『フェル・アルム刻記』 第一部 “遠雷”

§ 第一章 銀髪の少女

(落ちていく……)
(ちょっと無茶したよね……)
(「風」も助けを聞き入れてくれなかった)
(わたしの力だけじゃあ……もう……)
(……飛ぶのは……生きてかえるのは……)
(無理……よね……)
(……でも、絶対に……死にたくなんかない!)

 少女は気付いた。
 誰かが自分の体に触れる感じ。
 膨大な量の何かが頭の中へと流れ込んでくる感じ。
 そして見た。
 まばゆい光の球が彼女の身体を中心に、外へ外へと膨らんでいくのを。

 運命は廻りはじめる。
 誰が意図することなく、自然に。

一.

 三日三晩続いた祭りから一ヶ月が過ぎようとしていた。
 高原で生活するのは羊飼い達とその家族で、あとの者は麓の村々で暮らす。麓までは徒歩で不便を感じない距離なのだ。

 ルードやケルンは羊飼いとしての暮らしを再開している。シャンピオはというと、数日前にコプス村とベケット村の物産を馬に積んでサラムレへと出かけていった。
 水の街サラムレは、北方と南部の中枢域とを結ぶフェル・アルム中部の街だ。そして年に一回行われる武術会があることでも知られている。
 ルードはハーンにまた驚かされた。
 なんと彼は、武術会で三回も準決勝まで勝ち進んだというのだ。まさかハーンがそんなに強い人だったとは、細身の外見からは想像が出来なかった。まだ優勝したことがないのをハーンはしきりに残念がっていた。
 そのハーンも今はもう村にはいない。祭りが終わったあとも二日ほど滞在し、タールの調べを近隣の村々で披露していたらしいが、その後クロンの宿りへとひとり旅立ったのだ。
 北の町、クロンの宿りは、サラムレとダシュニーを結ぶルシェン街道沿いにある。便の良さゆえに二百年ほど前から人々が集まりだし、数十年前からは小さな町を形成するに至っている。
[クロンの宿りには僕の家みたいなもんがあってさ。しばらくはそこにいるよ。もちろん、隊商の護衛の仕事が入ったならそっちへ行っちゃうけどね]
 そう言って眠そうな目をこすり、宿酔の頭を抱えながら馬の鞍にまたぎ、村をあとにしたハーンを、ルードはよく覚えている。そんななりを見て、不思議な人だ、という印象を強くしたのだった。普段は戦士の雰囲気をまったく感じさせないが、戦いの場となれば秘めた力を露わにする、そんな性格なのだろう。
 それから一ヶ月。ルードは再び緩慢ともいえるほどの平穏さの中に身を置いていた。
 “その日”が来るまでは。

* * *

[でえい、くそぉっ!]
 ルードは顔をしかめ、短剣で自分の行く手を遮る草を苛立たしげに薙ぎ払った。あたりは高い木に囲まれ、自分がどこにいるのか見当もつかない。
 その日ルードは友人達と、スティンの山々の一つ、ムニケスへとやって来ていた。高原から最も近いこの山は、昔から少年達の遊び場だ。狩りという実益も兼ねており、年上の者の忠告を聞いていればまず安全な場所だ。迷った時のみんなへの報告の方法、獲物を見つけた時の対処の方法、木になっている果実のうちどれが食べられるか――年下の者達は年上の者達に色々と教えてもらっていた。
 この日の冒険も、いつもどおり終わるはずだった。だが帰る途中でルードがウサギを見つけ、ケルンの制止も聞かずに追いかけ回したのがいけなかったのだ。結果、彼はひとり道に迷ってしまった。子供の頃から何回もムニケスに来ているのだから自分はひとりでも大丈夫だ、という思い上がりが足下をすくい、そして今のにっちもさっちもいかない状況に至っている。

 春を迎えたとはいえ山の気候はまだまだ冷涼としている。それなのにルードの顔には汗が流れ、まっすぐな濃紺の髪がはり付く。それは彼のこれまでの苦労を描いているようだった。しかし、どんなに歩いても事態はいっこうに良くなる気配を見せない。
 疲れ果てたルードはついに歩くのを止め、近くにあった切り株大の岩にどすんと腰をかけた。二刻《こく》はゆうに歩いたはずだが、ルードがさまよっているのは未だに、草木がうっそうと茂った山のなかである。けもの道すら周囲には存在しない。あるのはただ樹木と、草、草、草――。
 ルードは大きくため息をはく。
(みんな心配してるんだろうなぁ)
 歩いている最中、何度も頭をよぎった思いが今さらながら強くのしかかる。
 どこからか吹いてくる木々の匂いを含んだ風が、汗を拭い去る。ルードは岩肌に両手を置き、天を仰ぐような姿勢で呆然としていた。しばらくそうやっていた彼だが、やおら立ち上がり、地面に横たえていた短剣を腰の鞘に戻す。
[ええい、行くぞルード!]
 大声で喝を入れ、再び歩きはじめる。誰かが今の声を聞いていてくれないか、そんな期待もどこかに持っていたが、そううまく運ぶはずもなかった。

 それから茂みの中を一刻ほど歩いただろうか。ルードは日が完全に傾いているのを感じていた。じき夕暮れを迎える。それまでに何としても自分の知っている所に着かなければ――!
 ルードは夜の山を知らない。大人の羊飼いや木こり、猟師達すらも夜にはめったに近づこうとはしない。どんな獰猛な動物が徘徊しているのか分かったものではないし、暗がりの中では足下もおぼつかない。足場が崩れるような危険な所にいつ入り込んでしまうか知れない。
 そういう現実的な怖さと、そしてルードが小さい時に聞かされた、現実ではあり得ないような怖い話。その二つが交互にルードの胸に去来し、彼は自然と足を速めるのだった。
 ふと、彼の耳にそれまでとは違う音が入り込んできた。囁《ささや》くような、そして透明感のある音。
(これは……水の音? ……川のせせらぎか?)
 やがてその囁きは、ぶつかるような激しい音へと変貌した。
(滝だ!)
 ルードは疲れを忘れたように走り出した。自分が知っている滝の場所からなら、失った方向感覚もよみがえるだろう。川の流れを辿って、ムニケスを降りられればなおよい。木々の隙間からは、ちらちらと小川の流れが見える。そしてルードはついに、開けた場所へと出た。
 いくつもの大岩に囲まれた開けた場所。岩の頂からはごうごうと音を立てて滝が流れ落ちている。そこから水がしぶき飛び、周囲を冷やす。そして川の向こう岸は、ルードにとって憶えのある情景だった。
[よかった。ここは“大岩の滝”だ!]
 ルードは安堵した。ここは五年前はじめて、シャンピオと来た所だ。ルードにとって最初の冒険だったため、この場所は印象深い。森という閉鎖された空間から解放される場所だ。それからたびたび足を運ぶようになっている。ここからなら半刻もあれば村に帰れる。彼は陰々滅々とした気分から、ようやく解放された。
 冷涼な風が滝壷のほうからそよいできている。ルードはその心地の良い風を肌に感じながら、川岸のほうへと歩を進めた。せせらぎに手を浸すと、雪解けの水はやはり冷たい。ルードは水をすくって、汗まみれとなった顔を洗い、清水を飲んだ。十分過ぎるほど川の水を飲んだルードは靴の紐をゆるめ、分厚く大きい靴を脱いだ。
[ひゃあ!]
 両足を川に浸したルードはその冷たさに思わず声をあげた。ルードは疲れが癒されていくのを感じた。
 しばらく裸足のままで川岸に座っていたが、やがて彼はのろのろと靴を履き、おもむろに立ち上がった。軽い足取りで岩をまたいで川を越えて、馴染みの路《みち》を歩き出した。このまましばらく行けば開けた野原に出る。
(そこでちょっと休んで……帰ろうっと!)
 ルードは手近にあった木の枝を三本折り、道の真ん中に突き立てると、その周りを小石で囲んだ。年上から教わった『迷ったけれども無事に帰っている』という合図だ。ケルン達もこれで安心するだろう。この路を通って降りてくるのは間違いないのだから。
[ふうっ……]とため息一つ。
[……ずいぶんと迷惑かけちゃった、だろうなぁ]
 合図をつくり終えた彼はつぶやき、再び歩き出した。

* * *

 野原には、高原の春をつかさどるさまざまな種類の花が咲きこぼれていた。休息を取る場所としては格好だ。夕方まで少し時間がある。ここで待っていればケルン達に会えて、その場で謝れる。
 そう思い、座りこもうとした時――彼は今まで感じたことのない、まったく奇妙な感覚にとらわれた。
[な、何なんだ?]
 不安と期待と恐怖と暖かさとが混在した、何とも言えない感覚だった。彼は周囲を見る。そう離れていない所に、人が仰向けに倒れているのが見えた。彼の足は自然とそちらに向いた。
 それは、少女だ。
 だがルードには、彼女がただ単に倒れている、というようには見えなかった。不自然なことに、彼女の衣服と髪の毛は上に向かってなびいている。その違和感に惹かれるように、ルードはふらふらと近づいていく。
(髪の毛が銀色だ……)
 ルードは少女のすぐ側までやってきた。そこで彼は気付いた。少女の周囲の空間が、尋常ならざるものだということに。
『空《クウ》』。
――全く何もないもの。その空間は、まさにそれだった。あたりの風景をいびつに歪めて存在する『虚空』。
 そして、全ての風景は変貌した!
(な……に!?)
 とっさ、状況が飲み込めなかった。周囲の景色が野原から一変し、別の場所となっていたのだ。次にルードは、自分の足が地面と接していないのを知った。落下しているのだ!
 激流のように上へ上へと流れていくのは岩の壁。遥か下に広がるのは漆黒の闇。何も見えない。こんな場所はルードの記憶にはない。唯一確かなことは、奈落の底へ向けて落ちていっている、ということ。その先にあるのは――死。
[おわぁっ!]
 状況を現実のものと飲み込んだ時、ルードはようやく悲鳴をあげた。死の恐怖が彼を包みこむ。それと相反するように、自分が生きているという証拠――全身をものすごい勢いで流れる血潮を感じた。
(もう……だめだ!)
 そう思った刹那、流れゆくあらゆるものが、緩慢に見てとれるようになった。
 ルードの真横には、あの少女がいた。わずかに紫がかった銀色の髪。気を失っているのだろうか、両の目は閉じられているが、ややあどけなさの残る端正な顔をしていた。服は清楚な感じのする淡い空色の上衣と、その下に着ている赤紫色の服。袖と皮ベルトの部分は、深く奇麗な赤紫をしている。そしてすらりと伸びた肢体。肌はルードより白い。
 ルードは詳細に彼女の容姿を見てとった。
(きれいだ……な)
 彼の右手が彼女の腕をとらえようと伸びる。意識が薄れていくのを感じながらも、彼の右手は少女の腕をつかんだ。
 瞬間!
 太陽を百も集め、一点に凝縮したかのような閃光がはじけ、二人を包んでなお膨らんでいく。ルードの身体に、さまざまなものが洪水のごとく襲い掛かってきた。――彼の見た情景。彼の知らない情景。存在しうるあらゆる種類の音。五感全てを洗い流そうかとする、膨大な情報の波――。光の玉に包まれたルードは、忘却の世界の彼方へと赴いていくのだった。

* * *

 ルードは夢を見ていた。四肢の感覚が無く、意識が薄れている中にありながらも、これは夢だと自覚した。

[ルード!]
 親しい声が彼を呼んだので、ルードはそのほうを振り向いた。森に囲まれた野原の入り口でケルンが待っていた。
[ほら、あれを見てみな]
 ケルンの指差す先は崖となっており、そこからクレン・ウールン河の流れゆくさまと、その先の海、一日の寿命を終わらせようとしている真っ赤な太陽が見て取れた。赤い陽は彼らのいる草原まで朱に染めている。ルードはこの風景を眼前に収めようと、崖のほうまで近づいていった。いつのまにか周囲の森は消え失せた。
[どうだ、やっぱり奇麗なもんだろ、夕日ってのはよ!]
 ケルンは今度は崖の前に立っていた。ルードの従姉のミューティースがケルンの横にいた。
[ほんと、どうしてこんな見事に赤いんだろうな!]
 ルードも素直に感想を洩らす。
[もし夕日が赤くなかったら、どう思う?]
[そうだな。例えば夕日が、緑色になったりしたら気味が悪いよな。……でもさ。本当に夕日の色が緑色になったとしても、俺は不思議だとは思わないぜ。だって常識なんて、俺達が勝手にそうだと思いこんでるもんだろう? 明日も絶対に通用するなんて、誰も分かんないさ]
 ルードはケルン達に答えた。
 その途端、視界一面に濃い霧がかかったかのように、ケルン達の輪郭がぼやけて来た。やがて全ての様相は交じり合い、一つの色をなす。それは混じり気無しの白。その白い世界の中、やがてルードはひとりいるのに気付いた。
 ぷつりと、ルードの夢は途切れた。彼の身体は白一色の世界の中を飛んでいく。廻りはじめた運命とともに。

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二.

 ルードはゆっくりと目を開けた。そこは先刻の野原でも、崖でもなかった。
 彼は荒野に横たわっていた。顔を少し動かすと山の連なりが霞んで見えた。首を戻すと、太陽が真上に見えている。そしてルードは、先ほどのケルン達との会話が夢であったのを知った。
 ルードはゆっくりと身を起こした。右手が何かをつかんでいるようだ。見てみると、彼の手はあの少女の華奢な腕をつかんでいたのだった。ルードがゆっくりと彼女から手を放す。と、ぼんやりしていた意識がようやく目覚めた。
(ここはどこなんだ? なんで俺、こんなところにいるんだ? 生きているのか? 崖から落ちていたはずなのに? 大体、なんであんなことになったんだ? それに、この娘は一体?)
 その時ふと、彼の頭の中に抽象的なイメージが閃いた。それは次第に形を成し、やがて言葉となる。それは夢の中でルード自身が語った一節だ。

『……常識なんて、俺達が勝手にそうだと思いこんでるもんだろう? 明日も通用するなんて、誰も分かんないさ……』

 それからルードは、今までのことをゆっくりと考え直した。
 ――突然、野原に異質な空間が出現し、自分はその中に入り込んでしまった。そして、その空間にいた少女に触れたことで、さらにそこから転移した――
 そう納得するほかなかった。おとぎ話のようなことだが、今までの体験は紛れもなく現実に起きたことだ。自分はまったく違う場所にいるし、謎めいた少女は隣に倒れている。
(そうだ、この娘は……)ルードは銀髪の少女を見た。
(どこの地方の人なんだろうか? いや、見たこと無いよな。こんな髪の色は……)
 銀髪。それはフェル・アルムではありえない髪の色なのだ。
 フェル・アルム人の髪の色は二種類に分けられる。ルードのような北方の民の青みがかった黒と、ケルンのような南方の民の金。年を取り髪が白くなれば、人によっては銀色に見えることはある。
 だが、この少女は違う。淡く紫がかった、繊細で奇麗な銀色をしているのだ。肩甲骨のあたりまで伸びた彼女の髪は、正午の光と穏やかな風を受けて時折きらきらと輝いた。
[ねえ、おい、ちょっと……ってば]
 ルードは彼女の横でひざまずき、目を閉じたままの彼女の顔に向かってそっと声をかける。
(まさか、死んじまってるのかな……)
 ルードは、少女の両肩に恐る恐る手をまわした。彼女のふわっとした暖かい肌の感触と穏やかな息遣いとをルードは感じた。彼女の身体を軽く揺さぶりながら、もう一度話しかけてみた。
 彼女は小さくうめき、ゆっくりと目を開けた。
 ルードは、彼女の瞳に吸い寄せられるような感じを覚えた。底知れない奥深さを感じさせるその色は、翡翠《ひすい》。ルードの顔がその瞳に映っているのが分かるほど奇麗だった。
(可愛い女《ひと》、だな……)ルードは素直に感じた。  当の少女は、ぼうっとした虚ろな表情でルードを見ていたが――。彼女の顔に意志がよみがえるやいなや、途端に表情を変え、怪訝《けげん》そうな顔で彼を見やる。
 そして彼女は立ち上がり、大声で叫んだ!
[わわっ?!]
 ルードはびっくりし、尻込みした。少女のほうもよほど驚いたのか、口から発するものが言葉になっていないようだ。
[大丈夫だって! 俺は何もしやしないよ!]
 ルードは立ち上がると両腕を横に広げ、半ば錯乱していると思われる少女に語りかけた。
 ルードの言葉を聞いた彼女は叫ぶのを止め、次にきょとんとした顔でルードをじっと見る。構えた姿勢をやや戻して。
[大丈夫]ルードは優しく言った。少女のほうは、多少警戒を解いたようだが、なおも不思議そうな顔をしている。
[いやね、君が驚くのも分かるよ。けどさ、俺だってわけ分かんないうちに、こんな所に来ちゃったんだ]
 緑色の少女の目を見ながら、ルードは笑みをつくって話しかける。少女は一切の言葉を口に出さない。まいったな、と思いつつも軽く苦笑してルードは言葉を続けた。
[俺はルード。ルード・テルタージっていうんだ。スティン高原で羊飼いをやってる。まだ一人前じゃないけどね。……君はなんていうんだい?]
 そう言うルードの脳裏に、ある状況が浮かび上がる。それは、怯える羊をなだめようとするルードだった。
(まさにそれだよな、……今の俺って)
 しかし、いっこうに少女はしゃべろうとしない。ルードは不安になってきた。この少女は一体何者なのだろう?
 そんな折、ようやく彼女の口が開いた。
……あ……う……
 ルードが聞き取れたのはそれだけだった。ルードに訴えかけるような、そんな切実な表情をしている。再び、彼女は何か声を出そうとしたが、口を閉ざし、表情を曇らせた。
(もしやしゃべることが出来ないのか、この娘は。それとも、さっきのショックで言葉を失ったのか)
 ルードはそう思い、半ばひとり言のように話しはじめる。彼女に対する笑みは崩さないが。
[さあて、っと! ここはどこなんだろうな? あそこの山がスティン山地だとすると……太陽の位置からして、今はその北の平野にいるのかな? ということは、だ。どこかにクロンの宿りとダシュニーを結ぶ街道があるはずだよな]
 ルードはゆっくりと歩き出し、振り返って少女に自分の歩く方向を指し示す。
[とりあえず歩こう! な、街道に出れば何とかなるさ!]
 少女に対してもう一度意思を込めて身振りを示し、ルードは歩き出した。少女は彼の数歩あとからついてきた。

 それからしばらく経った。お互い無言のまま、ただ歩く。
 ルードにとってその沈黙は耐え難いものだった。連れているのは、謎めいた銀髪の少女。ますます不安感が募ってくる。だが、この少女を放っておくなど出来なかった。彼女を怪しむ気持ちと同時に、彼女に惹かれる気持ちも存在したからだ。
 先ほどルードが口にしたように、ここがスティン北の平野なのかさえ、実は彼自身怪しかった。少なくとも、彼女と接触する前――野原にいた頃とは違う時間に彼らはいるということだけは確かだ。だが、あとはまったく分からない。どことも知れない場所で、ただうろつきまわっているに過ぎない。だが、この荒野に突っ立っていた所でどうしようもない。よりよい方向にことを運ぶには歩くしかなかった。

 歩き疲れた頃、二人は人の手によって整備された街道に出た。道端には杉板に書かれた道標が立っており、分岐後このまま一メグフィーレほど道なりに進めば、クロンの宿りに到着することが書かれていた。
 ルードはまず、ここが自分の知っている大地であることにほっとした。もし本当に異次元の世界だったら、彼にはなすすべもなかっただろう。ここがスティン北の平野と分かった今、早いところ高原へ戻らなければならない。
[まずはクロンの宿りに行こう。俺はこの後、スティンの村に戻るけど、君はどうする?]
 ルードは少女に話しかけるが、やはり彼女からの言葉は返ってこない。少女は道標の前に立ち、それを凝視したままだった。彼女は嘆息を吐き、ゆっくりとルードのほうへ首を向ける。その表情は心なしか寂しさを感じさせるものだった。
 ルードは自分が進む方向を指差しながら言った。
[とにかく、こっちへ行こう。一緒に高原へ戻るかい? 君と会ったのがムニケスの麓だったから、村に行けば君がどこの誰なのか、分かるかもしれないしね]
 果たして身元が分かるとは思えないが、一言もしゃべらないこの少女を放っておくわけにもいかなかった。

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三.

 クロンの宿りの入り口には、石造りの監視塔が立てられており、不審者の侵入を防いでいる。ここにルード達が辿り着いたのは、太陽が少し西に傾き始めた頃だった。
 相変わらず彼らは一言も言葉を交わさなかったが、二人はようやく安堵の表情を浮かべ、お互いを見て少し笑いあった。だが同時に彼らはへとへとに疲れ果てていた。少女はすでに息切れしている状態だったし、ルードはムニケス登山からずっと歩きっぱなしであったため、すこしでも気を許すと倒れてしまいそうだった。
 そんな二人の様子を見ていた塔の衛兵は、ルード達が塔の前に着くなり歩み寄って来た。
[なあおい、大丈夫か?! 随分と長いこと歩いて来たように見受けられるが……]
 中背で鬚面の衛兵がルードに話しかける。
[……え、……ああ、そうなんですよぉ……]
 気がゆるんだルードはふっと意識を無くし、倒れかけた。衛兵は慌てて彼を受け止めると、ルードの肩を担いで塔の中へと誘導した。

* * *

(……)
(……ここはどこなんだろう。わたしが知らない場所……)
(なんでこんなところにいるの? 確かに崖から――)
(それに、この人は……誰?)

 聞こえてくる声は夢の中の声か。夢うつつにそう思いながら、ルードは目を覚ました。彼は衛兵に運ばれ、控え室のベッドに寝かされていた。長いこと眠っていたようにも感じられたが、実際にはそうではなく、石造りの窓から差し込む陽光から察するところまだ夕方前であった。
 ふと横を見ると、あの少女がルードと同じようにベッドに横になっていた。今し方目を覚ましたところなのだろう、彼女は少々眠そうな目でルードの顔を見返した。

(この人……どんな人なんだろう? わたしを助けてくれた……とりあえず悪い人じゃあなさそうね)

 ルードは確かにそう聞いた。だがそれは言葉としてではなく、頭の中に直接響いてきたのだ。今し方、夢を見ていた彼に聞こえて来た声と同じ、澄んだ可憐な少女の声。ルードはむくりと上半身を起こすと恐る恐る少女に声をかける。
[今……君が言ったのか?]
 少女は横になったまま、目をしばたかせると不思議そうな表情を浮かべ、ルードを見つめる。
(まさか、この人に聞こえたの?! ……でも、この人は何を言ってるの? 言葉が全然分からないなんて……)

 ルードの頭の中に再び〈声〉が響いてきた。
[俺が何を言っているのかが分からない、ってことかい?]
 ルードは再び尋ね返す。だが、いくら待っても〈内なる声〉は聞こえてこなかった。
[俺はルード、ルード・テルタージっていうんだ]
 ルードは右の掌で自分の胸を何回か軽く叩き、自らを彼女に訴えた。
 少女は身を起こし、ルードのほうを向いてベッドに腰掛けた。そしてゆっくり人差し指を彼に向け、小さな唇を開いた。
……ルード?
 その言葉を聞き、ルードは微笑み、[そう、俺はルードだ]と答えた。
[君は? 何ていうのかな?]
 ルードは彼女に指を向けた。それを見た少女は掌で胸をそっと押さえ、それからルードに聞き返すような表情をした。何を意味するのかが分かったルードは、小さくうなずいた。
[そう。君の名だよ]
……ライカ……。ライカ・シートゥレイ……
 少女はやや小さな声でルードに名乗った。
[……ライカ……か]
 ライカと名乗った少女は、小さく首を縦に振った。
[ねえライカ、俺の言ってることは、やっぱり分からないか?]
 そう言っても、ライカはきょとんとした顔でルードを見ているだけだ。小さく息をつくとルードはベッドから起き上がり、背伸びをしてベッドに腰掛けた。
[……そっか。まあ、いいや。さっきみたいに何かの拍子に話しが出来るかもしれないしな!]
[おっ、二人とも、目が覚めたか!]
 ルードが振り向くと、若い兵士が扉の縁《ふち》に立っていた。

* * *

 部屋を出た後、ルード達は彼らを最初に介抱した中年の衛兵にいくつか質問された。ルードは自分達の身に起きた不思議な出来事は伏せつつ、衛兵に答えた。彼ら衛兵が警戒しているのは野盗や密売人といった類の連中である。だが衛兵にとってルード達はとてもそんなふうには見えなかった。
 ベクトと名乗った若い衛兵が、ルード達の寝ていた一室を今晩の宿として提供してもよい、と言ってくれたので、ルードはその申し出に感謝し、一晩ここで泊まることにした。ベクトから聞くところ、ルードがムニケスに登ってからすでに一日が経過している、ということも分かった。

 ルードとライカは塔を後にし、宿と商店が建ち並ぶ町の中へ入っていった。夕方ということもあり人の往来が多く、町はこみごみとした様相を呈している。
 ルードは、祭りの時スティンの村に滞在していたタール弾きの戦士、ティアー・ハーンを探すことを思いついた。すでに見知っているハーンになら、彼は全てを話せると思った。それにひょっとしたらハーンは自分達を助けてくれるかもしれない、と期待したのだ。
 塔にいた若い衛兵がハーンの名を知っており、もし彼がクロンの宿りに戻っているなら、夕方頃は町の西のほうの広場でタールを弾いているはずだ、と教えてくれた。
 ハーンがここにまだ滞在していることを祈りつつも、ルード達は広場へと向かった。町のあちこちから夕方の喧騒が聞こえてくる。そんな中、タールの確かな旋律がルードの耳に入ってきた。音色は、藤の蔓《つる》が絡んだアーチの向こう側、煉瓦《れんが》造りの小ぢんまりとした建物から聞こえてくるようだった。
 そこは赤い煉瓦に相反するように〈緑の浜〉という看板の掲げられた小さな宿屋だ。ルードは分厚い木の扉を開けた。

 玄関は休憩所を兼ねていた。落ち着いた趣のあるその空間にはソファーが二つ置かれている。庶民的でありながらも品がよく、居心地のよさそうな宿だ。
 そしてソファーに深く腰掛けてタールを弾いている、長身の青年の姿があった。ティアー・ハーンである。ハーンはうつむき、例の大きなタールを見つめながらつま弾いていたので、ルード達に最初は気付かなかった。しかし演奏に一段落がつくとおもむろに顔を上げ、ルードの姿を認めて笑みを浮かべた。彼はタールをソファーに置いて立ち上がった。
[あれ? ……えーと、君は確か……ルードかい?]
[久しぶり、ハーン!]
 ルードは安堵の笑みを隠せなかった。ルードはハーンとの再会を祝って握手を交わした。そしてハーンは、扉のところでたたずんでいる少女に気付いたようだ。
[ここまで来るなんてどうしたのさ? スティンからかなりあるのに……まさか、あの娘と駆け落ち、とか?]
 ハーンは小声で揶揄《やゆ》した。
[ちっ、違うってば! ……と、とにかく! あなたがいてくれてよかったよ]
 少々動揺するルードを見てハーンは微笑すると、彼らにソファーに座るよう促した。ライカもルードの手振りで招かれ、ルードの隣に、ハーンから隠れるように座った。
[大丈夫だって、ハーンは信じてもいい人だよ]
 ルードは落ち着いて話し、ライカの警戒心を解こうとした。ライカに意思が通じたのか、ハーンに軽くお辞儀をする。
[ああ、どうもこんにちは。僕はこのとおり――]
 ハーンは右腕で抱えているタールを鳴らしてみせる。
[ハーン。タール弾きのティアー・ハーンだよ]
 ……ハーン……
 確かめるような口調でライカが声を出す。
[へえ。可愛い子だねえ、ルード以外にはちょっと恥ずかしがり屋さんなのかな、君の恋人は]
 喉でくっくっと笑い、ルードを再度揶揄するハーン。
[……だからそうじゃないっての……。ああ、それであなたはずっとここにいたのかい?]
[……あらら、話題を切り換えされちゃったなぁ、まあいいや。ええとね、そうでもないんだ。ダシュニーとカラファーの間で隊商の護衛の仕事が二回入って、三週間ばかり留守にしていてね。やっと昨日帰って来たばかりなんだよ]
[そうか、いや、よかったよ、帰って来てくれててさ]
 ルードが言う。
[……で、僕に何か話があるのかい? わざわざこんな遠くまで来るほどの――]

 その時、奥の扉が開き、口髭をたくわえ、がっしりとした体格の中年の男性が顔を見せた。
 ハーンはにっこり笑うとその男性に声をかけた。
[やあ親父さん。こちらは僕の友達だよ。わざわざスティンの高原から来てくれたんだ。夕飯でも作ってあげてよ。何か食べたかい?]
[え、いや。何も……]
[そう。……じゃあ親父さん、この二人にしっかりとしたものを食べさせてあげてよ!]
 ハーンが宿の主人にそう頼むと、主人はルードをじっと見て言った。
[ハーンの友達か。しかもわざわざ遠いところからなあ。よりをかけてたっぷりとご馳走してあげらあ。心配するこたないよ、どうせ金はやつ持ちなんだからな!]
 主人は豪快に笑い、再び奥へ消えていった。
[……この町にいる時はさ、ここが家代わりみたいなもんでねえ。三年くらい住み込んでるんだ。あの人はここの主人で、ナスタデンっていうんだ。戦士みたいにいかつい身体をしてるけど、根は優しくていい人さ]
[……食事、いいのかい? 悪いねぇ]
 ルードは少しばつが悪そうに言う。
[いいっていいって、久しぶりに会えたんだし。……で、僕に何か言いたいことがあるのかい?]
[う、うん。そうだなあ]
 ルードは言葉を切ると白塗りの天井を仰ぎ、考えをまとめようとする。出来事の何もかも突拍子がないので、どうやって話したらいいか迷うのだ。ルードはとりあえず、ライカを紹介することにした。
[ライカ、ね……。はじめまして、ライカ]
 ハーンがそう挨拶すると、ライカは会釈した。
[……ふむぅ。まあ、駆け落ちっていうのは冗談としてもだよ、やっぱり何かわけありなんだね? ルード君]
[そう。俺自身がまだ信じられないし、ハーンにも分かってもらえるかどうか分かんないけどね。……彼女と――ライカと出会った時のことから話すよ]

 ルードは今までのことをハーンに語った。ハーンはそれに聞き入り、時々うなずいた。
 出会った時のこと、なぜか北の平野にいたこと、謎に包まれたライカ自身のことなど、ルードの体験を余すところなく明らかにした。
 話の途中、鴨の入ったシチュー、ボイルされた鴨や野菜、パンなどが出来たというので、小さな食堂に移動したルード達は、それらに舌鼓を打ちながらも話を続けた。ルードの正面に座ったハーンは、それに真剣に聞き入っていた。話が終わる頃には、日がとっぷりと暮れてしまっていた。

[……そうかあ……]
 全てを聞いたハーンはひとりうなずいた。
[……分かってくれるかな? 信じられないかもしれないけど、でもそうして俺とライカは今、ここにいるんだ]
 ルードは訴えるような目でハーンを見る。ハーンはルードを見ているようで実は見ていないようだ。何かに思いを馳せるように、遠い目つきをしているのが分かった。
[……ああ、そうだね、確かに普通に考えたらこんなこと、にわかに信じがたいけど、そんな不思議なことがあってもおかしくはないかもしれない。……いや、ともかく君達がここにいるのはまぎれもない事実なんだから、事実を事実として受け止めなくっちゃいけないんだよなあ……]
 ハーンの言葉は途中からひとり言のようになった。ハーンは少しの間、考えに耽っていたようだが、やがていつもの口調でルードに話しかけた。
[そうだね、まず、ルードとライカは高原に戻んなきゃあね。それに、ひょっとしたら――剣が必要な状況にすらなるかもしれない。だから僕もついて行こう]
[本当に!? ありがとう、そいつは助かる!]
 破顔するルード。
[何が起こるか、これは本当に分からないぞ。……あの時のように――]
 そこまで言ってハーンは言葉を切る。
 ルードは訝しがった。ハーンは今、何を言わんとしたのだろうか?
[今晩はここに泊まっていきなさい。明日出発しよう!]
 ハーンは話を打ち切ろうと威勢のいい声を出す。
[え? でも、見張りの塔の衛兵さんが、控え室に泊まっていいって……それにハーンに悪いんじゃあないか?]
[構うことないってば。詰め所より、こっちのほうが過ごしやすいよ。それにルードの服も汚れてるようだから、洗って僕のを着るといい。暖炉に置いておけば一夜で乾くさ]
[そう……何から何までありがとう。でも宿泊代は……]
[ああ、僕が払っとくよ]
 ハーンはさらりと言ってのける。
[じゃあ、村に着いたら返すから……]
[いいよ、いいよ、興味深い話を聞かせてくれたお礼とでも思ってちょうだいな]
 ハーンはあくまで自分を訪ねてくれたルードを歓迎する意向らしい。ルードはハーンの心遣いに感謝した。さらに塔の衛兵のほうにはナスタデンが連絡をつけてくれたそうで、なおのこと感謝の念を深くした。

 ナスタデン夫人がルードとライカ、それぞれの部屋に案内した。ルードが通された部屋は小さかったが、奇麗に整頓されていて、木で作られた調度品は部屋に調和していた。彼はしばらくの間、心地の良いふかふかするベッドで横になっていたが、まだ眠くも無く、さりとて特別何かをするということも無いので、そのうち退屈になってきた。
 そんな時、タールの音色がルードの耳に届いてきた。ルードは起き上がり、入り口の広間のほうへ行こうと部屋の扉を開けた。向かいはライカの部屋だ。ルードが廊下に出た時、ライカも扉の隙間からちょこんと顔を見せた。
[ライカも退屈かい? ハーンがタールを弾いてるみたいだから聴きに行かないか?]
 と身振りを交えてライカを誘った。ライカに意図が伝わったらしく、彼女はルードについてきた。
 ハーンはルードが宿に入ってきた時と同様、ソファーに座ってタールを鳴らしており、二人の客人が音に耳を傾けていた。扉を開けて入ってきたルード達の姿を確認するとハーンはにこりと笑い、またタールの弦を見つめた。一つの楽器から鳴っているとは思えないほど、彼のタールは深い音を出す。ハーンの演奏は穏やかに流れ、それが激しいものに転調し、時には暖かく、また寂しい音を奏でる。それは一大叙事詩のごとくであり、広間にいる人々はその旋律に身を委ねた。
 ルードとライカは、ハーンとは別のソファーに腰を下ろし、一刻後、ハーンが演奏を止めるまでタールの調べに聞き惚れるのだった。

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四.

 同じ頃。
 その男は、ちろちろと儚げに点るろうそくの火以外明かりのない、漆黒に覆われた部屋の中で、身じろぎ一つせずに長いこと立ち尽くしていた。
 聞こえるのは、その者の発する静かな息遣いのみ。男の両の眼はしっかりと開かれていたが、それは己が周りの暗黒を見据えているのではない。遠いところにある別のものを見ている、もしくは意識を遥か遠くに飛ばし、思念に耽っている様子だった。
 ややあって、彼は深く息をつき、ひとりごちた。
「何なのだ、今感じた異質な感覚は? ……干渉だというのか? だとすれば、由々しき問題だ。野放しにしてはおれぬな……」
 男のいる空間に徐々に明るみがさしてくる。
「〈帳〉よ。あの時、お前が我に語った言葉が、まさか真実となろうとはな。うかつだった。だがな、世界の流れを変えるわけにはいかないのだ。いかな手を用いてもな――!!」

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