『フェル・アルム刻記』 第一部 “遠雷”

§ 第四章 真実の断片

一.

 空は一面どんよりとした鉛色をしており、山々のほうからは、うすぼんやりとした霧さえ降りてきていた。雨が止むようなきざしは見うけられない。旅人となったルード一行は、ぬかるんだ地面に注意しながら馬を歩めていた。不思議なことに、一行の周囲には透明の幕が覆っているかのように雨が避けているようだった。

「酷いぜ、ハーン!」
 ケルンの家が見えなくなってしばらくは無言を通していたルードだが、そのうち我慢出来なくなって不満の声をあげた。
「……ああ、やっぱり怒っている? ルード君」
 ルードとならぶようにして馬を進めていたハーンは、申し分けなさそうにルードの顔を窺った。
「当たり前だろうに。突然過ぎるぜ、出発するにしても!」
 ルードは憮然《ぶぜん》と言い放つ。後ろに乗っているライカは、黙って成り行きを見守っているようだった。
「せめて、叔父さん達に挨拶してかなきゃさあ……」
 ルードはぼやいた。
「ううん……。そういうふうに突かれると僕もつらいところだなあ……」
 ハーンは、ふくれっ面をしているルードの顔色をちらりと見る。人の気配が無いことを確かめてから彼は話し始めた。
「こういう状況じゃあないんなら、行楽もかねてゆっくりと旅をしてさ、〈帳〉のところに着いてから彼を中心にじっくりと話すつもりだったんだけどね。こうなってしまったんじゃあ、今すぐ話さないと君も納得してくれないだろうね」
 ハーンは言葉を続けた。
「ごめんなさい。でもね、君達を取り巻く事態が、僕の予想以上に急迫してきたことが分かったんだ。一刻も早く旅立つ必要が出てきたと言うわけなんだよ。君や、君のご家族、それに友達にはかなり気分を害することになっただろうけれどもね……。取り急ぎ、君の家族――ナッシュの人々に対しては、どうして僕らが旅立つのか、という内容の手紙を置いてきたよ。もちろんあの人達にしてみれば、僕の行動が勝手で不可解だと思って当然だろう。今後、僕はこの村に出入りするのすら疎んじられるかもしれない。だけれども、僕自身にとって不利益なことがおころうと、それは些細なことだ。このまま君が村に残っていたんじゃあ、もっと大きな事件……いや、惨事が起こるかもしれないから」
 ルードはそれを聞いて、ハーンが何の考えも無く飛び出したのではないことにとりあえず憤慨を押さえ、幾分やわらかな口調で彼に訊いた。
「でもさ、俺が家族に挨拶する間も惜しいほど、急ぐ必要があったっていうのはどういうことなんだよ?」
 それを聞いたハーンは眉をひそめた。
「村に留まっていることが非常に危険だったからさ。ともかく早く出る必要があったんだ。出てしまえば危険は少なくなる。村のみんなにとってね。……一刻ほど前のことだ――」
 そう言ってハーンはいったん言葉を切った。そしてルードのほうへ馬を寄せ、幾分小声で語った。

「これから言うことは、本当に肝に銘じて欲しいんだ。ルードだけじゃない。ライカもそうだよ」
 ハーンは、ルード、ライカ双方の顔を見る。二人はうなずいた。ハーンは、再び言葉を続けた。彼は一刻前、ベケット村で体験したことを語り、ハーンが酒場を後にするところで終わらせた。
「なぜ僕がストウに、『あの旅商の男とはしゃべるな』って言ったか。それこそが、礼を反してまで急いでる理由なんだよ。……ま、どうあれそのうちあの男には分かってしまうだろうけど、とにかくその旅商には、普通の人間には無いような雰囲気があった。もちろん当の本人は、それを抑えているわけなんだろうが、一瞬、あまりに強い殺気――目的を達成しようとする執念――が感じられた。その時僕には分かった。彼は旅商を装った刺客だ、とね」
「刺客!?」
 ライカが突然大声を出したので、背中でそれを聞いたルードはびくっとした。ハーンは静かに、と指で合図した。
「なんでそんな人が出てくるのよ? ……わたし達が狙われている、とでもいうの? なぜ!?」
 幾分声を小さくしてライカが言う。
「察しがいいね、ライカ。恐ろしいけどそういうことさ。あの連中が出てくるなんて本当に歴史上まれだけども」
 と、ハーン。
「ちょっと待ってよ、俺にはなんだかさっぱり分からないんだけど……『しかく』っていうのは何なんだ?」
 ルードだけではない、おそらくほとんどのフェル・アルムの民は、闇に潜むようなことを生業とする人間を知らない。数百年にわたって、表向き平和に過ごしてきたのだから。十三年前のあの忌まわしい戦いを除いては。だから、ルードの反応はごく当たり前の反応だった。
「刺客ってのはね、暗殺者――くだいて言うと、目標とした人間を誰にも分からないように殺してしまうことを仕事にしている人間のことさ」
「えっ?!」ルードにはその言葉はあまりに衝撃的だった。だがハーンは続けて言う。
「ライカの言うとおり、その刺客は確実に君達を狙ってきている。帝都アヴィザノ――フェル・アルム中枢が指示を出したんだ。“疾風”と呼ばれている彼ら中枢の刺客は、歴史の中で暗躍していた、と〈帳〉から聞いている。世界の平穏を保つのに、『常識』からかけ離れた存在は危険だ、と考えたんだろうね。〈帳〉が言うには、君達が体験したような、不可思議な出来事を知っている人間は今までの歴史の中で存在していたし、彼らの中にはそれを人々に伝えよう、と試みた人もいるらしいんだ。けれども、歴史の表にはまったくといっていいほど出ない。なぜなら、そのたびに刺客が、邪魔な彼らを消していったからさ……」
 ハーンの言葉を聞いたルードは、全身に鳥肌が立つのを感じた。あまりの衝撃のために卒倒しそうだ。
「……なんてこと……」
 ライカはただそれだけ、感情を込めずぽつりと言った。
「連中の働きもあって、フェル・アルムは数百年にわたって、これといって大きな事件もないようにみえたし、人々も平穏無事に過ごしてきた」
 ハーンはそう言うとふと悲しそうな翳りをみせ、遠い目でどこともなく、遥か前方を見やった。雨は先ほどに比べると収まってはいたが、スティン山地から降りてくる霧は、その濃さを増している。

「でもね、一つだけとてつもない悲劇が起こってね。それは全ての人の知るところとなった」
「それって、あれかい? 十三年前の……」
 ルードの言葉を聞いたハーンはうなずいた。
「あの……」ライカがおずおずと尋ねる。
「わたしはフェル・アルムのことがよく分からないから、出来れば教えてほしいんだけど……その事件は何?」
「そうだなあ……」
 ルードが後ろのライカを見るように、首を向けて語りはじめた。十三年前のあの悲劇を――“ニーヴル”の反乱――を語ったのだった。幼い日の自分の体験も交えて。ライカはじっとそれを聞いていた。ルードの語りが終わると、彼女は口を開いた。
「ご、ごめんなさい。思い出すのもつらいのに話してくれて」
 ライカは恐縮して言った。
「いや、謝ることなんてないさ。こんな時にくよくよしてもいられないしな」と、ルードが逆に慰めるように言う。
「うん……ありがとう……」
「さて、と……僕が話してもいいのかな? 確かにニーヴルの事件は終わった。戦争という最悪のかたちでね。事件が起こった原因を知っている人は、まずいないだろう。これもきわめて不思議な出来事だったのだから。端的に言ってしまえば原因は――これさ」
 ハーンはそう言うと、指を振って周囲を指し示した。
「そう、そうだよ! さっきから訊こう訊こうと思ってたんだけど、これだってとんでもなく不思議じゃないか!」
 ルードが声をあげた。
「こんなに雨がざんざか降ってるのに、なんで俺達の周りでは避けるようになってるのさ?」
「これって“術”なんでしょ、ハーン?」ライカが言う。
 それを聞いたハーンは少し意外そうな顔をしてみせる。
「へええ、ライカは知っていたのか。これは……そうだなあ、何て言えばいいのかな、うーん」
 ハーンは紡ぐべき言葉をしばらく考えていた。
「言い伝えに出てくる“魔法”だよ。精神統一をして体内に宿る気力を外に出して、なんかをきっかけに発動させる――」
 そんなハーンの言葉をルードは今一つ理解しかねた。
「まあ、色々な力を顕現出来るというわけさ。分かんないのは無理もないよ。この力はニーヴルの元となった事件ではじめて露わになって、そして歴史の闇に葬られたのだから、知っているほうがおかしいかもね」
「でもさ、ライカは知っていたんだよな。それに、かまいたち。あれも術とやらなのか?」ルードが言う。
「ううん、わたしのは正しくはそうじゃないの。術は人に宿る“色”そのものを力の根源にしているんだけど、わたしのは自然の力を借りることによって現しているから。わたし達アイバーフィンにとってみれば『風』の事象界の“色”を用いてるのだけど」
 ライカの言葉にまたもルードは唸る。
「世界にはこういう不思議な力があるんだ、というくらいに知っていてくれればいいよ」混乱したルードの思考を救うようにハーンが言った。そして声色を落とす。

「――さてと。ここからはしゃべるのがちょっとつらいな……ルード君もそうだったろうけれどさ。十三年前のアヴィザノでの暴動の実態を話そうか。
「まず、何がしかのきっかけで術の力を覚醒させた人々が、自らの力を暴走させてアヴィザノの街を破壊してしまった。その時に何人かは疾風の手にかかって殺されてしまったけれど、多くは逃げおおせた。また、時を同じくして、ほかの地域でも同じように覚醒した人々がいた。彼らはセル山地、ルミーンの丘で集結して疾風達とあたることとなった。疾風も、術を使う者達を脅威と感じて、剣を交えて戦うのに躊躇した。そしてしばらくは休戦状態となったんだ。
「しかし術使い達はその間、自分達を追いやった旧態依然とした中枢に対し敵意を強め、いずれは打倒する――そんな負の感情を強めていったんだ。そして覚醒はしていなくても、この世界のあり方に何らかの不満を持つ人々を説き伏せ、次第に大きな勢力にしていった。
「機が熟すとみるや、彼らは中枢を打倒する集団“ニーヴル”として兵を挙げて一路、アヴィザノを目指して進軍を始めた。それに対して中枢も挙兵する。アヴィザノ郊外で戦いが始まるわけだけれどもニーヴルは善戦し、“烈火”と呼ばれるフェル・アルム最強の軍団をもアヴィザノまで後退させた。
「でも、アヴィザノは幾重にもわたって塀が囲んでいて非常に強固で、そう簡単にはニーヴルも攻め入ることが出来ない。中枢はなるべく戦いを長引かせようとした。そしてその間に各地に呼びかけて反逆者を倒す人間を集めようと画策した。策は効を奏し、烈火を主軸に置いたフェル・アルム軍はついに、クレン・ウールン河流域のウェスティンの地までニーヴルを追いやった。ニーヴル側も、アヴィザノから内通させようとするなど、色々手を打ったが、そのような点では中枢のほうが数段上で、結局は打破されたんだ。
「ついにウェスティンで決戦の火蓋が切られた。……そして、長い長い戦いの後、ニーヴルはフェル・アルム軍によって全滅した。でも勝ったとはいっても、フェル・アルム側にも多くの死者が出た。それに、この戦いに巻き込まれた近隣の町や村も壊滅してしまった。多大な犠牲を払って、フェル・アルムの今日がある、というわけだよ。そして事実は、勝った側の都合の良いようにねじまげられてしまった……」

 いかに明朗なハーンとはいえ、真相を話すのは非常につらそうで、終始沈んだ調子だった。
 重く立ち込めた鉛色の空。三人の胸中はまさにそれだった。
 しばらく彼らはうつむいて馬を進めていた。とぼとぼと。
「そして、僕もニーヴルのひとりだった……!」
 意を決したような強い声に、ルードとライカはハーンのほうを向く。
「僕はあの時、東部の街カラファーに住んでいたんだけれど、ある時突然、人には使えない力を持っていることに気付いた。――つまり術の力だね。そして僕と同じ力を持っているというニーヴルの存在を知って、ルミーンの丘に赴いた。その頃すでに、ニーヴルは軍隊に変貌していたんだけども、あの時の僕は何も状況を理解していなかったんだろうね。その一員となって、中枢と戦った。そうしてウェスティンの決戦に終止符が打たれた時、かろうじて息のあった僕を〈帳〉が助けてくれた。そして、彼のもとで僕は多くを学び……今こうしてここにいる」
「あなたが、ニーヴルだったなんて……」
 ルードは、ハーンの説明の『術に覚醒した者が決起した』というくだりから、なんとなくそのことを予感していた。しかし、現実に聞かされるとやはり衝撃は大きかった。だからといって、ハーンを憎む気持ちは全く無かった。ニーヴルを語るのが禁忌とされているから、ということのみならず、たとえ、ウェスティンの決戦が自分の人生に大いなる翳りを落としている、その現実を踏まえたとしても。
「確かにあれは悲し過ぎる出来事だった……ルードにはどう謝っても足りないくらいだよね?」
 やりきれない。そんな口調でハーンが語る。
「……そんなことないよ……」
 ルードはほかに言葉を発しようとしたが、紡ぎ出すことは叶わなかった。思いはあまたに及んだが、言葉はただそれだけ。ハーンは「ありがとう」とだけ答えた。二人の言葉はまったく短いものだったが、それによって彼らの絆は強固なものになった、とルードは感じた。

「……話を戻すと、君達の事件――君達がまばゆい光に包まれて山から消え失せた、という神隠しのことは、すぐさま中枢の知るところとなってしまった。なぜかというのは僕ごときが分かるものではないけどね。ともあれ、ルードが覚醒してアズニール語を話すようになり、さらには世界の住人ではないライカがここにいる――この事実は世界の平穏と常識やらを揺さぶるには十分過ぎるだろうね。不穏な動きは消されなければならない。……そして今、使命を帯びた疾風が、当事者を捜しに……いや、抹消するためにこの村の近くにまですでに来ている。もし君達が村に残っていたら、疾風はその場で襲ってくる。何も知らない村の人は、君を守ろうと必死に抵抗するだろう。そうすると事件はさらに大きくなって、村の人全員が不穏分子であるように捉えられてしまうかもしれない。膨れ上がる疑惑が行き着く先は、悲劇さ。それこそニーヴルの二の舞……惨劇のみが結果として残るだろう。
「でも、そんなことはあってはいけないんだ。あの悲劇はまた起こしちゃあ、だめだ! だから今、こんなふうに雨が降っているなかをおしてまで急いでいる――〈帳〉のもとにさえ行けば、彼の“護り”があるために、実質危険はなくなるし、村の人達にも危険は及ばない」
 やわらかな表情で、碧眼はルードを見る。
「急ぎの旅立ちのわけを、分かってくれたかな?」
 ルードはうなずく。
「確かに僕のことを得体の知れないやつって思われても仕方ないかもしれないけども……僕は君達の味方なんだ。同じ覚醒者の立場として放ってはおけない。信じてくれるかい?」
「もちろんさ!」ルードがきっぱりと言った。
「わたしもルードと同じよ。むしろわたし達に同行してくれるなんて、本当にありがたいと思わなきゃ、ね!」
 三人は顔を見合わせて、お互いを納得しあったようだった。
 そしてそこで会話は途切れた。

 雨足は再び強まり、幾多の白く鋭い線が草原を叩く。
 ルードの予想以上にハーンの過去は波乱に満ちていた。ほかにもまだ自分に隠していることがあるのではないか、とルードは時々訝《いぶか》るのだが、そんなことは関係無い。ハーンは大切な友人なのだから。
 道は緩い下りとなり、多少曲がりくねりながら、ルシェン街道との合流点に出た。北に行けば数日前彼らが歩んできた道、つまり山道を越えてクロンの宿りへ通じる。対して、南に行けばスティンの丘陵を下り、クレン・ウールン河に沿うかたちでなだらかな道のまま中部の都市、サラムレに至る。
「……これからどうする?」ルードがおもむろに口を開いた。
「じゃあさ、ルードはどう思うかな?」
 いつもの調子でハーンが言った。
「そうだなぁ、さっきのハーンの話からすると、どうもアヴィザノに近い南の道を取るのはまずいんじゃないかな。大体その刺客とやらがベケットにいたんだったら、なおさら南には行けないだろうし、と俺は思うんだけど?」
 ルードもハーンの調子に合わせ、普段どおりにしゃべった。
「うん、そうだね。道のりは険しいけども、いったんクロンの宿りに出て、そこから北回りの街道を使って、途中から道をそれてしまえば……遥けき野だよ。そこまで行けばもう安心さ! 〈帳〉の存在を知る人はおそらく、僕以外いないだろうし、彼の館は巧妙に隠されてある」
「じゃあ、行きましょう?」ライカが催促した。
「さあさあ!」ハーンが言った。
「気を落としていたんじゃあ、つらいままだよ。もちろん危険のことは考えてなきゃいけないけれど、努めて笑っていこうよ。雨が降っていたって、旅を楽しんで行こう。そう、これは旅なんだから!」
 それは本当に、ハーンらしい言葉だった。ルードはそれを聞いて、今の空のような重い心が癒される感じがした。

 一行は北の方角へ道を選んだ。篠突く雨の中、しかし馬の足取りは今までより軽く。西のほうでは雨も収まっており、夕方の陽がいつのまにか顔を出していた。垂れ込めた雲は、その光を受けて空を赤く染める。ルードは太陽のほうへ首を向けた。
(あっちに、俺達が目指すところがあるのか。俺が驚くようなことっていうのは、やっぱりこれからも起こるんだろうな。その一つ一つに思い悩んだり、自分の境遇をうらんだりっていうのは、馬鹿馬鹿しいかもしれない。どうやら俺達を待っているのは、もっと大きな何かなんだろうから……)

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二.

『親愛なる ディドル様、ナッシュ家の皆様

 この突然の旅立ちをお許しください。
 私ことティアー・ハーンのみならず、あなたがたのご子息ともいえる存在のルード君を連れて行くことをお許しください。
 あまりに勝手な行動であることは重々承知しておりますが、いずれは私達は旅立つつもりでいたのです。数日前起きた、例の神隠し事件に始まる一連の出来事の謎を解き明かすために。
 旅立つということは、以前にルード君とともに決断していました。ルード君の強い願望だったのです。
 ではなぜ、このように唐突に旅立たねばならなかったというと、あの事件の謎を付け狙う人間がいる、ということにほかなりません。ことはあまりにも大きかったのです。
 それがために、あの事件の核となっている人物、つまりルード君とライカさんの所在を知られないようにしておかねばならない、それも急がなければと思い、別れを告げずに立ち去らざるをえないかたちとなったのです。
 その人物はもうすでに近くまで来ています。
 まことに勝手きわまりなく、またあまりに説明が足りないとは思いますが、ルード君とともに旅立ちます。

 皆様の健康を祈って

ティアー・ハーン

 追伸 まもなく、この高原に旅商の身なりをした男がやってくるでしょう。中背で無精髭をはやした、気さくそうな人物です。しかし、ルード君のことを訊かれても、何も答えないでください。どうかお願いいたします。』

[勝手なことを!]
 と憤慨している父親からハーンの手紙を受け取って、ミューティースは自分の部屋でそれを繰り返し読んでいた。ぱさり、と手紙を机の上に置き、ひとりごちた。
「あたしは信じてみるよ、ルード……。君って、昔からどこか不思議な感じのする子だったから。それに、君自身が災難を起こしたのとは違うってこともね。行かなきゃならないところがあるのが分かったから出かけたんだって……信じてる。でも……ちゃんと帰ってきてよ……」
 ルードにとって姉のような存在であるミューティースは、ルードの考えに任せることにしてみた。
 ルードは彼自身の道を歩もうとしているのだ。

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三.

 夕日を受けて一面を赤く染めた空に、雲が次第に覆い被さっていく。そして夜のとばりが下り、やがて周囲を漆黒に染める。雲の切れ間の所々からは星が姿を覗かせており、あの激しい雨は止んでいた。
 ルード達は馬を進め、スティンの山々の入り口に差し掛かるところまで来た。彼らの左手には全ての発端となった山――ムニケスがあった。
 彼らはこの日の移動を打ち切った。そして、街道から少し道を外れたところにある、目立たないが実は大きなほらを今晩の休息地にすることにしたのだった。ここは高原の少年達の秘密の隠れ家で、村人すら知らないような、へんぴで意外な場所にあった。一行が安全に休むのにはまさにかっこうの場所だった。
 用意周到なハーンは天幕やら食料などもきちんと用意していた。おかげで彼らはほらの中で快く過ごせた。

 翌朝。朝の刻を告げる鐘も鳴らないうちに彼らは起きた。昨日の雨のせいで空気はじっとりとしているが、ルード達の気持ちは軽やかなものになっていた。
 朝食をとりおえる頃には天候は回復し、朝の日差しがほらの中にまで差し込んできた。さすがに今日一日かけてもスティン越えは無理だ。おそらく、下りの道の中腹で今日の旅を終えることになるだろう、とハーンは言った。

「……ねえ、確かさ、この辺だったのよね?」
 太陽も高く上がり、山道が大きく左に曲がるところでライカが尋ねてきた。彼女は布を頭に巻いて、特異な自分の銀髪を隠している。豊かな後ろ髪はまとめあげて、調和させるように布で覆っている。また、服もそれに合わせるように、ゆったりとしたもので、スカートではなくズボンをはいていた。これらは、ライカがミューティースから貰い受けたものだった。その姿はライカに結構似合っているのだが、彼女は髪をまっすぐ下ろしていないときまりが悪いようで、しょっちゅう気にしていた。
「そういえばそうだよなあ、あれは……」
 彼らは間違い無くこの場所で、化け物と遭遇したのだ。
「あんなのを見たのって初めてよ。ああ! 思い出すだけでもあいつ、気色悪いわ!」
 今では、あの熾烈な戦いが嘘だったかのように、森は静まり返っている。
「俺だって、もうあんな目には遭いたくないよ。でもさ、あれは何だったんだろうなあ?」
「……もう、戦うことなんかないわよね?」
 自分達を安心させるためか、ライカが身を乗り出すようにして訊いてくる。
「うん、あんな魔物が出てきたら大変だよ。でもね……ひょっとしたら、戦うことになるかもね」ハーンが言った。
「え?!」不安に駆られたルードとライカは口を揃えた。
「化け物と、じゃないよ。疾風と、だよ。君達にいちおう武器は渡してあるけど……」
 ハーンは出発の前に、ルードには短剣を、ライカには鋭利な短刀をそれぞれ渡していた。
「殺しの達人とそれで渡り合えるなんて思っちゃいけない! 君達の武器は、いざって時の護身用でしかないよ」
「じゃあ、どうすればいいのさ?」ルードが言う。
「お互い離れないようにすることだね。ルードは剣を使ったことはあるかい?」
「うーん、少し習ったことはあるけれど……せいぜい、草を払う時になたや斧がわりに使うくらいかな?」
「わたしだって、全然心得は無いわよ。『風』を護りに使えるけど、いつもそれがうまくいくとは限らないし」
「単独行動は危険だよ。いつも一緒にいなければならないとは言わないけどさ、お互いが分かる場所にいるようにしよう。そして、万が一疾風に見つかったら僕が相手をする。君達は手を出しちゃだめだよ! 相手が手練れだってことをお忘れなく! もちろん、見つからずに〈帳〉のところに着けることを祈っているけど……用心はしないとね」
 ハーンが念を押すように言った。

(そう言えば、ハーンには剣と術の力が、ライカにも風を操るような力があるのに、俺は何も持ってないじゃないか)
 ルードはふと、新たな葛藤に気が付くのだった。
 事件の不思議さやライカのことを不安に思ったり、運命に巻き込まれていくような自分の境遇を呪ったり――そんなことは自分の中で解決したつもりだったのに。
(俺に、何が出来るんだろうか?)
 ルードはその想いを、自分のうちにそっと隠す。そして、前を行くハーンの背中を見る。彼は華奢で、ルードのほうがよっぽど体格がしっかりしていた。しかしハーンは、その風体と口調からは想像出来ないような強さと知識を持っている。底無しの、得体の知れない“力”を秘めているのではないかとすら、時として感じさせるほどに。
 だからといって、ルードには、(ルード達を破滅させようと)ハーンが謀っているようには思えなかったし、ハーンその人に恐れおののくこともなかった。ルードがハーンに抱いているのはひたすらに、敬意と、そして友情だった。
(ライカをもとの世界に戻す手助けをする、そうしたいんだけど……俺も強さを持ちたい! どんな時であっても、ライカを守るのは、俺でいたいんだ!)
 ライカへのほのかな想いは、いつのまにか恋慕へと昇華していた。ライカは自分のことをどう思っているのだろうか。自分に信頼をおいていることはよく分かっているが、もうそれだけでは満足出来なくなっていた。

「あーっ!」
 ハーンがいきなり驚いたように声を出したので、ルードはびっくりした。
「どうしたんだよ。……! まさか、疾風がいる、とでも?!」
 ルードはハーンのほうに馬を静かに寄せ、やっと聞き取れるくらいの声で訊いた。
「あ、いやね、そんなとんでもないことじゃないんだけどさ」
 珍しくうろたえたようにハーンが言う。
「だけど?」
「そのう、僕って、みんなが使える大きな水筒を持ってたでしょ? ……でもさあ、寝ていた場所に、水筒を置いてきちゃったみたいなんだなあ」
「……」
「……」
「……」

 沈黙。

「もう! 水は大切にしなきゃ、とか言ってたその人が、どうして忘れるのよ!」
 沈黙を破ったのはライカだった。
「うう……ごめんなさい」
 ハーンがその剣幕に押される。
「ねえ、少し休んでいかないか? さすがに疲れちゃったよ」
 頭を左右に振り、首の骨を軽く鳴らしてルードが言う。
「そうだね、そろそろ休みをとろうか。……ねえライカ?」
 調子良くハーンが言った。
「私を持ち上げても、なくなった水筒は戻ってこないわ。それともハーン、今から取りに戻る? 危ないだろうけど」
「うう……ごめんなさい」
 ライカはひたすらに冷たかった。

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四.

「よおし、これで生き返ったぜ!」
 背伸びをしたルードが言う。
 幸いにも近くに小川が流れていた。うさぎぐらいの大きさの丸い石がごろごろしているそのほとりで、三人は休憩をとった。雪のように冷たい清水が心地よい。少し早めの昼食が終わる頃にはライカの機嫌もすっかり良くなっていた。
「さあて、もう行くのかな?」
 ルードは、すっかり一行の導き手となったハーンに尋ねる。
「ええ? もうちょっと休んでいこうよぉ」
 馬に食事を与えていたハーンは、のんきな口調で反論した。疾風に追われているかもしれない、という緊張感をみじんにも感じさせない。ただ、さすがなのはいついかなる時でも剣を――あの“力”を持った剣だ――手放してはいない、ということと、何げないふりを装いつつも実は周囲の気配に探りを入れている、ということだった。

 ルードはちょうどいい大きさの丸い石の上に腰掛け、後ろ髪をまとめていた髪留めを外した。濃紺の髪を手で梳いていると、ちょうどライカが近づいてきて、彼のそばに座った。頭を覆っていた布を取り去っていて、淡い紫色を帯びた銀髪が光る。
「へえ、意外と長いのね、ルードの髪って」
 ライカは膝を抱えた姿勢で、ルードを見あげる。
「ははは……ライカの髪だって奇麗だと思うぜ?」
 ルードは再び髪をまとめあげると、そう言った。
「本当?」
「ああ、隠すのが惜しいぐらいだ」
「あははっ、ありがとう。でも、やっぱりわたしだけ髪の色が違うっていうのはすごく目立つみたいね。ナッシュの人達も気になってたみたいだし。みんな黒髪か金髪なんだもん」
「……ねえ、ライカ」おもむろにルードが言った。
「何?」
「俺は、俺の住んでいるところに一度帰った。そして今度は真実を知るために旅をしている――こんな……村を追われるようにして旅が始まっちまうとは思わなかったけどさ、そりゃあしようがないとして――でも、ライカはこれでいいのか? ライカだって自分の住んでたところに戻りたいだろ? だのに、こうして見知らぬ場所で旅をしているのがやりきれないんじゃないかって思って」
「そうねえ……」ライカは両腕で膝を抱え込む。
「もちろん戻りたいわ。でもね、やりきれないってふうには考えないようにしてるの。この冒険が終わる頃には多分帰る手段が見つかる、と思ってる。……わたしってね、昔から旅やら冒険なんかに憧れていたから、嬉しくもあるのよ。わたしの住んでる村を離れる機会もあんまり無かったしね。そりゃあ、本当に命を狙われているのは怖いし、正直に言えば色々と不安よ。見知らぬ世界にいきなり来てしまったんだもの。今はこうしてルードと話せるけど、最初は泣きたいくらいだったわ。アズニール語が通じないのは本当に意外だったわね。……でも、アリューザ・ガルドに帰ることが出来ないんだったら……ちょっとつらいかしら……まあ、そうなったらここの言葉を覚えるようにしなくちゃね……あははっ」
 淋しそうに笑うライカ。彼女は明らかにルードよりつらい状況にいる。ここは本来自分がいるべき場所ではなく、フェル・アルムの言葉を話すことが出来ない。さらに、もといた所に戻れるかどうかすら怪しい。茶目っ気を振りまくようにしてそれを感じさせないように気を配るあたり、彼女は強い、と思える。
「いや、大丈夫さ」ルードが言う。
「俺が探すから……一緒に、元の世界に戻る方法を探してみようよ……見つかるまでね」
 自然と口をついてぽろりと出てしまった言葉。それは、ルードの想いが込められた言葉。ルードはすぐ、自分が言った言葉を理解し、思わず口にしてしまったことに顔から火が出る思いだった。ライカの顔を直視することが出来ず、ルードはただ、せせらぎを見るほかなかった。
「うん……ありがとう……」
 ルードはぽりぽりと頭を掻きながら、ちょっとだけライカのほうへ目を向けた。ライカの翡翠《ひすい》の瞳は潤んでいるような感じだ。こんな所をハーンに見つかったら、間違いなくからかわれるだろうが、当のハーンはまだ馬に食事を与えている。
 しばし、水のさらさらと流れる涼しげな音が周囲を覆う。
「おーい!」ハーンが遠くから、二人に呼びかけてきた。
「そろそろ行くことにしようよ! 水もばっちり確保したし、出発だ!」
 そうして三人は再び馬に乗り、森に囲まれた山の路を登りにかかった。

 空は晴れ渡り、木々の隙間から日の光が差し込む。どうやら今日は良い天気のままで終わりそうだ。右手の遥か下に時折見える巨大なシトゥルーヌ湖は、変わらず青くたたずんでいる。
 山々の高いところを街道が通っている、世界の全景が見渡せてしまうようなところで、ルード達は赤い夕暮れの太陽が遥か西の海に沈むのを見た。ここからは南西のサラムレの街とクレン・ウールン河が見える。ルード達の身体が夕焼けと同色に染まる。
 光を全て受け止める濃紺。跳ね返すような金。
 ルードとハーンおのおのの髪は、夕日を受けて一層際立つ。ライカが頭の布を取り去ったら、月を連想させるような銀もそれに加わっていただろう。
 ルード達は再び馬を進める。朱が空から次第に消えていくのを感じながら。
 そして、スティン山地は夜に入る。春も半ばとはいえ、寒いものだ。路が下りに入り、森を抜けそうなところで彼らは眠りにつくことにした。路から外れた岩場の、平坦なところにテントを張る。それが終わると、ハーンは周囲の探索に出かけてしまった。テントの中にルードとライカは残される。
「あの、ライカ?」
「はい?」
 馬上でも会話はしていたが、ハーンが抜けて二人きりになると、昼間の会話があらためて思い起こされて、必要以上にお互いを意識してしまうようだった。
「その、そうだなあ……よかったら教えてくれないか。ライカの住んでいたところのことなんかをさ……」
 ルードがライカを見る。
「いや、なんていうのかな。お互いの境遇というか、そういうことって今まで訊いたことが無かったからさ」
「ええ……」笑みを浮かべるライカ。
「うん、いいわよ。じゃあ話してあげる。でも、これはやっぱりハーンにも聞いてもらったほうがいいかしらね?」
 やがて三人を囲んで話が始まった。銀髪の少女の話が。

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五.

 天幕の中、ライカの澄んだ声が話の始まりを告げる。
「フェル・アルムの人が術の存在を知らないというんなら、わたしの話も雲をつかむようかもね」
 ライカはそう前置きを入れて、語り始めた。

 ライカ・シートゥレイ。
 彼女は“エヴェルク”という大地の、北方に位置するアリエス地方に住んでいる、という。そこは山と森と湖に囲まれた非常に美しいところらしい。気候は冷涼で、そういう点ではスティンの高原と似通っている。だが一地方とはいえ、どうやらフェル・アルム全土を包み込んでしまうほど大きいという。その大地を含む世界の名が“アリューザ・ガルド”。
 ライカは、峰々が連なる山間のウィーレルという小さな村に、祖父である村長《むらおさ》ケネスとともに住んでいた。ライカは父親の顔を知らない。父、アヌエンはライカが生まれてすぐに『試練』がもとで亡くなったらしい。母親のミルも、二年前に山で行方を絶っている。しかしライカは母がまだ生きていると信じている。根拠はない。ただ、母親までも失いたくない、そんな真摯な願い。

 ライカははっきりと覚えている。子供の頃、アリエスを離れて四年間ほど、エヴェルク大陸中部の大都市カルバミアンで母親とともに暮らしたことを。そこでの生活はいい刺激となって、彼女の気質をつくりあげた。
 アイバーフィン。それが彼女の部族の名前。銀色の髪はアイバーフィン特有の色なのだ。“翼の民”という意味を持つアイバーフィン達は山間に居を構えることが多い。天高くそびえる山は、彼らを象徴するものだから。空、風――彼らはそういうものを司り、また自らの力としている。アイバーフィンは風の力を操ることが出来るのだ。さきの化け物との戦いで、ライカがかまいたちを起こせたのもそのためである。
 しかし、ライカはまだそれほどの力を持っているわけではない。翼を持っていないのだ。
 彼らアイバーフィンが“翼の民”と名乗る何よりの理由は、空を舞うことが出来るためだ。“ラル”という風の世界に赴き、試練を受けることで彼らは背中に翼を得るのだ。翼を手に入れるための試練も非常に厳しいものである。ライカの父もそれがために命を落としているのだ。彼らの翼は精神的なもので、物質世界であるアリューザ・ガルドでは、本人が意識的に見せようと念じる以外、なかなか見ることは出来ない。ただ、飛ぶ際に時折現れる二枚の翼は光り輝き、天からの使いかと人々に思わせるほどだ。

 その日。ライカは彼女の家からそう遠くない所にあるレテス谷へ出かけていった。そこは、いつもなら冒険と称して友達と出かけるところだ。活発な彼女は、男の友達と一緒になって野山で遊ぶことも多かった。
 しかし、その日に限って彼女はひとりで出かけた。なぜか、そんな気分だったのだ。レテス谷は危険な場所ではないが、そこに住む風の精霊が時々悪戯をおこすとも言われている。ひとりで行くのは避けたほうが良い、そう思いながらもライカは谷に向かった。
 谷の小径を降りていく途中、ライカは目を疑った。いつもどおりの径。しかし岩肌の向こう側にちらりと、見慣れない光景を見たのだ。それは山の花が咲きこぼれる野原だった。
(ふうん、こんなにきれいなところがあったなんて。今までは遊ぶのに夢中で、見落としてたのかな?)
 ライカの足は自然とそちらに向いた。野原への道のりはなかなか困難で、大岩を無理矢理に登ったりしてやっとのことで辿り着いた。だが彼女が野原に足を踏み入れようとした途端、いきなりその情景は消え失せたのだ!
(これはまさか、風の精のまやかし? ……え!?)
 ライカの片足は地面を捉えていない。彼女は眼下に広がる景色におののいた。
 切り立った谷間。足下には奈落の裂け目。彼女の身体は今、崖から一歩踏み出していたのだ! もはや体勢を戻すことは叶わない。ライカは崖から落ちていった。耳元で風が切る。彼女の体は奈落の底へと向かっていく。
(……わたしはおしまいなの? こんなにあっけなく……)
 絶望の中、ライカは最後の望みに託した。風の力に頼ることだ。彼女には翼が無いとはいえ、死を目前とした時には何かの力が生まれ出るかもしれない。とにかくそれしか考えられなかった。彼女を包んでいるのは、死への恐怖。
 しかしついに、風は彼女の救いにはならなかった。

 意識が忘却の彼方へ赴こうとするなか、彼女は思った。

(落ちていく……)
(ちょっと無茶したよね……)
(「風」も助けを聞き入れてくれなかった)
(わたしの力だけじゃあ……もう……)
(……飛ぶのは……生きてかえるのは……)
(無理……よね……)
(……でも、絶対に……死にたくなんかない!)

 その時。ライカは気付いた。
 誰かが自分の体に触れる感じ。膨大な量の何かが頭の中に流れ込む感じ。
 そして見た。
 まばゆいばかりの光の球が彼女のからだを中心に、外へ外へと膨らんでいくのを――。

「……俺も同じ感じを覚えたよ。俺はライカが野原で倒れているのを見て近づいてみた。ただ倒れているんじゃない、って分かったんだ。ライカの周りは何も無くて……そう、空《クウ》が覆っていた。そして俺がライカの側に辿り着いた途端に、景色ががらっと変わって……俺はライカとともに奈落の底へ向かって落ちていった。あの時は何がなんだか分かんなかったよ。俺がライカの腕をつかんだ瞬間に俺の体は光に包まれて、気を失って……気付いたら俺達はクロンの宿りのそばにいたんだよな」
 ライカの話を聞いていたルードは言った。
「レテスの谷でわたしが見た野原の幻像……あれはきっと、スティン高原の野原だったのね。そしてそこにルードがいた、というわけね。あの瞬間、フェル・アルムとアリューザ・ガルド、お互いの世界が繋がったんだわ。そのあとわたしは幻像の野原でなく、現実の崖から落ちていってしまった。ルードもその一瞬だけ、わたしの世界に来てしまったのよ。でもそれからなぜかわたしがこっちに来ちゃって、今に至ってるんだけどね……」
 ライカが一言一句確かめるように言う。
「なるほどねえ……」とハーン。
「どうして二つの世界が繋がったのかは分からないけれど、人間には想像も付かないほどの大きな“力”が働いたんだろうね。ルードは覚醒し、ライカは異世界に連れてこられた。君達が転移させられたのはクロンの宿りの付近で……そこには偶然にも前日戻ってきた僕がいた。既に覚醒を経験した僕が、ね……」
「大きな力かあ……」
 ルードは後ろ手で頭を抱え込むとつぶやいた。
「それって、俺達三人の“運命”ってやつなのかなあ?」
「そう。運命と言ってもいいだろうね。今の僕達に吹いている一陣の突風が、このまま何事も無く過ぎ行くものなのか、もっと大きな、嵐を呼ぶものなのか。……僕は後者のような気がするけれど」ハーンが言う。
「ふん……」ルードが鼻を鳴らした。
「まあ、あまり深く考えないで、突き進んでやるさ、俺は!」
 そう言ってこぶしをぎゅっと握り締めた。
「へえ、ずいぶんと強気ねえ」ライカが言った。
「ああ! なんで俺がこんな事件に巻き込まれなきゃいけないんだ、なんてふうにくよくよと運命をうらむのはやめたよ。そしたらさ、頭ん中が妙にすっきりしたんだよ。だから、こうなったら俺の運命とやらの行き着く先を見てやるのさ!」
 それを聞いて、ハーンが笑みを浮かべた。
「ふふふ、ルードも強くなったもんだねえ、うん、これからはいちいち悩んでいられないかもしれないからね。〈帳〉だって突拍子もないことを言うかもしれないし」

(強くなった、か。でも、運命を見きわめるための、そしてライカを守るための強さが、俺にはないんだよ……)
 ルードは心の中でそっとつぶやいた。
 しばらくして彼らは床に就いた。ルードもすぐに寝ついた。
 今や三人は“運命”の渦に入り込んだのだ。

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