============================== □ フェル・アルム刻記 □   http://refrainof.ivory.ne.jp/novel/feralm/fertop.htm  大気杜弥・作    ookimoriya@live.jp @Tommy_Ooki(Twitter) ============================== Copyright (c) Moriya Ooki, All rights reserved. 追補編 一. フェル・アルム創造に至るアリューザ・ガルド史 二. フェル・アルム正史 三. 正史606年のこと 四. フェル・アルム中枢――王家 五. フェル・アルム中枢――歴史の調停者 六. 大いなる変動 七. 運命の渦中にあった者達、その後の出来事 八. “混沌”の出現について 一. フェル・アルム創造に至るアリューザ・ガルド史  ここに示すのは、アリューザ・ガルド歴史書の中で、フェル・アルム創造と関係があると思われる記述を抜粋したものである。  なおアリューザ・ガルド史については、書物『悠久たる時を往く』に詳しい。 アズニール暦 元年  イクリーク王朝最後の王 レツィア・イナッシュ、聖剣ガザ・ルイアート所持者となる。  ディトゥア神族の一人“宵闇の公子”レオズス、イナッシュと共に魔界《サビュラヘム》に乗り込む。冥王ザビュールは封印されるが、ガザ・ルイアートの所在は不明となる。  イナッシュ、アズニール家に王座を渡し、隠居する。 アズニール王朝の始まり。イルザーニ地方ラティムを王都とおく。 200年代  不死王研究家ルビス、アル・フェイロス遺跡より古代魔術を発掘する。これを期に古代魔術の研究が進む。 300年代  詠唱だけでなく、空間に魔法陣を書き上げることにより、術の力が増大することが判明。  呪紋《じゅもん》使いと呼ばれる者達が魔導の研究を始める。アズニールの四方に魔導の力を蓄える塔を建設。 400年代  魔導の研究が頂点に達する。  ユクツェルノイレ・セーマ・デイムヴィン、弱冠十九歳にして魔導師の位を手にする。  ウェインディル・ハシュオンがユクツェルノイレの弟子となり、エシアルル唯一の呪紋使いとして頭角を現し、数年を経て魔導師の地位を得る。ウェインディルは『礎《いしずえ》の操者』、『最も聡き呪紋使い』と呼ばれる。 425年  “魔導の暴走”はじまる。  塔から氾濫した、かたち無き力はアリューザ・ガルド各地を襲い、甚大な被害を及ぼす。  ユクツェルノイレら、預幻師クシュンラーナ・クイル・アムオレイを王朝から迎え入れて対策を講じるが、打つ手無し。 428年  “宵闇の公子”レオズス現れ、太古の“混沌”の力を用いて魔導の暴走をくい止める。  “混沌”に魅入られたレオズス、アズニール王国をはじめとした諸地域に君臨する。  ユクツェルノイレ、ウェインディル、クシュンラーナと、デルネア知り合う。  レオズスを倒す剣を入手するため、ユクツェルノイレとデルネアは、クシュンラーナの幻視をもとに“閉塞されし澱み”という閉じた次元へと赴く。 431年  “名も無き剣”を手に入れたデルネア、アリューザ・ガルドに帰還。しかしユクツェルノイレは行方不明。  デルネア、ウェインディル、クシュンラーナにより、レオズス倒される。 430年代  レオズスへの隷従で弱体化したアズニール王朝、崩壊する。諸侯は独立の構えをみせ、群雄割拠の時代へ突入する。 433年  デルネアら、イルザーニ地方を離れ、カダックザード地方へと移る。 437年  エヴェルク大陸北方の空が、突如光に包まれる。カダックザード地方西部が失われる。 二. フェル・アルム正史  フェル・アルムの歴史はひとりの人物―デルネア―によって隠蔽《いんぺい》されてきた。  偽りではない、真実の歴史をここに記す。  カダックザード地方西部が失われた年、アズニール歴437年を、フェル・アルム正史元年とおく。 フェル・アルム正史 元年  カダックザード地方西部が異空間に転移、アリューザ・ガルドや次元の狭間等から孤立した存在となる。  フェル・アルムの誕生。  転移の術の発動に伴って発生した反動の力が人々の命を奪い、クシュンラーナも死亡している。民の多くは生き残ったが、精神が虚ろとなった。  ウェインディル、消息を絶つ。デルネア、大いなる力を己のものとする。 2年  南部域に拠点を構えたデルネア、魔導師達の生き残りを直属の下僕“隷《れい》”とする。  彼らは虚ろな民を使い、南部域を開拓していく。 5年  偉帝廟《いていびょう》完成。廟にはユクツェルノイレが『フェル・アルム創始者にして神の子』として奉られることになる。 12年  南部域の開拓がほぼ整う。  デルネアは力を解き放ち、人々の精神を戻すと同時に、偽りの歴史を記憶として刷り込む。  デルネア、人々の中から王を選び、フェル・アルムの元首とする。以後、彼の血を引く者が王になる。王の呼称は“ドゥ・ルイエ”。親友ユクツェルノイレに敬意を表し、彼の息子の名を選んだ。 14年  王宮“せせらぎの宮”の建築、アヴィザノで始まる。 初代ルイエ『インサラ』、王政を確固たるものにする。  世界の趨勢《すうせい》のみを監視するため、デルネア、歴史の表舞台から姿を消す。  デルネアと隷によって疾風《はやて》が組織される。 16年  ウェインディル、デルネアと再会するも決別。  せせらぎの宮、完成する。 60年代  帝都アヴィザノ、完成する。周辺都市の整備も進む。 63年  インサラ崩御。本来は初代ドゥ・ルイエである彼だが、『七代目のルイエとして』奉られる。  デルネアら、この年を“フェル・アルム暦444年”として扱う。虚構のはずの歴史書が真実のものとして発行され、フェル・アルムの民はその正統性を疑うことなく信じるようになる。 83年  フェル・アルム中部域に魔物が発生。しかし中部は未開拓地域だったため、あまり取り沙汰されなかった。 〜300年代  特に大きな事件は無し。水の街サラムレ及び湖畔の街カラファー、この頃完成する。 314年  フェル・アルム南部域に魔物が発生。  時を同じくして、術の行使が出来る者達が現れ、彼らによって魔物は退治される。しかし術者達の出現が世界に無用の混乱を招くと危惧したデルネアが疾風を用い、術者達は抹消される。 388年  稀にみる大凶作の年。 南部の農民が反乱を起こし、ルイエ『ノトス』暗殺される。疾風により反乱者は抹消され、ノトスは病死と発表される。 395年  デルネアと隷によって烈火が組織される。 400年代  開拓の手は北に伸びる。サラムレ〜スティン〜カラファーの道が完成し、大いに栄える。 447年  ルイエ『ルビアン』の治世。王朝は増長していた。彼は疾風と烈火を積極的に用い、諸勢力を抑え込む。  恐怖政治の一歩手前まで行くが、デルネアによってルビアン抹消される。  北部の無名な音楽家ジェド・ワインリヴ、ルイエの継承者に選ばれる。以後、彼の血を引く者が王となる。 500年代  北部の街ダシュニー、完成する。  これを契機に南部、中枢都市群から北方への移住が活性化し、現在ではサラムレ以北に三万近くの民が居を構えるようになっている。 606年  “ニーヴルの反乱”起こる。 フェル・アルム暦では987年。  この年アヴィザノで、術の力に覚醒した者達が出現するも、その力を暴走させ、帝都を破壊してしまう。彼らはセル山地へ逃げ込む。また各地でも術に覚醒した者達が現れ、彼らは一同にセル山地に集結する。  ルイエ『イゼロス』、疾風を用いて術者達を牽制させる。  術者達は否定するもの“ニーヴル”を結成、フェル・アルム中枢に対して兵を挙げる。  イゼロス、烈火を総動員させるとともに、全土の戦士達に対しても決起を促す。  フェル・アルム軍とニーヴル、ウェスティンの地にて決戦となり、多大な犠牲を払いながらもフェル・アルム軍が辛くも勝利する。ニーヴルの壊滅。 613年  イゼロス崩御。娘のサイファ、弱冠十六歳にしてルイエとなる。 619年  大いなる変動の時。  世に言う、フェル・アルム暦1000年とされる年。  フェル・アルムの空間を覆い、他世界との接点を拒絶していた“見えざる天幕”、ほころび出す。  フェル・アルム全域に魔物が姿を見せるようになる。  ルード・テルタージ、次元の狭間に迷い込み、イャオエコの図書館司書長マルディリーンと対面する。 三. 正史606年のこと 『思い浮かべるは丘に咲く花』  ことの発端はフェル・アルム暦987年。  前年から天候が極めて不順であったために南部の穀倉地帯では大不作となり、帝都アヴィザノを中心に食糧不足が深刻なものとなった。  国王ドゥ・ルイエ皇の政策もはかばかしく運ばず、それを不服に思った一部のアヴィザノ市民が、987年のはじめ、王宮であるせせらぎの宮に侵入、聖なる王宮を爆破したのだ。  幸いにも死傷者はなかったものの、今までなかった反逆行為にフェル・アルム中が震撼した。  反逆者達はすぐさま捕らえられ、処刑されたが、悲しいことに彼らの遺志を継ぐものがセル山地、ルミーンの丘にて決起、自らを反逆集団“ニーヴル”と名乗り、アヴィザノに侵攻した。  彼らの力は侮れず、一時期はアヴィザノ城壁まで押し寄せんばかりの勢いをみせた。しかし、彼らの暴虐を許さない各地の騎士達が一斉に決起し、ニーヴルを、クレン・ウールン河、ウェスティンの地まで追いやった。  ウェスティンの決戦によって、“ニーヴルの反乱”は決着をみた。  フェル・アルム千年の歴史上唯一にして最大のこの戦は、あまりに多くの犠牲者を出した。クレン・ウールン河には多くの戦死者が浮かび、河は血の色に染まったとさえ伝えられる。フェル・アルム軍はかろうじて勝利を収めたものの、損害は甚大であり戦士達の大半が骸と化した。  被害にあったのは戦士達だけではない。戦いはウェスティン近隣の村々まで巻き込んでしまった。中には村そのものが無くなってしまう地域すら出たのだ。怪我を負った者。家や親しい友人、家族を失った者――野には人々の嘆き声が風によって伝わってくるのだった。  一方の反乱軍、ニーヴルは壊滅した。数少ない生き残りを除いては。青年―ティアー・ハーンもその一人であった。 * * * 「生きてる……」  凄絶な悪夢から解放されたハーンは、目を開けてゆっくりと体を起こした。  今し方の夢は、先の決戦での自分の記憶だった。中枢の騎士団との戦いの果てに、彼の所属する部隊は全滅した。ハーンが最後に見たのは周囲を取り囲む炎の壁。そこから先の記憶はない。  ハーンは布団を恐る恐るめくりあげ、自分の身体がどうなっているのかを確かめた。幸いにも五体は失われていない。だが、ところどころに巻き付けられている包帯が、彼の負った怪我の程度を知らしめている。完治するにはまだ数日を要することだろう。頭に手をやると、額から後頭部にかけても包帯が巻かれているのが分かる。癖のある金髪を指で触れると、まるで枯れ草のような感触をしている。おそらく髪の一部は焼き焦げてしまっているのだろう。  ここはどこなのだろうか? 見覚えのない部屋に彼は一人横たわっていたのだ。窓の外は暗く景色はなにも見えない。時は夜の刻を告げようとしていた。  その時、不意に横腹に激痛が走り、ハーンは小さくうめいた。  彼の声を聞きつけたのだろう。隣の部屋にいた白髪の老人が、ハーンのもとにやって来た。 「おお。無事に意識を取り戻したか! お前さん、運がよかった。もう少し助けられるのが遅かったら、命を落としていたじゃろうて」  身内の無事を喜ぶかのように、気のよさそうな老人はしわを作り満面の笑みをハーンに向けた。当のハーンはまだ状況がよくつかめていないのか、ただ目をぱちくりさせるだけだった。 「今言えることはただひとつ。ゆっくりと休みなさい。あれこれ考えるのはそれからでも遅くないからの。ともかく、お前さんは命を取り留めたんじゃ」  老人は言った。  ハーンは小さくうなずくと、再びベッドに横たわった。先ほどの痛みは和らぎ、かわって睡魔がすぐに襲い来る。彼は目を閉じて眠りへと落ちていった。もう悪夢を見ることの無いようにと祈りながら。  ハーンは戦の悪夢にうなされることなく、すっきりした気分で目覚めた。幾分か体の調子もよくなっているようだ。痛みは薄れ、体が軽く感じられる。  時は明けて朝。彼はゆっくりと上体を起こし、窓から表の景色を見やった。こんもりとした丘と蒼い空が見える。丘には花が咲いているようだったが、詳しくはよく見えない。 「おはよう若いの。ちょうど朝餉《あさげ》の支度を済ませていたところじゃった」  部屋に入ってきた老人は言った。 「外の様子が気になるか? 不幸中の幸い、というやつじゃな。わしらの村はなんとか難を逃れることが出来たのだよ。……かろうじて、ではあるがの」  ハーンは何も言えなかった。戦っていた頃の自分達が、そしてフェル・アルムの戦士達がどのような行いをしていたのか、ぼんやりと思い出してきた。戦争という狂気は、何も関係のない村々をも巻き込んでしまったのだ。  その時老人の後ろから、もう一人の人物が姿を現した。すらりとした青年。年の頃はハーンと同じくらいだろうか? 彼の風貌は同性から見ても素直に奇麗だと思えるほど。だがその姿からは普通の人間ではないことが感じ取れる。彼の髪は白。老人の白髪よりもさらに色が抜けた純白だ。また両の頬の部分には、目元から伸びるようにくちばし型の模様を象った刺青が施されてあった。その美しくも奇異な容貌にハーンは一瞬怪訝そうな表情を浮かべてその青年を見た。 「安心していい。この方がお前さんをここまで運んできたのじゃ。いわば命の恩人というものかな?」  白髪の青年は一礼をしてハーンに挨拶をした。 「一命を取り留めて何よりだ。私の名は……〈帳〉とでも呼んでくれればいい」  感情をあまり感じさせない口調で、〈帳〉と名乗る青年は言った。 「……ありがとう、〈帳〉さん。僕の名前はハーン。ティアー・ハーンといいます。あの……戦いはどうなったんでしょうか?」  ハーンの問いに〈帳〉が淡々と答える。そこには残酷な真実があった。 「戦争は終わった。ウェスティンの地で最終決戦が繰り広げられ、事実上ニーヴルは瓦解した。……残念だが、君以外の仲間は助けることは私には出来なかった。すでに命を落としていたゆえにな」  『仲間』という単語を聞いて、ハーンはびくりと震えた。布団を見つめていた顔が蒼然となる。ニーヴルであるという自分の素性がばれてしまったのだから。そしてなにより――彼と共に中枢の騎士達と対峙していた仲間達は、すでにこの世にはいない。  老人は血にまみれぼろぼろになった衣服をハーンに見せた。それはハーンが着ていた服。右胸にはニーヴルを示す四本の矢の紋章が刺繍されている。 「分かっていて助けたんですか……? 僕は……ニーヴルなんですよ?」  ハーンは布団の一点を見つめながら震えた口調で言った。 「正確にはニーヴル『だった』というところだろう。今や反逆者たるニーヴルはもう無いのだから」と〈帳〉。 「反逆者なんかじゃない! 僕達はこの国に反旗を翻したわけじゃないのに、いつの間にか反逆者の汚名を着せられている。……どうして分かってくれないんだ!」  彼にしては珍しく言葉を荒げ、ハーンは言い返した。 「真相は君の言わんとすることそのものだろう。私はそう思っている。だが歴史は隠蔽され、真実は闇の中に葬り去られる。過去にも何度かあったようにな……」  〈帳〉は言葉を選びながらハーンに答えた。 「ハーン。気持ちは分かるが、騒いでは身体に障るぞ。とにもかくにも、お前さんがニーヴルであろうと誰であろうと、この老いぼれには関係のないことじゃ。せっかく助かった命は、粗末にしてはならない」  老人はハーンの右肩に手を置くと、優しくそう言うのだった。ハーンの視界は歪み、目の奥が熱くなる。頬を伝って一筋の涙がこぼれた。やがて彼は嗚咽を漏らしながら、布団に頭を埋めた。  それを見ていた〈帳〉は老人に言った。 「まだ彼は独りにさせておいたほうがいい。……安心なさい。彼は自ら命を絶つような真似はしないだろう」  老人はうなずき、またハーンの肩に手を置いた。 「現実はお前さんにとってたいそう厳しいものなのかもしれん。隣の部屋に食事を用意しておくから、好きな時に食べなさい」  ハーンはうつむき、しゃくり上げながら、ただうなずいた。 * * *  三日が経ち、ハーンの身体はほぼ完全に回復した。なみの人間であれば一週間を要するところだが、剣の使い手であるハーンの肉体は、細い身体から想像が出来ないほど強靱なものだった。 「これから僕はどうしたらいいんだろう……?」  ハーンは抱えている不安を〈帳〉に打ち明けた。 「親元を離れて十年以上経ってますし、今さら戻るわけにもいきません。なにより、ニーヴルの生き残りがいることが中枢に分かってしまったら? 僕にはもう行き場所など無いというんでしょうか……」 「ならば私と共に来るといい」  〈帳〉は言った。 「私は“遙けき野”に居を構えている。誰も通りかかることなど無い。君の姿をしばしの間隠すにはうってつけの場所だが、どうか?」 「あなたは一体……どういう方なんですか? 色々とよく物事をご存じのようですが」  ハーンは恐る恐る尋ねた。 「私は……そうだな。賢人であり、世捨て人ともいえる。自分で賢人を自称するなど実におこがましいものだがな。そういった意味では私は怪しい人間なのかもしれない。だがもし君が一連の戦いの――フェル・アルムの真実を知りたければ、私が教えよう。私の知る限りのことを君に話そう」  白髪の賢人は言った。 「真実……」  ハーンは黙って腕組みをし、しばし考え込んだ。 「死んでいった仲間達の無念を後々に伝えるためにも、僕は真実を知りたい。――分かりました。あなたについていきましょう。僕が失うものなどもはや何も無いのだから……」 * * *  さらに一日後、ハーンは〈帳〉と共に、はるか北西の地にあるという〈帳〉の館に向かうことにした。  ハーンははじめて老人の家から外に出た。ここは丘陵地の隅にぽつんとある、ごく小さな集落だった。小屋から南にかけては小高い丘が一面に広がっており、そこでは何頭かの牛たちがのんびりと草をはんでいるのが見える。だがその草は、酪農を営むにしてはやけに貧相だ。さらに丘には他にも草花が生えており、ところどころに黄色い花がちらちらと見えている。  南の街道まで彼らを送ると老人が申し出たので、二人は喜んで受け入れた。  丘へと登る小径を三人で歩いていくと、牛たちや草花の様子が分かるようになってきた。草が緑色をしているのはごく一部のみであり、丘の残りの部分では踏みにじられたように折れ、枯れてしまっているようだ。 「ひどいな……」ハーンは顔をしかめた。 「ここはな、一面のタンポポで覆われる丘じゃった。なにもないこの村が唯一誇れる景色があったのだ。……のどかで奇麗なもんじゃった……」  老人は道ばたでしおれていた花をつまんで言った。それはタンポポの花だった。 「じゃがな、戦いが全てを台無しにしてしまった……。草花は踏みにじられ、焼かれてしまった。わしらは戦いから牛たちを守るのが精一杯だったのじゃよ」  ひどいものじゃ。そう言ってから老人は言葉を詰まらせ、それ以上語ることはなかった。ハーンと同じように、この老人や集落の人々も無念の思いを抱えているのだ。戦いが生み出した結果というのは、何だったのだろう?  ハーンはうつむきながら、折れしおれたタンポポの花を踏みしめ丘を歩いていった。花の一輪一輪から悲鳴が聞こえてくるようだ。あの戦いが、近隣の村々にまで被害を及ぼすことになろうとは、当時の彼は考えもしていなかった。しかし彼の楽観的な思いは無惨にも引き裂かれたのだ。  中腹にさしかかる頃になって〈帳〉が口を開いた。 「ハーン。心せよ。この丘を越えた先は、もっとひどいことになっているのだから……」  ハーンは小さくうなずいた。この先にあるのは、戦いの結果そのものなのだろう。 「神の子ユクツェルノイレは、人間にお情けをかけてくださらないのだろうか……」  ハーンは天を仰いで言った。 「ユクツェルノイレは……いや、なんでもない」  〈帳〉は言いかけていた言葉を抑え込んだ。神君の真実について語るということは、これから凄惨な戦場の傷跡を目の当たりにするだろうハーンに、さらなる追い打ちをかけることにしかならないから。 「生きておればこれからどうにでもなる。我が身が無事にあることだけでも、神君ユクツェルノイレに感謝せねばな」  老人はまた一本のタンポポを手に取って言った。綿帽子に包まれたそのタンポポに、老人はふうっと息を吹きかける。するとタンポポの綿毛のいくつかが風に乗って飛んでいった。 「わしらも、このタンポポと同じじゃよ。踏みにじられても、地面に深く根を下ろしている限り、また花を咲かせることが出来る。それにもしここの花々が失われてしまったとしても、この綿毛が新しい花を咲かしていくじゃろう。人もそれと同じじゃ。わしはそう信じたい……」  ふうっと、また一息。  ハーンは見守るようなまなざしでタンポポの綿毛が飛ぶさまを見ていた。この丘を越えた先には目を背けたくなるようなむごたらしい情景が広がっているという。さらに、〈帳〉が話すという真実≠ニは、おそらくハーンにとって過酷なものになるだろうと予見した。  けれども。  それまでの彼自身のように、のんびりと笑って過ごせる日々がきっと訪れるのだ。そう考えると彼の気持ちは少しばかり和らぐのだった。辛いことがあった時は、タンポポの花咲く様子を想像すればいい。丘陵一面に広がる黄色と緑が、空の蒼と調和する美しい景色を。  ハーンは真実と向き合う決意を新たにした。彼は綿帽子を手に取ると、老人と同じように息を吹きかけた。  希望あれ、と願いを込めて。       【終】 四. フェル・アルム中枢――王家 フェル・アルムの象徴、“聖獣カフナーワウ”  巨大な一本の角を生やしたこの生物は、偽史によればユクツェルノイレがフェル・アルム平定の際に騎乗していた、神の使いということになっている。以来、聖獣カフナーワウの姿はフェル・アルムの象徴として意匠化され、今日に至っている。  実際はデルネアによって捏造された象徴であり、正史上には登場しない。だが、この聖獣ときわめて酷似している生命体は、アリューザ・ガルドに実在する。東方の守護を象徴する神獣、イゼルナーヴである。 * * * ドゥ・ルイエ皇  フェル・アルムにおける国王の呼称。国王となった者はみな、古い名前を捨ててドゥ・ルイエを自らの名とする。  フェル・アルムにおいてドゥ・ルイエの権限は絶対的であるものの、ドゥ・ルイエが増長し、専横的振る舞いをするなどあり得ない。唯一、歴史上で恐怖政治を敷いたのが暴君の呼び名高いルイエ『ルビアン』であった。しかし彼はデルネアの力によって抹消され、その後の王座にはそれまでとは全く違う血筋が座ることになる。  それまでドゥ・ルイエの座にあったのはルイエ『インサラ』の血を引く者だったが、ルビアンの暴政により彼ら一族はデルネアによって粛正された。デルネアが次期ドゥ・ルイエに選んだのはワインリヴであった。彼はそれまでの王族の何ら関わりを持たぬ人間であるが、デルネアの気まぐれにも似た一存によって決定された。表向きは神託によって神から選ばれたことになっているため、新しいルイエの血に異論を唱える者は存在しなかった。以降、現ドゥ・ルイエであるサイファに至るまで、ワインリヴの一族がドゥ・ルイエの冠を戴いている。  なお、ドゥ・ルイエの名は、ユクツェルノイレの息子であるドゥ・ルイエ・セーマ・デイムヴィンの名に由来する。 * * * 近衛兵  ドゥ・ルイエ皇の側近として、王の身を護る役目を担っている中枢の戦士達。  儀式に携わる際に彼らが帯びる武器や鎧は儀仗《ぎじょう》の要素が強く、華麗ではあるが強固なものとは言い難い。しかしいざ戦いとなると、たとえ武器や鎧が無くともドゥ・ルイエのためには死をいとわないのが彼ら近衛兵だ。その忠誠心もさることながら、彼らの腕前はフェル・アルム全土を見回しても右に出る者がいないほど卓越したものである。  近衛兵は二十名ほどの人数によって構成されており、統率する隊長が一名いる。隊長は慣例として、ドゥ・ルイエ皇ゆかりの者から選出されている。ドゥ・ルイエがもっとも信頼を置くのは近衛隊長でなければならないため、ドゥ・ルイエとなる人物が幼少のみぎりから、近衛隊長の候補が選出される。多くの場合、ドゥ・ルイエの親友が近衛隊長に就任することになるが、就任前後の過酷な訓練が彼らには待ち受けている。それゆえ、隊長候補者は剣技を教わり、才覚を現さなければならない。  近衛兵は、ドゥ・ルイエを守護する役目を担っている以上、有事の際であれ、ドゥ・ルイエに代わり行政に携わることは出来ない。 五. フェル・アルム中枢――歴史の調停者  フェル・アルム中枢を語る以上、デルネアについて記さないわけにはいかないだろう。  彼こそがフェル・アルムの構造を生み出し、調停を行う、影の支配者である。 デルネア  フェル・アルム創世時に不老の身体を得た強大なる剣士。  現在のデルネアその人の動向については、イャオエコの図書館の蔵書をかき回しても出てこない。我々司書がデルネアの存在をフェル・アルムに感じ取ったのもつい最近のことであり、司書長マルディリーンですら、ことデルネアについては把握しきれていないのが実情である。ただ、宵闇の公子レオズスを倒した英雄の一人であるため、彼がアリューザ・ガルドから姿を消す前のことについては歴史書に記載がある。  デルネアはアズニール暦410年頃、ユードフェンリル大陸の小国、モウエルの辺境に生まれた。その後どのような経緯があって奴隷戦士となったのかは定かではない。 (魔法に関する才能に恵まれないため、魔法の力を偏重するモウエルでは不当に低い扱いを受けたという説、彼の親がザビュール支持者であったという説等、諸説あるが、いずれも風聞の域を脱していない)  だがユクツェルノイレらに、レオズス打倒の策をもたらしたのはほかならぬデルネアであり、二十歳に届かぬ年齢ながら、才覚に富んでいたのは事実である。  デルネアはその後、レオズス打倒をはかる四人――すなわちユクツェルノイレ、ウェインディル、クシュンラーナ、デルネア――の中で、若年ながらリーダー格となり、レオズス討伐に至る。レオズス打倒に不可欠な、強力な剣を入手するためにデルネアとユクツェルノイレは異世界に赴くが、ユクツェルノイレはアリューザ・ガルドに帰還出来なかったらしい。デルネアとユクツェルノイレは、一回り近く歳が離れていたが、親友同士であった。ユクツェルノイレを失ったことについて、デルネアは非常に悔んでいたらしい。 (私にとってはこのことが、その後のデルネアの動向に多大な影響を及ぼしていると考えている)  かくしてレオズスを倒したものの、魔導の暴走とレオズスの君臨という二つの悲劇を目の当たりにしたデルネアとウェインディル、クシュンラーナは、平穏な地を求めて去っていく。ここで彼らは、アリューザ・ガルドの歴史の表舞台から姿を消す。  フェル・アルム建国後のデルネアについては、さきに『フェル・アルム正史』で明らかにしたとおりである。フェル・アルムの歴史の裏側には常にデルネアがおり、良きにつけ悪きにつけ、フェル・アルムの平穏のために動いてきた。  だが、崩壊の兆しがみえる現在のフェル・アルムにおいて、今の彼が何を企んでいるのか、それは我々の知るところではない。  ユクツェルノイレらと出会う以前からデルネアの剣技は一流であり、地下組織で名を知らぬ者はいなかったという。地下で人気を博していた殺戮遊戯にて、ゾアヴァンゲル(竜)をひとりで倒したというのだから、その実力は推して知るべしである。異世界にて“名も無き剣”を入手した彼は、比類なき強さを発揮する。彼の唯一の弱点であった魔法抵抗力の低さを剣が補い、デルネアと剣、二者の合わさった力は、魔導はおろか、ドゥール・サウベレーンの放つ業火すら跳ね返したという。  フェル・アルムに君臨する今の彼が、どれほどの力を備えているのか、分かりかねる。 追記  今しがた、フェル・アルムを取り扱う歴史書内に、新たな記述が増えているのが判明した。 (イャオエコの図書館の書物は、時間の進行に伴い記述が増えていくのである)  デルネアが将軍を名乗り、烈火を率いて進軍を開始したというのだ。混乱のただ中、とうとうデルネアが歴史の表舞台に立つのか。これが何を意味するのか、先ほどディッセの野に帰還したマルディリーンに問うてみたが、彼女も首を振るばかりである。フェル・アルムに関する一連の事態は、ディトゥア神族ですら予期できない方向へ動こうとしているのだろうか? * * * 隷《れい》  デルネアの麾下にあり、フェル・アルムの実情をデルネアに伝える者達である。  デルネアに絶対の忠誠を誓う彼らは隷と呼ばれ、中枢内の“天球の宮”に住んでいる。  彼ら隷は、フェル・アルム創造に携わった魔導師達の子孫である。魔法の存在自体が明らかにされず、また禁忌でもあるフェル・アルムにおいて、唯一術の行使を許可されている。  術使いとしての能力を保ち、かつ隷としての存在を明らかにされないために、彼らの子孫の残し方は通常と異にしている。隷同士で子をもうけるのが常套であるが(たとえ近親の間柄であっても、である!)、それが叶わなかった場合(隷全員の性別が同一である場合等)、人さらいにといっても差し支えないかたちで異性を天球の宮に引き入れ、子孫を残すのである。子孫を手に入れた後、引き込まれた異性はどうなるのか、という点は明らかではないが、処分されるか、口封じをした上で放逐されてしまう可能性が高い。男女間や親子間の感情というものは、隷達にとっては必要の無いものであり、むしろ排除すべきものであるからだ。隷達にとって必要な感情はデルネアに対する忠誠のみである。  個々の隷には名前が無い。お互い名前を呼び合う必要性が無い上、中枢の表舞台には決して姿を現さないからである。  ただ、隷の長という、隷達を束ねる長老的存在のみ、宮殿に姿を現すことが許されている。ただし、そのときの役割は隷の長ではなく、神託をドゥ・ルイエ皇に伝える司祭である。 * * * 疾風《はやて》  正史14年、フェル・アルムの治安を守る最終手段として、デルネアと隷によって結成された。  常に単独で行動し、諜報や暗殺などを行う刺客。彼らの数の把握はしかねるが、おそらく百名くらいであろう。彼らの剣のこなしは素早く、確実である。フェル・アルムの一般の兵士達が、ならず者に対する威嚇のために剣を使うのに対し、疾風の剣は、純粋に殺人のために使われる。剣技のみに言及するのならばフェル・アルム随一を誇る、恐るべき集団である。また、中枢にとって危険と思われる存在に対してはきわめて過敏に反応し、排除することを何ら疑うこともなく行う。  フェル・アルムを巡視する役目も担うため、彼らは目立たぬように、市井の者達と同じ服装をしている。  この恐るべき刺客達は野放図にされているわけではない。法的には、ドゥ・ルイエ皇の命令と承認があって初めて行動することが可能となるのだ。だがそれ以外にも、デルネアからの命令が隷を経由して疾風達に伝わることがあり、厳密には法が順守されているとは言い難い。しかしデルネアの存在が“影”である以上、実状を知る者は皆無である。  彼らの選出方法は多くが伏せられているようだが、“生き残り戦”というものについては記述が見つかった。  それによると、疾風の候補者は十五人区切りで一室に閉じこめられ、それぞれ剣と盾を与えられる。その部屋から出ることが出来る人数は五人と決められている。部屋から出るために、彼らが行うことが殺しあいである! こうして生き残った冷酷無比な者達はさらに訓練を重ね、中枢を絶対的なものとして崇める戦士となるのである。  地方を巡回する疾風は中枢への連絡手段として、文書のほかに胸元の宝珠も用いる。隷達の魔力が秘められているこの宝珠に念ずることで、術の力を持たない疾風でも至急の連絡が可能となっている。疾風は宝珠に込めた念が直接ドゥ・ルイエに届くものと思っている。文書による連絡はあくまで形式的なものと思っており、怠ることもある。  だが実際は宝珠の情報は隷達が把握するところであり、何日も経てアヴィザノに届いた文書のみがドゥ・ルイエの元に届くというのが真実である。 * * * 烈火 烈火は、フェル・アルム究極の軍隊である。疾風では処理しきれないほど中枢に造反する者が多数出現することを想定して、正史三九五年にデルネアと隷によって結成された。  烈火の剣技は疾風のそれと同じくらい高いものである。しかし、単独行動・迅速性をむねとする疾風とは異なり、烈火は集団連携による戦いに特化している。深紅の鎧に包まれた彼らと戦争を行って、無事で済むはずがない。  烈火の人数は二千と、かなり大規模な組織である。ゆえに、よほどのことがない限り烈火の発動は行われない。疾風に比べると正史上の登場回数も少ないようである。“神託”を受けたドゥ・ルイエが勅命を下すことで烈火の発動は行われている。  近年では、正史606年の“ニーヴルの反乱”に際して烈火が発動されニーヴル達と戦っている。ニーヴル達は殲滅されたものの、烈火の被害も甚大であった。烈火も、フェル・アルムに住む民である以上、術に対する知識など持ち合わせているはずもなく、術使いであるニーヴル達に翻弄されたのだ。以降、烈火の鎧には、隷の手によって魔法に対する抵抗力が付与されるようになった。今の烈火を退ける者などフェル・アルムに存在しないと思われる。  常に闇に潜む疾風とは異なり、烈火達は命令がない限り、フェル・アルムの民として普通に暮らしている。しかし、自らが烈火であることを明らかにすることは許されない。もし明確になった場合は、疾風によって即座に抹消される。もっとも、烈火が身分を明かすことなどあり得ない。彼らもドゥ・ルイエに絶対の忠誠を誓って疑わない身であるのだから。 六. 大いなる変動  ここに記されるのは、フェル・アルムの歴史の中でも最大の事件である、“大いなる変動”について、運命の渦中にある者達が、いかな行動をとったかを示すものである フェル・アルム正史619年(=偽史1000年) (アリューザ・ガルドではアズニール暦1056年となる) 4月1日  フェル・アルム建国千年祭、世界各地で催される。  夕刻、スティン高原にてルード・テルタージとティアー・ハーンが出会う。 6日  ハーン、スティンから去り、クロンの宿りに向かう。  この後ハーンは、ダシュニー〜カラファー間の隊商の護衛の任に就く。 26日  ルード、ムニケス山中をさまよい、夕刻ライカ・シートゥレイと出会う。  ルードとライカ、フェル・アルム北部へと転移する。  ハーン、護衛を終え、クロンの宿りに帰る。 27日  昼過ぎ、ルードら、クロンの宿りに着く。夕刻〈緑の浜〉にてハーンと再会する。  フェル・アルム南部のトゥールマキオの大樹にて、デルネア、変化が生じつつあるのを感じ取る。 28日  ルード一行、スティン高原への帰路につく。スティンの山越え。  デルネア、帝都アヴィザノに着き、隷達に指示を下す。  ドゥ・ルイエたるサイファ・ワインリヴ、司祭よりの神託を受け、疾風を各地に派遣する。 5月1日  正午頃、ルード一行は“忌むべきもの”ゲル・ア・タインドゥに遭遇し、これと戦う。  負傷したハーンを救うべく、ルードは剣を握り、魔物を撃退する。聖剣ガザ・ルイアートは、ルードに覚醒をもたらす。  夜になり、一行はスティン高原に着く。 3日  疾風のひとりがスティンの麓ベケット村に至る。  夕刻、ルード一行はスティンの村をあとにし、〈帳〉ことウェインディルのもとに向かう旅に出る。  ハーンの置き手紙を読んだルードの叔父、ディドル・ナッシュは激怒する。 6日  ルード一行、スティンの山越えを終え、クロンの宿りに着く。 7日  疾風、クロンの宿りに至る。  ルードら、クロンの宿りをあとにするも、疾風の襲撃を受ける。  ハーンによって疾風討たれるも、戦いのさなかルードは重傷を負う。  ルードは再びガザ・ルイアートを握りながら意識を失う。そのさなか、ルードの精神はイャオエコの図書館へと偶然に赴き、司書長マルディリーンと対面する。  聖剣所持者と認められたルード、セルアンディルとなる。  “混沌”が出現し、この夜、フェル・アルムの夜空は“星無き暗黒”と化す。 10日  ルード一行、ルシェン街道からはずれ、遙けき野に至る。 11日  デルネア、アヴィザノをあとにし、トゥールマキオの森に向かう。 18日  昼頃、ルード一行は〈帳〉の館に着く。 19日  〈帳〉とルード一行、会談を行う。一行は〈帳〉の館に逗留する。 6月16日  ハーン、単身で〈帳〉の館をあとにする。 23日  デルネア、隷の長の懇願を受けアヴィザノに帰還する。隷の長に命令を下した後、トゥールマキオの森に行く。  夕暮れにハーンは遙けき野を越え、ルシェン街道に至る。 24日  サイファ、神託にもとづき、すべての疾風をフェル・アルム北部に展開させる。  “力”を求める使徒、ディエルとジル、フェル・アルム世界に来たる。 25日  昼頃、アヴィザノ西の果樹園にてサイファとジル出会う。  ジルは“転移の法”を用い、ディエルをフェル・アルム北部に転移させる。  “混沌”はついにフェル・アルムの夜を征し、夜空には星が一切映らなくなる。 26日  北部に転移させられたディエルは、行くべき方向を見失い、彷徨する。 7月1日  物忌みの日。  未明、ルシェン街道にてハーンとディエル出会う。ハーンら、クロンの宿りに着く。  フェル・アルム南部域でアズニール語が突如復活し、混乱に陥る。(以降、ニーヴルの復活がまことしやかに囁かれるようになる) 2日  果ての大地にて、“混沌”は黒い空を形成し、フェル・アルム全土を飲み込むために南下を始める。  ハーンら、クロンの宿りを発ち、スティンへと向かう。慧眼《けいがん》のディッセ、ハーンと会う。  夜にハーンらは魔物と遭遇し、ハーンはレヒン・ティルルを用いてこれを倒すが、剣から放たれる闇の力を身に受け、ハーンは倒れる。その際に闇が解き放たれ、ドゥール・サウベレーンを象り、南方へと姿を消す。  ハーンの変容に呼応するように、ルードの所持する聖剣ガザ・ルイアート光り輝く。  デルネア、“力”を入手し絶対者となる決心を固め、トゥールマキオの森をあとにする。 3日  ディエルと商人の助けにより、ハーンはクロンの宿りへと帰るも意識は戻らず。  ルードとライカ、〈帳〉の館付近の森でマルディリーンと再会する。彼女の提言を聞いた〈帳〉は魔導を用い、 ルード一行は遙けき野を瞬時に越す。  アヴィザノに闇のドゥール・サウベレーンが来襲するが、デルネアによって葬られる。  デルネア、烈火の将軍を名乗り、いよいよ歴史の表舞台に顔を出す。  サイファ、ジルより輝く珠《たま》を受け取る。 4日  アズニール語の伝達はサラムレにまで及ぶ。  朝方、ルード一行はサラムレに着く。  サイファ、神託に基づき、烈火発動の勅命を出す。二千の烈火達、この日のうちにアヴィザノ中枢、焔《ほむら》の宮に集結する。  夜遅く、ルード一行はサラムレを発つ。 5日  烈火が発動する。デルネアの指揮のもと、烈火は北部へと進軍を開始する。  “混沌”の勢力はついにクロン周辺にまで至る。  ハーン、意識を取り戻し、クロンの宿りに襲い来る黒い雲について住民に警告を促す。また、民を“混沌”から逃がすべく、カラファーやスティン方面に避難を開始する。  クロン一帯、“混沌”に飲み込まれ、住民の九割近くが犠牲となる。  サイファは、執政官クローマ・リセロ、近衛隊長ルミエール・アノウに相談を持ちかける。 6日  朝方、サイファ、ルミエール、エヤードはアヴィザノを発ち、烈火を追う。  ルード一行、南回りのルシェン街道を進み、ルードの故郷に到着する。夜にはスティンの丘陵地帯にまで至る。 7日  アズニール語の伝達、スティンにまで及ぶ。  昼下がり、ハーンとクロンの避難民はスティン高原に至る。ハーンはナッシュ家を訪ねるも、ほうほうの体で追い返される。  夜、ルード一行はスティン麓のラスカソ村に到着し、ここに泊まる。 8日  朝、サイファ一行はサラムレに到着する。  黒い空はスティンを襲う。ハーンはひとりムニケス山まで走り、身を挺して“混沌”を追い返すも、彼の身体に“混沌”の一部が侵入し、ハーンをひどく苦しめる。〈帳〉が発した転移の魔導により、ルード一行はハーンと再会、彼を介抱する。  ハーンは自らの力を用いて聖剣本来の“力”を発動させる。しかしハーンは力を解放し、いずこかへと飛び去る。  ハーン、ついに宵闇の公子レオズスとして覚醒する。  〈帳〉らの説得により、フェル・アルム北部の民は北部域からの離脱を決意する。  夕刻、烈火はウェスティンの地に至り、逗留する。  サイファ一行はサラムレをあとにする。 9日  疾風によって、ルミエール、エヤード両名殺害される。  デルネア、隷の長を処刑する。 10日  “混沌”の影響を受け、ついに空の色までが消え去り、虚ろな灰色となる。  サイファ、珠の力を用いてジルを呼び寄せる。サイファとジル、ディエルの居場所であるスティンへ転移する。  “混沌”の黒い空は再びスティンを覆う。北部の民は、領主メナードに率いられてラスカソ村をあとにする。 11日  北部の民、スティン丘陵を下り、夜遅くウェスティンの平原にたどり着く。  メナード伯、壁となっている烈火との交渉をルードらに一任する。  ハーンすなわちレオズス、ウェスティンの平原付近にて意識を取り戻す。 7月12日  早朝、北部の民と烈火、対峙する。サイファは勅命を下し、烈火を退ける。  “混沌”はスティンを飲み込み、さらに南下する。  デルネアとルード、一騎打ちを行う。デルネア、戦いの果てに聖剣を奪うも、所持者たる資格はルードが有しており、デルネアは深手を負う。  ハーン、一行と合流する。ライカ、ルードを救う際にアイバーフィンの翼を得る。  ガザ・ルイアートはついに“光”の本質にまで昇華し、迫り来る“混沌”をフェル・アルムから追放する。ガ ザ・ルイアートは姿を消す。  マルディリーンとディッセ、再度フェル・アルムに姿を見せる。  サイファとディエルはウェスティンの地に残るが、ルード一行とデルネアらは、ジルの転移の法によりトゥールマキオの大樹に赴く。  名も無き剣と大樹の力、そして魔導によって、還元のすべが発動される。  これにより、フェル・アルムの大地はアリューザ・ガルドへと還る。 七. 運命の渦中にあった者達、その後の出来事  ここでは、「フェル・アルム刻記」における運命の渦中にあった者達 ――ルード・テルタージ、ライカ・シートゥレイ、ティアー・ハーン、〈帳〉、サイファ―― 一連の事件の顛末を迎えた彼らの、その後を綴る。 〈フェル・アルムのアリューザ・ガルド還元後〉  “大いなる変動の時”――すなわちフェル・アルム暦1000年は、アリューザ・ガルドの暦法であるアズニール暦に換算すると1056年にあたる。アリューザ・ガルドではこの出来事を“失われた大地の還元”と呼ぶようになっている。  その年の夏、にわかに空には暗雲たれ込め、大地震と、天を轟く雷がアリューザ・ガルド全土を襲った。地異が過ぎ去った後、“失われた大地”と呼ばれていた地域に忽然と姿を現した島こそが、フェル・アルム島だった。  当初、魔物の棲む島として敬遠されていたものの、独自に王国――フェル・アルム王国――が築かれているのが判明すると、ティレス王国はフェル・アルムと国交を結んだ。  一方でティレスの隣国であったイイシュリア王国は1058年、フェル・アルムの制圧に乗り出すが、フェル・アルム女王サイファ・ワインリヴ指揮のもと、フェル・アルム精鋭騎士団“烈火”により退けられる。この戦いの後イイシュリアは国内外からの反発を買い、1059年にはティレスに併合されることになる。 (これ以前のアリューザ・ガルド情勢については、書物『悠久たる時を往く』に詳しい)  サイファは、宰相たち、相談役のウェインディルと共にティレス王国へ赴き、対等な立場での国交を樹立させることに成功し、再び島へと戻っていった。      『その煌めきと共に』  季節は冬。  港町ネスアディーツは今日も活気に溢れている。  アズニール暦1059年という年もいよいよ押し迫り、新たに迎える年もまた平穏であるように、とフェル・アルムの住民は祈りながら、日々の暮らしを送っている。  ここネスアディーツからフェル・アルム東部の最大の街カラファーまで二日、そこから途中セル山地を越えて南下すること一週間ほどで帝都アヴィザノに至る。  フェル・アルム島とエヴェルク大陸のティレス王国を繋げるこの港町が出来上がってから二年も経たない。というのに訪れた人々にとっては、すでに何世代に渡って栄えてきたような雰囲気すら感じるだろう。それは、フェル・アルムを復興させようとしている人々の情熱のせいに他ならない。  あの時から――忌々しい“混沌”の到来の年、そしてアリューザ・ガルドへの還元を果たした年から――すでに三年。月日は瞬く間に過ぎていった。フェル・アルムの人々が受けた過大な衝撃を癒すにはあまりにも時間が足りない。とはいえ人々は、弱い者を助け、またお互いを鼓舞しあって懸命に生き抜いてきたのだ。  アリューザ・ガルドという広大な世界の中に存在することになったフェル・アルムにとって、すべてが新鮮であった。今まで一つの国しかあり得なかったフェル・アルムにとって、他に国家があること自体、驚きに値する。そんな中にあって、海峡をはさんだ隣国ティレスとの交流が始まった。  一方では軋轢《あつれき》も生じる。ティレスの隣国であるイイシュリア国との争いがあった。これはまだ記憶に新しい、昨年のことであった。  海を渡ってフェル・アルムへと攻めてきたイイシュリア軍を、フェル・アルム最強の騎士達すなわち“烈火”は完膚無きまでに叩きのめした。この出来事がフェル・アルムの存在をアリューザ・ガルドに示すことになり、またティレスと対等に渡り合える国交を結ぶことに成功した。  これこそフェル・アルムの国王サイファ・ワインリヴの力量なのだ。烈火達を陣頭指揮し、また国交交渉にあたっては自ら海を越えてティレスに赴いた。彼女のその熱意こそ、フェル・アルムの宝であり誇りに違いない。  ティレスへの訪問を終えた国王一行を乗せた船は、昨日ネスアディーツに帰ってきた。我らが女王を一目見ようと、港町にはいつにもまして人々がつめかけているのだが、残念ながら人々の期待は裏切られることになるだろう。 * * *  当のサイファは――白い息を吐きながら、ネスアディーツ商店街をひとり歩いていた。見目麗しく凛とした街娘に心惹かれる男も少なくないだろうが、まさかこの女性が国王その人だとは気付くはずもない。王という立場を隠して市井を歩き回ること。相も変わらずサイファにとっては何より楽しいことであったし、格好の息抜きでもあった。それに人々の暮らしぶりを肌で感じることも出来るのだ。  今頃、一行が滞在している騎士団の館では、彼女の置き手紙を巡ってひと騒ぎ起きていることだろう。外交官リュアネテは彼らしくもなく右往左往し、近衛隊長であり烈火将軍であるケノーグは落ち着いているようで内心焦っているだろう。そして相談役ウェインディルはまたか、と溜息をついていることだろう。 「すまないな。でもしばらく自由にしてほしいんだ」  サイファは彼らに心の中で謝ると、波止場へ向かっていった。寒さは一段と増し、肌に染みこむようだ。いずれ雪が降るのだろうか。 * * * 「まあ……今さら案じたところでどうにも出来ぬか」  サイファが想像したとおりのひと騒動があり――ようやく収まった一室にて、ウェインディルは溜息をついた。突拍子のないことをする主《あるじ》ではあるが、約束を違えたことはない。彼女の手紙にあるとおり、帰ってくるというのなら待つのが賢明だ。ジルとレオズスの加護を受けている珠《たま》を着けている限り、サイファに害意を持つ者が仮にいたとしても、けして害が及ぶことはない。 「私も国王相談役という肩書きさえなければ、彼女について行きたかったものだな」  だが、さすがに側近までもがいなくなったとあってはまずいだろう。ウェインディルはサイファ直筆の手紙を読み返した。 『たった今ハーン本人から、魔法を使った伝言が届いた。わが友に会う絶好の機会をもうけてくれた。諸卿には申し訳ないが、私サイファは二刻ほど外に出る。』 「ハーンめ。わざわざ神の領域の術を行使して、サイファを館の外に転移させたな」  もっとも、ハーンの力を借りずとも彼女のこと、館の抜け道を探し出して必ずや外に出ていたに違いない。 (しかし……)  ウェインディルはほくそ笑んだ。彼らこそが、私に活力を与えてくれる。やはり私はこの世界に――アリューザ・ガルドに戻ってきてよかった。今は生きていることを実感できるから。〈帳〉を名乗り、ただ死んでいないだけの存在に過ぎなかった、あの頃とは違うのだ。  その時扉が叩かれた。近衛隊長であり烈火将軍でもあるウェルキア・ケノーグが、ウェインディルの部屋に入ってきた。  短く刈った金髪に浅黒い肌を持つ彼は、ラクーマットびととしてはやや小柄であり、また二十四という若さでありながら烈火を率いている。その彼が今、疲れた表情を見せている。これは長い船旅のためだけではないだろう。相手が話の合うウェインディルだからこそ、彼も本音を露わにする。公の場で見る彼とは異なり、本来はかなり表情を豊かにあらわす性分なのだ。王宮――せせらぎの宮の侍女達が、そのあどけなさの残る風貌と相まって、かわいい、と噂するのもよく分かる。 「ウェルキア、どうした? 陛下が帰って来るのを待とう、と先ほど決めたのだから、やきもきせずに待っているのがいいと思うのだが」  ウェインディルも今は、ひとりの友人としてウェルキアに接した。  はあ、とウェルキアは普段の彼らしからぬ溜息をついた。今ここにいるのは烈火将軍“炎の旗”ケノーグではなく、厳粛な近衛隊長でもない。一介の若者ウェルキアだ。威厳という名のおごそかな鎧は取り外しており、年相応の振る舞いをみせている。 「あの方の性分……それは私も十二分に分かっているからいいんですがねえ。ここの騎士団長……といっても私の部下なのですが――を説得させるのにはほとほと参りましたよ。陛下が見あたらないのでどこにいるのか、と訊かれたんですが、まさかひとりで出歩いてるなど言えるわけがないでしょう? なんと言えば彼が納得するのか、言い訳に苦労しましたよ。言うことを間違えれば近衛隊長である私の名のもと、街中を捜索しなければならなくなるのは目に見えてますから。……まったく彼女は、私の苦労など本当に分かってくれているのやら」  ウェインディルはからからと笑った。 「ああ、笑ったりして申し訳ない。たしかにウェルキア、君は嘘をつくのが苦手だからな。もっともその実直さゆえ、サイファから信頼以上のものを得ているのだろうな。サイファを守護する者、近衛隊長の任にも就いたというのだから」 「誉められてるのか、けなされてるのか分かりませんけれど、そもそも部下に対して嘘をつくというのは好ましくないものですよ。とくに私は烈火の長なのですから。まあ長と言っても、あなたに比べたら私なんぞはるかに若輩者ですけれどもね。――確かに烈火も変わりました。烈火がフェル・アルム王国の騎士団として公にされてから三年、もはやかつての――デルネアが暗躍していた、あのかつての時代の――恐怖そのものを具現化した烈火ではなくなっています……」  そこまで言って、ウェルキアははっとして、ウェインディルの顔をまじまじと見た。この白髪のエシアルルが言わんとしていることは嘘をつく云々ではなく、どうやら別にあることに気付いたからだ。  ウェルキアは用心深く尋ねてみた。 「あの……ウェインディル。もしかして我々のこと、知っているんですか?」 「……ふむ。やはりそうなのか? 本人から聞いた訳ではないのだけれども、何となく感じていた。もっとも私とて他人に言うつもりはないが」  ウェルキアは安堵した様子で胸をなで下ろした。 「頼みますよ! これは秘密なんですからね。とりあえず今のところは」 * * *  騎士団の館をあとにしたサイファは、界隈のざわめきを楽しみながら石畳の坂道を下り商店街を歩く。徐々に店の並びが無くなっていく。こうして町の中心部を抜けると、道は海の望める広場へとまっすぐつながっている。  広場の中央に位置する小高い丘からは、ネスアディーツ港の様子が一望できるようになっている。エヴェルク大陸へ向かう商船や客船さらには釣り舟と、波止場に停泊している船の種類は多岐に渡る。そのなかにあって麗しい純白さが海の青に映える、あの美しい船こそが“白き衣”号である。サイファは今回この船に乗り、ティレス王国を訪れたのだった。  冬の空気は澄み渡り、遙か対岸のエヴェルク大陸までが見える。フェル・アルムの大地が十も連なっても、あの大陸の広大さに及ばない。聞くところによるとエヴェルク大陸の東にはさらにもう一つの大陸――ユードフェンリル大陸があるという。アリューザ・ガルドの世界は、自分の想像がつかないほどに広いのだ。サイファは、海峡の向こう側に広がる大地のことを思い、またその大陸を闊歩《かっぽ》する友人の姿を思い起こした。時々彼らとは手紙をやりとりしていたが、いよいよに彼らと再会することを考えると、子供のようにわくわくする。約束の場所――船の泊まっていない波止場をめざし、サイファは丘をかけ降りていった。  波の押し寄せる様子を眺めながら波止場にひとりたたずむ少年。濃紺の髪に白い肌の彼は、フェル・アルムでよく見かけるライキフびとの少年のひとりにしか見えないだろう。だが、サイファにとってルードは特別な存在であった。いや、かつて運命の渦中に存在した彼ら五人は、お互い同士が特別な存在であったのだ。  サイファが駆け寄ってくるのに気がついたルードは、少々呆気にとられた様子だが、サイファに手を振って挨拶した。  サイファは息を弾ませながら友人の元に駆け寄ると、彼の両手を取って再会を喜んだ。 「ルード、ひさしぶり。貰った手紙では何度か様子を聞いていたけれど、こっちに帰ってきていたとは知らなかったよ。……しかし、君も三年前とちっとも見た目が変わらないなあ。ウェインもそうだし、ハーンもそう。それなのに私だけが年を取っていくようで、なんだか寂しいぞ」  サイファは嬉しそうに言葉を早口に紡ぐ。当のルードはまだ呆然としているようだ。 「ルード? どうかしたの?」 「まさかこの場所で陛……いや、サイファに会えるなんて思ってもみなかったんだ。だから今、ちょっと驚いてる。ハーンから魔法で伝言が届いていたもんだから、てっきり俺はハーンとここで落ち合うのかなあと思ってたんだけどさ」  ルードの言うとおりだ。伝言をよこした当のハーンは一体どうしたというのだろうか? サイファが周囲をぐるりと見まわしても、人の気配は全くない。 「「ハーンは?」」  二人の声が重なった。お互いにハーンの所在を知らない様子を知ると、笑い合った。 「まあ、あいつのことだから。どこからか、ひょっこり現れるに決まってるよ。……サイファもハーンに呼ばれてここに来たんだろう?」  サイファはうなずいた。  ハーンは還元の後もウェインディルと共にフェル・アルムに残り、ときおり王宮を訪れていた。いずれ彼がここから去っていくことが分かっていながらも、サイファは一時期本気で恋い焦がれたことがあった。しかしながら秘めた想いを伝えることなく、イイシュリアとの戦いが始まり、ハーンとも会えなくなってしまった。宵闇の公子レオズスたるハーンは、歴史の表舞台に現れるべきでないと考えていたのだろう。この戦いには参加することがなかったのだ。結局、自分が最後にハーンと会ったのは昨年、イイシュリアとの戦いが終結して、帝都に凱旋したときになってしまっていた。すでにハーンはフェル・アルムから立ち去ろうとしていた。この国の未来が明るいものであることを確信し、また自分の為すべきことを他に見つけたから。その時サイファは、ハーンに対してはじめて想いを打ち明けて、そして同時に吹っ切ったのだ。 「ありがとう。今のサイファには、大切に思っている人がいるね? 彼と共に、この国をいい方向に導いてほしいな」  とらえどころのないハーンではあるが、彼がサイファに対して友情と好意を抱いていたのはサイファに分かっていた。その好意が恋と呼べるものなのかどうか、それはハーンの胸の内に隠されたままだったが。いずれにしても、そういった出来事もいい思い出として、今では心の中に大切にしまわれている。そう、自分には大切な人が出来ていたのだから。 「……で、サイファ」ルードが言葉を切りだした。 「手紙にも書いてたと思うけどさ。俺達は、ハーンとしばらくの間一緒に旅をしていたんだ。今年の七月くらいだったかな、『レオズスとしてやることがある』と言って別れちゃったんだけど……フェル・アルムにも戻ってきてないのか……」 「そう、ライカはどうしたの? もちろん一緒に来ているんだろう?」 「ああ。あいつは宿で休んでるよ。疲れちゃったんだろう。気持ちよさそうに眠ってるもんだから、起こさなかったんだ。実は俺達も一昨日フェル・アルムに着いたばかりでさ。これからセル山地に行って叔父さんたちに会ってくるつもりなんだ」 「……結婚するために挨拶回りか?」  サイファの突拍子のない質問――本人はそう思っていないのだが――に泡を食ったルードは、ぶんぶんと首を振った。 「まさか、そうじゃないって!」 「なんだ。もうかれこれ三年が経つじゃないか。とっくに結婚しているのか、とも思っていたんだけどなあ。私は、ルード達の子供の名前まで考えていたんだぞ?」  サイファは自分のことのように、いかにも残念そうな表情をしてみせた。 「まあ、そういう話をまったくしなかったわけでもないんだけどなあ」  照れを隠すようにルードはそっぽを向く。共に運命を乗り切った者だというのに、こういう朴訥《ぼくとつ》な仕草は相変わらずだ。 「ライカと、ライカのじい様と話をしたことがあったんだ。そうして、ライカが成人を迎えるまでは待つことに決めた。アイバーフィンが成人を迎えるのは五十歳なんだとさ。今はまだ四十五歳だからあと五年、かな。まあそれを言っちゃったら、土の民セルアンディルとなった俺の成人というのは一体いつになるんだろうな?」  ルードは笑って、言葉を続けた。 「それに結婚よりも躍起になってることがあってさ」 「それは、なに?」 「手紙にも書いてたけれども、俺達は冒険と称しながら、各地を旅してきた。その中にも楽しかったこと、辛かったこと。いろいろあった。そして生きるか死ぬかの瀬戸際に立ったことだって二度や三度じゃない。……俺は、冒険行を本として残したいと考えている。俺達が歩んだ冒険行を読んでくれる人がいたら――そしてその人の心の支えになったらいいなあと思っている」 「夢、か……」  サイファはひとりごちた。  ルードの夢はけして幻想などではない。彼の熱意のこもった心を見ることが出来たのなら、きっと宝石のごとく輝きを放っているに違いないだろう。そしてライカもまた同様に。彼ら自身の心の奥底に潜んでいた煌めきを探し当て、そしてさらに磨いているのだ。夢を実現させるために。  自分もそうありたいものだ。サイファはあらためて思った。 「……ま、ついでに有力諸侯の資金を得ることが出来たのなら越したことはないとも考えてたりするんだけどな。好きでやってることだといっても、アリューザ・ガルド各地を巡るのってそれなりにお金がかかるもんだし、さ。まだまだ行きたいところは尽きないよ」 「うらやましいもんだ。私も君たちについていきたいと心底思うよ。私もまた、アリューザ・ガルドを見てみたい。手紙を読むにつけ、毎回そう思うんだ」 「でもさ、サイファは見つけているだろ? この国で、国王として、熱意を持ってやるべきことを。……あとは、そうだな……婿さん探しかな?」 「ふふん……婿さん探し、ねえ」  サイファは人差し指を唇に当て、笑ってみせた。 「実は、するんだよ。結婚」  サイファの言葉は時として――いつもかもしれないが――意表をついてくる。その中でも今の言葉は間違いなく衝撃的だったに違いない。あんぐりと口を開けたままのルードに対し、サイファは言った。 「ああ。実はこれを話したのは君が初めてだ。私のまわりだって誰も知らないはず……ああ、ウェインだったら知っててもおかしくはないかな? 来年になって早々に発表をするつもりなんだ」 「はあ……いや、驚いたよ。それで、誰となんだい?」 「現近衛隊長、そして烈火の将軍のウェルキア・ケノーグだよ。詳しいいきさつは、君たちがアヴィザノに来たときに話すよ。のろけ話まで含めてね。まあ、たぶん長くなると思うぞ」  出来ればアヴィザノまで来てほしいな。そう言ってサイファは笑った。  ひとつの幸せを自分は得ようとしている。けれども終点ではない。これからまだ、自分には為すべきことがたくさんあるのだ。自分のこと、そしてフェル・アルムのことについて、彼女なりの考えを持っている。それらは決して、簡単に為せるものではない。心の炎を絶やさずに持ち続けることが大切なのだ。 * * * 「……ん? この気配は、ハーンか?」  ルードが言うなり、二人のすぐ横の空間がいびつに歪む。まるで水がとぐろを巻いたふうになったその空間から、いくつかの文字が浮かび上がってくる。サイファもルードも、これが何なのか分かっている。ハーンから届く魔法の伝言だ。  本来、神の技はこんな些細なことに使うべきものではないのだろうが、あえて行使してしまうところが何ともハーンらしい。 『やあ。すまない。アリューザ・ガルドに着くのが遅れてしまっている。サイファとルード君達も既に落ち合っていると思うんだけれど、僕がそちらに行くまであと一刻ほど待ってくれないかな? ディトゥア神族の会合を済ませたんだけれども、ちょっとその後で思い立って、とあるところに寄ろうと思ってね。まあ、みんなが揃うことになるんだからさ。想像はつくと思うけれど……。  会える時をお楽しみに! ティアー・ハーン 』  二人がその文字を読み終わると同時に、字は消え失せて空間も元に戻った。  ルードは苦笑を漏らした。 「一刻も待たなきゃならないっていうのかよ? しようがない。宿に戻って、ライカを起こしにいってくるかな? サイファはどうする?」 「私もついていくよ。ここでひとりで待ってても寂しいし、それにこの海風はけっこう寒い」 「それもそうだな。それじゃあ行こう。ライカのやつ、起きたら目の前に国王陛下がおわすとなったらさぞ驚くだろうな」  少々時間が長引いてしまうな、とサイファは心の中でウェルキア達に再度詫びた。さすがに今夜催される予定の晩餐会に欠席したら問題であろうが。 (いや……)  いっそのこと、ルード達に同席してもらうのも手かもしれないな、とサイファは考え、そして決断するのだった。運命の渦中に存在した自分達五人、そして“彼ら”との再会は、どんなに素晴らしいものになるのだろう! (ジルにまた会えるんだ!)  サイファは心躍らせながら、ルードと共に歩いていくのであった。  港町に雪がちらつきはじめる。陽の光を受けたそれらは、なお白く輝く。  しばらくはここフェル・アルム島で皆が一緒に過ごす、楽しい日々が続くだろう。  いずれ、再び離ればなれになる時が来る。しかし孤独とはもはや無縁だ。自分達の持つ心の煌めきが共にある限り、強く結びついているのだから。       【終】    そして彼らの情熱は終わることがない――。 〈さらにその後の彼らについて〉  ルードとライカは共にアリューザ・ガルドを巡る冒険家となる。  各地を転々とするうちに名声を勝ち得、さまざまな王国の実力者達の支援を受けながらさらなる冒険行を重ね、アリューザ・ガルドの未踏地域にも度々足を踏み入れる。歴史上は冒険家テルタージ夫妻として知られるようになる。特に1100年初頭におこなった、「天を彷徨う城キュルウェルセ」の冒険行は名著として広く知られることとなる。(一説によると、アリューザ・ガルドの識字率がこの時期を境に向上したらしい)  彼らが結婚したのは(ライカが五十歳の成人を迎えた)1064年のこと。1070年に長女ティセシア(名付け親はサイファだという)、1079年には長男エウディスーンをもうける。冒険家を引退した後は、ライカの故郷ウィーレルにて慎ましやかに暮らした。  聖剣所持者であったルードは、聖剣を持った瞬間から土の民セルアンディルとなったわけであるが、おそらく今の世界において彼以外にセルアンディルは存在しないと思われる。ティアー・ハーンとは終生に渡り良き友であった。  ハーンは一時期フェル・アルム島に滞在するが、やがて去っていく。彼はディトゥア神族の長イシールキアのもとに赴いたのだ。イシールキアはディトゥアの神々を呼び寄せてハーンを裁く。そしてハーンは名実共に、ディトゥア神族の一柱すなわちレオズスとしての存在を赦されることになり、かつて身につけていたおのが闇の力を取り戻した。  その後は聖剣ガザ・ルイアートを探すため、アリューザ・ガルドや諸次元を彷徨することになる。聖剣の絶大な力に干渉を受けない唯一の存在こそレオズスであり、レオズスもまた英雄の介添人として宿命付けられていることを自覚しているからだ。  レオズスはいずれ歴史の表舞台に顔を見せることになるだろうが、それはまた別の物語。  また彼は、何人かの子供をもうけたらしいが、本人に聞いたところで適当にはぐらかされるだけであろう。  ウェインディルは、“混沌”に蝕まれてしまったフェル・アルム王国を復興させ、またフェル・アルムの民とアリューザ・ガルドを結びつける橋渡し役として尽力した。  彼の種族、すなわちエシアルルならば、一定の期間(二百年ほど)を経たあとに肉体を眠らせて、次元の狭間にある“慧眼《けいがん》のディッセの野”に百年の間、精神を赴かせるのだが、ウェインディルはそれをすることなく、エシアルルとしての生を今生でまっとうさせることを決意する。  ウェインディルは相談役として国王サイファによく仕え、ついには王位継承権第二位を獲得するに至るが、サイファの没後はフェル・アルム北部のウェスティンに館を構え隠居する。  隠居後の彼はかつての悲劇を繰り返さないようにと、魔法の研究に没頭する。晩年近くなり、優秀な弟子と後継者を得、彼らと共に魔導学の復興にも大いに貢献した。  サイファはよく国政に携わる名君となった。宰相らと共に国政をまとめる一方で、外交手腕には非常に長けていた。1060年、烈火の将軍ウェルキア・ケノーグと結婚する。同年に長男ジル、1064年に長女ルミエールを得るが、サイファは彼らに王位を継がせることがなかった。以来、フェル・アルムに王はなくなり、ワインリヴ王朝は終焉を迎えるが、フェル・アルム諸侯の中から長が選出され、サイファの遺志を継ぎ、よく国政を執ることとなった。フェル・アルムは強大な防衛力を有する一方で、領土の拡大をすることはなかった。後に魔導学発展の地となったゆえんであろう。  サイファは変わらず、側近の目を盗んでフェル・アルム各地に出かけることがままあったという。大陸に渡り、ルード達のもとを訪れたという話もあながち嘘とは言い切れない。 八. “混沌”の出現について  フェル・アルムという世界の存在が、アリューザ・ガルドに住まうディトゥア達や人間達に大きな衝撃をもたらしている。ひとつの世界が切り離されて実在していた、ということももちろんだが、それ以上に重要な事項があるのだ。  “混沌”。  アリューザ・ガルドの歴史が始まってこのかた、“混沌”本体が姿を現すことなどあり得なかった。しかし、フェル・アルムという、自然ではない世界の存在は徐々に空間の歪みを生みだし、ついには次元の遙か彼方より“混沌”を呼び寄せてしまった。  もし“混沌”がアリューザ・ガルドに出現したとしたら――それは世界の終焉を意味するであろう。 原初の“混沌”  “混沌”は、「偽タインドゥーム書」において、世界の創造と共に簡潔な叙述があるのみであった。そのため、今に至るまでは、“混沌”の存在の有無について議論が分かれていたのだが、フェル・アルムに“混沌”の力が及ぶに至って、ついに“混沌”が実在のものであることが明確となった。 (宵闇の公子レオズスは、“混沌”の力に魅入られたとされているが、これまで真相は明らかではなかった。レオズスによる狂言という考え方もあったのだ)  私はイャオエコの図書館で、偽書の原本と思われる書物の欠片を見つけた。そこには創造の真実が詳しく書かれていたのだが、ここでは特に、“混沌”について記すこととする。  原初の世界において、超存在“ミルド・ルアン”の体が死後、崩れ去ることによって、幾多のものが生まれ、あるものは次元の彼方に去ったが、この次元においては三つのものが残った。  ひとつは大地。アリューザ・ガルドのもととなるべき広大な大地である。  ふたつめは命。古神と呼ばれる荒ぶる神々――原初世界の支配者――が生まれた。  そして最後のものが“始源の力”といわれる、数多に渡る圧倒的な力。これらは原始世界の周囲をたゆたっていたとされている。“混沌”も、この始源の力のひとつである。  やがて、多く存在した始源の力は互いに反発し合うようになった。そして“混沌”は始源の力のすべてとなるのだが、その絶対的な力は抑制を失い氾濫する。(始源の力の氾濫)  “混沌”は大地を洗い流し、古神やディトゥア達を襲った後、原始世界から忽然と姿を消した。  その後、ミルド・ルアンの別の欠片であるアリュゼル神族が、“原始の色”と共に世界に現れ、衰えた古神達を追放した後に、色のある世界、すなわち我々の住むアリューザ・ガルドを創造していくのだ。 “混沌”に魅入られたディトゥア――“宵闇の公子”レオズス  アズニール暦400年代、バイラル達による魔導の研究は頂点を迎えていたが、その栄華は一瞬にして消え失せた。作為的に極限まで高められた“原始の色”の力が世界に氾濫したのだ。世に言う“魔導の暴走”である。  これを消去せしめたのはディトゥアのレオズスだったが、彼であっても氾濫する力は強大であり、暴走をくい止めるにはさらに強大な力、すなわち“混沌”の力に頼るほかなかったのであろう。  レオズスは“混沌”に魅入られ、アズニール王国をはじめとする諸地域に君臨した。冥王ザビュールと異なるのは、レオズスは一切の配下を持たなかったということ。しかしレオズスは“混沌”の一片を常に従えており、レオズスの意に背くものに対しては容赦なく、“混沌”の力を差し向けたという。レオズス本人の意志の有無はともあれ、人間達はレオズスに隷従するしか道がなかった。  レオズスはさらに、“混沌”本体をアリューザ・ガルドに呼び寄せようとしていたらしいのだが、そこまで至ることはなかった。  レオズスの君臨は長くは続かなかった。三年の後、デルネアらによってレオズスは倒され、同時に“混沌”の力もアリューザ・ガルドから消え失せたのである。 “混沌”がもたらすもの  フェル・アルムに“混沌”が出現する際、フェル・アルムの夜空の星は飲み込まれ、天空は闇よりもさらに黒く包まれた。実際には“混沌”は闇に属するものでもなく、黒い色を象っているわけでもない。“混沌”には色があり得ないのだ。 (そもそも原始の世界では色の概念がまったく無かったわけであり、“混沌”は原始の世界における絶対的存在だったのだから)  色無きものの究極。それが“混沌”の本質であると推測される。  “混沌”は、“黒い空”と呼ばれる物質を形成し、フェル・アルムの空を飲み込みながら実体化していった。やがて夜の空を覆い尽くし、物質界を圧するに十分な力を得た“混沌”は、いよいよ世界そのものを洗い流そうと侵略を開始していったのだ。  “混沌”の到来に先立って、黒い空が上空を覆う。それとともに地面は腐り果てていく。やがて“混沌”の先兵とも言える魔物――忌むべきものども“ゲル・ア・タインドゥ”が襲来する。 (ゲル・ア・タインドゥは、“混沌”の力が生み出した生物。もっとも“混沌”そのものが命を形成したのか、何者かを飲み込むことでゲル・ア・タインドゥへ変容させるのか、明らかではない。ともかく、それらは異形のものどもであり、我々の常識とはかけ離れた存在である)  その後、黒い雲はひととき引き返し、魔物どもも姿を消すのだが、それは“混沌”の撤退を意味するものではない。やがて“混沌”本体が姿を現し、大津波のごとくに大地を飲み込むのだ。飲み込まれた者は抗うことすら出来ずに“混沌”に貪り食われる。  その忌々しい傷痕は、フェル・アルム北部のスティン周囲において確認することが出来る。そこから北の大地――スティン山地や、クロンの宿り・ダシュニーといった居住地、さらに果ての大地は“混沌”の中に消え失せ、もはや姿を見ることはない。  “混沌”は、色のある世界そのものを否定し、すべてを“混沌”のもとへ――世界を消滅へと導く。やがては原始の姿へと戻すのだろうか。もしかするとそれこそが超存在の意志なのかもしれないが、我々には、さらにはアリュゼル神族であっても、図り知ることなど出来るはずもない。 “混沌”に対抗する力  色無き力の究極が“混沌”であるとするのならば、数多に渡る色の集大成、究極とは“光”である。  元来、“光”は色の究極のもう一方の対極である“まったき黒”に対抗しうる色と認知されていたが、どうやら“混沌”に対しても抗う力を持ち得ていると思われる。事実、フェル・アルムに出現した聖剣ガザ・ルイアートは、とうとう“光”の本質すらも内包するまでに至り、“混沌”を彼方に追いやったのだ。  だが、フェル・アルムに出現した“混沌”は、ほんの一部分に過ぎない。もし“混沌”が全貌を明らかにしたとき、かの聖剣が同じように威力を発揮するかどうか、それは不明である。       【追補編・了】