう思いつつ、酒場の扉をくぐった。

 いくつもの円卓が並ぶ店内はすでに旅商達がおり、それぞれの会話に花を咲かせていた。大声で笑い話をする者、稼ぎの話をする者、にやつきながら下世話な話をする者――十人十色である。ざわめく彼らをちらちら見ながらルード達も席に腰掛け、飲み物を注文した。

[……だけどな、南のほうがとんでもないことになってるってのは本当だぜ?]
 隣卓の椅子に腰掛けている若い商人の言葉に、ルードと〈帳〉は反応して耳を傾ける。
[大昔の言葉っていうやつをだな、南の連中がしゃべり出したのよ。嫌なことにそれが物忌みの日に起きやがったんだ]
[ジェリスよう、なんなんだよ、その大昔の言葉ってのは?]
 向かいの席に腰掛けている長髪の男が言った。
[学者さんに言わせれば、だ。なんでも神君がフェル・アルムを統一なさる前、世界で使われていた言葉らしいぜ。それが今になって中枢をはじめ、南部全域に広がっちまったんだ。ダナール、信じられないかもしれないけどほんとなんだ]
 ジェリスという商人は言った。
[そんなのが自分のあずかり知らないうちにしゃべれるようになってみろ。おかしくなる奴が出ても仕方ないだろう?]
[若いの、それなら俺も聞いたことがある]
 それまで向かいの席に座っていた口ひげを蓄えた男が、酒を片手にジェリス達に近づいてきた。
[俺はイルーレ。オルファンからやって来たんだが、なんせ、俺自身その言葉を話せるようになっちまってるしな]
[で、イルーレさん、どんなふうなんだ、あっちはさ?]
 酒をつがれたジェリス達は、思わず身を乗り出す。
混乱しきっている
 ルードには、アズニール語でしゃべる男の声が聞こえた。
[あん?]長髪のダナールが聞き返す。
[〈混乱しきっている〉って言ったんだ。大昔の言葉ってやつではな!]
 イルーレは笑って言った。だが、その顔は急に険しくなる。
[だが今の世の中、笑いごとじゃあすまなくなってきている。言葉もそうだが、オルファンのラーリ山で炭坑夫が化け物に殺されたり、アヴィザノの近くで化け物が八つ裂きになっていたり……ここんとこ常軌を逸する出来事ばかり立て続けに起きている。さらにだ……]

[興味深いお話ですね]
 いつの間にか〈帳〉が彼らの横に立っていた。
[出来れば私にも聞かせていただけないだろうか?]
[兄さんは芸人かい?]と、ダナール。
[だったらなんか一つみせて欲しいもんだな。そうすればとっておきを教えてやるよ]
 イルーレが言った。
[なら……]
 〈帳〉はあごに手をやり、少々考えるふしをみせた。まるで何かを探っているように周囲を窺いつつ。
[では、これなどいかがですか?]
 彼はおもむろに、手近にあった空のグラスを取り、ナプキンを一枚入れるとぱちん、と指を鳴らした。すると、もぞもぞとナプキンの中で何かが動き始め、〈帳〉がナプキンを取るや一羽の小鳥が現れた。商人達は一様に感嘆の声をあげる。
 〈帳〉が手にしたグラスを揺らすと、小鳥は飛び立ち酒場の中を二、三周軽やかに飛んで回ったあと、もとのグラスに収まった。〈帳〉がナプキンをかけ、指を鳴らしてナプキンを取ると、グラスはもとの空のグラスに戻っていた。
 酒場の中はどっとどよめき、拍手やら口笛やら、〈帳〉に対する賛辞が送られた。
[兄ちゃんやるな! 手品師なのかい?]
 ダナールは〈帳〉の肩を叩いて、自分の隣に座らせた。酒場にいたほかの商人達も彼らを囲むようになった。

「ねえ、ルード」
 完全に輪から外れる格好となったルードとライカ。商人達と〈帳〉を横目で見ながら隅のほうでちびちびと飲んでいたのだが、やがてライカが小声で尋ねてきた。
「あの人達、なんて言ってるの?」
「ざわざわしていてよく聞き取れないな。みんなそれぞれ、言いたいことを言ってるみたいだ。あとで〈帳〉さんから訊くしかないかな?」
「ルードもあの人達にまじって聞いてくればいいじゃない?」
「……そういうわけにもいかないだろ」
 言いつつルードは生ぬるい酒を飲み干した。
「なんで?」
「さぁてね、どうしてだろうね?」
 ルードは給仕に合図を送り、もう一杯酒を注文する。ライカは何かはぐらかされている感がした。ルードは、あからさまに目をそらしている。彼が物事をごまかす時には必ずこうするのだ。
「あ、ずるい!」ライカは口をとがらせて非難する。
「なんだ、ライカももう一杯欲しいのか?」
「そうじゃなくて!」
 ライカはうつむいてぶつぶつ、こぼした。何かしら自分を安心させてくれそうな言葉をルードが言ってくれるような気がしていたのに、見事に逸らされたからだ。
「それはそうとしてさ、……なんだよ、怒ってるのかよ?」
 ライカにじろりと睨まれて、ルードは苦笑した。
「何? 今なんか言おうとしてたでしょう? いいから続けなさいよ」
 いかにも不満げな口調でライカが言った。
「ああ、さっき〈帳〉さんが使った手品。あれは術なのかな?」
 そう言いつつ、ライカに飲み物の入ったグラスを手渡した。
「ありがと」
 ライカはグラスを受け取って、少し表情を和らげる。
「……そうね。わたしも術のことはよく分からないけれど、あれは目くらましの術のたぐいだと思うわ」
「俺もそう思ったんだ。〈帳〉さんも、こんなところで術を使わなくてもいいのに。誰が見てるか分からないじゃないか」
 それを聞いて、ライカの心臓が跳ねる。頭をよぎったのは疾風のこと。酒のおかげで頭の片隅に追いやられていた不安が、再び目の前に現れた感じだ。不意に胸の辺りがきゅうっとつぶされたように苦しくなり、ライカは顔をしかめた。
「ライカ?」
「なんっ……でもない……」
 気丈にもライカは笑ってみせた。だが、表情がこわばっていることが自分でも分かる。
「だけど気分悪そうじゃないか。先に宿に帰ってようぜ? あとで〈帳〉さんから話を聞けばいいわけだし」
 ルードはライカの背中を叩いて催促した。ライカも何か言おうと思ったのだが、結局何も言えずうなずいた。

 二人は席を立ち、酒場をあとにしようとした、が、無粋な男がひとり、卑下た笑いを浮かべて声をかけてきた。顔を赤らめた、見るからに酔っぱらい風情。ルードはこの男が中枢の“疾風”ではないかと一瞬勘ぐったが、そうではなさそうだ。
[お二人さん、こそこそと話しちゃってさ。これからどこへ行こうってんだい?]
 ルード達は男を無視して出ていこうとした、しかし。
「きゃ!」
「ライカ!」
 男はライカの腕をつかむと、無理矢理自分の前に立たせた。
[俺を無視するんじゃねえよ、姉ちゃん。人が話しかけてるってのにその態度は無いんじゃねえのか?]
 妙な相手にわけの分からない言葉を言われることほど嫌なものはない。しかもつかまれた右腕が痛い。ライカはルードに目線を送った。
 ルードはライカと男の間に割って入り、ライカを背中でかばう姿勢をみせ一言。
[この手を離せ]
[……ああん?]
 あからさまに馬鹿にした口調で男は聞き返した。
[いいかげんにしろよ。彼女から手を離せと言ったんだ]
[はっ、小僧が。いい気になるんじゃねえ! 俺が手を離さなかったらどうするってんだよ?]
 男が大声を張り上げる。これには周囲の商人達も会話を止めざるを得なかった。
[手を離さなかったら……俺にも考えがある!]
 ルードは怒りの表情で男と対峙し、腰に下げている剣の柄をこん、と叩いた。酒場の中がどよめく。
[やろうってのか?]
 男はライカの腕を放すと、戦う構えをみせた。ルードからすれば明らかに素人の構えだが、ルード自身も後に引けなくなっていた。
(どうする? やるのか?)
 だが救いの手はすぐに伸ばされた。
[ルード!]
 〈帳〉が駆けつけ、小さい光の球を男の眼前で炸裂させた。男が目を押さえ、後ずさった瞬間に、ルード達は酒場の外に急いだ。

「大丈夫だったか?」
 宿に戻る道中、まず口を開いたのは〈帳〉だった。ライカがこくりとうなずいた。
「ならばいい」
「〈帳〉さんのほうは? 何か聞けたんですか?」と、ルード。
「あと、あんなとこで術を使って大丈夫なんですか?」
「あの手品が術によるものだと分かったのはさすがだな」
 〈帳〉は言った。
「安心していい。術の行使前に周囲は確認しておいた。怪しい輩などはいなかった。それと、商人達から聞き出せた世界の現状については、道すがら話すわけにもいかないだろうからあとで話すことにしよう。結論だけを言うならば、もはや安穏としていられない状況だ。今夜にでも出発したほうがいいだろうな。……疲れてはいないか?」
「俺は大丈夫ですよ。ライカは……あれ?」
 ライカが笑みを浮かべている。ルードはそのことに驚いた。
「何?」
 ライカが訊いてきた。
「今、笑ってたんじゃないか?」
「え、わたし笑ってた?」
 そう言ってはじめて気が付いた。自分は嬉しかったのだ。
 ルードと男が何を話していたのかは分からないが、明らかなことが一つ。ルードが自分を守ってくれたということ。思い返せば酒場の中では、ずっと自分の横にいてくれたではないか。その一つの行動だけで、今日感じた全ての不安は吹き飛ばされ、ライカの胸中は安らぎに包まれるのであった。
(私はひとりじゃないんだ。ルードがいてくれる。そう、不安なことはひとりで抱え込まないで、ルードと一緒になって克服していけばいいんだ)
 ライカは、未だきょとんとした表情を浮かべている想い人に笑いかけた。

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四.

 夜も遅くなり、家々の明かりが消えた頃。
 ルードは〈ラミヒェールの旅籠屋〉の両開きの扉を、音を立てないように慎重に閉めた。〈帳〉は扉に両の手を当て、短い呪文を唱えた。一瞬、〈帳〉の手のひらを青銅色の光が覆う。そして――。
 かちゃり。
 内側の鍵がかけられたことを確認すると、一行は馬に乗り、足早に立ち去った。

 酒場で商人達から聞き出した南部域の状況は、悲観的にならざるを得ないことばかりであった。
 アズニール語の復活、魔物の出現、帝都を急襲した龍――世界は確実に崩壊への一途を辿っている。
 さらに北方から迫り来る、黒い空の脅威。真実を知っているルード達に出来ることは、急いでデルネアから還元の手段を聞き出すことのみ。
 宿で仮眠を取ったルード達は、“刻無き時”といわれる深夜であるにも関わらず、ひっそりと宿をあとにしたのだ。
 しんと静まりかえった深夜のサラムレの街の中で、さらさら流れる川の音と、ルード達の馬の蹄鉄の音のみが存在しているかのようであった。灯りの消された街並みは文字どおり闇に覆われている。しかし空にあるのはさらなる暗黒。もはや上空を見上げるのすら忌まわしい。夜空を照らすものなど、まったく存在しないのだ。

(世界がせっぱ詰まってるっていうのが分かっていながら、どういうことなんだ!)
 酒場で商人と交わした会話の中身を〈帳〉から聞いたルードは憤りを覚えていた。
(どんなことになっても、どんな危機が迫っても結局は神君が救ってくれるだって? 世界が壊れようとしてるっていうのを知らないにしても、あまりにも楽観的過ぎるぜ!)
 自分の意志を確かめるかのように、ルードは手綱をぎゅっと握りしめる。
「〈帳〉さん、ハーンの様子はまだ分からないんですか?」
「分からぬ。彼が未だ、クロンの宿りから出ていないということはつかんでいるのだが」
「ハーンも一体どうしちゃったっていうんだ? なんで動いてくれないんだ?」
 ルードは苛立ちながら言った。
「行こう、スティンへ! じきにハーンも来てくれるんだろうしさ!」
 憮然とした表情を崩さずに、そう言うなり馬の腹を蹴って、急ぎ足に走らせた。
「待ってよ、ルード!」
 ライカが、帳が馬をとばして彼に追いついた。
「そんなにしたら大きな音がするじゃない。馬をとばすのはこの街を出てからでもいいでしょう?」
「分かってるさ! でもやりきれなくて……俺達がそれこそ真剣な思いで、こうして頑張ってるのに、あまりにもここの連中がのんき過ぎると思わないか?!」
 思わずルードは声を荒げる。感情が高ぶっていくのが自分でもはっきりと分かった。
「言葉だって変わった。魔物も出てきた。だってのに自分達は不安を解決する手も持たずにただ待つだけ。そんなんで最後は何かが助けてくれるなんて、あまりにも馬鹿げてると思わないか?」
 もはや今までの価値観など崩れ去っているというのに、それに気付かず、また気付いていたとしても気付かないふりをして、未だに過去の価値観にすがろうとする――それは愚かしいことであり、また哀れでもあった。
「ルード。そう怒鳴らないでよ……。あなたの言うことはもっともだけど、みんなだって手の打ちようがない中でどうしようもなく苦しんでいて、何かにすがりたくなっている……っていうことも分かるでしょう?」
「分かってるさ!」
 道ばたにいた、明らかに自分を見失っている呆けた顔をした男が、大声を上げたルードを一瞥するが、やがて彼は再び道ばたにうずくまり、それまで繰り返していた意味のない言葉をひとりつぶやくのだった。
「分かるけど……ええい! とにかく俺達は、俺達で出来ることをやらなきゃならないんだ! 行こう!」
 ルードは再び馬を駆った。ライカは大きく溜息をつくと、それでも彼に追いつくように馬を走らせた。
「ルード!」
「ごめんな。怒鳴るつもりはなかったんだけど……少しいらついてて、ライカにあたっちまった」
 粗野な言動をしたからといって、事態が好転するでもない。鬱積した感情を吐き出したかったのは事実だが、矛先をライカに向けたことを恥じつつ、ルードは優しい言葉を返した。
「わたしは大丈夫……まだ、ね。でもわたしだって時々不安になるの。そんな時に、せめて落ち着かせてくれたら、わたしはそれで大丈夫になれるから……」
 ライカの翡翠の瞳がかすかに揺れる。ふだんいくら気丈に振る舞っていても、やはり年頃の娘なのだ。不安に押し流されることもある。ライカは今にも泣き出しそうだった。
「ライカは……強いよ」
「そんなことない……」

(二人ともだいぶ苛立っているな……当たり前だが)
 馬を急がせつつも〈帳〉は思った。
(私が商人から聞いた話で一番恐ろしいと感じたのは、人々が無意識のうちに、今回の災いの発端はニーヴルだと信じ切っていることだ……。あるいはデルネアが意図的に流布させたのか定かではないが、彼がこの状況を何かしらのかたちで利用するのではないだろうか……それが恐ろしい)

 しかし、〈帳〉が恐れていることは、すでに為されていた。
 帝都アヴィザノではこの日、ドゥ・ルイエ皇が勅命を発していたのだ。“全ての元凶たるニーヴル”を討つため、烈火は集まりつつある。この深夜においても、烈火が着々と集結していることを、今のルード達には知る由もない。

 ともかくスティンへ向かうこと。それこそが希望を繋ぐ手段にほかならないのだから。

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