『フェル・アルム刻記』 第一部 “遠雷”

§ 序章

一. 対峙する者

 大樹は千年近くにわたって地に根を下ろし、世界の有り様を見続けてきた。ごつごつとした枝々には常に緑の葉が茂っている。そして周囲の木々を暗がりに隠すのだ。
 畏怖。
 人は大樹に畏れの心を強く抱くことだろう。
 内側は大きなほらが出来ている。命ある樹木ということを否定するように、無機質な石造りの家がそこにあった。

 先ほどから、二人は対峙《たいじ》していた。語りあう言葉はなく、ただ静寂が存在するのみ。
 一人は安楽椅子に深く腰掛け、腕組みをしている大柄な男。
 そしてもう一人は、ローブに身を包んだ若者。彼の着るびろうどのようなローブは奇麗な臙脂《えんじ》色をしていた。鮮やかな紅ではなく落ち着いた、しかし存在感のある色。若者の雰囲気そのものを象徴しているかのようだ。
 ややあって。
 言葉を切り出したのは、若者のほうだった。
「この世界はいよいよ秩序を失おうとしている、と私は察する。……今回の事件、貴公はどう考えている?」
「事件だと? あれごときは些細なことよ。我《われ》が予期せぬ出来事というのは確かに過去にも存在した。だが、全ては我の力のうちに収まっている」
 低い声を発した男は、鼻で笑う。傲慢な自信に満ちた声が、若者の感情を害したようだ。臙脂のフードに隠れて、表情は見えないが。
「力のうちに収まっている――それは増長というものだ。世界に歪みが生じたのは明らかだ。いずれそれはこの虚構の秩序を崩し、“太古の力”を――」
 男は右手を差し出し、若者の言葉を制した。
「勘繰り過ぎだ、〈帳《とばり》〉よ。事態は収拾し、全ては消え失せた。この世界は――フェル・アルムは不変だ。永久にな」
 この二人は、お互いの放つ強大な威圧に向き合っている。それはある意味、静かな戦いとも言えた。
「……結局のところ、貴公は変わらず、か……」
 〈帳〉と呼ばれた若者は哀しげに言った。
「だが、なぜなのか? かくも大きな出来事が起きたというのに、なぜそうも平然としていられる?!」
「我を取り巻く大いなる流れは、恒久に変わらぬゆえに、だ」
「その流れが、たとえ抗うことがあっても?」
「そのようなことなどありえぬな。全ては我のもと、掌中に収まっている」
「……どうやら、これ以上話していても無駄のようだな。いつかまた来るとしよう……」
 言うなり若者は踵を返す。
「その時もお前の話は変わらぬだろう、そして我の答えも。――今までと同じだ、昔そう言ったようにな……」
 その言葉を背中に聞きながら、若者は家を後にした。再び静寂が周囲を支配する。

 大樹の外へと出た若者は、巨大な樹を仰ぎ見てつぶやく。
「貴公の言うように、何も変わらないかもしれない。だがあれこそが変動の兆しを示したもの、と私は感じるのだ。悲しいかな、力を失った私ひとりではどうにもならぬか……」
 そう言って彼は大樹から立ち去った。
 この対談が森で交わされたことは誰も知らない。そして彼らの存在すらも。
 それから年月は十三年経つこととなる。
 表向き、平穏のうちに。

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二. 始まり

 春。
 スティンの山々から溶け出した雪が冬の間枯れていたクレン・ウールン河に流れ込み、その流域を潤して海へと至る。ウェスティンの地に眠る戦士達も、新たな生命を育んでいくその水によって慰められるだろう。

 ――あれから十三年の歳月が流れようとしている。中枢都市アヴィザノの暴動から始まった一連の騒動は、反逆組織“ニーヴル”を生み出すに至った。
 ニーヴルという言葉は『否定』を意味するとされる。十三年前、帝都アヴィザノで暴動が勃発し、ニーヴルは国家に対して反旗を翻した。ニーヴルを鎮圧するために中枢の騎士達が動き、各地の人々もそれに呼応した。ウェスティンの地で両軍の総力を結集した戦いが繰り広げられ、そして決着がついた。
 ニーヴルは滅亡し、フェル・アルムに平和が戻ったのだ。
 だが、『痛手』というものはたやすく癒されるものではない。ウェスティンの決戦で双方あわせて何千、いや何万に至るかもしれない戦士が命を落としている。そして付近に点在していた村や集落も、戦いに巻き込まれて潰されていった。
 大地も、人々も、その記憶をはっきりと刻み込んでいる。

 春。
 それはスティンに住む羊飼い達にとって、一年の始まりを意味する。冬の間、平野部で過ごしていた彼らが、羊達とともにスティン高原へと戻る季節。
 高原へ戻った日、羊飼い達は宴を催すのが例年の習わしだ。これからの生活をお互いに励ますため、そして高原から遥か、ウェスティンの地を見て悲しみを分かち、死者を慰めるため。
 この春は特に、世界各地で盛大に祭りが行われる。フェル・アルムが建国千年を迎えるからだ。

 今から千年も昔、大地は混乱のきわみにあった。世界に秩序をもたらし、統治した人物こそユクツェルノイレである。
 この世界――ただ一つの王国――は“フェル・アルム”、上古の言葉で言うところの〈永遠の千年〉と名づけられ、ユクツェルノイレは神君として世を統べた。
 それから千年のながきを経た今も、帝都アヴィザノ北方にあるユクツェルノイレ湖の偉帝廟《いていびょう》から、神君はフェル・アルムを見守っていると言われている。

 建国千年を祝うこととなった羊飼い達の宴は、今までになく大規模である。彼らは近隣の村人や手のあいている警備兵にも声をかけて回った。今日は祭りのはじまり。日が暮れるにしたがい、宴はより盛大になっていった。火を囲んで歓談する大人達。弦楽器《タール》やフィドル、笛で音を奏でる者、それにあわせて踊りに、歌に興じる男と女。
 その集まりから離れたところでは――切り立った場所から遠くを流れるクレン・ウールン河の流れを見下ろす少年がいた。そして、彼にふらふらと近づいていく少年。

[おーい、ルード!]
 浅黒い肌をした少年が、ひざを抱えて座っている少年のところへ近づき話しかける。
[……んん?]
 ルードは彼のほうを向かないまま、気のない返事をする。近づいてきた友人――ケルンも、ルードの呆けた返事を気にすることはない。座り込んでいるルードと、立ったままのケルン。彼らは姿勢を崩さないまま、輝く河の流れを、そして遙か彼方の赤い空を見やるのだった。
 光を吸い込むルードの濃紺と、跳ね返すようなケルンの金髪。各々の髪は夕日を受け一層際立つ。
[ルードよお、お前もさぁ、酒飲んだかあ?]
 陽気な口調でケルンは話しかけてくる。
[うん、ちょっとは、なぁ……]
 髪留めでまとめられた後ろ髪を指で愛撫しながら、ちらとルードは親友の顔を見る。
[おいケルン、お前……相当飲んでないか?]
 ケルンの顔は夕日に負けず、真っ赤だ。
[はっ、酒ってのはいいもんだなぁ! 景色だっていつもと違ってみえる。うーん、夕日ってのがこんなに奇麗なもんだったなんて初めて知ったぜ!]
[まあなぁ……]
 ケルンのほうは見ず、膝を抱えたままの姿勢で、ルードは曖昧《あいまい》な返事をした。
[いやあ、なんでこんなに赤いんだろうなぁ?]
[さあ、なぜって訊かれても……なぁ]
 さっきからやけに饒舌なケルンに対して、ルードは冷静そのものだった。物思いに耽っていたところを邪魔された、というせいかもしれない。
 そんなこととはつゆ知らず、ケルンはルードの真後ろにどっかりと座り込み、話しはじめる。
[つれないなぁ。夕日が赤いって本当か? 昔からそうだったのか? 赤じゃなくて、ほかの色でもいいじゃないか。……何が言いたいかっていうとだ、例えばこの空が、別の色に突然変わっても不思議じゃないってことだよ]
[はあ?]
 ケルンの謎めいた言葉にルードはついていけず、訝しげな表情を浮かべた。
[俺の言ってること、間違ってるか? お前なら……『見えないものが見える』とか言ってたお前なら、こんなことを話しても分かってもらえると思ったのによ]
[そんな昔の言葉を引っぱりだしてくるなよ……]
[でもさ、お前しかいないんだよ。俺の話を分かってくれそうなやつがさぁ……]
 ケルンは大げさに落ち込む仕草をみせる。
[ああもう、分かったから! 話を聞いてやるよ]
 その言葉を聞き、ケルンは目を輝かせた。酒が効いているのだろう、普段にもまして彼の表情は豊かだ。ケルンは嬉々としてしゃべり始めた。
[じゃあ聞いてくれよ! ええと、空の色の話だったよな? そう――神様ってのがいたとしてだ、その人が気まぐれで空の色を変えるかもしれないだろ? だから別に空が突然黄色になっても、俺はそんなもんかって感じでさ、驚かねえと思うぜ]
[うーん……取り止めもない話だなあ。それで、哲学者様は何が言いたいんだ?]
[だからぁ、今日までの常識ってやつが明日も通用するとは誰も分かんないってことよ!]
 酒に酔った勢いに任せ、ケルンの説教はさらに続く。
[フェル・アルムが世界唯一の大地だって? 海の向こうに陸があったり、“果ての大地”をずーっと行ったところに国がある……ってのは、確かに言い伝えにはあるけどよ、誰も信じちゃいねえ。でもある時突然、そんな不思議なもんがひょっこり出てきたりすることだってあると思わねえか? 世間の大人達はなんで今の常識がずーっと続くなんて考えるかね? 俺達は世界の全部を見知ってるわけじゃないってのに。そういうとこでニーヴルの連中の考えも、ちょっとは同感出来るんだよなぁ]
 ぞくり、と背筋が凍る。ケルンの言葉にルードは過敏に反応した。ニーヴルを肯定することは決して許されないのだ。こんなことを大人達に聞かれたら――!
 ルードはケルンのまとまりない説教を止めさせよう、と思って後ろを振り返った。
――当のケルンは膝を抱えるようにして寝ていた。興奮気味にまくしたてて、酒が一気に体にまわったのだろう。
 騒ぐだけ騒いでおいて勝手に寝るなよ。ルードはそんな表情でケルンを見る。
[まったく……]ひとりごちるルード。ケルンの今し方の言葉を、かつての自分自身に照らし合わせながら。
(『見えないものが見える』か。確かに俺は言ったさ。でも、そんなものは見えないんだ。……いつからか、見えないようになってしまったんだ)
 ふとルードは、赤い陽光を横から浴びているスティンの山々を見た。まだ残雪があるものの、徐々に山は本来あった姿へ戻りつつある。あと半月もすれば山への立ち入りが許可される。山は狩りの場であり、少年達の小さな冒険の場でもあるのだ。
 ルードは、自分の身にいずれ起きる事態を知らない。

 ルード・テルタージ。高原の麓ラスカソ村に住む十七歳の少年である。北方人――ライキフびとの典型として肌の色は白いほうで、青みがかった黒い髪を持っている。
 彼は子供の頃、クレン・ウールン河流域の小さな村に住んでおり、両親と三人でつつましく暮らしていた。
 しかし、十三年前のフェル・アルムとニーヴルとの戦いに村は巻き込まれ、戦場と化した。父親のヤールは村の男達とともに村を守るため槍を持って家を後にし、そして再びルード達のもとに帰ることはなかった。
 数週間が過ぎ、悲しみのなか母親のリレエは決断をする。スティン高原で羊飼いをしている彼女の弟のもとに身を寄せよう、と。実際、村は酷い有り様で、もはやそこに再び居を構えようなどと考えている者は無いに等しかった。それほどまでに彼らの心は打ちのめされたのだ。
 数百年のながきにわたり平穏であったフェル・アルム。それが破られた衝撃と、自らが戦争の被害者となってしまったという酷な事実を癒すには時間に頼るしかない。いかに住み慣れた土地とはいえ、目の当たりにする現実に立ち向かえるほど、彼らは強くなかった。
 リレエの弟、ディドル・ナッシュはヤールの死を悼み、そして快く彼ら母子を迎え入れてくれた。悲しむべきことにリレエはそれから半年後、風邪をこじらせて逝去するが、ナッシュ一家は残されたルードをそれまで以上に可愛がるようになる――まるで自分達の本当の息子のように。
 ディドルには妻のニノと娘のミューティースがいる。いついかなる時も彼らはルードを支えてくれた。今、こうして自分がいるのも彼らナッシュの人々が自分の家族となってくれたからだ、とルードは素直に思っている。
 ルードが他人に見えないものを感じるようになったのは、八歳くらいからであった。自分の立っている地面の遙か下で何かがうごめくような感覚を覚えたり、風もなく周囲に何もないはずなのに音が聞こえたり――そんなことが年に数回あった。だが、それを信じてくれる人はいなかった。みな一笑に付して『そんなことはない』と言うばかり。真面目に聞いてくれるのは従姉のミューティースやケルンくらいだった。
 とは言え、多くの人は否定したため、ルードもその不思議な体験を人に話さなくなった。そして彼しか感じなかったものも、何年か前からぷっつりと途絶えた。

[なんだぁ? ケルンのやつ、こんなとこで寝てんのかよ]
 聞き覚えのある野太い声がしたのでルードはふと我に返り、右に首を向けた。
 コプス村のシャンピオだ。普段スティンの村々とサラムレの間で旅商をしている彼は、ルードとはひとまわりほど年が離れているものの、よき友人である。彼はまだ所帯を持つ気ではないらしい。奔放な彼のことだ、女性に対して自由でいたいのだろう。彼自身もそのようなことをほのめかしていた。
 シャンピオの隣には、彼と同じくらいの年齢の若者が、両手でタールを抱えて立っていた。乳白色をしたゆったりめの上衣とそれに溶け込むような肌。ぴっちりとした、それでいて動きやすさを第一に考えているような白いズボン。癖がありながらも奇麗な黄金の髪は多少長めであり、彼の服装から醸し出される雰囲気に調和していた。
[シャンピオ! 帰ってきてたんだ。……そうだ、ケルンを一緒に運んでくれないか? 酒がまわってこの有り様だよ]
 見たことのない青年を気にしながらも、ルードは久しぶりに会う友人に声をかけた。
[おお、ここから突き落としゃ、びっくりしてこいつの酔いも覚めるだろうよ]
 シャンピオも浮かれている。仕事から解放され、久しぶりに故郷に帰れたのが嬉しいのだろう。
[あのなぁ]
[はっはっは、冗談だって。まあ、こいつも相当飲んでたからなあ。……俺達もこいつに飲ませ過ぎたかな? ……それじゃあケルンの家まで運ぶとするか]
 結局、シャンピオ一人でケルンをおぶっていくことになった。そのほうが運びやすい、とシャンピオが言ったからだ。
 ケルンもまた戦災孤児で、昔はスティン高原から東南にあたるセル周辺に住んでいたが、やはり十三年前、スティンに住む親戚を頼ることになったのだ。

 祭りの輪から遠ざかっていく。周囲はところどころに岩のあるような草原だ。そこから少し丘を下ったところに一軒の家がある。スティン杉で出来たその家が、ケルンの育った家だ。ルードの家もそこからほど遠くないところにある。ケルンの家に連れて行く途中、シャンピオはルードに話しかけた。
[……こいつも重くなったなぁ、ちょっと前まではちびだったのになあ。お前も、ケルンも]
[はははっ……なんかさ、シャンピオって、会うたびにそんなこと言ってるよな]
 シャンピオの右隣にいるルードは笑って答えた。
[そうかあ?]シャンピオが言う。
[俺達、いつまでも子供じゃないんだぜ?]とルード。
[うん。でもなあ、やっぱり昔の時の印象っていうのがあるからなあ。どうも驚いちまうんだよ、こいつがこんなにでかくなりやがって、ってな!]
 シャンピオが明るく話してくれるおかげで、先ほどまでいささか気が沈んでいたルードも、彼本来の元気を取り戻した。
[でも、やんちゃぶりは相変わらずなようだな?]
 そう言ってシャンピオは笑った。
[やんちゃだって? そんな無茶ないたずらは、ここ最近してないぜ?]
 少しすねた口調で、ルードは冗談交じりに反論する。
[……なあ、この半年見かけなかったけど、どこに行ってたんだよ?]ルードはシャンピオに尋ねた。
[この冬はアヴィザノとカラファーの間で交易をしていたな。カラファーの毛皮が今年は特にいい出来でな。さらにカラファー銅も積み込んで……ずいぶんと儲けさせてもらったぜ]
 シャンピオが答えた。
[へえ、でもアヴィザノからカラファーまでか。また結構な長旅なんだなあ?]
[そうだな……移動だけで片道一週間はゆうにかかっちまう。セルの山も越えなきゃならんしな。でも、それだけの苦労があるからこそ、たんまり儲けられるってわけよ]
[それをたったひとりでやってたのか?]
[まさか。行商の場合、数人の商人が隊を組んで、さらに護衛を雇っていくのが普通さ。野盗なんぞに襲われでもしたらたまらないからな。……おお、それで今回の俺達を助けてくれたのが――彼さ]
 そう言ってシャンピオは、彼の後ろを歩きながらタールの弦をつま弾いている人物を紹介した。
[えっ、あなた……戦士だったんですか?]
 ルードは感嘆の声をあげた。彼は細身で、しかもタールを弾いているものだから、吟遊詩人とばかり思っていたのだ。
 ルードは戦士というものに対し、あまり良い印象をもっていない。今でも時として自分が剣を握ることを恐れるふしがある。村と父親を失った幼い日の記憶が、未だ奥底に残っているのだ。
[うーん……、やっぱりそうは見えないかな?]
 青年は碧眼でルードを見ると、奇麗な声を発した。優雅さを持ちながらも、シャンピオと同じような優しさを感じさせる――青年の声色は日溜まりを想起させた。
[まあ、そう見えてもしかたないか。僕は護衛を主とする戦士だよ。……あ、もちろんこんな楽器を持ってるわけだから、タール弾きも生業《なりわい》としているんだけどねえ]
 どちらかというとゆっくりめに言葉を紡ぐ彼。一見、とても戦士とは思えないが、人は見かけによらないということか。
[すっすみません! ……あ、俺はルード……ルード・テルタージ、って言います]
[ああ、べつにいいよ、そんなに気を遣わなくてさ。時々自分でもどっちが本職なのか分かんなくなるからね。……ルード君、だよね。僕はティアー・ハーンというんだ]
[ええと、……ティアーさん?]
[ハーン、でいいよ。そっちのほうが名前なんだよ]
[それってさ、本名なの?]
[姓が後につくなんて変わってる、ってよく言われるんだよ……実際めったにいないだろうしね]
 奇妙な名前を持つ若者は悠長に答えると、またタールを弾きはじめた。ハーンの指はタールの弦の上を滑らかに動く。楽器自体もよく見かけるものに比べると弦の数が多く、大きい。何より、細長い板のような奇妙な形をしている。本来それは座して演奏するものなのだろう。素人目でも使いこなすには相当の修練が必要なものだと分かる。
 そしてタールから奏でられるゆったりとした美しい旋律は、ルード達を魅了した。音色に惹きつけられたルードとシャンピオは話すことも無く、音の波の中に身を委ねるのだった。
 ケルンの家に着き、彼をベッドに寝かせた後、三人は祭りの中に戻ることにした。
 ルードはシャンピオの旅の話を、そして不思議な感じを抱かせるハーンの話をもっと聞きたい、と彼らに告げた。もちろんシャンピオ達はそれを喜んだ。
[おお、俺もお前と話がしたいと思ってたとこなんだ。……しかしだなぁ、俺らと話していたら、朝までかかっちまうかもしれない。そんな長い話を何もなしじゃあもったいない。……だからお前も……]
[俺も?]とルード。
[酒を飲め!]シャンピオはにいっと笑ってルードを見る。
[……ちぇ、しようがないなあ……分かったよ!]
 ルードが言うと、シャンピオはぽん、と彼の背中を叩く。そして三人は火を囲む羊飼い達の輪に入っていくのだった。
 ミューティースら若者の演奏するフィドルや笛にあわせて、ハーンはタールでさまざまな和音を重ねていく。その横で杯を持ちながら語りあうルードとシャンピオ。音楽や喧騒は夜になってさらに大きいものになっていく。

 春の祭り。
 それは一年の始まりの祭典。
 羊飼い達はそれから何を感じるのか。ルードはシャンピオやハーンの話から何を得るのか。
 赤々と彼らの顔を照らし出す炎は、自らの火の粉を星空に放り上げるだけだった。

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