『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 第十章 終焉の時、来たりて

九. そして、為すべきことへ

「助かった……」

 世界の破滅を想起させる天変地異の鳴動が止み、しんと静まりかえった周囲に、男のつぶやきが響いた。空のさまを恍惚と見上げていたケルンは、はっと我に返った。
 避難民の列は歩みを止めていた。ケルンと同じように空を見上げている人も、うつ伏せになったまま震えていた人も、たった今、災いが過ぎ去ったことに気付いたようだ。緊迫していた雰囲気が消え、安らぎに満ちている。騒ぎ立てる者、涙をこぼす者――人々はそれぞれの思うままに、喜びを表している。
 やがて人々は南方に対してひざまずき、祈りを捧げはじめた。ユクツェルノイレへの祝詞《のりと》を発する声が次第に増えていく中、ケルンは冷静に周囲の様子を窺うのみ。ひざまずく人の群を見て苦笑を漏らした。
「みんな、分かってんのかよ。神様が、なんかしでかしたわけじゃあないってのにさ……あれ?」
 ふと横をみると、ミューティースが目をつぶり――地に伏せたりはしないまでも――手を胸の前で組んで、静かに祈りを捧げていた。
「ミュートまで……。神君のおかげなんかじゃない。結局のところ、ユクツェルノイレなんて、いないっていうんじゃあないか。こうなったのはルード達のおかげなんだぜ?」
「分かってるよ。ルード達にありがとうって、祈ってたんだよ、あたしは」
 ミューティースは目を開け、ちらりとケルンを一瞥した。
「ケルンの言いたいことも分かるけれどね。でも、『神君が見守って下さっている』って、みんなはまだ信じてるのよ」
「ああ、でも、祈ってる人らが本当のことを知ったら、どうするのかね? 本当の歴史を聞いた時、俺だってにわかに信じられないって動揺したのに」

 言葉の変遷、魔物の出現、そして“混沌”の襲来――。フェル・アルムの民は数々の異変に直面した。常識というものに囚われている人々の中には、それら異常きわまりない災禍にどう対処すればいいのか分からず、自分自身の壁を乗り越えれずに苛んでいる人も多い。
 今まで伝わってきた歴史が、嘘に塗り固められたものだといずれ公表されるだろう。それは緩慢な平和に依存してきた人々を覚醒させる薬ではあるが、いささか強過ぎる薬でもある。反動、副作用もまた伴うものだろう。

「……そうね。あたし達にとってはこれからこそ、本当に大変なのかもしれない。今までだって南のほうは混乱してるって話、シャンピオから聞いてるからね……」
 ふと、二人は申し合わせるかのように、北方を見やる。
「スティンが……無くなっちまったんだなあ、ものの見事に」
 ケルンがぽつりと言った。人智を越えた変動を目の当たりにしても、喪失感が実感として、今はまだ湧いてこない。
「あそこでもう羊を飼って暮らすことなんて出来やしないけど……それでも俺は、羊飼いをやっていきたいんだ!」
 スティン。そこにはつい昨日までは山々が連なり、麓には青々とした草原が広がっているさまが見えていた。羊達が牧草をはみ、羊飼いはただ平凡な日々を送る――そんな純朴な暮らしが確かにあったのだ。しかし今、スティンには何もなかった。“混沌”に飲み込まれた大地の痕が、否定の叶わない現実であることを語っている。
 それでも、ミューティースはケルンに笑いかけた。
「大丈夫! あんたとあたしならやっていけるよ。今度、セルのほうに行こうよ? 羊がいれば、あそこの高原でも暮らせていけるもの」
 ケルンは照れ隠しのためか、ミューティースからすっと離れた。そのため彼女から不平の声があがる。
「ま、羊はさ……大人達がスティンから連れてきた何匹かを、分けてもらわなきゃな。あっちに行くんなら」
 ぶっきらぼうな口調でミューティースにそう言いつつ、ケルンは自分が歩いてきた方角を見据えた。ウェスティンの地ではどうなっているのだろうか。そして自分の幼友達は? 重圧に耐え抜いた親友のところに今すぐにでも駆けつけ、やや乱暴に称えてやりたかった。
(無事なんだよな? ルード。本当に世界が終わっちまうのかと思ったけれど……実際、まだ俺は心臓が破裂しそうなほど驚いてるんだが、どうやらお前がうまくやってくれたに違いないと思ってる。あとは……俺達のことは心配しなくても大丈夫だ。ありがとうよ! お前ってやつは……)
 そのように思いを馳せながら、知らず知らずのうちに祈るように手を組んでいたのに気付いたケルンは苦笑した。ひょっとしたら、そこかしこでひざまずいている人々の想いも、自分とまた同じなのかもしれないな、とケルンは思った。
 盲信的な祈りではなく、感謝のあらわれ。
「なに、手なんか組んじゃってさ。ん? 神君なんていないんじゃあなかったっけ?」
 ミューティースがケルンをからかうように、彼の周囲をぐるりと回った。
「俺だって、たまにはルードに感謝することだってあるさ」
 ケルンは素っ気なく言った。
「けど、あいつめ。いつの間にやらとんでもなく大物になっちまったんだな。俺なんか、相も変わらず冴えない羊飼い見習いだってのによ」
「そんなことないよ。あの子はいたって普通の子だよ。それにひょっとしたらケルン、もしライカと最初に出会ったのが君だったら、君が運命ってのに巻き込まれていたのかもしれないよ?」
「そうかもな。そう考えれば考えるほどやれやれ! つくづく運命ってやつは不思議なもんだよなぁ。俺達は運命に縛り付けられてるのか、それとも切り開いていってるのか、分かんなくなってくるぜ」
 言いつつもケルンは、おそらくどちらも間違いではないであろうことを直感していた。ケルンはそこで考えを断ち切り、スティンの仲間達の様子がどうなっているのかを探りに、人々の中をかき分け歩き始めた。

* * *

 ぼうっと立ちつくして空を仰いでいたルードは、ふと周囲を見渡した。それまで地に伏せていた仲間達もようやく立ち上がり、一様に空のさまを見上げている。ルードも彼らにならうように、再び灰色の空を見上げた。
 “混沌”が追いやられたことを象徴するかのような鈍色《にびいろ》の空に今、光の薄い皮膜が出来ていた。おそらくガザ・ルイアートの光の産物であろうその膜は、風に揺れるカーテンのように、輝きながらゆらゆらとうごめく。ライカの故郷、アリエス地方では“極光《オーロラ》”という空の現象をまれに見ることがあるという。その美しさを彼女から聞いたことがあるが、ルードの頭上に揺れるカーテンもまた幻想的な美しさを醸し出していた。
「極光……?」
 言葉が漏れる。それを聞いたライカは小さくうなずいた。
「やった!! やったんだね!!」
 沈黙を破り、真っ先に凱歌《がいか》をあげたのはジルだった。ジルは無理矢理に兄の両手をつかむと、ぐるぐると回り始めた。ディエルも最初は困惑していたが、しだいに今度は弟を振り回してやろうと躍起になった。
 それがきっかけとなったのか、張りつめた雰囲気が氷解していく。
「ルード……」
 サイファは、双子のじゃれ合う様子に顔をほころばせながら、ルードに声をかけた。彼女は、口を開いたまま次の言葉を探していたようだが、的を射た言葉が浮かんでこない様子だった。
 それはルードも同様。ガザ・ルイアートの力を行使した彼とは言え、自分自身が“混沌”を追いやった実感を未だ感じ取れないでいた。
「どうやら、“混沌”を追っ払ったらしい……な?」
 自分の為したことがどうしても確信出来ないためか、ハーンの顔を伺いながらサイファに答える。
「そのとおり。“混沌”は去ったんだ。君のおかげだね……」
 ハーンは言った。レオズスたる彼にとって“混沌”を目の当たりにしたのはこれで二回目だ。自分は“混沌”に魅入られてしまったのに、聖剣は――そしてルードはそれを打ち破ったのだ、どこか感慨深いものがあるのだろう。ハーンは口を真一文字にしめて黙りこくった。
「……羊飼いのみんな、これからどうしていくんだろうな」
 ルードは、何もかも消え失せた北の情景を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「それは私の考えることでもある。避難民の救済が最優先だろうな」
 サイファが言った。
「アヴィザノの執政官や地方領主達、それにみんなの力を借りて、これからのフェル・アルムの有り様を考えていかなければならないんだ。色々なことがあったけれども、私はここまで来て、良かったと思っている」
 才覚に欠ける凡庸な君主だと、彼女自身ぼやくことがあるが、サイファこそがこれからのフェル・アルムに相応しい指導者になっていくのだろう。

「ふむ。“混沌”は去ったか」
 聞き覚えのない声。ルードは――ライカ達も――周囲をあらためて見回した。
 すると、ハーンの横に老人と女性の姿があった。
 いつの頃から彼らはここにいたというのだろう? 先ほどまでは確かに、自分達を除いては誰もいなかったというのに。ハーンも、目を丸くして、突然のこの訪問者に驚いている。
 老人は目を細めてハーンの肩を叩いた。
「わしのことが分かるかね? 少し前には一緒に演奏をやっていたじゃろうに、まさか、もう忘れたとは言わせんぞ?」
「え……。あなたは確か、ディッセ?」
 ハーンは記憶の中にある名前を思い出した。ずいぶんと昔のようにも思えたが、あれはほんの十日ほど前のことだった。ディエルを連れてクロンの宿りからスティン高原に向かう途中の野営地にて、年老いたタール弾きとともに曲を奏でた。その時、レオズスの記憶が“ディッセ”と囁いたのだった。
 老人はにこりと笑った。
「見事、闇をぬしの力としたようじゃの、宵闇の公子よ。“混沌”と決別したそなたを見るのはまこと嬉しいことじゃ! われらディトゥアの長、イシールキアも喜ぶに違いないぞ。かつての裁きの時は、彼もそうとう心を痛めたのだからな」
「あ……マルディリーン?!」
 ルードは女性に向かって言った。彼女はルードの姿を確認すると、微笑んで手を小さく振ってみせた。
「お久しぶり、となるのかしらね、ルードにライカ。ここフェル・アルムで、こうやって会えるとは……嬉しいものね」
 そうしてマルディリーンはルードとライカに、またディッセはハーンに対し、相手を紹介した。
 ディトゥア神族のなかでも賢者として知られる慧眼のディッセ。その娘がイャオエコの図書館の司書長マルディリーンなのであった。
「ほれ。おぬし、これを忘れていったじゃろう?」
 ディッセは背におぶっていたものをハーンに手渡した。
「これは……僕のタールじゃないか!」
 ハーンは両腕にタールを抱えると、その感触を懐かしむかのように撫で、そして弦をつま弾いた。やや調子を外していたが、暖かみのある音がこぼれ出ていく。
「ありがとう! スティンで僕が……“混沌”を抑えようと家を飛び出してから、どうなったもんかって気になってたんだ!」
「まったく、タール弾きがなんたることよ! 命の次に大切な楽器を置いていくとはの」
 ディッセが高笑いをした。
「でも、なんであなた達がこの世界に入ってこれたんだい?」
 ハーンがディッセに問うた。ディトゥアとはいえ、閉鎖されたこの世界に入ってくることなど叶わない。ディエルとジルが訪れたのは意図的ではなく、半ば偶然によるものだった。
「空間の閉鎖が全て解かれたからよ、レオズス。だからこそ、普段は世界に干渉しないわしらも、ここに入り込めたんじゃ」
 ディッセは答えた。
「さあて、“混沌”を追いやるとともに、この世界を覆っていた結界――“見えざる天幕”が完全に瓦解したわけじゃ。しかし今のフェル・アルムは、きわめて不安定なものとなっている。しかし結界がなくなった今こそが、還元の時! “混沌”が再びやって来ぬうちにことを起こさねばならん。時機を逸すれば今度こそ、“混沌”に飲まれてしまうだろう」

「否。遅かれ早かれ、いずれは終焉を迎えるしかない」
 唐突にデルネアが言葉を放った。一同の視線はデルネアに集まる。デルネアはそれを気にかける様子もなく、ディッセに問いかけた。
「還元と言われたな。その方法を御身らはご存知なのか?」
 デルネアの問いかけに、ディッセもマルディリーンもかぶりを振った。
「わしは“慧眼”と言われておるが、わしの知識は全てイャオエコの図書館の蔵書によるもの。そして知る限りでは、書物の中には還元のすべは載っていなかった。そもそも世界を切り離す手段自体、アリューザ・ガルドには存在し得ぬもの。だからこそデルネア、かつて異次元――“閉塞されし澱み”に赴いたお前さんの知識が不可欠なんじゃ」
「我の知識だと。ふん。そのような矮小なものを、“慧眼”と称される御身が欲されるとはな」
 デルネアは口を歪ませ、自嘲するように小さく笑った。
「還元のすべを知るのが我だけだというならば、それはやはり絶望しか与えぬものだろう。――一週間! そう、一週間の猶予が必要なのだが、その間“混沌”が手ぐすね引いているとお思いか?」
「わしの読みでは――そなた達の時間にして一週間はとうてい保たぬじゃろう。今しゃべってる時間すら惜しい――」
「ならば全ては詮ないことだ。滅ぶほかない。還元のすべは、遙か南方のトゥールマキオの森においてのみ発動する」
 ディッセの言葉を塞ぐようにデルネアが言い放ち、地面に横たわった“名も無き剣”をつかんだ。剣はなおも蒼白く光を放っている。
「デルネア!」
 それを見たハーンの表情は硬くなる。デルネアを制止するため腰に差した剣をいつでも抜けるように、剣の柄に手をかけた。
「レオズス。御身が懸念するほどのことはない。我には戦う意志もなければ、それだけの“力”も失せた。……今はただ、剣を握っているに過ぎん」
 デルネアは言った。
「――フェル・アルム創造に際して、我はこの“名も無き剣”をトゥールマキオの大樹の根本に置き、術の発動に臨んだ。あの大樹は、さながらエシアルル王の住まう世界樹のごとく、大地の力を流出させていた。そこに剣の力が加えることで、転移の儀式が発動し得たのだ。“名も無き剣”。これこそがフェル・アルムを切り離したすべを発動させる媒体。そして逆もまた真なり。しかしその力は、大樹においてでなければ発揮出来ぬ。もっとも、我らがその地に赴くのに一週間はかかろうがな……」

 その時、ルードの裾がくいっと引っ張られた。見ると、ジルが何やら含みがありそうな表情でルードを窺っている。
 ルードには、ジルの言いたいことが分かった。
「……いいや。おれ達はやってのけるよ、デルネア。まだまだ不可能なんかじゃない。俺達には出来るよ。さ、ジル」
 ルードに背中を押されたジルは、てくてくとルードとデルネアの間に割って入り、わざとらしく咳き込んだ。
「おっほん! そりゃ、普通だったら間に合わないんだろうけどさ。でもだいじょうぶ! ここにおいらがいる限りね!」
 なるほど、とサイファが小さく相づちを打った。
「小僧?」
 何者だと訝しむようにデルネアが言った。
「ああ、おいらはジル。こう見えてもトゥファール様の使いなんだ。んで、おいらは遠かろうと何も気にせずに、空間を渡れるわけなんだよなぁ」
 ジルはさも得意げに胸を張ってみせた。その割に、神の使徒であるということを何事もないようにさらっと言いのけるあたりは実に彼らしいが。
「あんまり役に立つしろもんじゃねえけどな」
「ぐ……」
 ディエルに話の腰を折られたジルは小さく呻くが、それでも気を取り直してデルネアに言った。
「どう? おいらに大樹の場所を教えてくれれば、今すぐにみんな連れてくよ?」
「ジルの言葉は本当だ、デルネア。この子にはそういう力があるのだ」
 サイファがジルの両肩に手を置き、デルネアと向き合った。
「私達は表向きの考え方こそ違えど、根本では一致するはずだ。……今さっきルードも言っていたように、悲劇を免れるためにフェル・アルムを創造した貴君にとって、世界が消え去るのは耐えられないと思うけれども、いかがだろうか?」
 デルネアはぎろりとサイファを見やった。
「もとより、小娘に説教されるいわれなど無いが――小僧、場所を教えろと言ったな」
「うん。でもどこそこにあるって言葉で説明されても、おいらにはぴんと来ないから……かといって地図なんてここじゃあ書きようがないし……そうだね、頭の中で強く念じてちょうだい。おいらはそれを読みとるからさ」
 デルネアは否定しなかったので、ジルはそれを了解の印と見たのだろう。
「よっし! それじゃあみんな集まって、おいらにしっかりとつかまって! 転移してる最中に、誰かが空間の狭間に取り残されても、おいらにゃあ探しようがないからね。最後の大仕事、みんなで見届けよう!」

「オレは行かない」
「そう……ええっ?!」
 ジルは飛び上がらんばかりに激しく驚いた。当然、ディエルも一緒に行くものとばかり思っていたのだろう。
「ちょっと兄ちゃんてば。どうして?」
「……なあデルネア。このおっきな空間を元に戻すっていうんだから、相当な反動ってのが発生するんじゃないのか?」
 ジルの喚き声をよそ目に、ディエルは冷静にデルネアに訊いた。
「創造した時と同様の力は起こり得るだろう。そしておそらくはこのウェスティンの地に多くの力が集中して巻き起こる。空間の切れ目がすぐそこにあるわけだからな」
「……ジル、聞いただろう? オレはここに残って、その反動とやらを抑えてみせる」
「そんな、兄ちゃんとまた会える自信なんて……」
 涙目になるジル。ディエルはそんな弟の額を軽く小突いた。
「だったら! 間違いなくみんなを送って、きちっとやってのけて、それからここまで戻ってこい! ……オレを送った時みたいに、突拍子もない場所に行っちまうんじゃあないぞ」
 ジルは黙ってうなずいた。
「というわけだ、ハーン兄ちゃん。こいつのこと面倒見てやってくれよ? さすがに間違いをやらかすなんてことはないと思ってるけどさ」
「ディエルも気を付けて。多分、凄まじい力に立ち向かうことになるだろうから無理は禁物だよ。……また、落ち着いたら今度、タールを聴かせてあげるからさ」
 ハーンが言った。
「うん……いつになるかは分かんないけど、そうしたいよ」
 ディエルはやや複雑な笑みを作った。
「まあ、兄ちゃんにだったら会えるだろうね……」
「ねえ……ジル。君には申しわけないんだけれども……私もここに残るよ」
 サイファは、ジルの肩に置いた手を、彼の頭に持っていき愛おしむようにそっと撫でた。
「姉ちゃん……?」
 サイファを見上げたジルの顔はすでに涙に濡れていた。兄の激励に心打たれたものがあったのだろう。それゆえに、サイファは言うべき言葉を言ってしまうのをはばかれたが、それでも言うしかなかった。
「私はドゥ・ルイエだ。国王として、まだ私にはここでやるべきことがある。北方には戦い疲れた烈火がいるだろう。私は彼らに撤退の命令を下さなければならない。私の命令なくして彼らは動けないからな。それから、避難していった人達にも、みんなの無事を伝えなければ。だからここで……」
 つうっと、サイファの頬に涙が伝った。
「……また、宮殿に遊びに来てくれれば、いつでも歓迎するぞ? リセロやキオルの困った顔っていうのも、それはまた面白いものだしね」
 ジルは肩を震わせながらうなずいた。が、おそらくそれは叶わないであろうことを二人は分かっていた。サイファがドゥ・ルイエの名を冠しているように、ジルもまた、全てが終わったあかつきには彼本来のいるべき場所に還らなければならないのだから。そしてそこは人の住まう地ではない。
 サイファはジルと固く握手をすると、すっと離れた。ジルは目をこすり、しばらくうつむいていたが、気を取り直して――しかしやや寂しげな――笑みを浮かべた。
「じゃあ今度こそみんなで行くからね! さあ、おいらにしっかりとつかまっていてよ!」

 トゥールマキオの森へと向かう面々――ルード、ライカ、ハーン、〈帳〉と、デルネア、それに隷達がジルを取り囲んだ。ルードは、ウェスティンの地に残る仲間達を見つめる。
「じゃ、行ってくるよ……ディエル、サイファ。本当にありがとうな」
 サイファとディエルはともにうなずいて返答した。
「父様と私も、ここに残ることにするわ。微力ながら、ディエルの手伝いが出来ると思う。それにこちらのお嬢さん――サイファの手伝いもね」
 マルディリーンが言った。
「ルード、それにライカ。もう私には貴方達に助言するものは何一つないのだけれど……あとは貴方達自身で見届けなさい。そして今度、イャオエコの図書館においでなさいな。貴方達とはゆっくりとお話がしたいものだわ」
「さあ、デルネア。おいらに場所を教えてちょうだい」
 ジルに促されると、デルネアは何も言わずに目を閉じた。ジルはデルネアと向き合う。しばし瞬き一つせずにデルネアの顔を見上げていたが、
「うん……分かったよ。じゃあ、いよいよ大樹に行くからね!」
 赴くべき場所を把握したジルは、明るく言ってのけた。それが、から元気だとあからさまに分かってしまうのは不憫だった。
 ルード達はそれぞれ、ジルの腕につかまる。ジルは回りの様子を見て、最後にサイファのほうを見て、そして口を開き――ひとこと“音”を発した。

 その瞬間。
 ルード達の姿はウェスティンの地から忽然と消え失せた。

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十. トゥールマキオの森

 異変は“音”とともに起こった。
 周囲の様相がとぐろを巻きながら、ぐるぐると溶け合っていく。あまりに奇妙なさまにルードは驚きながらも、ジルの肩をぎゅっとつかんだ。ライカも同様にジルの腕にしがみつく。ジルは顔をしかめて二人を見た。
「痛いってば! ……そんなに強くつかまなくたって空間の隙間からは落ちやしないって……」
 やがてウェスティンの情景が跡形もなく消え失せた。かわってルードの視界に映るのは、まるで目を閉じて太陽を見上げている時感じるような、曖昧としたまばゆさ。それすらも、奇妙な浮遊感が訪れるとともに暗転していった。

* * *

「ルード、だいじょうぶ? ……おーい! 返事しろってば」
 ジルに声をかけられて意識を取り戻したルードは、自分が呆然と立ちつくし、深緑の空間を見ていることに気付いた。
 果たしてどのくらいの時間が経ったのだろうか。それは一刻ほどとも、ほんの瞬きをする間とも感じられた。
 目に映る、この緑色はなんだろう?
 ルードが疑問を感じると同時に、焦点のぼやけたかのような曖昧な様相は、次第に鮮明な風景へと移りゆく。
 大地を感じる力――セルアンディル特有の力と嗅覚が、遠く離れた地に辿り着いたことを彼に告げた。
 森の緑と匂いは、静寂とともにルード達を包み込む。それらはどこか暖かく柔らかい印象があり、スティンの森の雪山特有の装いとはどこか異にしているのが感じ取れる。
 そして――眼前には、他の木を圧倒するまでの存在が――大樹があった。

 ルード達は、運命の旅の終着地、トゥールマキオの森に転移したのだった。

* * *

 畏怖。
 人は大樹に畏れの心を強く抱くことだろう。
「わあ……」
 周囲からも誰となく、自然と声が漏れる。
 ルードにとっても、この木の雄大さにはただ圧倒されるだけだった。幼少期、故郷で遊んでいた大きな木よりも、またスティンの山で目にしているどんな木よりも遙かに大きいそれ。幹の中にルードの家一件くらいはやすやすと入ってしまうかもしれないほど太い。
 ごつごつした木肌からうかがえるのは、木が数えたであろう歳月の深さ。大樹はフェル・アルムが創造されるよりもさらに前から、アリューザ・ガルドの歴史を静かに歩み、このうっそうとした森を見つめてきたのだ。
 見上げると巨大な幹からは無数の枝が四方八方に伸び、青々とした葉を覆い繁らせている。ルード達のいる場所が薄暗く思えるのは、これらの枝によって空が遮られているからだ。おそらくこの上空は、ウェスティンの地と同様の虚ろな灰色を映しているのだろうが、その様子を伺い知ることは叶わない。
 そしてセルアンディルの感覚がルードに伝えてくる。広大な大地の力が凝縮されて樹の中に蓄えられており、どっしりとした木の根本からは、数多の大地の力――龍脈が森の全てを包むかのように放たれているのだ。
 ルードの足下にある大地は、水を吸って湿っており、じとじとした感触が靴底からも伝わってくるが、それは心地よいものだった。この感触は“混沌”によって腐ってしまった大地のぬめりとは違う。確固たる生命の躍動はルードに、この森が持つ力強さと優しさを教えてくれる。

 〈帳〉とデルネアは、大樹の根本にて静かに対峙していた。
 沈黙が周囲を包む。
 両者はもはや威圧感を発せず、ただ向き合うのみ。緊張した感など無く、むしろ穏やかさすら感じられるものの、今この両者に口を挟める者などいないだろう。人なつこいジルが〈帳〉に声をかけようとしたが、その雰囲気のためにためらった。ルード達には、固唾をのんで両者を見守るしかなかった。

 歴史はついに、二者に委ねられる。
 大地を転移し、空間を閉鎖する天幕を創り、そして悲しみのあまり隠遁した〈帳〉。
 虚構の歴史を捏造してまで、望む世界を築いたデルネア。
 フェル・アルムを創造した両者によって、フェル・アルムは還元されようとしている。
 還元。
 それは〈帳〉にとって、自らが“罪”と感じていることの浄化だろう。またデルネアにとっては悲劇であり敗北だった。
「ここが還元の舞台、トゥールマキオの森。そしてわが住まいたる大樹だ」
 デルネアが木を見上げて語る。その口調からは傲慢さを感じさせなかった。
「ふむ……私がこの森に来るのも十三年ぶりとなるのか。あいも変わらず美しい森だ。私がエシアルルであることを実感させてくれる……」
 と〈帳〉。感慨深そうに両の目を細めた彼は、このトゥールマキオの森と大樹に自分の過去を重ねているのに違いなかった。

 アリューザ・ガルドにはアブロットの大森林という広大な森が広がっていると聞く。そこが“森の護り”エシアルルの故郷である。その森の中央に存在する巨木は“世界樹”とよばれ、彼らの長にしてディトゥア神族のファルダインが住まうのだ。

「とうとう私達は、フェル・アルムの結末を迎えることとなるのだな。デルネアよ。慧眼のディッセが語ったことは真実だ。空間の封鎖が解かれた今こそが還元の唯一の機会であるが、いずれ再来するかもしれない“混沌”から世界を守るすべなど何もない。だからこそ猶予がないのだ。私達は――」
「分かっている」
 〈帳〉の言葉を遮って、デルネアが言った。
「このフェル・アルムを創り上げた時と同様、還元のためには、術者達の魔力と、大地の力。そしてアリューザ・ガルドには存在し得ない異世界の力を使用することとなる。この三つの力があってこそ、還元のすべは発動する。術者とはすなわち〈帳〉よ、お前と隷どもだ。大地の圧倒的な力を持ち得ているのは大樹。そして異世界の力は我の剣が有している。我はこの剣の力と、大樹の力とを増幅させよう」
 かつてデルネアが“閉塞されし澱み”という異空間で得た“名も無き剣”は、主の意志を感じ取ったかのように、ぼおっとした蒼白い光を刀身にまとった。
「剣の力に、魔導の威力を相乗させるのだな」
 〈帳〉が言った。
「では、われら術師が発動させることばを教えてほしい」
 それを受けてデルネアが口を開いた。
「六百年前、魔導師達とお前が転移の際に唱えた言葉を覚えているか? 還元を発動させるには、転移の際と対になって存在している“原初の色”を紡ぐこととなっている。我は魔導には明るくないが、お前ならば分かるだろう。どういった“色”を、ことばを紡ぐべきかを」
 かつて“最も聡き呪紋使い”とも“礎の操者”とも称されていた魔導師はうなずいた。
「そう。転移のすべを発動する際には、アリューザ・ガルドに存在する“原初の色”を何色も複雑に編み上げて術の力場を作りあげていた。あの時抽出した“原初の色”と対となる“色”を、この森から抽出すればいい。そうして作りあげた力場を、残り二つの力と融合させ……発動、となるのか」
 〈帳〉はぐるりと周囲の景色を眺め、しばし感慨に耽っていたが、口を開いた。
「では、還元のすべを発動させる!」

 〈帳〉の言葉を聞くやデルネアは剣を携え、ひとり巨木のうろの中へ入っていこうとする。うろから上ったところに彼の住まいがあるのだ。
「デルネア、貴公は我々とともに立ち会わないのか?」
 〈帳〉が呼び止めた。
「……我はこの中に入り、大樹の力を喚び起こすのだ」
 デルネアは振り向くことなく言って返した。
「力を喚び起こすのならば、ここにいるままで十分ではないのか? なぜわざわざ樹の中に入るというのだ」
 〈帳〉は怪訝そうな顔でデルネアに問いかけた。
 デルネアは歩みを止めたがやはり振り返らず、〈帳〉に背中を向けたまま言った。
「――〈帳〉よ。我は、敗れたのだ。もはやそのことについては語りたくもないが。……だがな、我《われ》が一つの世界を望みのままに創造し調停していた、ということ。しかもこの世界には魔物が存在せず、さらには貧民街と呼べるものもない理想の国家であるということ。これらの事実を覚えておくがいい。何より、遙か太古にアリュゼルの神々が行った世界創造を、我は成し遂げたのだ! 我は実に至福であったぞ!」
「まさかデルネア。貴方は……」
 その言葉に感じるものがあったのか、〈帳〉の表情は急に険しいものとなる。
「待て、デルネア!」
 彼はデルネアの左腕をつかみ、その場に押しとどめようとした。
「ならば私も貴方と同様の行動をとろう。この大樹の中に入り、貴公とともに術を発動させよう……」
 その言葉は〈帳〉らしくなく、せっぱ詰まったかようにもルードには聞こえた。
 不意に、ルードは急に胸元が痛くなるような感覚を覚えた。それが何によるものなのか当のルードでも分からないが、深い哀しさを感じた――。
 デルネアは強引に〈帳〉の手を振りほどいた。
「デ……ルネア……」
 〈帳〉は呆気にとられたまま、空となった自分の手をじっと見つめるほかなかった。

 デルネアは再び歩き始める。〈帳〉やほかの者に背を向けたまま、彼は木のうろの中に姿を消そうとしている。うろに入る手前で彼は立ち止まり、皆のほうを振り返った。
 その表情――デルネアの顔からは険しさが一切消え去り、清々しさすら伺える。だが彼の眼差しはルード達を見ているのではない。トゥールマキオの森すら越えた、どこか遙か遠くを見据えているようだった。
 デルネアの表情を見てルードは、なぜ自分の胸がきりきりと痛むのかを悟った。これは訣別なのだ。デルネアと〈帳〉は、今生出会うことはあり得ない。
「――“ここ”にとどまるのは我ひとりのみだ。他の者の介入は――ならぬ。それがたとえウェ……〈帳〉であってもな」
 デルネアの言葉を聞きながら〈帳〉はぐっと堪えるように、唇を一文字に結んでいる。
「……分かった。デルネア……」
 震えそうになる声を抑えているのが傍目からも分かった。
「〈要〉《かなめ》様ぁ!」
「どうか、どうかおひとりだけで行かないで下さいまし! 我らもお供つかまつります!」
 口々に隷達がデルネアに呼びかける。主に対する忠誠心以外、感情という概念そのものすら放逐してしまった彼らに感情がよみがえったのだ。皆一様に銀色の仮面で覆っているため、彼らの顔を見ることは出来ないが、声を聞くに彼らの中には老人もいれば、まだ声も変わらないような年端のいかない少年も、女性もいるようだった。彼らは突如わき起こった感情を抑えられずに、幼子のように泣き喚きながらデルネアの名を呼んでいる。
 デルネアはそんな哀れな彼らを見やった。
「隷どもよ。我ではなく、今は〈帳〉の助力となってくれ。彼の魔力ではいささかこと足りぬからな。貴様らの魔力が必要なのだ。では、な……」
 そう言うと、彼は小さく手を挙げ――大樹の中へとひとり消えていった。
 それは友人に、再会を期した別れをする時のような、ほんのさりげない仕草であった。

「ついに……ついに、フェル・アルムで貴方は私の名を呼ぶことがなかったな。我が友よ……」
 隷達が慟哭する中、ぽつりと〈帳〉が漏らす。
 ライカは木のうろを見つめたままつぶやいた。
「デルネア……悲し過ぎる人なのね……」
 その言葉は、ルードの胸奥にしみた。
 ウェスティンの地でデルネアと剣を交え、そして“名も無き剣”が自分の体に突き刺さった時、ルードはデルネアの過去の姿をかいま見た。
 彼の傲慢さの影には、どれほどの悲しみが潜んでいたというのだろうか?

* * *

 還元のすべが始まる。

 まずは〈帳〉によって“呼び出しのことば”が放たれた。〈帳〉や隷達を取り囲むようにして、緑色の力場が半球状に形成される。
 〈帳〉は奇妙な抑揚をもってさらに詠唱を続けていく。彼の腕が踊り子のようにしなやかに宙を舞う。その都度、周囲に形成された半球状の力場には、トゥールマキオの森が内包する魔力の“色”が塗り込まれていく。
 半球の中に“色”を織り込んでいく〈帳〉を、ルード達は静かに見守っていた。ライカはルードの袖をつかむと、大樹の上方を見るように、と彼に促した。大樹を見上げたルードは、その生い茂る葉の全てが、煌々と蒼白い光を放っているのを見た。
 蒼い光は、デルネアが所持していた剣が放つ蒼白い光を想起させるもの――おそらくデルネアは幹の中で、大樹の持つ力と剣の持つ力を融合させたのだろう。光はやがて枝、そしてついに幹までを覆い尽くし、さらに周囲の木々にまで広がっていく。薄暗い深緑の木々はいつしか、幻想的な蒼白い光を放つようになった。
 ふと〈帳〉は詠唱を中断し、木々の様子一本一本を見て取る。そして彼は大樹に向き合う。楽師達の奏でる楽曲が予期せぬ事故によって中断されたかのような、そんな奇妙な静けさ。詠唱を止めたまま〈帳〉は無言を押し通している。彼は樹の内側にたたずんでいる旧友を見ているのに違いない。〈帳〉の胸中はいかなものなのだろう。そしてデルネアは今、どのような表情を浮かべているのだろうか?
 ほうっと。〈帳〉はゆっくりと息を吐き――意を決したように身を翻した。彼は両手を力強く天に突き上げる。
 一瞬にして魔導の力場は膨張し、大樹を、そして森そのものをも覆い尽くした。わあん、と、巨大な鐘が幾重にも鳴動するような音が周囲を包み、森の蒼が半球に溶け込んでいく。
 音はなおも大きくなり、耳を塞いでいても容赦なく響いてくる。蒼白い光をも取り込んだ半球は、今度は奇妙に収縮を繰り返すようになった。
 いよいよその時が訪れたのだろう。
 還元の時が。
 そう思ったルードはとっさに〈帳〉の名を呼んだ。巨大な音圧に阻まれ、自分自身の声すら聞き取れないが、〈帳〉は意を介したのか、ルードにうなずいてみせた。

 そして――〈帳〉によってもたらされるのは魔導の締めくくり。“発動のことば”。
 〈帳〉の放ったその声は、鳴動する音よりも遙かに大きく周囲に響き渡る。
 と同時に、包み囲む天幕のような球は一気に凝縮し――〈帳〉の手の中で一点の白い光となり――そして爆ぜた!

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十一. 発動

 ルードの足下から地面の感触が消え失せたかと思うと、次の瞬間とてつもない衝撃が――ガザ・ルイアートが“混沌”をうち破ったのと同様か、それ以上の衝撃が――空間を揺さぶる。まるで足下で爆発が起こったようにルードの体は宙に舞った。
 四肢に言いようのない激痛を覚えながらも、ルードは皆の姿を探した。ほんの一瞬、ライカとハーンの姿を見いだし、お互いの顔を見合わせる。が、安堵するいとますらルードには与えられず、彼らとは遠ざかってしまう――
 もはや自分自身の意志だけではどうしようもなかった。ルードはなんとか彼らを見つけだそうと精一杯もがくものの、やがて視界は濃霧に包まれたように何も見ることが出来なくなった。またも爆風のような衝撃が起こり、無情にも彼を吹き飛ばす。

 そして――ルードの体は放たれた矢のように、猛烈な速さでまっすぐ吹き飛ばされていく。周囲の全ては白一色となり、ルードの体はその空間を突っ切り、飛んでいくのみ。
 人が雲の中を飛ぶとしたら、このような感覚を覚えるのかもしれない。あるいは翼を得たライカも――。
 奇妙この上ない空間である。こんなにも速く飛んでいるのに周囲は全くの静寂に支配され、風を切る音すら聞こえてこないというのだから。
 この空間はトゥールマキオの森でも、ウェスティンの地でもなく――もはやフェル・アルムでもなかった。
 自然の理《ことわり》からかけ離れたここに存在するのは、“白”という単色のみ。それ以外の色も音も存在しない純白の中にあって、ルードだけが異質の存在となっている。
 先頃のデルネアとの戦いの最中、ルードは混濁とした暗黒の空間に陥ってしまった。もしかすると今自分がいるこの空間は、その時の暗黒と表裏一体となっている世界なのかもしれない。
 四肢を襲っていた激痛も、この空間を飛んでいく中でいつしか消え去っていた。否、視覚を除いた感覚の一切が、この空間では拒絶されているようである。
 ただ一つ明らかなことは、自分が今までどおりの自分として――肉体を持った一人の人間として――生きているということ。今のルードが感じるのはそれが全てであった。

 ルードは心のなかで何度となく悪態をつき、沸き上がってくる焦りを必死にひた隠そうとしていた。
 十七年の人生の中で、自分の意識が明瞭であることが、これほど疎ましく思ったことはない。どうあがこうとも今の状態が好転しないということに絶望するしかないのだから。このまま自分はどこへ向かって行くのだろうか? 空間はどこまで行っても白一色のみ。果てなどありはしないのかもしれない。
 そして何よりルードの心を締め付けるのは、自分以外に誰もいない、という孤独感。それを意識するたびにルードの胸は張り裂けそうになるのだった。〈帳〉や隷達、ハーンもそしてライカも、還元のすべが発動したと同時に散り散りとなってしまい、今となっては所在など分かろうはずもない。
(まさか、還元のすべは失敗したんじゃないか?!)
 ふと浮かんだその不安は、次第次第にルードの心を陰鬱に覆い尽くす。
 またルードは、かつて〈帳〉が語った言葉を思い出していた。
『――ついに空間の隔離、転移の術は発動したのだ。だがそれと同時に、予期せぬ強大な反動力が働いた。かたちを持たぬ力が我々に襲いかかり、幾多の者が衝撃のため吹き飛ばされて空間の狭間の餌食になり、力を直撃した者は跡形もなく消え失せてしまった――』
 アリューザ・ガルドからの転移に際して、途方もない反動が襲い、そのために〈帳〉の愛する人は亡くなったのだ。
 ルードはかぶりを振った。
(ろくなことが思いつかない! いっそのこと、こんな意識などふき飛んでしまえばいいのに!)
 白一色のなかを猛烈な速さで空を切りながら、ルードの心はさらに苛まれていく。

 いやだ。
 いやだ。
 せっかくここまで辿り着いたってのに、あと一息のところで全てが無駄になってしまうのはいやだ。
(何より俺は……失いたくないんだ!)

 白い空間の中で彼は、薄い紫色のさした銀色を――彼女の柔らかな銀髪を想起していた。ルードの唇から幾度となくこぼれでる言葉は次第次第に確固とした音となっていく。それは彼女の名前であった。
「……ライカ!」
 ついにたまらなくなり、ルードは大声で叫んだ。音の存在しない空間の中で“ライカ”という響きが唯一の音となって支配する。そして彼女の名を呼んだ途端、ルードの体は彼の望むとおりにぴたりと止まり、宙に浮遊するようになった。
 天も地もあり得ない世界の中で、彼はひとり立ちつくす。
 何かが起こるに違いないという期待を持ち、ただ待つ。

 その時。
「見つけた! ルード!」
 ジルの声が頭上から聞こえた。
 途端――白い空間はいっぺんに霧散した。

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