『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 第三章 中枢、動く

一.

 時はやや遡る。
 七月一日。一年の後半期の始まりであるこの日は、物忌みの日とされ、冠婚葬祭全てが禁じられている。
 人々が忌み嫌うこの日、事件は起きた。

 アヴィザノを中心とした南部域に住む全ての人々が、それまでとはまったく別の言語をしゃべるようになったのだ。今まで使っていた言葉とは相容れない奇妙な音が、突如言葉として認識されるようになった。
 古事に長じている者は口々に、
[この言葉は、神君が世界を統一する前に我々が用いていた、失われた言葉だ]
 と語った。
 しかし、なぜ今の我々が突然その言葉を使えるようになったのか、との問いには、彼らも答えられなかった。
 頻繁に出没するようになった化け物。そして失われし言語の突然の復活。今までの常識が次々と破られたことで、人々の精神は大きく揺さぶられた。この日一日だけでどれほど多くの者が精神に異状をきたしたか、定かではない。
 ともあれ、フェル・アルム南部域は突如混乱に陥った。

 ほどなく、ある噂がどこからともなく流れるようになった。
「フェル・アルムに妬みを持ち続けているニーヴルの亡霊達が、世界を混乱におとしめるため、自らの忌まわしい力を解き放ったのだ」
「ニーヴルの残党どもが、怨霊達の力を手に入れ、世界に復讐しようとしている」
 などなど、それらの噂は、何かしらニーヴルと結びついたものであった。
 なぜ? どうして? と答えを求めて苦しんでいる人々は、一斉にこの根も葉もない噂を信じ、翌日にはニーヴルが全ての元凶である、との考えが人々の間に浸透していった。これが唯一の常識、疑うこともない真実であるかのように。
 本当の原因などどうでもよかった。自分達の置かれた状況を正当化する口実が欲しかったのだ。底知れぬ不安を少しでも取り除くために。

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二.

 七月三日。
 ここはアヴィザノの中で一番の高さを誇る城壁の尖塔。青く澄み渡った空は遙かスティンの山々を越えるまで続いているのが分かる。しかし、何かが今までとは違っていた――。

 サイファは北方の空を一目見るなり、顔をしかめた。
「空が黒ずんで見えるあたり。あのあたりは“果ての大地”であったな?」
 と彼女は、そばでかしこまっている衛兵に『失われた言葉』で尋ねた。
 年老いた衛兵は静かに、はい、とだけ答えた。
 サイファが指さすのは、スティン山地も越えたさらに北の空。まるで線を引いたかのように、くっきりと色が分かれている。そこから先にあるのは、夜のように暗い空だ。黒雲が覆っているからではない。空そのものが黒いのだ。まるで陽の光を拒絶するかのように。
「あの異様な空を創り出したのもニーヴルの仕業だというのか? 彼らも我々と同じ人間。自然をも動かしてしまう力を持ちうるとは、私には到底思えぬのだが……」
「陛下は、ニーヴルの肩を持つおつもりですか?」
 衛兵に一瞥をくれると、サイファは静かにかぶりを振った。
「……失礼しました。出過ぎた言葉、平にご容赦下さい」
 サイファは半ば困惑した表情で、しかし穏やかに「おもてをお上げなさい」と言った。
「そうかしこまらなくていい。今の私はルイエをやっているつもりではないのだから。見張りの塔に勝手に上って、衛兵を困らせている街の人間、とでも思ってくれていいのだよ?」
「は……」
 衛兵は一礼をすると、サイファの見ている北の方角を見る。
「すまないな、私の勝手な都合で立場を変えて。貴君にも迷惑をかける」
「そのような……もったいないお言葉」
「かしこまらなくていい、と私は言ったわ」
 彼女は意識的に、普段は使わない女性の言葉遣いを選んだ。
「この塔の下で待ってくれてる坊やが私にするように、接してくれたほうがむしろ気が楽なのよ?」
「あやつか……」
 彼のことを思い出した衛兵はしかめ面をする。あれは元首に対してとる態度ではない。老人の目にはさぞ横柄に映ったことだろう。
「陛……あなたも、なぜあの子供と遊んでいらっしゃる?」
 サイファは眉間にしわを寄せる。
「ジルを悪く言うでない。子供らしい、いい表情をしているし、何よりジルの感覚は時として新鮮で、鋭い。私も勉強をさせてもらっている。私は好きだぞ、ああいう子は。それから――」
 口を挟もうとした衛兵を止めるかのように、サイファは言葉を続けた。
「さっきの話だが、むろん私とて十三年前のニーヴルのなしたことが正しいとは思ってはいない。だが、問題としているのは現在のことなのだ。ニーヴルが今現れたなどという話は、正式にはどこからも伝わってきていないのだぞ?」
「しかし、長きにわたる歴史にあって、国の神聖を侵したのは彼らのみです。ニーヴルの残党が今般の事件の元凶である、と考えるのが一番適切と思っております」
「それは……貴君の考えなのか?」
「いえ。しかし、少なくとも私を含めアヴィザノ市民の多くの思うところでありましょう、おそれながら……。我々が長きにわたり積み上げてきた常識からでは、余りに解せないことなので、そう考えざるを得ません。このような奇怪は……」
(この老人も、頭が堅い……)
 サイファの印象は正しい。このような人物が多いからこそ、単なる風説が常識であるかのように捉えられ、いずれ真実と認識されてしまうのだ。真相は誰にも分からないというのに。
 何より問題なのは、昨今の不可解な事件が、十三年前のニーヴルの反乱の延長として捉えられていることである。サイファは、十日ほど前の“神託”を思い出していた。

[大いなる“神”クォリューエルが、神君ユクツェルノイレに告げた言葉を申し上げます。スティンの地において不穏な匂いあり。それはかのニーヴルをも凌ぐものであるとのことです。災いの種を調べ、取り除くため、全ての疾風をスティンに送り込むよう。災いが大きくなる兆しがあれば、すぐさま“烈火”を差し向けるよう、陛下にお願い申しあげます]

 あの時司祭が言った言葉だ。神託を受けたルイエが一言命令を下せば、烈火は即座に動くのだ。
 サイファは司祭を恐れていた。遙か北方の異変とはいえ、この異常は司祭も分かっているはずである。
 まさか、烈火を送り込むようなことになるのだろうか?
 十三年前の、あの悲劇がまた起こるのだろうか?

 烈火。
 フェル・アルム中枢が誇り、ドゥ・ルイエ皇に絶対の忠誠を誓う精鋭の騎士達。フェル・アルム究極の戦闘集団である。
 帝都アヴィザノには常時五百人の烈火がおり、主に宮殿の警備に当たっている。そして非常時には、いつでも決起出来る体制を整えている。アヴィザノ周囲の中枢都市群には、普段は衛兵や傭兵として生活していながら、ひとたび召集がかかれば烈火となる者達が二千人を数える。
 十三年前のニーヴルとの戦いにおいて、戦いに終止符が打てたのは、彼ら烈火がいたからこそだ。とはいえ、あの戦いにおいては、烈火ですらも千人以上の戦死者を出したのだが。
(もっとも、各地の衛兵や傭兵など、一般の兵士達の死者数は尋常ではなかった。一説には七千人を越すとさえ言われている)
 国王《ルイエ》の命令には絶対従うのが烈火である。仮にルイエが、『北方都市全てを焼き払え』と勅を発すれば、烈火は感情に左右されず、迷うことなく完遂するだろう。そのために自分達の命を落とそうとも、家族が犠牲になろうとも。
 それゆえにルイエは司祭を、そして彼が出すかもしれない神託を恐れるのだ。

* * *

「陛下、前方を!」
 衛兵が叫ぶ。
 その張りつめた声でサイファは我に返った。北の空から黒い物が一つ、こちらに向かってものすごい速さで飛んで来る。
「あれは……まさか……化け物というものか?」
 ルイエがそう言っている間にも、黒い影はぐんぐんと尖塔に向けて近づいてくる。遠目からは鳥のようにも見えるそれは非常に大きく、翼の端から端まで三十ラクはゆうにある。
「陛下、お逃げ下さい! 彼奴《きやつ》め、あの様子ではこの塔にぶちあたりますぞ!」
 衛兵は塔を守るつもりなのか、槍を手に取って塔の外に出ようとしている。だが、あれが人間ひとりで太刀打ち出来る相手ではないことはサイファにも分かった。
「分かった! しかし、貴君も一緒にだ!」
「……はい?」
「何をしている、来い! 降りるぞ!」
 衛兵の手をつかむと、サイファは階段を駆け下りていった。
 螺旋《らせん》階段の途中に至って、気を持ち直した衛兵はサイファに語りかけてきた。
「失礼いたしました、陛下。しかし、化け物が都市に攻撃を掛けてくるなど前代未聞。これもやはりニーヴルの仕業――」
「言うな! とにかく今は、塔を出ることだけ考えろ!」
 サイファが言葉を遮り、二人は階段を駆け下りていった。
「サイファ姉ちゃん? どうしたのそんなに慌てて?」
 階下で待っていたジルは、息を切らせて降りてきたサイファを見るも、相変わらずのほほんとした口調で言った。
「ジル早く! 行くよ!」
 そんなサイファの言葉に被さるように
 どうん!! と音が響いた。
「なんだ、なんだってんだよぅ?」
 驚いたジルは、あたふたして言った。
 塔の上方から、ぱらぱらと石片が落ちてくる。サイファが上を見上げると、翼を持った黒い化け物が塔をかすめて市中に向け飛んでいくのを見た。
「なんだあれ? ドゥール・サウベレーン!?」と、ジル。
 化け物の姿はまるで、伝承に出てくる龍のよう。龍が飛んでいく先にあるものは――。
「あいつ、まさか、王宮に向かおうというの!?」
「陛下! はやくこちらへ! 塔が崩れます!」
 手招きする衛兵に従い、サイファとジルは駆け足で城壁をあとにした。

 しばらくして――。
 ずう……ん!
 化け物の激突によって不安定になった尖塔の上方が、地面に落下し砕け散ったのだ。振動はサイファ達にも伝わってきたが、彼女らは立ち止まらず、ひたすら王宮へと急いだ。
「ねえ、姉ちゃん、『陛下』って?」
 先ほど衛兵が言った言葉についてジルが訊いてきた。ジルは、サイファの身分を知らないのだ。
「……あとで話すから、わけは。とにかく、走るんだ……!」
 息が切れてきたサイファは、苦しそうに言った。
 まさかアヴィザノが攻撃を受けるなど、考えもしなかった。なぜ? どうして? 王宮に近づくにつれ、そんな想いが去来するのだった。
「あいつ……龍ってやつなのかな?」とジルが言った。
(龍……?)
 あの姿は紛れもなく龍だ。しかし龍など寓話上のみの存在だったはず。想像上の生き物を目の当たりにして、サイファは現実と想像の境がどこにあるのか、一瞬戸惑った。

 突然の事件に市中は騒然となっており、アヴィザノの衛兵達も市民を鎮まらせるのに手間取っている。
 そんな中をかいくぐって走ることしばらく。アクアミン川の対岸に、せせらぎの宮を見ることが出来るようになった。川岸にはすでに多くの市民が詰めかけ、固唾をのんで成り行きを見守っている。
 黒い龍は、“星読みの塔”を旋回している。
 果たして、奴がいつ攻撃を仕掛けるのか。今のサイファには、宮中の人間の無事を祈るしかなかった。
 走るのをやめたサイファは胸を押さえ、ぜいぜいと息を切らしている。対して、ジルは平然としていた。
「姉ちゃん? まだあいつ、攻撃してないよ」
「そう……だな…でも……どうして?」
 とっくに王宮に侵入していた黒龍は、未だに攻撃をしていない。城壁の尖塔を打ち壊せるほどの破壊力を持っているというのに、である。龍は巨大な翼をばたばたとはためかせながら、星読みの塔の頂上を窺っている。

「あれは……」
 ふとサイファは、何者かが化け物と対峙しているのに気付いた。塔の頂上、龍に剣を突きつけている人物。そしてまた龍も彼を凝視したまま動かない。
「姉ちゃん、見える? あの人……すごい“力”を持ってるよ! そう感じない?」
 やや興奮気味に、ジルはしゃべった。
「いや……分からない。しかし、何者だ……あれは?」
 額にわき出てくる汗を拭うと、サイファはその人物を見つめた。ただ者ではない。それだけはサイファにも分かった。
「な……馬鹿なっ!」
 サイファはとっさに叫んだ。頂上に立つ剣士が屋根を蹴ったからだ。しかし、塔の高さは一フィーレ弱。あの高さから落ちれば、とても助かるものではない。化け物の巨躯に怯え、狂気に陥ったのか。
 龍は、唐突な自殺志願者を哀れむかのように、ゆっくりと爪を振り下ろした。
 だが剣士は、それを予期していたのか、剣を頭上に掲げ、防戦する。
 しかしほどなく、龍の爪は塔の壁に突き刺さり、剣士も、地面に激突するのは免れたものの、運命はそこまで。壁に押しつけられた彼は、鋭利で巨大な爪の餌食になるのだろう。その瞬間、傍観をしていた市民達から声があがった。悲鳴、諦念――それは人によって様々だった。
 サイファは何も言えず、呆然とただ立ちつくしていた。やはり駄目だったか、という諦めの念。
「サイファ姉ちゃん。……まだあの人の“力”を感じるよ……」
「え……?」
 見ると、いかな運の強さか、剣士は龍の爪と爪の間に身を隠しており、剣を切り返して彼は、すと、と龍の手の上に立ち、再び剣を構えた。
 わあっ……と、市民から今度は歓声がわき起こる。命をかけて化け物に立ち向かう剣士の勇姿に、市民は一瞬にして虜になったようだ。サイファも例外ではなく、剣士の無事に安堵の息をつき、どうか龍を倒してくれ、と強く念じた。
 龍が腕を左右に振り、剣士を払い落とす素振りを見せた時、剣士は人間離れした跳躍力を見せ、龍の頭上に躍り出た。
 龍も即座に上を向き、体内に宿す黒炎を標的に吹き付けた。
 しかしそれは剣士の身体に届くことがない。彼の前に、目に見えない強固な鉄の壁でも創られたかのように、黒炎が遮られたのだ。剣士は剣を一閃、吹き荒れる炎を、持ち主である龍に叩きつけた。思いがけぬ反撃に遭った龍は、天にとどろくような叫び声をあげた。
 剣士は、相手が怯んだ隙に容赦なく必殺の一撃を叩きつけようとする。彼は一度塔の頂上に着地すると、再び屋根を蹴り、敵の上遙か高く跳躍した。剣士がおもむろに剣を掲げると、剣もそれに呼応するかのように蒼白い気をまとった。その気はどんどんと膨らみ、目視にして剣の倍ほどの長さにまでなったちょうどその時、剣士は龍の頭上に降り立った。
「ぬうん!」
 気合い一声、剣士は闘気をはらんだ剣を振り下ろす。龍の口から悲鳴とともに黒炎がほとばしり、星読みの塔の屋根を瞬時に焼き払うが、それも最期のあがきとなる。龍の頭部を斬り、薙ぎ払い、また斬りつける。人の域を越えた剣士の早業は、剣の持つ蒼白い光を残像として生むほどだ。
 それが何撃続いたであろうか、剣士は最後に深々と眉間に剣を突き立てるとそのまま飛び降り、高さなどまるで関係ないようなそぶりで着地した。
 その時、龍の身体は異様に膨らみ、爆発を起こしたかのように、身体の内側から黒い炎が飛び散る。
「私は“宵闇の影”。覚えおくがよい。いずれまた相まみえるぞ、デルネアよ!」
 いまわの際、龍は剣士にそう言い放ち、霧散した。
 デルネアと呼ばれた剣士は鼻で笑う。汗一つかいていない。彼はおもむろに剣を鞘に収めると、人々の目を気にすることなく、宮殿の中へと姿を消した。

 化け物の侵入と、それを撃退した英雄の出現に、人々はざわめいている。市中は未だに混乱しているものの、災厄が去ったことで、これ以上の騒動にはならないだろう。
「ジル、ちょっと」
 サイファはジルに、自分についてくるよう目配せをし、路地裏へと歩き出した。

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三.

「まったく……。いったい何だったんだ、あれは?」
 路地裏。ジルが手頃な樽の上であぐらをかくと、サイファが訊いてきた。
「何って……。さっきも言ったけど、ドゥール・サウベレーンでしょ。見た目は」
「どぅる――なんだって?」
「龍だってば。さすがのおいらもちょっとびびったけど」
「そうだよな……ジルにも、やっぱり龍にしか見えないか」
 ひとり納得するサイファ。
「でも……龍など、物語の中の生き物だと思ってたのに……」
 それを聞いたジルは、意外そうな顔をしてしげしげとサイファを見つめる。
「私に何かついてる? それとも塔の破片で、どこか怪我してるとか?」
 サイファは髪の毛を手で払い、頬を拭ってみる。別段何もないようだ。
「うんにゃ。何もついてないよ。それに姉ちゃんはいつもきれいじゃない。男勝りかもしれないけど。おっとっと」
 最初に出会った時にどつかれたことを思い出し、ジルは口を塞いだ。
「……からかうもんじゃない」
 ちょんと、ジルの頭をこづくサイファ。
「ジルがまじまじと見るから、どこか変なのかと思ったのだ」
「ああ、そのこと」ジルは両手を頭の後ろに組む。
「だってさぁ、龍なんて、アリューザ・ガルドの歴史で言えばディトゥア達と同じくらい古ーくからいる連中じゃない。ほんとにいる生き物だよ? 人間にとっては珍しいかもしれないけど、別に不思議がること、ないんじゃないの?」
 と、さらりと言ってのける。
「……ジルよ」
 サイファはジルと同じ樽の上に腰掛けた。
「なあに? 姉ちゃん」
「一週間ほど前か、私達が最初に会ったのは」
 サイファの言葉に、ジルはうなずく。
「で、今日で会うのは三回目、だな?」
「うんうん。おいらの泊まってるとこに来てくれたよね。おいらも姉ちゃんの家にも遊びに行きたいなあ」
「え、しかし、私の家はだな……」
 言いつつ、話が逸れていきそうなのに気付いたサイファは、話を元に戻す。
「ではなくて! 私が言いたいのは、ジルの話してることが、分からなくなる時があるってことだ。自慢じゃないが、私は今までかなりの本を読んできたつもりだが、それでも、さっきのドゥなんとかやらのことを私は知らなかった。……それなのにジルは、あたかも『こんなのは知ってて当然』のように話す。だから私は訊きたい。どこでそんな知識を身につけたのだ?」
「ふむう……」ジルは上を見上げ、唸った。
「ああ! この空間じゃあ龍は知られてないのかな? そういうことかな? うんうん」
 ジルはつぶやき、ひとり納得した様子だ。
「……ジル。訊きたいのだ。ただでさえ、ここのところの異変続きで頭が痛い問題を抱えているんだ。これ以上私を混乱させないでほしい」
 サイファはジルの両肩に手を置き、真摯な表情でジルの瞳を見つめた。
「しっかし……。信じてもらえるのかなあ」
「私はそれほど頭の堅い人間ではないつもりだ」
「じゃあ、話してもいいけど。おいらにも一つ教えてくれるかい? さっきの兵隊が呼んでた、『陛下』ってのさ」
「……交換条件、てわけか」
 ジルはうなずいた。
「そうだな。『わけはあとで話す』と言った手前もあるし……」
 サイファは人差し指を唇に当てる。彼女が考え込む時の癖だ。ややあって、
「……これを人に話すのは、最初で最後にしたいんで、誰にも話さない、と約束する?」と言った。
 ジルは、こくこくとうなずいた。
「つまりだな」
 サイファは声色を落として言葉を続けた。
「私がドゥ・ルイエ皇である、ということなのだ」

 ルイエとしての尊厳を持ち、毅然として言い放った。それを聞いて、ジルは押し黙った。
(驚いたのか、それとも私の言うことを信じてないのか……)
 サイファは思った。
「あのさぁ……姉ちゃん」
 ジルが申しわけなさそうに訊いてきた。
「何か?」
 ルイエとして、彼女は答えた。少しは口調に威厳を持たせたつもりだ。もっとも、路地裏で酒樽に腰掛けている国王に、品格も何もあったものではないが。
「腑に落ちぬというのなら、申してみるがよい」
「姉ちゃん、それって、なんなの?」
 がっくり。
 彼女の動作を表すなら、これこそまさに相応しい。サイファは肩を落とした。ドゥ・ルイエの名を知らぬ者など、フェル・アルムにいるはずがないのに。
「……今度こそ本当に、私をからかってるだろう?」
「違うよう! ほんとに、ええと、『ドゥルなんとかこう』っての、知らないんだってば!」
 ジルは、どうやら本当に知らないようである。やれやれと、サイファはため息をついた。
(この坊や……どこで生まれたんだ?)
 サイファは気を取り直して、話し始めた。
「ドゥ・ルイエっていうのは、フェル・アルムの国王の称号であり、名前なのだ。私がこのフェル・アルムの王だから、さっきの兵士も『陛下』と私を呼んだのだ。分かるだろう?」
「姉ちゃんが王様だって?! ……うそだあ」
 ジルは、けたけたと無邪気に笑う。
「嘘なものか!」
 サイファもむきになる。結局のところ信じてもらえなかったことが腹立たしく、キッとジルを睨み付けた。二十歳を過ぎたとはいえ、サイファにはまだ純粋な子供らしいところが見え隠れする。
「……分かった」
 すく、と樽から立ち上がると
「なら、ついてくるがよい。私の家にジルを入れてさしあげる!」
 サイファは言い放った。

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四.

 サイファ達は路地裏から出た。市中はやや落ち着きを取り戻しつつあるようで、緊迫感は薄らいでいる。
 しかし、ふと耳にするアヴィザノの民の会話からは、
[この仕業、やはりニーヴルの連中めに違いないぞ!]
[こんなことばかりで、これからどうなるのかしら? ニーヴルも――]
 など、“ニーヴル”という言葉がやけに耳につく。ニーヴルが今もって存在するにせよしないにせよ、この事件でさらにニーヴル憎し、という感情が強まったのは間違いないだろう。

 心なしか早足で歩くサイファに遅れないよう、ジルはぱたぱたとついていく。
「姉ちゃん、怒ってる?」
「怒ってなどいない!」
 そう言いつつも、サイファは後ろを振り向かない。
 やっぱり怒ってるじゃないか。そう思って、ジルはとりあえず謝ることにした。
「ごめん。姉ちゃんが王様だってことを『うそだ』って言ってからかったのは謝るからさ、国王陛下ぁ」
 ジルは両手をあわせて嘆願する。
 サイファの足取りがぴたりと止まる。ゆっくりと後ろを振り向いた。顔は少しも笑っていない。ジルは両手をあわせたままやや後ずさった。
「……やっぱり、からかってたんじゃないかぁ!」
 紅顔して大声で喚《わめ》くサイファ。かちんと固まったジルと、何ごとかと振り向く市民を尻目に、サイファはすたすたと歩いていった。

 ジルは二ラクほどの距離を置いて、サイファのあとをついていく。緑の多い居住区画を抜けると、先ほどのアクアミン川を正面に見ることになる。サイファは何の迷いもなく、川に架かる橋へと歩いているようだ。
「何だよ、国王陛下も意外と子供っぽいとこがあるんだな」
 ジルはサイファに聞こえないように、ぽつりと愚痴をこぼした。それまで振り返らずに歩いていたサイファがちらりとジルを見、歩みを止めた。
「今の、聞こえちゃったのかな?」
 言いつつも、ジルはサイファに近寄った。
「ジル」サイファは振り返って言った。「おぶさりなさい」
 そう言って膝をつき、背中におぶさるよう催促した。
「え、なんで?」
 ジルは、おぶさろうとするも、躊躇した。
「ジルが崩落した塔の破片で怪我をしている、ということにする」
「え?」
「……私は偶然、怪我をしている君を見つけ、とりあえず宮殿に向かう」
「はあ?」
「……まあ、演技なのだが、こんなふうに筋書きを書いておかないと、私の家においそれと入れないからな!」
 サイファは目配せしてみせた。ジルをおぶったサイファは、橋を渡っていく。

「ごめんね、陛下。悪気はなかったんだ。会った時から、どこか普通の人にない感じがあったしさ、何となく高貴な生まれっぽい感じは受けてたんだけど」
 ジルは背中越しに謝った。
「構わん。それより『陛下』はやめてくれないか。サイファと呼んでいい」
「分かったよ、サイファ姉ちゃん」
「それよりジル、私が国王だっていうのは、秘密だぞ?」
「もちろん。誰にも言うもんか! おいら、約束は守るよ。だから、お城に着いたら姉ちゃんが知りたがってること、話してあげる」
「それは是非聞きたいな」
「それにさ、おいら、見てみたいんだ。龍をぶち倒したあの人を。……あの人、知ってる?」
「いや」サイファはかぶりを振った。
「宮中では、見たこともないな。何者、か……」
 多分、近いうちに会うことになるだろう。彼女の勘はそう告げた。しかし、どこか不安な気持ちがつきまとった。彼が果たして何者なのか? そう思い始めると、彼女は黙ってしまった。
「……サイファ姉ちゃんてさ」
 押し黙ってしまったサイファに、ジルが声をかけた。
「怒ったり、優しかったり、忙しいんだね?」
「こら」サイファは別に咎めるでもなく言った。
「でもさ……」
「なんだ?」
「うんにゃ。……人間て、なんかいいなあって、思っただけ」
「何言ってんだか……」

 アクアミン川は紺碧の空の色をそのまま映し、まるで何ごとも無かったかのようにさらさらと流れていた。
 二人が橋を渡りきったところで、サイファは衛兵に呼び止められた。サイファは紋章の入ったペンダントを胸元から取り出し、衛兵に見せた。
[ルイエだ。入って構わぬな?]
 サイファはフェル・アルムの言葉で話しかけた。たかだか数日前に発生した言語など、宮中では用いられないからだ。
[は、しかしその者は……?]
 やはり衛兵は、ジルのことを訊いてきた。
[ううーん、痛てて……]
 ジルも、しかめ面をして、怪我をしたように演じてみせる。
[この子は、さきの騒動で怪我を負った。だから連れてきた。入るぞ]
[し、しかし、陛下の手を煩わせるなど……こら、降りんか!]
 衛兵はジルを引きずりおろそうとしている。
[私が連れていく。好きにさせてはくれぬのか?]
[……分かりました。お通り下さい]
 兵士は仕方なしに道をあけた。
[そうだ。宮中の状況は今、どのようになっている?]
 サイファは門をくぐると振り向き、さきの衛兵に尋ねた。
[は。先ほどの襲撃に際して若干混乱はありましたが、負傷者はありません]
[そうか、それはよかった。ところで貴君はあの化け物を倒した者、知っておるか?]
[いえ。存じませぬ。申しわけございませぬが]
[よい。では入るぞ。……無理を聞いてもらってすまぬな]
 サイファはジルをおぶって、せせらぎの宮へ入っていった。

* * *

[陛下!]
 宮殿に入って、サイファに真っ先に声をかけたのはリセロ執政官であった。
[陛下がどこにもいらっしゃらないので気をもんでおりましたが……また外に行ってらっしゃったのですか? それにその子は?]
[すまぬ。説教はあとで聞きたい。……この子が怪我をしているゆえ、私の部屋に連れていく。医者はいらぬ。私の部屋にある薬で治せよう]
[……分かりました]
 サイファの性格を知っているリセロは素直に折れた。おそらくジルは、宮中の人間以外で唯一ルイエの部屋に入った人間として記憶されるだろう。
[では、またあとでな]
 サイファはそう言って立ち去ろうとした――が。
[ああ、お待ち下さい]リセロが呼び止めた。
[陛下、お疲れのところ申しわけないのですが、部屋にお戻りのあと、玉座の間においで下さい。その子は乳母のキオルが面倒をみるでしょう]
[玉座に? さきの化け物の襲撃について話し合うのか?]
[はい。……と言いますか、化け物を退治した者が、是非陛下にお会いしたいと……]
(意外と早かったな)サイファは思った。
[そなたはその者について知っておるのか?]
[いえ、私も先ほどはじめて聞いたのですが……烈火の将、デルネアという者だそうで]
(――烈火だと!?)
 龍を倒したのはいい。しかし、何か悪い予感はしていた。よりにもよって、まさか烈火が出てくるとは――。

[――災いが大きくなる兆しがあれば、すぐさま“烈火”を差し向けるよう――]

 司祭の言葉が、再びサイファの頭をよぎった。
[……分かった。身支度を整え、向かう。半刻ほど待つよう、その者に伝えてほしい]
 当惑、焦りにも似た感情を表に出さぬよう努めながら、サイファは毅然として言った。
 無言のまま部屋に向かっているサイファの背中で、ジルは考えていた。
(ディエル兄ちゃん……。“力”の在処《ありか》、どうやら分かったよ。将軍だ。でも、もうちょっとサイファ姉ちゃんについていたいんだ。……この世界、長く保ちそうにないけど、それでも終わるぎりぎりの時まで、何とかしてあげたいな。トゥファール様のところに還るのは、それからでもいいでしょう?)

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五.

 宮殿左方の螺旋階段を二階に上がり、廊下を抜けて突き当たった部屋がドゥ・ルイエ皇の部屋である。
「着いたぞ」
 サイファは背中のジルにそう言い、両開きの扉を開けた。
 サイファの背中から降りたジルは、きょろきょろと部屋を見回した。
「へえ、いい部屋だね!」
「そう言ってくれて嬉しい」
 サイファはくすりと笑って、窓際に腰掛けた。
 白塗りの壁に、木の調度品。寝室に続くカーテンは麻づくりと、代々使用している王の部屋としては意外に簡素な感があった。長い王家の歴史にあって、ドゥ・ルイエも感性は人それぞれで、その時のルイエの趣向に合わせ、部屋はたびたび改装されてきている。今の部屋は、サイファの祖父、二代前のルイエにより改装され、以来変わっていない。サイファも落ち着きのある、このたたずまいがいたく気に入っていた。
「ご覧」
 サイファはジルに窓際に来るよう促し、二人は大きな窓から庭園を眺めた。
「見えるかな? 真ん中の池のちょっと右上……アイリスを植えてるんだけど」
「ああ、あれ? うん、綺麗だね」
「これからが見頃だよ。少し前までは奥のツツジが綺麗だったのだけどね」
「そうかあ……ねえ、見に行かない? おいら、こういうのあんまり見たことないんだ。なかなかお目にかかれるもんじゃないでしょ?」
「ああ、あとで、ならね」
「あとで……ああ、そっか」
 ジルはひとり納得した。
「さっき聞いたろうが、私はこれから国王として、あの剣士と面会しなければならない。だから、ここでしばらく待っていてほしい」
「おいらも会いたいんだけどな……あの人に」
「しかし、公の席での面会だ。それは叶わないよ」
 ジルは不満そうな表情を浮かべてはいるものの、うん、とうなずいた。

 ほどなくしてキオルが部屋に入ってきた。
[キオル、この子を頼む。私は湯浴みをし、玉座にいかねばならないのだ]
 はあっ……。キオルはため息をつくとジルを一瞥した。
[その、子供が怪我をしたって聞いてきたんですが……]
[嘘だ]
 きっぱりとサイファは言った。
[やっぱり……。そんな気がしてたんですけどね]
 再度ため息。
[私も宮殿に仕えて長いこと経ちますが、王室にこのような子供が入るなど、聞いたことがございません]
[私も聞いたことがない。まあ、私にとっては話す場所がいつもと違うだけなのだが]
[サイファ様の若さに影響され、宮中の雰囲気も若返った感がありますが、なにぶん千年の歴史を誇る王朝にあって、伝統と格式を重くみる者も多いのです。ですから……]
[分かった。あまりにも奇抜な行動はつつしめ、とそなたは言いたいのだろう?]
[民衆に分け隔てなく接される陛下のご仁徳、それはご立派なのですが……]
[とにかく、ジルのこと、頼む]
 キオルの口調から、小言が始まりそうだと感じ取ったサイファはそう言って部屋から出ていった。
[なに、ジルはいい子だから安心してよい。話してみるといい。そなたとも結構気が合うかもしれないぞ]
 扉を閉める前にサイファは振り向き、キオルに言った。
[あの、陛下ぁ!]
 ばたん。扉は閉められ、残されたキオルは、にこにこと笑っているジルを見て三回目のため息をこぼした。

 サイファは侍女を二人連れ、湯浴みに向かった。
(『剣士に会いたい』とジルは言っていたが……やはりそれだけは無理だろうな)
 ジルの素性はよく分からないが、しょせん宮中の人間ではないため、烈火の将軍に会うなど叶わぬ願いだ。サイファが将軍に『ジルと話し合え』と命ずるのは出来ない話ではないが、国王としてそのような命令を出すのは不適切だ。
(まあ、龍を倒した英雄を見てみたい、というジルの気持ちも分かるけどね)
 ジルが本当は何を求めているのか、知るべくもないサイファはそう思っていた。ジルは、あくまで軽い気持ちで言ったのだと。
[……皆待っておるだろうから、湯浴みは手短にすます]
[今着てらっしゃるお召し物はいかが致しましょうか? 多少くたびれてみえますが]
 侍女が訊いてきた。
[……ああ]
 先ほどの騒ぎによるものだろうか、今まで気付かなかったが確かにズボンの膝の部分が破けそうであった。
[繕《つくろ》っておいてくれ。また着ることもあるだろうからな]
 ドゥ・ルイエ皇はそう言って、湯殿に入っていった。

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六.

 玉座の間にはすでに五名の人物が揃っていた。
 宮中の行事を取り仕切る典礼長、ディナイラム・ランシア・ゼネダン。
 フェル・アルム中枢の政治主導者である執政官、クローマ・リセロ。
 フェル・アルム各地をとりまとめているレビノス・ファルニック領主総代。
 神よりの神託を受け、ドゥ・ルイエ皇に伝える“司祭”。
 そして――烈火の将軍。

 玉座の間の扉が開かれると、一同は敬礼をした。近衛隊長ルミエール・アノウを先頭に、二人の近衛兵が横についてルイエが入ってきた。湯浴みをしたルイエは髪を下ろし、略式ではあるが王冠を戴いている。彼女はしきたりに従い、北方の方面――神君ユクツェルノイレの廟所《びょうしょ》に対し一礼をすると、玉座に腰掛けた。
[貴君らには待たせたようだな。先頃よりフェル・アルム各地で頻繁に出没し、目下の懸案となっていた化け物が、先ほどここアヴィザノを襲ったのは貴君らも知ってのとおりである]
 ルイエが言った。毅然とした口調はまさに国家元首のそれであり、先ほどまでジルやキオルと交わしていたような親しげなものではなかった。
[はい。フェル・アルム千年の歴史において、このような出来事ははじめてのこと。彼奴らがどこから現れたのか、それは後ほどにしまして、今席上では陛下には、窮地を救った人物をご紹介させていただきます]
 ゼネダンが口上を述べると、深紅の制服をまとった人物が一歩前に出た。
[ニーヴルの反乱以後、烈火は主に宮中の護衛にあたっており、指揮官は不在の状態でしたが、ここしばらく異状が続く中、遂に将軍が選出されました]
 巨躯を持つ烈火の将軍は、膝を折って畏まった。
[このたび烈火の将軍となりました、デルネアと申します]
[貴君であるか。宮殿を荒そうとした、かの化け物を仕留めたのは。近う]
 ルイエの言葉に従い、デルネアは玉座の前にて畏まった。
(これが……烈火の将軍……)
 四ラク半あまりの巨体からは想像も付かぬ瞬発力を見せたデルネア。そして神業としか言いようがない剣技。畏まっている姿からも、言葉には表せないカリスマ的な力を、ルイエはひしひしと感じていた。もし、彼がこの玉座に腰掛けていても、何ら違和感がないであろう。
(剣が出来る。ただそれだけの男ではなさそうだな)
 ルイエは一瞬、司祭のほうに目をやり、またデルネアのほうに戻した。
[そなたの活躍が無くば、今頃この宮はどうなっていたのか、考えたくもない。このドゥ・ルイエ、アヴィザノ……いやフェル・アルムの民の代表として礼を言うぞ]
[陛下からそのようなお言葉を頂くとは、身に余る光栄にございます]
 デルネアは言った。
[私めは烈火として、出来ることをなしたに過ぎません]
[……烈火というのは、みな貴君のごとく剣が立つのであろうか?]とルイエ。
[私めの戦いを、ご覧になっていたのですか?]
[ああ……]
 言葉に詰まった。宮殿の外から眺めていた、とはさすがに言えない。
[……少しだけだが]ルイエは短く言葉を切った。
[いずれにせよ、そなたの剣技はまことに見事であった。……で、烈火の腕前はどうなのだろうか]
[フェル・アルム精鋭部隊は伊達ではありませぬ。が、おそらく自分以上に腕の立つ者はいないでしょう。そこを買われて将軍になったのですから]
[そうか。火急の時には、また力になってくれるな?]
[はい。今のフェル・アルムの異状を解決したい、私の思いはその一心であります]
 ルイエは内心どきりとした。烈火が決起した時、それを指揮するのはデルネアだ。その時、デルネアが何を行うのか。ルイエの心に一瞬影がよぎった。
[そなたの忠誠心、ありがたく受け取る。しかし、私としては烈火を一同に決起させるつもりはないのだ]
[どうされるおつもりでしょうか?]
 デルネアの言葉は不遜な口調ではあったが、ルイエは気にしなかった。

[リセロよ]
 ルイエは執政官を呼んだ。
[あのような化け物が各地を襲うようではたまらぬ。烈火を分散して、各地の守りにあたらせることは出来るか?]
[陛下から書面を頂ければ、勅命として実行出来ましょう]
 リセロは言った。
[しかし、よろしいのですか? 烈火を分散させれば、中枢の守りは薄くなります。化け物が単体で襲来をかけるのであれば、衛兵達やデルネア将軍の力で何とかしのげましょうが、敵が大勢になりますと、おぼつかなくなります]
[貴君の言う、『大勢の敵』とは、何のことか?]
 ルイエは鋭く刺した。リセロは何か口にしようとしたのだが、どうも躊躇しているようだ。
[この件、ニーヴルの所為だと思っているのなら、それは根も葉もない風説に惑わされているに過ぎないぞ、リセロよ。私は、ニーヴルによるものとは思っていない。それより今は、化け物どもをどうするかが急務なのだ。現実問題としてな]
[失礼申し上げました]
 リセロは言った。
[確かに、陛下のご判断は正しい。ご賢察でありましょう]
[デルネアも、それでよいか?]
 ルイエの問いにデルネアは[御意]とだけ答えて、元の位置に戻った。
 ルイエは一同を見渡して言った。
[貴君らも聞いてのとおりである。我、ドゥ・ルイエは、烈火を各地の守りにあたらせることを決意した。敵はニーヴルにあらず、あくまで化け物である。万一にもフェル・アルムの民を屠った場合は厳罰と処す。この件は追って勅命を出すゆえ、この場はここまでとしたい]
 ルイエは立ち上がった。
[では、勅命の場はあらためて設けさせていただきます。この場はこれにて……]
 ゼネダンが言って、会見は終了するはずだった。
[ええ?]
 ゼネダンが、彼らしからぬ素っ頓狂な声をあげた。彼の後ろに見知らぬ子供がいたからだ。
[なんで、ここに子供がいる?]と、ファルニック。
 金髪の少年は、つと前に出ると、舌をぺろりと出した。言うまでもなくジルである。しかし――。
[いつの間に入ってきたっていうの?]
 近衛隊長アノウがぽろりとこぼした一言こそ、ルイエの本心であった。扉が開いた形跡は無いのだ。
[よい。なにせ化け物の騒ぎのあとだ。市中も混乱していよう。子供が宮中に入った件、私に免じて許してやってくれ]
 ルイエは近衛兵を従えて玉座を離れていった。ジルはちょこちょこと、そのあとをくっついていった。
 残された面々はお互い顔を見合わせ、不思議がっていたが、大したことではないと考えたのか、何も言わずに退席していった。
 そして退席際、デルネアと司祭がお互いにうなずいていたのも、ほかの者にとっては大したことではなかった。単なる挨拶に過ぎないと思っていたのだ。

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七.

 せせらぎの宮には不思議な窓があった。宮殿円塔の最上階の窓は、宮殿内部からその場所に行くことが出来ないのだ。しかし、それを指摘する者は誰もいなかった。宮殿建築の際、間違って造られてしまい、それらの窓は装飾として残されることになった、というのが通説だからだ。
 だが、そここそが“天球の宮”。デルネアとその下僕――隷《れい》達――のみ、立ち入ることが出来る場所なのだ。ここに来るには、人としての気配を消し去り、“術”で施された空間の封印を解かなければならない。
 その中で。
 ルイエとの謁見を終えたデルネアは椅子に腰掛けると、恭しく頭を下げる隷達を一瞥した。

「この世界を永遠のものとするためのすべが見つかった。北方には明らかに、我ですら驚くべき“力”が存在するのが分かった」
 トゥールマキオの森からここアヴィザノへと、デルネアが帰還したのはつい先ほどである。彼は一つの決意を抱いていた。
「二つの大きな“力”。……我はその“力”を手に入れるために北方に向かう。それを手に入れた時こそ、我は神のごとき存在となり、フェル・アルムに永遠の安定を与えることが出来るのだ。隷どもよ。我はこれより、世界の表舞台に立つ。烈火の将として名乗りを上げたのはそのためである。お前達は我《われ》直属の部下として、我に付き従え」
 デルネアが言うと、隷達はひれ伏し、恭順の姿勢を見せた。
「〈隷の長〉よ。神託を与える」
 デルネアに呼ばれ、隷達の中から〈隷の長〉――またの名を司祭――が一歩前に出た。
「北方にニーヴルが結集しつつある。そのため烈火を総動員し、北方に向かわせろ、と。この旨、ルイエに言うがよい」
「承りました」と〈隷の長〉。
「しかし、ニーヴルの存在は確認が取れておりませぬが」
「ニーヴルなどは方便に過ぎん」
 デルネアはほくそ笑んだ。
「……烈火を動かすためのな。そして、大きな“力”を所持する者がこの報を聞き、我のもとに現れるなら、ことは全てたやすくすむ」
「承知いたしました。では、スティンにニーヴルありき、との報を流布させます」
「今、疾風はどうなっているか?」と、デルネア。
「北方に全て展開させております。消息を絶った者はおりませぬ。一件、北回りのルシェン街道にいる疾風から報告が入っております。『果ての大地の空はとてつもなく、黒い』と。その者はやがてクロンの付近に至り、『土が腐ってきている。黒い空は、徐々に南下している』と申しております」
 〈隷の長〉は淡々と答えた。
「いよいよ太古の“混沌”が、世界に現れたか。だが……」
 デルネアはすくと立ち上がった。
「そのようなもの、消し去ってくれる! 我が新たな“力”を手に入れたあかつきにはな!」

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八.

 そんなやりとりが同じ敷地内で行われているとはつゆ知らず、サイファはジルとともに、宮殿の中庭で遊んでいた。
「ジル、教えてもらおうか」
 サイファは、はしゃぎまわるジルに言った。
「え、なんだっけ?」わざとらしく、とぼけるジル。
「まずは、おかけなさい」
 サイファは、庭園の端にある石造りの椅子にかけるよう促し、自らも腰掛けた。
「私のほうは全て明らかにしたぞ。今度はジルの秘密を聞く番だ」
「おいらは別に隠しごとなんかないよ?」
「でも、私にとっては知らないことが多過ぎる」
 サイファは足を組んで、ほおづえを突いた。
「ジルがどこから来たのか、色々な知識をどこで身につけたのか、そして先ほどどうやって玉座の間に入ってきたのか――色々だ」
「あはは、そうだったよね。それじゃあ、話してあげるよ」
 人差し指をあげて、「でも、ちゃんと信じてちょうだいよ?」と、ジルは言った。サイファはうなずいた。
「よし! じゃあ話すね」
 そこでくるりと身体ごとサイファのほうを向いて言う。
「あ、言っとくけど、誰にもしゃべっちゃ駄目だよ? ほんとは秘密なんだからさ」
「分かったよ。国王の名において、誓う」
 サイファは右手を挙げ、誓いのしるしを示した。

「ええと、じゃあ、おいらがどこから来たのか、っていうのを話すね。おいらとディエル兄ちゃん――あ、おいらの双子の兄ちゃんのことね――おいら達二人は、トゥファール様の命令で、いろんな世界にある“力”を集めてるんだ。ま、ほかにも何人か仲間がいるんだけど、おいら達二人は、この世界を見つけ、入り込む偉業を果たしたってわけだ」
「まるで、ジルがフェル・アルムの民でないように聞こえるのだが」
「そうだよ。おいら達は」と言って空を指さす。
「あの空を遙か越えたところからやって来たんだから」
「……そなた、本気か?」
 サイファは疑わしげにジルを見た。
「なんだよう? 信じるって言ったじゃないかよう?」
 ジルはきっと、サイファをにらみ返した。
「まだ続きがあるんだから、聞いててよ!」
 口外無用のはずなのに、サイファに信じてもらおうと、ジルは必死になった。
「――ええと、この世界って、もともとはアリューザ・ガルドっていう世界の一部だったんだ。けれど、この世界はもとの世界から分かれちゃってね。ディトゥア神族ですら入れなくなっちゃってたんだ。でもおいら達兄弟は空間をこじ開けてやって来た。これって凄いことなんだよね!」
「……すまない。何を言ってるんだか、全然分からないんだ」
 ジルの言葉のことごとく、サイファにとって的を射るものではなかった。
「むむむぅ……」
 ジルも腕を組んで唸る。一体どうしたらサイファに伝えることが出来るのか?
「あ!」
 何か思いついたのか、ジルは不意に顔を上げた。
「じゃあ、信じさせてあげる!」
 ジルはにこりと笑って、右手を差し出した。
「何?」とサイファ。
「つかまって! おいらの言ってること、ちょっとは分かると思うから! さあ!」
 ジルは右手をさらに伸ばした。
「ああ」要領を得ないが、サイファは彼の手を握った。
「よし!」
 ジルは目を閉じ、深呼吸を一つ。そして――ジルの口が開いた。そこから発せられた音は耳をつんざくような高音と、響くような低い音。いずれも人の発する音ではないような音が同時に、この少年の喉から発せられた。うねりながら発される二つの“音”は、言語としての意味をなしていなかった。
 “音”が消えていくと同時に、サイファとジルの姿は庭園の椅子から消え去った。

* * *

 その瞬間。
 サイファの周囲の視界は全て白一色に変わった。
 サイファは奇妙な浮遊感を感じていた。空を飛ぶというのはこのような感じがするのだろうかと彼女が思った時、ふとサイファは周りがやけに暗くなっているのに気付いた。明らかに、今いる場所は宮殿の中庭などではない。
(ジルは……どこ?)
 彼女が横を向くと、ジルが得意満面の笑みを浮かべてたたずんでいる。彼女の左手はジルの右手をしっかり握っていた。
「下、見てごらんよ」
 ジルに言われるまま、サイファは自分の足下を見た。そこに足場はなかった。
「ひっ!」
 サイファは悲鳴を上げ、ジルにしがみついた。
「ジ、ジル……? 落ちる!」
「だいじょうぶだよ姉ちゃん。そんなにしなくても、落ちやしないよ。目を開けて」
 言われるままサイファは目を開け、ジルにしがみついてる右腕を少し解いた。
「あ、でもおいらの右手は離しちゃ駄目だよ? おいらの唱えた“法”は、今おいらにしか働いてないから」
 意味が不明ながらも、離すと危険なのだと悟ったサイファは、握った手をさらに握りしめた。
「いててて! そんなにしなくても落ちやしないってば! ……そう、それくらい」
 サイファはジルの身体から右腕を離すと、また周囲を見渡す。どこを見ても何もない。おそるおそる足下を見ると――。
「ここは……」

 遥か下方には、広大な大地が広がっていた。そしてそのかたちは、地図で目にすることのある、なじみ深いかたちだ。
「フェル・アルム……」
 サイファとジルは今、全土が見渡せるほど天の彼方に身体を浮かべていた。
「……こういうの見るとさ、世界を創った神様がいるって、思いたくならない?」
 ジルの問いに、サイファは素直にうなずいた。眼下の光景があまりに雄大で、綺麗で、神秘に満ちていたから。
「おいら達はね、トゥファール様っていう神様の、使いなんだ」ジルが言った。「おいら達はとっても大きな“力”を探して旅をしているんだ。その“力”を手に入れて、トゥファール様に渡すのがおいら達の役目。トゥファール様はその“力”を、全ての世界が存在し続けるための糧としてお使いになる」
「全ての世界?」
「うん。アリューザ・ガルドや次元の狭間、それから神様達が住んでいる世界、全てだよ。人間で言えば命そのものにあたる部分の火を灯し続けるように、世界を護ってるんだ」
 ジルは言った。
「残念ながら、この世界――フェル・アルムだっけ? ――は含まれてないんだけどね」
「どういうこと?」
「この世界は強制的に切り離された世界なんだよ。もとある自然の摂理を無視して、ね。この閉じた世界が存在することはディトゥア達も知ってるだろうけど、どこにあるのかは彼らにだって分からない。おいら達双子がはじめて見つけたんだ。トゥファール様の使いのなかで、おいら達だけが……」
 サイファは、ジルの言葉に魅入られたように、静かに聞いていた。
「本当はね、フェル・アルムは、アリューザ・ガルドに戻らなくちゃいけないんだよ」
 そう言ったジルはどこか寂しげにもみえた。
「戻るって? アリューザ・ガルドに……?」
「そう。それがあるべき本当の姿なのさ。魔法、龍、そして精霊が自然に存在している世界、アリューザ・ガルド。そこに戻れば、サイファ姉ちゃんの疑問も全て解けるのにね」
 ジルが言った。
「さてと。そろそろお城に戻ろうか。……あ、その前に、おいらの兄ちゃんに会わせてあげるよ!」
 ジルはそう言うと、再び“音”を発した。
 サイファは、今し方ジルの言ったことを反芻《はんすう》しつつ、再び浮遊感に身を任せた。

* * *

 周囲の景色はまた一転し、今度はサイファにとってもなじみ深い風景となった。
 ここは、どこかの家の中だろう。ごく質素なたたずまいの部屋のベッドがあり、二人の人物がいた。
「よっし、おいらの勘、大当たり! 大体ここら辺かなって思ったんだけど」
 と、ジルは喜んだ。
「え……!?」
 その声に、その部屋にいた人物が反応した。それまでは、ベッドに横になっているもうひとりの人物を心配そうに見ていたのだが。
「ジ、ジル……」
 声をあげたのは、ジルと同じ風貌を持つ、黒髪の少年だった。彼はゆっくりと、唐突な訪問者達のほうに近づいてきた。
「あ。兄ちゃんだ。……ちょうどよかった! 姉ちゃん。こっちがディエル。おいらの双子の兄ちゃんだよ」
 ディエルがわなわなと震えているわけなどまったく気にせず、ジルは、彼のせいで不運な目に遭った双子の兄をサイファに紹介した。
「あ、ああ……よろしく、私は……」サイファが言いかけた。
「ジル、てめえ、ただですむと思うなよお!」
 サイファの言葉を遮ってディエルが吼え、ジルにとびかからんとする。
「……え? え?」
 ジルは、ディエルが怒っているわけをまったく理解出来ないながらも、即座に身の危険を感じて、無意識のうちに“音”を発動させていた。

 風景は再び一瞬にして変わり果てる。
「私はサイファという……。え?」
 サイファの挨拶は、せせらぎの宮の中庭に、むなしく消え去った。

* * *

 サイファとジルは、お互い何も語らずに、石の椅子に腰掛け、植物の様子を眺めていた。
「ジルにディエル……」
 最初に口を開いたのはサイファ。
「結局のところ、そなたは何者なんだ?」
「神様の使いだよ」
 ジルはさらりと答えた。
「一瞬で場所を移動出来る……そして、私のまだ見ぬ世界を知っている……」
 サイファはため息をついた。
「神様の使い……か。それを信じる必要があるんだな」
「うん。そう思ってほしいな。あ、でもだからって、おいらを特別視なんかしないでおくれよ? おいらだって、国王陛下に無礼な口を利いてるんだしさ」
「そうだね」
 サイファはくすりと笑って、右手をさしのべた。
「では、あらためて、よろしくな、私の友人よ」
「こちらこそ、サイファ姉ちゃん」
 サイファとジルは、友情の握手を交わした。かたや国王、かたや神の使徒という奇妙な関係ではあるが、それを気にする二人ではなかった。

「そろそろ宿に帰るね」
 日が傾きかけてきたのに気付いたジルが言った。ジルは足下に転がる石を一つつかみ、軽く握りしめると目を閉じて念じた。ジルが掌を開けると、それまでなんの変哲もなかった石ころは、瑠璃色に煌めく珠《たま》に変貌していた。
「これ、あげるよ」ジルはサイファに珠を差し出した。
「綺麗……。ありがとう」
 サイファは驚きながらも、珠を受け取った。
「ただの石が宝石になるのか……さすがジル」
「たいしたもんじゃないんだけどさ、これを握って《エブエン・エリーブ》と念じれば、姉ちゃんの居場所が分かるから、おいら、すぐさま駆けつけることが出来るよ」
「えぶ……?」
「エブエン・エリーブ。おいらが今、思いついた呪文だけどね。この珠は姉ちゃんの声にしか反応しないし、呪文が発動したっていうのは、おいらにしか分からないようになってる」
「救助の狼煙《のろし》みたいだな、まるで」
「うん。姉ちゃんの身になんかあった時のためにね。実際、気を付けなきゃいけないこと、色々あると思うんだ」
 ジルの表情が真摯なものになる。
「一つ忠告。龍を倒した剣士、人間にしては強力過ぎる“力”を持ってるよ。あいつにはきっと何か裏があるよ」
「分かった。気に留めておこう」サイファは珠を見つめた。
「エブエン・エリーブ。言葉は、これでよいのだったな?」
 ジルはうなずくと、
「じゃあ、今日は帰るよ。またおいらの宿に来てちょうだいな!」
 と言い、駆け出していった。
「ありがとう! 今日のことは色々とためになったぞ!」
 サイファは、小さな友人の背中ごしに声をかけた。

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九.

 七月四日の朝方。前二刻も過ぎた頃。こんこんと、ルイエの部屋の扉が叩かれた。
[キオルか?]
 ベッドに腰掛けているルイエは、あくびをかみしめ扉の向こうに話しかけた。
[はい。入ってよろしいでしょうか?]
[ああ]
 キオルが部屋に入ると、大きな口を開けてあくびをする少女が目に入った。咎《とが》められるのを気にしてか、ルイエはあくびの途中で口に手をやった。
[お早うございます。……あ、陛下……]
[はしたない、か? すまぬ……]
[いえ、あまり寝ていらっしゃらないご様子なので、お体がすぐれないのか、と思いました]
[私はそんなにやわじゃないつもりだ]
 そう言いつつ、ルイエはあくびをもう一つ。
[とは言っても、さすがに堪えたな、あれには……]
 ルイエはごろりとベッドに横たわった。

 昨日ジルと別れたあと、典礼長ゼネダンから『勅命の場』の日時を告げられた。七月四日、前四刻に執り行う。それは思いの外、早いものだった。
 ルイエも勅命の場を幾度か経験しているものの、烈火を動かすというのは滅多にない。これは国家の大事である。ゼネダンと執政官リセロは、号令のかけ方について懇々とルイエに説き、勅命の場で成すことや、話す内容などを夜遅くまでかけてまとめ上げたのだ。結局ルイエが床に入ったのは、“刻無き時”を越えてからであった。

[そろそろ食事なのか? ならば着替えないといけないな]
 ルイエは目を閉じたまま、やや鬱陶しげにつぶやいた。
[確かにそろそろお時間なのですが、そうではなく……]
[もったいぶるとは、そなたらしくもないな。……ああ、でもジルについての小言ならあとにしてくれないか。多少なりとも、すがすがしく朝を迎えたいのだから]
 ルイエは窓に目をやった。
[いい天気だ……今日も暑くなりそうかな?]
[陛下……空の宮にお越し頂けませんか? ……その……司祭殿がお会いしたいと……]
[司祭殿が!?]
 がばりと飛び起きるルイエ。キオルの一言は、ルイエの頭を覚ますのに十分過ぎるものだった。次にルイエの心を占めるのは、とてつもない不安感。

(今日、勅命をかけるというのに……いかな神託が下ったというのだ?)
 その時ルイエは、少し心に引っかかるものを感じた。
(神託とは何か? それは神の思し召し。私達にとっての神は、神君ユクツェルノイレと、その父にして大地の神クォリューエル。……だがジル――トゥファール神の使いよ。……私達が信ずる神というのは、本当に存在するのだろうか?)
 神――ユクツェルノイレとクォリューエル――の存在を訝しがること。それはフェル・アルムの民がおよそ考えつきもしないことだった。しかし、真実の断片を知ってしまったルイエにとって、虚構の皮をめくるのは造作もないことであった。とは言え、未だルイエ本人は運命の渦中に飛び込んだという自覚は無い。今の彼女に出来ることは、鬱々とした気分をしまい込んで、司祭を訪れることのみだった。

 ただ、デルネアや隷達の目論むままに動くほど、彼女は凡庸ではない。サイファが洞察力に優れていることと、神の使いジルに遭遇していること。
 フェル・アルムの影の統治者達は、そのようなことを知るよしもなく、勅命の場を待ち望んでいた。

* * *

 ステンドグラスに囲まれた、真っ白な部屋。生活感のかけらもない、司祭の居室たる空の宮に入ってきたルイエを司祭は恭しく出迎えた。一週間前と同じように。
[お忙しい中、ようこそおいで下さいました、陛下]
 老人は深々とお辞儀をすると、ルイエを席に案内した。
[ああ。確かに忙しい]
 ルイエは、心の中にある不安を気取られないように、やや尊大な口調で話した。
[またご神託であろうか? 司祭殿も知ってのとおり、今日勅命を発するというのだ。よもや神は私の方針にケチを付けるおつもりなのか?]
[……たとえ陛下であっても、神の尊厳を傷つけるお言葉は許されませぬぞ]
 司祭は低いしゃがれ声でルイエを諫めた。
[確かにな、出過ぎた言葉であった。許されよ]
 言葉とは裏腹に、ルイエは不遜な態度をあらためようとはしない。
[では神託を。心して聞かれんことを]

 司祭は言い放った。その神託は――司祭すなわち〈隷の長〉が、デルネアより受けた言葉そのままであった。
[北方にニーヴルが結集しつつある様子。陛下にあっては、烈火を総動員するよう勅命を出し、烈火を北方に向かわせるようにして頂きたい]
「馬鹿な!」
 ルイエは思わず『失われた言葉』で口走った。司祭は何も言わなかったが、冷徹な視線をルイエに送り、ルイエの不敬な言動を咎めた。
[し、失礼をした……]
 ルイエは目を閉じ、深呼吸を一つ。どうしようもなく動揺する心を落ち着けるために。
[……ニーヴルがいると、どうして分かったのだ? 疾風の報には、そのようなことは書いてなかったはずだ]
[おっしゃることは分かります。しかし、疾風達も人の子。分からないこととてありましょう。なれど、神の御言葉は絶対です。このような混乱の時期に神の啓示を頂けるとは、ひとえに陛下のご人徳ゆえ。ありがたいことでございます]
[世辞を言わなくてもよい。北の様子をその目で見ている疾風達より、アヴィザノにいるそなたのほうが、よほど状況をよく把握しているというわけか。……さすがは司祭殿だ]
 ルイエの若干皮肉めいた口調を気にも留めないかのように、司祭は淡々と語った。
[私ごときは大したものではありません。全ては神の見られるところ。神からの思し召しによって私は動いているに過ぎません。各地で噂されるニーヴルに関わる風説は、おおいなる神によって立証されたのです。……神託は下されました。陛下にはご指示を出していただきたい]
 ルイエに神託を覆す権利は無い。反逆者たるニーヴルの所在は“神”が明らかにしたのだから、秩序の名の下に彼らを排除しなければならない。十三年前、父王が行ったように。
 そうなると、戦になるのは火を見るより明らかである。どれだけの民が戦禍の犠牲になるのか。そう思うと胸がひどく痛むのを感じた。
[……烈火に下知せよ、というのだな? 勅命の場で]
[御意]
 ルイエの心中を知ってか知らずか、司祭は冷たく言い放った。しばし、沈黙があたりを支配する。
[……あい分かった。全ては神君ユクツェルノイレの思し召しのままに]
 ルイエはそう言い残し、空の宮をあとにした。
 外に出たルイエは空の宮を振り返り、つぶやいた。
「これから勅命を下すというこの時に、それを覆す神託が出るとは……。あまりにも頃合いがあい過ぎている……そこが腑に落ちない……。しかし、今の私にはどうすることも出来ないのか?」

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十.

 ルイエは、儀仗に身を纏った近衛兵に周囲をぐるりと囲まれ、玉座の間に向かっていた。途中で執政官リセロと出会い、単刀直入にこう言った。
[神託が降りたゆえ、我が命令は変更となった。烈火を全て北方に回す]
[え……]
 リセロも一瞬言葉を失った。近衛兵達も驚きを隠せないでいる。
[そうなのでありますか? し、しかし、それが神の思し召しとあらば、神の指し示した道を歩むことこそが賢明でありましょう]
 取り直したリセロはそう言って取り繕った。
[であろうな]
 ルイエは一言返したのみ。一同はその後無言で玉座の間に辿り着いた。

 七月四日、前四刻。『勅命の場』。
 玉座の間には、すでに宮中の人間が大勢集まっており、ルイエの入室の際には一同敬礼で迎えた。ルイエは近衛兵に囲まれたまま玉座を目指した。玉座の手前で近衛兵達は脇に分かれ、隊長のアノウのみが玉座の階段前に留まった。ルイエは北方に一礼をすると、正面を向き直り玉座に腰掛けた。

[神君ユクツェルノイレの名のもとに、今《こん》席上ではドゥ・ルイエ陛下による宣命を賜ります]
 ゼネダンが述べると、ルイエはすくと立ち上がった。玉座の間が喝采に包まれる。ルイエが右手を挙げると拍手は止み、一同はルイエを見据える。百近い視線全て、ルイエに集中するのだ。
 ルイエはもとから、この雰囲気が好きではなかったのだが、今回はことさら嫌なものであった。自分本来の考えとは異なる命令を下さなければならない。そう考えると全ての瞳が、ルイエを咎めているような感さえ受けた。
[――]
 ルイエは口を開くが、声が出なかった。否、出せなかった。二十歳をようやく過ぎた娘が、国を揺さぶる重大事を発言しようというのだ。近衛隊長ルミエール・アノウが、リセロが、そしてデルネアが自分を見ている。だが喉もとが張り付いたように動かない。
 そんな中、ルイエは、無意識のうちに金髪の少年の姿を探している自分に気付いた。
(ジルは……ここにいるわけないか…。しかし……)
 ルイエは左手をぎゅっと握り締める。その中にあるのは、ジルから貰った、あの珠《たま》だ。握っていると少しずつ、張り詰めた心が和らいでいくのを感じた。
(この石……そなたを近くに感じるようで、安心するぞ)
 そばに控えるアノウが、心配そうな面持ちでルイエを見ている。それに気付き、ルイエは笑みを浮かべ手をあげる。
(大丈夫だ)
 サイファの従姉にして幼友達でもあるルミエール・アノウは。ルイエのしぐさで悟り、再び正面を向いた。ルイエもきっと前を見据える。一瞬、ジルの顔が頭をよぎった。
[……諸君らも知ってのとおり、フェル・アルムに前代未聞の禍々しい出来事が勃発している。人々の不安、恐怖がいかばかりのものか。この混乱を招いたのは何なのであろうか? 中枢とて手をこまねいていたわけではない。……我、ドゥ・ルイエは諸君らに言い伝える。これは勅命である! 神君ユクツェルノイレに誓って、虚偽はない。ドゥ・ルイエは純粋に、平穏を保持したい一心のみを持つのである]
 心の迷いを何とか振り払い、ルイエは凛とした声で告げた。
[勅命を言い渡す。かつて、全土を震撼させたニーヴルが、北方に結集しつつある。よって、全ての烈火には北方に動くよう、ここに命ず!]

 瞬間、宮中の空気が一転した。居合わせた人々は、動揺、衝撃を隠せないでいる。一同を見渡すルイエにもひしひしと彼らの思いが伝わってきた。それは彼女にはとても痛いものだったから、ルイエは天井に視線を泳がせるしかなかった。
(とりあえず今は何も考えるな。とりあえず……)
 ルイエは心の中で思った。
[デルネア将軍、前へ]
 ルイエは思いを胸中に沈め、デルネアを呼んだ。デルネアが階段の下でひざまずく。と、ルイエの頭にジルの言葉がよみがえった。

『龍を倒した剣士、人間にしては強力過ぎる“力”を持ってるよ。あいつにはきっと何か裏があるよ』

(確かに……ただならぬ者だと私にも分かる。慎重に言葉を選びなさい、サイファよ)
 彼女は自分に言い聞かせた。
[貴君には、我、ドゥ・ルイエの名において、全ての烈火の指揮権を委ねる。だが火急の時を除いて、剣を振るうのは認めぬ。また、何ら罪のない人々に危害を加えぬように心せよ]
[仰せのままに]デルネアは深く頭を下げ、恭順を示した。
[我ら烈火は、陛下の命によってのみ、動きます。陛下がそうおっしゃるのであれば、従いましょう]
[うむ]
 ルイエは軽くうなずくと、声を大にして言い放った。
[貴君らも聞いてのとおりである。不穏な動きを封じるために私は烈火に号令をかけた。しかし、それは民を踏みにじるものではない。今、デルネア将軍が私に誓ったとおりだ。もし、これが破られた時は……]
 左手を硬く握るルイエ。
[枢機裁判にわが身をおくものである!]
 階下が再びざわめく。枢機裁判といえば、唯一ドゥ・ルイエ皇をも裁くことが出来る司法の最高機関である。悪政を行ったルイエはここの裁きを受けるようになっている。しかし、この仕組みが制定されて以降、皇帝が出廷したという実例はない。フェル・アルム中枢が、この構造をつくる原因となった“恐怖王”ルビアンの処刑以来は。
[諸君、静まりたまえ!]と、ルイエ。
[我は十三年前の悲劇を、絶対に繰り返してはならないと考えている。かつてニーヴルの反乱鎮圧時に、父王は救国の英雄として賞賛を浴びたが、実は幾多の人々が犠牲となったことにひどく心を痛めておられた。そのことを諸君らにも、今一度認識してもらいたいのだ。繰り返し告げる。我の名のもとに烈火を発動させるが、戦災を巻き起こさぬよう、デルネア将軍に厳命する!]
 デルネアは深く頭を垂れ、そしてすくりと立ち上がった。一瞬、ルイエと視線が合う。
(――!)
 デルネアの瞳はルイエを見上げているが、むしろデルネアが高みからルイエを、そして人々を見下ろしているような感覚さえ覚えた。憤懣と侮蔑と野心。ぎらぎらとした、貪欲な野獣のような瞳。背筋が凍りつくような強大な何かがこの男にはあるのだ。実際、ルイエはデルネアの持つ気迫に飲まれてしまっていた。
 デルネアはついと視線をはずすとルイエに恭しく一礼し、もとの席に戻っていった。
(はあっ……)
 ルイエは内心で安堵の息を漏らした。身体にのしかかっていた重圧が無くなったからだ。
[諸君、これにて閉会としたい。しかし、案ずるな! 我らは再び平穏を取り戻すことが出来るであろう! 全ては神君ユクツェルノイレの思し召しのままに!]
 宮中に凛としたドゥ・ルイエの声が響く。それは閉会の言葉であったが、同時にフェル・アルム史上最大の大事のはじまりを高らかに告げるものでもあった。

 その名を“大いなる変動”という。

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