============================== □ フェル・アルム刻記 □   http://refrainof.ivory.ne.jp/novel/feralm/fertop.htm  大気杜弥・作    ookimoriya@live.jp @Tommy_Ooki(Twitter) ============================== Copyright (c) Moriya Ooki, All rights reserved. 第二部 “濁流” 主要登場人物 ルード…………………セルアンディル(土の民)の力を得た少年。聖剣ガザ・ルイアート所持者 ライカ…………………銀髪を持つアイバーフィン(翼の民)の少女。翼はまだ持たないものの、風を操る力を持つ ハーン…………………タール弾きで剣の達人。漆黒剣レヒン・ティルル所持者 〈帳〉《とばり》……森の民エシアルル。かつての大魔導師 サイファ………………フェル・アルム国王“ドゥ・ルイエ” ルミエール……………サイファの従姉。近衛隊長 エヤード………………近衛兵 マルディリーン…… イャオエコの図書館、司書長 デルネア………………フェル・アルムを影で操る人物。〈要〉《かなめ》の名を持つ歴史の調停者 ディエル………………次元の隙間からやって来た少年 ジル……………………次元の隙間からやって来た少年 第二部 “濁流” § 序章 一.  ユクツェルノイレ湖。  それは、フェル・アルム北部と南部を隔てるようなかっこうとなっている湖であり、フェル・アルムの創始者、神君ユクツェルノイレをたてまつっている聖なる湖でもある。  千年前、フェル・アルムに秩序をもたらしたユクツェルノイレ。  しかし実はフェル・アルムの千年の歴史が偽りのものである、などと誰が信じようか?  ユクツェルノイレ湖から流れ出るフェル・クォドル河の流域は、二十メグフィーレ四方、広大かつ肥沃な平野となっている。それゆえフェル・アルム南部域には数多くの町や村が点在し、町と町を結ぶ街道には人の行き来が絶えない。  春を迎えて二ヶ月あまりが過ぎた。すでに初夏の日差しが降り注ぐようになったというのに“中枢都市群”と称される南部域は、帝都アヴィザノを中心に置いているため、未だに建国千年祭が華やかに催されていた。  鉱山都市オルファンもそんな街の一つだ。  中枢都市群の南はずれに位置し、農業が産業の中心となっている南部域にあって、唯一鉱業が盛んな街である。  今夜は十日ぶりに祭りが行われているものの、鉱山を閉めるわけにもいかなかった。ラーリ鉱山は良質の鉄を産出するためだ。町の男達の何割かは不平を漏らしながらも、今日も坑道に潜っていた。  後《ご》六刻も過ぎになると男達はようやく仕事を終え、めいめいの家に戻る。活発な者はその後で祭りに参加するのだろう。  そして彼らは感謝を新たにするのだ。今ある平和に。そして、この地に平穏をもたらした神君ユクツェルノイレに。  今日一日も平穏に終わるものと、誰も信じて疑わなかった。 * * *  彼は、目の前の光景が未だに信じられなかった。狂気の一歩手前の冷静さ。怯えきった自分の息遣いのみが、やけにはっきりと聞こえる。叫ぶことも、逃げることも出来ない。自分の身が死に直面している、というのに。  のそり。地を這いながら、“それ”は暗闇から現れた。夜のとばりに包まれているというのに、球状の漆黒が存在しているのが彼にも分かった。 [うわあああああ!!]  男の精神はとうとう破綻し、狂気が彼を覆い尽くした。這い出てきた異形の“それ”を間近で見てしまったがために。フェル・アルムの常識では考えられないもの。存在すら許されないもの。  男の奇声は次の瞬間止んだ。ぐしゃり、という鈍い音とともに。男の頭を“それ”の腕がつぶしていたのだ。首を失った男の胴体が、どさり、と無造作に倒れた。  爛々《らんらん》と輝く三つの赤い目を細め、“それ”は天に向かって吼えた。その鳴き声は人のものでも、獣のものでもない。大地に響くような低音と、空気を引き裂くような高音。双方の入り交じったこの世ならざる声は、人気《ひとけ》のないラーリの山中にこだました。  “それ”はしばらくして、元あった暗闇の球の中に還っていった。しかし漆黒の球は消えることなく、ゆっくりと、動き出したのであった。  この夜、空が星一つない空虚な暗黒に包まれていたことを知る者は、ごくわずかであった。 二.  ぽつり……。  雨の滴が金髪の青年の頬に一粒、二粒落ち始めた。それまで寝ていた青年はびっくりしたように声をあげて飛び起き、彼の馬のところに走った。 「まさか、眠りこけちゃうなんてね……」  青年は馬の荷物からテントを取り出すと、早速テント張りを始めた。  ハーンが〈帳〉の館を旅立ってはや一週間。遙けき野越えは今日無事に終わり、夕暮れ時には緑で覆われた草原に辿り着いた。安心感からか彼は草の中でまどろんでしまったのだ。おそらく今はすでに“刻なき夜の時間”――深夜になってしまっているのだろう。 「まずいね……風邪引いちゃうなぁ」  テントはひとり用の小さなもので、すぐに組み上げられた。  彼は次に、聞き慣れない言葉で二言三言つぶやいた。すると彼の周囲のみ、雨が避けて降るようになった。ハーンが時折使う魔法――“雨よけの術”である。幸いにもこれは通り雨のようだが、ハーンは、雨粒がテントを叩く音を好きではなかった。 『ハーンって、変なところで神経質なんだもんなぁ』  館に残してきた友人のぼやきをふと思い出し、ハーンはほくそ笑んだ。そして、完成した術によって雨が避けていくのをハーンは満足げに見回し、テントに入ろうとした。 (……何!?)  刹那、寒気が彼の全身を通り過ぎた。かつて、一度だけ味わった悪寒である。ハーンは空を見上げた。その顔が急に険しいものになる。 (まただ……)  頭上の空は雲に覆われているが、西のほうは雨雲から天上が時折見え隠れしている。その空はいつになく黒く、星をまったく映さない。あるのはただ、空虚な暗黒のみ。  その時、彼の腰にある漆黒の剣“レヒン・ティルル”が、かすかに震えているのがハーンに分かった。闇の波動に包まれた剣は、暗黒の空の存在を喜んでいるかのようだった。もし剣に意志があるとするのなら。 「違う。あの空はお前のためにあるのじゃない。同調してはいけないよ。あれはお前などには過ぎる暗黒なのだから……」  幼子を諭すかのような口調で、彼は剣に話しかけた。 (太古の“混沌”……か。さすがにあれには太刀打ち出来ないな。ルード君とガザ・ルイアートに賭けるほかない……)  ハーンは剣の柄をなでながら、想いに耽ていった。  大きなあくびが出る。 「だめだ……疲れちゃったよ。……もう、何にも考えないでとっとと寝てしまおっと!」  言うなり彼はテントの中に潜り込んだ。また明日考えればいい。星なき空も、そしてデルネアのことも……。 三. [またしても星が消えた……か。〈隷《れい》の長《おさ》〉よ、我《われ》を尖塔に呼びだしたのは、これを見せるためか?] [はい、〈要〉《かなめ》様。空をご覧下さいませ。空間に“変化”の兆しがある時は、決まってこのような空になっております] [……ふん。見ていて気色のよいものではないな。しかも、このひと月半のうちに二回も起こるとはな。外界からの干渉が未だ収まっていない、というのか……。“疾風《はやて》”のひとり――北に向かった者の消息が絶っているそうだな? その後、何かつかんだか?] [いえ、かの者からの報告は……スティン高原の麓、ベケットからが最後です。『確信に近づいた』……と。おそれながら〈要〉様、私はそれ以上存じません] [ふん。……隷どもを統率する貴様がそのていたらくとはな、失態としか言いようがない] [……は……申しわけございませぬ] [あとの“疾風”どもは? 何かしらの情報をつかんでいるのか?] [は、そのほかの者は全員帰還しておりますが、何も……] [ふむ。……では、“疾風”どもをみな北に回せ。スティン周辺を徹底的に調べ上げる必要がある] [承知いたしました。早速その旨連絡いたします] [安穏とはしておれぬぞ、〈隷の長〉。“疾風”より、逐一状況を受け取るよう、体制を整えておけ] [はい。ほかの隷達を総動員いたします] [……貴様、今の状況を甘く見ておるのではあるまいな? 我が世界がほつれつつある、というのだぞ] [承知しております] [……〈隷の長〉よ、次の失態はないぞ。失敗をした時は貴様は無くなるものと知れ。……我は森へ戻る]  〈要〉――デルネアは自らの下僕にそう言い放つと、身を翻し、ひとり塔を降りていった。  塔と宮殿を結ぶ渡り廊下からは、帝都アヴィザノの様子が一望出来る。デルネアはしばし留まり、眼下に広がる深夜の街を眺めた。  数刻もすれば、いつもと変わらない朝がやってくる。デルネアは自分の寝所に向かっていった。途中、“せせらぎの宮”の中庭で、王宮付きの使用人らしき女と出くわした。こんな深夜に出歩くことは、王宮の人間であっても許されない。それを分かっていてか、女は急ぎ足でデルネアのすぐ側を通り過ぎていった。まるでデルネアが存在しないかのように。  女が彼を無視したのではない、デルネアが自らの気配を完全に消していたため、彼女は気付かなかったのだ。たとえ人の行き交う昼間であったとしても、気配を消したデルネアに誰ひとり気付くことはない。  “天球の宮”直属の、デルネアに絶対服従する術使い――“隷”以外、デルネアの存在を知る者はいない。それがフェル・アルム国王――ドゥ・ルイエ皇であってもだ。  要――物事を動かす要所。デルネアは自分の呼称をたいそう気に入っていた。  せせらぎの宮に入る前に彼はふと足を止めた。 「我が世界がほつれつつある……か」  デルネアは再び頭を空に向けた。それまで空虚だった空は、幕が開けるかのように、東から西へと順に星を映しはじめた。 (〈帳〉……)  恋い焦がれる想い人を呼ぶかのように、デルネアはかつての友人の名をそっと心の中でつぶやいた。 (今の我の心境が分かるとしたら、お前は笑うか? この世の危惧を初めて感じている我を。だが我は我の為すべきことを為す。この平穏な世界を、永久に存続させるためにな……) 四.  市街を取り囲む城壁から陽の光が市内に射し込む。帝都アヴィザノは朝を迎えようとしていた。  前《ぜん》一刻を知らせる鐘が鳴り、城壁に立つ四つの砦からラッパの音が市内に響く。人々の生活がまた始まるのだ。  『せせらぎの宮』と称される石造りの宮殿には、フェル・アルムの政を司る王家の人間達が居住する。朝のラッパの音を聞きつけた宮廷付きのタール弾き達は静かに、めいめいの旋律を奏で、中枢の人間達に朝の到来を告げるのだ。 * * *  彼女は朝の日課として、例のごとく図書室で歴史書を読み耽っていた。凛とした瞳が文字を追う。漆黒の髪を掻き上げる動作にすら、知性を感じさせる。年齢は二十歳をようやく過ぎたころで、少女という世代から脱却しようとしていた。  名をドゥ・ルイエ。六年前亡くなった父王からその座を引き継いだ、フェル・アルムの王である。  美麗な顔と黒髪。切れ長の瞳は知性と情熱を醸し出している。ただ、女性にあまり似つかわしくない言動が、令嬢としての気品をわずかながら失わせている。もっとも、それに異を唱える者など存在しなかった。王としてのカリスマが、言動すらも魅力に変えてしまっていたから。王になる前も、なったあとも、宮中を抜け出しお忍びで町を歩き回ることしばしばで、気さくな態度から、民からは慕われていた。  ふと彼女は入り口に人の気配を感じ、視線を本からあげた。 [ようございますか、サイファ様]  戸口のところに立っているのは、乳母のキオルだった。ルイエが本名を呼ぶのを許している人間は、そう多くない。ドゥ・ルイエとはそもそも、神君ユクツェルノイレの息子の名前であり、フェル・アルムの主が代々受け継いでいるのだ。 [構わぬ、入るがいい]  ルイエは少し顔をほころばせながらキオルを招いた。 [今朝もお元気そうで何よりです]  キオルは朝の挨拶をした。 [そう見えるか……?]  ルイエはそう言って大きくあくびをしてみせた。 [……陛下、はしたのうございます] [ああ、分かっている。でも、どうもここのところ夢見が悪くてな、ろくに寝つけぬ]  ルイエはそう言いつつも、もう一度あくびをしてみせる。キオルは少し眉をひそめながら見ていたが、思い出したように話し出した。 [そうでした。陛下、司祭様が陛下に話をしたいとおっしゃってます。身を整え、空の宮にお越しくださるようにと] [司祭殿が!?]  司祭の名を聞いた途端、ルイエの表情が厳粛なものに変わった。  司祭。有事の際、神より神託を受け、ドゥ・ルイエにその旨を伝える存在。司祭の地位は、高位の大臣と同格のものではあるが表だった活動を行うことはない。それゆえ存在を知る者は宮廷でも限られている。 [分かった。すぐに向かう]  言うなりルイエはすくと立ち、キオルを従わせながら、身支度を整えるために自分の部屋へと向かった。 (一体……なんだというの?)  嫌な予感がしていた。サイファが王となってからの六年間、今まで司祭と会ったことなど無かった。ところがついふた月ほど前、彼と初めて対面したのだ。 『“神”は不穏な動きを感じ取られています。“疾風”を全土に展開していただきたい』  あの時、司祭はそれだけ言い残すと去っていった。いくらドゥ・ルイエであるとはいえ、司祭の告げる神託は絶対であり、腑に落ちないながらもルイエは、“疾風”――中枢の陰に生きる、刺客――を総動員させたのだった。  あれからそう時間が経っていないというのに、また自分を呼び出すのはなぜか? ルイエは不安に苛まれた。  せせらぎの宮を出て、二十フィーレほど北に進んだ小高い丘の頂上に、空の宮はある。玄関を入ると、こじんまりとしているが天井の高い部屋がある。ステンドグラスが周囲を囲むほか、全く何もない真っ白な宮。司祭は一体ここで何をしているというのか。 [陛下、よくお越しくださいました]  しゃがれた声を出しながら、司祭は両手を広げ、ルイエを歓迎した。一見恭しい態度にみえるが、その実、冷徹な感情をにおわせている。司祭という立場抜きで、ひとりの人間としてみた場合、ルイエはこの老人に嫌悪の情を抱くだろう。 [世辞はいい。あれからふた月も経っていないというのに……また何かご神託が降りたのか?]  ルイエはぶっきらぼうに言い放った。 [左様です、陛下。私はかつて、あなた様のお父上に神託を申し上げました。もう十三年も前になりましょうか……] [ニーヴル――反逆の徒を討つために“烈火”を――中枢麾下の精鋭の戦士達を出撃させた、と聞いている] [そうです。そして、私は陛下にまた一つ、重要な神託を告げねばなりませぬ] [……司祭殿、一つ私のほうから質問をさせていただきたいが、よろしいか?] [何なりとどうぞ] [二ヶ月前に貴殿からの神託を受け、私は疾風を各地に送り込んだ。だが結果、特に異常は無しと聞いている。あの時の件と、貴殿が今言われようとしている神託と、何か関係があるのか?] [大いにございまするぞ陛下。また、陛下は一つ失念しておいでです。疾風のひとりが北方スティンにおいて消息を絶っていることを……表沙汰にはしておりませぬが、これは捨て置けますまい] [そうであったな、失礼をした。確かに忘れていた]  ルイエは憮然と言う。 (細かいところをちくりちくりと刺してくる……苦手な男だ) [では、神託を申し上げましょう]  司祭があまりに唐突にその言葉を言ったため、ルイエの胸は締め付けられた。罰を申し渡される直前の罪人は、このような感情を抱くのだろうか、彼女はそんなことすら考えた。ルイエの胸中と裏腹に、司祭――〈隷の長〉は語り始めた。 [大いなる“神”クォリューエルが、神君ユクツェルノイレに告げた言葉を申し上げます。スティンの地において不穏な匂いあり。それはかのニーヴルをも凌ぐものであるとのことです。災いの種を調べ、取り除くため、全ての疾風をスティンに送り込むよう。災いが大きくなる兆しがあれば、すぐさま“烈火”を差し向けるよう、陛下にお願い申しあげます]  そして、中枢が動いた。 五.  中枢が動き始めた、その夜のこと。  アヴィザノの西、半メグフィーレほどのところに、果樹園――ロステル園があった。小高い丘には一面草木が生い茂り、その所々に果物畑があるのだ。子供にとっては難儀な場所であるのだが、この夜、一つの小さな影が動いていた。 「まったく、ジルのやつめぇ……」  草木をかき分け、小さな影はとぼとぼと歩いている。十をようやく過ぎたくらいの少年は、まだあどけない声で、二十回目の悪態を付いていた。 「オレのいっちょうら、ずたボロにさせやがってぇ……」  枝や、いばらの棘などに引っかけたため、少年の服は至る所ほつれていた。 「大体あいつの力が未熟だからいけないんだ。ちっくしょう、“転移”の途中でオレだけ落っことしやがって……ジルは今頃ふっかふかのベッドで高いびきでもしてんだろうなぁ」  ぶつぶつぶつぶつ、少年の愚痴は続く。 「腹……へったよぉ……」  半刻も歩き通し、少年がさすがに弱気になった時、ようやく道が開けた。下り坂を装飾するアーチ状の蔦のトンネルの向こう側に、アヴィザノの外壁が見えたのだ。少年は思わず拳をぎゅっと握りしめる。 「やったぁ! 見てろジルめ、のうのうと寝てたら、たたき起こしてやるからなぁ!」  少年は変わらずの悪態を付きながらも、顔をほころばせた。  その時。“闇”が現れた。周囲が夜のとばりに包まれているというのに、それよりさらに暗く禍々しい漆黒が出現したことを少年は知った。暗黒の球は、蔦のトンネルを音も出さずに上ってくると、少年の眼前で停止した。  のそり。  地を這いながら、“それ”は現れた。フェル・アルムの常識では考えられないもの。存在すら許されない異形のもの。三つの赤い目が爛々と輝く。 「へええ……」  少年の口からこぼれた、拍子抜けした声は、恐怖のゆえか、それとも――。  ぐしゃっ  一瞬後。鈍い音がした。 六.  帝都アヴィザノは次の朝を迎えた。  晴れた空に靄がうっすらとかかるさまは、何とも幻想的だ。宮廷仕えの楽士達が奏でる朝の音楽も、ゆったりとした心地のよいものであった。今日一日がよき日であるよう、人々は偉帝廟《いていびょう》に眠るユクツェルノイレに祈るのだ。  だが、鏡の前のこの女性の顔は、憂鬱そのものだった。 [酷い顔……]  ルイエはろくに寝付けないまま、朝を迎えていた。  昨日の朝方に神託を聞いた後、ルイエは即座、中枢の刺客達を北方に回すようにと命令を下した。これは異例のものであったが、彼女の姿勢は国王らしく毅然としたものであった。  しかし。 (私ごときが、人々の命に関わるような決断を下していいものだろうか?)  その後自分の部屋に戻ってきてから、答えの出ない疑問に頭を悩ませた。自分が発した言動が意味すること、その重圧に耐えかねて、寝屋《ねや》に入った後、ひとり泣き明かした。  物事を進めるためには、何かしらを切り捨てて行かねばならない時がある。それが非情の決断であったとしても。王という、人々を先導する立場であれば、なおさらだ。ただ、それを理屈で理解していても、感情的に割り切れるようになるほど、彼女は大人ではなかった。  ばふっと音を立てて、ルイエはベッドの上に横たわる。しばらくうつ伏せのまま、突っ伏していた彼女だったが、 [……決めた!]  小さく宣言した。 [サイファ様ぁ!?] [すまぬ、キオル。夕刻には戻る!]  ルイエ、否、サイファは早足で歩きながら後ろ手に髪を縛りつつ、キオルに言った。キオルは信じられない面もちだった。サイファを起こすために彼女の寝室の扉を開けた途端、サイファがあわただしく出ていくのだから。しかもその格好たるや王族の衣装ではなく、市井の少年のような姿なのだ。 [陛下ぁ!!]  呼び止めたところで無駄なことは、キオルにも分かっていた。お忍び姿で表に出ようとしているサイファを止めたことのある者は、宮廷広しといえども存在しなかった。 [陛下ぁ……!!]  廊下には、キオルの情けない声のみがこだましていた。 * * *  昼下がり。噂を聞きつけた近郊の人々で、ロステル園は異様な混み具合となっていた。化け物がぐちゃぐちゃになって死んでいる、と言うのだ。百人ほどの大人が、果樹園の入り口でたむろしている。 [ほらほら、子供の見るもんじゃないよ! 帰んな!]  化け物を一目見ようと繰り出した人々の固まりから、十歳を少し過ぎたばかりの少年がはじき出された。 [ひゃっ!]  少年は、可愛い悲鳴を上げながら、どつかれた後頭部をさする。 [いたいよ! 大体コブつくってるとこをわざわざ叩くこたないだろが!]  少年は少し涙目になりながらも悪態を付いた。  大きなコブをつくったというのは昨晩遅く、苦労の末やっと宿に辿り着いた兄が、安穏と眠っている弟への腹いせに思い切り殴った、という経緯がある。もっともこれは弟――ジルが主な原因をつくっていたわけであるが。 「くっそう……ディエル兄ちゃんの馬鹿野郎」  そうは言いながらも少年ジルは、再び固まりの中に入っていこうとする……が、その甲斐もなく、再び押し出された。  そのまま後ろ足でふらつくジル。こつんと、 背中に何か堅いものが当たって、しりもちを付いた。それは人の脚。見上げると、端整な顔立ちの若者が立っていた。  しばし見つめ合う二人。 [なんだよ兄ちゃんは? ……いてっ] [男に見えるってぇ? 私が……!]  ジルを軽くこづいた若者は、腰に手を当ていささか機嫌悪そうに言った。  ジルはズボンの埃を払い、起き上がるとまじまじと若者を見た。服装から見るに、華奢な美少年と言えなくもない。だがその顔立ちと艶やかな髪は女性のそれであり、何より胸の膨らみが明らかに女性を主張していた。ジルは目をしばたかせ、そして一言。 [姉ちゃん。も少し女らしく振る舞わないと、お嫁のもらい手無くなるよ?]  ごんっ  一瞬後。鈍い音がした。 [いっっってえ!]  ジルは頭に二つ目の小さなコブをつくる羽目になった。 [なんだよう?! 子供の可愛い冗談じゃないかよう] [人が気にしていることを、ざぐりとえぐるからだ]  黒髪の女性は、ぶっきらぼうに言い放つ。 [しかし……この人混みはなんだというんだ?] [なんだ、姉ちゃん知らないのか? 昨日の夜、ここで大事件があったんだぜ? なんたって、得体の知れない化けもんが倒されたってんだからなぁ!]  ジルは、まるで自分が倒したとでも言うように、胸を張って威張った。実は兄の為したことだというのに。 [で、それを見ようとこの人だまりか。坊やも見に来たのか?]  彼女は、幾分柔らかな口調でジルに語る。 [坊やだぁ? おいらはジルって名前があるんだ!] [そう、すまなかったね、ジル]  彼女は膝をかがめ、目の高さをジルに合わすと、先ほど自分が叩いた頭をなでた。 [私はサイファ。ジルも化け物を見に来たの?] [そうなんだ。でもさ、大人って頭堅いんだよね。『子供の見るもんじゃない』とか言って見せてくれないんだ!]  サイファは破顔した。ジルが口をとがらせて文句を言う姿があまりに可愛かったからだ。 [そう……見たいのか?]  サイファはそう言って顔を突きだし、ジルとの顔の距離をいっそう近くした。ジルは照れて、顔をほのかに赤くしたが、次の瞬間には目をきらきらと輝かせた。 [見せてくれるの?]  サイファはうなずいた。 [男っぽいだの、嫁のもらい手がないだの、金輪際言わないと誓うならね]  そうは言っても、どうしても口調が男っぽくなってしまうのに気付く。性分だから仕方ないのだが。 [へっ……。そんなこと言わないさ。うん、イシールキアにかけて言わないよ!] [いしー……なんだって? よく分からないが……まあいい。ほら]  サイファは体をさらにかがめると、ジルに催促した。 [え、何?] [肩車してあげるから、乗りなさい] [いいの?] [見たいんだろう] [う……うん] [ちょっと、ごめんよ]  サイファは少しでも見えるようにと、人混みをかき分け前に進んだ。とは言え、サイファの背丈では前方の男達の背中の隙間から、かいま見るのがやっとである。  人の列が少し動いた。その時、彼女は一瞬だけ“それ”を見た。人と獣と爬虫類の様相を併せ持ったような、おぞましい化け物の死骸を。 [うわ……]  サイファの頭の上からのジルの声も、言葉に詰まり、何を言ったらいいのか分からない様子だ。  『化け物』と呼ばれている真っ黒なそれは、頭と思われる部分を粉砕され、地面にその巨躯を横たわらせていた。異形の身体はすでに朽ちかけていたが、死体が発するであろう臭気が一切しなかったのが、かえって不気味であった。  目の前の化け物は〈いきもの〉ではない。“太古の力”の尖兵たる魔物だ。そのことを知っている人間は、この閉じた世界フェル・アルムに存在しない。 [うっ……]  サイファはその骸の異形さに吐き気を催し、顔を背けた。  ジルは表情も変えず、化け物を見つめて一言。 「兄ちゃん……倒すにしても、もっときれいに倒しといてくれよな……」  ひとりごちたその非難の声は、誰の耳にも聞き取れなかった。今の言葉は、フェル・アルムの言語ではなかったからだ。 [姉ちゃん、大丈夫かい?]  ジルはフェル・アルムの言葉に戻すと、心配そうにサイファに訊いた。サイファはうなだれ、化け物から目を背けたままだ。 [いいよ、姉ちゃん。どんなもんなのか、おいらも分かったからさ、ここから出ようよ!]  サイファはジルの年齢不相応な気遣いに苦笑しつつ、その場から立ち去った。  その後の道中で、サイファとジルはすっかりうち解け、アヴィザノ市内で別れた。また会うことを約束して、二人はそれぞれの場所へ戻る。  サイファはせせらぎの宮へ。  ジルは、彼の兄の待つ宿屋へ。  鬱屈した気分晴らしにと、ロステル園まで足を運んだサイファは、そこで出会った少年と息があった。共通点などいくら探しても出てきそうにないその組み合わせは、傍目から見るとさぞ奇妙だったろう。  これが、ドゥ・ルイエ皇サイファと、双子の少年の片割れジルとの出会いだった。 七.  フェル・アルムを包む封印。それがほころびつつある今、それぞれの思惑で前進しようとする者達がいる。  ルード。  ライカ。  ハーン。  〈帳〉。  デルネア。  そして、ほころびをくぐり抜け、二人の子供がこの世界に降り立った。  ディエルとジル。  片や異形のものを苦もなく倒し、片や空間を渡る。人ならざる力を持った、しかし無邪気な子供達。なかば気まぐれでやってきた二人が、運命の五人にもたらすものは何なのだろうか? 「どう? 兄ちゃん?」  アヴィザノの宿の一室にて。ジルが訊いている相手は、彼とそっくりの姿をした少年だった。あえて違いを挙げるとすれば、ジルのほうが髪の色素が薄いという点くらいだろうか。 「……ここは見た感じ平和そうな世界だが……どっかに違和感がある。……見つけたぞ、“力”だ! 一つはこの都市のどこかにでっかい“力”を持つやつがいるな。それから……ずっと北のほうに……これ、剣か? ……すごい“力”を持ってんな……」  ジルの双子の兄、ディエルは目をつぶったまま何かを感じとっている。彼が“力”と呼ぶ何かを。 「この世界……今までは封印が強力で行けなかったけど、封印が弱まった今、入ってきて正解だったかもしれないな。なかなかに面白そうじゃないか。おい、ジル!」  ディエルは目を開けるとジルに命じた。 「オレは剣が気になるんだ。多分よ、オレ達が今まで見たことがないくらい、とんでもない“力”を持ってるぜ、こいつ。……だから、オレを北の……」 と言って、フェル・アルムの地図上、遙けき野あたりを指さす。その場所は的確に、ルードが所有するガザ・ルイアートのありかを示していた。 「……このあたりに飛ばしてくれ。ジルも一緒に来るか?」  ジルはかぶりを振る。 「この街にもでかい“力”があるって言っただろ? だったらおいらはここで探りを入れてみるよ」 「とか言ってよ、お前の言ってた姉ちゃんに会いたいだけなんじゃないの?」 「うん」  無邪気に即答するジルに、ため息をつくディエル。 「お前って、きれいなお姉ちゃん見るとすぐそれだもんなぁ……そりゃあ、オレも会ってみたいけどな……」 「ダメだよ。サイファ姉ちゃんに可愛がられるのはおいらひとりで十分だもん。兄ちゃんはとっとと……」  ジルがこめかみに指をあて、何かつぶやくのを聞き、ディエルは慌てた。 「……! ちょっとまて! 今度は間違わずにちゃんと飛ばせよ! またへんなとこ……」  ディエルの言葉が終わらないうちに、ジルの力が発動した。ディエルの身体が球に包まれたかと思うと、次の瞬間消え失せていた。 「いってらっしゃーい!」  ディエルがさっきまで座っていたベッドに向かって、ジルはにこやかに手を振った。  そして――。  この日を境に、フェル・アルムの夜空を覆うはずの星達が一切見られなくなった。  空虚な暗黒はついに、夜空を支配してしまったのだ。 § 第一章 “力”を求める者 一.  漆黒の中、ハーンは馬を駆っていた。すでに夜も更け、“刻無き時”に入ろうかというのに夜空に星が瞬くことはない。  星なき暗黒の空が、ハーンを不安に陥れる。漆黒の向こうにあるのは、“混沌”か、それとも無か。いずれにせよ、それは破滅を予感させるものであることに変わりはなかった。  夜空が消えてすでに五夜目となる。さすがのハーンも、安穏としたひとり言をつぶやいていられるほどの余裕はなく、朝早くから深夜まで、ただ馬を走らせるのみだった。このままルシェン街道を行けば、夜明け前にはクロンの宿りに着けるはずである。疲労のため半ば朦朧としていたハーンだが、クロンの宿りの暖かさのことを思うと嬉しかった。  そんな時。  ハーンは、不意に馬の歩みを止めた。 (この先に何かいる!)  戦士の直感で、ハーンは悟った。そして目を静かに閉じると、術を発動させるため二言三言つぶやいた。  いくら町が近くにあるといっても、こんな深夜に移動するのは、何らかの事情を持った者であるとしか考えられない。夜逃げ、野盗、あるいは疾風。もしくは“魔物”――。  “遠目の術”が完成するとハーンは目を開け、まっすぐ続く道の、さらに先を見据えた。  小さい何かが、ゆっくりとこちらのほうに歩いてきている。ハーンは精神を集中させ、それが何であるか見きわめようとした。 「え……? ……子供?」  彼が見たのは背もまだ伸びきっていない、ひとりの少年だった。おぼつかない足取りでとぼとぼ歩き、顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。 「迷子……かなぁ?」  ハーンは馬の歩みを進めた。  一、二フィーレも行くと、肉眼で分かるようになった。やはり子供だ。なぜこんな夜にひとりで? とハーンは訝ったが、それでも子供が警戒しないよう馬を下り、歩いていった。 [どうしたんだい、こんな夜に?]  ハーンは声をかけるが、その子供は何やらぶつぶつ言っているだけである。ハーンがいることに気付きもしない。数ラクまで近づいた時、ハーンは再び声をかけた。 [坊や?] [何だよ! オレにはディエルってぇ名前があるんだ! 坊やはないだろうに!?]  ディエルと名乗った子供は枯れ果てた声で喚いたが、次の瞬間はっとなってハーンを見た。 [……ああ!]  ディエルと名乗った子供は、驚いたようにそう言うと、真っ赤に泣きはらした目をごしごしとこすって、ハーンの顔をしばし見上げていた。 [……あのう? どうしたの?]  ハーンは困りながらも中腰になり、少年と目線を合わせた。 [……ひとだあ……やっと……人に会えたぁ]  言うなり、ディエルの目から涙があふれ、ディエルはハーンに飛びついた。 [わーーん! さびしかったよぉーー!]  後はただ泣きじゃくるのみ。ハーンも、ディエルの頭を撫でながらとりあえずこの子をなだめるしかなかった。  この子供から邪念はまったく感じられない。ハーンは一瞬でもこの子を疑った自分を恥じたが、また同時に、人に会い孤独から解放されたことを喜んでいた。 [……で、ディエル君。なんで君はこんなところを歩いてたんだい?]  ようやく泣きやんだディエルに、ハーンは話しかけた。 [……くん、なんて付けないでくれ。道に迷わされたんだい]  ディエルはぶっきらぼうに答えた。泣きじゃくったことが恥ずかしくなったのか、ハーンからは少し距離を置いて座っている。顔を合わせようともしない。 [そうかぁ……]  ハーンも、子供のあやし方には馴れておらず、そう言って鼻の頭をかいた。 [ねえ、君のお母さんはどっち行ったんだい?] [あのね、オレは迷子なんかじゃないからな! ただ……そのう、どこ行きゃいいんだか分かんなくて] [うーん、……それを迷子って言うんじゃないのかなぁ?]  ディエルは、うっと唸ると、ばつが悪そうに顔を背けた。 [……とにかく! 疲れてんだよ、近くの町までどのくらいかかるんだよ?] [え? だってさ、クロンから来たんでしょ?] [クロン? 何それ?]  話がかみ合わないので、お互いの顔を見合わせる二人。 [クロン……て、町の名前だよ。クロンの宿り。ほら、君がやって来た方向にずーっと歩くと、行き着くんだけどな] [え? オレが歩いてきたほうに町があったの!?]  ディエルは、自分が来た道を振り返った。 [ひょっとして、オレ……逆方向に歩いてた?]  ディエルが訊く。 [うん。このまま、まーっすぐ行けばクロンの宿り。馬だと朝前には着くよ]  ハーンが答える。 [でもさ、君どっから来たんだい?]  ディエルは口を真一文字に結び、わなわなと肩を震わせている。 [……ま、言いたくないんならいいけど、さ]  ハーンはやれやれ、といった面もちで、ディエルに話を持ちかけることにした。 [じゃあ一緒に行――] [ジルのやつ! あいつのせいで森から這い出すのに二日! 道をとぼとぼ歩いて三日! 送る場所間違えた上に、まる五日もオレを歩かせやがった! しかも、無駄足ときたもんだ! あいつ、今度会ったらただじゃすまさねえからなぁ!!]  喚きちらすわ地団駄を踏むわ。沸点に達したディエルの怒りは当分収まりそうにない。 [じゃあ一緒に行こうよ]  と言おうとしたハーンの言葉は、かき消されてしまった。  これがハーンとディエルの出会いであった。 二.  そして朝が来る。  漆黒の闇は去り、陽の光によって世界は明るく彩られていく。だがハーンにとって、それは仮初めの平和でしかない。 (だけれども陽の光は、闇に同調する漆黒剣と、剣の“力”に怯える僕自身に、ひとときの安らぎを与えるのもまた事実……か)  だんだんと朱色に染まっていく東方、スティン山地の稜線を見ながら、ハーンは思った。 (レヒン・ティルルは確かに大した剣だ。でも、僕も剣の闇の部分に取り込まれないようにしないと。そんなことはもうないだろうけど、用心はしなくちゃ。〈帳〉は、僕のことも世界の希望の一部だと思ってくれているんだから) * * * 「ふう……やっとだよ」  馬を歩ませながらハーンは言った。東の空が明るくなるにつれ、とりあえずの安息の場所、クロンの宿りの門がぼんやりと見えてきた。 「この子をどうしたもんかね……。とりあえずあの親父さんのとこまで連れてくしかないか」  ハーンは、馬の首筋にしがみつくようになって寝ているディエルを見た。結局、ディエルがどこから来て、なぜ迷子になっていたのかは聞き出せずにいた。 (ま、いいけどねぇ。ごく普通の男の子だからなぁ。しかしなんというか……疲れる子だよ……)  手綱を引きつつハーンは苦笑した。 [おおい、ハーンじゃないかあ?]  門に辿り着いたハーンに、衛兵のひとりが声をかけてきた。 [キニーかい? 久しぶりだね、朝早くからごくろうさま]  ハーンが手を挙げて答える。 [こんなとこで会うなんて。戦士稼業はどうしたんだい?]  キニーは、一年前に知り合った傭兵仲間だった。 [ああ、……実は俺の親父が一ヶ月前にぽっくり逝っちまってさ。お袋ひとりだと大変だろ? だからお袋とここに住みつくことに決めたのさ。そういうことで傭兵はやめだ。まあ、いい嫁さんでも探すさ]  キニーは言った。 [ところで、その子はハーンのかい?] [だとしたら、僕は声も変わらないころから浮き名を流してたことになるよね]  ハーンは笑った。 [……迷子らしいんだ。クロンで、ここ数日で行方不明になった子っているかい?] [いや、全然。……なあ、知ってるか?]  キニーは同僚達に声をかけたが、彼もそんな話は聞いてないとのことだった。 [別にそんな話は聞かないし、野盗が出没したっていうのもないな。どこから来たんだろうな?] [それは僕が訊きたいよ]ハーンは苦笑した。  と、馬のたてがみがむず痒くなったのか、二、三回ディエルがくしゃみをした。 [ああ、とりあえず入んなよ。しばらくここにいるのかい?]  キニーが門を開ける。 [いや、一日もすれば出ちゃうつもりさ] [そうか、気を付けてな、最近得体の知れない化けもんを見た、とかいうのを聞くからな] [それは……どこら辺で?]  ハーンの顔つきが真摯なものに変わる。 [何人かの旅商の話さ。スティンの山道とか、カラファーからダシュニーに向かう山道とかで、でかくて真っ黒な奴を見たっていうんだ……。ま、おおかたそいつら、熊と見間違えたんだろうけどよ] [……キニー。君の言っている熊っていうのは、間違いなく強いよ。万が一に出会ってしまったら、心してかからないと――死を招く] [え? ああ、分かったよ。じゃあな]  ハーンは、キニーとにこやかに別れながらも、内心、確信を持っていた。 (“混沌”の魔物が、勢力を増している。急がないと!) (しかし……)と、ディエルを見る。 「この子……どうしようかねぇ……」  嘆息。 * * *  〈緑の浜〉。赤煉瓦《れんが》のこじんまりとした宿の厨房では、朝もまだ早いというのにひと騒ぎになっていた。 [ぷぅー……。ごちそうさん!]  ディエルは、二人前の食事をぺろりとたいらげ、満足そうに言った。  ハーンがディエルと一緒にやって来たのは、前一刻を告げる鐘が鳴ってそう経たない時だった。折しも朝食の仕込みをしていた夫人は、ハーンから事情を聞くとすぐに寝所へ向かった。夫人に追い立てられるようにして、宿の主人ナスタデンが目をこすりながら現れた。 [ハーンの頼みだったらしかたねえな。俺もかみさんが怖いからよ……]  などと言いながら、風呂釜の準備をしに行った。ハーンも湯を沸かすやら、朝食の準備をするやらでこき使われたが。 [ディエル……。もういいかい?]  緊張の糸が解けて、今までの疲れがどっと出てしまったハーンは、生あくびをしながら訊いた。 [うん! 兄ちゃん、どうもありがとうな]  満足するまで食べて元気を取り戻したディエルは、恩人であるハーンに心を開き、〈兄ちゃん〉と呼ぶようになっていた。 [まったくよ……ハーンも朝から騒がせるなよな]  そう言いつつ、ナスタデンの顔はほころんでいる。 [悪いね親父さん。ここしか頼める場所がないと思ったんだ] [なに、気にすんな。俺も久しぶりに子供の世話が出来たんでよかったよ] [ねえ、ディエル]  ほかの客へ食事を運ぶのがひととおりすんで、時間が空いたナスタデン夫人が訊いてきた。 [あなたどこから来たの?] [うーん……]  ディエルは腕組みをして唸った。 [とりあえず、ずうっと南、かな。王様のお城みたいなのがある、でっかいところ] [お城っていうと……アヴィザノかしらね? あんなところからひとりで来たのかい?!] [う……ん。まあね]ディエルは言葉を濁す。 [じゃあ僕はなぜ、クロンに行く道で出会ったんだろう?]  ハーンが言った。 [アヴィザノっていったら、ディエルが歩いてきた道と、まるで正反対だからね] [まあ、勝手に連れてこられたっていうか……]  ディエルは言った。 [人さらい?]  一同、声を揃えて言った。 [うーん、似たようなもんかな……あ、でも心配しないでくれよ。オレは全然大丈夫だったんだから!]  ディエルは両手を振り、元気そうに笑って見せた。 [でも、親御さんは心配じゃないかねえ?]と、ナスタデン夫人が心底心配そうな面もちで訊いてくる。 [親はいないんだ。弟がお城の街にいるんだけどさ。……すっごく、会いたいんだ。あいつには!]  強い感情を込めて、ディエルは言った。もっとも、彼が会いたいわけは、転移にまたしても失敗したジルをどつきでもしないと気が収まらないからであるが。 [かわいそうにねえ……でも、安心おし]  ナスタデン夫妻はそろってハーンの顔を見た。 [この兄ちゃんが、連れてってくれるよ] [僕が?]自分を指さして、素っ頓狂な声をあげるハーン。 [そりゃあ、これからスティンのほうには行くけどさぁ……] [じゃあ、話は早いじゃねえか! そこからちょっと足を延ばしてくれりゃいいんだから] [こんなことあんたしか頼めないんだよ。ねえ、お願いだよ] [うーん……]  夫妻の頼みごとを聞き、ハーンは頭をぼりぼりと掻く。 [………分かったよ。分かりました。アヴィザノまで連れてきましょう] [ほんとかい、ありがとう兄ちゃん!] [うん。支度が出来たら行こうか、ディエル] [おいおい。まさかもう行くのか?]と、ナスタデン。 [うん。僕の旅も急がないといけないからね] [でも、急ぐにしてもハーン]  夫人が声をかけた。 [あんた、今のままじゃあ、行き倒れになるよ? それにこの子も。少し休んでいきなよ]  ハーンは自分が焦っているのを知っている。世界に変化が如実に現れ始めた今となっては、時間こそがもっとも貴重なものだから。だが、自分の疲労が極致に達していることも分かっていた。このままではスティン高原に辿り着くまで体が保つかどうか怪しい。ハーンは体を休めることに決めた。  今夜宿泊する客は普段より幾分か多いようだ。ダシュニーへと向かう商人の一団が泊まるらしく、あいにくディエルの分まで空きがなかったため、二人は一緒の部屋で休むことになった。  夜も更け。ディエルはふと目を覚ました。ハーンは隣のベッドで、ぐっすりと眠りこけている。 「ふう……。まさかこんなことになるなんて、思いもしなかったぜ。全てはジルのせいだ」  ディエルはひそひそと言った。 「オレの探していた“力”を持って帰るのは無理だな……。あとはジルのいる町の“力”に頼るか……。悔しいけども、オレのほうはお手上げだな……ジルのせいで! オレの探す “剣”が見つかればなあ」  ディエルは暗がりの部屋を見渡す。ふと、ハーンの荷物に目がとまった。ひと振りの剣があるのに気付いたのだ。漆黒の雄飛、レヒン・ティルルである。  ディエルは静かにベッドから抜け出すと、その剣を手にしてみた。背の伸びきっていない少年が持つにはいささか重い。 (こいつはたいしたもんだ! オレが感じたあの“剣”に比べると力がないけど、それでもかなりの“力”が込められているな)  ディエルは目を閉じ、神経を剣に集中させる。 (『闇』に属する剣か。でもこれを使いこなすなんて、この兄ちゃん、なにもんなんだ? どれ、兄ちゃんのことをちょっと調べてやるか……)  ディエルはベッドに戻るとあぐらをかき、手を組んで神経を集中させた。ディエルの身体が、淡い緑色の光に包まれる。何かしらの術を発動させているのは確かだ。  そして、瞬時に光はディエルの身体の奥に消え去った (へえ……たいした“力”だよ。これはびっくり、だね……)  ディエルは、ハーンを見てにやりと笑った。 (予想外のことになったな……でも“力”は手に入りそうだ)  ディエルは窓かけの隙間から外の景色を見た。  人々は寝静まり、民家には一つの灯りもともっていない。そして空。穏やかな銀の光で世界を包むはずの月の光も、夜空を彩るはずの星座も何一つ無く、ただ暗黒が支配している。 (この世界は終わりかけてる……。そう長く保ちそうにないな。“力”を手に入れたら、ジルと一緒にとっととおさらばしないと、こっちまで危なくなる)  ディエル、そして彼の双子の弟ジル。彼らはフェル・アルムの民でも、アリューザ・ガルドの人間でもない。ましてや、アリューザ・ガルドを見守る神“ディトゥア神族”でもないのだ。どれにも属さずに、“力”を求める者達。彼らは――。 三. 「うわあ!」  ハーンの上げた奇声で、ディエルは夢の中から呼び起こされてしまった。寝ぼけ眼で横を見ると、『やってしまった』とでも言いたげな、苦い顔をしたハーンがいた。 [……どうしたんだよ?]  寝ぼけた目をこすり、ディエルも起きた。窓から射し込む日の光は暖かく、風を伝って食べ物のいい匂いがしてくる。 [もう昼みたいだな。おはよう、兄ちゃん] [そうだよ……どうやら丸一日眠っちゃったみたいだ]  ハーンは手を顔に当てる。まいったな。そんな感情がありありと出ている。ハーンとしては二、三刻ほど休んですぐに旅立つ予定だった。寝こけるなど思いもしなかったのだ。 [無理ないよ。兄ちゃん、むちゃくちゃ疲れてたし]  あっけらかんとした口調で言うディエル。 [でも、いつまでもこうもしちゃいられない! ……あれ……僕の服は……?]  ハーンは、がばっと起き上がると、自分の服を探した。 [ああ、兄ちゃんの服なら、おばさんが洗って、ほら、そこにかけてあるよ]  ディエルは戸口におかれた籠《かご》を指さした。 [おかみさんが? いつ頃来たの?]  ハーンは、籠から真っ白な服を取り出すと、着替え始めた。 [朝方だったかな? オレも服を探してたらさ、おばさんに出会って、オレのと、兄ちゃんのと、服を渡されたんだ] [ディエルは朝きちんと起きたのかい?] [ああ、でも兄ちゃんが寝てたから、また寝ちゃったけど] [……その時、起こしてくれりゃよかったのになあ……]  ハーンは悪態を付きながらも着替え終わり、ディエルにも着替えるよう催促した。 [丸一日ここで過ごしちゃったんだ。早く行かないと!]  ハーンと、ナスタデン夫妻に礼を言うと、ディエルを連れてあわただしくクロンの宿りをあとにしていった。  昼下がりの太陽の光は、奇妙な組み合わせとなった二人の旅人を暖かく包む。クロンを出てからというもの、話すきっかけがないのか、二人は黙ったままだった。  ハーンは馬を歩ませながら、ルード、ライカとともに高原を目指した、二ヶ月ほど前の出来事を思い出していた。  あの頃のことは、今起こりつつある全ての出来事の始まりでしかなかった。ルードはもちろん、ハーンですら、事態がここまで大きくなるとは思いもしなかった。  そしてハーンの想いは、さらに過去に遡っていく。  ハーンは無性に懐かしかった。シャンピオとともに、スティンの高原を訪れた、あの春の始まりが。ニーヴルとしての過去を忘れ、タール弾きとして各地を巡り、時として旅商の護衛となっていた、かつての自分が。  だが、もうあの頃には戻れないのだ。  きりりと、胸の奥が痛くなる。ハーンにとっての平穏は、すさまじい濁流の向こう側にしか存在しないのだから。 (……でもそれはルードやライカ、〈帳〉もおんなじなんだ)  自分とともに歩いていこうとする仲間がいる。それがハーンの支えであった。運命を一人で握ることの怖さを、ハーンは知っているのだ。自分の奥底に眠る、遙か昔の悲しい“知識”によって。  ハーンは左手で自分の腰のあたりを探った。鞘に収められるは、漆黒剣。鞘を通してすら感じる、かすかな闇の波動。その波動はハーンに安らぎを与えるとともに、戒めをも与える。〈帳〉が自分にこの剣を託した意味を忘れてはいけない。 [どうしたんだよ? へんに落ち込んでない、兄ちゃん?]  馬の首につかまっているディエルが振り返って言った。 [いやぁ、別に。山道に入る前で野営しないといけないと思ってね。もうちょっと僕らが早く出ていたら、山道のちょうどいいところでキャンプを張れるんだけど、まあ過ぎたことを言っても仕方ないかな?]  ハーンは平静を装って答えた。 [……兄ちゃん、戦士なの? すごい剣持ってるじゃない]  ハーンが腰に下げている剣を見据えてディエルは言った。 [まあ、そうだね……戦士といえばそうなのかな? タール弾きでもあるんだけどねえ]  努めて得意げに言うハーン。他人と話していると、鬱屈しがちの感情も少しは晴れる。 [タールって?] [僕の持ってる楽器だよ。これがないと、僕は食べていけないんだ。剣を握ることが、そうそうあるわけじゃないしね] [へえ。じゃあ、兄ちゃんの演奏、聴かせておくれよ。オレ、そういうの好きなんだ!] [分かった。でも少し我慢してくれないかい? そうだな、二刻もしたら野営地に着くから、そうしたら弾いてあげるよ]  それを聞いてディエルはうんうんと、力強くうなずいた。 [きっとだよ!] [分かったよ。僕も路銀が乏しくってね。よし、今日はたっぷり弾いて、道行く人から稼がせてもらおう!]  ハーンとディエルは顔を合わせ、にいっと笑いあった。 [そんでさ、兄ちゃんの剣なんだけど……すごそうだね]  ディエルは話を元に戻そうとした。 [ああ、こいつかい?]ハーンは剣を鞘からすらりと抜いた。 [すげえ……真っ黒だ]  ディエルは食い入るように刀身を見つめた。陽の光があたりを包んですら、この刀身だけは光ることがないのだ。 [なるべくなら、使わずにすませたいもんだけどね、こんな物騒なものは、さ]  ハーンは剣をおさめた。  それからというもの、ハーンはディエルに色々話して聞かせた。クロンの宿りに住むナスタデン夫妻のことや、水の街サラムレの剣技会での珍事件。それに、湖畔の街カラファーのうまい食べ物などなど。ディエルも興味深そうに聞き入り、おかしな話にはお互い笑いあった。だが、ハーンやディエルの個人的な話題についてはまったく触れられなかった。  陽が傾きはじめる頃、二人はスティン山道に入る前の野営地に辿り着いた。  キャンプの準備をひととおり終えると、ハーンは荷袋の中からタールをとりだし、弦を一本一本張っていく。  その様子を見ていた一人の老人がハーンに声をかけてきた。自分もタール弾きなので、一緒に弾いて楽しまないか、と言うのだ。ハーンは申し出を快く受け入れ、調弦をすますと、じゃらん、と弦をかき鳴らした。  二人はそれを合図に、ともにタールを弾き始めた。  最初はディエルだけが聴き入っていたが、徐々に人が集まりだし、とうとう、今日野営を行う全ての人(二十人程度)が、ハーンと老人の紡ぐ調べを聴くために集まってきた。  老人の腕前は、『十二本の指を持つ』と賞されるハーンに比べればいささか劣りはするものの、タール弾きを生業《なりわい》とするには十二分であったし、暖かみのある音色は、印象深いものだった。  一刻ほど後、二人が演奏をやめると周囲の人々は拍手喝采、やんややんや騒ぎ出した。おひねりを集めるハーンと老人は、旅商の一行と食事をともにすることになり、そこでも酒を交わしながら、踊りの曲をいくつも披露した。曲にあわせ、踊りに興ずる人々。その中にはディエルの姿もあった。  楽しかった宴会もお開きとなり、ハーンは老人と握手を交わした。 [ありがとう。こうも楽しくタールを弾けたのは本当に久しぶりですよ]  それを聞いて、老人はかっかっと笑いながら言った。 [それはよかった。わしも楽しかったわい。こうやって弾いていると、嫌なことなど吹き飛んでしまうじゃろう?] [そうですねえ]ハーンは笑いながら相づちを打った。 [なあ若いの。おぬし、悩んでいることがあるな?]  老人は目を細めて訊いてきた。ハーンはどきりとした。老人の指摘があまりにも的確だったからだ。 [分かりますか?] [分かるとも。だてに長年タールを弾いてないわい。その音から、弾いてる人間の想いが分かるってもんじゃよ]  ハーンは苦笑いをした。 [じゃが]老人はにっと笑った。[じゃがな、大丈夫じゃ。人間と同じく、世界そのものにも意志があるとするなら、自分から進んで悪い方向に行こうなどとは思わんじゃろうからな] [え?!]  ハーンは老人を見据えた。自分を見上げている老人が、急に大きく見える。 [それにぬしが闇の虜になったとしても、おぬしの友人が救ってくれるじゃろう]  再び目を細めると、老人はタールを手に歩き始めた。 [あの!]ハーンは声をかけた。[あなたは……?]  老人は振り返って言う。 「わしは、おぬしの“知識”が……封じられた知識が知っている者じゃ。……闇を汝が力とせよ。きっかけを与える者は、すでにおる。まあ多少、手荒にはなりそうじゃがな」  語った言葉はフェル・アルムの言葉ではなく、アズニール語――アリューザ・ガルドの言葉であった。老人は再び歩き始めた。 「古き友人よ。我が名は“慧眼《けいがん》の”ディッセじゃ」  その場で、老人の姿はすうっと消え失せた。 「ディッセ……」  ハーンは老人がいた場所を見ながら言った。 (――ディッセ。ムル・アルス・ディッセ。ディトゥア神族にして、次元の狭間“スルプ”の長)  心の奥底に眠る“知識”がハーンに囁いた。  術の力に覚醒した十三年前から、“知識”はハーンの中で時折うごめいていたが、ここ最近、呼びかけが顕著であった。ハーンの奥底に眠る“知識”といわれるもの。それがいったい何なのか、知る者はハーン自身と〈帳〉しかいない。  そのまま、ハーンはしばしたたずんだ。 四.  夜も更けて。ハーンが眠りにつこうとした時、叫び声が聞こえてきた。ハーンは何ごとか、と思い、剣を握りしめテントの外に出た。今の叫び声は人間のものではあるが、悲鳴に近いものだった。 [だ、誰かあ……]  うめく声が再び聞こえた。それを聞き、周囲の者達もテントから這い出してきた。 [なんだ? 一体] [危険だから、下がって!]  言うなりハーンは剣を抜くと、救いを求める声のほうへ、一目散に駆けていった。  ハーンには分かっていた。クロンの衛兵キニーが言うところの『熊』が現れたのだ。  ぶうんっ……  剣が低く唸り、その波動がハーンに伝わってくる。戦いのためにこの剣を抜くのははじめてだが、剣が意志を持つかのように戦いを欲しているのが分かる。ハーンは、まもなく目の当たりにする魔物のほかに、この漆黒剣の誘惑にも打ち克たなければならない。  悲鳴の上がった現場には、得体の知れないものを前にした男が、腰を抜かして座り込んでいた。ハーンは、がちがちと歯を震わせている男の前に立つと、目前の敵を見据えた。  一匹の獣が、しゅうしゅうと不快な息遣いをしながら、赤い目を爛々《らんらん》と輝かせて獲物を屠《ほふ》らんとしている。獣は熊のようにも、大柄な猪のようにも見えるが、その実どちらでもないことがハーンには分かった。形こそ違えど、これと同じ感覚を持つものにハーンは一度出会っているからだ。魔物。フェル・アルムには存在してはならない生物。“混沌”が生み出しし、忌まわしき創造物。  ハーンは直感で知った。今の自分なら――レヒン・ティルルを得た自分なら、この程度の魔物ごとき、苦もなしに倒せるのではないか、と。迷いもなく、ハーンは地面を蹴った。  ハーンが剣を薙ぎ払うのと、牙をむいた魔物が突進するのは同時であった。  うおおおん、と不気味に吼えたのは、魔物か、剣か。  レヒン・ティルルの刃先は、向かってくる魔物の頭部を見事にとらえた。ハーンはそのまま勢いに任せ、魔物の口元から胴体にかけ、一気に切り裂いていく。勝負あった。ハーンは剣を引き抜くと、とどめとばかり、漆黒の刃を振り下ろし、魔物の首をはねとばした。  ずう……ん……  魔物の巨躯が地響きをたてて崩れていく。ハーンは余りにあっけない成り行きに驚きを隠せなかった。 「たったの一撃で?! レヒン・ティルル、まさかこれほどの力を持っているとはね……」  次の瞬間、闇の力が剣から彼の身体へと侵入してきた。濁流のごとく襲いかかる闇の波動に、ハーンは必死で抗う。 (……! 力の反動も凄いな……。〈帳〉……このままこの剣を使い続けていたら、いずれ僕は闇に負けてしまうよ……)  朦朧とした思考の中、先ほどの老人の声が頭をよぎった。 (『闇を自分のものにしろ』……でもそれと、闇の虜となるのと、どう違うんだ……?) 「かはっ……」  ハーンの精神はとうとう限界に達し、意識を失った彼はそのまま地面に突っ伏した。  ディエルは、少し離れたところからこの顛末を見ていた。 「兄ちゃん……大丈夫かな?」  ディエルは頬をぼりぼりと掻きながらぽつりと言った。 「様子見にしては、ちょっとやり過ぎたかな?」  ハーンが演奏に興じている隙に、ディエルはレヒン・ティルルに少し細工をしていた。一回しか行使されないが、ハーンが剣を振るった時に、闇の波動をハーンの身体に入り込むようにしたのだ。ハーンの“力”がどのようなものかを試すつもりだったのだ。  だが―― 「なっ……!?」  絶句。  ディエルは見た。気絶したハーンの身体から、天を突くがごとく闇の気の柱が発散されるのを。なぜハーンがここまで計り知れない力を持つのか、ディエルには分からなかった。  ハーンから発せられた気柱は、闇夜の中で凝縮され、龍のかたちをとる。夜の暗がりよりさらに濃い、闇の龍は空を駆け抜けていった。 五. 「な、なんだあ!?」  ルードの部屋は突如、まばゆい光に包まれた。夢の世界に赴こうとしていたルードは、がばりと起き上がり片手をかざして、光がどこから発しているのか探しはじめた。  〈帳〉かライカ、どちらかのいたずらかと最初は思った。だが〈帳〉がこのようないたずらをするわけがないし、女性であるライカがルードの部屋に、夜半に入り込むなどというのも考えにくい。 (じゃあ、いったいこれは……?)  ルードは光の正体を見つけた。それは壁に立てかけてあるひと振りの剣。土の力を持つ聖剣ガザ・ルイアートであった。  彼は恐る恐るガザ・ルイアートに触れてみた。別に熱いわけではない。意を決したルードは柄を握りしめ、鞘から剣を抜き放ち、剣をかざした。  刀身がまばゆく光り輝いている。 (これは……すごいぜ……。これが聖剣の本当の力なのか?)  ルードはかつて二回、聖剣を手にしたことがあるが、今はその時とは比べものにならないほどの“力”にみなぎっていた。大地にみなぎる活力が、全てこの剣に集結したかのようである。  しかし、ルードはかつてのような恐怖感を感じなかった。剣が、ルードを所持者として認めているから。それもあるが、運命に立ち向かうことを固く誓った今のルードの精神が強固であることをも表している。  ルードは剣の圧倒的な“力”を感じ取っていたが、それも一瞬。剣は光を失い、ただ鈍く銀色に光るのみとなった。 六.  トゥールマキオの森の大樹の中、自らの居室で、デルネアは二つの“力”がいかばかりのものか、感じ取っていた。  ハーンが所有するレヒン・ティルル。  ルードのものとなったガザ・ルイアート。 「我《われ》が予期せぬ巨大な“力”が、この地にあろうとはな……」  デルネアは言った。 「我《わ》が手に余るやもしれぬが、この“力”を手中に収めるならば、我とフェル・アルムは、確実に永遠のものとなるだろう……。我は神にすら値するようになるのだ! 「我自ら、フェル・アルム北方に赴く必要があるな。……“烈火”とともに」  “力”を求める者――ディエルにより、ハーンは一時ではあるものの自らが内に秘めた“力”を解き放った。  それに呼応し、真の“力”を発揮したのは聖剣ガザ・ルイアート。二つの新たな“力”の顕現は、それまで傍観を決め込んでいたデルネア自身を動かすことになったのだ。  三人目の“力”を求める者――彼の名は〈要〉。  かくして、デルネアは朝を待たずに森をあとにした。目指すは帝都アヴィザノ。フェル・アルムの歴史上、最大の“神託”を与えるために。 § 第二章 邂逅、そして 一.  ルードはベッドの中で寝付けずにいた。先ほどのガザ・ルイアートの輝きが、鮮烈にまぶたに焼き付いているからだ。それだけではない。あの輝きは、この世界の何らかに対して警鐘を鳴らしていたのではないか。  何のために?  そんなことを考え始めると、眠りにつこうとしていた頭がにわかに働きだし、答えの出ない思考の迷宮をさまよう。  しばらくひとり悶々としていたルードだったが、がばりと起き上がった。手探りでランプを見つけ、灯をともして机に置く。  カーテンを開けると、まだ空は尋常ならざる闇に覆われている。禍々しい夜。ここ数日、星の輝きを見たことがない。 (星なき暗黒か。ハーンがこれを恐れるのも分かるよな。この空は……何かとても、いやな感じがする)  虚ろな空を嫌って、ルードはカーテンを閉じると椅子に腰掛けた。 (さて、どうしようかな……〈帳〉さんに訊いてみようか?) 〈帳〉もライカも眠っているに違いない。しかし聖剣の輝きが何か重要な意味を持っているのではないか、と思うにつけ、いても立ってもいられなくなる。ルードはランプを片手に部屋を後にしようとした。  その時。あるイメージがルードの頭の中を駆けめぐった。図書館、一人の女性、そして――。 (ハーン!?)  ハーンが苦悶する表情が映り、すぐに消えた。まるで闇の中に消え失せるかのように。  ルードは立てかけてあるガザ・ルイアートをつかみ、部屋を後にした。今のイメージで、彼の抱いていた疑念は、一つにまとまった。 (ハーンに何かあったんだ!!)  ぎしぎしと音の鳴る板張りの廊下は暗闇に支配され、けして気味の良いものではなかった。ルードはその不気味さを払拭するように、大股で〈帳〉の部屋に急いだ。扉の前に来たところで躊躇《ためら》うものの、こんこん、とノックを繰り返した。  やがて部屋の中で、がさがさという物音のあと、 「だれか?」  と、〈帳〉が問いかけた。 「……ルードです」  かちゃりと扉が開き、〈帳〉が顔を出した。 「何があったというのだ……。まぶしい……」  〈帳〉は右手でランプの光を避けつつ、起き抜けのくぐもった声で言った。 「あ、ごめんなさい」ルードはランプを後ろ手に持ち替えた。 「実は――」 「待ちなさい。ここでは声が響く。入るがいい」  〈帳〉はそう言って、部屋の奥に引きこもった。ルードは続いて、〈帳〉の部屋の中へ入っていった。 「……そうすると、ハーンの苦悶に呼応するように、聖剣が光ったのではないか、と、そう言いたいのだな?」  先ほどの一件をたどたどしく語ったルードに対し、〈帳〉は明快に言葉をまとめ上げた。 「そ、そう! そういうことなんですよ」  ルードは剣をちらと見る。 「……でも、空が真っ暗になってさえ、こいつは反応しなかったのに、ハーンに対して反応するなんて信じられますか? いくら前の持ち主とは言っても……」 「考えられることだ……」 「え?」 「……何でもない」  〈帳〉は腕を組み、ルードから目をそらすと、調度が並ぶ壁に目を泳がせた。 「いずれにせよ、ハーンが実のところどういう状態にあるのか、調べたほうがいいな」 「調べるって、どうやってですか?」 「私とて、魔法使いの端くれだ。術が使えるハーンとであれば、きわめて微弱ながら意志の疎通が出来る。彼がどのあたりにいて、無事なのかどうかぐらいはな。もっとも……」  〈帳〉は再びルードの顔を見た。 「もっとも、今は無理だ。フェル・アルムの夜は“混沌”に支配されつつある。魔法を使えば、何らかの悪影響が出るやもしれない。下手をすると、私自身が闇にとらわれるかもしれないからな。かつての私であれば抑圧出来ただろうが、今の私では無理だ」  自らの無力さを呪うかのように、かつて“礎の操者”と呼ばれていた魔導師は弱々しく言った。 「でも、〈帳〉さん。朝になれば術を使えるんでしょう?」 「それは問題ない」 「じゃあ、明日の朝まで待ちますよ。それでいいのでしょう?」 「ああ。夜が明けたら、さっそく術を行使してみる」  それを聞いたルードは椅子から立ち上がり、剣とランプを持って戸口に下がった。 「俺、待ってます。……すみませんでした、こんな夜更けに起こしちゃって」 「なに、気にすることはない。むしろ話してくれてありがたいと思っている」  〈帳〉は目を細めた。 「ルードよ。強くなったな」  二ヶ月前、漠然たる不安に苛まれていた少年の面影はそこにはなかった。 「〈帳〉さんだって、ここに俺達が来た頃よりも、ずっと生き生きして見えますよ!」  ルードは笑って言い返した。 「まあ、でも〈帳〉さんに話したら、胸のつかえが取れちゃったみたいです。とりあえず眠りますよ。お休みなさい」 「お休み。……ああ、ちょっと」  呼び止められたルードは首だけ〈帳〉のほうを向けた。 「ことによっては、さっそく明日、旅立つかもしれない。準備だけはしておいたほうがよい」 「ハーンの返事を待たずに、この館を出るってことですか。ハーン、多分まだスティンには着いてないと思いますよ?」 「そうだ。ハーンの苦悶が聖剣の反応と関連があるのなら、急ぐ必要があるやもしれぬ……。しかし、とりあえず今は休むといい」 「分かりました」  ルードは一礼をして、扉を閉めた。  椅子にひとり腰掛ける〈帳〉は、やおら立ち上がり、ランプの灯りを消した。 「まさか、そのようなことはあるまい、と思ったのだが……。剣の持つ闇に捕らわれたか? ハーン……」  〈帳〉はかぶりを振った。あの程度の闇の波動であれば、自らの力として難なく使えるはずだ。 (それにしても、ルード……。『生き生きしている』……か)  先ほどのルードの言葉を思い出した〈帳〉はふと、ほくそ笑んだ。 (不思議なものだ。彼らに出会ってから、明らかに私は生活自体を楽しんでいる。今まではただ、死んでいないに過ぎなかったこの私がな……) 二.  夜が明けてまもなく。ルードは〈帳〉の部屋を訪れた。 「来たのか……休んでいても構わなかったのだが?」  読んでいた分厚い本を机に置き、〈帳〉が訊いてきた。まるで物語に出てくるような、と形容すべきか。普段とは違う臙脂《えんじ》のローブを纏《まと》った〈帳〉は、まさに魔法使いそのものだった。 「ライカも一緒なのか?」 「まだ寝てるでしょうね」  見慣れぬ臙脂の装束をじろじろ見ながらルードが言った。 「あいつ、寝る時は本当にぐっすり寝ちゃうんですよ。……あ、起こしてきたほうが良かったんですか?」 「いや、それには及ぶまい」〈帳〉は言った。 「では、ハーンに呼びかけてみるとするか」 「魔導ってやつを使うんですか?」  ルードの問いに〈帳〉はかぶりを振った。 「術で十分であろう」 「そうですか……」  ルードは内心残念であった。かつては偉大な魔導師として名を馳せていた〈帳〉。ハーンの行使した術も驚きに値するものだったが、それを凌ぐとされる魔導とはいかなるものなのか、見てみたかったのだ。 「そう落胆するな。術と違って、魔導とは気安く用いるべき代物ではない。魔導の行使は、世界の構成そのものに干渉することになる。ゆえに魔導を用いる者は、干渉した際、どのような結果をもたらしうるのか見きわめねばならん。何より、己の意志を繋ぎ止め、全てをあやまたずに行わなければならないのだ……それを軽んじた結果、魔導の暴走が起きたのだ。 「……話がそれたな。いずれにせよ、事態が事態なのだから、君も近いうちに魔導の片鱗を見ることになろう。アリューザ・ガルドでは封じられた、魔導の力をな」  〈帳〉は目を閉じると、顔を上げて異質な抑揚を持つ言葉を紡ぎだした。それはほんの数節からなる言葉で、二回、三回同じ文句を唱えた。やがて〈帳〉の発する声はか細くなり、口を閉じた。〈帳〉はおもむろに左腕を天井に掲げる。すると、身体や四肢の中から浮き上がってきた幾筋かの揺らめく光が、様々な色合いに変化しつつ彼の指先へと立ち上っていき、一つの点となって凝縮した。〈帳〉が指を鳴らすと、それは窓を突き抜け、一条の矢のごとく飛び去っていった。 「今放った光は、一刻もしないうちに私のところに戻ってくる。その時、ハーンの所在が明らかになろう」  大きく息を吐いて、目を開けた〈帳〉は言った。 「……休んだほうがいいのではないか? あとは私にまかせておけばよいのだから」 「……いえ、ここで待ってますよ。ハーンのこと、やっぱり気がかりですからね」  二人は、徐々に明けてくる東の空を漫然と見ながら、時が刻まれるのをただ待つのであった。 三.  ライカは、朝食の用意をするために、〈帳〉の館を出て、いつもの小さな牧場へ向かう途中だった。館から牧場へつづく小径を、足取り軽く歩いていく。  彼女の耳に、風に乗って、ある音が聞こえてきた。唸りをあげて風を切る音。高ぶってはいるが、規則的な息遣い――。“風”の力に詳しいアイバーフィンでなければ聞き取ることは難しいだろうその小さな音は、牧場へ向かう小径から少し逸れた、林のほうから聞こえてくるようだった。  ライカは躊躇せずに、足を林のほうへ向けた。その息遣いを彼女はよく知っていたから。  ルード・テルタージ――自分を守ってくれている少年。 * * *  自分はこの剣を何百回振ったのだろうか? 息が徐々に荒ぶってきているのに相反するように、気持ちは落ち着いてきている。ルードは素振りを繰り返しながら、そんなことを考えていた。手にしている剣は、ルードに活力を与えてくれる。  ルードがこの圧倒的な“力”を持つ聖剣――ガザ・ルイアートを手にするのはほぼ二ヶ月ぶりだった。瀕死の状態で剣を握った、“疾風”との戦い以来だ。仮に剣に意志があったとすれば、剣はルードに対し従順になったといえる。ルードがかつて手にした時、剣は強烈な“力”をルードの体内に送り込んできた。それは、ルードが所持者たるに相応しいか、試さんとするようだった。  ルードが力に目覚めたのは、疾風との戦闘後だった。ルードは怪我をすることがなくなった。いや、正確にはどんな深手を負ってもすぐ傷が癒えるようになったのだ。そして、今まで感じ取れなかった大地の息吹というものを、肌で感じ取れるようになった。――ライカが風の力に敏感なように。 『ルードは、セルアンディルの力を手にしたのだよ』  かつて〈帳〉はそう言った。  セルアンディルとは、遙か昔のアリューザ・ガルドにおいて土の力を司っていた民だ。ルードは伝説の剣を媒体にして、古《いにしえ》の力を手に入れたのだ。  ライカの種族、アイバーフィンは風を司る。そして風の世界に赴き理《ことわり》を悟った者は翼を得、鳥のごとくに空を我がものに出来る。土の司セルアンディルは、大地の霊力を自らの力とし、外傷・病気など受け付けない、癒しの力を持つのだ。  今や剣は自分と一心同体となった。まるで何十年も使いこなしていたかのように、ガザ・ルイアートは意のままに動き、銀色の刀身が朝日を受けて幾重もの光を放つ。  ざっ!  ルードは足を踏ん張って、最後のひと振りを振り下ろした。 「はあっ!!」  そのままルードはぴたりと動きを止める。静かな林の中、自らの息の音と心臓の鼓動がやけに大きく聞こえている。少し長くなった前髪が汗で張り付く。  ぱちぱちぱち……  背後でそんな拍手が聞こえたので、ルードは剣をしまって振り向いた。 「……え……ライカ……か……。いつから……」  いつからいたのさ? そう言おうとして、息を整えようと必死のルードに、ライカは満面の笑みで駆け寄った。 「すごい! すごいよルード! ハーンだって、今のルードにはかなわないかもしれないわよ!」 「そんなこと……ない……俺はだいぶ……剣……の力に……たよってるから……ハーンは……こんな程度じゃ……息……あがらない……」 「まあまあ、落ち着きなさいな。ほら、そこに腰掛けて?」  ライカは倒木に座るようにルードを促すと、自分もルードの横にちょこんと座った。 「静かね……」  ライカがひとりごちる。物音一つしない林の中を、一陣の風が吹く。 「ふぅー……」ややあって、ルードが深呼吸をする。 「落ち着いた?」  ライカがルードの顔をのぞき込みそう言うと、こくり、ルードはうなずいた。 「〈帳〉さんは?」 「ええと、そうね、裏の畑でなんかやってたようね」 「そういや、朝飯の準備、途中なんじゃないのか?」 「いいのよ。……ルード、一生懸命だったから、見ててあげたくって、つい、ね」  ライカはそう言って小首を傾げて見せた。その可憐な仕草に動揺したルードは、ぽりぽりと鼻の頭をかき、照れたように笑って見せた。 「でも、どうしてまた今日はその剣なの? 今までだって、朝の練習は、なまくら剣だったでしょ?」  剣先を丸くした模擬戦用の剣のことをライカは言っているのだろう。 「ああ……ぼちぼち、こいつに馴れておかなきゃなんないかな、と思って」  それを聞いたライカの眼差しが、凛としたものになった。翡翠色の瞳が、きらと光る。 「それって……」 「ここから出る時が来たってことだよ」  ルードはライカに語った。数日前から夜を覆っている闇。光り輝く聖剣。ハーンのイメージ。そして――。 「で、〈帳〉さんの出した光が戻ってきた。ハーンはどうやら今、クロンの宿りにいるらしいんだけど……。〈帳〉さんからの問いかけにハーンが反応しないらしいんだ。そしたら〈帳〉さん、妙に険しい顔になってさ。どうしたのかって訊いたら、〈帳〉さんもよく分からないって言うんだ」 「それから?」  ライカは先をうながす。 「今のところはそこまでだ。〈帳〉さんも、出発の準備はしておけって言ってたけど、あの顔つきだと、どうなるかは分かんないな。でも俺はさ、ハーンがどうなっちゃったのか分かんないんだったら、ハーンを追っかけなきゃ、と思うんだ。大体の場所は、〈帳〉さんがつかめるんだから」 「〈帳〉さんが、行くのに反対だって言ったらどうする? 時期を待てって感じで」 「かけ合ってみるつもりさ。ライカはどう思ってるんだ?」  ライカはしばらく思案するふうを見せたあと、ルードの肩に頭を預けた。 「わたしもハーンのことが心配。ルードの話を聞いてると、やっぱりここから出たほうがいいかもしれないわね?」 「……多分、危険なことになると思うけど、……それでも……付いてきてくれるのか?」  ライカは頭を預けたまま、うなずいた。 「まさか、わたしをここに置いていくつもりだった?」 「それもちょっとは考えたかな?」  ルードの軽口に対してライカは顔を上げて、わざとらしくふくれっ面をしてみせる。 「まあ、でも……、約束してるからな。ライカを、もといた村に戻すって……。だから……」 「だから?」  横を見ると、ライカが何やら言いたげな眼差しでルードを見ていた。ルードは顔を赤らめて、言おうとしていた言葉を引っ込めようとした。 「ルードはどうしたいの?」  ライカは納得せずに訊いてきた。もはや言うべき言葉は一つしかない、というのに。 「俺に、付いてきてほしい」  その一言にライカは破顔した。 「それでこそルードよね! わたしの思ってるとおりの、ね!」  心地よい風が二人に吹き、林を駆け抜けていく。二人はしばらく、そのままの姿勢で風と、互いへの想いを感じていた。  ややあってルードは立ち上がる。剣をゆっくりと右に左に振って、その刀身の光るさまを見ていた。ライカのほうを見ないのは照れ隠しのためか。 「なあ、ライカ」 「なあに?」と、どこか楽しそうなライカの声。 「とにかく、俺は今日、〈帳〉さんにかけ合ってみようと思ってる。あの人だって分かってくれるさ。って、……何だ?」  ルードは耳を疑った。風に乗って、声が聞こえたような気がしたからだ。女性の声。それはライカでも、従姉のミューティースでもない。しかし、どこかで聞き覚えのある声――。 「どうしたの?」 「空耳? でも土がざわめいてる」  ルードはすくりと立ち上がった。 「こっちに……何かある!」 「ルード?」  ライカは、林の中へと入っていくルードを追いかけた。草の中を進むルードの歩き方に一切の迷いはなく、まるで見知った道を歩いているように見えた。腰のあたりまで茂った雑草をかき分けるのに苦労しながらも、ライカはルードに近づいていき、彼の肩をつかんだ。 「ルードってば、どこへ行こうっていうのよ?」  ルードはぴたりと歩くのをやめ、肩に乗せられたライカの手を握った。 「ライカ、俺は誰かに呼ばれたんだ。それがなんなのか……、知っているようで分からない。なんて言うかまるで――」 「夢の中の出来事のような、きわめて漠然としたイメージ……。私はそう言ったわ」  背後で聞こえた女性の声に、二人ははっとして振り向いた。  今まで薄もやがかかっていたようなルードの曖昧な記憶が、瞬時にして鮮明になる。二ヶ月前、疾風の手にかかって死にかけたルードは、意識のみが飛んでいき、その行き先は――“次元の狭間”――“イャオエコの図書館”――。 「……図書館……本……。そうか、あなたは!」 「お久しぶりね、ルード」  かつて会った時と同様、神秘的な雰囲気を身にまとう彼女。ルードの進むべき道を知っている、司書長のマルディリーン。  思いもかけぬ場所での再会であった。 四. 「どうやらその顔では、なぜ私がこの世界にいるのか不思議がっているようね。違っていて?」  マルディリーンは会釈をすると、静かに言った。 「そ、そのとおりだよ。あなたは、この世界の住人じゃないはずだぜ?」  ライカはことの成り行きに戸惑いをみせた。 「セルアンディルになったバイラルの少年と、アイバーフィンの少女が、この閉ざされた世界にいるとは。これは面白い組み合わせだわね?」  マルディリーンは、事態についていけず顔を見合わせる二人をよそに、くっくっと笑った。 「ああ、失礼。悪気はないのですよ。そうそう、アイバーフィンの娘よ。あなたとは初対面でしたね? 私はマルディリーン、といいます」 「マルディリーン、ですって?」  ライカは、ぽかんと口を開けた。 「マルディリーンって、あの、まさか……」 「“真理の鍵を携えし者”。数十年前に私のもとへ来た老アイバーフィンが私をさしていった言葉です」 「はっ……はじめてお目にかかります!」  動揺を露わに、ライカは深く頭を垂れた。 「……そう萎縮する必要などないでしょう? ルードのように堂々としていればいいのですよ」 「それは……ルードが、あなたのことをよく知らないからだと思います。わたし達にとっては、やはりあなたは……」  マルディリーンの目を見ることすら畏れ多いように、ライカは下を向いたまましゃべる。 「ライカ? 俺が知らないって……どういうこと……?」  ルードはきょとんとして、ライカに訊いた。しかし、ライカは答えなかった。 「……ルード。私は“イャオエコの図書館”の本達をとおして、世界の本質を追い求める者です。図書館を訪れた者に対して、真実を伝える者です。そして、世界の動向を見つめる者――ディトゥア神族のひとりです」 「え? ディトゥア神族? あなたが!?」  ディトゥアの名は、〈帳〉の館での滞在中、幾度となく〈帳〉から聞かされた。  世界には二つの神族が存在する。一つは、アリューザ・ガルドを創り上げたアリュゼル神族。もう一つが、アリューザ・ガルドの運行を任されているディトゥア神族だ。 「でも、神様がこんなところにいるなんて。考えられないよ」 「しかしそうは言っても、現に私はここに顕現している」  と、マルディリーン。 「確かに、フェル・アルムと名付けられたこの空間に住む者は、ディトゥアのことなど知らないはず。しかし世界は人間のみの力で成り立っているわけではありません。自然の力、精霊達のはたらき……何より、それら全てを包括して存在する“色”。そういった人間以外の“力”が折り重なって、世界というものは存在しているのです。この閉じられた世界では、それが認知出来ないのが不幸なのですが、ルードよ、いずれ分かるでしょう。アリューザ・ガルドに来ることによって」  マルディリーンの言葉は、一つ一つが大きな意味を持つようであった。ルードは不意に、彼女の背丈が何倍に大きく見える気がした。  “神”。  ルードにとっては未だに途方もない言葉であるが、その偉大さの断片をかいま見たようにも思えた。 「俺がアリューザ・ガルドに来る、か。それって意味深だな」 「なぜ、そう思って?」  マルディリーンが言った。 「俺は、ライカを……この娘を元の世界に戻してやりたい、ただそう思ってた」  ルードはライカの肩をつかんだ。 「でもさ、今となってはそれだけじゃ駄目なんだ。このフェル・アルムの全てを、アリューザ・ガルドに戻さないといけない。あなたが今言った、『アリューザ・ガルドに来る』というのはそういう意味だと思う……違いますか?」 「そのとおり。この世界を還元する、というのが我らディトゥアの総意です。私の役割は、この世界を変革しうる人物に、助言を与えることです」  マルディリーンは、どこからともなく、本を取りだした。さながら、空間の隙間から本がいきなり出現したかのような、そんな奇妙な取り出し方だった。 「……あなた方の行動は、本を通して知ることが出来ました。でも、この後どうなるのか、私には分かりません。『記憶の書』は、現在までの事柄を紡いでいるものであり、未来のことには言及されていないものだから」  彼女はそう言いつつ、ぺらぺらと頁をめくっていった。 「ふむ、ここね……」  マルディリーンはその頁を読み終わると、顔を上げた。 「では、ルード、それにライカよ。これからあなたがたの為すべき道を語ります」  マルディリーンの一言は玲瓏《れいろう》と周囲に響きわたった。その声は、今まで聞いたあらゆる声のなかでも、最も気高いもののようにルードには聞こえた。 「スティンの村――ルードの故郷へ行きなさい。会うべき人がいるはずです」 「会うべき人?」 「ハーンのことじゃないかしらね? ……多分」  二人は顔を見合わせた。 「マルディリーン様。その人の名前は、ティアー・ハーンというのでしょうか?」  ライカは相変わらずかしこまったままだ。 「あ、そうですね。名前、名前……」  マルディリーンは慌てたように頁をめくる。その焦ったような仕草は妙に人間味を感じさせるものだった。 「名前……無いわね。失礼。あなた達と関わり合いのある人の名前が、なぜ書かれていないのかしら? 助言者として、明確な言葉が出せないのはあってはならないのですけれど……とにかくあなたとしばらく前に行動をともにしていた人のようですね」 「じゃあ、やっぱりハーンだ。でも、ハーンはクロンの宿りにいるはずなんだけど?」 「あなた達が着く頃には、おそらくかの地から離れているのでしょう。それ以上は私も分かりません」 「そうですか……じゃあ、ルシェン街道を北回りして、クロンの宿りを通っていったほうが、ハーンに会えるかな?」 「北には行くべきではないわ!」  マルディリーンは強く言った。 「それは太古の“混沌”が、ここに至ってついに昼の世界をも蝕もうとしているから。夜を覆い尽くして力を得た“混沌”は、今度は大地を腐らせながら南下を始めているのです」  そう言っている間に、マルディリーンの身体は徐々に透き通り、足下からうっすらと姿をなくしつつあった。 「マルディリーン様……」  ライカが手を伸ばす。 「私がこの世界に干渉出来る時間が、無くなったようね……」  マルディリーンは自分の身体を見やりながら言った。 「アリューザ・ガルドへ還元するすべと、“混沌”に抗うすべ。それは我らディトゥアの力を持ってしても解が出ませんでした。しかしながら、『二つの大いなる“力”』が来たるべき終末に向けて唯一の救いとなる。“慧眼《けいがん》の”ディッセはそう語ったわ」 「『二つの力』だって?」と、ルード。 「一つはガザ・ルイアートでしょう……もう一つって?」 「我が父ディッセなら分かるのでしょうが、私には分かりません。とにかくスティンに行くことです。急がねば! 全てが動き出しているから。あなた達ならきっとやり通せる。私はそう思っているわ……」  もはや姿を無くしたマルディリーン。その声すらも徐々に小さくなり、やがて消え失せた。 「マルディリーン……」  ルードとライカは、林の中、今までマルディリーンが確かにいた低木のあたりを見つめ、しばしたたずんでいた。 「ことは急がねば……か」ルードはひとりごちた。 「マルディリーン様が来るなんて……やっぱりとてつもないことになってきてるのね……。あの方は、アリューザ・ガルドにだって姿を見せたことがないはずなのに」  ライカは考えるルードの横顔を見て言った。そして息を吸い込んで……。 「うん! ……行こう? ルード!」  ライカはルードの手を取ると、足早に歩き出した。 「ライカ?」 「ことは急がなきゃならないんでしょ? だったら〈帳〉さんのところに行って、かけ合ってきましょうよ、二人で、ね!」  ライカは目配せをして答えた。 五.  〈帳〉は厨房で、畑の野菜の仕込みにかかっていた。が、あわただしく館に入ってきたルードとライカの様子がいつもと違うことを察し、朝食の支度を中断して、少年達の語ることに聞き入った。  マルディリーン、彼女の提言、太古の“混沌”の侵食――。二人の口からそれらを聞くにつけ、〈帳〉ですら驚きを隠せなくなっていた。 「なんと、マルディリーンとは! 久しくその名を聞いていなかったな」 「知ってるんですか?」と、ルード。 「知っているとも。私がまだ深緑の髪を持つエシアルルだった頃、ディッセの野でたびたびお目にかかったことがあるからな」  白髪のエシアルル、〈帳〉は言った。  エシアルルは森の護り人。彼らはアリューザ・ガルドで生を受けておよそ二百年を経た後に、肉体と魂を分離させる。魂は次元の狭間にある“ディッセの野”に赴き、そこで彼らは百年の時を過ごすのだ。その後再びアリューザ・ガルドに帰還し、肉体を目覚めさせる。――長い人生のなかでエシアルルは幾度となくこの周期を繰り返す。 「マルディリーンがこのフェル・アルムに現れた、というだけで十分驚きに値するのだが、かの方がそのように言われたのであれば……。ライカ、とりあえずあり合わせのもので食事を作っておいてほしい。そのあと、自分の支度に取りかかりなさい。我らは出立する」 「は、はい!」 「ルードは……身の支度を整えたあと、馬を玄関口に連れてくるのだ」 「そうすると、今日から遙けき野越えなんですね?」  ルードは、あの厳しい道のりの記憶がよみがえった。また一週間近く、あの苦しみを味わわねばならない。それは全く乗り気がしないことである、が、荒野を越えない限り、スティンには行き着くことが出来ない。  ルードの言葉を聞き、〈帳〉は顎に手を当て考えた。 「……いや、急がねばなるまい。ここはルシェン街道まで、ひといきに移動しよう」  その言葉を聞き、ルードとライカはぽかん、と口を開ける。どうやったら行けるというのだろうか? 「つまるところ魔導を用いよう、というのだ。さすれば一刻もかからずに遙けき野を越せるだろう」 「へえ……」  ルードは驚嘆の声を漏らす。 「でも〈帳〉さん」とライカ。「それだったら、一度に高原まで行けないんですか?」 「残念ながら、それは叶わない。枯渇した私の魔力では、遙けき野越えで精一杯だろう。……とにかく今はなるべく急ぐことだ。魔導の行使により私は疲労するだろうが、三人ともに疲れ果てるよりはましだろう。ただ、もし何か起きたとしても、しばらくの間は微弱な術しか使えん。その時はルードの剣に頼ることになるな」 「じゃ、とりあえずわたし、食事の準備をしますから……」  言うなりライカは機敏に、洗い場に向かった。 「ルードも、はやく支度なさーい?」 「……分かったよ」  ライカに急かされたルードは急ぎ足で食堂をあとにする。  〈帳〉もまた、勝手口から館の外へと出ていった。彼が育てた畑の野菜や、牧場の動物達――。『〈帳〉の館』という名の小さな世界の住人達に、おそらく別れを告げるために。それが永遠のものではなく、しばしの別れに過ぎないようにと〈帳〉は世話をし、祈るのだろう。  三人がそれぞれの支度をし終わり、玄関に待たせていた馬に乗る頃、太陽はすっかり昇って、初夏の日差しをさんさんと注いでいた。しかし――。 (本当にそのかっこうで旅に出るのか?)  二人の旅装束を見た時のルードの素直な感想である。  ライカはまだいい。わずかに紫がかる銀髪は、確かにこの世界にはあり得ない髪の色だが、それ以外はいたって普通の少女なのだから。問題は――。 「あのう、〈帳〉さん、こんなこと言うのは何なんですけど」  ルードは少々恐縮しながら〈帳〉に話しかけた。 「ええと、その格好……かなり目立ちませんか?」  ルードの言うとおり、雪のように白い髪を惜しげもなくさらした〈帳〉のなりは目立ち過ぎる。エシアルル特有の端正なかんばせを持ちながら、両の目尻から頬にかけては臙脂に彩られた刺青を入れている。そして袖周りに刺繍の施された、ゆったりとした臙脂のローブ。 「問題はなかろう?」  ことも無げに言う〈帳〉本人は、気にする様子すらない。 「北には行けぬ以上、サラムレを経てスティンに向かうほか無い。サラムレでは、この程度のなりをしていても別段問題ないだろう」  商人達が多く集う水の街サラムレには、目立つ衣装をまとった芸人が多くいると、ルードも聞いていたが。 「でも! サラムレに着く前、疾風達に出くわすかもしれないしさ……」 「それもあるな……。“惑わしの術”を唱えて、私達の本当の姿を見えにくくしておくか。そうすれば、よほど疑いの眼差しで見られない限り、打破されることはないだろう。デルネアと、彼の麾下《きか》をのぞいて、であるが」  〈帳〉は、ルードの肩をぽん、と軽くたたく。 「私はかつて、デルネアに会うためにフェル・アルム南端のトゥールマキオの森に赴いたことがある。十三年前、ハーンを救い出した直後の混乱期にな。その時も、このような身なりについて人に問いただされることなくデルネアのところに行けたのだ。おそらくは大丈夫だろう。……それに、私達の姿かっこうをどうこう思う余裕など、人々にはなくなっているかもしれん」  ルードも、少し心配ながらも、それ以上の言及はやめた。 「さあ、結界を解いて、館の外に出よう。集まりたまえ」  〈帳〉が言うと、ルードとライカは馬を従えてひとところに集まった。新たな旅の一行となる彼らは、互いの目を見合わせる。決意のほどを確かめるように。  ルードとライカは目を閉じた。聞こえてくるのは、いつもと違う〈帳〉の声。呪文の詠唱は低い声で、うねるように続いている。徐々に、徐々に、足下の感覚が変わってくるのが分かる。 「……目を開けていいぞ」  〈帳〉の言葉を聞き、二人は目を開けた。広がるのは二週間ぶりに見る一面の荒野だ。しかし――。 「あ! 見てよ、あれ! ルード!」  叫ぶライカが指さす方向をルードは見つめる。 「う……」  声にならない。  北方。天上の青空とは明らかに異質な黒い空が覆っている。二つの空の境界は、まるで波打ち際に押し寄せる波のようにゆっくりと揺らいでいた。  自ら意志を持っているとも思わせる黒い“混沌”――。 「見るに耐えんな……。あれこそ、空間の歪みが呼び寄せた“混沌”だというのか……」  さすがの〈帳〉も眉をひそませる 「〈帳〉さんの館だと、空はあんなふうには見えなかったのに……。青い空が悲鳴をあげてるみたいで、とっても恐い……」  両の腕を押さえたライカは、今にも震えそうだった。 「私の館か……。いつの時代にあってもあの場所は、隔絶された安らぎの場所であるからな……」  そう言って〈帳〉は結界の向こう、館があったであろう場所を振り返った。 「結界のなかの小さな世界、か。結局のところ六百年間、デルネアと同じことをしていたに過ぎないのか? 私は……」  〈帳〉の漏らした嘆きは、大きな哀しみに満ちているように、ルードには聞こえた。 六. 「魔導を行使する前に、一つ言っておくが……」  〈帳〉が言った。 「何が起きても、決して悲鳴や、驚きの声を上げてはならないぞ? 魔導の発動に影響を及ぼすやもしれぬからな」  二人はとりあえずこくりとうなずいた。何が起きるのか聞き出そうとしたのだが、目を閉じて両の手を高く掲げる〈帳〉を見て、言おうとした言葉を飲み込まざるを得なくなった。〈帳〉が意識を極限まで集中させているのが分かる。 《ウォン!!》  そう発音されたことばをあたりに凛と響かせて〈帳〉は両の腕を素早く真横に広げる。すると、〈帳〉の両の手から深緑の色を持つ、波のようなものが周囲に広がった。あたかも水面に落ちた石が、波紋を広げるかのように。深緑の波は、二十ラクほどの大きさのところで広がりを止め、上下に少し揺らめきながら留まっている。  〈帳〉はかっと目を見開き、次のことばを発した。 《マルナーミノワス・デ・ダナッサ・フォトーウェ!》  瞬時に深緑は薄い壁となって、まるで天球儀のように三人を包み込んだ。その変化の様子に呆気にとられたルードは、せめて驚きの声は上げまいと、手を口に当てた。  〈帳〉は複雑な抑揚をもって呪文を唱えていく。すると周囲の岩、土、草木からほんの一瞬ではあるが何かしらの光が煌めく。そのたびに〈帳〉は詠唱を中断し、目を閉じる。おもむろに両腕を天に掲げ、楽師のように細かく複雑に指を動かす。すると先ほど、土や草から煌めいていた光の点は、明確な色を伴って半球に張り付き、〈帳〉の指の動きに合わせて半球上に線を描く。と、それらの線は、やがて二重三重に絡み合い、奇妙な模様をいくつも作りあげていく。  絶えず色彩が移り変わる、繊細かつ不思議な模様。  それこそ、魔導の威力を強大なものとする“呪紋”である。  魔導の行使は絶え間なく続き、どれほどの時が経ったのか、ルードには分からなくなっていた。ライカもまた、馬の背をなでながら目をぱちくりさせ、手を口に当てて周囲をきょろきょろと見回すのみ。二人がただ驚くなかで、〈帳〉ひとりが奇妙な詠唱を続けていた。  ぴたりと。  詠唱の声がやみ、二人は〈帳〉の動作を見守る。〈帳〉は二人を交互に見やり――。  最後の言葉を発した。 《マルナ・ハ・フォウルノーク、スカーム・デ・ダナッソ!》  瞬間。  半球上の全ての呪紋は、それぞれの持つ色を膨らませて霧散した。大きな半球は一点に凝縮し、それまで三人の周囲にあった全ての色彩、情景が消え失せた。そして凝縮された球は、閃光のように光り輝く。、ルードはまばゆさのあまり目を閉じた。  ルードが気付くと、彼ら三人とその馬達は、七色に光る球の中にいた。足下にはごつごつした地面の感触はなく、ふわりとした浮遊感に包まれていた。 (この感じ……似たようなのを感じたことがあるような……)  ルードは正面にライカの姿を認めた。ライカもルードを認め、戸惑っているのか苦笑を浮かべた。 (そうだ。ライカと初めて出会った時、こんな感じだったっけ。もっとも、あの時のほうがとんでもなかったんだけどな……。少しの間だけど、世界を乗り越えちゃったんだからな)  〈帳〉は、苦しそうに息をしながら膝を抱えてうずくまっていた。それを見たライカが近づこうとしたが、〈帳〉は右手を挙げてそれを制した。やがて〈帳〉は顔を上げて言った。 「私は……大丈夫だ。久々に大きな魔力を解放したので少々疲れただけだ。心配せずともいい」  そう言った〈帳〉の声は、やはり弱々しいものだった。 「もうすぐ、この球体はなくなる。その時は遙けき野を越えているだろう……」  〈帳〉は再び顔を伏せた。  ルードが周囲を見ると、なるほど確かに球体をかたちづくる色が徐々に淡くなっている。色が失せたその時、ルードは再び、自然の持つにおいを強く感じはじめた。  ルードがふと気が付くと、あたりは一面の荒野ではなく緑の絨毯が覆う野原だった。 「どうにか成し得たようだな、遙けき野越えを……」  近くに立っていた〈帳〉が言った。しかし、見るからに朦朧としており、いつ倒れてもおかしくないようだ。 「〈帳〉さん!」  ルードが駆け寄って、〈帳〉の身体を支えた。〈帳〉は安心したのか、そのままゆっくりと腰を下ろした。 「〈帳〉さん?」  と、ライカも駆け寄ってくる。 「大丈夫だ」  大きく息をついて〈帳〉は答える。 「転移の魔導は、本来の空間をねじ曲げ、人を瞬時に移動させるもの。魔導の中でも高度な部類に入るものだ。空間の理《ことわり》は、我ら人間には理解しがたいものゆえ、あやまたずに魔法を発動するには、相当の知識と魔力が必要なのだ」  ライカが持ってきた水筒の水を飲み干すと、〈帳〉は礼を言ってゆっくりと立ち上がった。 「ともかく、皆が疲れず、かつ迅速にここまで来るのには最良の手段であった。あとは軽くまじないがけをして、私達の身なりを惑わすようにしてから……出発しよう」  〈帳〉はそう言って、二言三言唱えると、ライカの頭に手を触れ、ついで自分の頭にも手を触れた。“惑わしの術”を唱えたのだ。 「これでいい。さあ、出発しよう!」  一行は馬を歩ませ始めた。 七.  一行はほどなく、ルシェン街道に辿り着いた。そして黒い空とは反対の方向、サラムレへ向けて再び歩みだした。 (でも……)  『奇異に映ることはない』と〈帳〉は言った。ルードは真横にぴたりと馬を付けるライカを見た。 「うん、何?」 (やっぱり、銀色だよなぁ)  ルードは、風になびくライカの髪を見た。〈帳〉はまじないがけをしたというが、ライカの髪はルードから見ても銀のままだ。 「どうしたのよ? 変な顔しちゃって」  怪訝そうにライカが言う。 「いや、あのさ……」  どうも言い出しにくいルードは、後ろの〈帳〉をちらと見た。〈帳〉も遠目から見て、やはり何ら変わるところがない。 「〈帳〉さんの姿だけどさ。ライカから見て、どう?」  ルードは小声でライカに訊いてみる。 「どうって……普段どおりよね。あ!」 「俺にもいつもと同じに見えるんだよ。……あと、ライカの髪の色も、変わってないんだけど」 「じゃあ、まじないがけがうまくいってないってこと?」  ルードはうなずく。 「それ、まずいわよ。このままだとばれちゃうんじゃないの?」 「そうだよなあ……ライカ、ちょっと言ってやったら? 術がかかってないんじゃないかって」 「そんなぁ……そんなこと〈帳〉さんに言えると思う? 〈帳〉さんだって、術がかかってると思ってるわけでしょ? 私が言ったら気落ちさせちゃうわ、多分。……ね、ルードが言ってきてよ」 「いや、俺が言うよりライカが言ったほうがいいと思うぜ」  館の生活で〈帳〉は基本的に二人の馴れ合いについてはハーンと違って頓着しなかったが、聞こえてくる言葉の端々に自分の名前が出てくるのが気にかかり、声をかけた。 「どうしたというのだ。何かあったのか?」  そう言って馬を歩み寄らせる。 「あ、いや……」  ルードはライカの顔を見る。その顔は、ルードから話して、と言いたげであった。ルードは仕方なく、〈帳〉に言うことにした。 「その、俺から見て……〈帳〉さんとライカが、普段と変わらないように見えるんですけど……」  それを聞いて、〈帳〉はほくそ笑む。 「君は私達の本当の姿を知っているから、まじないの効き目がないのだ。他人が見れば、私もライカも、フェル・アルムの住人として、平凡ななりをしているように見えるだろう」  〈帳〉はそう言って、前方を見据えた。 「……ちょうどいい。見たまえ、ほら……あの人で確かめてみることにしよう。見えるか?」  ルードが再び前方を見ると、向こう側から人影が近づいてくるのが分かった。 「……確かめるって?」 「挨拶でもしてみるのがいいだろう」と〈帳〉。 「ルード、まかせたわよ。私はここの言葉、分かんないから」  ライカはそう言って、ルードの後ろについた。  そうこうしているうちにルード達は、向かってくる人の輪郭までつかめる位置まで近づいた。  女性がひとり。年の頃は二十五くらいだろうか。一見華奢にも見えるが、長い道のりを徒歩で越そうとするあたり、意外に旅慣れているのかもしれない。  彼女のほうもちらりとルードに一瞥をくれる。彼女はそっと手を挙げ、挨拶した。 [こんにちは。歩きだと大変じゃないですか?]  ルードはフェル・アルムの言葉で声をかけた。 [こんにちは。そうでもないわ、歩くの、慣れてるから]  女性はさばさばした口調で答えると、ルード達のそばに寄ってきた。 [そっちのほうこそ大変ね? 女の子連れ? クロンからは結構遠いでしょうに。まさか駆け落ち、とか?]  彼女は冗談だと言わんばかりに笑いながら、どこかで聞いたような言葉を言った。 [ははっ、恋の逃避行? そういうのだといいんですけどね]  ルードにしては珍しく、さらりとかわした。 [サラムレまで、どれくらいあるのかな……まだ長いんでしょうか?] [あと一日もあれば着くわよ。長旅お疲れさま。あら、そちらは芸人さん?] [どうも]  芸人と呼ばれた〈帳〉は会釈した。臙脂のローブを着ている彼がそう見られても不思議ではない。 [サラムレの様子はどんな感じだろうか? しばらくあちらには行ってないんでね] [そうね……]彼女は顔を曇らせ、あご先に指を置く。 [気を付けなさい。サラムレ……というより、南部中枢から色々変な話が入ってきてるから。もし南方に行こうというのなら、考えなおしたほうがいいわよ] [変な話……? たとえばどういう?]  ルードが訊く。 [それはあたしが言うより、自分の耳で聞いたほうがいいわね。とにかく尋常じゃない事態になってるのは間違いないわ。……見なさい、あの黒い空。この世界中で異変が起きようとしているのよ]  彼女は顔をしかめて北方を見据えた。そして一言。 [ニーヴル……と言われている連中、聞いたことがない?]  その声色は心なしか、今までと違った冷たい響きがあった。 [ニーヴルってあのニーヴルですか?]  眉をひそめてルードは訊いた。 [そう。十三年前に忌まわしい事件を起こした、あのニーヴルよ。彼らが再び現れて、この異変を生み出してるの。奴らは北のほうに集まってるって聞いたけど……何か知らない?] [知らないな……すまないが、どこから聞いたんだ、その物騒な話は?]  〈帳〉が言う。 [サラムレじゃあ、街中の話題よ! 中枢のほうでもそんな話で持ちきりだと聞くわ。……まあ、あたしは行くわ。にっくきニーヴルめ、どこに隠れてるのかしらね!]  彼女はそう言って再び歩き出した。 [お気を付けて。また会えるといいわね!]  彼女は手を振って、北へと歩き出した。ルード達も手を振って彼女と別れた。 「ふぅー……」  ルードが息をつく。 「ルード、あの人なんて言ってたの?」  早速ライカが訊いてきたので、ルードは会話の内容を話した。 「よかったねルード、ちゃんとまじないが、かかってるじゃない! ……でも南の噂とか、ニーヴルとか、気になることもいっぱいあったわよね……」 「しっ……」  声を出さぬようにと〈帳〉が制した。 「今、アズニール語をしゃべるべきではない。……あの女……間違いなく疾風だからな」 「うそっ!?」  ライカは驚きの声を上げ、はっとして振り返った。疾風と言われた女性は、こちらを振り向かずに歩いているので、ライカは安堵した。 「……そうなんですか?」  〈帳〉はうなずいた。 「サラムレからクロンの宿りまでの長い道のり、訓練もしない普通の人間が、あんな少ない荷物で過ごせるはずがない。あとは、雰囲気だな。ニーヴルに対する敵愾心《てきがいしん》の強さが伝わってきた。……ルードは何も感じなかったか?」 「あ……」  会話に精一杯で何も気付かなかった。ルードは唇をかんだ。ハーンが自分の立場だったらそうはならなかっただろう。そう考えると、自分の至らなさに腹が立った。 「まあ、そう自分を責めるでない。私とて、話してみるまでは疾風だとは分からなかったのだ。安易に確かめようとした私にも責がある、というもの」 「〈帳〉さん」  とライカ。 「あの人、ニーヴルが異変を生み出しているって言ってたのでしょう? それって本当なんでしょうか」 「この世界の異変には、ニーヴルなどよりもっと大きな“力”が働いている。そう聞かせなかったかな?」 「ええ……でも……」 「ライカよ、もっと自分自身の心を信じることだ。君はこう思っているはずだ。一連の事件でニーヴルは一切関わっていない、と。……しかし、疾風がああも断定する以上、これは単なるうわさ話とは言えんな。裏がありそうだ。デルネアが何らかの意図のもと、噂を流布させている、ということも考えられる。……とにかく。サラムレまでそう遠くないところまで来ているのだから、行くとしよう。サラムレで何かしらの話が聞けるだろうしな」  サラムレ。フェル・アルム中部域に位置する水の街では、どのようなことが聞けるのだろうか? 何より、南部から伝わってきている妙な話とは?  ルードの横にぴたりとライカが寄り添ってきた。心なしか、彼女にいつもの活気がないようにも見える。 「恐いのか?」  ルードの言葉にライカはうなずいた。見上げる顔には不安の色がありありと浮かんでいる。いつもの活発な彼女ではなく、か弱い少女がそこにいた。  ルードは馬上から手を伸ばすと、ライカの手を握った。 「大丈夫だ」  ライカも小さくうなずき、手を握り返してくる。 「……ありがとう」  少し、笑みが浮かぶ。 「……大丈夫」  ルードは繰り返した。ライカと、そして自分自身を励ますように。  焦る心、はやる心を抑えつつも、二人の思いはサラムレへと向いていた。世界に起きている異変を一刻も早く知りたい、という切なる思い。何より、ライカの願いとルードの使命を達成するには、異変を打破しないとといけないのだから。  あとに続く〈帳〉は後ろを振り返る。北方を包むは、とてつもなく黒い空。 (あの空の下はどうなっているというのだろうか? そしてハーン、あなたほどの人物が、どうしたというのだ……?)  ルード、ライカ、〈帳〉。彼ら一行はサラムレを目指す。  馬達もまた、後方の凶兆を恐れるかのように地を蹴るのだった。 八.  同じ頃、七月三日。北方のクロンの宿り。  大いなる災いはいよいよ現実のものとなろうとしていた。  昨晩、ハーンはスティン山道の手前にある野営地で魔物を倒したものの気を失ってしまった。その後ディエルは旅商達の力を借り、ハーンを連れてクロンの宿りに戻って来ていた。〈緑の浜〉の主人ナスタデンのもとにハーンを連れていったのは、またしても夜が明けきらないうちだった。寝ぼけまなこのナスタデンは、朝早くの来客に文句をたれるどころか、ただ驚きの声を上げるばかりだった。 [ハーン?! どうしちまったんだよ!]  馬上に横たわるハーンを見て、ナスタデンが言った第一声である。  夜が明けて、昼が過ぎ、夕方が近づいてもハーンは目覚めなかった。昼頃にただ一度、何がしかのうめき声を上げたのを除いて。その間中、ディエルはハーンの傍らで様子を窺っていた。  ただしディエルの心にあるのは、いかにして“力”を入手するか、ということと、いかにしてこの世界から一刻も早く抜け出すか、ということ。滅びを迎えようとしている世界の住民に同情している余地など無かった。  どたどたと廊下を歩く音が聞こえ、どんどん、と荒っぽく部屋の扉が叩かれた。 [ハーンは? まだ起きてないのか?]  外から聞こえるナスタデンの声は、どこか焦っているようにも感じられる。  ディエルはとたとたと戸口に近づくと、少しだけ扉を開けた。ナスタデンは扉を開けてハーンに近づくと、彼の肩を持って揺り動かす。 [頼むから起きてくれ、ハーンよ!] [無理だと思うよ? 何回も試したけど、全然起きないんだ]  ナスタデンはハーンを起こそうと色々試したが、やはりハーンは目覚めなかった。 [こんな時なのに、ハーン! お前の力が必要なのに!]  首を振り、諦めた主人は部屋から出ようとした。 [あんた!]  朗らかな表情を浮かべた夫人がナスタデンと鉢合わせた。 [あんた、大丈夫だよ。“あれ”はゼルマンが倒したって、今ベクトから聞いたんだよ] [本当か!? ゼルマンが……ならよかった……]  ナスタデンは安堵の溜息をついた [ほんと、一時はどうなることかと思ったがな……みんな大丈夫なのか?] [ゼルマンも、肩を怪我したらしいけど大丈夫だってよ]  と夫人。 [で、……ハーンはずうっとお休みのままなのかい?] [ああ、まだだめだ。よっぽど疲れているのか……とにかく一難は去ったんだ、ハーンは寝かせておこう]  ナスタデンは言った。 [ねえ、一難って……何があったんだよ?]  ディエルが訊く。 [得体の知れない……化けもんがな……あれはもう、化けもんとしか言いようがないが――とにかく熊みたいな化けもんがクロンの外壁に突進してきてよ、衛兵が何人かやられちまった。……あんな恐ろしい目に遭うのはたくさんだ! あんな動物がいるなんて、聞いたこともないぜ!] [化け物だって?]とディエル。 [でも大丈夫だよ]  夫とディエルをなだめるように、夫人が落ち着いた口調で言った。 [過ぎたことだ。……ディエル、脅かしちまって悪かったね。ハーンのこと、見てやっておくれよ?]  夫人は、未だ激している夫の背中をぽんぽんと叩きながら、部屋を出ていった。 「化けもんねぇ……。まぁ、並のバイラルが倒せるくらいだから、大したやつじゃあないんだろうな」  静かになった部屋の中、ディエルはひとりごちた。 「でも、これからこの世界、さらに荒れてくるんだろうな。それだけは間違いない……」  ディエルの予感はやがて現実のものとなり、フェル・アルム北部を震撼させることとなる。  遠雷は徐々に近づき、嵐をもたらす。  ついに河は決壊し、濁流となって大地を根こそぎ奪い去ろうとする。  ――その時は間もなくやってくる。 § 第三章 中枢、動く 一.  時はやや遡る。  七月一日。一年の後半期の始まりであるこの日は、物忌みの日とされ、冠婚葬祭全てが禁じられている。  人々が忌み嫌うこの日、事件は起きた。  アヴィザノを中心とした南部域に住む全ての人々が、それまでとはまったく別の言語をしゃべるようになったのだ。今まで使っていた言葉とは相容れない奇妙な音が、突如言葉として認識されるようになった。  古事に長じている者は口々に、 [この言葉は、神君が世界を統一する前に我々が用いていた、失われた言葉だ]  と語った。  しかし、なぜ今の我々が突然その言葉を使えるようになったのか、との問いには、彼らも答えられなかった。  頻繁に出没するようになった化け物。そして失われし言語の突然の復活。今までの常識が次々と破られたことで、人々の精神は大きく揺さぶられた。この日一日だけでどれほど多くの者が精神に異状をきたしたか、定かではない。  ともあれ、フェル・アルム南部域は突如混乱に陥った。  ほどなく、ある噂がどこからともなく流れるようになった。 「フェル・アルムに妬みを持ち続けているニーヴルの亡霊達が、世界を混乱におとしめるため、自らの忌まわしい力を解き放ったのだ」 「ニーヴルの残党どもが、怨霊達の力を手に入れ、世界に復讐しようとしている」  などなど、それらの噂は、何かしらニーヴルと結びついたものであった。  なぜ? どうして? と答えを求めて苦しんでいる人々は、一斉にこの根も葉もない噂を信じ、翌日にはニーヴルが全ての元凶である、との考えが人々の間に浸透していった。これが唯一の常識、疑うこともない真実であるかのように。  本当の原因などどうでもよかった。自分達の置かれた状況を正当化する口実が欲しかったのだ。底知れぬ不安を少しでも取り除くために。 二.  七月三日。  ここはアヴィザノの中で一番の高さを誇る城壁の尖塔。青く澄み渡った空は遙かスティンの山々を越えるまで続いているのが分かる。しかし、何かが今までとは違っていた――。  サイファは北方の空を一目見るなり、顔をしかめた。 「空が黒ずんで見えるあたり。あのあたりは“果ての大地”であったな?」  と彼女は、そばでかしこまっている衛兵に『失われた言葉』で尋ねた。  年老いた衛兵は静かに、はい、とだけ答えた。  サイファが指さすのは、スティン山地も越えたさらに北の空。まるで線を引いたかのように、くっきりと色が分かれている。そこから先にあるのは、夜のように暗い空だ。黒雲が覆っているからではない。空そのものが黒いのだ。まるで陽の光を拒絶するかのように。 「あの異様な空を創り出したのもニーヴルの仕業だというのか? 彼らも我々と同じ人間。自然をも動かしてしまう力を持ちうるとは、私には到底思えぬのだが……」 「陛下は、ニーヴルの肩を持つおつもりですか?」  衛兵に一瞥をくれると、サイファは静かにかぶりを振った。 「……失礼しました。出過ぎた言葉、平にご容赦下さい」  サイファは半ば困惑した表情で、しかし穏やかに「おもてをお上げなさい」と言った。 「そうかしこまらなくていい。今の私はルイエをやっているつもりではないのだから。見張りの塔に勝手に上って、衛兵を困らせている街の人間、とでも思ってくれていいのだよ?」 「は……」  衛兵は一礼をすると、サイファの見ている北の方角を見る。 「すまないな、私の勝手な都合で立場を変えて。貴君にも迷惑をかける」 「そのような……もったいないお言葉」 「かしこまらなくていい、と私は言ったわ」  彼女は意識的に、普段は使わない女性の言葉遣いを選んだ。 「この塔の下で待ってくれてる坊やが私にするように、接してくれたほうがむしろ気が楽なのよ?」 「あやつか……」  彼のことを思い出した衛兵はしかめ面をする。あれは元首に対してとる態度ではない。老人の目にはさぞ横柄に映ったことだろう。 「陛……あなたも、なぜあの子供と遊んでいらっしゃる?」  サイファは眉間にしわを寄せる。 「ジルを悪く言うでない。子供らしい、いい表情をしているし、何よりジルの感覚は時として新鮮で、鋭い。私も勉強をさせてもらっている。私は好きだぞ、ああいう子は。それから――」  口を挟もうとした衛兵を止めるかのように、サイファは言葉を続けた。 「さっきの話だが、むろん私とて十三年前のニーヴルのなしたことが正しいとは思ってはいない。だが、問題としているのは現在のことなのだ。ニーヴルが今現れたなどという話は、正式にはどこからも伝わってきていないのだぞ?」 「しかし、長きにわたる歴史にあって、国の神聖を侵したのは彼らのみです。ニーヴルの残党が今般の事件の元凶である、と考えるのが一番適切と思っております」 「それは……貴君の考えなのか?」 「いえ。しかし、少なくとも私を含めアヴィザノ市民の多くの思うところでありましょう、おそれながら……。我々が長きにわたり積み上げてきた常識からでは、余りに解せないことなので、そう考えざるを得ません。このような奇怪は……」 (この老人も、頭が堅い……)  サイファの印象は正しい。このような人物が多いからこそ、単なる風説が常識であるかのように捉えられ、いずれ真実と認識されてしまうのだ。真相は誰にも分からないというのに。  何より問題なのは、昨今の不可解な事件が、十三年前のニーヴルの反乱の延長として捉えられていることである。サイファは、十日ほど前の“神託”を思い出していた。 [大いなる“神”クォリューエルが、神君ユクツェルノイレに告げた言葉を申し上げます。スティンの地において不穏な匂いあり。それはかのニーヴルをも凌ぐものであるとのことです。災いの種を調べ、取り除くため、全ての疾風をスティンに送り込むよう。災いが大きくなる兆しがあれば、すぐさま“烈火”を差し向けるよう、陛下にお願い申しあげます]  あの時司祭が言った言葉だ。神託を受けたルイエが一言命令を下せば、烈火は即座に動くのだ。  サイファは司祭を恐れていた。遙か北方の異変とはいえ、この異常は司祭も分かっているはずである。  まさか、烈火を送り込むようなことになるのだろうか?  十三年前の、あの悲劇がまた起こるのだろうか?  烈火。  フェル・アルム中枢が誇り、ドゥ・ルイエ皇に絶対の忠誠を誓う精鋭の騎士達。フェル・アルム究極の戦闘集団である。  帝都アヴィザノには常時五百人の烈火がおり、主に宮殿の警備に当たっている。そして非常時には、いつでも決起出来る体制を整えている。アヴィザノ周囲の中枢都市群には、普段は衛兵や傭兵として生活していながら、ひとたび召集がかかれば烈火となる者達が二千人を数える。  十三年前のニーヴルとの戦いにおいて、戦いに終止符が打てたのは、彼ら烈火がいたからこそだ。とはいえ、あの戦いにおいては、烈火ですらも千人以上の戦死者を出したのだが。 (もっとも、各地の衛兵や傭兵など、一般の兵士達の死者数は尋常ではなかった。一説には七千人を越すとさえ言われている)  国王《ルイエ》の命令には絶対従うのが烈火である。仮にルイエが、『北方都市全てを焼き払え』と勅を発すれば、烈火は感情に左右されず、迷うことなく完遂するだろう。そのために自分達の命を落とそうとも、家族が犠牲になろうとも。  それゆえにルイエは司祭を、そして彼が出すかもしれない神託を恐れるのだ。 * * * 「陛下、前方を!」  衛兵が叫ぶ。  その張りつめた声でサイファは我に返った。北の空から黒い物が一つ、こちらに向かってものすごい速さで飛んで来る。 「あれは……まさか……化け物というものか?」  ルイエがそう言っている間にも、黒い影はぐんぐんと尖塔に向けて近づいてくる。遠目からは鳥のようにも見えるそれは非常に大きく、翼の端から端まで三十ラクはゆうにある。 「陛下、お逃げ下さい! 彼奴《きやつ》め、あの様子ではこの塔にぶちあたりますぞ!」  衛兵は塔を守るつもりなのか、槍を手に取って塔の外に出ようとしている。だが、あれが人間ひとりで太刀打ち出来る相手ではないことはサイファにも分かった。 「分かった! しかし、貴君も一緒にだ!」 「……はい?」 「何をしている、来い! 降りるぞ!」  衛兵の手をつかむと、サイファは階段を駆け下りていった。  螺旋《らせん》階段の途中に至って、気を持ち直した衛兵はサイファに語りかけてきた。 「失礼いたしました、陛下。しかし、化け物が都市に攻撃を掛けてくるなど前代未聞。これもやはりニーヴルの仕業――」 「言うな! とにかく今は、塔を出ることだけ考えろ!」  サイファが言葉を遮り、二人は階段を駆け下りていった。 「サイファ姉ちゃん? どうしたのそんなに慌てて?」  階下で待っていたジルは、息を切らせて降りてきたサイファを見るも、相変わらずのほほんとした口調で言った。 「ジル早く! 行くよ!」  そんなサイファの言葉に被さるように  どうん!! と音が響いた。 「なんだ、なんだってんだよぅ?」  驚いたジルは、あたふたして言った。  塔の上方から、ぱらぱらと石片が落ちてくる。サイファが上を見上げると、翼を持った黒い化け物が塔をかすめて市中に向け飛んでいくのを見た。 「なんだあれ? ドゥール・サウベレーン!?」と、ジル。  化け物の姿はまるで、伝承に出てくる龍のよう。龍が飛んでいく先にあるものは――。 「あいつ、まさか、王宮に向かおうというの!?」 「陛下! はやくこちらへ! 塔が崩れます!」  手招きする衛兵に従い、サイファとジルは駆け足で城壁をあとにした。  しばらくして――。  ずう……ん!  化け物の激突によって不安定になった尖塔の上方が、地面に落下し砕け散ったのだ。振動はサイファ達にも伝わってきたが、彼女らは立ち止まらず、ひたすら王宮へと急いだ。 「ねえ、姉ちゃん、『陛下』って?」  先ほど衛兵が言った言葉についてジルが訊いてきた。ジルは、サイファの身分を知らないのだ。 「……あとで話すから、わけは。とにかく、走るんだ……!」  息が切れてきたサイファは、苦しそうに言った。  まさかアヴィザノが攻撃を受けるなど、考えもしなかった。なぜ? どうして? 王宮に近づくにつれ、そんな想いが去来するのだった。 「あいつ……龍ってやつなのかな?」とジルが言った。 (龍……?)  あの姿は紛れもなく龍だ。しかし龍など寓話上のみの存在だったはず。想像上の生き物を目の当たりにして、サイファは現実と想像の境がどこにあるのか、一瞬戸惑った。  突然の事件に市中は騒然となっており、アヴィザノの衛兵達も市民を鎮まらせるのに手間取っている。  そんな中をかいくぐって走ることしばらく。アクアミン川の対岸に、せせらぎの宮を見ることが出来るようになった。川岸にはすでに多くの市民が詰めかけ、固唾をのんで成り行きを見守っている。  黒い龍は、“星読みの塔”を旋回している。  果たして、奴がいつ攻撃を仕掛けるのか。今のサイファには、宮中の人間の無事を祈るしかなかった。  走るのをやめたサイファは胸を押さえ、ぜいぜいと息を切らしている。対して、ジルは平然としていた。 「姉ちゃん? まだあいつ、攻撃してないよ」 「そう……だな…でも……どうして?」  とっくに王宮に侵入していた黒龍は、未だに攻撃をしていない。城壁の尖塔を打ち壊せるほどの破壊力を持っているというのに、である。龍は巨大な翼をばたばたとはためかせながら、星読みの塔の頂上を窺っている。 「あれは……」  ふとサイファは、何者かが化け物と対峙しているのに気付いた。塔の頂上、龍に剣を突きつけている人物。そしてまた龍も彼を凝視したまま動かない。 「姉ちゃん、見える? あの人……すごい“力”を持ってるよ! そう感じない?」  やや興奮気味に、ジルはしゃべった。 「いや……分からない。しかし、何者だ……あれは?」  額にわき出てくる汗を拭うと、サイファはその人物を見つめた。ただ者ではない。それだけはサイファにも分かった。 「な……馬鹿なっ!」  サイファはとっさに叫んだ。頂上に立つ剣士が屋根を蹴ったからだ。しかし、塔の高さは一フィーレ弱。あの高さから落ちれば、とても助かるものではない。化け物の巨躯に怯え、狂気に陥ったのか。  龍は、唐突な自殺志願者を哀れむかのように、ゆっくりと爪を振り下ろした。  だが剣士は、それを予期していたのか、剣を頭上に掲げ、防戦する。  しかしほどなく、龍の爪は塔の壁に突き刺さり、剣士も、地面に激突するのは免れたものの、運命はそこまで。壁に押しつけられた彼は、鋭利で巨大な爪の餌食になるのだろう。その瞬間、傍観をしていた市民達から声があがった。悲鳴、諦念――それは人によって様々だった。  サイファは何も言えず、呆然とただ立ちつくしていた。やはり駄目だったか、という諦めの念。 「サイファ姉ちゃん。……まだあの人の“力”を感じるよ……」 「え……?」  見ると、いかな運の強さか、剣士は龍の爪と爪の間に身を隠しており、剣を切り返して彼は、すと、と龍の手の上に立ち、再び剣を構えた。  わあっ……と、市民から今度は歓声がわき起こる。命をかけて化け物に立ち向かう剣士の勇姿に、市民は一瞬にして虜になったようだ。サイファも例外ではなく、剣士の無事に安堵の息をつき、どうか龍を倒してくれ、と強く念じた。  龍が腕を左右に振り、剣士を払い落とす素振りを見せた時、剣士は人間離れした跳躍力を見せ、龍の頭上に躍り出た。  龍も即座に上を向き、体内に宿す黒炎を標的に吹き付けた。  しかしそれは剣士の身体に届くことがない。彼の前に、目に見えない強固な鉄の壁でも創られたかのように、黒炎が遮られたのだ。剣士は剣を一閃、吹き荒れる炎を、持ち主である龍に叩きつけた。思いがけぬ反撃に遭った龍は、天にとどろくような叫び声をあげた。  剣士は、相手が怯んだ隙に容赦なく必殺の一撃を叩きつけようとする。彼は一度塔の頂上に着地すると、再び屋根を蹴り、敵の上遙か高く跳躍した。剣士がおもむろに剣を掲げると、剣もそれに呼応するかのように蒼白い気をまとった。その気はどんどんと膨らみ、目視にして剣の倍ほどの長さにまでなったちょうどその時、剣士は龍の頭上に降り立った。 「ぬうん!」  気合い一声、剣士は闘気をはらんだ剣を振り下ろす。龍の口から悲鳴とともに黒炎がほとばしり、星読みの塔の屋根を瞬時に焼き払うが、それも最期のあがきとなる。龍の頭部を斬り、薙ぎ払い、また斬りつける。人の域を越えた剣士の早業は、剣の持つ蒼白い光を残像として生むほどだ。  それが何撃続いたであろうか、剣士は最後に深々と眉間に剣を突き立てるとそのまま飛び降り、高さなどまるで関係ないようなそぶりで着地した。  その時、龍の身体は異様に膨らみ、爆発を起こしたかのように、身体の内側から黒い炎が飛び散る。 「私は“宵闇の影”。覚えおくがよい。いずれまた相まみえるぞ、デルネアよ!」  いまわの際、龍は剣士にそう言い放ち、霧散した。  デルネアと呼ばれた剣士は鼻で笑う。汗一つかいていない。彼はおもむろに剣を鞘に収めると、人々の目を気にすることなく、宮殿の中へと姿を消した。  化け物の侵入と、それを撃退した英雄の出現に、人々はざわめいている。市中は未だに混乱しているものの、災厄が去ったことで、これ以上の騒動にはならないだろう。 「ジル、ちょっと」  サイファはジルに、自分についてくるよう目配せをし、路地裏へと歩き出した。 三. 「まったく……。いったい何だったんだ、あれは?」  路地裏。ジルが手頃な樽の上であぐらをかくと、サイファが訊いてきた。 「何って……。さっきも言ったけど、ドゥール・サウベレーンでしょ。見た目は」 「どぅる――なんだって?」 「龍だってば。さすがのおいらもちょっとびびったけど」 「そうだよな……ジルにも、やっぱり龍にしか見えないか」  ひとり納得するサイファ。 「でも……龍など、物語の中の生き物だと思ってたのに……」  それを聞いたジルは、意外そうな顔をしてしげしげとサイファを見つめる。 「私に何かついてる? それとも塔の破片で、どこか怪我してるとか?」  サイファは髪の毛を手で払い、頬を拭ってみる。別段何もないようだ。 「うんにゃ。何もついてないよ。それに姉ちゃんはいつもきれいじゃない。男勝りかもしれないけど。おっとっと」  最初に出会った時にどつかれたことを思い出し、ジルは口を塞いだ。 「……からかうもんじゃない」  ちょんと、ジルの頭をこづくサイファ。 「ジルがまじまじと見るから、どこか変なのかと思ったのだ」 「ああ、そのこと」ジルは両手を頭の後ろに組む。 「だってさぁ、龍なんて、アリューザ・ガルドの歴史で言えばディトゥア達と同じくらい古ーくからいる連中じゃない。ほんとにいる生き物だよ? 人間にとっては珍しいかもしれないけど、別に不思議がること、ないんじゃないの?」  と、さらりと言ってのける。 「……ジルよ」  サイファはジルと同じ樽の上に腰掛けた。 「なあに? 姉ちゃん」 「一週間ほど前か、私達が最初に会ったのは」  サイファの言葉に、ジルはうなずく。 「で、今日で会うのは三回目、だな?」 「うんうん。おいらの泊まってるとこに来てくれたよね。おいらも姉ちゃんの家にも遊びに行きたいなあ」 「え、しかし、私の家はだな……」  言いつつ、話が逸れていきそうなのに気付いたサイファは、話を元に戻す。 「ではなくて! 私が言いたいのは、ジルの話してることが、分からなくなる時があるってことだ。自慢じゃないが、私は今までかなりの本を読んできたつもりだが、それでも、さっきのドゥなんとかやらのことを私は知らなかった。……それなのにジルは、あたかも『こんなのは知ってて当然』のように話す。だから私は訊きたい。どこでそんな知識を身につけたのだ?」 「ふむう……」ジルは上を見上げ、唸った。 「ああ! この空間じゃあ龍は知られてないのかな? そういうことかな? うんうん」  ジルはつぶやき、ひとり納得した様子だ。 「……ジル。訊きたいのだ。ただでさえ、ここのところの異変続きで頭が痛い問題を抱えているんだ。これ以上私を混乱させないでほしい」  サイファはジルの両肩に手を置き、真摯な表情でジルの瞳を見つめた。 「しっかし……。信じてもらえるのかなあ」 「私はそれほど頭の堅い人間ではないつもりだ」 「じゃあ、話してもいいけど。おいらにも一つ教えてくれるかい? さっきの兵隊が呼んでた、『陛下』ってのさ」 「……交換条件、てわけか」  ジルはうなずいた。 「そうだな。『わけはあとで話す』と言った手前もあるし……」  サイファは人差し指を唇に当てる。彼女が考え込む時の癖だ。ややあって、 「……これを人に話すのは、最初で最後にしたいんで、誰にも話さない、と約束する?」と言った。  ジルは、こくこくとうなずいた。 「つまりだな」  サイファは声色を落として言葉を続けた。 「私がドゥ・ルイエ皇である、ということなのだ」  ルイエとしての尊厳を持ち、毅然として言い放った。それを聞いて、ジルは押し黙った。 (驚いたのか、それとも私の言うことを信じてないのか……)  サイファは思った。 「あのさぁ……姉ちゃん」  ジルが申しわけなさそうに訊いてきた。 「何か?」  ルイエとして、彼女は答えた。少しは口調に威厳を持たせたつもりだ。もっとも、路地裏で酒樽に腰掛けている国王に、品格も何もあったものではないが。 「腑に落ちぬというのなら、申してみるがよい」 「姉ちゃん、それって、なんなの?」  がっくり。  彼女の動作を表すなら、これこそまさに相応しい。サイファは肩を落とした。ドゥ・ルイエの名を知らぬ者など、フェル・アルムにいるはずがないのに。 「……今度こそ本当に、私をからかってるだろう?」 「違うよう! ほんとに、ええと、『ドゥルなんとかこう』っての、知らないんだってば!」  ジルは、どうやら本当に知らないようである。やれやれと、サイファはため息をついた。 (この坊や……どこで生まれたんだ?)  サイファは気を取り直して、話し始めた。 「ドゥ・ルイエっていうのは、フェル・アルムの国王の称号であり、名前なのだ。私がこのフェル・アルムの王だから、さっきの兵士も『陛下』と私を呼んだのだ。分かるだろう?」 「姉ちゃんが王様だって?! ……うそだあ」  ジルは、けたけたと無邪気に笑う。 「嘘なものか!」  サイファもむきになる。結局のところ信じてもらえなかったことが腹立たしく、キッとジルを睨み付けた。二十歳を過ぎたとはいえ、サイファにはまだ純粋な子供らしいところが見え隠れする。 「……分かった」  すく、と樽から立ち上がると 「なら、ついてくるがよい。私の家にジルを入れてさしあげる!」  サイファは言い放った。 四.  サイファ達は路地裏から出た。市中はやや落ち着きを取り戻しつつあるようで、緊迫感は薄らいでいる。  しかし、ふと耳にするアヴィザノの民の会話からは、 [この仕業、やはりニーヴルの連中めに違いないぞ!] [こんなことばかりで、これからどうなるのかしら? ニーヴルも――]  など、“ニーヴル”という言葉がやけに耳につく。ニーヴルが今もって存在するにせよしないにせよ、この事件でさらにニーヴル憎し、という感情が強まったのは間違いないだろう。  心なしか早足で歩くサイファに遅れないよう、ジルはぱたぱたとついていく。 「姉ちゃん、怒ってる?」 「怒ってなどいない!」  そう言いつつも、サイファは後ろを振り向かない。  やっぱり怒ってるじゃないか。そう思って、ジルはとりあえず謝ることにした。 「ごめん。姉ちゃんが王様だってことを『うそだ』って言ってからかったのは謝るからさ、国王陛下ぁ」  ジルは両手をあわせて嘆願する。  サイファの足取りがぴたりと止まる。ゆっくりと後ろを振り向いた。顔は少しも笑っていない。ジルは両手をあわせたままやや後ずさった。 「……やっぱり、からかってたんじゃないかぁ!」  紅顔して大声で喚《わめ》くサイファ。かちんと固まったジルと、何ごとかと振り向く市民を尻目に、サイファはすたすたと歩いていった。  ジルは二ラクほどの距離を置いて、サイファのあとをついていく。緑の多い居住区画を抜けると、先ほどのアクアミン川を正面に見ることになる。サイファは何の迷いもなく、川に架かる橋へと歩いているようだ。 「何だよ、国王陛下も意外と子供っぽいとこがあるんだな」  ジルはサイファに聞こえないように、ぽつりと愚痴をこぼした。それまで振り返らずに歩いていたサイファがちらりとジルを見、歩みを止めた。 「今の、聞こえちゃったのかな?」  言いつつも、ジルはサイファに近寄った。 「ジル」サイファは振り返って言った。「おぶさりなさい」  そう言って膝をつき、背中におぶさるよう催促した。 「え、なんで?」  ジルは、おぶさろうとするも、躊躇した。 「ジルが崩落した塔の破片で怪我をしている、ということにする」 「え?」 「……私は偶然、怪我をしている君を見つけ、とりあえず宮殿に向かう」 「はあ?」 「……まあ、演技なのだが、こんなふうに筋書きを書いておかないと、私の家においそれと入れないからな!」  サイファは目配せしてみせた。ジルをおぶったサイファは、橋を渡っていく。 「ごめんね、陛下。悪気はなかったんだ。会った時から、どこか普通の人にない感じがあったしさ、何となく高貴な生まれっぽい感じは受けてたんだけど」  ジルは背中越しに謝った。 「構わん。それより『陛下』はやめてくれないか。サイファと呼んでいい」 「分かったよ、サイファ姉ちゃん」 「それよりジル、私が国王だっていうのは、秘密だぞ?」 「もちろん。誰にも言うもんか! おいら、約束は守るよ。だから、お城に着いたら姉ちゃんが知りたがってること、話してあげる」 「それは是非聞きたいな」 「それにさ、おいら、見てみたいんだ。龍をぶち倒したあの人を。……あの人、知ってる?」 「いや」サイファはかぶりを振った。 「宮中では、見たこともないな。何者、か……」  多分、近いうちに会うことになるだろう。彼女の勘はそう告げた。しかし、どこか不安な気持ちがつきまとった。彼が果たして何者なのか? そう思い始めると、彼女は黙ってしまった。 「……サイファ姉ちゃんてさ」  押し黙ってしまったサイファに、ジルが声をかけた。 「怒ったり、優しかったり、忙しいんだね?」 「こら」サイファは別に咎めるでもなく言った。 「でもさ……」 「なんだ?」 「うんにゃ。……人間て、なんかいいなあって、思っただけ」 「何言ってんだか……」  アクアミン川は紺碧の空の色をそのまま映し、まるで何ごとも無かったかのようにさらさらと流れていた。  二人が橋を渡りきったところで、サイファは衛兵に呼び止められた。サイファは紋章の入ったペンダントを胸元から取り出し、衛兵に見せた。 [ルイエだ。入って構わぬな?]  サイファはフェル・アルムの言葉で話しかけた。たかだか数日前に発生した言語など、宮中では用いられないからだ。 [は、しかしその者は……?]  やはり衛兵は、ジルのことを訊いてきた。 [ううーん、痛てて……]  ジルも、しかめ面をして、怪我をしたように演じてみせる。 [この子は、さきの騒動で怪我を負った。だから連れてきた。入るぞ] [し、しかし、陛下の手を煩わせるなど……こら、降りんか!]  衛兵はジルを引きずりおろそうとしている。 [私が連れていく。好きにさせてはくれぬのか?] [……分かりました。お通り下さい]  兵士は仕方なしに道をあけた。 [そうだ。宮中の状況は今、どのようになっている?]  サイファは門をくぐると振り向き、さきの衛兵に尋ねた。 [は。先ほどの襲撃に際して若干混乱はありましたが、負傷者はありません] [そうか、それはよかった。ところで貴君はあの化け物を倒した者、知っておるか?] [いえ。存じませぬ。申しわけございませぬが] [よい。では入るぞ。……無理を聞いてもらってすまぬな]  サイファはジルをおぶって、せせらぎの宮へ入っていった。 * * * [陛下!]  宮殿に入って、サイファに真っ先に声をかけたのはリセロ執政官であった。 [陛下がどこにもいらっしゃらないので気をもんでおりましたが……また外に行ってらっしゃったのですか? それにその子は?] [すまぬ。説教はあとで聞きたい。……この子が怪我をしているゆえ、私の部屋に連れていく。医者はいらぬ。私の部屋にある薬で治せよう] [……分かりました]  サイファの性格を知っているリセロは素直に折れた。おそらくジルは、宮中の人間以外で唯一ルイエの部屋に入った人間として記憶されるだろう。 [では、またあとでな]  サイファはそう言って立ち去ろうとした――が。 [ああ、お待ち下さい]リセロが呼び止めた。 [陛下、お疲れのところ申しわけないのですが、部屋にお戻りのあと、玉座の間においで下さい。その子は乳母のキオルが面倒をみるでしょう] [玉座に? さきの化け物の襲撃について話し合うのか?] [はい。……と言いますか、化け物を退治した者が、是非陛下にお会いしたいと……] (意外と早かったな)サイファは思った。 [そなたはその者について知っておるのか?] [いえ、私も先ほどはじめて聞いたのですが……烈火の将、デルネアという者だそうで] (――烈火だと!?)  龍を倒したのはいい。しかし、何か悪い予感はしていた。よりにもよって、まさか烈火が出てくるとは――。 [――災いが大きくなる兆しがあれば、すぐさま“烈火”を差し向けるよう――]  司祭の言葉が、再びサイファの頭をよぎった。 [……分かった。身支度を整え、向かう。半刻ほど待つよう、その者に伝えてほしい]  当惑、焦りにも似た感情を表に出さぬよう努めながら、サイファは毅然として言った。  無言のまま部屋に向かっているサイファの背中で、ジルは考えていた。 (ディエル兄ちゃん……。“力”の在処《ありか》、どうやら分かったよ。将軍だ。でも、もうちょっとサイファ姉ちゃんについていたいんだ。……この世界、長く保ちそうにないけど、それでも終わるぎりぎりの時まで、何とかしてあげたいな。トゥファール様のところに還るのは、それからでもいいでしょう?) 五.  宮殿左方の螺旋階段を二階に上がり、廊下を抜けて突き当たった部屋がドゥ・ルイエ皇の部屋である。 「着いたぞ」  サイファは背中のジルにそう言い、両開きの扉を開けた。  サイファの背中から降りたジルは、きょろきょろと部屋を見回した。 「へえ、いい部屋だね!」 「そう言ってくれて嬉しい」  サイファはくすりと笑って、窓際に腰掛けた。  白塗りの壁に、木の調度品。寝室に続くカーテンは麻づくりと、代々使用している王の部屋としては意外に簡素な感があった。長い王家の歴史にあって、ドゥ・ルイエも感性は人それぞれで、その時のルイエの趣向に合わせ、部屋はたびたび改装されてきている。今の部屋は、サイファの祖父、二代前のルイエにより改装され、以来変わっていない。サイファも落ち着きのある、このたたずまいがいたく気に入っていた。 「ご覧」  サイファはジルに窓際に来るよう促し、二人は大きな窓から庭園を眺めた。 「見えるかな? 真ん中の池のちょっと右上……アイリスを植えてるんだけど」 「ああ、あれ? うん、綺麗だね」 「これからが見頃だよ。少し前までは奥のツツジが綺麗だったのだけどね」 「そうかあ……ねえ、見に行かない? おいら、こういうのあんまり見たことないんだ。なかなかお目にかかれるもんじゃないでしょ?」 「ああ、あとで、ならね」 「あとで……ああ、そっか」  ジルはひとり納得した。 「さっき聞いたろうが、私はこれから国王として、あの剣士と面会しなければならない。だから、ここでしばらく待っていてほしい」 「おいらも会いたいんだけどな……あの人に」 「しかし、公の席での面会だ。それは叶わないよ」  ジルは不満そうな表情を浮かべてはいるものの、うん、とうなずいた。  ほどなくしてキオルが部屋に入ってきた。 [キオル、この子を頼む。私は湯浴みをし、玉座にいかねばならないのだ]  はあっ……。キオルはため息をつくとジルを一瞥した。 [その、子供が怪我をしたって聞いてきたんですが……] [嘘だ]  きっぱりとサイファは言った。 [やっぱり……。そんな気がしてたんですけどね]  再度ため息。 [私も宮殿に仕えて長いこと経ちますが、王室にこのような子供が入るなど、聞いたことがございません] [私も聞いたことがない。まあ、私にとっては話す場所がいつもと違うだけなのだが] [サイファ様の若さに影響され、宮中の雰囲気も若返った感がありますが、なにぶん千年の歴史を誇る王朝にあって、伝統と格式を重くみる者も多いのです。ですから……] [分かった。あまりにも奇抜な行動はつつしめ、とそなたは言いたいのだろう?] [民衆に分け隔てなく接される陛下のご仁徳、それはご立派なのですが……] [とにかく、ジルのこと、頼む]  キオルの口調から、小言が始まりそうだと感じ取ったサイファはそう言って部屋から出ていった。 [なに、ジルはいい子だから安心してよい。話してみるといい。そなたとも結構気が合うかもしれないぞ]  扉を閉める前にサイファは振り向き、キオルに言った。 [あの、陛下ぁ!]  ばたん。扉は閉められ、残されたキオルは、にこにこと笑っているジルを見て三回目のため息をこぼした。  サイファは侍女を二人連れ、湯浴みに向かった。 (『剣士に会いたい』とジルは言っていたが……やはりそれだけは無理だろうな)  ジルの素性はよく分からないが、しょせん宮中の人間ではないため、烈火の将軍に会うなど叶わぬ願いだ。サイファが将軍に『ジルと話し合え』と命ずるのは出来ない話ではないが、国王としてそのような命令を出すのは不適切だ。 (まあ、龍を倒した英雄を見てみたい、というジルの気持ちも分かるけどね)  ジルが本当は何を求めているのか、知るべくもないサイファはそう思っていた。ジルは、あくまで軽い気持ちで言ったのだと。 [……皆待っておるだろうから、湯浴みは手短にすます] [今着てらっしゃるお召し物はいかが致しましょうか? 多少くたびれてみえますが]  侍女が訊いてきた。 [……ああ]  先ほどの騒ぎによるものだろうか、今まで気付かなかったが確かにズボンの膝の部分が破けそうであった。 [繕《つくろ》っておいてくれ。また着ることもあるだろうからな]  ドゥ・ルイエ皇はそう言って、湯殿に入っていった。 六.  玉座の間にはすでに五名の人物が揃っていた。  宮中の行事を取り仕切る典礼長、ディナイラム・ランシア・ゼネダン。  フェル・アルム中枢の政治主導者である執政官、クローマ・リセロ。  フェル・アルム各地をとりまとめているレビノス・ファルニック領主総代。  神よりの神託を受け、ドゥ・ルイエ皇に伝える“司祭”。  そして――烈火の将軍。  玉座の間の扉が開かれると、一同は敬礼をした。近衛隊長ルミエール・アノウを先頭に、二人の近衛兵が横についてルイエが入ってきた。湯浴みをしたルイエは髪を下ろし、略式ではあるが王冠を戴いている。彼女はしきたりに従い、北方の方面――神君ユクツェルノイレの廟所《びょうしょ》に対し一礼をすると、玉座に腰掛けた。 [貴君らには待たせたようだな。先頃よりフェル・アルム各地で頻繁に出没し、目下の懸案となっていた化け物が、先ほどここアヴィザノを襲ったのは貴君らも知ってのとおりである]  ルイエが言った。毅然とした口調はまさに国家元首のそれであり、先ほどまでジルやキオルと交わしていたような親しげなものではなかった。 [はい。フェル・アルム千年の歴史において、このような出来事ははじめてのこと。彼奴らがどこから現れたのか、それは後ほどにしまして、今席上では陛下には、窮地を救った人物をご紹介させていただきます]  ゼネダンが口上を述べると、深紅の制服をまとった人物が一歩前に出た。 [ニーヴルの反乱以後、烈火は主に宮中の護衛にあたっており、指揮官は不在の状態でしたが、ここしばらく異状が続く中、遂に将軍が選出されました]  巨躯を持つ烈火の将軍は、膝を折って畏まった。 [このたび烈火の将軍となりました、デルネアと申します] [貴君であるか。宮殿を荒そうとした、かの化け物を仕留めたのは。近う]  ルイエの言葉に従い、デルネアは玉座の前にて畏まった。 (これが……烈火の将軍……)  四ラク半あまりの巨体からは想像も付かぬ瞬発力を見せたデルネア。そして神業としか言いようがない剣技。畏まっている姿からも、言葉には表せないカリスマ的な力を、ルイエはひしひしと感じていた。もし、彼がこの玉座に腰掛けていても、何ら違和感がないであろう。 (剣が出来る。ただそれだけの男ではなさそうだな)  ルイエは一瞬、司祭のほうに目をやり、またデルネアのほうに戻した。 [そなたの活躍が無くば、今頃この宮はどうなっていたのか、考えたくもない。このドゥ・ルイエ、アヴィザノ……いやフェル・アルムの民の代表として礼を言うぞ] [陛下からそのようなお言葉を頂くとは、身に余る光栄にございます]  デルネアは言った。 [私めは烈火として、出来ることをなしたに過ぎません] [……烈火というのは、みな貴君のごとく剣が立つのであろうか?]とルイエ。 [私めの戦いを、ご覧になっていたのですか?] [ああ……]  言葉に詰まった。宮殿の外から眺めていた、とはさすがに言えない。 [……少しだけだが]ルイエは短く言葉を切った。 [いずれにせよ、そなたの剣技はまことに見事であった。……で、烈火の腕前はどうなのだろうか] [フェル・アルム精鋭部隊は伊達ではありませぬ。が、おそらく自分以上に腕の立つ者はいないでしょう。そこを買われて将軍になったのですから] [そうか。火急の時には、また力になってくれるな?] [はい。今のフェル・アルムの異状を解決したい、私の思いはその一心であります]  ルイエは内心どきりとした。烈火が決起した時、それを指揮するのはデルネアだ。その時、デルネアが何を行うのか。ルイエの心に一瞬影がよぎった。 [そなたの忠誠心、ありがたく受け取る。しかし、私としては烈火を一同に決起させるつもりはないのだ] [どうされるおつもりでしょうか?]  デルネアの言葉は不遜な口調ではあったが、ルイエは気にしなかった。 [リセロよ]  ルイエは執政官を呼んだ。 [あのような化け物が各地を襲うようではたまらぬ。烈火を分散して、各地の守りにあたらせることは出来るか?] [陛下から書面を頂ければ、勅命として実行出来ましょう]  リセロは言った。 [しかし、よろしいのですか? 烈火を分散させれば、中枢の守りは薄くなります。化け物が単体で襲来をかけるのであれば、衛兵達やデルネア将軍の力で何とかしのげましょうが、敵が大勢になりますと、おぼつかなくなります] [貴君の言う、『大勢の敵』とは、何のことか?]  ルイエは鋭く刺した。リセロは何か口にしようとしたのだが、どうも躊躇しているようだ。 [この件、ニーヴルの所為だと思っているのなら、それは根も葉もない風説に惑わされているに過ぎないぞ、リセロよ。私は、ニーヴルによるものとは思っていない。それより今は、化け物どもをどうするかが急務なのだ。現実問題としてな] [失礼申し上げました]  リセロは言った。 [確かに、陛下のご判断は正しい。ご賢察でありましょう] [デルネアも、それでよいか?]  ルイエの問いにデルネアは[御意]とだけ答えて、元の位置に戻った。  ルイエは一同を見渡して言った。 [貴君らも聞いてのとおりである。我、ドゥ・ルイエは、烈火を各地の守りにあたらせることを決意した。敵はニーヴルにあらず、あくまで化け物である。万一にもフェル・アルムの民を屠った場合は厳罰と処す。この件は追って勅命を出すゆえ、この場はここまでとしたい]  ルイエは立ち上がった。 [では、勅命の場はあらためて設けさせていただきます。この場はこれにて……]  ゼネダンが言って、会見は終了するはずだった。 [ええ?]  ゼネダンが、彼らしからぬ素っ頓狂な声をあげた。彼の後ろに見知らぬ子供がいたからだ。 [なんで、ここに子供がいる?]と、ファルニック。  金髪の少年は、つと前に出ると、舌をぺろりと出した。言うまでもなくジルである。しかし――。 [いつの間に入ってきたっていうの?]  近衛隊長アノウがぽろりとこぼした一言こそ、ルイエの本心であった。扉が開いた形跡は無いのだ。 [よい。なにせ化け物の騒ぎのあとだ。市中も混乱していよう。子供が宮中に入った件、私に免じて許してやってくれ]  ルイエは近衛兵を従えて玉座を離れていった。ジルはちょこちょこと、そのあとをくっついていった。  残された面々はお互い顔を見合わせ、不思議がっていたが、大したことではないと考えたのか、何も言わずに退席していった。  そして退席際、デルネアと司祭がお互いにうなずいていたのも、ほかの者にとっては大したことではなかった。単なる挨拶に過ぎないと思っていたのだ。 七.  せせらぎの宮には不思議な窓があった。宮殿円塔の最上階の窓は、宮殿内部からその場所に行くことが出来ないのだ。しかし、それを指摘する者は誰もいなかった。宮殿建築の際、間違って造られてしまい、それらの窓は装飾として残されることになった、というのが通説だからだ。  だが、そここそが“天球の宮”。デルネアとその下僕――隷《れい》達――のみ、立ち入ることが出来る場所なのだ。ここに来るには、人としての気配を消し去り、“術”で施された空間の封印を解かなければならない。  その中で。  ルイエとの謁見を終えたデルネアは椅子に腰掛けると、恭しく頭を下げる隷達を一瞥した。 「この世界を永遠のものとするためのすべが見つかった。北方には明らかに、我ですら驚くべき“力”が存在するのが分かった」  トゥールマキオの森からここアヴィザノへと、デルネアが帰還したのはつい先ほどである。彼は一つの決意を抱いていた。 「二つの大きな“力”。……我はその“力”を手に入れるために北方に向かう。それを手に入れた時こそ、我は神のごとき存在となり、フェル・アルムに永遠の安定を与えることが出来るのだ。隷どもよ。我はこれより、世界の表舞台に立つ。烈火の将として名乗りを上げたのはそのためである。お前達は我《われ》直属の部下として、我に付き従え」  デルネアが言うと、隷達はひれ伏し、恭順の姿勢を見せた。 「〈隷の長〉よ。神託を与える」  デルネアに呼ばれ、隷達の中から〈隷の長〉――またの名を司祭――が一歩前に出た。 「北方にニーヴルが結集しつつある。そのため烈火を総動員し、北方に向かわせろ、と。この旨、ルイエに言うがよい」 「承りました」と〈隷の長〉。 「しかし、ニーヴルの存在は確認が取れておりませぬが」 「ニーヴルなどは方便に過ぎん」  デルネアはほくそ笑んだ。 「……烈火を動かすためのな。そして、大きな“力”を所持する者がこの報を聞き、我のもとに現れるなら、ことは全てたやすくすむ」 「承知いたしました。では、スティンにニーヴルありき、との報を流布させます」 「今、疾風はどうなっているか?」と、デルネア。 「北方に全て展開させております。消息を絶った者はおりませぬ。一件、北回りのルシェン街道にいる疾風から報告が入っております。『果ての大地の空はとてつもなく、黒い』と。その者はやがてクロンの付近に至り、『土が腐ってきている。黒い空は、徐々に南下している』と申しております」  〈隷の長〉は淡々と答えた。 「いよいよ太古の“混沌”が、世界に現れたか。だが……」  デルネアはすくと立ち上がった。 「そのようなもの、消し去ってくれる! 我が新たな“力”を手に入れたあかつきにはな!」 八.  そんなやりとりが同じ敷地内で行われているとはつゆ知らず、サイファはジルとともに、宮殿の中庭で遊んでいた。 「ジル、教えてもらおうか」  サイファは、はしゃぎまわるジルに言った。 「え、なんだっけ?」わざとらしく、とぼけるジル。 「まずは、おかけなさい」  サイファは、庭園の端にある石造りの椅子にかけるよう促し、自らも腰掛けた。 「私のほうは全て明らかにしたぞ。今度はジルの秘密を聞く番だ」 「おいらは別に隠しごとなんかないよ?」 「でも、私にとっては知らないことが多過ぎる」  サイファは足を組んで、ほおづえを突いた。 「ジルがどこから来たのか、色々な知識をどこで身につけたのか、そして先ほどどうやって玉座の間に入ってきたのか――色々だ」 「あはは、そうだったよね。それじゃあ、話してあげるよ」  人差し指をあげて、「でも、ちゃんと信じてちょうだいよ?」と、ジルは言った。サイファはうなずいた。 「よし! じゃあ話すね」  そこでくるりと身体ごとサイファのほうを向いて言う。 「あ、言っとくけど、誰にもしゃべっちゃ駄目だよ? ほんとは秘密なんだからさ」 「分かったよ。国王の名において、誓う」  サイファは右手を挙げ、誓いのしるしを示した。 「ええと、じゃあ、おいらがどこから来たのか、っていうのを話すね。おいらとディエル兄ちゃん――あ、おいらの双子の兄ちゃんのことね――おいら達二人は、トゥファール様の命令で、いろんな世界にある“力”を集めてるんだ。ま、ほかにも何人か仲間がいるんだけど、おいら達二人は、この世界を見つけ、入り込む偉業を果たしたってわけだ」 「まるで、ジルがフェル・アルムの民でないように聞こえるのだが」 「そうだよ。おいら達は」と言って空を指さす。 「あの空を遙か越えたところからやって来たんだから」 「……そなた、本気か?」  サイファは疑わしげにジルを見た。 「なんだよう? 信じるって言ったじゃないかよう?」  ジルはきっと、サイファをにらみ返した。 「まだ続きがあるんだから、聞いててよ!」  口外無用のはずなのに、サイファに信じてもらおうと、ジルは必死になった。 「――ええと、この世界って、もともとはアリューザ・ガルドっていう世界の一部だったんだ。けれど、この世界はもとの世界から分かれちゃってね。ディトゥア神族ですら入れなくなっちゃってたんだ。でもおいら達兄弟は空間をこじ開けてやって来た。これって凄いことなんだよね!」 「……すまない。何を言ってるんだか、全然分からないんだ」  ジルの言葉のことごとく、サイファにとって的を射るものではなかった。 「むむむぅ……」  ジルも腕を組んで唸る。一体どうしたらサイファに伝えることが出来るのか? 「あ!」  何か思いついたのか、ジルは不意に顔を上げた。 「じゃあ、信じさせてあげる!」  ジルはにこりと笑って、右手を差し出した。 「何?」とサイファ。 「つかまって! おいらの言ってること、ちょっとは分かると思うから! さあ!」  ジルは右手をさらに伸ばした。 「ああ」要領を得ないが、サイファは彼の手を握った。 「よし!」  ジルは目を閉じ、深呼吸を一つ。そして――ジルの口が開いた。そこから発せられた音は耳をつんざくような高音と、響くような低い音。いずれも人の発する音ではないような音が同時に、この少年の喉から発せられた。うねりながら発される二つの“音”は、言語としての意味をなしていなかった。  “音”が消えていくと同時に、サイファとジルの姿は庭園の椅子から消え去った。 * * *  その瞬間。  サイファの周囲の視界は全て白一色に変わった。  サイファは奇妙な浮遊感を感じていた。空を飛ぶというのはこのような感じがするのだろうかと彼女が思った時、ふとサイファは周りがやけに暗くなっているのに気付いた。明らかに、今いる場所は宮殿の中庭などではない。 (ジルは……どこ?)  彼女が横を向くと、ジルが得意満面の笑みを浮かべてたたずんでいる。彼女の左手はジルの右手をしっかり握っていた。 「下、見てごらんよ」  ジルに言われるまま、サイファは自分の足下を見た。そこに足場はなかった。 「ひっ!」  サイファは悲鳴を上げ、ジルにしがみついた。 「ジ、ジル……? 落ちる!」 「だいじょうぶだよ姉ちゃん。そんなにしなくても、落ちやしないよ。目を開けて」  言われるままサイファは目を開け、ジルにしがみついてる右腕を少し解いた。 「あ、でもおいらの右手は離しちゃ駄目だよ? おいらの唱えた“法”は、今おいらにしか働いてないから」  意味が不明ながらも、離すと危険なのだと悟ったサイファは、握った手をさらに握りしめた。 「いててて! そんなにしなくても落ちやしないってば! ……そう、それくらい」  サイファはジルの身体から右腕を離すと、また周囲を見渡す。どこを見ても何もない。おそるおそる足下を見ると――。 「ここは……」  遥か下方には、広大な大地が広がっていた。そしてそのかたちは、地図で目にすることのある、なじみ深いかたちだ。 「フェル・アルム……」  サイファとジルは今、全土が見渡せるほど天の彼方に身体を浮かべていた。 「……こういうの見るとさ、世界を創った神様がいるって、思いたくならない?」  ジルの問いに、サイファは素直にうなずいた。眼下の光景があまりに雄大で、綺麗で、神秘に満ちていたから。 「おいら達はね、トゥファール様っていう神様の、使いなんだ」ジルが言った。「おいら達はとっても大きな“力”を探して旅をしているんだ。その“力”を手に入れて、トゥファール様に渡すのがおいら達の役目。トゥファール様はその“力”を、全ての世界が存在し続けるための糧としてお使いになる」 「全ての世界?」 「うん。アリューザ・ガルドや次元の狭間、それから神様達が住んでいる世界、全てだよ。人間で言えば命そのものにあたる部分の火を灯し続けるように、世界を護ってるんだ」  ジルは言った。 「残念ながら、この世界――フェル・アルムだっけ? ――は含まれてないんだけどね」 「どういうこと?」 「この世界は強制的に切り離された世界なんだよ。もとある自然の摂理を無視して、ね。この閉じた世界が存在することはディトゥア達も知ってるだろうけど、どこにあるのかは彼らにだって分からない。おいら達双子がはじめて見つけたんだ。トゥファール様の使いのなかで、おいら達だけが……」  サイファは、ジルの言葉に魅入られたように、静かに聞いていた。 「本当はね、フェル・アルムは、アリューザ・ガルドに戻らなくちゃいけないんだよ」  そう言ったジルはどこか寂しげにもみえた。 「戻るって? アリューザ・ガルドに……?」 「そう。それがあるべき本当の姿なのさ。魔法、龍、そして精霊が自然に存在している世界、アリューザ・ガルド。そこに戻れば、サイファ姉ちゃんの疑問も全て解けるのにね」  ジルが言った。 「さてと。そろそろお城に戻ろうか。……あ、その前に、おいらの兄ちゃんに会わせてあげるよ!」  ジルはそう言うと、再び“音”を発した。  サイファは、今し方ジルの言ったことを反芻《はんすう》しつつ、再び浮遊感に身を任せた。 * * *  周囲の景色はまた一転し、今度はサイファにとってもなじみ深い風景となった。  ここは、どこかの家の中だろう。ごく質素なたたずまいの部屋のベッドがあり、二人の人物がいた。 「よっし、おいらの勘、大当たり! 大体ここら辺かなって思ったんだけど」  と、ジルは喜んだ。 「え……!?」  その声に、その部屋にいた人物が反応した。それまでは、ベッドに横になっているもうひとりの人物を心配そうに見ていたのだが。 「ジ、ジル……」  声をあげたのは、ジルと同じ風貌を持つ、黒髪の少年だった。彼はゆっくりと、唐突な訪問者達のほうに近づいてきた。 「あ。兄ちゃんだ。……ちょうどよかった! 姉ちゃん。こっちがディエル。おいらの双子の兄ちゃんだよ」  ディエルがわなわなと震えているわけなどまったく気にせず、ジルは、彼のせいで不運な目に遭った双子の兄をサイファに紹介した。 「あ、ああ……よろしく、私は……」サイファが言いかけた。 「ジル、てめえ、ただですむと思うなよお!」  サイファの言葉を遮ってディエルが吼え、ジルにとびかからんとする。 「……え? え?」  ジルは、ディエルが怒っているわけをまったく理解出来ないながらも、即座に身の危険を感じて、無意識のうちに“音”を発動させていた。  風景は再び一瞬にして変わり果てる。 「私はサイファという……。え?」  サイファの挨拶は、せせらぎの宮の中庭に、むなしく消え去った。 * * *  サイファとジルは、お互い何も語らずに、石の椅子に腰掛け、植物の様子を眺めていた。 「ジルにディエル……」  最初に口を開いたのはサイファ。 「結局のところ、そなたは何者なんだ?」 「神様の使いだよ」  ジルはさらりと答えた。 「一瞬で場所を移動出来る……そして、私のまだ見ぬ世界を知っている……」  サイファはため息をついた。 「神様の使い……か。それを信じる必要があるんだな」 「うん。そう思ってほしいな。あ、でもだからって、おいらを特別視なんかしないでおくれよ? おいらだって、国王陛下に無礼な口を利いてるんだしさ」 「そうだね」  サイファはくすりと笑って、右手をさしのべた。 「では、あらためて、よろしくな、私の友人よ」 「こちらこそ、サイファ姉ちゃん」  サイファとジルは、友情の握手を交わした。かたや国王、かたや神の使徒という奇妙な関係ではあるが、それを気にする二人ではなかった。 「そろそろ宿に帰るね」  日が傾きかけてきたのに気付いたジルが言った。ジルは足下に転がる石を一つつかみ、軽く握りしめると目を閉じて念じた。ジルが掌を開けると、それまでなんの変哲もなかった石ころは、瑠璃色に煌めく珠《たま》に変貌していた。 「これ、あげるよ」ジルはサイファに珠を差し出した。 「綺麗……。ありがとう」  サイファは驚きながらも、珠を受け取った。 「ただの石が宝石になるのか……さすがジル」 「たいしたもんじゃないんだけどさ、これを握って《エブエン・エリーブ》と念じれば、姉ちゃんの居場所が分かるから、おいら、すぐさま駆けつけることが出来るよ」 「えぶ……?」 「エブエン・エリーブ。おいらが今、思いついた呪文だけどね。この珠は姉ちゃんの声にしか反応しないし、呪文が発動したっていうのは、おいらにしか分からないようになってる」 「救助の狼煙《のろし》みたいだな、まるで」 「うん。姉ちゃんの身になんかあった時のためにね。実際、気を付けなきゃいけないこと、色々あると思うんだ」  ジルの表情が真摯なものになる。 「一つ忠告。龍を倒した剣士、人間にしては強力過ぎる“力”を持ってるよ。あいつにはきっと何か裏があるよ」 「分かった。気に留めておこう」サイファは珠を見つめた。 「エブエン・エリーブ。言葉は、これでよいのだったな?」  ジルはうなずくと、 「じゃあ、今日は帰るよ。またおいらの宿に来てちょうだいな!」  と言い、駆け出していった。 「ありがとう! 今日のことは色々とためになったぞ!」  サイファは、小さな友人の背中ごしに声をかけた。 九.  七月四日の朝方。前二刻も過ぎた頃。こんこんと、ルイエの部屋の扉が叩かれた。 [キオルか?]  ベッドに腰掛けているルイエは、あくびをかみしめ扉の向こうに話しかけた。 [はい。入ってよろしいでしょうか?] [ああ]  キオルが部屋に入ると、大きな口を開けてあくびをする少女が目に入った。咎《とが》められるのを気にしてか、ルイエはあくびの途中で口に手をやった。 [お早うございます。……あ、陛下……] [はしたない、か? すまぬ……] [いえ、あまり寝ていらっしゃらないご様子なので、お体がすぐれないのか、と思いました] [私はそんなにやわじゃないつもりだ]  そう言いつつ、ルイエはあくびをもう一つ。 [とは言っても、さすがに堪えたな、あれには……]  ルイエはごろりとベッドに横たわった。  昨日ジルと別れたあと、典礼長ゼネダンから『勅命の場』の日時を告げられた。七月四日、前四刻に執り行う。それは思いの外、早いものだった。  ルイエも勅命の場を幾度か経験しているものの、烈火を動かすというのは滅多にない。これは国家の大事である。ゼネダンと執政官リセロは、号令のかけ方について懇々とルイエに説き、勅命の場で成すことや、話す内容などを夜遅くまでかけてまとめ上げたのだ。結局ルイエが床に入ったのは、“刻無き時”を越えてからであった。 [そろそろ食事なのか? ならば着替えないといけないな]  ルイエは目を閉じたまま、やや鬱陶しげにつぶやいた。 [確かにそろそろお時間なのですが、そうではなく……] [もったいぶるとは、そなたらしくもないな。……ああ、でもジルについての小言ならあとにしてくれないか。多少なりとも、すがすがしく朝を迎えたいのだから]  ルイエは窓に目をやった。 [いい天気だ……今日も暑くなりそうかな?] [陛下……空の宮にお越し頂けませんか? ……その……司祭殿がお会いしたいと……] [司祭殿が!?]  がばりと飛び起きるルイエ。キオルの一言は、ルイエの頭を覚ますのに十分過ぎるものだった。次にルイエの心を占めるのは、とてつもない不安感。 (今日、勅命をかけるというのに……いかな神託が下ったというのだ?)  その時ルイエは、少し心に引っかかるものを感じた。 (神託とは何か? それは神の思し召し。私達にとっての神は、神君ユクツェルノイレと、その父にして大地の神クォリューエル。……だがジル――トゥファール神の使いよ。……私達が信ずる神というのは、本当に存在するのだろうか?)  神――ユクツェルノイレとクォリューエル――の存在を訝しがること。それはフェル・アルムの民がおよそ考えつきもしないことだった。しかし、真実の断片を知ってしまったルイエにとって、虚構の皮をめくるのは造作もないことであった。とは言え、未だルイエ本人は運命の渦中に飛び込んだという自覚は無い。今の彼女に出来ることは、鬱々とした気分をしまい込んで、司祭を訪れることのみだった。  ただ、デルネアや隷達の目論むままに動くほど、彼女は凡庸ではない。サイファが洞察力に優れていることと、神の使いジルに遭遇していること。  フェル・アルムの影の統治者達は、そのようなことを知るよしもなく、勅命の場を待ち望んでいた。 * * *  ステンドグラスに囲まれた、真っ白な部屋。生活感のかけらもない、司祭の居室たる空の宮に入ってきたルイエを司祭は恭しく出迎えた。一週間前と同じように。 [お忙しい中、ようこそおいで下さいました、陛下]  老人は深々とお辞儀をすると、ルイエを席に案内した。 [ああ。確かに忙しい]  ルイエは、心の中にある不安を気取られないように、やや尊大な口調で話した。 [またご神託であろうか? 司祭殿も知ってのとおり、今日勅命を発するというのだ。よもや神は私の方針にケチを付けるおつもりなのか?] [……たとえ陛下であっても、神の尊厳を傷つけるお言葉は許されませぬぞ]  司祭は低いしゃがれ声でルイエを諫めた。 [確かにな、出過ぎた言葉であった。許されよ]  言葉とは裏腹に、ルイエは不遜な態度をあらためようとはしない。 [では神託を。心して聞かれんことを]  司祭は言い放った。その神託は――司祭すなわち〈隷の長〉が、デルネアより受けた言葉そのままであった。 [北方にニーヴルが結集しつつある様子。陛下にあっては、烈火を総動員するよう勅命を出し、烈火を北方に向かわせるようにして頂きたい] 「馬鹿な!」  ルイエは思わず『失われた言葉』で口走った。司祭は何も言わなかったが、冷徹な視線をルイエに送り、ルイエの不敬な言動を咎めた。 [し、失礼をした……]  ルイエは目を閉じ、深呼吸を一つ。どうしようもなく動揺する心を落ち着けるために。 [……ニーヴルがいると、どうして分かったのだ? 疾風の報には、そのようなことは書いてなかったはずだ] [おっしゃることは分かります。しかし、疾風達も人の子。分からないこととてありましょう。なれど、神の御言葉は絶対です。このような混乱の時期に神の啓示を頂けるとは、ひとえに陛下のご人徳ゆえ。ありがたいことでございます] [世辞を言わなくてもよい。北の様子をその目で見ている疾風達より、アヴィザノにいるそなたのほうが、よほど状況をよく把握しているというわけか。……さすがは司祭殿だ]  ルイエの若干皮肉めいた口調を気にも留めないかのように、司祭は淡々と語った。 [私ごときは大したものではありません。全ては神の見られるところ。神からの思し召しによって私は動いているに過ぎません。各地で噂されるニーヴルに関わる風説は、おおいなる神によって立証されたのです。……神託は下されました。陛下にはご指示を出していただきたい]  ルイエに神託を覆す権利は無い。反逆者たるニーヴルの所在は“神”が明らかにしたのだから、秩序の名の下に彼らを排除しなければならない。十三年前、父王が行ったように。  そうなると、戦になるのは火を見るより明らかである。どれだけの民が戦禍の犠牲になるのか。そう思うと胸がひどく痛むのを感じた。 [……烈火に下知せよ、というのだな? 勅命の場で] [御意]  ルイエの心中を知ってか知らずか、司祭は冷たく言い放った。しばし、沈黙があたりを支配する。 [……あい分かった。全ては神君ユクツェルノイレの思し召しのままに]  ルイエはそう言い残し、空の宮をあとにした。  外に出たルイエは空の宮を振り返り、つぶやいた。 「これから勅命を下すというこの時に、それを覆す神託が出るとは……。あまりにも頃合いがあい過ぎている……そこが腑に落ちない……。しかし、今の私にはどうすることも出来ないのか?」 十.  ルイエは、儀仗に身を纏った近衛兵に周囲をぐるりと囲まれ、玉座の間に向かっていた。途中で執政官リセロと出会い、単刀直入にこう言った。 [神託が降りたゆえ、我が命令は変更となった。烈火を全て北方に回す] [え……]  リセロも一瞬言葉を失った。近衛兵達も驚きを隠せないでいる。 [そうなのでありますか? し、しかし、それが神の思し召しとあらば、神の指し示した道を歩むことこそが賢明でありましょう]  取り直したリセロはそう言って取り繕った。 [であろうな]  ルイエは一言返したのみ。一同はその後無言で玉座の間に辿り着いた。  七月四日、前四刻。『勅命の場』。  玉座の間には、すでに宮中の人間が大勢集まっており、ルイエの入室の際には一同敬礼で迎えた。ルイエは近衛兵に囲まれたまま玉座を目指した。玉座の手前で近衛兵達は脇に分かれ、隊長のアノウのみが玉座の階段前に留まった。ルイエは北方に一礼をすると、正面を向き直り玉座に腰掛けた。 [神君ユクツェルノイレの名のもとに、今《こん》席上ではドゥ・ルイエ陛下による宣命を賜ります]  ゼネダンが述べると、ルイエはすくと立ち上がった。玉座の間が喝采に包まれる。ルイエが右手を挙げると拍手は止み、一同はルイエを見据える。百近い視線全て、ルイエに集中するのだ。  ルイエはもとから、この雰囲気が好きではなかったのだが、今回はことさら嫌なものであった。自分本来の考えとは異なる命令を下さなければならない。そう考えると全ての瞳が、ルイエを咎めているような感さえ受けた。 [――]  ルイエは口を開くが、声が出なかった。否、出せなかった。二十歳をようやく過ぎた娘が、国を揺さぶる重大事を発言しようというのだ。近衛隊長ルミエール・アノウが、リセロが、そしてデルネアが自分を見ている。だが喉もとが張り付いたように動かない。  そんな中、ルイエは、無意識のうちに金髪の少年の姿を探している自分に気付いた。 (ジルは……ここにいるわけないか…。しかし……)  ルイエは左手をぎゅっと握り締める。その中にあるのは、ジルから貰った、あの珠《たま》だ。握っていると少しずつ、張り詰めた心が和らいでいくのを感じた。 (この石……そなたを近くに感じるようで、安心するぞ)  そばに控えるアノウが、心配そうな面持ちでルイエを見ている。それに気付き、ルイエは笑みを浮かべ手をあげる。 (大丈夫だ)  サイファの従姉にして幼友達でもあるルミエール・アノウは。ルイエのしぐさで悟り、再び正面を向いた。ルイエもきっと前を見据える。一瞬、ジルの顔が頭をよぎった。 [……諸君らも知ってのとおり、フェル・アルムに前代未聞の禍々しい出来事が勃発している。人々の不安、恐怖がいかばかりのものか。この混乱を招いたのは何なのであろうか? 中枢とて手をこまねいていたわけではない。……我、ドゥ・ルイエは諸君らに言い伝える。これは勅命である! 神君ユクツェルノイレに誓って、虚偽はない。ドゥ・ルイエは純粋に、平穏を保持したい一心のみを持つのである]  心の迷いを何とか振り払い、ルイエは凛とした声で告げた。 [勅命を言い渡す。かつて、全土を震撼させたニーヴルが、北方に結集しつつある。よって、全ての烈火には北方に動くよう、ここに命ず!]  瞬間、宮中の空気が一転した。居合わせた人々は、動揺、衝撃を隠せないでいる。一同を見渡すルイエにもひしひしと彼らの思いが伝わってきた。それは彼女にはとても痛いものだったから、ルイエは天井に視線を泳がせるしかなかった。 (とりあえず今は何も考えるな。とりあえず……)  ルイエは心の中で思った。 [デルネア将軍、前へ]  ルイエは思いを胸中に沈め、デルネアを呼んだ。デルネアが階段の下でひざまずく。と、ルイエの頭にジルの言葉がよみがえった。 『龍を倒した剣士、人間にしては強力過ぎる“力”を持ってるよ。あいつにはきっと何か裏があるよ』 (確かに……ただならぬ者だと私にも分かる。慎重に言葉を選びなさい、サイファよ)  彼女は自分に言い聞かせた。 [貴君には、我、ドゥ・ルイエの名において、全ての烈火の指揮権を委ねる。だが火急の時を除いて、剣を振るうのは認めぬ。また、何ら罪のない人々に危害を加えぬように心せよ] [仰せのままに]デルネアは深く頭を下げ、恭順を示した。 [我ら烈火は、陛下の命によってのみ、動きます。陛下がそうおっしゃるのであれば、従いましょう] [うむ]  ルイエは軽くうなずくと、声を大にして言い放った。 [貴君らも聞いてのとおりである。不穏な動きを封じるために私は烈火に号令をかけた。しかし、それは民を踏みにじるものではない。今、デルネア将軍が私に誓ったとおりだ。もし、これが破られた時は……]  左手を硬く握るルイエ。 [枢機裁判にわが身をおくものである!]  階下が再びざわめく。枢機裁判といえば、唯一ドゥ・ルイエ皇をも裁くことが出来る司法の最高機関である。悪政を行ったルイエはここの裁きを受けるようになっている。しかし、この仕組みが制定されて以降、皇帝が出廷したという実例はない。フェル・アルム中枢が、この構造をつくる原因となった“恐怖王”ルビアンの処刑以来は。 [諸君、静まりたまえ!]と、ルイエ。 [我は十三年前の悲劇を、絶対に繰り返してはならないと考えている。かつてニーヴルの反乱鎮圧時に、父王は救国の英雄として賞賛を浴びたが、実は幾多の人々が犠牲となったことにひどく心を痛めておられた。そのことを諸君らにも、今一度認識してもらいたいのだ。繰り返し告げる。我の名のもとに烈火を発動させるが、戦災を巻き起こさぬよう、デルネア将軍に厳命する!]  デルネアは深く頭を垂れ、そしてすくりと立ち上がった。一瞬、ルイエと視線が合う。 (――!)  デルネアの瞳はルイエを見上げているが、むしろデルネアが高みからルイエを、そして人々を見下ろしているような感覚さえ覚えた。憤懣と侮蔑と野心。ぎらぎらとした、貪欲な野獣のような瞳。背筋が凍りつくような強大な何かがこの男にはあるのだ。実際、ルイエはデルネアの持つ気迫に飲まれてしまっていた。  デルネアはついと視線をはずすとルイエに恭しく一礼し、もとの席に戻っていった。 (はあっ……)  ルイエは内心で安堵の息を漏らした。身体にのしかかっていた重圧が無くなったからだ。 [諸君、これにて閉会としたい。しかし、案ずるな! 我らは再び平穏を取り戻すことが出来るであろう! 全ては神君ユクツェルノイレの思し召しのままに!]  宮中に凛としたドゥ・ルイエの声が響く。それは閉会の言葉であったが、同時にフェル・アルム史上最大の大事のはじまりを高らかに告げるものでもあった。  その名を“大いなる変動”という。 § 第四章 水の街サラムレにて 一.  夕方、そして夜を過ぎてもルードら旅の一行は歩みを止めることがなかった。暗黒に覆われた夜の空を見上げて感じるものは、不安と恐怖のみ。各々は感情に押しつぶされないように何をしゃべるでもなく、黙々と馬を進めていった。  しかし、夜の世界は決して安穏としていられるものではない。闇を渡って、魔物が出現するかも知れないからだ。現に朝までの間に、ルードは二匹の化け物を倒していた。  魔物の様子を見計らって斬りつけた刀身が鈍く輝き、魔物は一撃のもと屠《ほふ》られる――。  ルードの太刀筋を〈帳〉が賞賛するも、ルードはどうしても忘れられないことがある。切り裂く時の肉の感触、断末魔の叫び声、何よりライカの怯える顔――。それらがかつての幼い頃の記憶と重なる。もしデルネアと対峙して、彼と一戦交えることになった時、自分は戦えるだろうか? 馬上でルードは、剣の鞘をさぐりながら自らに問いかけた。 (ハーンに習った剣術だけど、俺は……人を斬るためには使いたくない!)  北方スティン山地に端を発するクレン・ウールン河は、下流に行くにしたがって河幅を広げ、サラムレ周辺にあっては半メグフィーレにもなろうか。山からの雪解けの水が河の流れを豊かに潤している。美しく、静かなたたずまいをみせている河。十三年前、様々なものが流れ着き、水が朱に染まった惨状など、みじんに感じさせない。  夜どおし馬を歩かせたルード達は、朝焼けに色を染めている美しい大河を前にして、語る言葉を持たなかった。海、そして大河とともに時を重ねてきたサラムレの街は、古来より水上の交通が発達している。ルシェン街道を南下してきた旅人はクレン・ウールン河を船で渡り、そのまま市内へと入っていくのだ。  時は七月四日の朝。ルード達は朝一番の船に乗り込むと、しばし水上の人となった。  波に合わせてゆらり、ゆらりと身体が揺れる。初夏の朝方の暖かな日差しを受けながら、ライカは今、自分が夢うつつにあることが何となく分かっていた。隣にいるはずのルードの声が、やけに遠く聞こえる。水夫と話してるであろう会話の中身を、ライカは知ることが出来ない。それは自分の知らない言語だから。ちくり、と刺すような不安を感じながらも、ライカは意識を夢に向けていった。 * * *  緑の情景が辺り一面を覆っている。  あきらかに夢の世界と思える中でライカは気が付いた。すると緑は彼女の思ったままに、よく知っている感のある草原と森とに姿を変えた。さらに向こう、高く灰色にそびえる壁のようなものは、ひょっとしたら谷地の崖なのだろうか? (ここは……ウィーレル?)  ライカがそう感じた瞬間、全ての景色はなじみ深いものに変貌した。  アリューザ・ガルドの北方、アリエス地方。ふるさとのウィーレル村の道ばたに彼女は立っていた。右手にあるのは友人の家の牧場。牛達が草をはんでいる。そして、空を見上げると、アインの山からレテス谷に向けて、ひとりのアイバーフィンが時折翼を光らせながら滑空している。  その女性はライカに気付いたのか、飛ぶ向きを変えて、手を振りながらライカのほうに降りてこようとしていた。 (…………?!)  ライカは驚き、口元をおさえた。彼女はミル・シートゥレイ。ライカの母親だったのだ。 (お母さん……)  二年前に山で行方知れずとなった母親。今自分は夢の中にいるのだ、と分かっていてもこみ上げてくる感情。ライカは熱くこぼれる涙を隠すことなく、母親ミルの様子を目で追っていた――。  だが、様相は瞬時に一転した。青い空が暗黒に染められたのだ。ミルは慌ててライカのもとに辿り着こうとするが、すぐに暗闇の中に捕らわれ、消え失せてしまった。  それまで緑に映えていた野原は、その地面が波のごとく不自然にゆらぐと、どろどろに腐り始め、遠くのほうから徐々に暗黒の中へと姿を消していく。ほどなく、ライカの足下の土までが腐りはじめた。ライカは逃げだそうとした、が、腐った土にくるぶしが浸かりこんでおり、動けない。しかも何かが足首を押さえ込んでいる感すらある。  野原を消していった暗黒の中から、闇の球体が迫ってくる。ライカの前で球体は割れ、中から魔物が姿を現した。そのものには定まったかたちなど無く、黒々とした腕と思えるものが、どろどろとした粘液のような何かを滴らせながらゆっくりとライカの身体を捕らえんとする。  叫び声をあげたくても声が出ない。周囲を見渡しても、すでに村の姿などかけらも残っていない。 (これは夢よ……)  ライカは現実的に思いつつ、夢の中の様子に絶望していた。  その時、暗黒を切り裂いて一条の光が射し込み、魔物を消滅させた。いつの間にか、ライカの目の前には一降りの剣が浮いていた。聖剣ガザ・ルイアート。そしてどこから現れたのか、ルードが剣を手にすると、彼は頭上に剣を掲げ――。 「ライカ」 * * * 「ライカ?」  その呼びかけでライカは目を覚ました。ルードがかがみ込んで、ライカの顔を窺っている。ライカはしばし、今見ている光景が夢なのか現実なのか把握しかねた。  ようやく、先ほどの光景が夢であったことを理解したライカは、ほうっと大きくひと呼吸を入れる。少しずつ、夢の中身を忘れていくのを感じながら。  しかし、寂しさ、やり切れなさ――ライカは、そんな感情に押し流されそうになっているのが分かる。〈帳〉の館にいる時分からこのかた、全く感じずにいたというのに、ここに来ての不安はなんなのだろう? 「疲れてるんだろ? もう少し、宿に着くまでの辛抱だ」  ルードはライカの隣に座り込み、大きく伸びをした。と、ライカが彼の裾をつかんできた。ルードを見つめるその顔は何かを言いたそうだったが、ルードには分かりかねた。 「どうしたのさ」 「ううん、なんでも。……ちょっと疲れただけかな?」  ライカは自分でも不自然だ、と思うような笑みを浮かべ、ルードの肩に頭を預けた。  やがて船は水門をくぐり、サラムレの街へと入っていった。 二. [へぇぇ!]  ルードは船上から街並みを見て、感嘆の声を上げた。彼にとっては全く目新しいものだったからだ。幼い時分に何度か両親とともにサラムレに行ったことがあるらしいのだが、ほとんど覚えていない。ただ、水路沿いに何艘《そう》も浮かぶ船が印象的だったことは強く記憶に残っている。  〈帳〉はひとり艫《とも》に立ち、ライカは静かに街の景観に見入っていた。  水の街サラムレは、区画ごとにまとまった建造物と縦横に走る水路、そして多くの橋によって構成されている。フェル・アルム北部と南部を結ぶ拠点だけあって、街は開放的で、活気にあふれている。その喧噪が普段とは違う雰囲気であるのに気付くのはもう少し後であったが。  一行は〈ラミヒェールの旅籠屋〉という名の、石壁を蔦で覆ったやや大きめの宿に落ち着くことにした。三人とも別の部屋か、少なくとも女性のライカだけには別の部屋を用意させよう、とルードは思ったのだが、意外にも当のライカが「ひとりだけ部屋が離れるのは嫌」と言ったのだ。  旅の一行は大部屋に通された。ルードとライカは何より早くそれぞれのベッドに横たわる。 「ふうっ……」 「ふかふか……ベッドで寝るのってやっぱり幸せ……」  ルードとライカは口々に言った。 「疲れたな……しばらく休むといい。街の噂とやらを訊くのはそれからでいいだろう。風呂に入るのも良し、とにかく十分疲れを癒しなさい。ここからまたスティンまで、また長い道のりなのだからな」  そう言って〈帳〉が少年達を見ると、すでに彼らは静かに寝息を立てていた。 「やれやれ」  〈帳〉は苦笑して二人に毛布を掛けると、ひとり部屋から出ていくのであった。 (町中で聞こえていたあの声……間違いない……)  先ほどから妙に気がかりなことがあった。世間には疎いはずの〈帳〉であってさえ、違和感がぬぐい去れなかった。街の喧噪の中に、明らかに異質な声が混ざってきこえるのだ。  例えば調和している合奏の中、一つであれ外れた音を出してしまったら、それは非常に目立つものとなる。そして〈帳〉は、先ほど聞こえた『調子外れの音』が何であるのか確信していた。  階下に降りた〈帳〉は、宿の主人に挨拶する。 [この辺りで、人が集まる酒場などはないかな?] [ふん。あんた、芸人さんかい?]  主人は〈帳〉の頭から足までを眺めて言った。まじないが効いているため、〈帳〉の容姿は辺りの人と変わりなく映っているだろうが、臙脂のローブはやはり目立つ。 [それなら三軒右隣の……いや、ここを左に出て橋を渡った先にあるほうがいいかな? 〈雪解けの濁流〉てえ変な名の酒場があるよ。この界隈じゃ一番大きいだろうね] [私は長いこと北のほうにいて、サラムレに来たのも久しぶりだからな。この街は最近はどんな様子かな?]  それを聞くなり、主人の顔が曇った。 [わしもよくは分からないんだが……。三、四日ばかりか? ここら辺の雰囲気がいつもとは違う。いや、それだけじゃないな。商人さん達の話を小耳に挟んだんだが、中枢のほうじゃあ大昔の言葉がいきなりしゃべれるようになった人達で溢れかえってな、かなり騒動になってるらしい。さらに噂ではニーヴルが……]  そこまで言ってはっとなった主人はしゃべるのを止めた。 [ふむ。少々しゃべりが過ぎたかな? まあ、〈雪解けの濁流〉に行くといいさ。あそこは旅商人が多く集まるから、あんたが芸人だっていうなら稼ぎも多かろ?] [ありがとう。、夕方くらいになったら行ってみるとするよ]  〈帳〉は再び部屋に戻ろうとした。そして――。 「おもての通りを右に出たところの橋だったかな?」  おもむろに、しかし明らかに普段と異なる発音で主人に呼びかけた。 「いや違う。左に出たところの橋だ。看板が出てるから分かるだろうて」  主人は何気なくそう言って、それまで読んでいた本に目を通し始めた。発した声が普段とは全く異なる『音』を発していたことに、主人は気付く様子がなかった。 三.  夕方近くになり、ようやくライカが目を覚まし、ついでルードがむくりと起き上がった。〈帳〉はルードとともに酒場に向かうことにしたのだが、ライカもついてくると言いだした。 「だがライカ。君はここにいたほうがいいのではないか? 言葉が分からないだろうし、ちと物騒だぞ、夜の酒場というのは?」 「分かってます……でも……」 「でも?」ルードが聞き返す。 「でも……」  ライカは目を泳がせて、どのような言葉を言うべきかしばし考えた。 「ルード。まさかわたしを置いて、おいしいものを食べに行こうっていうんじゃないでしょうね? なんと言ってもついてくわよ!」  それが空元気であることを、ライカ自身は分かっていた。  この街に来てからの彼女を苛んでいる疎外感。自分の知らない言葉がまかり通っているというのは、なんと心細いことなのだろうか。ふと、今朝方見た夢の一片が頭をよぎった。これからを暗示させるような暗い夢。彼女達に待ち受けている過酷な使命が、夢のかたちをとったのだろうか? いずれにせよ彼女の胸中のみにしまい込むには大き過ぎる。そんなつらさを隠すためにライカは笑うのだ。その笑いに隠された感情を、ルードは分かってくれるのだろうか? (そんなの、わがままで勝手な希望だわ)  冷静に見つめる、心の中のもうひとりの自分が囁いた。 「俺に振るのかよ? 〈帳〉さん、どうする?」  ルードはちらと〈帳〉を見、そしてライカを見る。ライカは腕組みをしたまま、ルードの回答を待っているようだった。 「むぅ……」 「どうなのよ?」 「まあ俺は……いいと思うけどさ」 「じゃあ、決定ね! さ、行きましょ! いいでしょ、〈帳〉さん?」  ルードの言葉が終わらないうちに、ライカは彼の腕をとってそそくさと歩き始めた。 「やれやれ、困ったお嬢さんだ……」  〈帳〉は苦笑すると、二人の後をついていった。  ライカはまるで上機嫌のようで、しきりにルードに笑いかける。そんな彼女につられてルードも笑い返すのだった。 (ライカどうしたんだろ? 妙に明るいな?)  ルードは、どこか心に引っかかる感じを持ちながらも、ライカの快活さを前にして違和感は隠れ去った。 (ま、明るいことはいいことだし……。俺も楽しくなるからいいか)  忙しげに行き交う人の間をくぐりながら、一行は〈雪解けの濁流〉を目指した。ふだん山村で暮らしているルードにとって街の雰囲気は珍しいもので、彼はひっきりなしに周囲を見渡していた。  ふと、ルードは奇妙な雰囲気を感じた。見ると、道ばたに座り込んでいる痩せこけた男が焦点の合わない虚ろな眼差しで、そこかしこに目を向けていた。 「ふん、だから言ったじゃねえか、あの野郎、俺の言ってることに……」  男の言葉は完全に常軌を逸していた。誰に言うでもなく意味のないひとり言を繰り返す男を横目に、ルードは道を急いだ。 「あれってアズニール語じゃないの?」 (そうだ! あの口調はアズニール語。俺達しか話せないと思ってたのに、一体いつからこんな風になっちゃったんだ?)  ルードはそう思いつつ、酒場の扉をくぐった。  いくつもの円卓が並ぶ店内はすでに旅商達がおり、それぞれの会話に花を咲かせていた。大声で笑い話をする者、稼ぎの話をする者、にやつきながら下世話な話をする者――十人十色である。ざわめく彼らをちらちら見ながらルード達も席に腰掛け、飲み物を注文した。 [……だけどな、南のほうがとんでもないことになってるってのは本当だぜ?]  隣卓の椅子に腰掛けている若い商人の言葉に、ルードと〈帳〉は反応して耳を傾ける。 [大昔の言葉っていうやつをだな、南の連中がしゃべり出したのよ。嫌なことにそれが物忌みの日に起きやがったんだ] [ジェリスよう、なんなんだよ、その大昔の言葉ってのは?]  向かいの席に腰掛けている長髪の男が言った。 [学者さんに言わせれば、だ。なんでも神君がフェル・アルムを統一なさる前、世界で使われていた言葉らしいぜ。それが今になって中枢をはじめ、南部全域に広がっちまったんだ。ダナール、信じられないかもしれないけどほんとなんだ]  ジェリスという商人は言った。 [そんなのが自分のあずかり知らないうちにしゃべれるようになってみろ。おかしくなる奴が出ても仕方ないだろう?] [若いの、それなら俺も聞いたことがある]  それまで向かいの席に座っていた口ひげを蓄えた男が、酒を片手にジェリス達に近づいてきた。 [俺はイルーレ。オルファンからやって来たんだが、なんせ、俺自身その言葉を話せるようになっちまってるしな] [で、イルーレさん、どんなふうなんだ、あっちはさ?]  酒をつがれたジェリス達は、思わず身を乗り出す。 「混乱しきっている」  ルードには、アズニール語でしゃべる男の声が聞こえた。 [あん?]長髪のダナールが聞き返す。 [〈混乱しきっている〉って言ったんだ。大昔の言葉ってやつではな!]  イルーレは笑って言った。だが、その顔は急に険しくなる。 [だが今の世の中、笑いごとじゃあすまなくなってきている。言葉もそうだが、オルファンのラーリ山で炭坑夫が化け物に殺されたり、アヴィザノの近くで化け物が八つ裂きになっていたり……ここんとこ常軌を逸する出来事ばかり立て続けに起きている。さらにだ……] [興味深いお話ですね]  いつの間にか〈帳〉が彼らの横に立っていた。 [出来れば私にも聞かせていただけないだろうか?] [兄さんは芸人かい?]と、ダナール。 [だったらなんか一つみせて欲しいもんだな。そうすればとっておきを教えてやるよ]  イルーレが言った。 [なら……]  〈帳〉はあごに手をやり、少々考えるふしをみせた。まるで何かを探っているように周囲を窺いつつ。 [では、これなどいかがですか?]  彼はおもむろに、手近にあった空のグラスを取り、ナプキンを一枚入れるとぱちん、と指を鳴らした。すると、もぞもぞとナプキンの中で何かが動き始め、〈帳〉がナプキンを取るや一羽の小鳥が現れた。商人達は一様に感嘆の声をあげる。  〈帳〉が手にしたグラスを揺らすと、小鳥は飛び立ち酒場の中を二、三周軽やかに飛んで回ったあと、もとのグラスに収まった。〈帳〉がナプキンをかけ、指を鳴らしてナプキンを取ると、グラスはもとの空のグラスに戻っていた。  酒場の中はどっとどよめき、拍手やら口笛やら、〈帳〉に対する賛辞が送られた。 [兄ちゃんやるな! 手品師なのかい?]  ダナールは〈帳〉の肩を叩いて、自分の隣に座らせた。酒場にいたほかの商人達も彼らを囲むようになった。 「ねえ、ルード」  完全に輪から外れる格好となったルードとライカ。商人達と〈帳〉を横目で見ながら隅のほうでちびちびと飲んでいたのだが、やがてライカが小声で尋ねてきた。 「あの人達、なんて言ってるの?」 「ざわざわしていてよく聞き取れないな。みんなそれぞれ、言いたいことを言ってるみたいだ。あとで〈帳〉さんから訊くしかないかな?」 「ルードもあの人達にまじって聞いてくればいいじゃない?」 「……そういうわけにもいかないだろ」  言いつつルードは生ぬるい酒を飲み干した。 「なんで?」 「さぁてね、どうしてだろうね?」  ルードは給仕に合図を送り、もう一杯酒を注文する。ライカは何かはぐらかされている感がした。ルードは、あからさまに目をそらしている。彼が物事をごまかす時には必ずこうするのだ。 「あ、ずるい!」ライカは口をとがらせて非難する。 「なんだ、ライカももう一杯欲しいのか?」 「そうじゃなくて!」  ライカはうつむいてぶつぶつ、こぼした。何かしら自分を安心させてくれそうな言葉をルードが言ってくれるような気がしていたのに、見事に逸らされたからだ。 「それはそうとしてさ、……なんだよ、怒ってるのかよ?」  ライカにじろりと睨まれて、ルードは苦笑した。 「何? 今なんか言おうとしてたでしょう? いいから続けなさいよ」  いかにも不満げな口調でライカが言った。 「ああ、さっき〈帳〉さんが使った手品。あれは術なのかな?」  そう言いつつ、ライカに飲み物の入ったグラスを手渡した。 「ありがと」  ライカはグラスを受け取って、少し表情を和らげる。 「……そうね。わたしも術のことはよく分からないけれど、あれは目くらましの術のたぐいだと思うわ」 「俺もそう思ったんだ。〈帳〉さんも、こんなところで術を使わなくてもいいのに。誰が見てるか分からないじゃないか」  それを聞いて、ライカの心臓が跳ねる。頭をよぎったのは疾風のこと。酒のおかげで頭の片隅に追いやられていた不安が、再び目の前に現れた感じだ。不意に胸の辺りがきゅうっとつぶされたように苦しくなり、ライカは顔をしかめた。 「ライカ?」 「なんっ……でもない……」  気丈にもライカは笑ってみせた。だが、表情がこわばっていることが自分でも分かる。 「だけど気分悪そうじゃないか。先に宿に帰ってようぜ? あとで〈帳〉さんから話を聞けばいいわけだし」  ルードはライカの背中を叩いて催促した。ライカも何か言おうと思ったのだが、結局何も言えずうなずいた。  二人は席を立ち、酒場をあとにしようとした、が、無粋な男がひとり、卑下た笑いを浮かべて声をかけてきた。顔を赤らめた、見るからに酔っぱらい風情。ルードはこの男が中枢の“疾風”ではないかと一瞬勘ぐったが、そうではなさそうだ。 [お二人さん、こそこそと話しちゃってさ。これからどこへ行こうってんだい?]  ルード達は男を無視して出ていこうとした、しかし。 「きゃ!」 「ライカ!」  男はライカの腕をつかむと、無理矢理自分の前に立たせた。 [俺を無視するんじゃねえよ、姉ちゃん。人が話しかけてるってのにその態度は無いんじゃねえのか?]  妙な相手にわけの分からない言葉を言われることほど嫌なものはない。しかもつかまれた右腕が痛い。ライカはルードに目線を送った。  ルードはライカと男の間に割って入り、ライカを背中でかばう姿勢をみせ一言。 [この手を離せ] [……ああん?]  あからさまに馬鹿にした口調で男は聞き返した。 [いいかげんにしろよ。彼女から手を離せと言ったんだ] [はっ、小僧が。いい気になるんじゃねえ! 俺が手を離さなかったらどうするってんだよ?]  男が大声を張り上げる。これには周囲の商人達も会話を止めざるを得なかった。 [手を離さなかったら……俺にも考えがある!]  ルードは怒りの表情で男と対峙し、腰に下げている剣の柄をこん、と叩いた。酒場の中がどよめく。 [やろうってのか?]  男はライカの腕を放すと、戦う構えをみせた。ルードからすれば明らかに素人の構えだが、ルード自身も後に引けなくなっていた。 (どうする? やるのか?)  だが救いの手はすぐに伸ばされた。 [ルード!]  〈帳〉が駆けつけ、小さい光の球を男の眼前で炸裂させた。男が目を押さえ、後ずさった瞬間に、ルード達は酒場の外に急いだ。 「大丈夫だったか?」  宿に戻る道中、まず口を開いたのは〈帳〉だった。ライカがこくりとうなずいた。 「ならばいい」 「〈帳〉さんのほうは? 何か聞けたんですか?」と、ルード。 「あと、あんなとこで術を使って大丈夫なんですか?」 「あの手品が術によるものだと分かったのはさすがだな」  〈帳〉は言った。 「安心していい。術の行使前に周囲は確認しておいた。怪しい輩などはいなかった。それと、商人達から聞き出せた世界の現状については、道すがら話すわけにもいかないだろうからあとで話すことにしよう。結論だけを言うならば、もはや安穏としていられない状況だ。今夜にでも出発したほうがいいだろうな。……疲れてはいないか?」 「俺は大丈夫ですよ。ライカは……あれ?」  ライカが笑みを浮かべている。ルードはそのことに驚いた。 「何?」  ライカが訊いてきた。 「今、笑ってたんじゃないか?」 「え、わたし笑ってた?」  そう言ってはじめて気が付いた。自分は嬉しかったのだ。  ルードと男が何を話していたのかは分からないが、明らかなことが一つ。ルードが自分を守ってくれたということ。思い返せば酒場の中では、ずっと自分の横にいてくれたではないか。その一つの行動だけで、今日感じた全ての不安は吹き飛ばされ、ライカの胸中は安らぎに包まれるのであった。 (私はひとりじゃないんだ。ルードがいてくれる。そう、不安なことはひとりで抱え込まないで、ルードと一緒になって克服していけばいいんだ)  ライカは、未だきょとんとした表情を浮かべている想い人に笑いかけた。 四.  夜も遅くなり、家々の明かりが消えた頃。  ルードは〈ラミヒェールの旅籠屋〉の両開きの扉を、音を立てないように慎重に閉めた。〈帳〉は扉に両の手を当て、短い呪文を唱えた。一瞬、〈帳〉の手のひらを青銅色の光が覆う。そして――。  かちゃり。  内側の鍵がかけられたことを確認すると、一行は馬に乗り、足早に立ち去った。  酒場で商人達から聞き出した南部域の状況は、悲観的にならざるを得ないことばかりであった。  アズニール語の復活、魔物の出現、帝都を急襲した龍――世界は確実に崩壊への一途を辿っている。  さらに北方から迫り来る、黒い空の脅威。真実を知っているルード達に出来ることは、急いでデルネアから還元の手段を聞き出すことのみ。  宿で仮眠を取ったルード達は、“刻無き時”といわれる深夜であるにも関わらず、ひっそりと宿をあとにしたのだ。  しんと静まりかえった深夜のサラムレの街の中で、さらさら流れる川の音と、ルード達の馬の蹄鉄の音のみが存在しているかのようであった。灯りの消された街並みは文字どおり闇に覆われている。しかし空にあるのはさらなる暗黒。もはや上空を見上げるのすら忌まわしい。夜空を照らすものなど、まったく存在しないのだ。 (世界がせっぱ詰まってるっていうのが分かっていながら、どういうことなんだ!)  酒場で商人と交わした会話の中身を〈帳〉から聞いたルードは憤りを覚えていた。 (どんなことになっても、どんな危機が迫っても結局は神君が救ってくれるだって? 世界が壊れようとしてるっていうのを知らないにしても、あまりにも楽観的過ぎるぜ!)  自分の意志を確かめるかのように、ルードは手綱をぎゅっと握りしめる。 「〈帳〉さん、ハーンの様子はまだ分からないんですか?」 「分からぬ。彼が未だ、クロンの宿りから出ていないということはつかんでいるのだが」 「ハーンも一体どうしちゃったっていうんだ? なんで動いてくれないんだ?」  ルードは苛立ちながら言った。 「行こう、スティンへ! じきにハーンも来てくれるんだろうしさ!」  憮然とした表情を崩さずに、そう言うなり馬の腹を蹴って、急ぎ足に走らせた。 「待ってよ、ルード!」  ライカが、帳が馬をとばして彼に追いついた。 「そんなにしたら大きな音がするじゃない。馬をとばすのはこの街を出てからでもいいでしょう?」 「分かってるさ! でもやりきれなくて……俺達がそれこそ真剣な思いで、こうして頑張ってるのに、あまりにもここの連中がのんき過ぎると思わないか?!」  思わずルードは声を荒げる。感情が高ぶっていくのが自分でもはっきりと分かった。 「言葉だって変わった。魔物も出てきた。だってのに自分達は不安を解決する手も持たずにただ待つだけ。そんなんで最後は何かが助けてくれるなんて、あまりにも馬鹿げてると思わないか?」  もはや今までの価値観など崩れ去っているというのに、それに気付かず、また気付いていたとしても気付かないふりをして、未だに過去の価値観にすがろうとする――それは愚かしいことであり、また哀れでもあった。 「ルード。そう怒鳴らないでよ……。あなたの言うことはもっともだけど、みんなだって手の打ちようがない中でどうしようもなく苦しんでいて、何かにすがりたくなっている……っていうことも分かるでしょう?」 「分かってるさ!」  道ばたにいた、明らかに自分を見失っている呆けた顔をした男が、大声を上げたルードを一瞥するが、やがて彼は再び道ばたにうずくまり、それまで繰り返していた意味のない言葉をひとりつぶやくのだった。 「分かるけど……ええい! とにかく俺達は、俺達で出来ることをやらなきゃならないんだ! 行こう!」  ルードは再び馬を駆った。ライカは大きく溜息をつくと、それでも彼に追いつくように馬を走らせた。 「ルード!」 「ごめんな。怒鳴るつもりはなかったんだけど……少しいらついてて、ライカにあたっちまった」  粗野な言動をしたからといって、事態が好転するでもない。鬱積した感情を吐き出したかったのは事実だが、矛先をライカに向けたことを恥じつつ、ルードは優しい言葉を返した。 「わたしは大丈夫……まだ、ね。でもわたしだって時々不安になるの。そんな時に、せめて落ち着かせてくれたら、わたしはそれで大丈夫になれるから……」  ライカの翡翠の瞳がかすかに揺れる。ふだんいくら気丈に振る舞っていても、やはり年頃の娘なのだ。不安に押し流されることもある。ライカは今にも泣き出しそうだった。 「ライカは……強いよ」 「そんなことない……」 (二人ともだいぶ苛立っているな……当たり前だが)  馬を急がせつつも〈帳〉は思った。 (私が商人から聞いた話で一番恐ろしいと感じたのは、人々が無意識のうちに、今回の災いの発端はニーヴルだと信じ切っていることだ……。あるいはデルネアが意図的に流布させたのか定かではないが、彼がこの状況を何かしらのかたちで利用するのではないだろうか……それが恐ろしい)  しかし、〈帳〉が恐れていることは、すでに為されていた。  帝都アヴィザノではこの日、ドゥ・ルイエ皇が勅命を発していたのだ。“全ての元凶たるニーヴル”を討つため、烈火は集まりつつある。この深夜においても、烈火が着々と集結していることを、今のルード達には知る由もない。  ともかくスティンへ向かうこと。それこそが希望を繋ぐ手段にほかならないのだから。 § 第五章 “混沌”の襲来 一.  その戦士達が身に包むは、禍々しい真紅の鎧兜。それは甲冑というよりは装甲に近しかった。角の突き出た、異様ともいえる兜から、その持ち主の面構えは見て取れない。彼らに相応しい色は、赤を置いてほかにないだろう。だが、その意味するところは、人々の鮮血か、地獄の業火か――。  烈火の召集。  七月四日の午前に発せられたこの勅命は、半日を経ずしてフェル・アルム中枢都市群に伝わった。近隣の街からは続々と烈火の戦士達が馳せ参じ、夕刻の頃には五百を数えるほどにまでなった。アヴィザノ駐留の烈火と合わせれば千名ほど。烈火全体の半数以上が、わずか三刻の間に結集したのだ。  一人、また一人と、重厚な紅蓮の鎧に身を包んだ者が帝都アヴィザノの門をくぐってきている。行く先は――焔《ほむら》の宮。そこはアヴィザノ中枢の東のはずれに位置し、普段は城下の兵士達の駐留場となっている。だが、アヴィザノ駐留の兵士達だけでは持て余すほど広い。大きさのみに言及するのならば、王宮であるせせらぎの宮すら凌ぐほどである。  焔の宮の不必要なまでの広さに疑問を持つ者が宮中にいたとするなら、おそらく彼は今日この日に、自身の認識をあらためることであろう。焔の宮は文字どおり、二千を数える烈火が決起する場所なのだから。  デルネアは、焔の宮二階にある将軍用の部屋の窓から、烈火が宮中に入る様子を何をするでもなく眺めていた。彼は勅命の伝達の速さと、烈火達の対応の迅速さに満悦していた。この分だと明日の昼までには烈火の進軍が可能だろう。真紅の軍隊は、各地で畏怖の念をもって迎えられる。そして勅命の伝達の速さから考えると、“力”を持つ者が、早々と烈火に接触をとる可能性はきわめて高いようにデルネアには思えた。  “力”の持ち主がいかに強大だとしても、二千の烈火相手では分が悪かろう。何よりこの世界において、デルネア以上に強い者など存在するわけがない。かの〈帳〉ですら、魔導の力は全盛期とは比べ物にならないほど低いのだ。デルネアの前には赤子同然であるのは言うまでもない。 (太古の“混沌”や、空間のひずみなど怖るるに足らん)  デルネアが“力”を入手したその時こそ、何人にも干渉されないフェル・アルムにおける絶対的存在となるのだ。“混沌”すら、次元の彼方に追いやることが出来よう。そして――永遠の停滞のみがこの世界を包み込む。それこそが真の平穏。理想郷の中で、自分自身が神として君臨する――デルネアが望みうる最高の願いが成就されようというのだ。  だが、明らかにデルネアは慢心していた。彼が今までどおり、世界の影の調停者の役を務めているのであれば見落とさなかったであろう事柄を、失念しているのもそのためである。  それは、“宵闇の影”と名乗った魔龍の本性であり、そして――ルイエの動向であった。 (小娘め。烈火による殺戮を防ぐために我をけん制したあたり、なかなか賢いとみえる……。だが、我の真意など所詮分かろうはずもない……)  それきりデルネアの頭からはルイエのことは消え、彼は再び集結する烈火を眼下に見ながら、絶対者としての自分に思いを馳せるのであった。  七月五日前五刻。勅命からわずか一日しか経ずに、烈火は進軍を開始した。  デルネア将軍は、すぐさま二千の烈火を先鋒、次鋒、中団、殿《しんがり》の四部隊に分けた。そして自らは中団第三軍の指揮を執るようにし、先鋒隊から順次行軍をはじめた。二千の烈火のうち三分の二は歩兵で、騎馬隊は中団の軍に限られていた。一騎当千の烈火にあっても、中団軍五百人はその最たる精鋭兵で固められているのだろう。  彼ら異形かつ重厚な甲冑を身にまとう烈火の中にあって、デルネアと彼の麾下の者達のみ、装いを異にしていた。デルネアはきわめて軽装であり、彼の普段着である紫紺の上衣とズボンを身に付けているのみ。まるで市井の若者そのままのいでたちであった。また、矛槍を武器としている取り巻きの烈火達もまた鎧をまとわない。彼らは一様に黒いローブに身を包み、銀色の仮面で顔を覆っていた。彼らが醸し出す不気味さは、ほかの烈火の戦士達とはまた異なるものであった。  昼下がりのアヴィザノの街を深紅の軍団の殿が通り過ぎ、二千の大軍は重厚な城壁からセーマ街道へと隊を成していた。  一陣の風が通り抜ける。いくつもの白く大きな旗が、風を受けてばさばさと揺れる。旗には巨大な一本の角を持つ生き物が描かれている。なみなみとした純白の体毛を持つ四本足の動物は、大山猫でも馬でもない。聖獣カフナーワウと称されるその生き物は、神君が全土を平定した時に騎乗していた神の使いとされており、ひいてはフェル・アルムそのものの象徴として崇めまつられている。  聖獣の旗を手にすることが出来るのは、王家を中心とした中枢と、勅命を受けた騎士達に限られている。ゆえに、当初は深紅の戦士達を不安と奇異の目で見ていたアヴィザノ市民達は、聖獣の旗を目にして考えを一変させた。  フェル・アルムに起きている大いなる変動。その不安に駆られる人々が、カフナーワウの旗のもと進軍する深紅の騎士達に寄せる思いはただ一つ。畏敬の念である。はたして救いを求める人々の願いは成就されたのだろうか?  ある面ではそうだろう。神君の名のもと、ついに中枢の騎士達が動き出したのだから。フェル・アルムの急変に恐れおののく人々は、涙を流しながら祈った。どうか、災いの元凶たるニーヴルを討伐して、再び平和をもたらしてほしい、と。また、こうも思っていた。中枢の騎士達が動けばもう安泰だ。十三年前もそうであったように、全ては丸く収まるのだ、と。  だが別の面から見れば、願いは成就されたとは言い切れない。混乱に戸惑う人々の切なる願いは、所詮は浅はかな願いである。少なくとも、フェル・アルムに隠された真実を見きわめられるほどまで、人々は聡明ではなかったのだ。  ニーヴルなど存在しないのだから。 『ニーヴル打倒のために中枢の騎士達動く!』  この報は烈火達が進軍するより先にフェル・アルムを駆けめぐることになる。 * * * 「〈要〉《かなめ》様」  烈火の中団にて馬を進めていた〈要〉――デルネアの側に黒ずくめの男が馬を寄せてきた。 「今し方、我ら隷の一人が北方の状況をつかみました。クロン付近にて様子を窺っていた疾風、四名の所在がとぎれた模様です」  銀色の仮面の下の表情は伺い知れないが、しゃがれ気味の声色は明らかに戸惑っていた。 「とぎれた……だと? 疾風どもは殺されたというのか? 〈隷の長〉よ」  デルネアは言った。 「いえ……跡形もなく消え去った、というのが正確な表現でしょうか」 「北方の“混沌”がすでにクロンにまで及んでいる、ということか。黒い雲の下では土が腐り、やがて尋常ならざる闇に閉ざされるであろう。急がねばならん。この世界は消え去ってはならぬのだ」  デルネアは遠く、北の空を見やった。南部のこの街道からは何も見えないが、北部での混乱はいかばかりなものか? 「だからこそ、我に“力”が必要なのだ。二つの大きな“力”……それは、空間の歪みを生み出した者達が持っている。烈火が動いているということを聞きつけば、おそらく彼らは我がもとに来よう。そうだ、全てが無くなる前に早く我がもとに来るがいい。その時こそ我《われ》が“力”を得る、大いなる永遠の始まりの時なのだからな!」 「〈要〉様が全てを平定なさったその頃には、“混沌”により北部は失われているやも分かりませぬが……」  〈隷の長〉は畏まって言った。 「構わぬ」  デルネアはことも無げに言い放った。 「世界が消え去ることに比べたらその程度の損傷など無きに等しい。歴史は創られる。我によってな」  デルネアは言葉を続けた。 「〈隷の長〉よ。この件が片づいたところで、クロンの者達をニーヴルと仕立て上げるとしよう。全ては住民になりすましたニーヴルの仕業である、とすれば丸く収まる」  隷の長は深々と頭を垂れた。 「全ては〈要〉様の掌中に収まるべきなのです」  絶対者としての思惑を胸に秘め、デルネアは烈火とともに北へ向かうのだった。 二.  デルネアらが進軍を開始した、同じ頃。フェル・アルム北部は混乱のきわみにあった。クロンの宿りは、今まさにその渦中に飲み込まれようとしていた。  北方――“果ての大地”に“混沌”そのものを表す黒い空が出現したのは、三日ほど前だろうか。  それは徐々に青空を蝕みつつ南下をしていた。クロンの人々は訝りながらも日々の暮らしを続けていた。しかし今日、夜が明けて一刻を報せる鐘が鳴っても空はいっこうに明るくならない。  人々が気付いた時には、すでに災いが降りかかっていた。何の前触れもなく魔物が出現し、町中を混乱に陥れている。衛兵や傭兵達は、見たこともない化け物に怯えつつも被害が広がらないように自分自身の仕事をこなしていた。人々の嘆く声、叫び声が聞こえてくる。もはや平穏な日常など崩れ去っていた。いったい何人の人達がわずか半日あまりで犠牲になったというのだろうか?  だが魔物の到来などは、崩壊の前触れに過ぎないのだ。魔物の襲撃を恐れてクロンの宿りからいちはやく逃げ出した人達はまだ幸運である。黒い空が運んでくるもの、すなわち太古の“混沌”そのものが押し寄せた時、間違いなくこの町は漆黒のもとに消えて無くなるのだから。 * * * 「ああ! いったい何なんだよ、こいつはぁ!」  宿屋〈緑の浜〉にて。ディエルは、今し方自分に襲ってきた、今となっては骸となっているものを足蹴にした。  ディエルとハーンが寝泊まりしている部屋に球状の空間が突如出現し、中から羽らしきものを幾多も持つ、鳥とも巨大な虫ともつかないような魔物が飛び出してきたのだ。魔物の突進を受けるより早く、ディエルは低い姿勢で一歩身を乗り出して、魔物の胴体あたりに手刀の鋭い一撃を見舞った。化け物の体はまっぷたつに裂け、床に落下して息絶えた。 「“混沌”の先兵どもめ。こいつらがこんな人の住むとこまで現れるなんて……!」  ディエルは魔物の死骸を放って、窓の外を見やった。昼下がりだというのに、外はまるで夕暮れ時のように暗い。なぜならば、上空を黒い空が覆い、日の光を閉ざしているからだ。 「黒い空……昨日まではまだまだ遠くにあったのに、今日になっていきなりこんなとこまで来てるなんてなぁ!」  ディエルの口調は余裕など全くなく、焦りが感じられた。  ディエルは神の使いである。アリューザ・ガルドを創り上げたアリュゼル神族のひとり、“力”を司るトゥファール神の使徒。世界に点在する“力”をトゥファール神のもとに持ち帰るのがディエルとジルに課せられている使命であった。  そんな彼であっても、目の当たりにする太古の“混沌”に対しては、なすすべがない。あの暗黒の中に入ってしまえば最後、自身は抗うことが出来ずに消滅してしまうだろう。 「ジルはまだ城のところにいるみたいだな。ジルのやつ、もう一回こっちに来てくれよぉ! オレの足だと城まで何日かかるか……もう迷うのは金輪際ごめんだし……どうすればいいんだよ?! くそぉっ」  ディエルは舌打ちをして身体を翻す。 「もうだめだめ! こんな“混沌”が来ちゃったら、オレの手には負えないよ。ここは逃げるしかないね! 馬でも盗ってきちゃってとっととジルに会って、一発こづいたらこの世界からおさらばしよう! うん、それしかない!」  自分を納得させるかのようにひとりごちると、彼はそそくさと魔物から離れ、扉の取っ手に手をかけようとした。  だが取っ手を回すのを躊躇する。がちゃり、がちゃりと取っ手を回す動作を繰り返すが、しまいにディエルはくるりと身を返した。 「……ああ、もう! なんでオレはこの兄ちゃんが気になるんだよ?! このさい“力”を取ることなんて気にしてる場合じゃないってのにさ!」  ディエルはハーンが寝ている枕元まで近づいた。ハーンがうめき声をかすかに上げて寝返りを打つのを見て、ディエルの顔がほころんだ。じきにハーンの意識が戻りそうである。 「ジルとおんなじように……オレもこの世界に入れ込んじゃってるっていうのか?」  ディエルはぽつりとこぼした。  その時、ハーンの両目がゆっくりと開いた。金髪の青年はけだるそうに首を左右に動かし、まわりを見渡す。 [あれぇ? ここって?]  がばりと毛布を跳ね上げて、ハーンは起き上がった。 [兄ちゃん、ようやっと目が覚めたようだね] [ディエルかい? ここはまさか……親父さんのとこかい?] [そうさ。兄ちゃん、あの化けもんと戦ったあとでぶっ倒れちまったからな。はっ! まったく、ここまで連れてくるのに苦労したんだからな!]  ディエルは、ハーンが倒れたあとの顛末を簡潔に語った。ハーンが倒れた原因は、ハーンの漆黒剣に細工を施したディエルにあるのだが、ディエルはおくびにも出さずに軽口を叩いた。 [そうか、戻って来ちゃったのか……今はいつなんだい?]  やや落胆した面もちでハーンが言った。 [あれからかれこれ三日経ってるんだよ。さあ、さっさと起きておくれよ! こんなことしてる場合じゃ……] [たしかにこうしてる場合じゃないよ。三日も経っちゃったなんて! とにかく早く出かけなきゃ! 行こうディエル、君には面倒を見てもらって、迷惑かけたみたいだしね]  言いつつハーンは衣装掛けから自分の上衣を取って着替え始めた。 [そうだよ、とにかく早く逃げ出そうよ!]  こんなとこでのんびり構えている場合ではない。“混沌”に飲まれる前に、ディエルは一刻も早くクロンの宿りから逃げたいのだ。 [……逃げ出すって? うわ! なんだこいつは?!]  ハーンが嫌悪の声をあげた。未だ体液を流しながら床に転がっている骸に気付いたのだ。 [死んでる……。しかしこんな化け物がどこから……?]  その時、がいん、という何とも重々しく鈍い響きが外から聞こえてきた。間髪入れずに雄叫びが上がる。  ハーンは窓に駆け寄って、おもての様子を見た。 [な……!]  言葉にならない。町の衛兵達や、見知った傭兵達が、異形の魔物達と戦っているのだ。すと、と槍の鋭い一撃が見舞われ魔物が倒れるところを、ハーンとディエルは目の当たりにした。そんな戦いの光景が、街のあちこちで繰り広げられているようなのだ。  そして何より、空を覆い尽くすのは漆黒そのもの。 [“混沌”が……こんなところにまで……]  思わず、ハーンはつばを飲み込んだ。窓の格子をつかんでいる腕が震えるのが分かった。 [なんて巨大で……忌まわしい空なんだ! “あの時”とはまるで比べものにならないよ]  そして、意を決したように両開きの窓を開け、今し方まで戦っていた戦士に叫んだ。 [そこの槍使いはリュスだろう?!]  魔物の死体を検分していた戦士のうち、槍を持っていた男が顔を上げた。 [ハーンか! 気がついたようだな! 目が覚めてんのなら、手を貸してくれよ!] [今から行くよ! だけどリュス、町のみんなに言ってほしいんだ。クロンから出来るだけ早く逃げ出すようにってね!] [大丈夫だ、ハーン! 俺達のほうが化けものどもを圧倒しているからな! これ以上こいつらが増えることもなさそうだし、そのうち全部退治出来るさ! そうしたら、避難してる町の連中も引き返してくるよ] [違うんだ! 僕が言ってるのは魔物達のことじゃない! 見えるだろう、あの黒い空のことだよ! あれが向かってきたら、何もかも全て無くなってしまうんだよ!]  大げさに身振り手振りを示しながら、ハーンも必至に声をあげた。リュスは何気なく上空を見つめる。 [……確かにこの空は嵐を呼びそうで薄気味悪いけどよ……] [嵐なんてもんじゃないよ、あれが呼ぶのは! もっと、もっと恐ろしいものだ! 頼む、みんなに言ってくれ!]  だがハーンの懇願もむなしく、リュスはまったく的を射ない面もちで、ぽかんとハーンを見つめるのみ。 [とにかくハーン、お前さんがいたら心強い。早く支度をしてくれないか? ま、もうじき片が付くとは思うけどな!]  リュスは右手を挙げて挨拶をすると、ほかの戦士達とともに走っていってしまった。 [だめだ、こんなことじゃあ、みんな“混沌”に飲まれてしまう!]  だん! と、ハーンは珍しく感情を露わにして、壁に拳をたたきつけた。ディエルは思わず肩をすくめる。 [ディエル。親父さん達は無事なのかい?]  ハーンは言葉の調子を落ち着かせて言った。 [え? うん、多分下の階にいるだろうけど] [分かった。……今何が起きようとしているのか、君にはわけが分からないとは思うんだけど、とにかく親父さん達と一緒に町の外に逃げてくれ。覚えていてほしいのは、必ず東の門から逃げるっていうこと。そのまま南に行けばスティンに行けるからね。西の門から逃げたら……絶対にだめだよ!]  横に倒れている魔物を気にしつつも、ハーンはそそくさと支度を整え、漆黒の剣を取り上げた。 [さあ、行こう。親父さんには僕から話を付けるから] [その後、兄ちゃんはどうするんだよ?] [ここからみんな避難するように呼びかけるさ。町長のバルメスさんにお願いをしてみる]  ここクロンの宿りが形成され始めたのは二百年前。サラムレから移住してきた人々の中にバルメス家があり、以来バルメス家は、この地に居を構えている名家として知られている。クロンが町と呼べるほどに成長したのも、かの一族の人脈と人望によるところが大きく、町長に推されたのは当然の成り行きであった。  来る者は拒まず、暖かく迎え入れる。はじめてハーンがクロンを訪れた時も、初老の町長は親身になって接してくれたのだ。ハーンは今一度、町長の恩にすがろうと思った。バルメスの一声があれば、町の人を全て避難させることくらいたやすいはずである。ハーンとしても、それ以外に手の打ちようがなかった。  階下では、〈緑の浜〉の宿泊者達とナスタデン夫妻が神妙な面もちで座り込んでいた。 [親父さん!] [ハーンか! 良かったぞ。気がついて何よりだ!]  ナスタデンはハーンが目覚めた喜びと、現状の不安が入り交じったような顔で、狼狽しながら話しかけてきた。 [しかしハーンよ。……気を落ち着けて聞いてほしいんだが] [分かってるさ。化け物が町中を荒らしている。“混沌”が近づいてきて、魔物達が跋扈《ばっこ》している、てことなんだろう?]  戦士として、毅然とした口調でハーンが言った。 [ハーン……。お前ってやつは、ふだんぼぉっとしてるくせに、時々とてつもなく鋭くなるんだな……]  ナスタデンは目をぱちくりして驚いてみせた。 [ともあれ、今朝からこの有り様だ……一体クロンはこれからどうなっちまうんだ?!] [親父さん、頼みがあるんだ]  ハーンはナスタデンの両肩にぽん、と手を置き、諭すように話し始めた。 [正直なところ、クロンの宿りはもう保たない。いずれ近いうちに“混沌”の闇の中に消え失せてしまうだろうからね。そこでお願いがあるんだ。聞いてくれるよね?]  ナスタデンは素直にうなずいた。 [ディエルを連れて……ああ、もちろんお客さん達も一緒に東門から出て、出来る限りクロンからは遠ざかっていてほしいんだ。僕はバルメス町長に、みんなを避難させるようにって話を付けたあとで、必ず親父さん達に追いつく。とにかく一刻を争うんだ!] [しかしハーン。……俺はここを手放すつもりはないぜ? もし、避難するにしても、色々と持っていくもんとかが……] [だめだよ!]  有無を言わせぬハーンの物言いは、恐ろしく威圧感に満ちていた。 [頼むから、僕の言うことを信じてほしいんだ。今すぐ逃げ出してくれ、お願いだから!]  雰囲気に圧倒されたナスタデンがうなずくのを見ると、ハーンは笑みを浮かべ、玄関の戸口へ向かった。 [じゃあディエル、あとで会おう! あ、そうだ、僕の部屋からタールを持っていってくれないか? あれがないと商売あがったりだからね] [あの楽器を持ってけばいいんだろ、分かったよ、兄ちゃんも気を付けろよな]とディエル。 [ハーン、お前の言うとおり、俺達は今から逃げ出そうと思う。が、気を付けろよ。化けもんが外をうろついてるからな。……しかしお前ってやつはほんと、とらえどころがないやつだなあ]  ナスタデンが言った。 [それがティアー・ハーンだからね! くれぐれも東の門からスティンに向かってちょうだいな、お願いだよ!]  念押ししたハーンは目配せ一つして、宿から出ていった。 三.  表に出たハーンは再び黒い空を見つめた。剣を持つ手がわなわなと震えているのは、怒りのためでも、恐怖のためでもない。かの漆黒を懐かしむ感情が心の底からわき出ている。そんな自分自身に戸惑っていたのだ。  そんな感情を払拭するかのように、ハーンは駆けだした。  町の通りには魔物達の黒い屍が至るところ転がっていた。時折、町のどこかから金属のあたる音が聞こえてくる。数こそ少なくなったものの、魔物達はまだ襲ってきているのだ。民家はどこも固く門を閉ざし、灯りを消して侵入者の襲来を拒絶している。だが、魔物どもはクロンの外からやって来たのではないのだ。彼らは、黒い空の下であればどこであれ、空間を渡ることが出来るのだから。屋内に突如として現れた魔物達の犠牲になった人々も多いだろう。 [お願いだから逃げてください! 東の門から出てスティンへと! クロンはもう保ちません!]  ハーンは喉が枯れんばかりの大声を張り上げつつ、ひたすら走った。一人でも多くの人が避難してくれることを願って。 (理解してくれる人などいるだろうか?)  詮ない願いでしかないのかもしれないのだが、諦めてしまっては助かるものも助からなくなる。この場で、状況を正しく把握しているのはハーンひとりしかいないのだ。  どこかで断末魔の悲鳴が聞こえた。何も出来ない自分が情けなく思えてくる。ハーンは泣き出しそうになっている自分を抑えるために、唇を固くかみしめ、ふたたび大声で人々に呼びかけた。戦い終わった戦士達が一瞬、ハーンの言葉に耳を傾けるも、とりたてて反応はしなかった。  小さな町だとは言っても〈緑の浜〉から町長宅まではかなりの距離がある。さすがのハーンも、人々に呼びかけながら走るのは堪える。途中、魔物が飛びかかってきたが、ハーンは光弾を飛ばして撃退した。  ようやく通りの正面にバルメス宅の白塗りの塀が見えてきた。しかし、そこに行くまでの通りを魔物が暴れていて邪魔をしている。がっしりとした四肢を持つ魔物のすがたは、熊のようでも猪のようでもありながら、そのどちらでもない。以前、ハーンがディエルを連れてスティンへ向かう最中に出くわした魔物と同じ種族である。  魔物はしかし、ハーンに向かわずに、赤い目を不気味に輝かせながら、道ばたで倒れている戦士めがけて突進していった。このままではあの戦士はやられてしまう! そう思ったハーンは力を振り絞って疾走すると剣で一閃、魔物を瞬時にして撃退した。 [……やあ……魔物達の状勢は……どうだい?]  荒く息を吐き出しながらも、ハーンは戦士に訊いた。戦士は一言礼を言うと起き上がった。 [まったく酷いもんだ! 一体どれくらいやられたのだか、見当がつかない]  彼は額に流れている血をぬぐって言った。 [でも町の中も、だいぶ落ち着いてきたようだ。化けもんどもはあらかた始末したんじゃないか?] [そう……お願いだから、町の人に呼びかけて一刻も早く東門から逃げて欲しいんだ。僕はこれからバルメスさんにかけ合ってくる] [町長さんだって?]  戦士は顔を曇らせた。 [無事だといいが……はたして大丈夫かどうか] [彼に何かあったのかい?]  戦士は、足下で未だ痙攣を繰り替えしている魔物に、忌々しげにとどめを刺した。 [こいつはな……バルメスさんのところから飛び出してきたんだ。……てことは、やられちまってるかもしれない]  そう言って顔をしかめた。それはハーンにとって、もっとも聞きたくない言葉であった。 [だけど、僕は行ってみる! まだ、そうと決まったわけじゃあないだろう?! とにかく、このままじゃあみんなやられちゃうんだよ! あなたも早く逃げてくれ! 東へ!]  再度忠告をして、ハーンは一目散に駆けだした。  門をくぐると、玄関の扉は無惨にもうち破られていた。ハーンは勢いをつけて扉を開けた。 「これは……」  館の中はまるで嵐が訪れたかのような酷い有り様だった。壁はいたるところで破られ、調度は壊されており、あの魔物がどのように暴れ回ったかが分かる。  玄関口付近で女中が一人伏していた。ハーンは駆け寄って抱き起こすが、すでに彼女はこと切れていた。ハーンは冷たくなった女中の手を握りしめ、黙祷を捧げた。 「せめて僕がもう少し早く目覚めていれば! 黒い空が見えた時にバルメスさんに会っていれば! みんな逃げられたのに! こんなことにはさせなかったのに……」  彼女を壁際に横たわらせ、もう一礼すると、ハーンはよろよろと歩き出した。目頭が熱くなるのを感じるが、感情を押し殺してハーンは駆けだした。  一つ一つ扉を開け、室内を見渡す。三つ扉を開けたが、中はもぬけの殻だった。しかし、四つ目の扉を開けた時、むせかえるような嫌な匂いが室内から立ちこめ、ハーンは思わず顔を背けた。血の匂いだ。  ハーンは覚悟を決めて向き直った。戸口付近に二人、テーブルに五人、多量の血を流して倒れていた。ちょうど食事どきだったのだろうか? 食堂に一家全員が集まったその時、あの魔物が姿を現したのだ。そして、バルメスの家族や住人達の逃げる間もなく――。 [町長! バルメスさん!]  声を裏返しながら、ハーンは血に染まったバルメスの身体を抱えた。だが、もはや言葉は返ってこない。伝わってくるのは、冷え切った肌の感触と、なま暖かい血である。ハーンの望みは絶ちきられた。 (あなたがいなくなって、どうすればいいのです?)  堪えていた感情が堰を切った。ハーンはバルメスの胸に突っ伏して嗚咽を繰り返した。  その時、窓から光が射し込んできた。太陽が姿を現したのだ。 (日の光が、死者の魂を清めてくれているみたいだ……。浄化の乙女ニーメルナフよ。イシールキアの妻よ。あなたの力をもって、これらの魂に救いを与えて下さい)  弔いの言葉を述べ、力なく座り込んだハーンは、呆然と考えた。 (日が差したってことは、これで黒い空は去ってくれたのか? でもなぜ突然明るくなったんだ?)  ハーンはゆっくりと立ち上がると、バルメス達に深々と黙祷を捧げて部屋をあとにした。ひょっとしたら最悪の事態だけは免れたのかもしれない。ハーンは淡い期待を胸に、館からのろのろと這い出ていった。  表に出たハーンは、日の光の明るさに目がくらんだ。上空は雲一つない青空になっている。黒い空は――波がひくように北へと戻っているのだ。ハーンは、泣きはらした目を拭い、とりあえず窮地を脱したことを実感した。が。 (――ちがうな)  ハーンの“知識”が、あまりに重い言葉を囁いた。  そうは言っても黒い空は見る見るうちに引き下がっているじゃないか、ハーンは陰鬱と安堵が混ざった頭で考えた。しかし次の瞬間、ハーンの顔色は真っ青になる。 「違う! あれは……あの空は還っていったんじゃない!」  黒い空は、波がひくように、すぅっとひいていった。  そう。あたかも、大津波が訪れる前に海の潮が大きく後退するがごとく――。 「この地域一帯を“混沌”の中に飲み込もうとしてるんだ!」  ハーンは最悪の絶望とともに確信した。  もはやハーンに出来ることは無くなってしまった。 (聖剣を持ったルードがここにいれば? いや、だめだ。あの剣は本来持ちうる力をまだ発揮していない。じゃあ、僕が“混沌”を抑えきるというのは? 無理だ。人間の体で抑えきれるようなものじゃあない!)  ハーンは、枯れ果てた喉をそれでも張り上げながら、住民達に逃げるようにと勧告し続けた。じき、クロンの宿りは濁流のように迫り来る“混沌”に飲み込まれてしまうのだ。  血にまみれた衣服を振り乱し、息せき切って駆け抜けるハーンを、人々は奇異の目で見つめていた。化け物がいなくなって、空も元どおりに戻ったというのに、この若者は何を必死になっているのだろう? ああそうか、親しい人が亡くなったので悲しみに暮れるあまり走っているのだ。かわいそうに。 [頼むから……逃げてください! はやく! “混沌”に飲まれる前に!]  ハーンの必死の懇願もむなしく、人々はただハーンを哀れみの眼差しで見つめるだけだった。  足下のぬかるみに足を取られ、ハーンは危うく転びそうになった。石の敷かれた通りを走っているというのに、なぜ泥を踏みつけているような感じがするのか、ハーンは訝しがって足下を見た。  地面が“混沌”の影響を受け、腐りつつあったのだ。ハーンの踏みつける石はぐにゃりとひしゃげ、彼の足下を危うくさせる。振り返ると、黒い空は北に引き返すのをやめていた。 (僕が外に出るまで、“混沌”の侵攻から持ちこたえられるのか?)  心臓の鼓動は悲鳴を上げ、とうに限界に達したことを主に伝えるが、ハーンは走るのをやめるわけにいかなかった。  やっとの思いでハーンは東門――二つそびえる石造りの監視塔まで辿り着いた。東門ではナスタデン達が衛兵達と話をしていたが、ハーンの息遣いに気付き、彼を迎えた。 [兄ちゃん、やっと来たね!]  ディエルの声にハーンは安堵した。だが、まだ腐らずに固さを保っている小石にけつまずくとその場に倒れ伏せた。 [こんなになるまで走ったってのか? 大丈夫かハーン]  ナスタデンはハーンを抱え起こして言った。 [だいじょうぶ……]  息も絶え絶えにハーンは言った。 [何が大丈夫なもんか。とにかく落ち着けよ、な? 化けもんも退治されたって言うし、もう戻ろうと思ってたところだ。宿に戻ったら休ませてやるからさ]  ナスタデンはにんまりと笑って見せた。ハーンは目を見開いてわなわなと打ち震え、宿の主人の裾をぎゅっとつかむと、大きくかぶりを振った。 [ハーン?]  ハーンの表情が冴えないのに気付いたナスタデンは、声の調子を落として語りかける。 [戻っちゃだめだ、親父さん! うっ……]  ハーンはそれだけ言うと激しく咳き込み、胃の中のものを吐き出した。未だ肩で息を繰り返しているハーンはそれでもすくりと立ち上がり、ナスタデンと対峙した。 [今は詳しく話している時間がないんだ……とにかく逃げよう! せめてあそこに見える丘まで辿り着かないと……]  門を出て二、三十フィーレ先にある小高い丘を示した。 [おい、なんだあれは?!]  衛兵達の声を聞いたディエルは町の中を見渡した。 「うわ……」  ディエルは顔をしかめた。大地は今まであったかたちを成さなくなっており、ぼこぼこと音を立てて腐っていく。 [兄ちゃん達、町はもう保たないぜ! あの空が引き返してくるよ!]  ディエルが叫んだ。  土が腐り、今までの固い地盤を失った家々は、徐々にではあるが地中に沈みつつある。町の中からは予期せぬ出来事に対し、再び驚きの声が聞こえてきた。  ナスタデンはおもむろに足下の石をつかんだ。石はまるで柔らかい粘土のようにどろどろになっていた。ナスタデンは苦虫をかみつぶしたような顔をして、気色悪い感触のする石をうち捨てた。 [せめて……これだけでも……救いになってくれれば……]  ハーンは胸の前で両手をかざし、聞き取れないような声で二言三言呪文を唱えた。すると手の間から、シャボン玉のような透明な球がぽうっとわき上がってきた。 [な……ハーン?!]  術の行使を目の当たりにして驚くナスタデンを後目に、ハーンはふわりと浮く球に向かってあらん限りの大声を上げた。 [クロンの宿りはもう保たない! お願いだから東門から逃げ出してほしい!]  言い終わったハーンは、ボールを投げ込むような要領で、言葉を吹き込んだ透明な球を町の中めがけて投げた。ハーンの手を離れた球はまるでそれ自身が意志を持っているかのように速度を上げ、町の中心と思われる辺りで大きく上に昇って弾け散った。そして球にこめられたハーンの声は、あたりにわんわんと響いた。 [これで少しでも多くの人が逃げ出せたらいいんだけど……]  意識が朦朧としつつあるハーンは、再びナスタデンの肩に寄りかかった。 [逃げよう、親父さん。ついに崩壊がはじまってしまった]  ハーンが指さす方向。一度は引いたと思われていた黒い空が、再び押し寄せようとしていた。しかも今度が空だけではなく、大地をも染めんとばかりに、漆黒の空間をともなって。 [……分かった。逃げよう]  ナスタデンは幾多ものこみ上げる感情を抑えつつ、短く言い切った。 四.  その瞬間。 [あああっ……]  叫び声、泣き声、驚きの声――。丘に登った人々の多くは何かしらの声をあげ、自分自身の感情を露わにしていた。  クロンの上空まで黒い空が迫って来る前に何かしらの反応を示せばよかったのかもしれない。  黒い空がクロンの上を覆った時点で、事態の異常さを把握するべきだったのかもしれない。  せめて土が腐ってきた時、全住民が逃げ出す支度を整えておくべきだったのだ。  だが全ては遅過ぎた。  黒い空の下、クロンの宿りの土壌はどろどろに腐り、建物を解かし、住んでいる人もろとも飲み込んでいく。そして全てが無くなる前に、漆黒の空間が大きな津波のごとく、しかし音もなく押し寄せ、クロンの町をひと飲みした。  クロンの宿りは漆黒のもとに消え失せたのだ。  状況を把握出来ないままクロンに残っていた人々の断末魔の叫びを、丘の上の彼らは聞いたような気がした。丘のそこかしこから嘆き声があがった。 [ぐぐぅ……]  ナスタデンはもはや言葉も出せず、わなわなと震えながら涙した。 [宿だけじゃねぇ……フロートのとっつあん……ウルの家のみんな……ほかにもだ! みんな……みんな、あの中にいるんだぜ……]  大柄な主人はがっくりと膝をついた。  その肩をぽんと叩き、 [せめて僕達が助かっただけでもよかったって思わなきゃ……。じきにここも“混沌”に覆われる。はやくスティンの人達にこのことを伝えなきゃならないよ。ね? 親父さん]  自身も目を潤ませつつ、ハーンは言った。ナスタデンは嗚咽しつつも弱々しくうなずいた。ハーンもそれ以上語るべき言葉が無く、背中を向けて馬に乗った。 [行こう。スティンへ]  ハーンはディエルの頭を優しげに撫でた。ディエルは、いつもであれば鬱陶しげに手をはねのけていただろう。しかし今は、撫でられるままに、現前した漆黒を無表情に見つめるのみであった。 § 第六章 サイファ達の出立 一.  七月五日夕刻。午前中まであわただしかった宮中も、烈火が進軍を開始した今は、いつもの平穏さを取り戻している。  ぱたり、と音を立てて、フェル・アルムの千年が綴られた歴史書が閉じられる。 「『全ては神君ユクツェルノイレの思し召しのままに』……。よく使われる言葉だからといって、思し召しとやらを全て鵜呑みにしてしまっていいんだろうか?」  図書室の中、誰に言うでもなく、ルイエはこぼした。 「アリューザ・ガルド、とか言ったかな、ジルは……」  言語の変化、化け物の襲撃、司祭の神託、そして烈火の決起――この数日めまぐるしく彼女の周りに起こった異変。  現ドゥ・ルイエは、政治家としての才覚こそ凡庸であったかもしれない。しかし彼女には、伝統と常識を重んじてきた歴代ドゥ・ルイエ王にはない資質があった。  ルイエは隙を見ては城を勝手に抜け出し、近隣都市で色々見聞を深めていた。王宮の図書室では決して感じ取ることのない、町中の喧騒や、旅商達の世間話、農作物の出来映えや、ユクツェルノイレ湖の魚の捕れ具合など。侍女や側近の者達をはらはらさせながらも、二日や三日戻らないことはざらにあった。だが彼女が城外で体験したことによって、社会の雰囲気を読みとる鋭敏な感覚を自然と身につけていったのだ。  そして彼女はその感覚を信じて、国王ルイエとしてではなく、フェル・アルムの住民サイファとして行動を起こそうとしているのだ。  図書室を後にしたルイエは、決意を胸に自分の部屋に向かっていた。 (確かめなければならない。烈火がどのように行動するのか、そしてデルネアの思惑は何なのか……。自分の目で!)  ルイエは思った。フェル・アルムに何が起ころうとしているのか、確かめたかった。そのためには、ルイエの名は邪魔でしかない。今、王の居室に向かっているのは、サイファというひとりの女性だった。  デルネアも、〈隷の長〉こと司祭も、彼女の行動は予期出来なかった――。 * * * [ええっ!?]  扉の向こうから聞こえてきたのは、普段は冷静なリセロの声だった。 『人を払い、ルイエの部屋の中での会話をほかの者に聞かせないように』  と、ルイエから命令を受けていたキオルは、自分自身も話の内容を聞かぬように律していた。今のリセロの大声を聞いたキオルは、大声が聞こえないようにと扉からさらに遠ざかった。 (陛下……。また無茶をおっしゃってるに違いないわね……)  無茶を聞かされているであろう執政官に、内心同情した。  今回はただの無茶ではなかった。ルイエは――サイファは、こんな折だというのに旅立つと宣言したのだから。 [へ、陛下それは……あまりにも無茶というものです]  こうも狼狽えるリセロは見たこともない、と王の部屋に立ち入ったもう一名、近衛隊長ルミエール・アノウは思った。対するサイファは椅子に深々と腰掛けて、そんなリセロの様子を見ていた。 [そんなに無茶か?] [当たり前でしょう!]  間髪入れずにリセロは言い、大きく息をついた。  リセロは『言葉』を変え、 「このように失われた言葉をしゃべるようになったり……」  また戻し、 [化け物の出現が報告されるようになっているという時期なのですよ?!] 「それなのに陛下は、このアヴィザノをお離れになるとおっしゃる。なぜです!?」  興奮するあまり、失われた言葉――アズニール語――をしゃべっていることにリセロ自身はまったく気付かなかった。 「なぜ……か」  サイファも言葉を変えて話した。不思議なことに、こちらのほうが話していて違和感が無いように感じられるのだ。 「フェル・アルムに起きている異変を見るため。それと、烈火達の行動をそれとなく見るため……かな」 「そのようなこと、陛下がわざわざ出向かずとも、疾風などに任せればよいことではありませんか?」 「いや、違うなリセロ。私自らの目で確かめる、というところに大きな意味があるのだ。混乱している今だからこそ、椅子にふんぞり返るのではなく、外に出て状況を確かめるべきだと、私は考えるのだ。何より、実情を知らなければ、どうするのが最善の策なのか、判断がつくはずが無かろうに?」  その言葉を聞いて、リセロはぐっと押し黙った。 「それに……」  サイファは言葉を続ける。 「私が一番心配しているのは、ほかでもない烈火だ。彼らが――何よりデルネア将軍が何を意図して行動を起こしているのか、私がアヴィザノに留まっていては何も分からない。だから私は旅立ちたいのだ。いざとなれば、将軍を差し置いて烈火に指図出来る立場にあるのがドゥ・ルイエだからな。そのためには身をやつして、遠巻きに烈火を監視しなければならない」  今度は、リセロは反対をしなかった。サイファの決意が固いものであり、それを覆すのは容易なことではないというのが分かっているから。何より今回の勅命に関しては、執政官という立場を離れた一個人としては、心中納得出来ないものがあった。それはサイファも同じだろう。自らの意思と反する神託を受け入れ、命令を下したのだから。だが、一家臣の立場上としては、やはり今回の決意には反対せざるを得ない。 「陛下がご不在とあれば、行政はどうすればいいのです?」 「……ルミ、そなたドゥ・ルイエの代行を務めてみる?」  サイファはさらっと言ってのけた。 「え……」  いきなり話を振られ、当惑するルミエール・アノウ。しかも、サイファはあえて『ルミ』と呼んだ。今のサイファは、君臣の間柄ではなく、友人として彼女と接しているのだ。 「私がルイエ代行……そんなの駄目に決まってるでしょう?」 「やっぱり駄目か?」 「無理です」とリセロ。 「陛下とアノウ殿が親戚の間柄だとはいえ、アノウ殿は近衛隊長。近衛隊長は政治を取り仕切る権限を持ちませんし、もともとドゥ・ルイエ皇をお守りする職務であるがゆえに、ドゥ・ルイエ代行を務めるなど許されていないのです」 「私が命令を出してもか? 近衛隊長にドゥ・ルイエ代行の権限を与える、と……」 「え……!?」  顔を引きつらせたまま顔を見合わせるリセロとルミエール。どうやらお互いの考えるところは一緒だったようだ。 (この人はどこまで無茶を通す気なのだろうか)と。 「……冗談だ。私とて、しきたりをねじ曲げるまでの横暴はしないよ」  二人の心配をよそに、サイファは言ってのける。 「まあ、どのみちドゥ・ルイエの代行は立てられないということか。……ならばこれはどうだろう? 私は病床に臥せってることにして、ルイエ抜きで行政をする。凡庸な私などより、そなたのほうがよほど優れていよう?」  リセロはかぶりを振った。 「陛下のお考えの中には、旅を取りやめて、ご自分が政を取り仕切るというのは無いのですか?」 「無い。さっきからそう言っている」とサイファ。 (やはり、この方は考えを曲げないか……)  執政官クローマ・リセロはついに折れた。 「分かりました。中枢の行政については私が取りまとめます」  言葉を聞いてサイファは、ぱぁっと表情が明るくなった。 「すまないな、助かる!」 「……今、御身がドゥ・ルイエ皇としてではなく、サイファ様として私に話しているように、私も執政官としての立場を置いてお話をしたく存じますが、よろしいですか?」  サイファはうなずいた。 「では申し上げますが……私もサイファ様とほぼ同じ考えを持っています。フェル・アルムの行く先も心配ですが、今は烈火の動向が恐ろしい。陛下に絶対忠誠を誓っている彼らとはいえ、何をしでかすか正直分かりませんし――」  リセロは声を落として言った。 「あのデルネア将軍……どうも信頼を置きかねます。何か裏があるような気がしてならないのです。……ですから、サイファ様には彼の真意をなんとしても見届けて頂きたい」 「ありがとうリセロ。私が旅立つのを理解してくれて嬉しく思う」  サイファは立ち上がり、彼の手を握り締めた。 「まあ、執政官としては、頑として反対なのですがね」  リセロはやや照れながら言った。 「それはさておき、あなただけで旅立たれるのはどうかと思います。今回は散策というよりは旅……いや、冒険ともいえる行いなのですから、女性ひとりというのは危険過ぎます。フェル・アルムが混乱している今、どんな危険に巻き込まれても不思議ではありません」 「ひとりでは駄目だと?」 「はい。すみませんが、承諾いただかない限りは、私は家臣としての私に戻って、あなたの行動に反対しなければならないでしょう」 「なら……」  サイファは何か言いたげにルミエールを見つめた。 「まさか……、私が?」 「そう。一緒に来て欲しい。これは君命だ」 「ずるいわよ。こんな時に立場をちらつかせて。近衛兵としてあなたを護る身としては、従うしかなくなるじゃないの」  口を尖らせて抗議するルミエール。だが、本心からではないのは明らかだ。 「リセロ。これで問題ないだろう?」 「……確かにアノウ殿の剣技は宮中でも指折りですから、御身の護りとしては最適でしょう。しかし、若い女性二人だけで国を旅するというのは、奇異の目で捉えられがちと思いますし……その……何かと危険が伴いましょう?」 「だったら、わが隊のマズナフを加えましょう」  とルミエール。 「エヤード・マズナフ殿ですか。サラムレの剣技大会優勝者の彼が加われば、サイファ様の護り役としては申し分ない」 「それもありますが……私達とは、親子ほどの年齢の開きがありますから彼を、と考えたのです。彼が父親役を演じてくれるのなら、家族で旅をしているだの、家を失って放浪中だの、色々言いわけが出来ますよ。まあ、国王と近衛兵が旅をするなんて、人は想像だにしないでしょうけど」  そう言ってルミエールはころころと笑った。サイファもつられて笑みがこぼれる。 「では、明朝の前二刻、北の城壁の尖塔あたりで落ち合おう。マズナフにも言っておいてほしい」 「分かったわ」とルミエール。 「エヤードも、いきなりこんなこと聞かされてびっくりするでしょうけど、元来は旅が好きな人ですから、きっと快く承諾してくれると思うわ」  君命だしね、そう付け加えてルミエールはサイファに目配せした。 「ルミ、ありがとう」  二人の心遣いに心動かされるものがあったのか、その声はやや震えていた。 「リセロ。迷惑をかけるな。……やはり私は国王として失格なのかもしれない……。しかし、こうしなければ後悔するに違いないのだ。だから……」 「おっしゃられるな、陛下」  激するサイファの言葉を遮り、リセロは優しく言った。その言葉は深くサイファの心に刻まれ、サイファが後に回顧するたびに励みとなるものだった。 「やはりあなたの行いこそ、ドゥ・ルイエ皇として真に相応しいものであります」 * * *  翌朝。サイファ一行はアヴィザノを後にし、烈火の足跡を追うことになった。  ユクツェルノイレ湖を左手に見ながらサラムレへ、そしてスティンへ。そのようにデルネアと烈火は向かうだろう。広大な平原を北に伸びる街道を見つめていると、烈火の進軍から一日経ているというのに、舞い上げる埃の中、真紅の一団が行軍する様子が目に見えるようであった。満悦したデルネアの顔すら浮かんできた。  サイファはそのまま目を上方に向ける。禍々しい黒い空が青空を確実に侵略しつつある。 (あの黒い空の中に何があるというのだろう?)  そう思いつつ、サイファは胸元の珠《たま》を握った。ジルから貰った珠の周りに装飾をつけ、胸飾りとしたのだ。  出立の前に一言ジルに言い残そうとも思ったが、やめておいた。ジルがいれば、自分はすっかり頼りきってしまうだろうから。彼を頼るのは、いよいよ押し迫った時でよい。それまでは自分達の力だけで切り開いていきたいのだ。 「さあ、エヤード、ルミ、行こう!」  サイファの一声にエヤード・マズナフとルミエール・アノウはうなずき、街道を歩き始めた。これは烈火がアヴィザノを離れ、北部クロンの宿りを絶望が覆いつくした翌日の朝のことであった。 二.  ドゥ・ルイエ皇が絶対的な力を持つなどというのは幻想に過ぎない。その権限をもってしても、国王の望むがままに物事が進むというわけでは、決してないのだ。  歴代のドゥ・ルイエの中には、そのことが分からない者もいたが、専制の果てに得るものなどたかが知れていた。  サイファは、ルイエとして自身の至らなさを知っていた。本来の意に反して烈火を発動させてしまったのは、その最たるものである。しかし、その至らなさを自覚していることこそ、サイファの強みでもあったのだ。しがらみに縛り付けられることなく、サイファ自身として行動することが出来る。  デルネアの思惑とは?  自分自身がルイエとして、為すべきことはあるのか?  そして、フェル・アルムの行く末はどうなるというのか?  サイファは、旅の果てにそれらの答えを見いだせるような予感を確かに抱きつつ、街道を歩いていた。  汗を拭いつつ「冷たいものが飲みたい」とぼやく“姉”の様子に、黙々と前方を歩く“父”の様子に、サイファは思わず顔をほころばせる。ともすれば不安になりがちなサイファに心強さを与えてくれているのは、彼らにほかならないのだ。  アヴィザノからサラムレへと延びる街道は交通の要所として整備がなされており、こと帝都アヴィザノ付近においては特に念入りである。石畳が隙間なく、奇麗に敷き詰められているのだ。しかし今の季節ともなると、昼下がりの日差しが容赦なく石畳に照りつける。徒歩で移動する者達にとっては酷な夏である。  サイファと肩を並べるようにして歩くルミエールは、興味深そうに景色を眺めている。ルミエールが近衛隊長に着任して六年。アヴィザノ周辺の景色は飽きるほど見ているはずだ。しかし日頃の緊張感からの解放により、ルミエールの気分は開放的になっているようだ。  もうじき街道に沿うようにして、神君を奉ってあるユクツェルノイレ湖が見えてくる。その時の彼女の表情を見てみたいものだ。その美しい景観を前にして、おそらく彼女は諸手をあげて喜ぶに違いないだろうから。  エヤードは前方をひとり歩く。黙して語らないものの、時折ちらちらとサイファ達の様子を窺う。がっしりと筋肉のついたその背中を見ていると、不思議な感覚にとらわれそうになる。頼りになる背中は、まるで――。  旅をしているこの三人は、何と奇妙な取り合わせなのだろうか。そう思ってサイファはふと笑みを浮かべた。道行く商人達も、畑を耕す農夫達も、よもや国王が近衛兵二人を連れて、こんなところを歩いているなど思いもしないだろう。 「サイファったら、何を笑っているの? どこかに面白いものでも見つけたのかしら?」  ルミエールがにこやかに話しかけてきた。王に対する臣下の言葉遣いではない。幼なじみとして、親しい間柄として話しているのだ。言葉の変遷や化け物の出現――南部域が混乱に見舞われている最中、三人の旅の道程は決して容易ではないはずだが、ルミエールの快活さは宮殿で奏でられるタールの音色のごとく、サイファの心の焦りを落ち着かせる。 「なんて言うか……ルミとエヤードを見てると、どこか可笑しくなってしまうんだ。私達はいったい何なんだろうな、と思ってしまうとつい、ね。何しろ、普段の私達では考えられないことを今やっているのだから」 「確かに可笑しいかもしれないわね。……ねえ、父上はどう思いますの?」  ルミエールはエヤードに訊いてみた。 「こういう関係っていうのも新鮮な感じがして、面白いと思わないかしら?」 「え……はぁ」  父上、と呼ばれたエヤードは立ち止まって、煮え切らない言葉を返した。 「はっきりしないな」  サイファがこぼすのを聞いて、エヤードは平謝りした。 「は、申しわけありません。お二方の言われるとおり、たしかに普段では考えられない行動をしております」  エヤードの言葉を聞いた途端、サイファとルミエールは吹き出した。 「堅いな、エヤード……。世間一般に考えてみて、父親が娘に対して、そのような言葉遣いをするものなのか? それこそ可笑しくないだろうか」  自分自身の言葉遣いが普段と変わらないのは棚に上げて、サイファは揶揄した。 「そうだ、私のことを呼んでみてほしいな。父上は私のことを何と呼ぶのかな?」 「あ、だったら私も一緒に呼んでよ、父上!」  二人の娘は父親にそうお願いごとをすると、顔を合わせてくっくと笑い出した。  当のエヤードは困惑した表情を浮かべて二人を交互に見る。今までであれば、かたや君臣の間柄であり、かたやルミエールとも上下の関係が存在しているというのに、いきなり『娘として呼べ』というのも酷なことである。元来の隔たりが大き過ぎるというのに。 「……サイファ様、それに隊長……勘弁してくださいよ」  エヤードは漏らしたが、二人の娘が認めるわけもない。 「勘弁ならないわね。私達は家族として旅をしているのよ。そんなことでは烈火に追いつく前に尻尾が出てしまうわ。さあ、目的遂行のためよ、堪忍なさい!」  言いつつ、ルミエールはサイファに目配せする。サイファは、“姉”の意図するところを感じ取ってうなずいた。 「ならばルイエとして、エヤードに命令を出してしまおうか? ルミと私のことはきちんと名前で呼ぶように、とな。何しろ家族なのだから……宮中での関係というものは、この際さっぱり忘れてほしいんだ」  マズナフ一家として旅をする――それは、アヴィザノを出発した後、道すがらルミエールが案を出したものだった。烈火達を追うというのはまさに隠密行動であり、それが明るみに出るなどは絶対に避けなくてはならないのだ。国王と道中を護る近衛兵という本来の立場は、烈火とデルネアの思惑が知れるまでは隠し通さねばならない。  そのために家族を演じる。父親役がエヤード、姉がルミエールで、妹がサイファ。  いささかの戸惑いはあるものの、いずれ慣れることだろう。  何より――心地よいのだ。本来の目的のために、家族というものを演じているに過ぎないはずなのだが、しばしば本当の家族であるかのような錯覚さえサイファはおぼえた。 「分かったよ、ルミにサイファ。お父さんについてきなさい!」  エヤードはそこまで言うと文字どおり顔を真っ赤に染め、くるりと向き直るとぎこちなく歩き出した。 「父上……照れ屋なのね」  父の背中を見ながら、二人の娘は再び吹き出した。  三人には、家族と呼べるものがいない。  サイファは六年前に父王をなくし、母親は――サイファが物心つく前に亡くなっていた。  ルミエールも同様。代々優れた騎士を輩出しているアノウ家は、ドゥ・ルイエと血が繋がっている。しかし、今やアノウ家は、ルミエールひとりとなってしまっている。十三年前、アヴィザノで起きた悲劇のために。術の力に覚醒した者達が、自らの魔力を制御しきれずに暴走させてしまった結果、アヴィザノ市街の一部は破壊されてしまった。その際に、ルミエールは幼くして両親を失っているのだ。  エヤード・マズナフはかつて、フェル・アルム各地を巡り歩く戦士だった。剣士の名声を高めていき、ついに近衛兵に抜擢されたのだ。ドゥ・ルイエを護るという名誉ある職務。だが天涯孤独の寂しさは、けっして拭い去ることが出来ない。  今、三人は、忘れかけていた暖かみを、確かにつかみつつあった。ともすれば挫けそうになる自分達に、強さを与えてくれる暖かみを。 三.  白銀の髪と、それに対照的な深紅の衣に身を包み、聖獣カフナーワウを従える英雄。その者こそユクツェルノイレ。大いなる神君にして、大地の神クォリューエルの息子。  ユクツェルノイレは“混沌”たる大地に平和をもたらし、唯一の国家フェル・アルムを建国した。今より千年も昔のことである。神君と称されるかの王の統治は百六十年の長きに渡り、崩御した後はアヴィザノ北方のアヴィザノ湖に水葬された。アヴィザノ湖はユクツェルノイレ湖と名を変え、現代に至っている。そして今なお神君は、フェル・アルム全土を見守っているのだ。  フェル・アルムの民であれば知らない者などいない伝承であり、数ある歴史書の冒頭には必ず記されている事柄である。  しかしながらサイファには白々しく思えてならない。 * * *  混乱のまっただ中にあるフェル・アルムにおいて、ここユクツェルノイレ湖は、あいも変わらず紺碧の水をたたえている。神秘的なその眺めを見れば、神君が今もフェル・アルム全土を見守っているように感じよう。そしてまた、昨今の忌まわしい出来事こそ、偽りであるかのようにも。  湖畔には多くの人々がつめかけていた。彼らは一様に手を組み、ひざまずいて、湖に浮かぶ小島――偉帝廟《いていびょう》に向かって祈りを捧げている。神の名において中枢の騎士達が動き出したのだから、これでフェル・アルムは救われる。何も恐れることはない。神君が救ってくださるのだ。  そのような救いを信じて、人々は無心に祈りを捧げている。  サイファは小高い丘から湖を見下ろしつつも、神君と呼ばれた偉大な王は実在しないのではないか、とあらためて確信していた。 ――ここフェル・アルムは、もともとはアリューザ・ガルドという世界の一部なのだ。今は隔絶されているが、本来の世界に戻るべきなのだ――。  トゥファール神の使徒であるジルと出会い、彼の力を目の当たりにしてから、サイファの価値観は大きく変わった。唯一の真実であると思われていた事柄が、虚構に塗り固められていたのに気付かされた時、サイファは衝撃を受けた。だがそれ以上に、彼女は衝動に駆られた。その衝動は今もサイファを突き動かしている。 「……神君が実在しない、と言ってたわよね?」  ふと漏らしたルミエールの言葉が、まさに今の自分の思いと重なったために、サイファはひどく驚き、目を丸くしてルミエールを見た。 「驚いた! 私は、今まさにそのことを考えていたんだ」  そう、とルミエールは豊かな紺色の髪をかき上げて、相づちを打った。 「あなたがそのことを言った時、私には信じられなかったわ。今までの歴史、それに王家自体も否定しかねない言葉だったのだからね」 「どこの文献を見ても、そんな突拍子もないことは載っていない。神君の存在うんぬんは、あくまで私自身の考えだ。サイファとしての、ね。だが、それこそが真実の一片であるような気がしてならない」  サイファは顔を曇らせた。 「だけれど、もしかりに私がこの旅の果てに真実をつかんだとして、それが今までのフェル・アルムを否定しかねないものだとしたら……真実を語るべきだろうか。ドゥ・ルイエとして私はどうすればいいのだろうか?」 「あなたの臣下であるアノウとしては、陛下の望むままにするべきだ、と答えるでしょうけど……」ルミエールは言った。 「それはあなたの望んでいる答えではないでしょう?」 「そう」サイファはうなずいた。 「ルイエの立場というのは、時として私を不安に陥れる。私のごとき若輩者の一言によって国家を、人々を動かしてしまっていいのか。私は……自分自身がよく出来た人間だとは、とても思っていない。そんな者が……」  ルミエールは静かに首を振った。 「『あなたの行動こそルイエに相応しいものだ』そうリセロ様がおっしゃってたわよね。覚えてる?」  サイファはうつむいたまま、小さくうなずいた。この旅を決意した時に、執政官クローマ・リセロが言った言葉である。 「私も同じよ。あなたが今やろうとしていること、それが結果的に今までの歴史を否定することになるとしても、別にいいじゃない。昔のしがらみにとらわれることなく、真実を見つめるべきだと、私は思うわ」ルミエールは湖を見つめた。 「とは言っても、今はそれを人々に明かすべきではないと思うの。今、混乱に陥ってる中で、人々はすがるものがほしいのよ。それを否定することは出来ないわ。たとえそれが偽りであったとしても……ね!」  不意にルミエールは、うつむいたままのサイファの背中を思い切り叩いた。 「痛っ!」  思わず転びそうになったサイファは、背中をさすりつつ、ルミエールをうらめしそうに見る。 「何をするんだ、ルミ!」 「気合いをつけてあげたのよ!」  ルミエールは笑った。 「大丈夫、いずれ時は来るわ。全てがうまくいくようになる時が。それを今は待ちましょう。……とにかく自信を持って。サイファ、あなたの眼差しが自信に満ちあふれている時こそ、あなた自身も輝いて見えるのだから。ルイエとしても、サイファとしても」  さすがに照れくさくなったのか、ルミエールは思わずそっぽを向いた。サイファは照れている姉の肩をぽんと叩いた。 「……ありがとう、ルミ。私なりに頑張ってみる。まずは真実が知りたいのだ!」  真摯な眼差しと、毅然とした口調。サイファは決意のほどを新たにしていた。デルネアが鍵を握っているような気がしてならない。そのためにも、自分達は烈火を追う。  真実をつかむこと。それこそがサイファを動かしている衝動にほかならない。 「見て! サイファ」  ルミエールが指さした方向を見ると、湖の遙か対岸では、もうもうと砂塵が舞っている様子が見てとれた。 「あの砂塵が人の群によるものだとしたら、尋常ではない数ですな。その数、千人はゆうに数えましょう」  未だ父親役に慣れないエヤードは、普段の口振りで言った。 「そうすると、あれはやはり烈火の行軍しかありえないかな。“父上”?」  サイファが“父上”の箇所をことさら強く言ったため、エヤードははっとなった。 「はい、そうだな。ええと、あれが烈火だとして、彼らがこのままの調子で行軍を続けたとして、明日の朝にはサラムレに入りましょう……だろう!」  しどろもどろになりつつも必死にエヤードが説明をするものだから、サイファは吹き出してしまった。ルミエールも笑っている。 「ただ、大軍であるゆえに、必ずやサラムレでは補給を行うだろう。大丈夫、まだまだ追いつけるさ」  気を取り直し、エヤードは言った。 「私達も湖で休憩したら、再び彼らを追うことにしよう」  サイファはそう言って丘を下りはじめ、振り返ってルミエールに呼びかけた。 「ルミも早く来るがいい。水辺はさぞかし涼しいことだろうからな!」  神君などいない。  湖畔にて祈りを捧げている人々にそのことを告げるのは残酷でしかない。それが真実だとしても、一片の希望に全てを委ねている人々を絶望の淵に追いやる真似など、王であるルイエとして出来るわけがない。  その一方でサイファ自身としては、盲目的に信仰する人々が痛ましく思え、全ての真実を彼女が知ったあかつきには一刻も早く伝えたい思いもある。人々を目覚めさせることこそ、真の救いにほかならないのだから。 (しかし、今は押し黙るしかない。全ての事柄に決着が付き、平穏を取り戻したその時こそ、私は神君に誓って、真実を語るのだ)  サイファは、自分が誓ったことの矛盾に気付き、苦笑を漏らした。そして、心の葛藤をうち払うかのように、湖に向けて走りはじめた。 § 第七章 スティンを目指す 一.  水の街サラムレを後にしたルード一行は、大河クレン・ウールンを左手に見ながら、スティン高原へと続く東回りのルシェン街道を進んでいた。夜を徹し、まる一日馬を走らせた彼らだが、二度目の朝を迎える頃には疲労の色が強く、一休みする必要があった。  そんな折り、家の並びらしきものが朝日に照らされて陰をつくっているのを見つけた。休息の場所を求めて入り込んだところが、この廃墟だった。  十三年前、この地域一帯では中枢の戦士達と反逆者ニーヴル達とによる、最後の凄惨な戦いが繰り広げられていた。戦いの場、すなわちウェスティンの地と呼称される平原には、あちらこちらに小さな村が点在していた。ここもそんな不幸な村の一つである。  赤い鎧の戦士達が反逆者を追い込むために放った炎と、抗うニーヴル達が己の力で作りあげた火球が渦を巻き、平穏に過ごしていた村々を焼き払う。哀れな住民達は、ニーヴルによって殺されたのか、使命遂行せんとする烈火達の巻き添えをくらったのか、今となっては知る者などいない。  ただ明らかなことは、戦火に巻き込まれたその村からは、災いによって深い痛手を受けた人々が一人、また一人と立ち去り、ついに村からは人がいなくなったという事実のみである。後に残ったのは、焼かれて緑を失った木々と、もとは石造りの家であったがれきの山――つまり廃墟であった。 「酷い……わね」  ルードと肩を並べて歩いていたライカは、銀髪をさらりとかき上げてつぶやいた。 「確かにな」とルード。 「ここら辺一体はみんな焼かれちゃったんだな……俺も小さかったから、よくは覚えてないけど、こんなに酷い有り様だったなんてな」  ここはルードの生まれ故郷なのだ。二人は周囲を見渡しながら、人気のない小道をとぼとぼと歩いていた。まるで時間が動いていないかのように、十三年前の戦禍を未だ色濃く残している場所。だが、時間はしっかりと、確実に動いていたのである。  破れさびれた村の跡地が自らの故郷であることを知ったルードにとっては、ふるさとに戻れたことは嬉しくもあり、またつらくもあった。が、十三年という歳月と、何より今の自分に課せられた使命とによって、彼は目の当たりにしている現実と向き直れるほど強くなっている。ルードは深く頭を垂れて黙祷を捧げると、気遣う〈帳〉やライカを逆に励まして、ひとときの眠りについたのだ。  二、三刻も過ぎて、夏の日差しがまともに照りつけるようになると、たまらずルードは眠りから覚めて、ライカとともに村を見て回ることにした。二人はしばらく休息地の辺りを廻るように歩いていたが、ライカが小道の跡を見つけ、村の北のほうへと足を向けた。 「そう言えば、あの木……」  ルードは立ち止まった。前方に見える木、いや、かつて木であったものから、何かを思い出した様子だ。 「あれね。かなり大きな木だったのね」 「そうだな。何となく俺は覚えてるよ。でっかい木がぽつんと立っててさ、木登りしたり木の実を取ったり……色々したもんだ。でも、まだあの木だって生きてるぜ」 「セルアンディルのあなたには、土の力が木に流れ込んでるのが分かるから?」 「それもあるけどさ、ほら、よく見てみなよ」  かつて焼かれ、もはや幹しか残っていない大木であるが、生きることを続けるために、ごつごつとした根をしっかりと幾多にも下ろしていた。緑を生い茂らせていたであろう枝々は無くとも、それでも樹皮をぬって新しい緑が芽生えようとしていた。 「ふうん……ちゃんと生きてるのね」  ライカは素直に感嘆した。 「でっかい木じゃあなくなっちゃったのが残念だけどね。でもあの木が、俺が遊んでた木だとしたら……お、そうそう。その向こうには池があったんだっけ!」  幼い頃にかすかに残っている自分の記憶を頼りに、ルードは懐かしそうにうなずいた。 「俺はよく覚えてないんだけどさ、池の中のでっかい魚を捕ろうとしてたらそのまま落っこちちゃったらしいんだ。がばがばって溺れてるのをどっかの爺さんに助けられたって、ニノ叔母さんから聞かされた。『お前のいたずらぶりはその頃からはじまってたんだね』ってね!」 「ふふ……」  和んだ空気が二人を包んだ。 「っていうことはだ、あの木の向こうに残ってる家が……俺の家ってことになるな!」 「ルードの家?」 「そうさ、俺の家だよ! ライカも来いよ!」  にっこりと笑って、ルードは走り出した。 「へえ?」  生家に辿り着いたルードは、周囲を見て喜んだ。誰もいないと思われていたこの廃墟だが、実のところ人々が生活を営んでいたのだから。  ルードの家の辺りはまだ戦争の被害も少なく、多くの家が残っている。そんな住む人のいなくなった家々に、いつの頃からか人が集まりだしていたのだ。今では町を形成しているクロンの宿りが、そもそもは人々が寄り集まることからはじまったように、ルードの生まれ故郷は、新たな住人達によって生まれ変わろうとしているのだ。 「人の寄りつかないところだとばっかり思ってたけど、人が住み着き始めてるのね。ねえ、ルードの家はどれなの?」  ルードは目の前にある堅牢な石造りの家を指した。蔦に覆われている煙突からは、昼食時だからだろうか、一筋の煙がもくもくと立ち上っていた。 「誰か住んでるみたいよ? せっかくふるさとに戻ってきたのに、どうする?」 「どうするって……ここはもう、俺の家じゃあない。昔そうだったってだけで、今となってはここに住んでる人の家だよ。この村が活気を取り戻してくれただけで、俺は満足だよ。俺の家は、スティンにある叔父さんの家だけで十分なんだ」  ルードは破顔して答えた。 「昔、酷なことは確かにあったけど、村そのものが死んだわけじゃない。その気持ちさえあれば、立ち直らせることだって出来るんだ! つまりさ、諦めずに希望を繋いでいけば、酷い状況だって変えられるってことだよな」  ライカはうなずいた。 「希望は捨てるな……か。わたしって、ルードに励まされてばっかりね」 「俺達も頑張らなきゃいけないしね。さて、そろそろ戻ろうか? 〈帳〉さんの放った術が返ってくる頃だ。ひょっとしたらハーンの様子をつかんでるかもしれないからな」  ルードは、名残惜しそうに生家をあとにした。しかし気持ちは不思議と晴れやかであった。 二. 「戻ってきたか」  重々しい声。切り株に腰掛けていた〈帳〉は、渋りきった表情で二人を迎えた。 「〈帳〉さん、ハーンからの返事はありました?」  よっこいせ、と声をかけて、ルードはその横に座り込んだ。 「あった。私の放った術が今し方戻ってきて、ハーンの所在が明らかになったのだ。彼は無事だ。しかし、決していい知らせとは言えないぞ」 「どういうことなんです?」  ルードは身を乗り出して訊いてきた。 「クロンの宿りが“混沌”に飲まれた」 「飲まれたって……なくなったってことですか?!」 「そうだ。いよいよ世界の崩壊がはじまったのだ」  〈帳〉は重々しく語り始めた。 「ハーンは昨日ようやく意識を取り戻したという。しかし、彼のいたクロンの宿りは、すでに“混沌”が押し寄せていた。――ここからでもスティンの山越しにかすかに見えるあの忌まわしき黒い空だ。黒い空は“混沌”そのものを伴って、クロンの宿りをひと飲みにしたという……恐ろしい事態がついにはじまったのだ! 我々はデルネアと対峙すると同時に、“混沌”に対しても向き合わなければならなくなった。……私がこのようなことを言うのは、きわめて恥ずべきことなのだが、我々は一ヶ月もの間、我が館に留まる必要があったのか? せめて、ハーンとともにデルネアのもとを訪れたほうが良かったのではないか? 悔やまれてならないのだ」 「……ハーンはデルネアに会いに行ったんですか?!」  ライカが驚いた。 「左様。今だから言うが、ハーンが旅立った目的とは最終的にはそれが狙いだったのだ。ああ! あの時、彼とともに旅立っていれば、今頃デルネアと対峙出来ていたかもしれないというのに……」  〈帳〉は頭を抱えた。後悔の念と、自らの決断の甘さに苛まれながら。 「……それは……どうなんでしょう?」ライカが口を開いた。 「今〈帳〉さんの言ったとおり、たとえデルネアに会ったとしても……その時にどうすればいいんだか、どうすればアリューザ・ガルドに戻る方法を教えてもらえるのか分からないです。すくなくとも私には分からないんです。そう……今だからこそ、どうすればいいのかっていうのが見えてくるんじゃないでしょうか? それに……世界が混乱してしまってるから、逆にわたし達が疾風を煙に巻けているっていうようにも思います……酷い言い方かもしれないけど」 「……『もしも』っていうのを今考えてもしようがないですよ。ライカも言ったけど、今の俺達だからこそ出来ることっていうの、結構多いと思いますよ」  ルードも続けて言った。  〈帳〉は彼らの顔をじっと見つめていたが、やがて喉の奥から笑いがこぼれてきた。 「ふ、ふふ。なるほど。考えが曇っていたのはこの〈帳〉のほうだったのだな」 「ご、ごめんなさい! 失礼なことを言うつもりじゃなかったんです」  ライカが謝ろうとするのを〈帳〉は制止した。 「そうではない。君達二人は、かつてのアリューザ・ガルドの英雄達に匹敵するような、確固たる考えを持っている。それは素晴らしいことだ。やはり、館で過ごしたひと月という時間が君達を大きく成長させたと思えるな。 「たしかに、ハーンと我々が行動をともにしていたら、おそらく中枢アヴィザノへまっすぐ向かっていただろう。が、その結果がどうあれ、その間にクロンの宿りが“混沌”に飲まれることになるのは避けられなかった。ハーンはひとりで北方に向かい、結果として――ひとにぎりではあるが――クロンの人々を救ったのだ。ハーンは、その時に出来うる限りの最善の選択をしたということか……。 「ともあれ、事態は依然安穏としてはいられないのだ。いや、むしろ危惧すべき状況に陥りつつある。世界が確実に破滅に向かっている今、私達は可能な限り、為すべきことをせねばならないのだ。ハーンがそうしたようにな。……急ごう。まずはマルディリーンの提言どおり、スティンに向かわねばならない。かの方が明言されたのであれば、おそらくはスティンでハーンと会うことによって、何かが変わるのかもしれない……それが何なのか、私のごときでは分からないが」 「マルディリーンに会えたというのも、俺達が〈帳〉の館に留まっていたからじゃないかな、とも思えますよ」 「そうかもしれないな。物事はよいほうに考えるに限る。これは君達から教わったことだ。本に囲まれて過ごしていただけでは、何の解決も見いだせないこともあるのだよ」  〈帳〉にしてはじつに珍しく、にっこりと笑った。 「デルネアの動向はようとして知れないが、恐るべき太古の“混沌”はついに世界を侵しはじめた。しかし、終末を救う鍵となる二つの“力”――聖剣と、もう一つ。その“力”が我々にあると教えてくれたのは、マルディリーンだ」 「鍵、ですか。物事がうまくいくかどうか、それはわたし達次第なのですね?」  とライカ。 「そう。運命の渦中にあるとはいえ、最終的に結果を出すのは大いなる意志でも、神々の力でもない。我々自身なのだ」 三.  広大なウェスティンの地。壮絶な戦いが繰り広げられたこの地だが、凄惨たる当時の状況を感じさせないように静まりかえっている。しかしながら、街道沿いには慰霊碑が築き上げられ、献花の絶える日は無い。遠い日の出来事とはいえ、人々の心には悲劇が深く刻み込まれているのだ。  だが、フェル・アルムの民にはニーヴルを弔う気持ちなどはなかった。ニーヴルは王宮を侵した反逆者。フェル・アルムの民にとっては敵以外の何者でもなかった。真実が歪曲されて伝わっているとは言え、ニーヴルの術士達の魂が安らぎを得る日は、果たして来るのだろうか?  ルード達は、沈痛な面もちで決戦の舞台を通り過ぎていった。ここを通り越すと街道はクレン・ウールン河と別れ、いったん南に大きくくねったあと、今度は北に進路をとる。なだらかな傾斜が続く丘陵地帯を登っていくと、やがてスティン高原の麓、ベケット村やコプス村、ラスカソ村に辿り着く。  とっぷりと日が暮れた頃。一行はようやくウェスティンの地を通り抜けた。 「俺の故郷からラスカソまで、結構歩いた記憶があるけど……このまま今の調子で馬を進めると、どれくらいかかるんでしょう?」  世界全体が闇に包まれ、丘陵地帯にさしかかったところでルードが〈帳〉に尋ねた。 「二日ほどで辿り着くだろう。おそらくはハーンのほうが私達より少し早く高原に到着しているだろうがな」 「二日! よし、もう少しだ! 頑張っていこうぜ!」 「〈帳〉さん……転移の魔導を使って辿り着くことは出来ないんですか?」  ライカが訊いた。 「実のところ、魔導を行使出来るだけの魔力であれば、すでに癒えている。だが……」 「夜の闇の中じゃ魔導は使えない、てことだよ。“混沌”に捕らわれるかもしれないからな」  〈帳〉に先んじて、ルードは知ったふうな口調でライカに言った。 「それももちろんあるが」〈帳〉は言った。 「ようやく回復した魔力を、転移のために使うことは出来ないのだ。デルネアと相対した時のことを考えて、力を温存しておきたいのだよ。……私の予感では、おそらく彼のこと、こちらの説得においそれと応じるはずもないだろうからな」 「戦うってことですか?」と、率直にルードが言う。 「ルードよ、鋭い感性だな。そういうことになるかもしれない。いや、おそらくいずれ戦うことになるだろう。悲しいことだが、強大な“力”を得ている彼は絶対的存在としての驕慢に満ち満ちている。それを突き崩さねば、還元のすべを知ることは叶わないだろう……。彼に幾ばくかの良心が存在しているのであれば良かったのだが、今のデルネアは『人間ごときを超越している』と考え、人間らしさのかけらもなくなっている。まこと、悲しいことだ……。彼と戦うことが最善の手段だとは思えない。力でもって力を突き崩すなど、むしろ愚かしいとも言える。しかしそうするしか手がない。いや、悲しいかな、私にはそれ以外に考えられないのだ」 「デルネアに勝てる見込みはあるんですか?」 「いや。彼の“力”はあまりにも強い。私ごときでは勝てるとは思えん。だが、なんでもいい。デルネアが人としての心を取り戻してくれるのであれば、私は……」  〈帳〉は続く言葉を紡げずに、うつむいて押し黙った。  ルードは考えた。仮にケルンやシャンピオら友人達と戦う羽目になったら、敵対するかたちになったら――どうする? (とっても悲しいことだけど……〈帳〉さんはその悲しみから逃げずに、面と向かい合おうとしている)  〈帳〉に降りかかっている悲しみの深さを、ルードは少しでも理解したような気がした。 「……けれど〈帳〉さんだってひとりじゃない。俺やライカ、ハーンがついてるんですよ。なんと言ったって、聖剣があるんだし」 「ありがとう。その言葉こそ心強いものだ」  〈帳〉は言った。 「だがデルネアとかけ合うのは、私だけでいい。君達には、より重要な使命があるのだから。フェル・アルムを元あった大地に戻すには、運命の中心に存在する、君達の強い意志が必要なのだ。そして、おそらくは聖剣の“力”も」  ルードはおもむろに、腰に差してある銀色の剣を抜き出した。この剣は明らかに、圧倒的な“力”を内包しているのだろうが、ふだんはみじんも感じさせない。 「思い出した。そういえば、夢で見たわ」  ライカが言った。 「その剣。そのう、よくは覚えてないんだけど、闇をうち払ってくれたことだけは印象に残ってるの。夢の中が闇に包まれた、ちょうどその時ルードが剣を手にして、闇を追い払ってくれたもの」 「ライカの夢のとおりかもしれない。おそらく、“混沌”をうち破る鍵を持ち合わせているものこそ、その聖剣にほかならないだろう」  〈帳〉はルードの剣を見ながら話した。 「ガザ・ルイアート……」  ルードは刀身をじっと見つめた。 「この剣のことを、俺はまだよく知らない。教えてくれますか? ……なんでもいいから、この剣について」  ルードの言葉を受けて〈帳〉は語り始めた。 「ガザ・ルイアートは、アリューザ・ガルドに数ある剣の中でも、もっとも強い“力”を持った剣だ。黒龍の剣“タリア・レヒドゥールン”、アル・フェイロスの名だたる剣“スウェル・シャルン”、私がハーンに手渡した漆黒剣“レヒン・ティルル”……。数々あるが、かのガザ・ルイアートは、ディトゥア神族の“八本腕の“土の界《テュエン》”の王”ルイアートスが自らの腕を落として創り、鍛え上げた剣。アリューザ・ガルド最大の災い、冥王を封じた剣なのだ。 「今をさかのぼること千年以上昔になろうか。アリューザ・ガルド全土を冥王ザビュールが支配していたのだ。憎悪の衣をまとった冥王は、魔界“サビュラヘム”を創り出した神であり、そもそもはアリュゼル神族。アリュゼル神族に従っているディトゥア神族が束になってもかなう相手ではない。だが、“光”の力を内包したガザ・ルイアートのみが、冥王を倒す手段となり得た。 「聖剣はルイアートスから“宵闇の公子”レオズスに託された。レオズスは闇を司る神ではあるが、ザビュールに屈することのない気高い意志を持ったディトゥア神だ。本来はな。……その後の“魔導の暴走”の際に、“混沌”に魅入られたことはレオズスにとっても悲劇だった。――話を戻すと、レオズスは聖剣を握る資格を持つ者を探し、ついにイナッシュを見いだした。イナッシュとレオズスはともに魔界《サビュラヘム》に乗り込み、戦いの果てにザビュールを討ち果たしたのだ。 「冥王が倒されて以降、聖剣の所在は知れなかったのだ。が、なんということか、このフェル・アルムに存在していたのだ。北方、果ての大地でハーンがこの剣を見つけたこと、それ自体も運命なのかもしれない。ともあれ今、聖剣はルードを所持者と認め、大地の力をルードに授けた、ということだ」 「大地の力は確かに感じますけどねえ」  大地の加護を受ける民、セルアンディルとなったルードはしかし、怪訝そうに言う。 「神を倒すなんて。、そんな大それた剣には思えないですよ……あ、でもあの時! ハーンが危険だと感じたあの時、こいつはとてつもなくまぶしい光を放った。その時の剣の“力”は……うまく言えないけど凄まじかったです」 「聖剣は今、本来持てる“力”を発揮していないのだろう。何かしらのきっかけがあれば……そう、おそらくは……」  〈帳〉は言葉を止めた。 「ガザ・ルイアートは、純粋たる“光”を持っている。我々魔導師が追い求めたものの、ついに求めることが出来なかった究極の色、“光”。それこそが“混沌”をうち払う鍵を握っていると思いたい……」 「冥王のことは、わたしもおじいちゃんから聞いたことはありますけど、じゃあ“混沌”というのは何なんですか?」  今度はライカが訊いた。 「“混沌”か……」  北にある漆黒の空を見上げて〈帳〉はつぶやいた。 「“混沌”。実のところ私にもよく分からない。だから私の知る限りにおいて話そう。アリュゼル神族達が存在するより遙か昔。その頃の世界には“色”などは存在せず、荒ぶる古き神々が支配していた。“混沌”は神代において、世界に存在していた大いなる力の一つ、と言われる。 「……それ以上は私も分からない。文献をあさってみたところで、“混沌”の正体など出てくるはずもない。次元の狭間、イャオエコの図書館であっても、“混沌”に関する明確な本があるかどうか……。ただ言えることは、“混沌”に飲まれてしまったが最後、二度と現世《うつしよ》に戻れないということ。抽象的な存在ゆえに、倒すことなどが出来ないこと。唯一出来うるのは、遙か彼方に追いやることだけであろう」 「追いやる……その役目を果たせるのが聖剣、か」 「左様。そして、何よりルード、君自身の意志なのだよ」  ルードは黙ってうなずき、光を持たないガザ・ルイアートを鞘に収めた。  神封じの聖剣。この剣が本来持っている“力”を発動すれば、強大なデルネアとも渡り合えるかもしれない。そして、クロンを飲み込んだ“混沌”すら跳ね返すかもしれないのだ。今のルード達にとってガザ・ルイアートは、まさに希望を繋ぐ剣であった。  しかし――剣は未だ真の“力”を発揮していないのである。 四. 『スティンの丘陵を夜に越す愚かさ』  フェル・アルムにはそんな格言がある。「せっかくの好機会を逃す」という意味が込められているのだ。  五百年前のドゥ・ルイエ皇であり、芸術に造詣の深かったリジナーは「なぜ我が祖先はこの地に宮殿を建てなかったのだろうか。余が造った中庭など、この景色の前にはかすんで見える」と言ったという。  それほどまでに、スティンの丘陵から見る景色は美しい。  北方はスティンの山々を目の当たりに出来、南方にはセルの山がちらと見える。目をおろせば西にはウェスティンの平地と、そこを流下する大河クレン・ウールンの流れがあり、東には巨大なシトゥルーヌ湖が紺碧の色をたたえているのだ。 * * *  ルード達は夜どおしかけてスティンの丘陵を北へ北へと歩んでいた。高原の麓、ラスカソ村に辿り着くまでは足を休めない、と決めていたのだ。朝を迎えて、全貌を現したスティン丘陵の絶景に、一行の心はいくらか癒されはしたものの、足を止めて感慨に耽ることはしなかった。心なしか、北方に見える黒い空が大きくなっている気がしたからである。  昼頃、ルード達は旅人が言い争っているのを目にした。  不吉な黒い空を恐れて北方から丘陵をおりてきた旅商達は、南方から上がってきた避難民と出くわし、北に進むのをやめるように忠告した。が、避難民のほうは、[南ではみんなの言葉が変わっちまった! 化けもんだって出てきている。これこそ呪いだ]と言いはり、逆に旅商に北に戻るように言い聞かせた。そして言い分を言い合っているうちに喧嘩になってしまったのだ。 [商人達についていくべきです。むしろそのほうが安全です。化け物達と戦うすべは傭兵達が心得ていることでしょう]  〈帳〉は両者にそれとなく、南に向かうように説いて、立ち去ろうとした。 「じゃあ、なんであんた達は北に向かおうとしてるんだ?」  立ち去る際、旅商のひとりが声をかけたが、ルード一行はそれには答えずに馬を進めた。 「聞きました? あの人、最後のところだけアズニール語を使ってたんですよ」  ルードは言った。 「ああ。南からはじまったアズニール語の覚醒は、思いのほか早く北にまで伝わっているようだな」  〈帳〉が言った。 「あの人が言ってたけど、本当に呪いなんですか?」  とライカ。 「フェル・アルム世界自体が、本来あるべき姿に戻ることを望んでいる、その象徴的な出来事と言えるだろう。言葉の復活は呪いなどではないよ。私達の、そして彼らの心の奥底で眠っていた、アリューザ・ガルド住民としての意識が覚醒したことなのだから」 「でも、そのせいで世界中が混乱しちゃっているわけですよね」ライカが言う。 「およそ考えられる常識の範疇を逸脱しているからな。……悲しいが、私にはどうも出来ない」  〈帳〉はうつむいた。 「私達が出来うること、私達でないと出来ないことについて考え、そしてなさねばなるまい」  その言葉は、〈帳〉自身に言い聞かせているように、ルードには聞こえた。  ルードは、スティンの山裾から見え隠れする、忌まわしき空を見据えた。明日にはいよいよスティン麓の村々に、そして高原に辿り着く。マルディリーンがルードに語った“ルード達の為すべき道”。それがハーンに会うことなのは明らかだ。  だが果たして、そこから何がはじまるというのだろうか? 五.  さらに経ること一日。  途中、魔物の襲撃にもあわず、ルード達はことのほか早く、麓の近くまで辿り着くことが出来た。夕刻には街道沿いにぽつりぽつりと民家が見えはじめ、日が暮れる頃にはラスカソ村の門にまで辿り着いた。  サラムレを出てから四日も経つというのに、まともな休息など数えるほどしか取っていない。いかに一行が丈夫な体を持っているとはいえ、疲労はずっしりとのしかかる。一行は、スティンに辿り着いたという達成感を感じる前に、襲いかかる睡魔と戦っていた。  ルード達は手近な宿に入ると、即座にベッドに横になった。毛布の心地よさを存分に感じながら、いつしか彼らは寝入ってしまった。 * * *  ふとライカは、ざわめく喧噪によって目が覚めた。風を感じるアイバーフィンは、バイラルより遙かに耳ざといのだ。外の様子がどことなくおかしいことに気付き始めた。 ――なぜ逃げようなんて言い出すんだ? あんたは…… ――分からんか!? あれを見ろよ……黒い雲だ! 俺達のクロンは、あれに飲まれて何もかも無くなっちまったんだぞ! (黒い雲って?! まさか!)  窓際を通り過ぎた声に、ライカは飛び起きた。長いこと馬にまたがっていたため、全身を襲う筋肉痛に顔をしかめつつ、彼女は窓の外を見る。はっと大きく目を開いて、窓硝子に張り付いた。  窓の向こうの情景――本来そこにあるべきスティンの山々を覆い包んでいるのは――黒い雲だ。“混沌”を呼び込むその暗黒は、とうとうスティンの山を飲み込み、高原に迫るところまで近づいていたのだ! 「ルード! 〈帳〉さん!」  ライカは同室の二人を揺さぶり起こした。 「うん? ……まだ夜なんじゃないのか?」  寝ぼけ眼で外を見たルードは、不機嫌そうに言うと再びごろんと横になった。 「しゃんと起きてってば!」  ライカはルードの片腕を持つと、唸りながらルードを起こそうとした。 「暗いのは夜だからではない。ルードよ」  〈帳〉は言った。 「どうやら時すでに遅かったかもしれんな……黒い雲が、ついにこの地まで飲み込もうとしているようだ」 「まさか?!」  ルードはがばりと起きた。それまで彼の腕をつかんでいたライカはよろめき、壁に頭をぶつけた。 「……! ルードぉ!」  後頭部を押さえて、ライカはうらめしそうにルードを見た。 「ご、ごめん、ライカ」  ルードは窓の外を見つめた。信じたくない事実を目の当たりにした彼の表情がこわばる。 「……そんな!!」  ルードは窓に駆け寄った。ライカはルードの横に並び、忌まわしい状景をともに見つめた。窓の格子をつかむルードの指が、ガチガチと震える。ここから高原まで辿り着くより早く、黒い雲――“混沌”が高原を覆うだろう。  ようやくここまで来たというのに、自分達は何も出来ずに、スティンの高原が飲み込まれるのをただ見ているしかないというのか? とてつもない恐怖と同時に、深い哀しみと悔しさに包まれたルードだが、出来ることは窓をガタガタときしませることぐらいだった。 「……〈帳〉さん! 魔導を使って、あの高原まで行けないの?! ハーンは、あの中にいるかもしれないのよ?!」  ルードの様子に見かねたライカが〈帳〉に向かって叫んだ。 「そうするつもりだ」  〈帳〉は言った。 「どうやらハーンも今、高原にいるようだ。先だって放っていた術が、彼の位置を教えてくれた。ハーンを助けなければ!」  〈帳〉はすくと立ち上がった。 「とにかく外へ! ある程度の広さがないと、転移の魔導が行使出来ない」  ライカもこくりとうなずき、戸口へ急いでいた。黒い雲など何するものか。ライカの顔には強い決意が込められていた。  しかし――。 「待った!!」  絶望を感じながら外の様子を窺っていたルードが叫んだ。 「雲が……雲の様子がおかしい」 「どういうことなのか?」  〈帳〉はルードの後ろから、窓を覗き込んだ。 「あれ……見えますか?」  ルードが指をさした。 「あれは……ムニケスの山の辺りでしょうか?」  ルードは見ていた。黒い雲は忌まわしげな渦を巻きつつも、一つところに集まりつつある。その様は、さながら竜巻のよう。黒い雲は、スティンの山のとある一点に足をおろしているかのように見えるのだ。 「私は片目しか見えないからな……様子を聞かせてくれ」  〈帳〉が言った、その時。 「見て! 剣が!」  ライカの言葉にルードは振り返った。壁に立てかけてあったガザ・ルイアート。その刀身が、まばゆいばかりに光り輝いているのだ。刀身を鞘に収めてなお、まばゆく輝く光は、人智を超越した荘厳な感じを抱かせるものだった。  ルードは黒い雲の様子が気になりながらも聖剣を手にとって、決心したかのように刀身を露わにした。その瞬間、刀身が放つ、まばゆいばかりの光に周囲は覆い包まれ、ルード達は目をつぶった。  ルードの頭の中に去来するのは、膨大な量のイメージ。光を放つ聖剣が所持者に送り込んでくるそれは、かつての聖剣所持者の様子、戦いの歴史であった。それらのイメージは一瞬にしてルードの中を駆け抜けていったため、ルード自身も把握しきれなかったが、聖剣自身が経験した最大の出来事、冥王ザビュール降臨についてはルードの脳裏に鮮明に焼き付いた。英雄イナッシュと宵闇の公子レオズス、それに対峙するは禍々しき冥王――。ルードは、まるでその場に居合わせたかのような衝撃すら覚えた。  聖剣は徐々に光を失い、刀身の色はまたもとの鈍い銀色に戻っていった。  全てが収まって。一同はお互いの顔をただ見合わせるしかなかった。ややあって、ルードが言った。 「そう言えば……黒い雲だよ! あれはどうなったんだ?」  ルードは剣を手にしたまま、窓際に戻った。 「え?!」 「どうした?」  ルードの驚きように、〈帳〉とライカは窓に駆け寄った。 「見てよ、〈帳〉さん、ライカ! 無くなってる。雲が山の向こう側にまで退いてるんだ!」  ルードの言うとおり、今までスティンの山々を覆い隠さんとしていた黒い雲は姿を消しており、山の頂の向こう側にちらりと見え隠れするまでに退いていた。 「確かにな……。だがハーンが言っていたように、雲がいったん退いた後、“混沌”が押し寄せるのか?」  それこそ三人が恐れていることであった。彼らはもはや何も語らず、固唾を飲んで次なる変化を見守った。  だが、何も起きなかった。  黒い雲はスティン山地の頂の向こう側まで後退したまま、留まっている。 「……ともかく、高原へ行ってみませんか? ハーンがいるはずなのでしょう?」  ルードは拍子抜けをした面もちで言った。ライカと〈帳〉もうなずき、宿の外へと出るのであった。 六.  黒い雲の到来。それが何を意味するのか、人々はすでに分かっていた。クロンからの避難者達は南に向けて村を去る支度をはじめていた。  どよめき、逃げ惑う人々をかき分け、ルード達はようやく魔導の行使に十分な静かな場所を見つけた。 《ウォン!!》  〈帳〉は息を整えつつ、喚びだしのことばを唱えた。“遙けき野”越えの際にルードが目の当たりにした魔法の力場が辺りを覆う。 《マルナーミノワス・デ・ダナッサ・フォトーウェ!》  大いなる力よ、我らがために現前せよ。  そういう意味を持つ古代語を〈帳〉が言い放つと、深緑の力場は半球を象った。〈帳〉は奇妙な呪文を唱えつつ周囲の切り株や雑草、がれきなどから魔力のもと――“色”を抽出して半球に張り付かせていった。 《マルナ・ハ・フォウルノーク、スカーム・デ・ダナッソ!》  大いなる力よ、我らを誘いたまえ。  転移の魔導を発動させるこの言葉を唱えた瞬間、半球に張り付いた雑多な色は紡ぎ合わされ、一つの色にまとまったかと思うと、半球は凝縮して一点に集い、光を放った。 * * *  魔導が形成した透明な球状空間の中にルード達はいた。が、それもつかの間。たちまちのうちに球は消え失せて、見慣れた風景の中にルード達はたたずんでいた。  そこは森の中の小径だった。ルードの勘からすると、高原の中の林ではなく、スティン山地の山の中のように思われた。あてどなく小径を歩きつつ、ルードはきょろきょろと辺りを見回した。 「ここにハーンがいるんですか?」とライカ。 「間違いない。この近くにいるはずだ」〈帳〉が答えた。  ここは、果たしてどこなのだろうか? ルードが感じ取れるれるのは、懐かしい風景である、ということ。ここで日がな一日ケルンら友人と遊んでいたのは遠い昔のようだ。 「どこかで見たような景色かしらね?」 「……そうか! ここはムニケスだよ!」  ルードの顔色がぱあっと晴れ、彼は早足で歩き始めた。 「ついて来なよ。俺とライカが始めて会った場所がここだったんだ。……間違いない。もう少し行ったところに野原があって、そこでライカが倒れてたんだ」  ルードの言葉どおり、うっそうと生い茂る木々の向こうに、ちらちらと広場が見え隠れし始めた。やがて風景は開かれて、ルード達は野原に辿り着いた。ルードとライカが出会った野原に。そして――。  そこには二人の人間がいた。ひとりは剣を杖の代わりにして座り込んでいる子供。もうひとりは――草むらに埋もれるようにして伏している若者であった。 「ハーン?!」  紛れもなく、金髪の青年はティアー・ハーンである。ようやく友人に会えたという喜びを隠さずに、ルード達はハーンの元へと駆け寄った。  だが喜びもつかの間。ハーンは動く気配を見せないのだ。 「ハーン! 大丈夫か! ハーン!」  ハーンの容態が尋常でないことを見て悟ったルードは、ひざまずいてハーンの身体を揺すった。 (まさか?!)  最悪の事態すらも考えたルードは、おそるおそる背中に耳を当てて鼓動を確かめた。 「どう……なの?」ライカが不安そうに訊いてきた。 「何とも言えない……けどハーンは生きてる……」 「そう。……だけど、オレはそれが恐い」  言葉を発したのは、ぐたりと疲れ切った表情をした子供だった。 「兄ちゃん達って、ハーン兄ちゃんの知り合いか?」  よっこらせ、と起き上がった子供はルードに訊いてきた。 「ああ、そうだよ」 「もしかして、ルードってのはあんたなのかい?」 「そうだよ」  子供の言葉遣いをやや気にしながらも、ルードは答えた。 「そっか……」  子供は周囲を歩きながら、腕組みをして考える様子をみせた。そしてうなずくと再びルードの元に歩いてきた。 「オレの名前はディエル。ハーン兄ちゃんとは北の……ええと……クロンってあたりで知り合ったんだ。ルードの名前は兄ちゃんから聞いてたよ」 「ハーンと一緒だったのね?」  ライカは膝を曲げ、ディエルの目の高さに合わせて言った。 「そうだよ……姉ちゃん達、黒い雲って知ってるかい? 多分知ってるだろうけど」 「知っている。全てを飲み込む、禍々しいもんだろう?」  ルードの言葉にディエルは顔をしかめた。無理もない。ディエルはかの地クロンでまさにそのさまを目の当たりにしているのだから。 「俺達は見たんだ。黒い雲はついさっきまでスティンの山――つまりここらへんまでやって来ていたんだ。けど、雲は今、山の向こうまで下がっている……どういうことなんだ?」  ルードが訊いた。 「“あれ”は当分こっちにはやって来ないよ。オレ達が――んにゃ、兄ちゃんがくい止めたんだからな」  ディエルは元気なく答えた。 「この兄ちゃんが、“混沌”の侵攻をくい止めたんだ」 「“混沌”……」  それまで後ろで黙っていた〈帳〉が口を開いた。 「確かに……恐ろしいことだ……」  〈帳〉はそう言ってハーンの横でひざまずいた。 「ハーン。あなたが“混沌”を追い返したのは素晴らしい。が……しかし……」  〈帳〉は険しい表情をして、目を伏せた。 「ぐ……」  その時。ハーンがうめき、ぴくりと体を動かした。 「ハーン!!」 「やあ、ルード……だね? ようやく会えて嬉しいよ……」  ハーンは弱々しく声を発した。 「無理するなよ、ハーン」 「だいじょう……ぶ」  ハーンは震える手を伸ばし、ごろりと仰向けになった。その顔色からは溢れる生気など、みじんも感じられない。 「こんなざまを見せてしまって……申しわけがないね」  ハーンはディエルに顔を向けた。 「ディエル。僕の剣を取ってくれないかい?」 「ダメだよ!」ディエルは手に漆黒の剣を持ちながらも、大きく首を横に振った。 「じきに僕は闇に囚われてしまう。……その前に、僕しか為せないことをしなければならない……。だけど僕の力だけではだめだ……力を補うために漆黒剣が必要なんだ……さあ……」  ハーンが弱々しく手を伸ばし、ディエルはおずおずと漆黒剣レヒン・ティルルを手渡した。 「よし……ルード?」 「なんだい?」ルードはハーンのもとにひざまずいた。 「聖剣を……ガザ・ルイアートを貸してほしい……。剣に……“力”を与えるんだ……」 「“力”だって?」 「時間がない……はやく……」 「わ、分かった」  ルードは聖剣を差し出した。ハーンは満足げにうなずくとゆっくりと目を閉じた。 「ふう。感じる……僕の“知識”が、僕自身の記憶として甦ってくるのを……。そして、僕の役割が分かった……。聖剣の覚醒だ……。それが僕の使命なんだ……」 「ハーン」  心配そうに〈帳〉が声をかけた。 「大丈夫ですよ。〈帳〉。僕はもう……大丈夫です。あの時のようには……」  何が大丈夫なのか? そしてあの時とは? それはハーン当人と〈帳〉にしか分からなかった。  ハーンはガザ・ルイアートの刀身に手を置いて――。 《レック!!》  力強く言い放った。ハーンが唱えたそれは、〈帳〉のものと発音は違えど、明らかに喚びだしのことばだった。 《ルイアートス・デル・マルナーン、ダナズス・リー・イェン・フォトーウェ!》  その瞬間、ガザ・ルイアートの刀身中央部に刻まれていた紋様が色をなしてぼうっと浮かび上がってきた。紋様の色は、ハーンが言葉を紡ぐたびに、さまざまな色に変わっていく。  ルードはただ、その様子を見つめるしかなかった。なぜハーンがこんなことを出来るのだろうか。疑問を持ちつつもなお、剣の変化に冷静に見つめている。そんな自分に戸惑いながらも、答えは出せそうになかった。  そして、ハーンの呪文は完成した。 【…………!!】  ハーンが発した最後の言葉は短いものであったが、およそ人間には発音不能と思われる奇妙な言葉であった。  そして――。  聖剣の刀身がまばゆく光りはじめたかと思うと、ついには剣の全てが光に包まれた。太陽を間近に見ているかのようなまばゆさに、ルードは目を閉じた。  ようやく光が収まって、ルードは目を開けた。ディエルやライカはまだ目をつぶっている。  見ると、手にしているガザ・ルイアートの中心の紋様は、それ自体が光を発していた。何より感じるのは――あまりに強大な聖剣の“力”。 「……ハーン!?」  ルードは我が目を疑った。ハーンが宙に浮かんでいるのだ。漆黒の剣をしっかと握ったまま苦悶の表情を浮かべている。 「……え?」 「ハーン!」 「兄ちゃん!」  ようやく目を開けたライカ、〈帳〉、ディエルも、目の前の事態の異常性に言葉を出せないでいた。  ハーンは全身をわなわなと震えさせながら口を開いた。 「聖剣の“力”は発動させたよ……でも僕自身は……耐えられるのか? この……闇の衝動に!」  ハーンの身体はゆらゆらと空中を揺れていた。が。 「かはっ!!」  鮮血を吐き出したハーンは空中でがくりと倒れ込むかたちとなり、意識を失った。 「ハーン!」  意識を失ったハーンの身体は――急にぐうっと空高く舞い上がり、いずこかへと飛び去っていった。 「ハーン!」  ルードの声はむなしく周囲に響き渡るだけだった。 § 第八章 ティアー・ハーン 一.  開けた野原の中、沈黙が辺りを覆っていた。  残された一同は面をあげて、今し方ハーンが飛び去った空を見つめながら、信じがたい出来事を反芻していた。 「何が……何が起きたっていうんだよ……」  当惑を隠しきれず、ルードがぽつりと漏らした。  高原に黒い雲が迫ってきた。そして引き返していった。ハーンの力で?  聖剣ガザ・ルイアート。この刀身中央部に刻まれている紋様が時折煌めき、剣本来の神聖さを醸し出していている。何よりルードが感じ取っているのは、今まで以上の圧倒的な“力”だ。この“力”すらも、ハーンによって発動されたというのか?  聖剣をルードに返したハーンは苦悶しながらも宙に浮かび、そして意識を失い――彼方へ飛び去ってしまった。  ハーンがいなくなった。  はっきりしているのは、それが今の現状だということ。 「ハーン……。何がどうなってるんだ……」  ハーンが飛び去っていった方向を見つめながら、ルードが言った。 「だから、オレがさっき言ったとおりだって」  ディエルはルードに話しかけてきた。ディエルのその視線もまた、未だぼうっと空を見つめたままである。 「なあ、ディエル。君が見たことをもう一度、俺達に話してくれないか? 何がなんなのやら……さっぱりだ」 「……うん」  ディエルは草原に座り込むとようやくルードを見た。そしてディエルはくすりと笑い、何気なくつぶやく。 「しっかし……まさか、あんたがガザ・ルイアートの所持者とはね……。それに、この剣がこんな世界にあるなんて思いもしなかった」 「ちょっと待った!」とルード。 「なんで知ってるんだ、この剣のことを! ハーンから聞いたのか?」 「んにゃ。オレが見ればひとめで分かるぜ。とてつもない“力”を持ってる剣だってな。ガザ・ルイアート。冥王をやっつけたって剣だろう? それくらいは知ってるさ。オレが探していた大きな“力”が、こいつのことだったとはね。(“力”を取るうんぬんは、もうどうでもいいことだな)」  ディエルは首を返し、今度は〈帳〉に言った。 「なあ、エシアルルの兄さん。さらにそっちはアイバーフィンの姉ちゃんっと……。まやかしを使ってるつもりなんだろうけどさ、オレには効かないぜ?」  〈帳〉はぴくりと眉を動かした。よもや自分の術が見破られるとは思いもしなかったのだろう。 「ディエル、と言ったね。君はどうやら普通の人間ではないように私には思えるのだが? どうかな?」 「そうだよ」  ディエルはあっさりと事実を認めた。 「こんなせっぱ詰まった状況でウソ言ったところで仕方ないからね。でもさ。ルード達だって、よほどわけありなふうに見えるぜ? この世界にはバイラルしかいないと思ったら、エシアルルが、しかも白髪のエシアルルがいて、アイバーフィンの姉ちゃんがいて――とどめに聖剣所持者のセルアンディルがいるなんてなぁ」  ディエルは溜息をついた。 「ああ、オレのことを訊いてたんだよね? オレはディエル。トゥファール神の使い。もうひとり、ジルっていう出来の悪い弟がいるけどな。んで、大きな“力”を手に入れてトゥファール様のところに持ち帰るってのが、オレ達の役目ってわけなんだ」 「……なるほど」  〈帳〉はうなずいた。 「アリュゼル神族のひとり、トゥファール。世界がその姿を保つように“力”をもたらしている神だね?」 「ふうん。兄さんよく知ってるねぇ。そうだ、名前は?」 「……〈帳〉」 「〈帳〉……か。それって本名じゃないね? エシアルルの語感じゃないし、彼らの名前ときたら、長い名前ばっかりだからなあ」  ディエルは言った。 「……で、どこまで話したんだっけ? ルード」  ディエルはルードに首を向けた。 「はい?! まだ何も話してもらってない、ですよ。……ハーンが今まで何をしたのかについて」  ルードは、目の前の少年が神の使徒であるという事実を未だ飲み込めず、ぎくしゃくした言葉で答えた。 「そっか」ディエルは言った。 「んじゃあ話そうか。オレもハーンの兄ちゃんの持ってた“力”には、正直びっくりしたんだけどね」 「……オレ達がこの高原の村に着いたのが昨日だった。オレ達は北からやってくる黒い雲から逃げ出してきたんだ。んで、ようやくここに着いて休んで、ふと起きてみたらさ、あの黒い雲がここまで来て、空を覆ってるじゃないか! それだけじゃなくって魔物まで出て来やがった。しようがないからオレはそいつらをやっつけた。ハーン兄ちゃんも一緒になって戦った。兄ちゃんはオレの正体なんか知らなかったから、オレの戦いぶりには驚いてたけどさ。 「そんなことをしてる間に時間ばっかりが経っちゃって、気付いたら“混沌”そのものが高原に来ようってところまでせっぱ詰まっちまった。いくらオレでもあれに……“混沌”に飲まれたらひとたまりもない。そして“混沌”が押し寄せようとしていたその時、ハーン兄ちゃんがひとり駆けだして、村から出ていったんだ。 「最初は村を捨てたのかと思ったよ。でも違った。兄ちゃんは村を守るためにここまで――この野原まで来たんだ。村にまで押し寄せ飲み込もうとしていた黒い雲を、野原へと誘い出したんだ。どんな方法を使ったのか知らないけど、とにかく黒い雲は村から離れ、兄ちゃんのところに集まったんだ。 「オレは兄ちゃんが持っている“力”の大きさを知ってはいたけど、まさか雲を追いやる力を持ってたとは思わなかった。兄ちゃんは一声大きく叫んで、身体にまとわりついてた黒い雲をぜんぶ追っ払ったってわけ。 「雲はあの山の向こうにまで下がったけど、兄ちゃんは“混沌”を少し体内に吸い込んじまった。いくら“力”を持っているとは言っても“混沌”を吸い込んじゃったらただじゃすまない。その結果が……さっき見たとおりのことってわけさ。それでも、なんで聖剣の“力”を発動出来たのかなんていうのはオレには分かんないけど」 「そういうことか……分かった」  〈帳〉は目を閉ざした。 「今し方、私達がハーンと出会った時には、彼は目覚めかけていたのだ。だからこそ、聖剣の“力”を発動し得たのか」 「そういうことって……何がどうなってるのか俺には分かんないですよ。〈帳〉さん?!」  ハーンが何を為したのかということは、ディエルの語った言葉から分かったが、なぜハーンがそれだけのことをやる力があったのか。ルードに分かるはずもなかった。  ふと、ルードの脳裏に〈帳〉の館での生活の記憶が甦った。あれはハーンが館を去る日のこと。ハーンと〈帳〉が、〈帳〉の居室で何やら話していたのだ。詳しい内容については不明だが、ガザ・ルイアートについてのことが語られていたのと、何より〈帳〉がハーンに対し丁寧な口調で接していたのが気がかりだったのだ。 「……〈帳〉さん。一つ、訊いてもいいですか?」 「なんだね」 「あなたは……知っているのでしょう? ハーンのこと。俺とライカがまだ知らない、ハーンの過去のことを」  ルードはまじまじと〈帳〉の顔を見つめた。  ややあって〈帳〉は口を開いた。 「……よく知っているとも。ティアー・ハーン、彼は――」  その時。  衝撃が駆け抜けた。 二.  空高く浮かび上がったハーン。意識はすでに彼の身体から離れ、どこか遠いところを彷徨っている。ハーンはそう感じていた。先ほど吸い込んだ“混沌”がそうさせているのか。それとも闇の衝動によるものなのか。ともあれ、彼の意識は遠く、遠く落ちていき――。それと同時に、彼の内面のもっとも深いところに存在する“知識”の部分に触れようとしていた。  ハーンが内包する“罪”。それは六百年ほど前までにさかのぼるものだった。 * * *  そこは――全くの闇。  いや、闇よりも遙かに暗く、ねっとりとした重さを持つ“混沌”の欠片が黒い空間を創り出していた。アリューザ・ガルドの住民にとっては忌むべき場所だ。  そんなまったき黒い空間において、人間の輪郭が四つ、ぼうっと浮かび上がっている。  否。  うちひとりは人間ではない。すらりとした長身の彼は、その髪の色と同色の漆黒のローブをまとい、三人の人間と対峙している。始源の力の一つ、“混沌”をもはらんだ、凄まじく重い闇の圧力を常に身体から発し続けていた。そのあまりの重苦しさ。並みの人間であれば、この場に居合わせるだけで瞬時に発狂してしまうだろう。  天上がどこにあり、地面がどこにあるのか? それ以前に天地の別など存在しているのだろうか? 四人がいる、とてつもなく黒い空間は、闇と“混沌”に覆われ、他の色の介在を許さない。そんな人智の及ばぬ空間なのである。  そんな中にあってただ一つ、闘気をまとって蒼白く光る剣のみが空間を照らしていた。  戦いはいつから始まったのだろうか? つい数瞬前なのか、はたまた遙か遠い昔から連綿と続いているのか。だが、時間の概念など、この戦いの壮絶さの前には意味を持たなかった。  黒いローブの男の手から波動が放たれた。黒よりもさらに暗い色が三人を覆う。  若者は蒼白く光る剣でひと薙ぎし、闇をうち払った。そのまま人間離れした素早さで、闇を放つ男の胸元まで瞬時に間合いを詰めた。剣を振り上げ、そしてローブ姿の男の頭めがけて振り下ろした。その速さのため、蒼白い光が残像をつくる。しかし。  瞬時であるはずなのに、若者と対峙している男はかすかに笑い、朗々たる声をゆっくりと響かせた。 「私の胸元にまたもや入り込むとは! 大した腕前だね。だがな!」  男は時を同じくしてことばを放った。 【レゥヒィーン!(まったき闇よ! そのちからもて、剣を象れ)】  およそ人間には発音不可能なことばが発されると同時に男の右手には剣が現れ、若者の振り下ろした剣の一撃を捉えた。 「……やるね。名を訊いておこうか?」 「“名も無き剣”の所有者、デルネア」  言いつつもデルネアは剣先をやや戻し、再び力任せに自らの剣を男の剣に叩き付けた。 「こちらも訊きたいことがある。なぜ! 御身がこのような真似をするのだ?」 「なぜ? 私は愚かしい人間が引き起こした“魔導の暴走”を消し去ったんだ。むしろ感謝して欲しいものだけどねぇ」  男は薄笑いを浮かべつつ、剣を徐々に押し戻していく。力技で勝てる相手ではない。デルネアは間合いを少し取った。 「感謝など言えるものか! 御身が為したことは何か?! “混沌”を呼び込んだのだぞ?!」 「始源の力、“混沌”は私に力を貸してくれた。それは絶対的な力だよ。さっき言っただろう? 絶対的な力に支配されてこそ、アリューザ・ガルドは平穏を保てる、とね」 「絶対的な力……か」  それを聞いた途端、デルネアの表情がなぜかやや翳った。 「ともあれ、御身は目を覚ますべきだ。冥王にさえ屈しなかった御身だ。“混沌”に魅入られているのが分かっているのならば、それを断ち切っていただきたい!」 「君も分かっていないね! 私は“混沌”すらものにしてみせるよ。それはザビュールをも越える力になる」  そう言って男は再び“混沌”の波動を放った。が、デルネアはすんでのところで身をかわした。 「ねえ、後ろの魔導師達。さっきから呪文を編んでいるようだが無駄だよ。ここの空間はまったき闇に覆われている。“色”によって発動される魔導など、まったく無意味なんだ」  さきほどから若者の後ろでは、男女二人の魔法使いが魔導の呼び出しのことばを唱えていた。男の言葉を聞きながらも彼らは諦めることなくさらに詠唱を続けた。 「無意味などではない! 人間の力だ!」  デルネアは再度駆け寄り、男の胸元に剣を突きつけた。 「無意味なんだよ! ディトゥアの――ディトゥアを超越した私の力の前にはね!」 「ぐはぁ!!」  デルネアは波動をまともに食らい、闇の中へと吹き飛ばされていった。  男はそのさまを一瞥すると、魔法使い達に向かって言った。 「……さて、長い戦いだったけど、もういいかげん終わりにしようじゃあないか。デルネアは確かに凄腕の剣士だった。さらにあの剣も凄まじい力を持っていたよ。ガザ・ルイアートに比べたら力は劣るけどね。デルネアの助力がない今、君達には何も出来ない。身体に内包している“色”を用いる程度では、大した魔導も練れまい!」 「ならば、“色”の力場をここにもたらしてくれる!」  “礎の操者”のふたつ名を持つエシアルルの魔導師は、男を見据えて凛と言い放った。 《ウォン!》 「させないよ!」  男は凄まじい速さで近づいた――が、魔導師のすぐ手前で身体がはじかれた。微弱ではあるが、魔導による障壁が形成されていたのだ。 「さっき唱えていた呪文は、これを作るためだったのか!」  攻撃を阻まれた男は、エシアルルの魔導師と女魔法使いをぎらりと忌々しげに睨みつけた。  女魔法使い――正しくは魔法使いではなく、預幻師なのだが――は、エシアルルの魔導師が唱えていることばに呼応するように舞い始めた。彼女の身体が揺れるたびに、身体からきらきらとした結晶のような粒が放たれ、ゆっくりと舞い降りていく。  黒いローブの男はその様子を見ていた。 「まあいいさ。この程度の障壁など私の力で消滅してやる。その時が君達の最期だからね」  そう言って、透明な障壁に対して片手をかざす。見る見るうちに障壁の力が損なわれていく。  不意に。女は舞うのを止め、低い姿勢で男に対して身構えた。と同時に、今まで詠唱を続けていた魔導師は、発現のことばを放った。 《マルナーミノワス・マルネガインザル・デ・デル・ナッサ・レオズサン・フォトーウェ!》  煌めいていた結晶の粒は、ぱっと魔導師の周囲にまとわりつく。それは魔力を帯びた様々な“色”だ。魔導師は、幾重にもわたって積み重ねあげようとしていた。必殺の魔導を放つために。  その時、障壁はついに破られ、男が魔導師に対し攻撃を仕掛けてきた。それを見た預幻師はフェイントの足払いをかけ、次には光弾を放ったが、男にはさして効いていないようだ。預幻師の攻撃のたびに男はしばし足を止めるが、ついに魔導師の前に辿り着いた。 「終わりだよ!」  男はねっとりと重い“混沌”の波動とともに、剣を見舞った。しかし―― 「……御身がな」  男の背後から低い声が聞こえた。  デルネアだった。デルネアは重傷を負いながらもかろうじて意識を保ち、男の背後まで忍び寄っていたのだ。そして彼は男の背後から深々と剣を突き立てた。 「がはっ」  男は信じられない面もちで、自分の胸元を見つめた。蒼白い刀身が彼の身体を貫通している。剣から発される蒼い闘気はやがて男の全身を包み込み、実体を伴う蒼い炎がめらめらと身体を燃やし始めた。 「滅せよ!」  すいっと剣を引き抜くと、デルネアは言い放ち、人間離れした速さで何回も剣を振り払った。 「ウェイン! さあ!」  デルネアに呼ばれた魔導師は静かにうなずくと、彼の持てる最大の魔導を行使した。魔導師は、結晶が象る“色”の膜に手を触れて、呪紋を刻み込みながらも、素早く詠唱を続けた。そして膜はまるでしゃぼん玉のように膨らみ、はじけた。  その時、とてつもなく大きな火柱が空間の底から立ち上った。火柱は不気味に色を変えつつ、徐々に魔導師の目の前に凝縮していった。とうとう一点にまでまとまったその魔力を、魔導師は男めがけて放った。  そしてまぶしい光に全ては包まれ――。  永遠とも思われた戦いに、終止符が打たれた。 * * *  ハーンは、さらにその後の知識が、自らの記憶として甦ってきたのを知った。やがて記憶は一つの光景を象っていく。  そこに居並ぶのは、長たるイシールキアをはじめとしたディトゥア神族達。彼はディトゥア達を前にしてひざまずき、深く頭を垂れていた。 「……そなたの罰は決まった。これは我ら、ディトゥアの総意である。もはやそなたはディトゥアを名乗ることは許されない。その身をバイラルと化し、また長きに渡るそなたの“意識”を、バイラルの体内に封じ込める」 「絶対の力を求めるなど――それを考えることさえ許されることではないこと。お前さんほどの者が、どうしたことか。……とはいえ、アリューザ・ガルドに“混沌”が紛れ込んだ。これは事実じゃ……」 「かつてのあなたの働きを考えても、また、やむなく“混沌”に魅入られてしまったことを考慮しても、あなたの犯した行為は……罪です。残念ながら」  居並ぶディトゥア達は彼に対して、めいめい言い放った。同族とはいえ、彼の為したことには同情の余地など無かった。 「だが、そなたの存在そのものを消されなかっただけ、まだ救いがあったと知るがいい。そなた、罰を受け入れるか?」  イシールキアの問いかけに対し、ひざまずく彼は言った。 「全て、受け入れます」  こうして彼の意識は封じられ、ディトゥアではなくバイラルとして幾多の転生を続けた。バイラルたる彼が生まれ育っていくのが常にフェル・アルムであったことは、運命なのだろうか?  この災いから数百年を経た今――ついに彼は覚醒した。 * * *  意識がハーンの身体に戻り――彼はゆっくりと目を開いた。彼は今、フェル・アルムの空高く浮遊していた。ずきんと、胸の奥が痛くなる。スティンで吸い込んだ“混沌”が、身体を苛んでいるのだ。  ――“混沌”がこの地にある。それをもって再び世界を掌握するか? 「そんなことはしない!」  その声に抗うように、ハーンは頭を抱えて叫んだ。  ――そうすれば絶大な力を持ち得るのだぞ? 滅び行くこの世界も安定するというのに。私自身の手によってね。  ハーンは、この声が自分の中から囁く声であることを知った。今までは単なる“知識”としてしか認識していなかった、“混沌”に魅入られていた時の自分が覚醒したのだ。 「だめだ! 僕はもはや過ちを犯さないと誓ったんだ! 〈帳〉やライカ、ルード達にね!」  ――人間に対して誓うなどとは、笑止。ならば……その脆弱な意識が吹き飛ばされるまで、本来の私が持っている闇の力にせいぜい抗うがいいさ! 「があっ!!」  途端に、ハーンは五体が張り裂けて飛び散ってしまうかのような激痛に苛まれた。心の奥底からわき上がる誘いに身を委ねてしまおうか? だがハーンはかたくなに拒絶し続けた。悶絶する中で、ハーンは今までの出来事や、人々を思い出していた。〈帳〉、ディエル、ナスタデンをはじめとするクロンの宿りの面々、ライカに――新たなる聖剣所持者ルード。彼らの想いを踏みにじるわけにはいかない。 「ルード! 君達は、色々と頑張ってきたんだ! 僕も……それに応えなきゃならない……そうか!!」  ハーンは突如悟った。  痛みや誘いに抗うことすら止めた彼は、目をつぶって押し黙り、内なる自分に話しかけた。 「……全てを受け入れよう」  ――全てを、だと? どういうことだ? 「“混沌”に魅入られていた時の僕を含め、僕の“記憶”に甦っている全ての僕自身を。結局のところ僕はただひとりの僕でしかないのだから、僕は全てを受け入れる」  内なる声はもはや押し黙り、それ以上語ることはなかった。と同時に、ハーンを苛んでいた激痛も収まった。  ハーンはゆっくりと目を開けた。 「僕は――“宵闇の公子”――」  負けたわけでもなく打ち克ったわけでもない。ハーンは臆することなく、自分が何者か、全てを受け入れたのだ。と同時に、ハーンの意識は再び深いまどろみへと落ちていった。そこに不安や不快感はなかった。 三.  黒い雲がまさに覆わんとしていた時には混乱の渦中にあったスティンの高原。災いが退いている今は、住民達も少し落ち着きを取り戻している。  ここは今までの高原ではない。のどかな日常を過ごしていた羊飼い達は、住み慣れたこの地を離れようとしている。ほんの一日前まではとうてい考えも及ばなかったことだ。彼らの感情は、悲しみの一言で言い表しきれるものなのだろうか?  だが、そんな人間の感情など些細なものとあざ笑うかのように、崩壊は着実に世界を侵しているのだ。  ムニケスの山を下り、高原の村に戻ったルード達は、真っ先にルードの家であるナッシュ家の門を叩いた。  予期せぬ天変地異に唖然となり、顔面蒼白となっていた叔母のニノだが、ルードの顔を見るなり彼女は破顔し、「よく帰ってきた」とルードの頭を抱えながらも涙を流した。  従姉妹のミューティースも堪えきれずにルードをきつく抱きしめ嗚咽を繰り返した。緊張の解けたルードは感きわまり、二人の身体にうずくまるようにして大声をあげて泣いた。  そして叔父のディドルはルードの肩を叩き、一言。 「よう帰ったな」  はじめて聞く、アズニール語の叔父の声だ。だが、それは変わらず暖かみのある声だった。家族の愛。ルードはナッシュの人々の暖かい思いをひしひしと感じ、再び涙をこぼした。 「ただいま」  ルードは泣きはらした顔を隠しもせず、家族に微笑んだ。  皆の気持ちが収まり、一段落したところで、ルードはライカを迎え入れた。フェル・アルムの言葉を解さなかったライカは、はじめてアズニール語で名乗った。  ルードの家族達には、ライカの髪の色は銀色に見えている。  〈帳〉のかけていたまやかしの術は、すでに〈帳〉自身が解いていた。この期に及んで、もはや隠すことなど何もない。 「ねえ、ハーンとは会わなかったの?」  ミューティースが訊いてきた。 (ハーン……)  先ほど、ハーンの変容を目の当たりにしたルードは一瞬顔をこわばらせたが、首を横に振った。 「そう……。ハーンも君に会うのを楽しみにしてたみたいだったのよ?」 「うん……残念だな」  ルードは言葉を繋げようとしたが思いとどまった。今さら嘘をついて何になると言うのか? ルードは言葉を正した。 「いや、違う。……そうじゃない。ほんとうは、ハーンには会ってきたんだ。ムニケスの山の中で、今さっき。俺達は、この場所でハーンに会えることを教えてもらっていたし、俺も会いたかった」  ルードの口からは自然に言葉が流れた。 「だけど、ハーンは“混沌”を追い払うために自分をなげうって……いなくなっちまった」 「どういうこと?」 「ハーンは無事なのかい?」  ミューティースとニノは、口々に訊いてきた。ルードは下唇をかみつつ、話すべき言葉を探したがついに出てこなかった。ルード自身ですら、未だに信じられない思いで一杯なのだから。 「……分からないよ。俺自身だって、ハーンのことで頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃってるんだから。ねえ、ライカ?」  ルードはどうすべきか、銀髪の彼女を見た。 「〈帳〉さんを呼んで、きちんと話したほうがいいと思うわ」 「そうしようか」ルードはうなずいた。「叔父さん」 「うん?」とディドル。 「……俺達は、家から出ていったあとに、いろんなことを知ったんだ。フェル・アルムのことを、それこそ色々とね。俺達は今まで、嘘で固められた世界で生きていたんだ。そして、そのつけが今になって現れてきてる。そうだな……」  ルードは頭をぽりぽりとかきながら、言葉を続けた。 「……うまく言えないけど、俺とライカ、そしてハーンがお世話になった人を連れてきている。“遙けき野”に住んでる大賢人様なんだ。その人と一緒になって考えてほしいんだ。俺達が、スティンの人達がこれからどうするかをさ」 「……分かっとる。とんでもないことが始まろうとしてる、ってえのは俺にだって分かる。なあルード。俺とお前は今、こうやって何気なく話してるわけなんだが、こんな言葉、俺は今までしゃべったこともない。これだってとんでもないことだろう? それにな、クロンから逃げてきた連中や、ハーンも言ってた。『世界中がとんでもないことになってる』ってな。それと……そうだ、ハーンにはすまないことをしたって思ってる」  ばつが悪そうにディドルは口を閉ざした。 「父さんは、ハーンが君を連れ去ったと思いこんでたからね。ハーンが昨日うちに来たんだけど、父さんたいそう怒ってね。ハーンの言うことを聞かないで、水をかけて追い返しちゃったんだから」  やれやれといった口調でミューティースが言った。 「でもハーン……心配ね」 「大丈夫だと俺は思ってる。ハーンならきっと……」  根拠など全くなかったが、ルードはそう思った。いや、そう思うほか無かった。 (ハーンとはまた会える。“混沌”の虜になるなんて考えたくもない! ハーンは無事に自分を取り戻すに決まってる!) 「〈じゃあ、帳〉さんを呼んでこよう」  ルードはライカとともに、門の外で待たせている〈帳〉を呼びに行った。 「父さん?」ミューティースは不安げにディドルを見た。 「これから何が起こるっていうの? さっきだってあんなに怖い思いをしてたって言うのに」 「分からん」  ディドルは娘の頭をぽんと撫でた。 「だが、あいつを信じるしかないだろうて。大丈夫だよ、ミュート。ルードは大きくなってここに帰ってきた。大丈夫だ」 「そうね。でもルードが無事でよかったよ……ほんとに」  ニノの漏らした言葉に、三人はうなずいた。 四.  それから――ルード達は家族に、友人に、全ての村人達に語った。ライカとの出会いから始まった、ルード達の行動のことを。世界が変動しようとしていることを。そして間違えば崩壊してしまうということも、全て隠さず話した。  集まった村人達に紛れて、幾人かの疾風が紛れていることをルードは察知した。が、疾風達はルード達を妨げる仕草や殺気すらみせずにたたずんでいた。害する意志など全く無いように。 「“混沌”によって大地が崩壊するさまを目の当たりにしてしまったならば、疾風とて自らの存在意義を見失うだろう」  〈帳〉の言葉どおり、全てを話し終えた後、疾風達はいつの間にかいなくなり、その後見かけることなど無かった。  ついにスティンの、いや、北方の民全体の意志はここに固まった。“混沌”をもたらす黒い雲を避けるために南へ向かうこと。それが全てだった。  そこから先は運命の渦中の者達が、為すべきことを成し遂げる。聖剣の“力”と双子の使徒の力によって“混沌”を追いやる。そしてデルネアと相対し、フェル・アルムを還元するすべを聞き出した後、それを発動させる。  ハーンの所在がようとして知れぬとはいえ、やり遂げなければならない。 * * *  時ははや、夕暮れを迎えようとしていた。世界全てを赤い光が包み込む。それは落ちゆく陽の暖かさを感じさせるもの。空も大地も一面真っ赤に染まり、彼方に流れるクレン・ウールン河は、光を反射して時折きらきらと水面を輝かせている。  高原の切り立った場所に膝を抱えて座り込むのはルードとケルン。二人はただ、大河の流れゆくさまをじいっと見つめていた。  あれは――春を祝う宴の時だった。二人は今と同じようにして彼方の大河を、ウェスティンの地を見やっていたものだ。嬌声、フィドルやタールの音色――そんなものが遠くから聞こえてきたのを覚えている。それから三ヶ月経った今。あの時のことはひどく昔のことのようにルードには思えた。 「ケルン。祭りの時にお前が言ってたことなんて……お前は覚えてないだろうなぁ」 「酒に酔っててそんなの覚えてないって。言ったろうに?」  ケルンはけたけたと笑った。 「ルード、お前も嫌なやつだよな。祭りの時の俺が酔っぱらってたのを知ってて、今さらその醜態を晒そうってのか? ひでえなぁ」 「馬鹿」ルードもつられるようにして笑い返した。  幼い頃から見知っている親友。彼と話す時に感じる独特の穏やかな雰囲気。それこそ何ものにも代え難いものだとルードはあらためて知った。自分が聖剣を持とうと、セルアンディルになろうと、ケルンがかけがいのない友人であることにまったく変わりはないのだ。 (そう。ケルンはあの時言ってたっけ)  宴の日。酩酊しながらも言い放ったケルンの言葉を、ルードは思い出していた。 (この世界では海の向こうに陸など無いし、“果ての大地”の向こうに別の国なんて無い――ケルンはそう言ってた。それが当たり前とされて考えてたことだから。でも、元々はそうじゃなかった。フェル・アルムがアリューザ・ガルドの一部だった頃には、この海の向こうには大陸があったんだろうし、ここから北の大地をずうっとのぼっていったら、その大陸と地続きになっていたはず。それが本当にあるべきごく自然の世界なんだ) 「……でも、見てみたいよな。海の向こう。どんな世界が広がってるのかな?」  ケルンの願いはルードの思いと同様だった。ケルンは落ちていく太陽の方角をじっと見つめて大きく伸びをした。 「ま、そのためには色々としなきゃあいけないことってのがあるんだよな」 「……ああ」  ルードは気の抜けたような声で返した。そうだ、するべきことはたくさんあるのだ。 「なあ、一回しか言わないから、ようく聞いとけよ!」  ケルンは突如すくりと立ち上がって言い放った。 「お前や〈帳〉さんのようにだ。世界そのものを救うとか、元に戻すとかいった力なんざ、俺達は持ち合わせていやしない。でもな、少なくとも心の支えにはなれるつもりだ。俺だけじゃない。シャンピオもストウもいる。うちの親父さん達、それにお前んとこの家族――いや、スティンの連中全員がお前の支えになってくれるだろうさ。 「頑張れ。俺にはそれしか言うことが出来ない。でもみんながお前を応援してくれてるっていうのは、大きな支えになると思わないか?」  ルードはこみ上げてくる熱いものを感じ、顔を膝頭に押しつけた。ケルンは、ルードを気遣うように少々距離を置くと、ゆっくりと周囲を歩きながら赤く染まるウェスティンの平原を眺めるのだった。  ややあって。 「……な、なあルード。いいかな?」  ケルンはさすがに声をかけずにいられなかった。眼下に広がる平原は、普段よく目にしている情景なのに、明らかに異質と思える変化を見つけたからだ。  ルードはズボンで目元を拭うと、ゆっくりと顔を上げた。 「あれ……なんなんだ? 前からあんなのがあったっけ?」  ケルンはやや訝しがりながらも、彼の感じた違和感の元凶を指で示した。 「ほら、見えるか? そこ……もうちょっと右だ。河があってその奥に木がたくさん生い茂ってるとこがあるだろ?」 「うん」ルードはうなずいた。 「で、そのちょっと手前……黒い何かが見えないか?」  ルードは目を凝らして、ケルンの言う場所を見つめた。確かに、あの辺りには草地しかなかったような記憶がある。それなのに黒い染みのようなものが見えているのはなぜだろう? しかもそれは静止しているわけではなく、やや動いているように見受けられる。  ざわざわとした嫌な感じ。体の中を悪寒が走り抜けたような気がして、たまらずルードは立ち上がって、さらに目を凝らして目標を見つめた。 「生き物? 羊の群か?」  言葉ではそう言いつつも、ルードは内心不吉な予感がしていた。心なしか、その場所からは強く敵対する意志が伝わってくる気がするのだ。 「まさか、魔物ってやつじゃないだろうな」  ケルンは声の調子を落として言った。 「いや、違うような気がする。大勢の……人なのかもしれない。……けど、なんだかひどく嫌な感じがするぜ……」  ルードの予感は的中した。  ――その報がスティンの高原に伝えられたのは夜になってから。南方の行商から帰ってきたシャンピオによって伝えられた。  中枢の戦士達が、北方に巣くうニーヴルを討つために進軍している、と。  その数は二千。そして将の名は――デルネア。 § 挿話 その、前日のこと  水の街サラムレにて。  小さな旅籠のベッドに突っ伏したまま、ルミエールは物思いに沈んでいた。サイファとエヤードとともに、この街に来るまでの間にも、彼女は自分の目で混乱の最中にあるフェル・アルムのさまを目の当たりにしてきた。  突如出現してくる異形の化け物。言葉の変遷。  そして、それらの変動に自身が耐えきれず、心が虚ろになってしまった人々。それとは逆に、神君ユクツェルノイレに盲目的なまでの救いを求めて祈りを捧げる人々。  それらは、今までのフェル・アルムを否定しかねないほどの強烈な混乱であった。  フェル・アルムはこの先どうなってしまうのか? それは、自分の中でもうまく考えがまとまり切れていない。  それなのに、先ほどさらに衝撃的な報を伝え聞いたのだ。 『北方に巣くうニーヴルを倒すため、烈火は挙兵したのだ』と。サラムレの街中は、すでにその話題でわき返っていた。 「デルネアは――あの烈火の将軍は、いったい何をしでかそうと考えている?」  デルネアが野心を抱いていることを知ったが、未だ彼の思惑が見えてこない。フェル・アルムへの反逆を企てるのであれば、烈火の戦力を得た時点でアヴィザノを陥落せしめていたはずだ。最強を誇る烈火に敵う兵力など、フェル・アルムには存在しないのだから。  だからこそ、彼の行動がおそろしく不気味なものに感じられる。 (デルネアの真意は突き止めなければならないのだけれど……。怖い!)  ルミエールは自分自身を守るかのように、両の肩をぎゅっと握りしめた。  烈火の行軍はことのほか早く、サイファ達がサラムレに着いたと時を同じくして、烈火は街をあとにしようとしていたのだ。烈火が向かっていたのは、サラムレ東方の水門。東回りのルシェン街道に沿って、ウェスティンの地を経て北方に向かうというのだろう。  ルミエールとエヤードは、烈火の後を追おうとしたが、水門に向かうための全ての船は二千からなる烈火が占拠しており、二人は烈火を目の当たりにしながらもなすすべなく、ただ呆然と見送るしかなかった。  そして――街を立ち去る烈火のしんがりに、“彼”を見つけたのだ。そして、“彼”のほうも、こちらのほうを一瞥したのだった。その時の狼狽した表情が忘れられない。およそ、宮中で見せている趣とは異なっているのだが――。  黒づくめの衣装に身をまとってはいるが、“彼”には宮中で幾度か顔を合わせている。つまり司祭に。 (なぜ、司祭が烈火と行動をともにしているの?)  自分の心に問うてみても、答えなど出るはずがない。やはり、直接司祭に話を訊くしかすべはないだろう。しかし、怖かった。 (顔が知れてしまった……私とエヤードがここにいるということが。その場にサイファが居合わせなかったのが、せめてもの救いではあるけれど)  ルミエールは、ガタガタと震えている自分に気がついた。 (なぜ、私はこんなに怖がっているのかしら? 分からない、けど不安でしようがない!)  その時、ルミエールの部屋の扉が軽く叩かれた。 「……誰?」  ルミエールは半ば警戒し、剣を手元にたぐり寄せながらも問いかけた。 「俺だ。エヤードだ。……少し、いいかな?」  その声を聞いて、ルミエールは安堵の溜息をついた。 「ええ、入ってきてもいいわよ。父上」  だが、エヤードの様子を見るなり、彼女はひどく狼狽した。エヤードの左腕には自分で巻いたのだろうか、包帯が巻かれており、未だに血がにじんできていたのだから。 「どうしたの?!」 「……大丈夫だ。腕をかすっただけだからな」  エヤードはぎこちなく笑ったが、やはり無理をしているようだ。 「とにかくここに腰掛けて。新しい包帯を巻いてあげるから」 「すまないな……そうしてくれると助かる……」  そういって腰掛けると、エヤードはがっしりとした腕を差し出した。ルミエールは傷口を痛めないように、丁寧に包帯を解いていく。二人のやりとりは、隊長と部下ではなく、娘と父のそれであった。 「かすっただけなんて嘘じゃない。この傷は一体どうしたの」  ルミエールは顔をしかめた。傷自体は大したことがないようにも見えるのだが、その細い筋のような傷は、その実、骨が届くくらいの深さまで達しているようだ。剣の、しかも暗殺のための剣の扱いに卓越した者の仕業であることが、剣士であるルミエールには分かった。 「さっき、街中を歩いていて、ぶつかってきた奴がいた。そのぶつかりざまに剣でざっくりとやられたのだが……あれは間違いなく殺人のための剣さばき。疾風とみて間違いない。もし、俺の避けるのが遅かったら、どうなっていたことか」  エヤードは、新しい包帯の慣れない感触に顔を歪ませながらも答えた。 「疾風?!」  ルミエールは声を押し殺しつつも、驚きを隠せなかった。フェル・アルムの歴史に暗躍してきた疾風といえど、彼らが理由もなく殺人を行うはずがないのだから。 「なぜ、疾風が……あなたを襲ったというの……」 「誰の差し金かは……司祭殿を置いて考えられないな。これは烈火の……奴らなりの……一種の警告みたいなものだろう。『追いかけてくるな』という……」  ルミエールの胸中が、恐怖のためにきりりとうずくのを感じた。 「やはりあの時――私達が烈火を追って司祭殿と会った時に、私達の顔は知れてしまったのね。でも、司祭殿に私達が烈火を追っていると知られたとしても、同じ宮中の人間に対して刃を向けるなんて、そんなことが考えられる?」 「もはや、奴らには宮中の人間だろうが関係ないんだろうさ。目的のためには容赦なく命令を実行する。何が目的なのかは、皆目見当も付かないが……しかし、デルネアの暴走はくい止めなきゃあならない」  エヤードはルミエールを見つめた。 「すでに、東の水門から出るための船は確保した。ルミエール。俺と一緒に街を出よう」 「え……サイファは……? 置いていくというの?」  エヤードはうなずいた。 「ルイエをお護り申し上げることこそ、誉れ高き近衛兵の任務。しかしながら、今、俺達と行動をともにするということが、逆にサイファにも害が及ぶことになりかねないんだ。だから不本意ではあるけれども、俺達だけでデルネアの思惑を突き止める。サイファには、俺達が帰ってくるまでここで待ってもらうんだ。あの子がルイエとして行動を起こすのは、それからでも十分だ」 「……たしかに、近衛兵としては殊勝な心がけだな!」  その時、サイファがノックもせずに部屋に入ってきた。 「サイファ!」  エヤードとルミエールの驚きの声が、思わず重なる。 「いったい……いつから話を聞いてたの?」 「父上と疾風がうんぬんのあたりから、かな!」  サイファは憮然とした表情のまま、どすんとベッドに腰掛け、足を組んだ。見るからに機嫌を損ねているのが明らかだ。 「私を置いていくというのか?」  口をとがらせ、サイファはぎろりとエヤードを睨んだ。 「いや、しかし陛下の身に何かあってからでは……」  そこまで言ってエヤードは言葉を止めた。サイファが唇をかみしめ、わなわなと震えているからだ。サイファはエヤードをきっと見据えると言い放った。 「ルイエではない! 今の私は、サイファだと、言っているだろう!」 「サイファ、ちょっと、落ち着きなさいよ」 「こう見えても、私はいたって冷静なつもりだぞ! ルミ!」  顔を赤くして怒るそのさまは、激昂しているようにしか見えなかった。サイファの感情の起伏が激しいというのは、ルミエールも長年のつきあいでよく分かっているが、ここまでサイファが怒りを露わにするのも珍しいことである。さすがのルミエールも、ただ狼狽するしかなかった。 「……分かったよ、サイファ」  エヤードが言った。 「たしかに、俺のほうが間違っていたのかもしれない。今の俺達はマズナフ一家だ。どんなことがあっても、娘を置いて先に進むなんてことは出来ないよな? サイファ」 「分かってくれればいい。そしてありがとう。家族としてみてくれているのが何より嬉しいんだ。私の……わがままなのかもしれないけど、家族というのがこんなに心地いいものなんだとは、長いこと忘れていたような気がする」  サイファはばつが悪そうにそっぽを向いた。 「約束して欲しい。もうこんな抜け駆けなどしない、と」 「ええ、では……神君に……いえ、サイファにかけて、抜け駆けなどしないことを誓うわ」 「私などにかけても、誓いに効力など無いかもしれないぞ?」  そう言いつつも、サイファはどこか嬉しそうだった。  フェル・アルムにおいては、物事を誓う時、まず神君ユクツェルノイレに対して誓うのが慣習となっているのだ。 しかし、今のルミエールにはなぜかそれが躊躇われた。 (やはりサイファと同じように、心の底で私も神君の存在を疑っているに違いない。こうまでまざまざとフェル・アルムの実状を目の当たりにしてしまうと、今までの平穏な千年間がまるで意図的に作られたもののようにすら思える)  ルミエールは思った。  その夜。  サイファ達は水門をくぐり、クレン・ウールン河の静かに流れる音を左手に聞きながら、漆黒に包まれた街道を歩き始めた。この先にあるのはウェスティンの地。十三年前に戦いが繰り広げられた悲劇の平原である。烈火はそこで逗留しているのだ。もちろん、デルネアその人も陣を構えているに違いない。彼は今、何を思って平原に留まっているのか?  今までだって、不吉とされる“刻無き時”を徹して旅を続けていたが、こうも不安や恐怖にとらわれることなど無かった。サイファは無意識のうちに胸元の飾りを――ジルからもらった珠を――探っていた。言葉にこそ出さないものの、彼女も恐怖を覚えていたのだ。それは、彼女自身が未だかつて感じたことのない、死への恐怖だった。  エヤードは疾風に襲われたのだ。デルネアに真相を問いただす前に、あの野心家の暴走を止める前に、自分がやられるかもしれない――そんな恐怖心がサイファを苛んでいた。  しかしながら、それでも前に進むしか道はないのだ。このまま引き返して、アヴィザノの宮中で烈火の報せを待つのも一つの手かもしれない。烈火のはたらきによって、再び平穏たるフェル・アルムが戻るというのならば、それでもいいだろう。  しかし、それが真実を隠蔽したままの平穏であることをサイファは知っている。そして、そのようなかりそめの平穏は、いずれ大きな悲劇や災厄を招くであろうことを予感していた。それだけは絶対に避けなければならない。だからこそ、自分達は恐怖に駆られつつも進むのだ。  自分ひとりでは弱いかもしれないが、支えてくれる人々が、エヤードにルミがいるのだから。  だが、その彼らを失った時、自分はどうするのか。  そればかりは考えたくもなかった。  そして次の日の夜となる――。 § 第九章 それぞれの思いと 一.  忌まわしい夜がまた訪れる。  それが意味するものは、絶望と滅びにほかならない。  ウェスティンの地に夜霧が立ちこめていき、周囲の低木がたちまち視界から消え失せる。漆黒の空は分厚い雲に遮られ、湿り気をおびた風が強くなる。  ドゥ・ルイエ皇からの勅命が出てからというもの、烈火は留まることなく黙々と北方への進軍を続けていた。が、烈火の将デルネアの命により、今はこのウェスティンの地にて進軍を留めている。 「どうやら将軍は、ここより先に進むのをためらっているようだ。いよいよになって怖じけづいているのか?」  そんな風説が烈火の戦士達にひそかに囁かれるも、当のデルネアの姿を見た者は、そんな噂を打ち消しにかかった。将軍には何か策があるに違いない。ここはかつて奴らを葬り去った場所なのだから。  駐留を始めて二日目には、烈火達はそう思い始めた。 * * * (いよいよ……か。近づきつつあるのを感じる。その時が)  デルネアは深夜の平原にひとり立つ。  トゥールマキオの大樹の中にいた頃に感じた、あの強力な“力”の存在。今また、大樹から遠く離れたこの地にて、微弱ではあるがその存在を感じ取っていた。さらには、“力”を持つ者の意志をも。それは、疑念、畏怖、そして敵視。 「来るがいい。“力”を持つ者よ。我はここにいるぞ。お前が見識ある者であれば、烈火が北の民を討つなど、ましてニーヴルの存在など根も葉もないことと知っておろう。烈火の暴走を見逃すはずがあるまい? さあ、暴走を止めようというのならば、来い」  フェル・アルムの調停者は低い声でつぶやくように、立ちこめた霧に向かってひとりごちた。  そして、我にその“力”を捧げるのだ――!  不意に、デルネアはかつての盟友、〈帳〉の顔を思い出した。 (〈帳〉……)  心の中でデルネアは、力を失った友人に呼びかけた。 (お前のことだ。もうすでにこの異変には絡んでいることであろう? 世界がほつれつつある、というのだからな! ……だが、お前の些細な心配などもう必要ない。ことは我の思うままに進むであろうよ)  背後からひたひたと近づく気配に気付き、デルネアは振り返った。 「……誰か?」 「失礼を致しました。〈要〉《かなめ》様」  恭しげなしゃがれ声が聞こえ、黒装束に包まれた〈隷の長〉が霧の向こう側からぬっと現れた。 「今度はなんだ」  デルネアの声色があからさまに厳しさを増す。 「また討ち漏らしたというのか。次は無いと言ったはずだが」  〈隷の長〉は、主の言動を予想してはいたものの、恐れおののき、許しを求める罪人のごとくたじろいだ。 「……ご報告、申し上げます」  しばし、畏れのあまり声が出なかった〈隷の長〉はようやくわなわなと声を震わせた。デルネアは顔色一つ変えていない。が、〈隷の長〉には分かっていた。デルネアは純粋な怒りの感情をその奥に秘めているのを。その感情が〈隷の長〉を真っ向から襲っている。強い意志を持っていないと意識など消え去ってしまうだろう。 「ここ数日、烈火をつけ回していた者達ですが、ようやく疾風によって片を付けました」  〈隷の長〉はデルネアの顔色を窺うかのように、そこで報告を止めた。 「……続けよ」  デルネアは冷たく言い放った。 「――向かわせた疾風の二人は、件の者どもを完全に片づけました。……惜しむらくはかの敵と相討ちとなりましたが、それも致し方なかったやもしれませぬ。何しろ――」  〈隷の長〉はその者達の名を告げると、デルネアに恭しく一礼し、立ち去ろうとした。が。 「二人……。わずか二人の疾風だと? ……なぜ二人しか疾風を動かさなかった?」  憤りに満ちたデルネアの言葉に、〈隷の長〉は足を止め、再び主に向き直らざるを得なくなった。 「……ひぃ?!」  彼は奇声を上げ、やや後ずさった。  デルネアの右手に握られているものは蒼白く光る剣。デルネアは一歩前に出るともう一度、同じ質問を繰り返した。 「なぜ二人なのだ?」  デルネアの殺気を全身に浴びた〈隷の長〉はただ何も言えず立ちすくむのみ。 「……〈隷の長〉よ、無くなるか?」  それが意味するところは死。デルネアは冷徹に言い放ち、剣の切っ先を下僕の額に突きつけた。老人の額が割れ、鮮血が吹き出るのも構わず、デルネアは切っ先を少し押し込んだ。 「貴様を〈隷の長〉にしたのは我の愚かさよ! もとより、貴様は隷となった頃からすでに自我を持ち過ぎていたのだからな。我はさきにも言ったはずだ。烈火をつけ回す蝿どもは、その正体いかんに関わりなく、消せ、と。我が命のみを聞いていればよかったものを……お前は愚かにも先走り、件の者どもの正体をつかんでいたな? だから殺せなかった。フェル・アルム王室――ルイエに繋がる者どもだからな」  黒装束の足下の地面は、赤く染まっていく。血まみれになった〈隷の長〉は、眉間に剣を突きつけられたまま、恐怖におののいた目を左右に動かして周囲の様子を窺った。誰かに助けを求めようというのか。 「安心せよ。周囲には誰もおらぬ」  デルネアは歪んだ笑みを浮かべる。 「今一度問う。貴様の主は誰か? ――我か、それともルイエか。申せ」 「むろん〈要〉様――デルネア様をおいてほかにございません」  隷の長はぎこちなく口を開けて、声を発した。 「ふん」  デルネアは剣を手元に戻した。  張りつめた糸がぷつりと切れるように、〈隷の長〉は力無く倒れた。意識を半ば取り戻した彼は、両手を地面について荒い呼吸を繰り返した。 「確かに……私自身が躊躇した面というのもございます」  老人は、襲いかかる畏怖の念のあまり、もはやデルネアを見上げることが出来ず、目の前の地面に向けてひとりごちるかのように、ただぶつぶつと言葉を続けた。 「しかしながら、疾風を二人しか割けなかったのは、致し方ありませんでした。疾風の中にも、かの黒い雲や魔物を恐れている者が多数出ており、北方より逃げ出す者すらいる始末。……そのような現況です。まともに動ける疾風を見つけだすのに無駄な時間を要してしまいました。……どうか私めを無くすのだけはお慈悲を! 平にご容赦下さい!」  なりふり構わず、老人は地面に何度も頭を打ち付けて謝罪した。 「無能が」  ざん、と。ためらいもなく、デルネアは剣を振り下ろした。  それまで〈隷の長〉であった老人は、悲鳴を上げる時間もないまま、絶命した。 「誰か!」  デルネアは大声をあげ、周囲に響かせた。やや遅れて、烈火のひとりが駆けつけてきた。まだ若いその戦士は、やや眠そうな顔であったが、地面に伏せている骸を見るなり顔をしかめ、デルネアに問いかけた。 「将軍閣下。……この者は一体?」 「我が側近のひとりであったが、その実ニーヴルであったことが分かった。だから処刑したのだ。この汚らわしいものをどこかに捨て置け」  デルネアは偽った。烈火の戦士の二言めを言う機会を与えず、デルネアは立ち去った。 (……小娘め。このデルネアの動向を疑わしく思うなぞ、なかなかの観察眼よ。しかしもはや、お前の切り札は尽きた。お前の邪魔は入らぬぞ。全ては、この地にて決着をつけるのだからな! ――そして、全てが新たに始まるのだ)  と、デルネアは、頭上にぽつりと落ちてくる雨を感じた。 「――雨……いや、嵐になるか」  デルネアは、空一面に低くたれ込めた雨雲を見やり、そして天幕へと入っていった。  いつもはからりと晴れ、ともすれば暑苦しい夏の夜だというのに、この夜はやけに寒々しく、じっとりと重苦しいものに感じられる。  ほどなくしてウェスティンの地には、草や地面に激しく打ち付ける雨音しか聞こえなくなっていた。 二.  サイファは絶望感に打ちひしがれながら、直面している現実がなんと酷なことなのか、と呪った。これが現実なのだとは、とてもではないが思いたくない――。  腹部から滲み出る血とともに、近衛隊長――ルミエール・アノウの生気は徐々に奪われていく。サイファは、家族とも言える友の体を抱きしめながら、ルミエールの死期が近いことを愕然と感じ取っていた。  ルミエールと過ごしたかつての生活、近衛隊長となったあの日のルミエール、そして――。信じがたいがまもなく訪れるルミエールの死。ルミエールを道中の護りに選んだのはほかでもない、サイファ自身だ。しかしなぜ彼女が、ルミが殺されなければならないのか!  回想、悲しみ、後悔、怒りと憎しみ、そしてそれらとともにある、どこか虚ろな感情。――さまざまな思いがサイファの中を錯綜し、彼女はさらにルミエールの体を強く抱きしめた。唇は固く結んだまま。そうしていないと、自分が自分自身を保てるかどうか、怪しい。両の頬を伝う涙とともに、激情に身を委ねたい気持ちを、それでも懸命に抑えつつサイファは唇を噛んだ。  ルミエールも泣いていた。色を失った唇をわなわなと動かしながら、絞り出すように声を出した。 「あなたは……ルイエなのでしょう? 国王たる者が……。たったひとりの人間のためだけに涙を流すのは……それは王道ではないわ……」 「馬鹿っ!!」  サイファはルミエールをきっと見据え、かすれ果てた声で怒鳴った。  ルミエールの瞳の、なんと澄んでいることか。それは彼女自身が死を悟ったためなのだろうか? と思うと同時に、それまで必死に我慢していた嗚咽が堪えられなくなる。 「怒るわよ、この期に及んでっ!! なんっで……そんなことを言うの?! それはあなたの本心?! だとしたら怒るわよ! そんな王道論なんてどうでも……国王だから一体なんだというの?! ルイエは人ひとりのために泣くことが出来ないの? もしそうだと言うんなら……今の私は、ルイエじゃない! サイファだ!」  一気にまくし立てたサイファは堪えきれず、ルミエールの胸元に顔を埋めると大声で泣き叫んだ。 「ごめん、ルミ、ごめんなさない! 私がルミを連れてくなんて言わなかったら、こんなことにはならなかったのに! ごめんなさい……」  ぽんぽんと、サイファの背中が叩かれた。サイファはどうしようもなくあふれ出る涙を飲み込み、すっと顔を上げた。  泣きはらしているのはルミエールも同じ。彼女はにっこりと笑ってみせると、再び口をゆっくりと開いた。 「……エヤードがお父さんで、私達が姉妹で……少しの間だけだったけど、家族を感じられて楽しかった……」 「うん……うん!」  サイファはルミエールの手を握りしめた。冷たくなってしまっている肌を感じてしまうことが悲しかったが、それでも握らずにはいられなかった。 「だから……あやまらないで……」  ルミエールは静かにそう言うと、両のまぶたを閉じた。  サイファは黙ってうなずき、再びルミエールを抱きしめた。  もう、彼女は死に向かおうとしている。呼吸がゆっくりと繰り返され、そして――  最後に一度、大きく息をはいて、ルミエールは亡くなった。  深夜。ぽつり、ぽつりと降り出した雨は、やがて大粒の雨となって二人の体を容赦なく叩き付ける。  サイファはただ、ルミエールの体を抱きしめていた。 * * *  ほんの三日前。烈火を追って旅立ったサイファ達は、身分を隠すために家族を演じることにした。近衛兵のエヤード・マズナフが父親。ルミエールが姉役で、サイファは妹だった。  初めは戸惑いながらも自分達の役割を演じていた彼らだが、家族の温かみを感じ合うまでそう時間はかからなかった。三人とも、すでに本当の家族がいなかったから、なおさら思いは募っていった。お互いがお互いのことを、本当に大切に思っていたのだ。  デルネアの暴走を知った彼らは、何としても烈火達をくい止めたかった。  道中目にしていたのは、たちの悪い盗賊や、正常な意識を失った人々、そして魔物達。苦労を重ねつつも、烈火達の進軍に追いついた彼らは、遠巻きにして監視を続けていた。  ついにエヤードとルミエールがデルネアの素性を突き止めたその矢先、二人は疾風達と出くわした。激しい攻防の果てに疾風を倒したものの、エヤードは惨殺されその亡骸がどこにあるのか分からなくなってしまった。かたやルミエールも致命傷を受けた。ルミエールは必死の思いでサイファのもとに辿り着いたのだが――。  サイファは突如、絶望に襲われた。  今や、彼女を護る者などいない。家族と呼べる者もいない。サイファは、ひとりになってしまったことにはたと気付いて、再び涙を流した。  激しく打ち付ける雨はいつしか止み、絶望的な夜もやがて明けた。季節は夏だというのに、もはや暑さを感じない。温度という概念を世界が忘れてしまったかのように、虚ろだ。  今日になって、ついに日の光までも失われた。昨日まで〈空〉と呼ばれていた場所に広がるのは、虚ろな一面の灰色。それは迫り来る“混沌”によるものなのか、それとも、この孤立した空間が本来持っていたごく当たり前の色なのか?  そのきわめて曖昧な空のもと、サイファは未だにルミエールの亡骸を抱きしめていた。  現れては消える、さまざまな感情の果てに残ったのは、己の無力さ。結局自分は何も出来ないままだった。いったい何がドゥ・ルイエだというのか? 王宮から離れれば、ただの一介の人間に過ぎないというのに。アヴィザノで、いっぱしの口を叩いていた自分自身を思い起こすにつけ、無力感でいっぱいになった。 「私ひとりで……何が出来るというの?」  サイファは自虐的に笑った。ルミエールとともに、ここで朽ち果てるのがいいのかもしれない。サイファは、ずぶ濡れのままうずくまっていた。この虚ろな灰色の空こそ、今の自分に相応しいと思った。  北の空を覆い尽くすのは、禍々しくも黒い空。それはすでにスティンの山々をすっぽりと隠していたが、なお南方を襲わんという忌まわしい意志すら感じられるようだった。 (この世界は、そう遠くない日に破滅するんだ)  根拠などはない。サイファは直感でそう感じた。 (このまま……世界が消える前に、消えてしまいたい……)  もはや破滅しか自分自身の願望がないようにすら思えた。しかしそんな思いとは裏腹に、彼女は先ほどから胸元の飾りを握っているのだった。瑠璃色の珠。トゥファール神の使い、ジルからもらった珠だ。サイファは指先でそれをいじりながら、いつしか無意識に言葉をつぶやいていた。 「……エブエン・エリーブ……」  サイファは幾度となくその言葉を繰り返した。四回ほど言った時、ようやくサイファは、自分が呼び出しの言葉を発しているのに気が付いた。ジルを呼び出す呪文であるそれを。 (そうか……やっぱり救いを求めているんだな、私は)  生への渇望と、かすかな希望にすがる気持ち。心の奥底に眠っている感情に気付いた彼女は、冷たくなったルミエールの顔に頬を押しつけ、さめざめと泣いた。 * * * 「姉ちゃん……」  どのくらい経ったのだろうか? サイファの耳にあの親しみ深い声が聞こえてきた。南方アヴィザノから空間を渡って、ジルがやってきたのだ。 「ジル……だね?」  サイファは姿勢を崩さずに、声を返した。 「ごめん……もう少ししたら動けると思うけど……しばらくこのままにしておいてほしい」 「うん」  ジルは小さくうなずいた。 「助けが必要なんだね?」  サイファは涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を上げ、ジルをじっと見据えた。 「……気が付いたら私はジルを呼んでいた。このまま死んでしまってもいいと思ってたはずなのに! でも私の心はそう思ってなかった……。もっと、もっと生きていたいと、そう思っていたんだ……」  サイファは、ぎゅっと唇をかみしめると、顔をしわくちゃにして嗚咽を漏らした。 「どうすればいいんだろう? ねえ、どうしたらいいと思う? エヤードもルミもいなくなって、どうしたらいいんだか、分からないのよ……」  ジルは膝を曲げて、横たわっているルミエールの頬にそっと触れた。 「ニーメルナフの力もて、この人の汚れ亡き魂が、無事にかの地にて安らぎをえんことを」  ジルであっても、死んだ者を生き返らせることは出来ない。彼は片膝を落としてルミエールの冥福を祈った。どことも知れぬ天高くから、もの悲しく甲高い鳥の鳴き声が一声響いた。 「あれはレルカーン……“浄化の乙女”ニーメルナフの大鷹が鳴いているようだね……」  ジルはそっとサイファの背中を撫でた。 「私にも聞こえてる。悲しいけれど、どこか暖かい鳴き声……」 「おいらは……兄ちゃんの、ディエル兄ちゃんのところに行くのがいいと思ってる……。それしか思いつかないけど、何となくそれが一番いいように思えるんだ」  サイファは黙ってうなずいた。 「ジルがそうするのがいいと思ってるのなら、そうしよう」  サイファは再びぎゅっとルミエールを抱きしめた。 「でも……ルミはどうしたらいい?」  ジルは目線を落として眉間にしわを寄せた。 「……かわいそうだけど、このまま……」 「いや!」サイファはかすれきった声をあげた。 「離れたくないよぉ……」 「分かるけどさぁ、姉ちゃんの気持ち……でも、その人だってもう眠りにつきたいと思ってるはずだよ、きっと。だから……ね、分かってよ」  サイファはしばらくルミエールの胸に顔を埋めていたが、小さく首を縦に動かした。 「ルミは……私が埋葬する」  サイファはよろよろと立ち上がると、腰から短剣を抜き出して、地面に打ち付けた。かつかつと音を立てながら、サイファは無心で剣を打ち付ける。 (この剣で命を絶とうと思えば出来ていたのに……私は思いつきもしなかった)  今、こうして剣を振り下ろしている力がどこから来ているのか? それは生への執着からにほかならなかった。  サイファはルミエールの体を抱え上げ、今し方作った穴の中にゆっくりと横たわらせた。ルミエールの表情は、穏やかに見えた。 「ねえルミ。私は何を言ったらいいんだろうか? ……エヤードが見つからなくてごめん。でも、あなた達の思いを、私は無駄にはしない。サイファ自身として、そしてフェル・アルム国王ドゥ・ルイエとして、私は神君に……」  言い慣れた言葉がついと口から漏れたので、サイファは言いよどんだ。 「いや。神君などいない。私はルミとエヤードにかけて誓う」  サイファは毅然として言い切ると、亡骸の上に土をかぶせ始めた。 (もう、ルミの姿をこの目で見ることはかなわないんだ)  そう思うと、枯れ果てたはずの涙が再びこぼれた。  最後の土をかぶせ終わると、サイファは墓前に剣を置いた。柄の部分に聖獣カフナーワウの紋章が入った、近衛兵の剣だ。 「私は、結局は弱い人間だ。だけれども、デルネアの暴走を止める。私ひとりでは駄目かも知れないけれど、何かしら方法はあるはずだ……。だから、今は行く。でも、また戻ってくるからね……ルミ」  サイファは剣をとり、後ろ手に回して――ばさりと後ろ髪を切り捨てた。漆黒の髪の、その豊かな一房をじっと見つめていたが、サイファは剣とともに墓前に置いた。 「さ、ジル。行こう」  サイファはジルに促した。ジルはうなずくと、サイファの手を取って、大きく息をついた。 「じゃあ姉ちゃん。空間を渡るよ。いいね?」 「いいよ」  ジルは口を開き、“音”を発した。と同時に、二人の姿はウェスティンの地から消え失せた。 三.  つかの間、奇妙な浮遊感に全身を委ねていたサイファだが、気がつくと再びフェル・アルムの地面に足をつけていた。  辿り着いたのは小さな山麓の村。サイファ達の立っている場所がどうやら村の中心地らしいようで、織物の工房が軒を連ねている。何という名の村なのだろうか、そう思う間もなく、サイファは突進してくる人を避けきれず、どん、とぶつかり、勢いよく跳ね飛ばされた。 「あんた、こんなとこで何をぼさっとしてんだよ?! 死にてえのか!」  浴びせかけられたのは怒声。見ると向こうからは、人が波をつくるように後から後から押し寄せて来ているではないか。人々は、我先にと言わんばかりに急ぎ足で、ある者は周囲を蹴散らさんばかりに、必死の形相をして先を急いでいる。そのあまりの人の数に、もうもうと土煙が舞い、大地も揺れていた。  サイファは状況がつかめないまま、ジルの手を引き、人並みをかき分け横切っていった。疲労困憊となった身にはたいそう堪える。サイファは大きく息をつくと、周囲を見渡した。  必死の形相をした人々の波は、とぎれることなく続いている。普段は閑静であろう田舎のたたずまいは、怒声や悲鳴、子供達の泣き声で溢れているのだ。  サイファは、そんな人々がやって来ている方角を見た。 「なんだ?! あれは!」  “混沌”を象徴する忌まわしい黒い雲が、動的にうねりながらも徐々にこちらの方向へと向かってきている。灰色に覆われた曖昧な空と、黒い雲との境界を見たサイファは、人智を越えたこの世ならざるものをかいま見た気がして、本能的な恐怖を覚えたのだった。 「見ろ! 化けもんがでてくるぞ!」  人々のざわめきは突如、恐怖を表す悲鳴と化した。元々は木々が林立するはずの風景がいびつに歪曲したかと思うと、そこから異形の魔物が数体出現したのだ。辺り一面に臭気が立ちこめる。魔物達はためらうことなく、恐慌する人々目がけて、おのが持つおぞましい複数の口を開けて突進していく。  運悪く、この場所には戦士がいない。人々は迫り来る脅威を前にしてなすすべがないのだ。血で血を洗うような惨劇が始まるのか――サイファはそう絶望した。  が、その時。 「“混沌”の先兵か!」  言いつつジルは駆けだした。彼は空間を渡って魔物の前で姿を現した。異形のもの達を前にして臆することなく、ジルは両腕を大きく――円を描くようにして――振りかざす。  空に描かれた円は、すぐさま具象化した。薄ぼんやりと輝く円鏡のようなその円は、膜のように広がると、目の前の魔物達を包み込み、それらとともに忽然と消え失せた。  目の前の脅威が突然いなくなったことに呆然となっていたサイファだが、ようやく気を取り直した。 「これ……は、この化け物達は、一体?」 「“混沌”が押し寄せてきている。こいつらはその先兵どもさ。おいらにはやっつける力がないから、こいつらがもといた空間に押し戻してやったんだけどね」  ジルはことも無げに言った。 「おいらが南のほうでのうのうとしてる間に、この世界は凄いことになっちゃってたみたいだね! このままだとこの世界が、フェル・アルムが終わっちゃうよ!」 「世界が滅びる、というのか」  終末。それは常識ではとても考えられなかったことであり、一ヶ月前のサイファであったとしても、そんな概念など到底受け入れることは出来なかっただろう。  しかし今のサイファは、そんな信じがたい情景を身をもって体験しているのだ。蒼い色を失った空を見た時点で、サイファは世界の崩壊を予感していたのだが、それがにわかに現実味をおびてきた。二人の人間の死を悲しんでいるのもサイファ自身だが、多くの人々が憂えているのを見過ごせないのもサイファ自身である。 (私はサイファであり、それと同時に、やっぱりルイエでもあるのだな)  逃げ惑う人々を目の当たりにし、サイファは自分自身を再認識した。 「ジル、どうすればいい!?」  友を失った悲しみと、今直面している憂いを吹き消そうと思ったのか、その声は不自然に大きくなり、凛としてあたりに響いた。 「とりあえず、ディエル兄ちゃんを探そう! ここら辺にいると思うからね! 多分……こっちのほうかな?」  サイファとジルは、人々の流れに逆らうように、忌まわしい黒い空のある方角へ、すなわち北へと足を進めた。生活の気配が途絶えた家々の路地をくぐり抜け、牧場を越えて小川を横切り、ひたすらに北を目指す。  南へ急ぐ人の多くは、奇異の目で彼女らを見つつも先を急ぐのだったが、中にはサイファ達に助言をする者もいた。北には滅びしかないと。サイファもそれが分かってはいるが、それでも進むしかなかった。今、自分を守ってくれているのはジルなのだから。ジルは、北の方角に自らの兄がいる、と言っているのだから、その言葉を頼りにするしか今のサイファにはあてがなかった。  北に見えている山々の裾野は緑に包まれていたが、見上げると、その山の頂を見ることが出来ない。スティンの山々はすでに黒い雲に覆われ、その姿は失われたのだ。 「あの山……あれはもう“混沌”の領域になっちゃってるな」  ジルの言うとおり、スティン山地から北方は、今や“混沌”の支配する領域と化していた。  サイファは足下の妙なぬかるみも気になった。今、サイファ達が立っている村の地盤が柔らかいわけでもない。また、朝方まで地面を叩いていた雨のせいだけでもない。“混沌”の力の影響で、土が腐ってきているのだ。この地域も遠からず“混沌”に飲み込まれてしまうというのか。 「ジル、君がさっきから言ってる“混沌”とはなんなんだ?」 「おいら自身がよく分かってないからうまく言えないけど……世界に最初からあった、ものすごーく大きな力だよ。『大きな力同士がまぜこぜになってるから世界っていうのは成り立ってるんだ』って、トゥファール様が言ってた。あとは……なんか言ってらしたけど覚えてないや。ともかくあの力、まともに食らったらただじゃあすまないのは確かだよ。もちろん、おいらひとりが頑張ったところで、どうこうなるってもんじゃあない。とても手には負えないよ」  サイファは禍々しくうごめく黒い雲を見つめた。 「でも、あれを取り除かないとフェル・アルムは滅びるのだろう? 一体、どうすれば?」 「おいらもディエル兄ちゃんに会わないと、どうしたらいいんだか、さっぱり……」  その時、二、三フィーレ先に三人の人物がいるのに気付いたジルは一目散に駆けだした。 「兄ちゃんだ! おーい!」  ジルは手を振りながら双子の兄を呼びかけた。が、当の兄は振り返ろうともせず、横にいる数名とともに構えていた。 「兄ちゃん?」 「ジル! 今までどこにいやがった! もうすぐ魔物どもを蹴散らせるんだけど……ちょっとそこで待ってな!」  ディエルは言いつつ、二歩三歩前に進んだ。 「出るぞ! 気を付けろ……今度のは大きい!」  白髪の若者が叫ぶやいなや空間が割れ、中から魔物が出現する。巨大な魔物はすぐさま翼を広げ、宙に舞い上がる。その口からは標的目がけて炎が放たれた。剣士と白髪の男はとっさに避けたので、炎はただ地面に叩き付けられるのみ。だが地面が焼けこげていることからも、威力の絶大さが分かる。 「あれは……まさか龍?!」  魔物の巨躯は、先だってアヴィザノを襲来した闇の龍に似ている。サイファは思わず二、三歩足を引いた。 「いいや、あれはゾアヴァンゲル(竜)っていうんだ。こないだのドゥール・サウベレーン(龍)と、かっこうだけは似てるけど、頭の出来は雲泥の差だよ」  ジルは冷静に言いつつも、ゾアヴァンゲル――竜と対峙している兄達の様子を窺っている。 「だいじょうぶ。兄ちゃん達の手にかかれば、やつは倒せるよ。すごい“力”持ってるもん。ディエル兄ちゃんも、それと“あの剣”もね」  “混沌”によっていびつにねじ曲げられた翼を持つ竜は、刃向かう者どもを嘲笑するように唸ると、体内に宿す熱い空気を再度吹き付けた。が、剣士達の目の前に出現した薄い色の膜によって炎が遮られる。膜を作りあげたのは、白髪の術師であった。 「ゾアヴァンゲルめ! ばかの一つ覚えみたいに火ぃばっか吐きやがる!」  悪態をつきながらもディエルは、かろうじて竜の足下に駆け寄って手刀を見舞った。竜の片足は大きく引き裂かれ、肉片が弾け飛ぶ。どろどろとした緑色の体液が止めどなく流れる。ディエルは竜に致命的な傷を負わせたのだ。バランスを崩した竜は唸り声を上げつつ、どうんと、地面に激突する。 「ルード! 頼む!」 「分かった!」  ディエルの声を聞いた剣士は、未だもがいている竜の首もとに近づき、剣を突き立てた。剣からは閃光とともに圧倒的な“光”の力が竜の体内を侵していく。“混沌”の魔物と化した竜は、純粋な“光”の力に耐えられず一声哭き、そして霧散した。  一瞬の静寂。  そして戦っていた者達は、まるで申し合わせたかのように、安堵の溜息をついた。 「兄ちゃん!」  ジルはディエルの元に一目散に駆け寄った。 「ジル……」ディエルは弟の眼前でわなわなと拳を震わせた。 「兄ちゃん? 痛っ!!」  鈍い音を立てて、ディエルの拳が容赦なくジルの頭に炸裂した。端から見ても、竜に与えた攻撃より威力が大きいとすら思える。しかしジルとてただの子供ではない。涙目を浮かべてうずくまっているのみである。  サイファはかがみ込んで、ジルの頭を撫でつつ、ディエルを睨んだ。 「ディエルと言ったね。何も殴ることはないのではないか?!」 「……元はといえば、そいつがいけないんだぜ」  さすがにばつが悪く感じるのか、ディエルはそっぽを向いて言い捨てた。 「オレを転移させる場所を間違えたんだから……まあ、でも」  ぽりぽりと頭をかくディエル。 「でもな……そのおかげでもある、かな。オレが今こうやって、ルード達と一緒に戦ってるってのは……おいジル!」  ディエルは、サイファと同様にしゃがみ、弟に声をかけた。 「なんだよぅ。まだ気がすまないの?」  ジルは憮然とした顔をディエルに向けた。 「……一発で我慢しといてやるよ。ほら、いつまでもその姉ちゃんに甘えてないで、立てっての!」  ディエルはぽんぽんとジルの頭を軽く叩く。ジルも渋々立ち上がった。兄弟の視線が交錯する。その時、お互い笑いあったかのように、サイファには思えた。表だって感情には示さないくせに、その実、兄弟同士がやっと出会えたことにお互い喜んでいるのだ。 「ディエル。そっちの人はどうしたんだ?」  剣士――ルードは汗を拭いながら、サイファ達に近づいてきた。ディエルが答える。 「こいつはオレの双子の弟でジル。オレと同じくトゥファール様に仕えてる。そして――」  ディエルの言葉を遮り、ジルは胸を張って紹介をはじめた。 「こちらの女性は、サイファ姉ちゃんさ! 話せば長くなるけどさ、姉ちゃんはこう見えても――」 「つもる話は後にしよう」  サイファが国王である、ということを話そうとしたのが分かったのか、とっさにサイファはジルの口を押さえた。 「ジル、そのことは追って私の口から話すよ。分かった?」  しばらくサイファの腕の中でもがいていたジルだが、彼女の言葉を聞いておとなしくうなずいた。 「急ごう。ここもじき、黒い雲にとらわれる」  白髪の若者――〈帳〉は静かにそう言い、サイファのほうをちらと見た。一瞬、眉を動かす。 (まさか、私の正体を見抜いたのか?)  サイファは内心焦ったものの、ここにいる者達には自分が国王であることをうち明けても問題ない、と直感的に感じ取っていた。 「その、……大丈夫なのか? あなたの服はずいぶんと汚れているのだけれども」  だが、サイファの懸案とは外れ、彼女の装束に〈帳〉は戸惑ったのだった。雨を浴びてずぶ濡れであり、しかも親友の血に濡れているのだ。 「あ。……そうだったな……私は……」 (私は、エヤードとルミを失ったのだったな……)  再びサイファの脳裏にルミエールの最後の微笑みが浮かぶ。今になって、彼女を失ったことがようやく実感となってサイファの胸中を支配した。  悲しみと同時に、極度の緊張のあまり、今まで忘れていた疲労が襲う。両足の力が一気に抜けて、どさりと、サイファは地面に倒れ伏した。 「姉ちゃん?!」  ジルが慌てふためくのを見て、〈帳〉は諭した。 「大丈夫だ。よっぽど疲れていたのだろうが、それを急に認識したのだろう。――彼女には、つらいことがあったのか?」  ジルは小さくうなずいた。 「とにかくここからはやく行かないと! この人を運ばなきゃならないでしょう?」  ルードが言った。 「いや。私がおぶっていこう」  言いつつも〈帳〉は、サイファを抱きかかえる。 「君がおぶうと言うのならば構わんが、ライカに何を言われるか分からんだろう?」  揶揄すかのように小さく笑みを浮かべ、〈帳〉はサイファを背負った。 「デルネア……」  サイファの口から漏れた言葉を〈帳〉は聞き逃さなかった。 四.  一時は恐慌状態に陥っていた人々だったが、魔物の襲来がやんだために、今では落ち着きを取り戻している。とはいえ、“混沌”がここスティンの麓ラスカソ村にまで到来し、その猛威を振るうのはもはや時間の問題だった。地面はすでに腐り、ほうぼうで地割れが起きている。地割れに飲み込まれたら最後、地の底にまで落ちてしまうだろう。このかりそめの世界に“底”というものが実在するのならば、の話であるが。  灰色をした虚ろな空のもと、ざわめく喧噪の最後尾。双子の使徒達はてくてくと歩いていた。彼らの何ラクか前方には、〈帳〉とルードが並んで歩き、空間を越えて魔物が出現しないかどうか、周囲の様子を窺うかのように鋭い視線を投げかける。魔物の現れる気配はもはや完全に失せているようだ。  ルードの表情がふっと和らいだ。遙か前方から駆けてきたルードの想い人は、ルードの横につくとルードと談笑を交わす。会話がどんな内容なのか、双子の位置からは聞き取れないものの、緊迫したこの状況にあって、二人の様子は和やかな雰囲気を周囲にもたらすものだった。銀髪をした彼女は、〈帳〉の背中に負ぶさるサイファを見て心配そうな表情を浮かべた。その後、ルードと〈帳〉の言葉を聞いて安心したのか、彼女は再びルードの横についた。しばらくするとちらとジルのほうを見て、駆けてきた。 「……あなたがディエルの弟さんね? わたしはライカ」  サイファとはまた違った、可憐な口調で彼女は言った。 「おいら、ジル。………姉ちゃんは、翼の民なのかい?」  ジルは右手を差しのばし、ライカと握手を交わした。 「そう、わたしはアイバーフィン。まだ翼を得る資格は持ってないのよね。アリューザ・ガルドに戻ったら、風の界に行って、翼を持とうかしら?」  ライカはにっこりと笑うと、また後でと双子に言い残し、再びルードと談笑を交わすのであった。 「ライカか……可愛い姉ちゃんだね? ねえ兄ちゃん?」 「まあな」  ディエルはそっぽを向いた。 「なあんだ」  ジルはにやにやして兄の顔をのぞき込む。 「せっかくあの姉ちゃんと仲良くしようにも、恋人と話してるもんだから、なかなか話せてないんだねぇ、兄ちゃんは?」 「ふん、ほっとけ!」  図星だったのか、ディエルはぷいと横を向いた。 「なあジル。ルードが持ってるあの剣、なんだか分かるか?」 「え?」ジルは目を凝らしてルードの持つ剣を見た。 「ひょっとしてあれ、ガザ・ルイアートかい? ルイアートスが腕を切り落としてあの剣を創り上げるところ、おいらは見たことあるよ」 「そう、ガザ・ルイアートだ。すごく、でっかい“力”を放っているのが分かるだろ?」  ジルはうなずいた。時折刀身の内部からちらちらと漏れる色は、人間が得ようと思っても叶わない絶対の色――“光”なのだ。 「ハーン兄ちゃんの……大きな“力”ってやつは手に入れることは出来なかったけど、聖剣の“力”はオレ達の目の前にあるってことだ。つまり……」  ディエルは冷ややかに笑った。 「あの“力”を手に入れて、この世界からとっととずらかろうか? オレ達も、役目を果たすことになるし……」  一瞬、きょとんとした表情を浮かべるが、ジルはすぐさま、いたずら好きな本来の表情を取り戻した。 「でもさ、それって本気じゃないよね?」 「え? なんで分かっちゃうんだよ?!」  ディエルは心底意外そうに驚いてみせた。それに対し、ジルは得意顔を満面に浮かべて言うのだった。 「だってさ、おいら達、双子だもん。兄ちゃんのウソなんかお見通しさ。だてに双子の弟をやってるわけじゃないもの」 「ちぇっ」兄は照れを隠そうと、頭をぼりぼりとかいた。 「お見通しだって? やなもんだな、お前と双子だっていうのは………。そうだよ、オレにとってまず大事なのは、この世界だ! こんなに多くの人が生きてる世界を、みすみす滅ぼせるかってんだよ!」  ディエルは、ジルの両肩をつかんだ。 「お前も協力しろよな。オレは決めた。“混沌”を追い払う手伝いをする。そして、この世界がアリューザ・ガルドにうまく戻れるようにオレ自身の力を注ぐ」  ディエルは前方のルードを見た。 「ま、デルネアとかいう、でっかい“力”の持ち主と、どうケリをつけるのか、そこはルード達に任せるほかないだろうけどな……」 「おいらもサイファ姉ちゃん、好きだからね。あの人が悲しむところなんて見たくないし……おいらもここの世界のバイラル達のために頑張るよ!」 「よし! 決まりだな!」  かつて、大いなる力を求めようとしていた双子の使徒達は、お互いの腕をがしがしと打ち合った。  決意の現れ。世界を救うためにおのが力を使う。それは決して彼らの主たるトゥファールの意に背くことにはなるまい。“力”を持ち帰った代償として、アリューザ・ガルドの一片たるフェル・アルムを失ったと聞けば、主はさぞ悲しむであろうから。  ディエルはふと、金髪のタール弾きの顔を思い出した。ディエルの思惑を一変させた、張本人の顔を。  だいじょうぶ。宵闇の公子、いや、ハーン兄ちゃんはきっと帰ってくる。  ディエルはそう願わずにはいられなかった。 五.  スティンの麓ラスカソにて黒い雲に襲われ、命からがら逃げ出してから一日が過ぎた。ルード達はサイファとジルに出会い、さらに一日を経てスティンの丘陵を下り、夜も遅くなった頃にここ、ウェスティンの地に辿り着いたのだ。  しかしここから先、街道を進むことが出来なくなっている。街道を西に進むと、やがてかの決戦の地、ウェスティンの地に行き着く。そこでは二千の烈火が街道をおさえており、そこから先、サラムレに向かうことが困難なのだ。かといって、街道からはずれて道無き草原を南下したとしても、セル山地の手前には断崖があり、結局のところサラムレを経由せずして南に逃げることは出来ない。  つまり、烈火と相まみえずには先に進めないのだし、ルード達の旅に終止符は打たれない。もはやウェスティンの地に向かうしか手段はないのだ。  そして――そこにはデルネアがいる。“力”ある者の到来を待ちわびている。どのような展開となるのか、ルードにも〈帳〉にすらも見当がつかない。だが、ことがそう易々とすすむような安易な考えは持ち合わせていない。  場合によっては戦いすらあり得る。しかし、デルネア個人ならまだしも(それであってもきわめて強力な相手であることには変わりないのだが)、二千の烈火達と戦うことになった場合、勝ち目などとうていあり得ない。累々と死体の山が積まれ、クレン・ウールン河が赤く染まるのだろう。  目下のところ、黒い雲はスティンから動く気配をみせていない。また、中枢の騎士達と会うのに、夜は避けたほうがいいという意見が多数を占めたため、明日の朝、烈火の逗留地に向かうことがすでに決まっている。  先頭に立つのは運命の渦中の者達――すなわち、ルード、ライカ、〈帳〉。そしてディエル、ジルとサイファ。その列のあとにはスティンの領主メノード伯、スティンの村々の長達が続く。  北方の惨劇を目の当たりにしている人々は、何が最善なのかをよく認識していた。領主らの政治力を持ってしても引くような烈火ではないことを予期し、避難民の先頭を――すなわち烈火達と交渉するという任務を、ルード達に任せたのだ。 * * * 「あ……」  ライカは思わず声を漏らした。  どんよりとした雲がさあっと立ち去り、ウェスティンの地の夜空一面、晴れあがったがごとくに星が瞬きはじめた。今や夜の空は“混沌”が支配するものとなっているというのに、この情景は夢かうつつか。満天の星空はまるで太古の時からなんの変遷もないまま、煌めいているかのようだ。  ともに避難をしている人々は寝静まり、虫の音と大河の流れる音が心地よく調和して聞こえる。魔物の気配など、みじんも感じられない。今、ここにあるのはまったき平穏だった。  ただ、風は止んでおり、幾分か空気のよどみを感じる。それが小さいながらも異質な圧迫感だった。デルネアの気配が近いためなのだろうか? 「星が見える?」  ライカと身を寄せ合うようにして座っていたルードも、空の様子に気付いた。このような美しい夜空を見るのはいつ以来なのだろうか? ライカは星々を一つ一つ確かめるように見つめながら、思い出そうとしていた。  〈帳〉の館にいた頃はどうだったろうか? 思えば空が漆黒に染まったのは、自分達が館をあとにする数日前のような気がする。それとてほんの二週ほど前の出来事であるのに、ライカにはひどく昔のことのように思えてならなかった。  次に思い出したのは、〈帳〉の館で過ごしたひと月あまりの生活。〈帳〉がいて、ハーンがいて、そしてルードがいて――。色々なことを学びつつ楽しく過ごした毎日。今はもうあの頃に戻るなど出来はしないが、あの生活があったからこそ、自分達はこうしてウェスティンの地にいるのだ。  得たものは、知識とたくましさ。それをもって、混乱の彼方にある平穏をつかむのだ。あと少しで、その時が来る。 「館以来、なんだろうな。こんな星空を見るっていうのは」  ルードは言った。 「この夜に限って、どうしたってんだろうか? 俺達は幻を見てるっていうのかな? 俺も子供の頃からよく星を見てたりしたけど……どうも星の位置がどこか変に思えるんだ」 「多分、幻じゃないわね。私がよく見たことのある空だもの」  ライカはそう言って、南天、ユクツェルノイレ湖の方角にひときわ明るく、青白く煌めいている星を指さした。 「エウゼンレーム。あれは、アリューザ・ガルド南方を護る聖獣の名前を持つ星よ。そのとなりに小さく瞬いてるのがツァルテガーン。エウゼンレームの子供の星ね」  ルードはきょろきょろと星々を見渡した。 「ていうことは……アリューザ・ガルドの星々を、俺達は見てるってことなのか……どうりで俺の知っている星が見あたらないと思ったけど、でもどうして? あ……」  その時、彩っていた星々はかき消すように見えなくなり、夜空は再び漆黒に覆われた。そこに見えるのはただ星なき暗黒の世界。“混沌”が統べる世界。 「戻っちまったな……」 「ひょっとしたら、今の瞬間だけ、フェル・アルムはアリューザ・ガルドと繋がっていたのかもしれないわね。私とルードがはじめて会った時のように」  世界にもし意志が存在するというのなら、本来あるべき自然の姿への回帰を求めているのだろう。 「あの星空は、俺達のことを祝福してくれたのかもしれないな、俺はそうも思いたいぜ。何せ……いよいよ明日だからな」  ルードは横に立てかけてあったガザ・ルイアートを見つめつつもライカの銀色の髪を撫でた。 「デルネアと、二千の戦士――明日彼らに会うっていうんだからな。ほんのちっぽけなことでもいい。なんであれ、うまく行くような良い兆しが欲しいんだ、俺は」  ルードはライカの肩を抱いた。 「……大地が唸っているのが俺には聞こえる。まるで、決戦を待ちわびているかのように。ライカは?」 「風は止まっているわ。空気が何か忌々しい感じね。闘気すらはらんでいるようにすら感じられる……」 「デルネア……世界を元に戻す方法なんて、そう易々と教えてくれないんだろうな。やっぱり……」  この先にあるのは、やはり戦いなのだろうか?  自分達の、人々の、そして世界の運命を決定づける、あまりにも大きな戦いが待ち受けているというのだろうか。  ルードとライカは、お互いの不安をうち消すために、生への渇望を得るために、そしてお互いの想いを確かめるために、しっかりと抱きしめあった。 「ルードも強くなったものね。ほんとう」  目をつぶったままライカは言った。ルードは何も語らない。 「わたしは――どうなのかな? 〈帳〉さんの館を出てからずっと、ルードと〈帳〉さんに頼りっぱなしな気がするの。わたしは……どこも変わってないのかな?」 「強くなったかどうかなんて俺自身も分からないさ」  ルードは言った。 「俺の剣技はガザ・ルイアートのおかげで途方もなくすごいものになってるって、その実感はあるけどさ」 「……じゃなかったら、竜なんてとても倒せないものね」 「ああ、でもあれは〈帳〉さんやディエルがいてくれたから倒せたようなもんだ」  ルードはライカの両肩に手を置いた。 「つまり、ひとりで気張っていても限界がある。だから助け合っているんだ。みんなが集まって頑張っているからこそ、強さが生まれてるんだと思う。それに、俺自身は何ら変わってないよ。土の民セルアンディルになって、聖剣を持つ資格を得たとしても。……もし、それでも変わったというのなら、それはライカのおかげだろうな」 「わたしの? でも、わたしは何もしてないわよ」 「ライカを護りたい。そんな俺自身の思いが俺を変えていったんだろう。面と向かってこんなこと言うと、正直ちょっと恥ずかしい気もするけどさ、これは本当だ」  ルードの強さ。それは強大な“力”である聖剣を我がものにしてなお、己自身を保っていることなのかもしれない。強大過ぎる力は時として人を狂わすことが往々にしてあるのだが、ルードは力に屈することなく、自分の行うべき道を進んでいる。  ライカを護る。そしてライカを故郷に戻す。ルードをルードたらしめ、彼の強さの源となっているのがライカの存在であることは、ルード自身も分かっていた。 「ライカは、そのままでいてほしいよ。強くなるどうのこうのなんて関係ない。無理に自分自身を変えていく必要なんて、どこにもないだろう?」  ライカは再びルードの胸に顔をうずめると、こくりとうなずいた。 「ルードがわたしを護ってくれているように、わたしもルードを護りたい。約束するわ」  その時、がさりと草が揺れる音がしたので二人はびくりと驚いた。 「……失礼した。おどかすつもりはなかったんだが」  ばつが悪そうに暗闇の中からサイファの声がした。 「――というより、もう少しあとで来たほうがいいのかな? ご両人」 「もう、いいですよ」  やや不満げな口調でライカが口をとがらせた。そしてルードの横に座り直す。サイファは苦笑を漏らすとルードの横に立った。ルードはそんなサイファの様子を黙って見ているだけだった。 「ここに座っていいかな?」  サイファはそう言いつつもルードの横に腰を下ろした。 「え、ああ、………はい」  ルードはしどろもどろになりつつ、ただサイファの様子を見るだけだ。 「私の顔に何か付いてるというのか?」  ルードの狼狽する様子をサイファは半ば面白がっているようだ。ドゥ・ルイエの名は、フェル・アルムの民にとっては神聖かつ絶対的なもの。そんな絶対的な存在が自分のすぐ横にいるというのだ! 今までさまざまな変動を目の当たりにしてきたルードとはいえ、ドゥ・ルイエ皇に対しどのような接し方をすればいいものか、分からない。 「もう。あんまりルードを苛めないでやってくれないかしら、サイファさん」  対するライカはあっけらかんとしている。サイファが国王であるというのは本人から聞いたものの、サイファ自身が『サイファと呼んでほしい』というものだから、それを受け入れている。何より、フェル・アルムの住民でないライカにとって、ドゥ・ルイエ皇とは何なのか、今一つぴんと来ないのだ。国家元首であるのだが、サイファ自身がそれをまったく匂わせないため、友人のような感覚すら湧いてくる。 「ああ、そうだな。ルードも、私のことはサイファと呼んでほしいものだけど――」  サイファはルードの顔をのぞき込んだ。 「やれやれ、そう驚かれてしまってはこっちが困ってしまう」 「そうは言っても……驚くなって言うほうが無理ってもんですよ、サイファさん」 「まだちょっと堅いな。ルイエであることは意識しないでほしいな。敬語も使う必要なんてないし、呼び捨てでもまったく構わないんだぞ?」 「はあ……努力します……いや、する」  ルードの様子を見て、サイファはくすりと笑った。  サイファのことをルードが知ったのは、つい先頃だった。ルードら、運命の渦中にある者達が寄り集まって話をしている時、サイファが自身の口から明らかにしたのだ。すなわち、ドゥ・ルイエ皇であるということを。もっともこの事実を知っているのはルード達のみであり、他の避難民達の知るところではない。よけいな騒動を招くだけだからだ。  サイファは、〈帳〉達が話すことがらについて、衝撃を受けつつも真摯に聞き入っていた。フェル・アルムの真の姿。そして歴史の成り立ち、デルネアという人物、この春から起きてきた一連の事件と経験談、そして今はいないが同じく鍵を握っている人物――ティアー・ハーン。数々の事実を彼らは語った。  サイファのほうは、烈火に勅命を下したこと、そしてエヤードとルミエールとの旅の道中のことについて話した。 「私もあなた達についていこう。何より、烈火に対して為すべきことをなさねば。そして自分自身の目で真実を、フェル・アルムの行く末を確かめたいのだ」  最後に、サイファは決意のほどを明言したのだった。 「……烈火については、私なりの考えがある」  ルードの隣に座ったサイファは、前を見据えながら言った。 「私なりのやり方で、きちんとけりは付けさせてもらうつもりだ。むろん、君達の行うべき事柄の邪魔にならないように、立場はわきまえるけれど」  『わきまえる』など、およそルイエらしくない言葉を平然と言ってのけるあたり、本当に国王なのかとルードは勘ぐりたくなる。その一方で、確固たる決意を胸に秘めている。友人のような気さくさと、上に立つものとしての意識を併せ持っているのだ。 「あなたも……強いんだな」  ルードは言った。 「強いってわけじゃあない。私個人は無力な存在でしかないもの。ここまで旅をしてきて、私自身よく分かっているつもりだ」サイファは言った。 「でも、もしそれでも強くみえるって言うのなら、それは私を支えてくれているみんなのおかげ。――それは忘れちゃいけないことだと思ってる」  彼女はすっと手をさしのべた。 「ルード、ライカ。頑張ろう。私達の相手とする者が――デルネアがいかに強大であったとしても、挫けてはいけない。お互いを助け合えば、きっと道は開けるに違いない」  ルードとライカはサイファに手を重ね、強く握りしめる。 「デルネアに惑わされはしない。あなたもそうだし俺達の目指すところっていうのは、そこを乗り越えないと決して手に入れられないからな!」 六.  夢の最中にいたような霞んだ意識は急に明瞭となり、彼はその平原にひとり立ちすくんでいるのにふと気がついた。  漆黒の夜の下の平原には何もない。しかし、野心に満ちた闘気がひしひしと、空気を伝ってくるようだ。 「いよいよ、時が来たっていうのか……」  彼は剣を見つめてひとりごちた。 「とはいえ、この場所からは距離がある……間に合うかどうか……」  漆黒の剣を携えた公子は、思惑が重なり合うであろうその地に向かって歩き始めた。 § 第十章 終焉の時、来たりて  朝。  しかし、色すら失って灰色一色となったこの空には、陽の光などすでに無い。“薄明るい”としか言い表すことの出来ない曖昧な色彩のみが、かろうじて朝の到来を告げるものとなっている。  フェル・アルム北方に存在するは黒い空。そこは“混沌”の支配に置かれた忌まわしい領域。  今朝になってその浸食はさらに進んでおり、スティン周辺はもはや“混沌”の配下にあった。黒い空は相も変わらず、空の中で渦を巻くがごとくに禍々しくも動的にうごめいており、少しずつ、だが確実に灰色の空を侵しつつある。微弱ではあるものの、魔物の気配すら感じられるようだ。ほど遠くない時に、魔物が襲来するに違いない。  色を失った空と、かたや“混沌”に覆われた空。超常的なその色合いは、人々に絶望しか与えない。  終末を迎える世界はこのような空模様となるものなのだろうか。世界の終末などはアリューザ・ガルドを創造したアリュゼル神族でさえ思いもしないことだ。だが、世界の終末を表す空は今、明らかに現前しているのだ。ここ、閉ざされたフェル・アルムの世界において。  ルード達はいよいよ歩を進めていく。  ウェスティンの地は、空気そのものに質量があるかのような重々しい雰囲気に包まれている。  ルード達の前方に、深紅の壁が行く手を阻んでいるのが見えるようになった。それは二千からなる烈火。名が示すとおり、赤い鎧に身を包んだ最強の騎士達は、身じろぎせずに仁王立ちをしているかのようだ。烈火の掲げる聖獣カフナーワウの旗が見えたあたりのところで、北部の住民達は歩みを止めた。先行しているルード達も足を止め、黙したまま前方の烈火の隊列と対峙する。  中央に陣取っているのは騎馬部隊。おそらくはかの烈火においても精鋭中の精鋭であろう。そして両翼には剣をおろし、臨戦態勢を取っている騎士達が多数控えている。自分達と烈火との隔たりはもはや三フィーレもないだろう。もし、烈火が戦闘態勢に入ったとしたら――  〈帳〉の魔導や、聖剣の“力”を持ってしても多勢に無勢。ルード達は抵抗出来たとしても、丸腰同然の北部の民に勝ち目などとうていあり得ない。  烈火達は、いや、デルネアは待っていたのだ。ルード達の到来を。そして、ウェスティンの地を舞台に選んだというのも、デルネアの計らいか。それは、世界の運命をこの地にて決めるという意志。 * * *  一陣の風が、ウェスティンの地を吹き抜ける。それには涼しさも、心地よさもみじんに感じられない。闘気をはらんだ風は、重苦しい空気を追いはらうのではなく、さらに凝り固めていく。戦いを予感させる空気は重々しく、周囲を覆い尽くしていく。  フェル・アルムの運命は全てこの地に集まった。それがどのような結末を迎えるのか、誰にも分からない。  ただ一つ確かなことは、このままでは世界の秩序は全て崩壊し、“混沌”の名のもとに終焉を迎えるということ。滅びは、全ての者にとって望むところではない。聖剣の“力”か、デルネアの野心か、どちらかが“混沌”を消し去らないとならないのだ。一刻も早く。何より黒い雲はこうしている今ですら、着実に世界を侵しているのだから。  そして――  すうっと、深紅の壁の中央が分かたれたかと思うと、男がひとり、前に歩み出てきた。彼は躊躇うことなく、供もつけずにただひとりでこちらに向かって来ている。  その男の装いは烈火とは明らかに違う。巨躯ではあるものの、服装など、およそ市井の若者と変わらない。腰に差す剣が強大な力を有していることを除いては。  ルードは、彼の内包する異様なまでの“力”を感じ取っていた。そして確信した。 (あれがデルネアか!) 「デルネア……」  〈帳〉の声色は、彼の複雑な思いを表しているかのように、微妙に震えていた。 「……まずは私が話をする。ルードよ、君の出番はそのあとになるだろう」  ルードはうなずいた。 「出番がないことを願いたいですけどね」 「デルネアの野心がどのようなものなのか、それ次第だ。そして心せよ。あの者の声は、龍の言葉のごとくに引き寄せられるものなのだから。挫かれずに、自身を強く保て」  〈帳〉はそう言い残し、つと、前に出ていった。  デルネアと〈帳〉。  アリューザ・ガルドにおいて、“混沌”に魅入られたレオズスをともに倒した、かつての戦友同士。  フェル・アルム創造後には、かたや影の支配者として、かたや隠遁した賢者として正反対の生き方を送っていた。  十三年前のニーヴルの事件以来、両者は再び相対する。  そして――。 一. 対峙する者達  〈帳〉は、デルネアと真っ向から対峙し足を止めた。  ルードは、まるで引き寄せられるかのようにデルネアを見つめていた。  デルネア。かつては、“混沌”に魅入られたレオズスをうち倒し、そしてフェル・アルムを創造した人物のひとり。それからの六百年余、フェル・アルムを影で操っていたとされる人物が今、目の前に立っているのだ。  フェル・アルムの全てをその一身につかみ、世界の全てを知る唯一の者。全てを見きわめんとするかのような鋭い眼光。不敵な笑み。引き締まった巨躯。そして腰に差す蒼白く輝く剣。彼を見るだけで気圧されるかのようだ。  烈火のみならず、この場に居合わせている全ての者を威圧するかのような凄まじい重圧感を、ただひとりの人間が持ち得ているのだ。歴史を影で操ってきた者だけが持つであろう独特の陰惨さと冷酷さ、そして気位の高さをルードは感じた。 「――この一件、やはりお前が絡んでいたか、〈帳〉よ。まあ、お前のことだ、そうであろうとは思っていたがな」  低く、しかしよく通るデルネアの声は、まるで引き寄せられるかのような心地よさと威厳を併せ持っていた。声そのものが魔力をおびているかのようだ。 「そしてお前の籠絡《ろうらく》に見事引っかかったのがこの面々か……」  デルネアはそう言い、〈帳〉の背後に控える面々を一瞥した。  〈帳〉のそばに控えているのは、ルードとライカ。双子の使徒とサイファは、後方で成り行きを見守っている。 「デルネアよ、私はけっして、この者達を籠絡にかけたわけではないぞ」  デルネアの放つ重圧に抗い、強い意志を持って〈帳〉は言葉を返した。 「彼ら自身が自分達の運命を切り開こうとして選んだ道だ。私はあくまで助言をしたのみ」  デルネアは鼻で笑った。 「それこそ姑息だ。全てが我の思うままに動いていればよかったのだ。そうすればひずみなど生まれる要因がない。そう、このような事態など起きはしなかっただろうに……見ろ!」  デルネアが示したのは黒い空。濁流のごとく押し迫りつつあるそれは、すでにスティンの丘陵すらも覆い隠し、なおも浸食を進めている。ほどなく、ここウェスティンの地も黒い空に覆われるだろう。 「あれに飲まれたのならば、全てが無くなるのだ。世界の破滅。それだけは避けなければならない。我がここで待っていたのは、“混沌”を無くすためであり、真の理想郷をもたらすため。〈帳〉よ、お前には用なぞ無い」  その言葉を聞いて〈帳〉は眉をひそめた。 「貴公になくとも、私にはあるのだ! デルネアよ!」  〈帳〉は凛とした声をあたりに響かせた。 「貴方とこうして対峙するのも十三年ぶり……か。あの時はトゥールマキオの大樹の中で話したものだったな。私が言ったとおり、ひずみはここまで大きくなってしまったのだ」 「『我を取り巻く大いなる流れは変わらぬ。全ては掌中に収まっている』――こう我は言ったものだな」  デルネアは懐かしむかのように語った。 「あの時の貴公は、個々の人々の思いをまったく軽んじていたように聞こえたのだが……こうして“混沌”を目の当たりにして、その思いは変わったのか?」 「否」デルネアは言い切った。 「たしかに、“混沌”の流入なぞは我にすら考えが及ばなかったものの、全ての流れは我がもとにある。それは変わらぬものだ、永久にな」 「デルネア、貴方の目は曇ったのか。それは増長と言うものだ」  落胆する思いを隠しもせず〈帳〉は言い放った。 「世界が終わろうとしている、今この時になってすら、貴方には物事が見えていないのか? ならば単刀直入に私の思いを告げよう。フェル・アルムを――貴方が創造したこの閉じた世界を、アリューザ・ガルドに還元するすべを教えてほしいのだ! そうすれば、全ての呪縛から解き放たれる。あの黒い雲が、“混沌”がこの地を覆う前に、我らが術を行使せねば、その時こそ終焉が訪れるのだぞ!」 「術を行使する、だと? 笑止な。力を失ったお前なぞに何が出来ようか? 今のお前ごときでは、我に相対することすら不相応というものだぞ。貴様の魔力など、我の前にあっては無力に等しい。〈帳〉、今の貴様は夜露をしのぐのがせいぜいの天幕に過ぎぬことを知れ」  デルネアは冷静に語った。 「たしかに我は知っているとも。還元するすべをな。だが、我の創った世界を、なぜにむざむざ放棄せねばならないというのだ? アリューザ・ガルドへの還元など、させん。今さら貴様らがあがいたところで遅過ぎるというものだ」 「しかし、この期に及んで滅びの時を待つようなことこそ、愚かしい行為だと思わないのか?」 「滅び? 我がそれを望んでいるとでも? 痴れ言を!」  デルネアは首を左右に振った。 「まったくもって――貴様の考えこそまさに愚の骨頂よ! 我が滅びを欲しているとでも思っているのか? 愚かな……まこと愚かな! 我の思うところはただ一つ、このフェル・アルムに恒久の平穏を与えることだ。世界を滅ぼすなど、考えもしなかったわ」  デルネアはきっと〈帳〉を見据えて言い放った。 「我は“力”を得るのだ。そのためにここで待っていたのだ。“力”を持つ者の到来をな。絶対的な“力”を手に入れれば、“混沌”のかけらなど、造作もなく次元の彼方に追いやってくれようぞ!」 「この世界の神にでもなろうというのか?」 「全てを超越し、調停出来る存在をそう呼ぶのであれば、我は神になることを望んでいるのだろうな。だがこうして“混沌”を目の当たりにしている今、我はお前などと戯れる時間すら惜しいのだ。――そこの少年よ、来い」 * * *  デルネアが呼んでいるのが自分のことだと気付いた時、ルードは胸が張り裂けそうになった。自身がこの場所に立っていることすら信じがたいかのような、奇妙な感覚にとらわれた。  デルネアが満足げにほくそ笑み、小さくうなずく。 「そうだ。お前だ。“力”を持つ者よ。お前の到来を我は待っていたのだ……さあ、我の前まで来い」  デルネアの声を受け、一歩また一歩と足が進むのはルード自身分かっていた、しかし自分の意志によるものなのかは分からなかった。ルードは〈帳〉の真横まで歩くと、ちらと〈帳〉を見た。 「心せよ、ルード。彼の“力”は強大だぞ」  〈帳〉の言葉にルードは小さくうなずいた。 「さて、名を訊こうか」  デルネアは一歩歩み寄ると、ルードに話しかけてきた。ルードは表情をこわばらせたまま、黙して語らない。 「ルー……ド」  喉から絞り出すようにして、ようやくルードは声を出した。 「ルード、か。……我のことは、〈帳〉より聞いておろう?」  ルードはうなずいた。 「そう。我こそがデルネアだ。この世界の全てを把握せし者。だからこそ我には分かるのだ。お前が強大な“力”を有している、ということをな」  デルネアは視線を下方に移し、ルードの下げている剣を見つめた。 「“力”の所在は一つのみ、か。もう一つの“力”が確かに存在していたのだが……どこへ行ったのか知れぬ。だが今、目の当たりにしている“力”でこと足りるであろう。ともあれ、我が探していた“力”がその剣だとは……そも、その剣がこの地にあるとは、我にとってすら驚嘆に値するもの。ルードよ、その剣がなんたるか、知っているか?」  ルードは、腰に下げている剣に手をやったが、真実を語るのをためらった。 「無駄なことだ。我を前にして物事を隠しとおすは賢明でないぞ。その剣こそがガザ・ルイアートだ。さあ、その剣がどのようなものだったのか、知っているだろう。言うのだ」  デルネアは、まるで全てを見通しているとでも言うのだろうか? ルードは内心焦りながらも言葉を紡ごうとするが、真実を語る以外に持つべき言葉はなかった。 「ずっと昔に冥王を倒した聖剣だって、聞いている」 「しかり。かように大きな“力”を持った剣だ。よもや聖剣がこの地にあろうなど思いもしなかったが、それこそがこれからの世界を切り開く、大いなる“力”の一端となるのだ」  デルネアはまた一歩近づいくと、自身の剣を抜きはなった。刀身はほのかに、そして妖しげに蒼白く光り、剣自体がこの世ならざる次元にて創られたものであることが見て取れる。 (まさか、戦おうというのか?!)  ルードは剣の柄に手をかけようとするが、とっさの判断が出来なかった。明らかに、デルネアの言葉に魅入られているのが分かる。 「……そう構えずともよい。我は戦いを望まぬ。お前の返答次第ではあるが、な」  デルネアのぎらりとした眼光に気圧され、ルードは動けなかった。デルネアはルードの様子を気にかけるわけでもなく、自身の剣を見つめると、穏やかに語りはじめた。 「かつて、宵闇の公子を倒すために我は……我が友とともに異界へと赴き、この剣を我がものとした。結局、彼を失うこととなってしまったがな……」  デルネアは剣を持ち直し、その切っ先を地面に突きつけた。 「ユクツェルノイレか」  〈帳〉の言葉にデルネアはうなずいた。 「……彼の死は、我にとっても大きな痛手だった」  デルネアは語った。やや悲しげに声が揺れて聞こえるかのようだったが、それは気のせいなのだろうか。 「剣を入手した我《われ》が帰還のためにその空間を漂っている時、偶然にも空間を閉鎖させるすべを知った。我は理想郷創造のために、そのすべを行使することを決意したのだ。そこには戦いなどなく、恒久たる平穏のみが存在する――ユクツェルノイレのような悲劇を生むこともない――」  デルネアは言葉を切った。 「“混沌”が来る前に話を終わらせよう。すでに魔物の気配がある。ほどなくこの地にも黒い雲が押し寄せるだろう」  魔物の気配がする。それはデルネアの言葉どおりであった。  遙か後方、避難民の間からは動揺の声があがっているのが聞こえる。おそらくは“混沌”の先兵達がすでに出現しているのだろう。かん、かんと乾いた剣戟とともに、魔物達の声が聞こえてくるようだ。どのような状況になっているというのか?  デルネアと対峙しているため、振り向けないのがルードにとってもどかしかった。 「ルードよ、お前のその剣、我がもらい受けるぞ。聖剣の“力”を手に入れたその時こそ、我は理想郷を――“永遠の千年《フェル・アルム》”を創造し得るのだ」  そう言って、デルネアは片手をすうっと伸ばした。友の手をたぐり寄せる動作にも思えるその行為自体が、親しみのあるものにすら思える。 「ルード」  〈帳〉が小声で諫めるのを聞き取り、ルードは我に返った。 (デルネアの言葉は……危険だ!)  ルードはあらためて思った。デルネアの話すこと、その一節一節がルードにまといつき、捉えて離さないかのようだ。それはとても心地よいものだが、気持ちを委ねてしまってはならない。魅入られたら最後、デルネアの思うつぼなのだから。『自身を強く保て』という〈帳〉の言葉が思い起こされた。ルードは、自身を強く保つべく、揺れ動く気持ちを必死に押さえようとした。自分達は何のためにここにいるのか? ルードは後ろに控えているライカをちらと見て、うなずいた。その答えはすでに見つけている。  自然と、ルードの口から言葉がついて出た。 「断る」  凛としたその響き。確固たる思い。言葉は周囲に響き渡るかのようだった。 * * *  デルネアは姿勢を崩さずに、眉をぴくりと動かした。  しばらく、沈黙が周囲を覆う。空気がさらに重々しくなるのが感じられる。  ルードは自分の鼓動がどくどくと音を立てているのすら感じとっていた。しかし迷いはない。ルードは、きっとデルネアを見据えると、もう一度言った。 「俺はこの剣をあなたに渡すつもりはない。俺達は、俺達自身の手で“混沌”を消し去る!」  言ったルードは、剣を鞘から抜き去る。ガザ・ルイアートはルードの思いと呼応するかのように、刀身から光を放った。 「そして俺達は、フェル・アルムをアリューザ・ガルドへと戻すんだ!」 「……痴れ言を。なぜに理想の実現を拒むのか、理解出来ぬ」  デルネアは剣先をルードに向けた。しかしそれのみならず、彼の身体からは圧倒的なまでの闘気が放たれている。 「お前と、そして〈帳〉が考えているのは、このフェル・アルムという世界自体を否定することになるのだぞ。フェル・アルムが創られてから、民はこの世界のみで生きてきたのだ。お前は、そんな民の思いすらも裏切ろうとしているのだ。この世界全ての民に対し、『今までの世界、歴史は間違っていた』と言い切れるだけの力がお前自身にあるのか?」 「たしかに、それは酷なことなのかもしれない」  デルネアの放つ威圧感を体中で受け止めつつも、ルードは言った。 「そうだろう。ならば――」 「でも! わたし達はそれを知った上で、世界を元に戻す!」  デルネアの言葉を押し切ったのは、ライカだった。 「我の言葉を止めるとは大した度胸だな、アイバーフィンの娘よ。お前がこの地にあること自体、歪みを生む原因になっているのだぞ」  デルネアは歪んだ笑みを浮かべた。 「いくらあなたが“力”を持っていたと言っても、世界を創りだす、なんてことは出来やしないわ。アリュゼル神族にしても、世界をまったくの無から創り出したわけじゃあないもの。……あなたの言葉からは、歪みを生んだ全ての原因がわたしにあるように聞こえるけど、そうじゃない。世界自体が変わろうとして、歪みをつくり上げてしまったのだから。あなたはフェル・アルムを操っているのかもしれないけど、かんじんの世界がどう動こうとしているのか、そういうところには目を向けてないのね?」 「デルネアよ。悲しいかな、自身の絶対を信じるがゆえに事態を把握出来ぬ者よ。世界自体が還元を望んでいるのだ。これを押しとどめておくことは我らには不可能というもの。たとえ暫くの間の平穏を手に入れたとしても、再び災厄はやってくるだろう。今以上の歪みとともに」  〈帳〉が言った。 「たとえ貴公がどのような力を持とうとも、自然の摂理をねじ曲げることは不可能なのだ」 「俺達は――新しく切り開いてみせる! あなたの力には頼らず、自分達の手で!」 「我《われ》が“力”を手に入れたあかつきには、フェル・アルムは完全なる一つの世界となるというのに――お前達はあくまで我に楯突こうというのか!」  それは明らかに敵意の感じられる声だった。 「だが、全ては我の掌中に収まっている。お前達がどうあがこうと、所詮は無駄なこと……」  真上から見下すかのような態度を変えないまま、デルネアは冷酷に言いはなった。 「――烈火に総攻撃の命令を下すぞ。ここに集った民を粛清するためにな!」 「粛清だと?! 避難民には何ら関係など無いのだぞ!」  あまりにも衝撃的な言葉だった。ルードやライカのみならず、〈帳〉すらも呆然としてデルネアを見つめている。 「あくまで平穏にことをすませるつもりだったのだが、貴様らが態度を変えないと言うのならばしかたあるまい?」  デルネアが右腕を上げると、二千からなる深紅の戦士達は、がちゃりという重厚な音とともに、一斉に剣を構えた。  ルードは、〈帳〉、そしてライカと顔を見合わせた。あの兵士達が攻めてきたならば、自分達に勝ち目はないのだ。 「我がもう一度この腕を上げた時、烈火は進撃を開始する。貴様らにはもともと選択肢など無いのだ。我に刃向かったことを後悔して、死ぬがいい」  そう言いつつもデルネアは、手を挙げる素振りをみせる。 「待って!」  たまらず、ライカが叫ぶ。 「ならば聖剣を我に差し出せ! さもなくば、歴史書に新たな一節が加わろうぞ? 『ニーヴルの意志を継ぐ者達が北部に出現するも、勅命を受けた騎士達によって敗れ去る』とな」 「くっ……どのみち、貴公は我らを消すつもりだろうが!」  〈帳〉は唇を噛んだ。  その時、今まで北の空に留まっていた黒い雲が、ゆらゆらと忌まわしく動き始めた。“混沌”をもたらすそれは、自然界では考えられない速さで、とうとうウェスティンの地まで押し寄せてきた。灰色の空のもと、かろうじて明るさを保っていた上空は、ついに暗黒に覆われた。  間もなく、終焉が訪れる。  しかし、聖剣ガザ・ルイアートは暗黒に包まれた今、さらにもまして光り輝く。 「……もはや時は少ない。この地が“混沌”の支配下に置かれる前に烈火を差し向け、我は聖剣の“力”を我がものとする。それでも聖剣を渡せぬ、と言うか?」  押し黙ったままの一同の様子を、デルネアは鋭い眼差しで見やる。剣をデルネアに渡すわけにはいかないが、渡さなければ烈火に蹂躙される。  デルネアは、ルード達の悩む顔を見つつ、歪んだ笑みを浮かべ――ついに高々と腕をつきだした。 「ああっ!」  ルードが声をあげるも、すでに時遅し。烈火達は怒濤の進軍を開始したのだ。  もうもうと砂煙を上げながら、烈火は突進してくる。周囲に轟き、響き渡るのは甲冑の音、蹄鉄の音。そして二千からなる騎士達の闘気が、容赦なく敵対者の戦意を挫かんとする。  デルネアはルード達に剣先を突きつけた。 「お前達も終わりだ。運命とやらに縛られた愚昧《ぐまい》な者どもよ」  デルネアは勝利を確信し、刃向かう者に冷たく言い放った。  ルードのやるべきことはもはやただ一つ。光り輝く聖剣を静かに構え、烈火の攻撃に備える。その横では〈帳〉が魔導の詠唱をはじめている。ライカは精神を集中させている――風の力を喚び起こして攻撃をしようというのか。  だが、二千の屈強の戦士達を相手に、勝ち目など万に一つもないだろう。 「ライカ」  ルードはライカを呼んだ。彼女に言うべき言葉は一つ。それは『逃げろ』ではない。すでにルードとライカは運命を共有しているのだから。 「……頑張ろう」  ライカは目を開けるとルードを見つめ返す。微笑みを見せながら、力強くうなずいた。彼女の翡翠色の瞳は澄み渡り、迷いなどかけらも無い。  ルード達一同が、ついに意を決したその時だった。 「待て!」  ルード達の後方から駆けつける者がひとり。その凛とした声の持ち主はルード達の横を通り過ぎ、デルネアと対峙した。  その者は、まとっていたローブを無造作に脱ぎ捨てると、迫りつつある烈火をきっと見据えた。 「烈火の戦士よ! 私はドゥ・ルイエである!」 二. “絶対なること”の崩壊  メナード伯は焦る気持ちを抑えるように、下顎に蓄えた白髪交じりの髭をいじっていた。  何より、時間がない。黒い雲はすでに上空を覆い尽くし、いずれ押し寄せるであろう“混沌”を待っているのだ。そして、“混沌”の力が強まるにつれて、化け物達が姿を現し、避難民達を襲っている。今はまだことなきを得ているが、はたしていつまで保つものか。加えて、前方からはとうとう烈火が押し寄せてきた。  自分達に訪れる未来など、もはや無いかのようだ。北方の民はこのウェスティンの地で絶望の中に朽ち果てるしか、道はないのだろうか。  こうして絶望を認識した時、伯爵は自分の感情すら分からなくなった。長年に渡る人生のなかで、今ほど自分の体と心が重苦しく苛まれたことなど無かったのだ。 「領主さん」  いつの間にか、伯爵の真横にはジルが来ていた。ジルはつい先ほどまでは、サイファの横についていたのだ。 「まだもう少しは時間があるよ、領主さん。“混沌”が押し寄せるまではね。それまでは魔物とやり合ってる戦士達も持ちこたえられる。魔物達の数にも限りがあるって、兄ちゃ――ディエルが言ってたからね」 「それはありがたい報せだな」  メノード伯は淡々と言った。 「わしの部下達も、この騒ぎの中でかけずり回っていて、なかなか情報が届いてこなかったのだ。とりあえずの間はしのげるということか、我々のほうはな。しかし――」  伯爵は前方を見据えた。そこでは今まさに、“烈火”という名の禍《わざわい》が襲いかかろうとしている。 「あの戦士達を相手に、わしらはどう戦えというのだ?! 間もなくやって来るのだぞ!」  伯爵は苛立ちを隠すことなく、わななきつつも声を荒げた。 「大丈夫だってば」  ジルは未だ、前方を見据えている。彼の目はただひとりの人物のみを捉えている。サイファだ。 「サイファ姉ちゃんがすることを見ていてよ。おいら、全ての主たるヴァルドデューン様の名にかけたっていいさ。姉ちゃんが、やってくれるってね!」 「ああ、陛下……」  沈痛な面もちを隠さず、メナード伯は喉の奥から祈るように、気持ちを露わにした。ルード達のほうへと駆けだしていったルイエ。彼女が国王として何を為さんとしているのか、伯爵には図りかねた。ジルは知っている。そしてそれは間もなく、この地にいる全ての者が分かることだろう。 * * * 「烈火の戦士よ! 私はドゥ・ルイエである!」  地響きとともに押し寄せてくる甲冑と蹄鉄の音にかき消されながらも、ルイエは言い放った。 (私は今、国王として先頭に立っているのだ。今こそ、為すべきことを為す時! ジルよ、君の力、使わせてもらうぞ!)  ルイエは心に誓うと、手にしていた“珠”を高く放り投げた。するとその白い珠は四散し――ルイエの立像を宙に大きく映し出したのだ!  烈火は何ごとかと宙を仰ぎ見る。烈火の進軍がやや遅くなったようにルイエには感じられた。彼女の額を飾っている宝珠を知らぬ者など中枢にいない。それは、ドゥ・ルイエのみが飾ることを許されている青水晶なのだから。  ルイエは大きく両の手を広げ自分自身を誇示した。 「烈火よ! 私の言葉を聞くのだ! 私は諸君らの主、ドゥ・ルイエである!」  ルイエの発した声と同様、宙に映った幻像からも声が放出される。それは烈火が突進する音すらもうち破って、朗々とあたりに響きわたった! 「ルイエだと? なぜ、ここに……少々放蕩が過ぎるのではないか? のこのことアヴィザノを抜け出してくるようでは、執政官達の気苦労も絶えまい」  デルネアは言った。臣下の言葉としてはまったく礼を欠いた言葉ではあるが、デルネアも、当のルイエも構っていない。すでに君臣の間柄ではないと、お互い悟っているからだ。 「デルネア。私は貴君が今までに――遙か過去から現在に至るまで、いかなることを為してきたのかを知った。だが、貴君ももう少し私のことを知るべきだったな。私は凡庸たる君主ではあるが、少なくとも自分が何を為さねばならないのか、それくらいは心得ているつもりだ」  ルイエはデルネアに対して言った。 「私を軽んじてもらっては困るな、将軍よ。貴公の暴走をくい止めるために……そしてルミエール・アノウとエヤード・マズナフ、両名のためにも、私はここにいる!」 「……我と烈火の動向を追っていたのは、国王自らだったとはな。それは今の今まで思いもしなかったわ。それで、貴様のお守りにつけられたのが近衛二名だったということだな」  歯牙にもかけない様子を露わにするように、デルネアは鼻で笑った。 「かの者達に疾風をけしかけたのは、間違いなく我の命によるものだ。……それでルイエよ、仇討ちでもするつもりか? まあ、さぞ悔しかろうな」  その態度に、思わずルイエは顔をしかめる。 「言うな! 彼らの無念さなど、貴公に分かるものか!」 「ああ、分からぬわ。たかだか人間数名の命であろう? 我がそんな些細なことでいちいち感傷的になるようでは、世界全てを掌握出来るものか」 「貴様あ!」 「デルネアの言葉にのせられては駄目だ! あなたにはしなきゃならないことがあるだろう?! 時間がないんだぞ!」  ルードの言葉を聞いて、ルイエは目が覚めた思いがした。デルネアの掌中で踊らされて、危うく目的を忘れるところだったのだ。烈火は先ほどより足が鈍ったようであるが、瞬きを数回しないうちにも辿り着くところまで近づいてきていた。 「ルイエよ、我と戦うか? 自らの死をもって後悔するのが関の山であるがな」 「いや、私は貴君と戦うわけではない。私はドゥ・ルイエとして為すべきことを為すのみだ!」  すんでのところで、ルイエは荒ぶる感情を抑えた。ルードに目配せをして感謝すると、再び全ての烈火を見渡して、言葉を発した。 「烈火の戦士よ、ドゥ・ルイエが命を聞け! 進軍を止めよ! これは勅命である!」  ルイエがその勅命を発した時、誰にとっても信じがたいことが起きる。出来事を確信していたのは、ルイエひとりだったのかもしれない。  がちゃがちゃと甲冑を鳴らしながら近づいてきていた烈火の足が、前列から順々に止まっていくのである。  やがて――周囲はしんと静まりかえった。  全ての烈火達は、戦闘に備えて構えていた剣をおろすと、先ほど対峙していた時と同様、不動の体勢をとった。  そして、かしゃ、かしゃ、という音があたりに響く。典礼の際に、近衛兵達がそうするように、烈火達は一斉に剣を高く掲げ、そしてそれぞれの目の前に構えると、小さく一礼をしたのだ。臣下の礼。ルイエは宮殿にて、この礼式を何度となく目にしているが、このような大人数が一斉に行うのを見るのは始めてであった。  ルイエ自身、圧倒される思いであったが、何よりも達成感がそれにまさった。彼女は誰にも知られないように、小さくほぅっと息をつくと、烈火に対しておもむろに手を挙げた。  それを見た烈火は、臣下として応えるべく、剣をしまうと一斉に一礼をした。  宙に浮かんだルイエの像は、すうっとかき消えていった。 「何?!」  ルイエの為したことに対して、ルード達は驚きの声をあげる。が、それ以上に驚いたのはデルネアであろう。彼は後ろを振り向いたままでその表情は読み取れないが、デルネアがあきらかに狼狽しているのが分かる。今まで軍を率いていたデルネアの命令に対し烈火が拒否した。これはデルネアにとって、まったく想像出来ないことであったに違いない。 「止まっただと?! 解せないことだ」 「デルネアよ。やはり貴公は増長しきっているようだな。烈火は私の配下に置かれている戦士達だぞ。ルイエたる我が命令を聞き入れるというのが当然のことだろう?」 「馬鹿な!」  デルネアは、まるで信じられない、という面もちのまま、顔を横に何度も振って、吐き捨てるように言った。 「烈火という戦士を形成したのも、何より今までの行軍を統率していたのも我だというのに、なぜ! なぜ我の命令が聞けぬのだ! 進軍せよ!」  しかしデルネアの言葉はまるで風のように流れて行くのみ。烈火の中で誰ひとりとして動こうとする者はいない。  烈火は、かつてデルネアが作りあげた中枢の精鋭戦士である。ドゥ・ルイエに絶対の忠誠を誓う戦士達。かつてのルイエ達は、デルネア自身の言葉を“神託”として受け入れていたのだが、今のルイエ――サイファ――は、違っていた。  王になる者は“ドゥ・ルイエ”の名を冠すると同時に、幼少の名を捨て去るのが通例だが、現ルイエは、王となった今でも幼少の名“サイファ”を併用している。それが、確固とした己というものを未だに持っている要因でもあったのだ。公の立場では国王『ルイエ』でありながらも、また『サイファ』というひとりの人間でもあるという認識。今までの王との違いがそこにあった。  そして、そのことをデルエアは見抜けなかった。 「我は絶対なる存在! 信じられるものか! 我を差し置いて、ルイエごとき命令を聞くなど!」  デルネアは、自分自身の拳を力任せに地面に叩き付けた。ごうんという鈍い音とともに、デルネアの目の前の地面に亀裂が走り、ルード達の足下にまで伸びていった。  ルードは亀裂を避けて飛び越すと、ルイエの横まで来た。 「世界を全部ひとりで操れるなんてことは、出来ないと思う」  うつむいたデルネアに対し、ルードは諭すように言った。 「フェル・アルムは、確かにあなたが創った世界かもしれない。けど俺達は、その創られた世界の中で俺達なりに生活しているんだ。あなたが介在しなくっても、ちゃんとやっていける」  その時、石のように動かない烈火達の中から、数名の者が走り抜けてきた。全身黒ずくめの装束をまとった彼らに、ルイエは不安を覚えた。デルネアの側近であろうが、宮中でも見かけたことなどない者達だ。 「あれは隷だ。存在を知られぬように、ひそかに宮中に住まう者達。デルネア麾下の参謀であり術使い、と言おうか。剣の腕は持たぬがな」  〈帳〉が言った。 「なるほど。少なくとも彼らだけは、デルネアに忠誠を誓うのかもしれん」  隷達はデルネアの周囲を取り囲むと、術の詠唱に入ろうとした。が、デルネアに制止された。 「やめおけ。貴様らの魔力では〈帳〉にうち消される。もっとも〈帳〉よ。“礎の操者”と冠されていたお前も、今となってはそれだけの力しか持ち得ていないのだがな」  〈帳〉は否定しなかった。 「しかし、我に従う者がこれだけしかおらぬ、とは。二千の烈火は結局動かぬのか、ふん……」  デルネアは自嘲するかのように笑った。 * * * 「ルード」  ルイエは小声でルードに話した。 「土が腐り始めている。黒い雲の影響がすでに顕著に出てるようだ。何より避難民達の中にはクロンの悪夢から逃げてきた人もいるのだから、このような場所から一刻も早く立ち去りたいに違いないだろう? ――避難民だけでも、先にサラムレに行かせてやりたいと思うのだけれど?」 「もちろんそうしたほうがいい、とは思うんだけれどな」  ルードも賛成した。 「だけど……それが出来る?」 「やってみるしかないだろう? 必ず烈火を動かしてみせる。まあ、それは私の役目だからね」  ルイエはルードに笑いかけると、次の瞬間には毅然とした表情に戻り、再びデルネアと対峙した。  デルネアの発する闘気は相変わらず圧倒的なものである。  が、ルイエはあえてその闘気を真っ向から受けた。ルイエ自身の為すべきこと。その大筋はすでに終わったとはいえ、あくまでデルネアに対しては、戦いの勝者として正々堂々と渡り合わねばならない。その思いこそが、ドゥ・ルイエ皇としての風格に繋がるということを、当のルイエは知ってか知らずか。ルイエは毅然とした口調でデルネアに話しかけた。 「物事は全て貴公の思うがままに進むわけではないということ、その身をもって知ったであろう、デルネアよ!」 「……小娘が。お前が今のドゥ・ルイエたる立場にあるというのも、全て我《われ》が計らったことだというのに刃向かうとは……身のほどを知れ!」  デルネアの闘気が膨れあがり、ルイエに襲いかかった。 「うああっ!」  かたちを持たないその力は容赦なくルイエを痛めつける。ルイエは両の手で自らを抱きしめるかのように、自分自身を守ろうとするが、ついにこらえきれずにどう、と倒れた。 「サイファ!」  ライカは思わずルイエのそばに駆け寄り、彼女を抱き寄せた。幸い、傷は浅いようだ。 「しっかり」 「ライカ……ありがとう。大丈夫よ」  ライカの肩を借りたルイエは、やや顔をしかめながらもすっくと立ち上がった。 「我、ドゥ・ルイエの名において、烈火に命ずる! 貴君らの敵はニーヴルにあらず! この地に現れている化け物を押さえ込むことこそ烈火の使命と知れ! まずは道をあけ、北方の避難民を通してやるのだ。そのあとで、臨戦態勢に移れ。繰り返すが敵はニーヴルではない! これは勅命である!」  勅命を受けた烈火達は、即座に二つに分かれていく。騎士達の列の間から、サラムレへと続くルシェン街道が現れた。  今、街道の封鎖は解けたのだ。 「貴様……! あくまで神託に背くか」  デルネアは後方で道を空ける烈火達の様子を苦々しく見つめるほか無かった。 「神君ユクツェルノイレなど実在しないことを、私は〈帳〉殿から聞いた。今まで神の役を演じていたのが貴公である、ということも」  ルイエは続けて言った。 「デルネア。黒い雲が近づいている。避難民を通してやってくれぬか」 「……ふん」  毅然とした眼差しと、鋭い眼光。ルイエとデルネアはお互いの視線を交錯させるように対峙する。今度はデルネアも力ずくで押さなかった。国の君主と、世界の君臨者の間には、目に見えない何かが交錯しあっているかのようであり、両者一歩も引く構えを見せない。それは静かなる戦いであった。  長い沈黙が周囲を包んだ。  が。 「……通るがいい」  ついに、デルネアは重々しく言った。デルネアの思惑の一端が、音を立てるかように大きく崩れ去った瞬間であった。 三. 窮地を脱して 「閣下!」  烈火達の動向がルイエの言葉によって一変し、事態が好転しつつあることを悟ったメナードは、後ろを振り返った。ディエルとともに後方の魔物と戦っていた戦士のうち数名とスティンの村人達、それと伯爵の部下達が走ってきたのだ。 「ディエル兄ちゃん!」  ジルは大手を振って迎える。 「おう。オレ達のほうは片づけといたぜ!」  ディエルは弟のもとに走り寄りつつ声をあげた。 「化け物どもはどうしたのだ? 皆は無事なのか?」  メナードの問いに答えるべく、部下のうちのひとりはひざまずくと、荒い呼吸をおさえつつ、一礼をして語り始めた。 「閣下。出現した化け物全てを討ち取りました。幸いにも――」 「伯爵さん。多分、あの場所から魔物が現れることはないと思う」  ディエルは、息を切らした部下の言葉を遮るように言った。 「怪我した人は結構いるみたいだけどな。……とは言っても軽い怪我だしさ、みんな大丈夫だと言えるよな」 「兄ちゃんは? 大丈夫だったのかい」 「はっ……」  ディエルはにやりと笑うと、さも嬉しそうに手でジルの頭をかき回す。 「オレがあんな魔物にやられると思ったのかよ? あんな連中だったら、片手でちょいっ! てもんさ」 「いててて……可愛い弟が兄の身を心配してやってるんだぞぉ! も少しいたわるとかいう気持ちはないの?」  ジルは頭を押さえ、兄の攻撃をかいくぐりながら言った。  じゃれ合う双子の使徒達を見ながら、メナード伯は満足そうにうなずいた。 「……みんな、よくやってくれた。どうやら、わしらの前に希望の一筋が現れたようだぞ。見てみろ」  彼は前方を見るようにと一同を促した。 「おお!」  旅商のシャンピオが感嘆を漏らした。北方の民をニーヴルの残党であると見なし、丸腰の民を無惨に蹴散らさんとしていた烈火の軍隊は、今や壁のごとくただ居並ぶのみ。しかもその壁は、街道を塞ぐのではなく、二手に分かれている。ついにサラムレへ伸びるルシェン街道は開かれたのだ。 「……ルードのやつ、いっちょう前にやるじゃあねえか」  シャンピオは、弟のように可愛がってきた少年のことを思い、満足げにほくそ笑んだ。 「あれはサイファ姉ちゃんのおかげだってば!」  ジルが不満げに声を漏らした。 「うむ」  メナード伯がうなずく。 「陛下のご英断無くば、わしらは中枢の騎士達によって蹂躙されていたことだろう。だがついに、わしらはこの忌まわしい空から抜け出せる。陛下のおかげだ。まこと、ありがたいことだ……」  メナード伯は片膝を落とし、臣下の礼を取った。当のドゥ・ルイエとはいささか距離が離れ過ぎてはいるが、感謝の気持ちをすぐにでも表したかったのだ。 「閣下、ご覧下さいまし」  側近のひとりが呼びかけた。 「陛下がお手を振ってらっしゃいます」 「陛下って……? え? どういうこと?」  シャンピオは要領を得ない様子で、メナードの顔を窺った。  メナードはシャンピオの顔をちらと見上げた。 「まあ、じきに分かることだろうから言ってしまうがな。サイファ殿こそがドゥ・ルイエ皇にほかならないのだ」  戦士や村人達がざわめくのを、伯爵はにやりと笑ってやり過ごす。 「よし! お前達はわしに続け。陛下のもとでご指示を仰ぐこととしよう」  メナードはすっくと立ち上がると、ルイエのもとへ参じるべく、その老体に似合わず足を早めた。 「お前達、何をしている! 早く来るのだ!」  叱責を浴びた側近達は伯爵に続き、足早に前方へ向かった。 「伯爵さん! 俺達はどうしたもんかね? こんな不気味な空とは早くおさらばしたいんだけれどさ」  シャンピオはたまらず、伯爵に呼びかけた。後ろに控えている避難民達がざわめきたち、今にも駆け出さんとしているのを感じ取っていたのだ。もし彼らのうちのひとりでもしびれを切らして飛び出してしまえば、その周りの者もすぐさま同様の行動をとるだろう。そしてそのまた周りの者も――というように波及していくのは明らかだ。このままではせっかく事なきを得ようとしているのに、それすら収拾がつかなくなってしまう。 「この異常な状態の中で待機している皆の気持ちはわしも痛いほどよう分かる。だがもうしばしだ。じきに皆でこの地を離れられるだろう!」  振り返るとメナードはそう答えて、再び足を早めた。 「頼みますよ!」  シャンピオはそう言うと、ほうっと息をついた。 「しかしサイファさんがねえ……これにはまいったわ」  彼は手を額に当てて、大げさに驚いてみせた。 「さあて、とりあえずは一難去った、てなところかね!」  戦いで萎縮した筋肉をほぐそうとしているディエルが、大きく伸びをしつつ言った。 「だけどさ、これからが難しいところだよね?」  ジルの言葉にディエルがうなずく。 「そうさ。“混沌”が少しずつこっちに来ているっての、オレには分かるからな。なんとかくい止める方法を考えないと、本当に終わりの時が来てしまうぜ……あれ?」  その時ディエルは、何かを感じ取ったのか、怪訝そうに周囲をきょろきょろと見渡しはじめた。 「それもあるけどさ、その前にデルネアだよ!」  兄の動作を気にせず、ジルは言った。 「デルネアってやつは簡単に屈するようなやつじゃないだろうからさ。これからは、聖剣を持ってるルードがどうするか、それにかかってるんだ……うん? 兄ちゃん、何してるのさ?」  ディエルは精神を集中するために目を閉じている。なんらかの力の所在を察知するために、常人には聴き取れない“音”を発しつつ自らの魔力を解放していく。 「……ここじゃないけど……魔物の気配を感じる! じきに魔物がわんさと出てくるぞ。それも、かなりの数らしいな」  “混沌”が近づいてるだけのことはある、とディエルは苦笑いを浮かべた。 「えっ?!」  ディエルの言葉に、その場に居合わせた人々はざわめいた。 「坊や、本当かい?」 「“坊や”っていうのはやめてくれってば! オレはディエルっていうんだ。大体こう見えたって、あんたより千年以上は長く生きてるんだぜ?」  ディエルは、そう言った戦士に対して口をとがらせた。 「……悪かったって。ほら、あんたも謝りなよ」  シャンピオは戦士に謝らせると、言葉を続けた。 「で、ディエル。化け物がまた出てくるっていうのは、本当なのかい?」 「そうだよ。オレ達がさっき戦った奴らよりも、もう少し手応えのある連中みたいだ。人間の手で倒せるだろうけど、この数じゃあ全然戦力にならないな」 「どれくらいの数が来るってんだ?」別の傭兵が訊いた。 「さっきのだってせいぜい三十体ってとこだろう? 今度はあれよりも強いやつらが、少なくっても百体や二百体……それくらい出てくるんじゃないかな?」  とディエル。  一同は黙した。先ほどの戦いでもそうとう苦戦を強いられていたというのに、それを凌ぐ化け物相手では、とても歯が立たない。  ディエルは前方の赤い〈壁〉をちらりと見た。 「そう……あれだ。あれに動いてもらわないと、とてもじゃないけど駄目なんじゃないかな?」 「そうか、烈火か! たしかに、あの精鋭達だったら何とかなるかもしれないな! ……だけれども、あれを動かすのは、サイファさんじゃあないと出来ないんだろう?」  シャンピオが唸った。 「じゃあ、おいらが姉ちゃんのところに行ってくる! 姉ちゃんが命令すれば動いてくれるんだろ?」  ジルが言った。 「兄ちゃん、魔物が現れるまでって、時間はまだ大丈夫なの?」 「ええっと……多分まだ時間はあるぜ!」 「分かった! じゃ、行ってくるよ!」  手を軽く挙げて挨拶をすると、ジルは一言“音”を発し、その場から消え去った。 「はあ……」シャンピオは間の抜けた声をあげた。 「ルード達のしていることにも驚いたけどな、あんた達の力っていうのも……なんて言ったらいいのか……いや、神様ってやつをあらためて信じたくなってきたよ」 「そりゃそうさ! オレ達はトゥファール様、力を司るアリュゼル神族の使いなんだから!」  ディエルはさも得意そうに胸をはった。 「神様を“信じる”っていうのか、ここの人達は。アリューザ・ガルドに戻った時には、ちょいと考え方の違いってやつに戸惑うかもね。なんせ、神様がいるのなんて当たり前って世界なんだからさ。アリューザ・ガルドは――」  その時。  ディエルはまるで驚いたかのようにぴくんと背を伸ばした。何を感じ取ったというのだろうか。彼はひとりつぶやいた。 「近づいてくるこの“気”は、まさか! ……ううん、間違いない……! まだ時間がかかるか?! 早く!」 * * *  デルネアとの攻防を終えた後、即座にルイエはきびすを返してやや後方に下がると、後方に留まっているメナード伯に対して、精一杯手を振って合図を送った。 「伯爵も気付いてくれたようだ。これでみんな、ここから逃げおおせられるだろう!」  再びルイエはルード達のもとに戻り、満足げに言う。  デルネアと対峙していたルード達は、顔を見合わせていた。お互い、一種の達成感が見て取れる。まったく絶望的な状況の中にあっても、一筋の希望がそこにあったのだから。 「あなたの勇気には敬意を表する」  〈帳〉がルイエの肩をぽんぽんと叩いた。 「デルネアがこの世界ではじめて屈した相手というのは、おそらく、あなたなのだろう」  それまで頑なだったルイエも、今はひとりの女性――サイファに戻り、安堵の表情を浮かべていた。 「私はルイエとして為さなければいけないことを、そのまま為したに過ぎないわ。烈火をこの地に招いてしまったのは私のまいた種。私の責任でもあるのだから」  よほどあの一瞬に精神を集中させていたのか、少々やつれて見えるサイファは、それでも気丈に言った。 「私も危なかった。なんと言えばいいか……魂をすっぽりと抜かれてしまうような感じすら覚えたんだ。デルネアの“力”はあまりにも強過ぎる」  それでもサイファは笑みを見せ、ルード達に握手を求めた。 「でも、ルイエとしての役割を果たせたのは、みんなのおかげだと思う。ありがとう」  そう言うと横を向いて、照れくさそうな仕草をしてみせる。ルード、ライカ、〈帳〉はそんな彼女を微笑ましく感じながらも彼女の手を握り、サイファを励まし称えるのだった。 「で、これからあなたはどうするんだ? みんなをまとめてサラムレに行くのか?」  ルードの問いかけに対し、サイファはかぶりを振った。 「住民達の避難は、メノード伯爵に任せたいと思う。私は、君達と一緒にここに残って、ことの顛末を見届けたいんだ」 「あなたも分かってるとは思うけど、危険なのよ?」 「もちろん、それは分かってるよ。でもライカ。私もこの事件に足を踏み込んだ身。最後までみんなと一緒にいたいんだ」 「分かったよ。俺達のことを見ていてくれ」  ルードが言った。 「陛下!」  その時、メナード伯が駆けつけた。彼は荒ぶる息を抑える間もなく、主君のもとにひざまずいた。 「陛下のご活躍、この老体はいたく感服いたしました……陛下のご勇姿は、永く語り継がれることでありましょう」  ややも大げさかもしれないが、メナードの言葉には真理が含まれていた。ドゥ・ルイエが放った勅命を自ら撤回することは言語道断であり、恥ずべきことである。しかしサイファはそれを知りつつも、窮地から民を救うためにあえて勅命を撤回したのだ。彼女の心の中に芽生えた決意と勇気。それがルイエの英断を生んだ。  サイファはくすりと笑って、メナードに立つよう言った。 「そう固くならずともいい。立ちなさい。メナード殿、それに周りの方々よ」 「はっ」  メナードは言われるままに、すくりと立ち上がった。国王その人を前にして、緊張しているのがありありと伝わってくる。 「……あなたには避難民の統率をお願いしたい。無事にサラムレに着いて人々が安息を得られるよう、よきに計らってほしいのだが」 「仰せのままに」  メナードは深礼をして応える。 「して、陛下はいかがなされるおつもりなのでしょうか? これより先、我らを率いてくださるのであれば、まことありがたいのですが」 「いや……私は……」  サイファは、やや表情を曇らせて言った。 「姉ちゃん!」  サイファの言葉に割って入るかのように、ジルの声が聞こえてきた。次にジルが空間を渡って実体を現し――すぐさまサイファに飛びつく。 「よかった、無事で! さすがは国王陛下だね!」 「ジル!」  ややよろけながらサイファはジルの体を受け止め、彼の頭を優しく撫でた。 「ありがとう。君のおかげだ。……ん? ジル? ひょっとしたら、結構泣き虫なのかな、君は」 「ち、違うやい!」  ジルは両目をこすりつつも強気に言ってのけた。 「これ! 降りんか! 失礼にもほどがあるぞ!」  メナードは目をつり上げて注意を促すも、サイファはそれを制した。 「いいんだ、ジルは私の小さな友人だよ。それに、ジルが珠を創って使い道を教えてくれたから、巨大な私の像を皆に見せることが出来たのだ。ジルの力が大きな助けとなった。……でもジル。どうしてまたこっちまで来たんだ?」 「ああ、そう! そのことだよ!」  ジルはぽんと手を打ち、地面に降り立った。 「ディエル兄ちゃんが言ったんだ。百を超すほどすごい数の魔物がもうじき現れるって。でも、こっちにいる戦士じゃあそんな数を相手に出来っこないんだ。だからお願い。あの赤い戦士達を向かわせてくれないかな?」 「魔物が来るって? それはどのあたりなんだ?」 「……! ご覧、サイファ。右手の遠く、あのあたり……私には霞んでよく見えぬのだが、あなたには見えるだろうか? あれらは、確かに今まで目にしたこともないくらいの数だ。“混沌”の力が強まっているゆえなのか……」  半メグフィーレほど北方ではあるが、この地からでも明らかに分かる。暗黒に覆われた空の下にあってすら、さらに黒く光る禍々しい球体が一面に出現していた。間違いなく、魔物が現れる前兆である。 「百どころじゃあ……とてもじゃないけれどもきかない数だ」  ルードも唇を歪ませて呆然とする。  サイファはしばし、北方の有り様に目を凝らすように見つめていたが、言葉を切りだした。 「分かった。烈火に当たらせよう。烈火に勝ち目は?」 「あると思うよ。魔物とは言っても、“魔族《レヒン・ザム》”のような、高い位にある連中じゃあ無さそうだし」とジル。 「もしくは“忌むべきもの《ゲル・ア・タインドゥ》”と言われる、“混沌”の創造物の中でも、きわめて力の薄いものどもか。ならば、我らに勝機は十分にある」  〈帳〉も言う。  サイファはうなずくと、烈火のいるところへ向かって歩き始めた。 「メナード殿。私はここに留まる。勝手かもしれないが、私は全てを見届けたいのだ」 「陛下……」 「さあ、避難民達もさぞ焦れていることだろう。……頼む」  そう言うと、再びサイファは歩き始めた。メナードは何やらサイファの背中に語りかけようとしていたが、思いとどまり、彼女の背中に深礼をして、きびすを返していった。  サイファは再びデルネアと対峙する位置にまで戻ってきた。ちらと彼の様子を窺うが、デルネアはうつむいたまま、まるで石にでもなったかのようにぴくりとも動こうとしない。隷達もそれにならうようにただ立ちすくんでいた。  その様子にやや不気味さをも感じたが、意を決し、サイファは高らかに声をあげた。 「烈火達よ、北方を見るがいい。一面に広がる黒い球こそ、忌まわしき魔物にほかならない。諸君らの敵はニーヴルにあらず、あれなる異形のものどもである! 烈火達よ、我が命に従い、あれらを撃破せよ!」  すると、それまで壁のように居並んでいた烈火達が呼応した。ルイエに対して臣下の礼を取ると、鎧を着込んでいるとはとうてい思えないほど迅速に、しかし地面を揺るがせながらも北へと向かっていった。 (ふう……)  サイファは、完全に開けた街道を見た。このまま西へと進めば、二、三日後には水の街サラムレへと辿り着くだろう。  西の空は虚ろな灰色を映している。青を失った空とはいえ、それすらもこの上空を染める、黒く渦巻く空の絶望感と較べれば、幾分か人々に安堵をもたらすものとなるだろう。  黒い雲がサラムレまで忌まわしい力を伸ばすのは、当分先のことになるようにサイファには思えた。このウェスティンの地が“混沌”に覆われるまでは。 「とりあえず、私の役目は無事に果たせた、というところか」  サイファは、短くなった黒髪を掻き上げながらつぶやいた。 「私に勇気を与えてくれたのは、間違いない……エヤード――父上にルミ……」  涙が自然とこぼれ出てくるのを止めずに、サイファは流れるにまかせた。 「ありがとう……」 * * *  西への移動を心待ちにしていた北方の民達は、メナード伯の指示を受け、一斉に、しかし決して乱れることなく動き始めた。今や避難民の数も膨れあがり、最北のダシュニーや、東方のカラファー出身の人々を含めると二万を数えようかというくらいまでになっていた。 「一緒になって歩いてた時はそんなに意識してたわけじゃあないけど……いつの間にかすごい人数になっていたんだな」  ルードは素直に言うほか無かった。 「ほら、地面が揺れてるみたいだぜ」  人々を先導しているメナード伯は、馬車から降りるとサイファと、そしてルード達に一礼した。 「陛下。大変心苦しいのですが、我々は先に失礼いたします」 「いや、私のほうこそわがままを言ってすまないな。私達は青い空を取り戻すべく、ここで最善を尽くす。心配せずとも、必ずそうしてみせる」  腫れた目のままサイファは微笑んだ。 「今は、烈火達が死力を尽くして魔物と戦っている。私達は、私達の戦いに打ち勝たなければならない」 「貴君らも気を付けて。運命が味方をしてくれることを祈っていますぞ」  ルード達はメナードと、それに続く避難民達を見送っていた。ひたすら進むのに必死な者、安堵の表情を浮かべる者、皆の気分を慰めるべく楽曲を披露する者、ルード達に礼を述べる者――十人十色であったが、彼らは足早にこの地を去っていった。  そして相も変わらずデルネアは、ぴくりとも動かずに人々をただやり過ごすのみ。  事実上の敗北を認めたのか? それとも――。 「ルード」  馴染み深い声に名を呼ばれたルードは笑みを漏らす。 「叔父さん……」  いつの間にか、ルードの周りを囲むように人垣が出来ていた。ナッシュの家族や、ケルン、シャンピオといったスティンの村人達。それに麓で顔馴染みの人々もそこにいた。彼らの表情に共通することは一つ。 「ありがとうよ。そして頑張んなよ!」  彼らの声を代弁するかのように、ケルンが前に出ると、やや荒っぽくルードの肩を叩いて励ました。ルードはケルンの肩越しに自分の家族の顔を見て取った。言わずとも分かっているかのように、お互い小さくうなずきあった。  目前に迫る運命の時に至って気が張っているとは言っても、ルードとて一介の少年であることに違いない。ルードは感情を抑えきれず家族のもとに駆けだした。 「ルード」  ニノは柔らかな手でルードの背中に手を伸ばした。頑固なディドルは、やはり黙って見つめている。 「こんなことになっちゃったけど、俺は俺なりにやり抜くよ」  ルードは声を震わせながらも、自信を持って言い切った。 「そして、叔父さんがまた羊を飼って暮らせるようにする」 「お前はどうするつもりなんだい?」とニノ。 「俺は……ライカを無事、故郷に帰してやる。ライカとの約束だから。それに、出来れば世界っていうのをこの目で見てみたいし。それに……」  ルードはちらりと従姉の顔を見た。 「後を継ぐとかいう話は……ごめん。今の俺には考えられなくなっちまってるみたいだ。でもケルンがいるから……」 「……え? な、なんでそこでケルンが出てくるのよ?」  ミューティースが訊いた。 「ん、ケルンから直接聞いたわけじゃあないけど、ご両人の雰囲気、かな?」  ルードは悪戯っ子のような表情を浮かべた。 「とにかく、俺がなんにも知らない、なんて思ってたら大間違いだぜ?」 「もう!」  彼女は顔を赤らめ、ばつが悪そうにそっぽを向いた。 「そっちこそ、せっかく可愛い娘をつかまえたんだから、大事にしなさいよね!」 「わ、分かってるってば!」  今度はルードが赤ら顔をする番だった。  こうしてルード達は、つかの間の談笑――日常の和やかさを心地よく感じつつ、余韻を残すようにして別れていった。  これが永久の別れでないことをお互い切に願いながらも。 * * *  全ての避難民達が立ち去るのに半刻ほどかかっただろうか。この間に“混沌”が襲いかかってこなかったのは、ひとえに幸運の賜物としか言いようがなかった。  そしてウェスティンの地には――ルード達と双子の使徒、そしてデルネアと彼の麾下たる隷のみが残った。北方では、烈火達が魔物達を相手に、熾烈な戦いを繰り広げている。  今や空は黒一色と化し、“混沌”の到来を今か今かと待ち望んでいるようだ。ルードが神経を集中させると、足下の大地がしきりにざわめいているのを感じ取った。“混沌”に蝕まれ、自然本来の姿を失いつつある大地のざわめき。それは土の民の力を受け継いだルードにとって、耐え難い悲鳴にすら聞こえるようだった。 「もう、時すでに長くはあるまい。我らはいよいよ全てに決着をつけるべきなのだ」  〈帳〉は空の様子を窺いつつ言った。 「デルネアよ」  〈帳〉は歩み寄り、うつむいたままのデルネアに声をかけた。その口調はあくまで優しく、かつての友人を思う感情が表れていた。 「このままではいずれ終焉を迎えるのみだ……もう、いいだろう。フェル・アルムをあるべき姿に戻そう」  そして、友に手を伸ばそうと、さらに一歩近づいた時。  デルネアは無言のまま不敵な笑みを見せると――おのが剣を真横に薙いだ。 「〈帳〉さん!」  ルードは悲痛な叫びをあげた。そして恐れた。冷徹そのもののデルネアの表情にルードは、デルネアの執念をかいま見たのだ。 「……!」  〈帳〉の体が力なくよろける。〈帳〉の一瞬唖然とした表情はしかし、再び元に戻った。あくまで、デルネアに対峙する者としての、緊迫した表情。 「この期に及んで、まだ欲望を果たさんとするのか、デルネア!」  〈帳〉は、自らの腕がぱっくりと割け、血に染まっていくのを感じていた。避けるのがもう少し遅ければ、彼は右腕を失っていたに違いない。 「欲望ではない。我が追い求める理想のためだ」  デルネアは言った。相も変わらず、尊大な口調で。 「そもそも、なぜ我らがこの世界を創り上げたのか、今一度考えてみよ」 「アリューザ・ガルドを包んだ大いなる悲劇を繰り返さないため。それは私も同調していた。……しかし今、この世界はさらなる悲劇に見舞われようとしているのだぞ……!」  朦朧としつつある中で、〈帳〉は必死に叫んだ。 「だからこそ、だ。我は絶対者たらねばならない。愚かな呪紋使いよ。先ほど言ったことを繰り返させるな」  デルネアは、腕を抱えてうずくまる〈帳〉から目をそらし、ルードのほうに体を向けた。 「烈火を失ったからといって我の思惑が失敗に終わったなど、稚拙なことを思わぬようにな。我が求めるのはあくまでガザ・ルイアートなのだから!」  デルネアは鋭い剣先をルードに向けた。 「やめるんだ、デルネア!」  サイファは叫んだが、その思いはとうていデルネアに届くものではない。 「必ずや、その聖剣は我がものにしてくれる。貴様、あくまで剣を渡さぬと言ったな、ルードよ」  デルネアの体から圧倒的な闘気が発される。 「〈帳〉さんに刃を……本当に向けてしまうなんて……」  ルードは聖剣の柄をつよく握りしめ、デルネアを見据えた。 「人としての心を閉ざしてしまったあなたに、この剣は渡せない!」 「ならば、その言葉に後悔をして死ぬがいい!」  言うが早いか。デルネアは両手に剣を構え、ルード目がけて走り寄ってきた。その速さたるや、人間のものではない。  ルードはただ目を見開き、唖然とするしかなかった。  気がついた時にはルードのすぐ目の前にデルネアがいた。  彼は蒼白く光る剣を振り上げ―― 「おのが身を護れ、小僧!」  そう言いつつ、勢いをつけて振り下ろした。  きいん! と甲高い音を立てて剣と剣がぶつかり合う。  この世のものではない尋常ならざる剣同士は、火花を散らすでなく、己の持つ力を誇示し、相手を屈服させんとするかのように、その刀身から激しく光を発散させる。  黒く染まったウェスティンの地は、瞬間ではあるが二筋からなる光に包まれた。  そして――戦いが始まる。 四. 錯綜  ガザ・ルイアートと“名もなき剣”。そしてそれぞれの所有者の“力”が交錯しあう。二振りの剣は、己の持つ“力”を相手に知らしめんとするかのように、刀身からまばゆいまでの光をほとばしらせる。その二つの“力”の衝突におののくように、暗濁たる黒い空は打ち震えた。  剣の発するまばゆさにルードは目をくらませ、これら超常的な事象の中で、とある奇妙な感覚にとらわれるのだった。 (なぜ、俺はここに立っているんだ?)  自分が剣を握りながらも、まるで自分自身ではなくなっているかのような喪失感。今まさにデルネアと戦っているのだと認識してはいるが、その意識はまるで高いところから、あたかも俯瞰的に状況を捉えている感覚。 自分がいて、その横にはライカとサイファが息をのんで見つめている。後ろにはジルとディエルが控え、固唾をのんで見守っているのすら分かるようだ。  ほんの数ヶ月前まで、一介の羊飼いの少年に過ぎなかった自分が、聖剣と称される剣を所持している。そして今や、この世界の創造者と戦っているのだ。それが、自身が感じている違和感の原因かもしれない。  が、次にこう思った。今この時点になって唐突にそのようなことを想起することすらも、デルネアの惑わしの力、比類無き“力”によるものなのかもしれない、と。ルードは意識を集中させた。  ルードは先ほどからデルネアの表情を間近に見ている。デルネアは憤怒の表情を浮かべながら、ぐいぐいと力任せに“名もなき剣”をルードに押しつけてくる。ルードは、両手で聖剣の柄を固く握りしめ、デルネアの攻撃を必死にしのいだ。  デルネアの剣技は圧倒的に鋭く、重い。比類無きその技量は、かつてのレオズスを倒した英雄として、そしてフェル・アルムの調停者として、まさに相応しいものに違いない。  加えて、デルネアの全身から発する凄まじい威圧感が、容赦なくルードに襲いかかる。  それは殺気。デルネアは何としても聖剣を手に入れようと必死なのだ。そのためにはルードを殺すことなど、なんの躊躇もなくやってのけるだろう。ルードは歯をぎりぎりと食いしばりつつも、デルネアの猛攻を防ぐのがやっとだった。  デルネアとの戦いは、世界の命運そのものを賭した戦い。剣を突きつけつつも、世界のあり方を主張しているのだ。  しかし戦いなどは本来、崇高なものではない。かつての自分がそれを思い知っているからだ。ルードの胸中には、幼かった頃に村を襲った惨劇が去来した。  ――幾千の蹄の音と怒号。ばちばちと音をあげ、狂おしく燃えさかる炎。戦いの悦びに狂乱したかのような戦士達の刃にかかり、断末魔の悲鳴を上げる村人達――。  村のつつましやかな平穏は、かくもあっけなく蹂躙され、もとに戻ることはなかった。戦いとは、そういうものなのだ。  今、剣を交えている相手は、これまでルードが戦っていたような、忌まわしい魔物ではない。人間なのだ!  デルネアというひとりの人間を殺さねばならないのか? 自分は人を殺そうとしているのか?  手が震える。汗がにじむ。ルードは心の中でかぶりを振った。 (違う! 殺そうとしてるんじゃあない! デルネアのほうは、確かに俺を殺そうと考えているのかもしれない。でも俺は、デルネアを殺すわけにはいかないんだ。還元の方法をデルネアから聞き出さなければ! そのためにはデルネアの考えが間違いだってことを、気付かせるしかない……けれど、どうやって?!)  デルネアに心の迷いを気取られないようにと心に留めながらも、ルードは必死で剣を押し返そうとした。  ふいに、それまでルードの腕に重たくのしかかっていたデルネアの力が消え失せた。ルードは勢いあまって二、三歩よろめいた。  今まで剣を交えていたデルネアは、ルードの目の前からいなくなっていた。デルネアはルードから離れ、彼がもと立っていた場所まで、ほんの一瞬のうちに移動していたのだ。  デルネアは剣を構えながらも、鋭い眼差しでルードを威嚇している。そして――デルネアの横には〈帳〉が倒れている。デルネアの刃に倒れ、意識を失った〈帳〉が。  〈帳〉さんが、死ぬ?  この時になってルードは、自身の鼓動が胸から飛びださんとするくらいに大きな音を立てているのが分かった。同時に、まるで滝のように体中から汗が湧いてくる。  自らの死への恐怖。人が死にゆくことへの恐怖。恐怖と、戸惑いとが複雑に絡み合ったような奇妙な感情は、ルードを束縛して離そうとしない。  ルードは迷いをうち切るかのように、大きく息をついた。ふたたび剣を構えて、デルネアの一挙一動を見守べく、きっとした眼差しで見据える。しかし、一度喚起されてしまった恐怖というものは、そう簡単に払拭されるものではない。 (違う! 俺は恐れてなんかいない!)  そう奮い立たせても、ルードの心は深く沈んでいくのだった。デルネアの体がひどく大きく見える。この人物に戦いを挑むこと自体、無謀きわまりないことなのではないか?  ルードは、デルネアの術中に陥ったことが分かりながらも、どうすることが出来なかった。 * * *  デルネアは無表情のまま、横たわる〈帳〉を足でつついた。わずかながらに〈帳〉は呻いた。 「やめて!! 何をするの!」  たまらずに叫び声をあげたのはライカだった。 「どうもせぬ。〈帳〉も、すでに自ら止血を行っているようだな……」  デルネアは相も変わらず慢心した態度で、ことも無げに言ってのけた。 (まさか、〈帳〉さんを盾に取るつもりなのか?)  用心深くデルネアの様子を窺いながらも、ルードはそう考えていた。もし、デルネアが〈帳〉を人質に取り、聖剣を渡すよう言ってきたのならば、どうするだろうか? それでもあくまで「否」と言い切れるほど、ルードの心が非情でないことは自身もよく分かっていた。 (人の命は重い……。多分、俺は戸惑うんだろうな……)  苛立ちを隠しきれず、ルードは軽く下唇を噛んだ。  その時、いたたまれなくなったライカが、〈帳〉のほうへと駆け寄ろうとした。おそらくは、彼を介抱しようというのだろう。が、ルードはとっさにライカの肩をつかみ、制止した。 「ルード、なぜ?!」  振り返り、ライカは非難の声をあげる。 「ご、ごめん……」  ルード自身、自分がなぜこのような行動をとったのか戸惑った。彼の本心は断じて〈帳〉を救うのを止めさせたいわけではないのに、彼の感覚がそれを押しとどめた。 「ううん。ルードの行動は正しい、かもしれない。ライカ、分かってやってくれないか。もしもあなたがデルネアにとらわれてしまったら、ルードだって手出しが出来ないだろう?」  ルードの心を代弁するようにサイファが諭した。ライカは不満と苛立ちの色を隠しきれないようだが、それでもうなずいた。 「ライカ、もう少しの間辛抱してくれ。そしたら〈帳〉さんを介抱してやってほしい。俺がデルネアと戦っている時に!」  ルードは再び光り輝く剣をデルネアにむけて構えた。不思議なものだ。先刻まで恐怖に駆られていた心が、仲間達を見ているだけで落ち着くというのは。  これは決して、孤独な戦いではないんだ、とルードはあらためて知った。デルネアの惑わしのみならず、自分自身の葛藤にも打ち克つためには、親愛な者達が側にいることが何よりの力となるのだ。 「ふん……気が変わった……さすが聖剣と呼ばれる剣。たいした“力”を秘めているものよ」  デルネアは余裕のていを崩さず、不敵な笑みをたたえながら言った。 「何人であろうとも邪魔はさせん。隷どもよ、お前達も控えておれ。我らの戦いに立ち入ってはならぬ! ……いかな手を使ってもルードを破るつもりでいたが、やはり聖剣だけは、おのが“力”のみで手に入れてみせる。それこそがガザ・ルイアートに対しての礼儀であり、また剣士としての名誉になろう……!」  デルネアは、戦いの悦びに打ち震えているようだ。世界の創造者ではなく、ひとりの剣士としての彼がそこにあった。 「我は楽しんでいるぞ、ルード、お前と戦えること自体にな! だが……お前の心が我には分かるぞ。隠し通せぬものだ」  傲慢な笑みはそして、すうっと消え失せる。 「――恐れだ。我を、そして戦いを恐れているのだ、お前は」  冷徹なまでの声が響いた。デルネアは容赦なくルードの精神を責め立てる。  ルードはたじろいだ。自分が隠していた感情が、とうとう見透かされたのだ。こうしている今でさえ、恐怖が沸き上がってきているのに。やはり恐るべきは、人をかくもあっけなく虜とするデルネアの戦術である。  しかし、その一方でルードは感じていた。活力を止めどなく送り込んでくれる聖剣の“力”を。今さっきまで感じる余裕すらなかったのだが、ライカとのやりとりを経て、急に感じ取れるようになったのだ。  ライカ。彼女の願いを成就させるために、自分はことを為さねばならない。サイファは自分自身のやるべきことを成し遂げたのだから、今度は自分の番なのだ。 「恐れ? ……そうかもしれない。いや、確かに俺は怖いよ」  その言葉は、はたから聞いて意外なものだったろう。が、ルードは、デルネアに対しての答えはこれしかないと直感した。恐怖を否定してしまったら、かえってデルネアの術中にはまる一方だろうから。  ルードの直感は果たして、正しかった。内なる敵――葛藤は、迷宮の出口を指し示したのだ。がんじがらめの呪縛から解けたかのように、すうっと心が軽くなる。聖剣もまた、所持者を讃えるべく、刀身から真っ白い光を放つ。その光に包まれたルードは、己の活力が増していくのを感じていた。 「……あえて恐怖を認めたか。覚えておくがいいぞ。いかに手練れた戦士や魔法使いであっても、恐怖の領域を切り開くということは、容易いようで難しいのだからな。……それでこそ聖剣所持者に相応しい」  デルネアは喜んでいるようだった。両の目に爛々とした獰猛さをたたえながら。 「しかしだ。だからこそ、容赦はせぬ……!」  デルネアはとんとんと、足を踏みならした。何かをはじめようとする、きっかけのように。  “名も無き剣”が蒼白く光り、そして――闘気が急襲した! 「――!!」  ルードは自身の感じるままに、また、聖剣に誘われるかのように、とっさに剣を突きだした。と、ちょうどガザ・ルイアートの刀身がある場所に、寸分違わずデルネアの剣が打ち据えられた。剣同士が唸り声をあげ、光がほとばしる。  デルネアの、何と恐るべき速さなのだろうか。彼はほんの一瞬で間合いを詰めてきたのだ。そして、木の棒を振り回すかのように軽々と、おのが剣を横に二度、三度薙ぐ。あまりの速さに、刀身の蒼白い光は光輝を後に残した。幻想的な残像に、ルードは見とれる隙すらない。次の瞬間には、あまりにも重い剣の一撃が加えられる。ルードは再び、剣の柄を固く握り、攻撃に耐えてみせる。  デルネアはすうっと剣をひくと、今度は目にもとまらぬ剣の突きを見舞う。ルードはじりじりと下がりながらも突きをかわしたが、それでも数撃は見切ることが出来ず、自分の腕に直に突きを食らうことになってしまった。 「くっ!」  斬りつけられた、その熱さと激痛が腕を伝って感じられる。ぱくりと割けた傷は、かすり傷と言えないほどに大きいものであったが、太刀筋のあまりの鋭さゆえか、血しぶきがあがることは無い。そして、その痛みもごく一瞬。ルードの傷はすぐに癒えた。大地の加護を受け、癒しの力を持つセルアンディルは、外傷などもろともしないのだ。  次にルードは勢いをつけて、自らデルネアの懐に入り込むと、光り輝く聖剣の一撃を見舞った。さすがのデルネアであってもたまらず一歩飛び退き、間合いを外した。  ルードは汗を拭いながらも、凛とした目つきでデルネアを窺う。ちらと横を見ると、ライカとサイファはこの隙に〈帳〉を介抱していた。それを見てルードは安堵した。一方、主の命令に忠実な隷達は、ただ立ちすくんでことの成り行きを見るのみ。  戦いはしばしの間、膠着状態となった。  しかし、静かなる戦いはなおも続く。デルネアのあびせる比類無き闘気の強さから、ルードは必死に耐えてみせた。その一方でルードは、かつて〈帳〉の館にてハーンから習った剣技の数々を思い起こし、反芻していた。 (見ていてくれよ、ハーン!)  気を取り直し、ルードは剣を下段に構えると、再び自ら駆けだした。  が、粘土のようにぬるり、とした地面の感触に足をすくわれ、少々体勢を崩す。ウェスティンの地には湿地帯など無かったはずなのに――。だが足下を見なくても、“混沌”と対峙していたそれまでの経験から、ルードは状況を把握した。  これは明らかに“混沌”の仕業である。それまで固かった地面が腐り、どろどろに溶けている。こうして戦っている間にも“混沌”は我関せずと、じわじわと攻め寄ってきているのだ。  終焉の時は近い。  ルードの足下がふらついた一瞬の隙を逃さず、デルネアはルード目がけて突進してきた。ルードが気付いた時にはすでに遅く、目の前にはデルネアの巨躯が迫っていた。 「ルードぉ!」  その声は、ライカのものだったろう。ルードがそう思う間もなく、ごすっ、という鈍い音とともに、ルードは十ラクほど吹き飛ばされる。渾身の体当たりの衝撃のために、あばら骨が折れたのだろうか、激痛が走り、一瞬意識を失いかけた。かろうじて、聖剣を手離しはしなかった。  地面に放り出される際の、ぐにゃり、と柔らかい地面の感触に嫌悪感を感じつつも、ルードは素早く起き上がった。目の前には早くもデルネアが駆けつけており、剣を真横に構え、ルードの首のみを狙っていた。ルードは殺気を感じ取り、とっさにかがむ。  間一髪。デルネアの剣が頭の上をかすめ、後ろ髪の数本が切り落とされた。セルアンディルであっても、首が飛んでしまったら命を失うだろう。ルードは高ぶる鼓動を抑えながらもデルネアの剣から必死にかいくぐった。起き上がる機会を逸してしまったため、臭気が鼻につくぬかるみに座り込んだまま、デルネアを見上げるようにして剣で応戦する。とはいえ、この体勢ではいずれ近いうちにデルネアの剣の餌食になってしまうだろう。 (どうする?)  ルードは自問しながらも防戦する一方だった。徐々に、追いつめられているのは分かっている。攻撃を受けるたびにじんと痺れる腕も、いつまで保つのだろうか? 持久戦になれば、いかにルードが聖剣所持者といえども、天性の剣の使い手であるデルネアに敵うはずもない。  体力と精神を消耗してきたルードはほんの一瞬、集中力を乱してしまった。すかさず、勝利を確信したデルネアは容赦無い一撃をたたき込もうと、剣を上段に構え――唸りとともに振り下ろす。ルードはもはやなすすべなく、呆然と自らの死を見つめるほか無かった。  が、かきん! という乾いた音とともに、デルネアの攻撃はこぶし一つ分の隙間を残して遮られた。目の前には緑色の硝子のような壁が出来上がっていた。明らかに、術によるものだ。  デルネアはしばし、剣を振り下ろした体勢のまま、固まったように動かなくなった。やがて、怒りに満ちた表情をふつふつと満面に浮かべると、戦いの場から離れていった。 「我らの戦いに割って入るとは、鬱陶しいぞ――〈帳〉めが!」  ルードはすくと起き上がり、デルネアが近づこうとしている方向を見る。ライカの肩を借りながら〈帳〉が起き上がっていた。その顔に生気はまだ感じられないものの、ルードの顔を確認すると、彼は小さく笑ってみせた。デルネアの剣戟からルードを守った障壁は、〈帳〉が作り出したものだろう。だが、普段の〈帳〉ならいざ知らず、今の彼を見るに、術が行使出来るほど力がみなぎっているとはとても思えない。 「アイバーフィンの魔力を借りてしか術が行使出来ぬとは、貴様も落ちたものよ! “礎の操者”の名が泣くぞ」 「……今さら私の名前がどうなろうと構わぬ。しかしルードとガザ・ルイアートは、我々の希望を繋ぐものなのだ。だから決して……」  〈帳〉は言いつつも、力なくライカに寄りかかった。止血に費やした魔力がことのほか大きかったのか。おそらくは持てる魔力を出し切ってしまったのだろう。 「わたし達だって、このままルードを見てるだけなんて出来ないもの! ルードを……なんかしてみたら! 許さないわよ、わたしは! 絶対に!」  〈帳〉の言葉を代弁するかのように、ライカがわなわなと、感情をむき出しにして言い放った。 「それほど愛おしく思うのか、この小僧を? だが……」  ルードはこれぞ絶好の機会とばかりに、デルネアに切ってかかろうとした。 「甘い!」  デルネアは振り向きざま、おのが拳を地面に力強く叩き付けた。ぬかるんだ地面はいびつに湾曲しながらも、ごん、と石が割れたような固い音を立てる。地面が割れ、それはすぐにも、奈落の底へと繋がる大きな亀裂となった。その幅は二十、いや三十ラクにも及ぶだろうか。  ルードはかろうじて後ろに逃げ、谷間に落ちるのだけはかろうじて逃れた。しかしすでに自然の理を失いかけている大地は、なおもその亀裂を大きくしようとしており、ルードは慎重に後ずさるしかなかった。 「隷ども! あの邪魔者どもを抑えておれ!」  デルネアがそう言うと、隷達は即座に恭順の姿勢を示した。そして各々の魔力を力と変え、〈帳〉とライカを攻撃し始めた。漆黒に染まった稲光のような魔力が容赦無く発せられる。  〈帳〉は再びライカの持つ魔力を借りて、瞬時に緑色の膜を作り、それらの攻撃をしのぐ。が、彼に出来るのはそれが精一杯だった。かつて魔導師として名を馳せた彼とはいえ、力を失った今の〈帳〉には、複数の魔力に対して打ち勝つだけの余力はない。ただ、抗うのみ。しかも魔法の障壁はルードの目から見ても弱々しく、いつ破れても不思議ではない。  と、意を決したかのように、ジルとディエルが〈帳〉の前に立った。双子の使徒は、調和する音階を互いに発しつつ、それぞれの両手を前にかざした。〈帳〉の障壁とは比べものにならないほど、強靱な魔力の壁が出来上がり、一切の攻撃を遮断した。 「ここはオレ達がしのいでみせる! だからルードは、デルネアを頼む!」  ルードは仲間達にうなずいてみせると、デルネアの動向に目を向けた。  熾烈な戦いが、再び繰り広げられようとしている。 五. 戦いの行方  ルードは、今し方割れたばかりの断崖に落ちないように気を配りつつ回り込むと、再びデルネアと対峙した。両者が剣を構えると、互いの剣は火柱をあげるがごとく、光を放つ。  そして。ルードとデルネアは申し合わせたかのように同時に動いた。両者が近づくにつれて剣は光を増し――激突。  きぃん、きぃ……ん、と。剣が合わさるたびに、高らかに叫び声を放つ。それは金属が合わさる際の刃音のみならず、剣そのものが歌い上げる、この戦いへの賛歌であった。  今度の戦闘は、無心そのもの。両者は純粋に剣の技のみによって自らの勝利を勝ち取る姿勢だ。正確な息遣いと、剣の咆哮のみが、音の全てとなり周囲を支配する。空気は、まるで二人の回りにしか存在しないかのように凝縮する。  何合も何合も。お互いの剣はうち合わされ、交わった。  ルードは剣を振ることのみ意識を集中していた。彼が抱くのは恐れでも戸惑いでもなく、やはり無心。次にどう動くべきなのかと頭で考えるのではなく、体が自然に動く。ガザ・ルイアートは今や、主人の思いそのままに動き、そして助けてくれるのだ。常人では御しきれないほどの多大な“力”がルードに流れ込むが、聖剣所持者たるルードは、その比類無き“力”をおのがものとし、畳みかけるようにデルネアに攻撃を仕掛けていった。  どれほどの時が経ったろうか。ルードは、剣の発する音がそれまでと異なっているのに気付いた。ガザ・ルイアートは相も変わらず高揚した鬨《とき》の声を発しているのに対し、“名も無き剣”は音が途切れ途切れとなってきている。ルードは標的を決めた。  狙うは、名も無き剣のみ。デルネアが剣を落とせば、デルネアの敗北が決まる。全てはそれからだ。還元のすべを、デルネアの口から聞き出さねばならない。だが“名も無き剣”の力が衰えてなお、両者の“力”は互角である。いや、剣技のみ言及するのならばデルネアが圧倒するのに変わりはない。  デルネアの剣先がぶれるように動く。が、これは明らかに見せかけの攻撃だ。ルードは誘いに乗ることなく、一歩間合いを外した。デルネアは意外そうな表情を浮かべ、しかし彼も一歩身を引く。わずかな隙を空けて、両者は対峙する。その場所から少しでも踏み出せば、再び戦いが繰り広げられるだろう。  ルードが見据えるのはデルネアのみ。無心を崩したほうが負ける。勝負は、次の一撃で決まる。  凝り固まった空気の中、両者はお互いの出方を睨んでいた。  そして、デルネアが動いた!  ルードは冷静にデルネアの太刀筋を読みとると、自らも一歩踏み込んでいく。  デルネアが狙いをつけたのは、ルードの心臓のみだと知れる。デルネアは大きく突きを繰り出してきた。彼の右腕が大きく伸び、ルードの心臓目がけて剣が襲いかかってくる。  ルードは心の中でうなずき、意を決して剣を大きく薙いだ。すでに攻撃を仕掛けているデルネアは、避けることなど出来ない。刃は確実に、デルネアの右腕に当たるだろう。  ついに、鈍い音が伝わった。  ルードは、その瞬間をつぶさに見ていた。聖剣の刀身がデルネアの右腕をがっちりとらえ、断つ!  ルードは勝利を確信した。  しかし、それも一時。ルードはデルネアの執念を思い知るのであった。デルネアの右腕は、切断されたにも関わらず、さらに伸びてくるのだ! それはデルネアの勝利への執着ゆえか。まるで右腕そのものが生を得ているかのように剣を握ったまま離さず、ついにルードの胸元をとらえた。  ルードは為すすべなく、自分の胸板にずぶずぶと剣が埋まっていくのを感じていた――! デルネアが生んだ、狂気じみた執念の凄まじさによって、とうとう剣の柄までが胸に埋め込まれ――ようやくデルネアの右腕は力を失い、剣から離れると、ぽとりと落ちた。 「がぁああっっ……!!」  そのあまりの激痛に、ルードは苦しみもがく。  剣は胸を貫通しているのだ! 早く剣を抜かなければ!  癒しの力を持つとはいえ、出血がひどければ命を落とす。何より、体をまっぷたつに割くようなこの激痛には耐えられない。弱々しく呻いていた“名も無き剣”は今や刀身から蒼白い闘気をほとばしらせ、ルードの体内を蝕んでいるのだ。  ルードは呻きながらも、埋め込まれた剣の柄に左手をかけると、抜こうとする。が、焦るあまりに剣はいっこうに抜けない。自分の背中と胸元を濡らしているのが、自身の血しぶきであるのをルードはようやく認識した。 「……っ!」  肺から息が漏れているためか、もはやルードは声を出そうにも音すら出てこない。代わりに喉からのぼってきたのは、大量の血だった。  早く剣を抜かなければ!  焦りは増幅するのみ。ルードは両手を剣の柄にかけるが力尽きて、ついに倒れ伏した。どろどろに腐った土の匂いと、なま暖かい血の匂いがルードの嗅覚をとらえるが、嘔吐感に襲われたルードはさらに吐血し、目の前の地面をどす黒く染めた。  デルネアが近づいてくる。今の彼がどのような表情でルードのもとにやって来ようとしているのか。絶対者としての傲岸不遜な様子をたたえているのだろうが、ルードには顔を上げる余裕すらない。ルードはただ喚き、もがくことしか出来なかった。 「貴様の負けだ」  咎人に裁きを宣告するかのような、感情を感じさせないデルネアの声が聞こえた。 (……そうかもしれない。とうとう俺は死ぬのか)  激痛の果てに意識はすうっと遠のいていく。  が、浮遊感とともに意識は呼び戻された。心地よい声が自分の名前を呼び、自身の上半身が抱き起こされているのを認識した。意識を視覚に集中させると、そこにはライカの顔があった。  おそらくは必死の思いで隷達の攻撃をくぐり抜け、単身ここまで辿り着いたのだろう。 『ルードがわたしを護ってくれているように、わたしもルードを護りたい。約束するわ』  昨晩、ライカが言った言葉が思い起こされる。  ライカは、ルードの胸元に痛々しく刺さっている剣に目を移すと、即座に柄を持ち、引き抜きにかかる。  しかし、膨大な魔力をおびた剣は、触れただけで命取りになりかねない。かつてガザ・ルイアートがルードを試すように行ったように、“名も無き剣”は尋常ならざる“力”をライカに注いでいく。  ライカは苦痛に顔をゆがめながらも、しかし剣の柄から手を離そうとしない。少しずつではあるが、刀身が引き抜かれていく。異物が体をうごめく激痛に体をよじらせながらも、ルードは必死に耐えようとした。ライカは、自分以上の苦痛を覚えているのだろうから。剣が送り込む“力”の流れは、所有する資格を持たない者に対し容赦をせず、心身を消し飛ばしてしまうまでになる。今のライカはルードを救うという一心のみで力に抗っているのだ。  ようやく剣が抜けようというその時、ルードの胸中に、ある情景が浮かんできた。 * * *  それは夢の中の出来事にも似ていた。印象的なイメージがルードの頭を駆けめぐり、彼の脳裏に深く刻み込まれた。  “名も無き剣”はルードに見せる。剣が存在するようになってから幾多の所持者が現れたことを。所持者達の思念はあまたのイメージを形成してルードの体を駆けめぐるが、すぐにルードは忘却してしまった。だが、そんな中にあってルードの心を強くとらえたもの。それはかつてのデルネアの姿であった。  それはまだ、デルネアがアリューザ・ガルドにて生活をしていた時分である。  何がしかの迫害を受け、流浪するほか無かった幼少の頃。  “魔導の暴走”という、暗黒の時代が到来する中、奴隷戦士として剣闘場で活躍する少年。  レオズスを倒すも、それまでの王朝は崩壊し、秩序が失われ、民衆が苦しみにあえぐ中で呆然とする若者。  そんなデルネアの想いはどの時代においても変わることがなかった。そして、おそらくは今も。 (もっと力を持ちたい。他を圧する力さえあれば、こんな目に遭わなくてすむというのに!)  それはデルネアの痛切な願い。自分自身を、そして世界をより良い方向に進めたいという彼の願いは、いつの頃からかその一途さゆえに歪んでしまったのだ。  そして彼はついに理想郷を創造する。永遠の千年――フェル・アルムと名付けた、閉鎖された大地に望むことはただ一つ。平穏。変化など一切許されない、緩慢なる平穏。  しかし〈変化〉は自然と始まっていくもの。歴史の中でデルネアは陰ながら動いて変化を消し去り、虚構の真理を創り上げていった。  “絶対”という名の殻の中に悲しみの全てを押し込め、歪んでしまった理念を追求しようとするかつての英雄。それがデルネアだった。 * * * 「ルードぉ!」  愛しい者のあげる痛切な声がルードの意識を呼び戻す。  長いこと見ていたように感じられたイメージも、おそらくは一瞬の出来事だったのだろう。ちょうど、剣の切っ先がルードの体内から引き出されたところだった。  今まで体を支配していた激痛は途端に収まり、自身の体が癒えていく。だがもはや体は衰弱しており、再びデルネアと戦うのはおろか、立つことすら叶わない。今はただ、ライカの暖かな腕の中に抱きかかえられているしかなかった。 「ルード、今、剣を抜いたからね!」  ライカ自身を襲った激痛に耐えぬいてなお、ルードに微笑みを見せる。そしてライカはきびしい表情でデルネアを見据えた。 「やめて! もうこれ以上……戦うのは!」  デルネアは空を仰ぎ見た。それまで覆っていた黒い雲は、潮だまりに貯まった海水が引くように、渦を巻きながらも、さあっと北の空へと帰っていく。空は明るみを取り戻すが、それすらも世界が崩壊していく際の産物でしかない、曖昧な薄ぼんやりした灰色の空に包まれた。  何より、黒い雲は去っていったわけではない。津波や濁流のごとく、今度は“混沌”そのものを伴ってこの地に襲いかかるのだ。 「もはや時は無い」  右腕を失ったデルネアはややも苦痛に呻きながらも、しかし尊大な口調で言った。 「“混沌”が到来する。我はその時にこそ、“混沌”と向かい合う。大いなる“力”を持ってすれば、フェル・アルムに出現した“混沌”など、造作もなく消し去ることが出来る――そのために聖剣が必要なのだ」  デルネアは身をかがませると、残った左腕で剣をとろうと動いた。それはデルネアの所持していた“名も無き剣”ではない。持ち主の手から離れ、今や鈍く銀色に光るのみとなった剣。聖剣ガザ・ルイアートだった。先ほどの激痛の最中、ルードは剣を離してしまっていたのだ。 「やめ――!」  ライカが叫ぶのもむなしく、デルネアは聖剣を手に取った。  輝きを失っていた聖剣は再び白く光り輝く。あたかも、新たな所持者を迎え入れるかのように。デルネアは恍惚とした表情で、剣が発する圧倒的な“力”に酔いしれていた。 「そうだ。この絶対的な“力”こそが我を至上に導くもの! “名も無き剣”が我にもたらした以上の“力”を、聖剣は与えてくれる。フェル・アルムは平穏を保てるのだ」 「絶対的な“力”だって?!」  ルードはやや身を起こし、デルネアに訴えかけた。 「そんなもので、俺達は支配されたくない!」 「だが、今や我の思惑以外にことは運ばぬぞ、小僧。お前達の些末な思いなど、所詮は達成出来ぬものだ。先も言ったように、今さらあがいたところで時すでに遅過ぎる。……なぜならば還元のすべを発動するには、トゥールマキオの大樹を媒体とせねばならない。遙か南の森まで赴く時間があるか?」  ルードは、空間を転移するジルのことを想起した。ジルがいれば何とかなるかもしれない。しかしここは押し黙った。  デルネアが聖剣を手にした今、状況は絶望的となったが、ルードの心には何かが引っかかっていた。聖剣がそうも容易くデルネアの手中に落ちるものなのだろうか? 「敗北を認めよ。かつての聖剣所持者よ」 「いやだ! 俺は認めない!」  ルードはライカに肩を借りながら、よろりと立ち上がった。 「俺達はみんな、今まで運命のまっただ中で、やるべきことをやりつつ、あえいできた。ガザ・ルイアートもそうだった。運命を切り開く剣、それがガザ・ルイアートだ。もし聖剣が意志を持つって言うんなら、聖剣の答えを聞いてみたい。聖剣は……俺達の想いにきっと答えてくれるはずだ。俺は負けたわけじゃない。最後に勝つのは俺達だ」  今まで運命とともに歩んできたルードは、確固たる思いとともに答えた。 「負けるのはデルネア、あなただと知るべきだ!」 「なればルードよ。我は聖剣の力をもって、お前に返答するとしようぞ」  デルネアは聖剣を振り上げ、その刀身を力一杯地面に突きつけた。地面は大きく波を打ち、やがて亀裂が走る。 「聖剣所持者は二人といらぬ。我が聖剣を所持した今、聖剣にとってお前は厄介者に過ぎぬ」  すぐに亀裂はルードとライカの足下にまで及び――暗黒へと誘う口を大きく開けた。 「我の前から失せよ、ルードよ! 死してなお、貴様の魂は未来永劫落下し続け、暗黒の中でただ彷徨うのみ!」  ルードとライカは言葉を発するいとますら無く、二人の体は奥深く、漆黒の闇の中へと溶けていった―― 「ああ!」  サイファの口から悲痛な声が漏れ、力を無くしたかのようにへたり込んだ。  サイファの声を聞きながらも〈帳〉は、一つの思いに束縛されていた。 (この場にいながら、私になすすべがないとは……!)  ぎりぎりと、自身の歯をきしませながら、〈帳〉はどうしようもない怒りと、悲しみ、やるせなさを感じていた。  聖剣はデルネアの手に落ちた。ルード達は奈落の底へと消え去り、もはや救う手だてはない。希望は、かくもあっけなく打ち砕かれたのだ。  あとに残るものは敗北であり、滅び。  〈帳〉は、自身の無力さを嫌というほど痛感した。フェル・アルム創造の折にクシュンラーナを救えなかったように、今また為すすべなくルードとライカを失ってしまった。  いつの間にか、隷達の攻撃は止んでいた。デルネアが目的を果たした今となっては、わざわざ〈帳〉達なぞに構うことなど無い、ということだろうか。 「我はついに、絶対なる“力”を手に入れたぞ! 我こそが至上の存在。全ての事象を支配し、形成し、物語るべき存在だ!」  デルネアは自身の存在を高らかに宣言した。  その時。 「いや。そうはいかないよ」  その声は、デルネアのすぐ背後から聞こえた。デルネアにすら全く気配を感じさせない、その声の主は誰か。 「何てことなんだ……僕がもう少し来るのが早ければ、二人を失うことなど……」  声の主――金髪の青年は、すっとデルネアの横にまで歩み寄り、亀裂を見つめつつ、悲痛な声で自らの至らなさを呪った。デルネアは、白い衣をまとったその金髪の青年をまじまじと見据える。 「お前……は何者……いや……まさか……」  明らかに恐怖のために、デルネアの声が震える。 「信じられぬ。姿は違っていても、その“力”は……」 「君は僕を知っているはずだよ。デルネア。あれから幾とせが流れたとは言っても、決して忘れるはずがないからね」  青年の声は穏やかでありながらも、威圧感を秘めている。 「許せないな。ルード達を殺めることはないだろうに!」  ぴぃん、と空気が張りつめる。  デルネアは剣を構え、青年と向かい合う。ゆっくりと息を吸い込み、そして――動揺を隠しきれずに言葉を放った。 「なぜ! なぜこのフェル・アルムに御身がいるというのだ! レオズス!」 六. 聖剣の意志  かの者の名は、レオズス。  灰色の空のもと、引き立つ金髪。  今し方まで魔物とまみえていたのか、ややも血にまみれた衣。  衣の白に反発するかのような漆黒の剣。  そして内包する膨大な“力”は、純粋たる闇。  宵闇の公子レオズス。  遠い昔、アリューザ・ガルドに君臨し、そして〈帳〉達と相対した張本人が、このウェスティンの地に現前している。 「いよいよもって、この世界は終わる。……デルネア、君の犯した罪は重いよ」  レオズスは今一度、ルード達が飲み込まれていった亀裂をのぞき込んだ。暗黒がぽっかりと口を開き、それがどこまで続くものか、果てなど知れない。  いや、デルネアが渾身の力をもってこじ開けた歪曲した空間には、本当に底など無いのだろう。ルード達の命が無事だとしても、彼らは永劫、落ち続けるしかないのだ。  レオズスは口元を歪ませた。 「よくも、ルードとライカを……」  怒りのあまり、彼の身体からは漆黒の気が漏れた。その気を歓迎するかのように、レオズスの持つ漆黒剣――レヒン・ティルル――は低い唸り声を周囲に響かせた。 「……一つ、訊きたい」  一方、デルネアは恐怖心と困惑が雑多におり混じった感情をなんとか抑え込むと、先ほど奪い取った聖剣を左手に構え、レオズスに相対した。彼の左腕が小刻みに震えているのはレオズスの圧力のせいか、それとも、かつてアリューザ・ガルドを恐怖に満たしたレオズスへの畏れか。  聖剣の“力”により、デルネアの切断された右腕はすでに血を止めていた。が、失った右腕は戻ってこない。 「あれなる“混沌”を招来したのは御身ではないのか、レオズスよ」  北に去っていった黒い雲は、再び襲いかかる時を待っているかのように忌まわしくうねり、時折雷鳴のような轟きをあげた。命を得ているようなその動きは、きわめて禍々しい。 「違う!」  レオズスはあからさまに怒りをぶつけた。 「今思えば、僕がこうしてこの地にあること、それ自体は“混沌”の力によるものなのかもしれない。来たるべき時に、再び“混沌”が安定した統治をするために。そうすれば僕は、アリュゼル神族や冥王とも対等に渡り合えるほどの力を御していたかもしれない。でも……」  金髪の公子は一歩、また一歩と足を進め、デルネアとの距離を縮めていく。 「でも、僕はそれをうち破った。今の僕は、ディトゥア神族としてのレオズスであり、かつバイラルとしてのティアー・ハーンなんだ!」  感情を露わにしたレオズスは、自身の闇の“力”を発動させた。漆黒の闇がレオズスの目の前に集約し、球のように姿を変えると、デルネア目がけて鋭く飛んでいく。デルネアはすでに攻撃を読んでおり、即座に聖剣を構える。と同時に聖剣は光り輝き、レオズスの放った漆黒を四方に霧散させた。が、デルネアも“力”の反動をくらい、衝撃のあまり二、三歩後ずさった。 「なんだ。御身の“力”とはその程度か」  デルネアは侮蔑を含んだ言葉を発した。 「なるほど、確かに今の御身には“混沌”を感じぬ。だが昔、我らが戦った時のような威圧感はまるで感じぬぞ、レオズス。畏怖するには値せぬわ」  くっくっと、デルネアは口を歪ませて笑う。 「だがな、今の我は御身……お前すら上回る“力”を得た! 見よ!」  デルネアは、なおも震える左腕を高く掲げて聖剣を示した。  すると、聖剣の刀身からは一条の光がほとばしり、天空高く突き抜けていった。光が灰色の空と接触したその瞬間、空の一点は青い色に染め上げられる。光と灰色との接点は互いに反発しあい、波紋状の衝撃が空そのものを揺さぶる。その波紋は北に存在する“混沌”にまで波及し、“混沌”の支配下にある空は歪み、苦悶を感じているように激しくのたうち回った。 「聖剣の“力”が狂おしいまでに我の中に流入してくるのを感じる。我は今や“混沌”すら消し去る“力”を持ったのだぞ。“混沌”を消し去ったあかつきにはレオズスよ、貴様を葬り、この世界にある脅威を消し去ってくれる」 「やめてくれ!」  たまらずレオズスは、自身の持つ漆黒の剣を構え、デルネアに斬りかかる姿勢を見せた。 「光の本質を受け入れられない君が、下手に“混沌”を刺激しちゃならない! フェル・アルムに現前した“混沌”はほんの一角に過ぎないよ。この地にある“混沌”を刺激したために、始源の力たる“混沌”そのものが覚醒すれば――――フェル・アルム、アリューザ・ガルド、ディッセの野、次元の扉――――ありとあらゆる次元にまで“混沌”が波及し、“混沌”の支配下のもと、終末を迎えるんだ……!」 『フェル・アルムを覆う結界が崩れ去り……本来人の世界にあってはならない、強大な太古の力を招き寄せかねない。もし、それを呼び寄せてしまったら、フェル・アルムのみならず、存在する世界全ての終末を呼ぶことになるやもしれぬ』  かつて、〈帳〉がルード達を前に語った予言が今、現実のものになろうとしている。  レオズスはデルネアを見据えて言葉を続けた。 「あまりに酷なことだけれども、聖剣所持者を失った今となっては、あの“混沌”を消し去るすべはなくなった。だが、せめて滅びの時を迎えるのは、この世界だけにしたい。……デルネア、剣を僕に返してくれ。そうすれば聖剣は単なる一振りの剣に戻り、“混沌”を刺激することもなくなる」  それを聞いた途端、デルネアは嘲笑した。 「ふん。結局のところお前は“混沌”に魅入られたままなのではないか。綺麗事で我を弄そうとしても無駄だ。お前の望みはこの地を“混沌”の支配下にすることだろう? 相も変わらず……お前という存在は疎ましいことこの上ない!」 「違う! 話を……」 「聞けるか! 聞けるものか! 我らアリューザ・ガルドの人間が苦しんだのも、このフェル・アルムを創造したそもそもの原因も、すべてお前に責がある! レオズスよ! お前に呪いあれ!」  デルネアはレオズスの間合いまで一瞬のうちに駆け寄ると、剣を打ち付けた。レオズスは、レヒン・ティルルの漆黒の刀身をもって切り結び、聖剣の攻撃を阻む。が、今のレオズスの“力”を持ってしてもデルネアの“力”には敵わず、レオズスは顔をしかめた。“光”の力をまともに食らっている漆黒剣は金切り声をあげた。 「さあ、今こそ滅せよ、レオズス! 貴様の行った過去の凄惨なる罪も、そして“混沌”も、全て我が浄化する!」  勝機とばかり、少しずつ聖剣の刃がレオズスの顔へと近づいていく。遙か昔に戦った時とは力の差が反転し、今や力技ではデルネアが勝る。 「君には無理なんだ、デルネア! 聖剣を手離してくれ!」  なおもレオズスは叫んだ。 「聞けぬ願いだな。“混沌”の手先たる公子よ。我のことより貴様の身を案じたらどうだ。――?!」  デルネアは急に顔をしかめた。 「なんだと言うのだ……この痛みは……!」  先ほどから続いている左腕の震えはさらに大きくなっていく。デルネアは苦悶の表情を満面に浮かべた。 「聖剣から入り込んでくる……“力”が!」 「ガザ・ルイアートが君を所持者と認めていないからさ。これ以上保持していれば、聖剣の“力”が暴走し、君を破滅に陥れるぞ!」  レオズスは自ら進んで自身の剣を鞘に収めた。もはや、デルネアには戦うことなど出来ないと知っているように。 「知ったふうなことをほざくな! 闇の存在たる貴様に何が分かるというのだ……!」  デルネアは全身を震わせながら、レオズスに打ちすえた剣を引くと、慎重に後ずさった。 「聖剣の“力”こそが、我を至上の存在に……ぐっ」  しかし、デルネアの言葉に反して、彼の身体は激しい苦痛に苛まれているようだ。ついにデルネアは片膝を落とした。愕然と頭を垂れる。 「聖剣が……我の意志に反するとでも言うのか。信じられぬ……!」 * * * 「僕は聖剣のことを知っている。君以上に、ね」  レオズスはデルネアのもとに近づき、しゃがみ込んだ。 「聖剣を生み出したルイアートスから直々に剣を受け取ったのは僕だ。聖剣所持者の介添人として、イナッシュに同行して冥王と戦ったのも僕だ。なぜなら君の言ったとおり、僕の本質的存在は闇そのものだから。僕は聖剣の影響を受けない唯一の存在だ。また、光に相反する闇だからこそ、ガザ・ルイアートの持つ“光”がなんたるか、分かるんだ」  デルネアは襲いかかる膨大な“力”になおも必死に耐えつつ、レオズスに顔を上げた。その顔には今までの尊大な表情はなく、絶望がありありと浮かんでいた。 「我はこの“力”に打ち勝って、そして……」  その言葉も今となってはむなしく響くのみ。圧倒的な聖剣の“力”はデルネアを蝕み続ける。今なおデルネアが聖剣を持ちえているのは、デルネア自身の持つ圧倒的な“力”と、執念によるものである。しかし、それもほどなく尽きることだろう。ガザ・ルイアートは、自身が認めた者以外には容赦なく、膨大な“力”の流入をもって、過酷な責め苦を与え続ける。 「聖剣の“力”は打ち勝って得るものじゃない。受け入れるんだ。でも君にはそれが出来なかった。聖剣の意志は、君を所持者と認めなかったから。聖剣にとっての主は、今なおルード・テルタージにほかならない。君にもそれは分かっているはずだ。さあ、聖剣を返してくれ。これ以上の災厄は、僕らの望むところじゃあない」  “光”の浸食はとうとうデルネアの全身に達した。デルネアはとうとう聖剣を手放し、力なく座り込んだ。 「我は……このフェル・アルムは……どうなる……」  レオズスは哀れむ表情をみせつつも、光をほとばしらせる剣を左手に持った。途端に聖剣は光を失い、銀色に鈍く光る剣へと戻ってしまった。 「まず、君は負けたことを認めるべきだ、デルネア」  レオズスは頭を北に向けた。青い瞳が悲しみに染まる。とうとう“混沌”の勢力が濁流のごとく進撃を開始し始めたのだ。ほどなくこの地は“混沌”に飲まれることだろう。 「この世界は終末を迎える。そう、君だけじゃない。僕達も負けたんだ……」  レオズスは唇を強く結んだ。たまらず涙がこぼれ落ちる。 「なぜ! ルード達を……!」  彼はデルネアの胸ぐらをつかみ、感情も露わに怒鳴った。 「聖剣の“力”を発揮出来るのは彼だけだというのに! “混沌”を消し去るのは彼の役目だったのに、それも出来なくなった! デルネア、君の責任は重い。君の魂こそ未来永劫呪われるべきだ! ……何より、彼らは僕にとってかけがえのない友人だというのに……失ってしまった」  呪詛の言葉を聞いたデルネアは、苦悶にまみえた顔をレオズスに向けた。 「友を失っただと!? アリューザ・ガルドに仇をなした貴様などに言える言葉か!」  その蝕まれた体のどこに力が残っているのか知れないほど、彼の言葉は強く放たれた。 「……そうかもしれない。君にとって僕は今なお、憎むべき存在なのに変わりはないのだろうし」  レオズスは自虐的な表情を浮かべた。 「けれども、今となっては全ては虚しくなるのみ、かな。今はただ、静かに終末を受け入れるしかないようだね」  それから、デルネアとレオズスは申し合わせたかのように、ともに北方を向いて押し黙った。  もはや戦いは終結した。  〈帳〉達とそして隷達も、レオズス達のもとに集まってきた。隷達はデルネアを取り囲み、手当を施そうとしたが、デルネア自身が無言で、しかし固く突っぱねた。 「みんな……ごめん」  レオズスはそれきり言って、うつむいた。何か言葉を紡ごうと口を開くものの、それは音にすらならない。 「……もう、終わりなの?」  力なく、サイファはぽつりとこぼした。その様子はまるで彼女らしくなく、生来のほとばしるような活気がみじんにも感じられない。 「ねえ! ライカ姉ちゃん達の――」  いたたまれなくなったジルは、ディエルの袖を引っ張った。 「お前に言われなくたって、分かってるってば! 今、見ようとしている!」  弟の言わんとすることを遮り、すぐさまディエルは自身の“力”――“法”と称される超常的な力――を用いるため、目を固くつぶり、音を発した。ディエルの体全体が淡い緑色の光に覆われる。  ディエルの“法”によってルード達の“力”の所在をつかめたのなら、彼らは無事なのだ。奈落から救う手だては見当すら付かないが、今はとにかく無事でいてくれれば――。  ディエルは目を閉じたまま、沈黙を続ける。  それがサイファを不安にさせるのだろうか、彼女は両腕を組み、祈る仕草を取った。 「大丈夫、ルード達はまだ無事だって」  ジルのいたわる声に、サイファはただ小さくうなずいた。  しかし――なおも流転する運命は彼らに、希望を残していた。それは、残されたほんの僅かな希望。奇跡というものにほかならない。 「……みんな、まだ諦めるのは早いぜ」  ディエルが目を開けて言った。 「かすかにだけど感じたんだ。ルードとライカ姉ちゃんは生きている!」  重苦しい雰囲気が、やや軽くなる。ルードが戻れば、聖剣は彼のものとなり、本来の力を発揮するだろう。しかし、どうやって戻るというのか。 (そうか……!)  〈帳〉は閃いた。そして彼は自分の考えを、奇跡のことを話した。 「ルード達はここに帰って来なければならぬ。そのかすかな希望を繋ぐのは――ライカ。今は彼女に託すしかない」 「ライカが……」  サイファは、先ほどルード達が落ちていった奈落を恐々と見下ろした。 七. 希望を繋ぐもの  ライカが目覚めたのは、周囲に感じる異様さゆえだった。  ライカの体を包んでいるのは、ねっとりと重苦しい暗黒のみ。それ以外何も無い。今、自分が落下しているという感覚はあるものの、本来そこにあるべきはずの音――風を切る音などはまるで聞こえてこない。落ちる、というにはあまりにも不自然な落下感であった。  虚ろだった意識が次第に覚醒していく。そして、この異様な空間が自らの夢の産物なのではなく、現実のものだと知った途端、心臓が張り裂けそうなまでの悲愴感に苛まれた。 (そうだ! わたしとルードは落とされたんだった……!)  ライカは自分の置かれた境遇をようやく認識し、感情にまかせるままに悲鳴を上げた。  しかし、どんなに喚こうとも、その声はまったく響くことなく、暗闇の中に吸い込まれるようにうち消されてしまう。周囲を取り巻く暗黒は、他の介入を拒む意志を持つような、ずしりと重い威圧感を持ってして、音そのものの存在を否定した。そこにあるのは滅びをもたらす“混沌”ではなく、純然たる黒い色。安定した闇の世界。  奈落の底の岩に叩き付けられるか、または凄まじい風圧による息詰まりによって、すでに命を落としていてもおかしくないはずだ。しかしライカの体は、底なし沼の中に沈み込んでいくように、深淵に向かってゆっくりと落ち続けていく。 (ルード?)  重苦しい暗黒の中、ライカはルードの姿を探した。だが墨をまき散らしたかのような空間は夜の闇よりなお濃く、彼女自身の体すら暗闇の中にとけ込んでしまっていた。  もし、ルードを見いだせなかったら――?  ライカは最悪の事態を必死で否定しようと、ルードの名を呼ぼうとした。彼女の声は暗黒の中に消し去られるだろう。無駄な行いだとは分かっているが、ライカが何もしなければ、ルードの存在が闇の中へと失われてしまう――そんな強迫観念にとらわれそうになった。  じわりと、熱いものが目の奥から沸き上がってくる。ライカはせめて泣くまいと、涙を拭おうとした。  が、どうしたことだろう。右腕が重く感じられる。まるで手首が動かないのはなぜだろうか。だが、その感触は嫌なものではない。むしろ暖かく、心地よい―― (ルード!)  手首をつかんでいたのは、ルードの右手だった。がっしりとした手が痛いほどに彼女の細い手首を締め付けている。その痛みがライカには嬉しかった。  ライカは左手で涙を拭きはらうと、ルードの腕をつかみ、体を手繰り寄せた。今の彼には意識が無いのか、目を閉じたままだ。しかしルードの体は暖かく、確かな生気を感じる。ライカはたまらず、両の腕で彼を強く抱きしめた。 (よかった……生きてるのね)  彼が目覚める様子はないが、無事であることが分かり、ライカは安堵した。  ルードを抱きしめたまま、あらためて周囲を見回す。自分が本当に〈見回す〉という行為をしているのか、ひょっとしたら相も変わらずただ一点だけを凝視しているのではないか、と疑いたくなるように、暗黒はどこまでも濃い。ルードに頬を寄せても彼の顔が分からないほどに。  天上と思われる場所を見上げても、漆黒が支配しており、一点の光すら存在する余地がない。  自分達は今どこに行こうとしているのか?  この奈落には果てがないことを、ライカは薄々感じ取っていた。死した後、世界の果てにあるという“果ての断崖”から落とされた、不浄な咎人《とがびと》の魂のように、自分達も救われることなく落ち続けるほかないのだろうか?  死などは望むところではない。二人ともにまだ命を繋ぎ止めているのだ。同時にそれは死んではいないだけに過ぎない。自分達の状況はきわめて絶望的なのだ。この奈落から抜け出す方法など、ありはしない。  けれども、ルードをこのままにしておくわけにはいかない。彼の意識はまだ戻らないが、息遣いを、力強い鼓動を感じるのだから。なんとしても必ず、皆の待つ大地へと帰還しなければならない。  知らず知らずに、ライカの唇が彼の名前を呼ぼうとしているのに彼女は気付いた。 「ルード……」  自分の声がかき消されないように、ルードの耳元に唇を寄せてライカは囁いた。 「ルード」  再度呼びかける。  が、彼の意識は依然戻らない。構わずライカは何度も呼びかけた。彼の名を呼ぶたびに、自分もまた勇気づけられるのが分かるから。  何度呼びかけただろうか。ようやくルードの意識が戻った。まだ事態がつかめないのだろう、ルードもライカがしたように、周囲を見回しているようだ。 「ここは? ……そうか、俺達は落とされたんだっけな」  彼の戸惑った声が伝わってくる。お互いの吐息が感じられるほど近くにいるというのに、くぐもった小さな声しか聞こえないというのは、あまりにもどかしい。ルードは落胆のためか、小さく溜息を吐いたようだ。 「落ちていってるのか。まるであの時みたいだな。……覚えてるか、ライカ? 俺達がはじめて会ったあの時を」  そう。精霊のまやかしにあい、ライカがレテス谷の崖から落ちている間の一瞬だけ、アリューザ・ガルドとフェル・アルムは繋がり――全てが始まったのだった。 「あの時は俺がライカに触ったことで不思議な力が起きたんだ。けど、今はどうも出来そうにない、のかな……」  もはやルードには為すすべが見つからないのか、聞こえてくる声は弱々しくもあった。 〈あの時――。〉  ルードの言葉にライカは引っかかりを覚えていた。 (あの時、わたしはどうしていたんだろう?)  絶望を追いやるすべが、答えはすぐそこにある。  所在が曖昧になりつつある、数ヶ月前の記憶の糸。その断片を必死に探し、紡ぎあげ――  ――ついにライカは知った。  今、自分が出来ること。自分にしか出来ないであろうことを。そして、希望を繋ぐすべは今や、自分のみが持ち得ているということに。 (あの時の願いが聞き届けられなかったのは、ひょっとしたら今この瞬間のためなのかもしれない……)  思いつつライカは、ゆっくりと目を閉じた。  まぶたの裏に思い浮かべたものは、アリューザ・ガルド北部のアリエス地方。その山岳の小さな村、ウィーレルだった。そこは自分が住んでいた場所であり、ルードが連れて行くと約束してくれた、帰るべき場所。次に浮かんできたのはライカの家族。祖父。そして行方知れずとなってしまった父、母。 (分かる……分かるよ。どうすればいいのか。……父さん、母さん) 「大丈夫。ルードがわたしを守ってくれたように、今度はわたしが救ってみせるから!」  そして、確固たる自信とともに、ライカは祈った。 (風の世界ラル。そして風の王エンクィ。今この時だけでいい。わたしに力を授けてください!)  瞬間。それは起きた。  ライカは落下がやんだのを感じた。ちりんと、鈴の鳴るような透明感のある音が聞こえたかと思うと、どこからか、小さく青白く光る球体が数個出現していた。それはライカ達の周囲を取り巻き回りつつ輪を形成した。その輪は次第に小さくなっていき、そして次には、輪の一端から延びた白い線状のものが、自分の内部にそっと、暖かく触れるのを認識した。  と同時に、彼女の視界一面は、白一色に埋め尽くされた。  強い祈りは自身の力を呼び起こし、そして―― * * * 「……来た」  膝をつき、暗黒の奈落を長いこと凝視していたサイファはそうつぶやいた。 「来たって、何がさ?」  ジルに訊かれたサイファは顔を闇から離すことなく、しかし笑みを浮かべて答えた。 「私達の希望が、よ」  その時、ぽっかりと口を開いている暗黒の中から何かが浮かび上がってくるのをサイファは見た。白く輝き、時折ゆらゆらと揺れ動きながらも勢いよく暗黒の縁から出ようとしている。その白いものは見る見るうちに昇りあがり――ついに裂け目から飛び出した。  ウェスティンの地にいる者達は一同、その様子に釘付けとなった。デルネアや隷もまた、ただ見入るのみ。  信じられない。そのような面もちでレオズスはゆらりと立ち上がった。さすがのディトゥア神もあっけにとられたまま、今し方飛び出した白いものが宙に浮いているさまを、ただ見つめている。  繭が割れるように、柔らかな白の中心が裂ける。中にいるのは間違いなく、ルードとライカだった。ライカはルードを抱きかかえながら、仲間に無事を報せた。ルードはライカにつかまりながらも、友人に手を振ってみせた。  目を赤く腫らせたレオズスはようやく笑みを取り戻し、うなずいた。 「ああ……おかえり」  レオズスが腰に収めている聖剣も、主人の帰還を喜ぶように、再び輝き始めた。  ライカ達を包む白いものが再度、その存在を誇示するかのように上下に大きく動くと、それは次第にある“かたち”をとる。  翼。  今、ライカの背にあるのは、白く輝く翼にほかならなかった。風の事象界に属するため、本来は物質的な存在ではない二枚の翼はしかし、あたかもそこに実在するかのように大きくはためく。すると、数枚の羽根のようにも見える小さな粒子はきらきらと光り、地面へと舞い散った。  空はいよいよ、灰色から暗黒へと変わり、“混沌”の襲来が間近に迫ったことを知らしめる。  だが、そのような滅びをもたらす黒の中にあって、彼女の翼はきわめて幻想的に映る。希望をもたらしたライカが、神からの御使いであると錯覚したとしても、それは不自然なことではなかった。 《フローミタ アー ラステーズ コムト、アルナース……》  思わず〈帳〉は、アイバーフィンの言葉をつぶやいていた。 “翼の民の娘よ、来訪を歓迎する”  〈帳〉の館で、彼がライカにはじめて語った言葉でもあった。今やライカは、その名が現すとおり、翼を持つ者となったのだ。  ゆっくりとライカは地面に降り立つ。と、彼女の翼は次第に小さくなり、彼女の背中へと消えていく。  腐った大地の感触は、ライカの嫌悪感を呼び起こし、なおも差し迫る滅びを目の当たりにしているという現実を思い知るが、それでも再びこの大地に戻れたのは嬉しいことこの上ない。 「今、戻ったわ」  一条の希望を繋ぎ止めたライカは、ぐるりと取り囲む仲間達に向かって小さく、しかし力強く言った。 八. “光”と“混沌”と  滅びの時が近づいている。  黒い空は一時ウェスティンの地から退いたものの、消滅したというわけではない。  かつてクロンの宿りを阿鼻叫喚に陥れた時のごとく、黒い空はいよいよ灰色の空を侵略し、今やウェスティンの地の上空を再び漆黒に塗り染めていた。  漆黒の彼方には、さらに黒きものが明らかに存在している。  宙の深淵たる闇よりもさらに絶望的なまでに黒い、あのように忌まわしくも超常的な存在は、色の概念一括りではもはや語り尽くせない。  ありとあらゆる色の存在を拒絶する、まったく色無きもの。  それこそが“混沌”。始源にして終末の存在。  “混沌”が、漆黒の空の彼方から押し寄せる――黒よりもさらに黒い波を象り、北方からうち寄せようとしている。否、うち寄せるのではなく、覆い被さるという表現こそが相応しいのかもしれない。その波濤の上部は、おそらくはスティンの山々の頂よりさらなる高みにあるのだろう。  この大津波の到来こそが、世界の終末を意味する。ウェスティンの地に覆い被さり、“混沌”のもとへと洗い流すその時、全ての希望は消え失せる。  ほどなくフェル・アルム全土は、猛威を振るう始源の力を前にして、為すすべなく消滅するのだろう。しかし、“混沌”を追いやる力もまた、ウェスティンの地に存在していた。  超存在に唯一拮抗する“力”と意志が。 * * *  翼からこぼれでた最後の粒子がきらきらと輝きながら舞い降りる。それが地面に染みこむように消え去ってしまうと、周囲は再び暗黒に包まれた。  ライカはぐるりと取り巻いている仲間達に微笑みながら、ルードの背中に回していた腕をそっとほどいた。  ライカの翼によってウェスティンの地に帰還したルードは、あらためてアイバーフィンの少女のほうに向き直り、肩をつかんだ。 「ライカ……」  ルードは愛おしげに、目の前の少女の名を呼ぶ。と、ライカはやや当惑しながらも、彼女らしい可憐な仕草でルードを見上げた。  目の前にいるのはいつもどおり、飾ることのないライカの姿。さきほど闇の中から抜け出した際の彼女は、御使いのごとく神々しいまでの雰囲気をたたえていたようにも思えたが、実のところ彼女はあくまで彼女のまま。そんなライカを見ながらもルードは、安堵している自分に気付いた。  飾ることがないと言うのならば、ルードも同じだった。  セルアンディルの力を得、さらに聖剣所持者となった今となっても、自身が持ち得た“力”に増長することなく、あくまで自分自身を貫いている。  ルードだけではない。宵闇の公子レオズスも、ドゥ・ルイエたるサイファも、栄華と絶望とをともに心に刻んでいる〈帳〉も、そして神の使徒たる双子も――彼らの持つ、奢ることない純朴な精神が互いに引き寄せ合ったのは、運命のもとによる偶然かもしれないが、彼ら自身が希望を生み出そうとしているのは必然であったのに違いない。 「ライカ」 「うん?」  ライカの声。つかの間、思いに耽っていたルードだが、彼女が自分を見上げているのに気が付いた。ライカの顔をあらためて見つめると、ルードの心は詰まる。ルードにしてみれば、思わず名前を呼んだものの、次の言葉が浮かんでこない。何をしゃべればいいというのだろうか?  感謝、歓び、愛おしさ――万感胸にせまったルードは、心の中に去来する全ての感情を、一片の言葉へと紡ぐすべを知らなかった。  だからルードはライカを引き寄せ、言葉では伝えきれない想いを、直接彼女の心に伝えるかのように強く抱きしめる。 「痛いって、ルード……」  そう言いつつもライカは拒む様子はなく、ルードの想いを受け止めるように、彼の背中にそっと手を回した。  ややあって、二人はどちらからともなく、そっと相手から離れた。そのさまを揶揄《やゆ》すように口笛を吹いたのは――やはり金髪の青年にほかならなかった。 「さあルード、これで約束は守ったつもりよ?」  ライカは、はにかみながらも笑ってみせた。ルードを守る、という約束は無事果たされたのだ。 「なら、最後に残ってる約束もちゃんと守らないとな!」  ルードもまた、照れ笑いを浮かべながらもライカに言った。 「そう。破るわけには……いかない」  今度は強い意志を込めて、ひとりごちた。超然たる事象の向こうにある、平凡な日常をつかみ取るのだ。  ルードがあらためて周囲を見てみると、仲間達の輪から外れたところに、デルネアの姿を見いだした。座り込んだまま、皆とは――隷達とすらも――目を合わせようとしない彼は、自分と剣を突き合わせていた時のデルネアとは別人のように思えた。あの時の彼を包み込んでいた野心、覇気といったものが一切感じられない。自分のいない間にどういったことがあったのかは分からないが、デルネアをここまで打ちのめすほどの決定的な出来事が確かにあったのだろう。自身が望まざるにせよ、明らかにデルネアは敗北を受け入れていた。  ぽん、と後ろからルードの肩が叩かれた。ルードは振り返ると掌をあげて、友人に軽く挨拶をする。こうして面と向かうのは本当に久しぶりの感がある。スティンで対面した時は、事態の異常性を前にして、再会の喜びなど感じるいとまがなかったのだから。彼は手を差しのばしてきた。 「よく、戻ってきたね。ルード君」  普段と変わらぬ口調を保とうとするが、それでも震えて聞こえるのは、彼なりにこの再会には感慨深いものがあるのだろう。ルードもまた、再会を喜ぶように小さくうなずいてみせると、彼の手を握りしめた。 「……あんたもね。ハーン。いや、宵闇の公子殿と呼んだほうがいいのかな?」 「今までどおりで構わないさ。君からそんなふうに呼ばれると、どうも体中がかゆくなるみたいでたまらないからね」  ティアー・ハーンは苦笑を漏らした。 「まあね、宵闇の公子レオズスなんて呼びかた、がらでもないよなあと思ってたんだ」 「久々に会ったのに、君も酷いこと言うなあ?! 僕だってディトゥア神族のひとりなんだよ?」 「そうは言っても、とてもじゃないけどハーンが神様だなんて思えないぜ」  ルードはそう軽口を叩きながら、暗黒の空を仰ぎ見た。  “混沌”の波はすでに上空まで至っており、いよいよ音もなく静かに、しかし尋常ならざる重圧をもって、全てを押しつぶそうとしていた。 「こいつが……」  『これが“混沌”だ』と、そのあとに続けるべき言葉があったのだが、声に出してそのものの名を呼ぶことすらおぞましく、また恐ろしい。  デルネアと相対した時とはまた異なる恐怖が、ルードを襲う。それは絶対的な存在を目にした時の人間の本能が呼び起こすであろう、畏怖の念なのかもしれない。ルードの足は知らずと震えだした。ライカもルードの袖にしがみつき、恐怖に耐えている。 「そう、これが“混沌”だよ。フェル・アルムに現れた“混沌”は、ほんのかけらに過ぎない。けれども、フェル・アルムの全てを滅ぼすには十分な力だろうね」  ハーンは真摯な表情で天上を仰いだ。 「始源の力、“混沌”は、そもそもは世界が生まれた時と同じくして生み出されてしまった、負の極限の存在。これに飲まれたら最後、逃れることは出来ずに大地は消滅する。そして人間のように意志を持つ存在は、“混沌”の意識の一部に成り果て、永遠にも近い時間と向き合うことになる。けれども、そんな虚無と絶望の果てにある安定に、かつての僕は魅入られたんだ」  宵闇の公子たるハーンは語った。 「ルード、君が戻ってくれたことで、世界を滅びへの道から逸らせるかもしれない。今、聖剣を返すよ。あとは――聖剣と、その所持者である君の行動に任せるほかない。さあ、もう今はしゃべる時間すら惜しいくらいなんだ。受け取ってくれ」  ハーンは、刀身に輝きを取り戻した剣を差し出した。ルードは手を伸ばしながらも、ちらと横目でデルネアの表情を窺った。目を虚ろにしたまま、空の様子にすら関心を示そうとしなかったデルネアだが、ルードが剣を手に取ろうとしたその時、ぎろりとルードを凝視した。  またさっきのように壮絶な死闘を繰り返すのか、とルードは動揺したが、もはやデルネアの眼差しからは、狂気じみた覇気をみじんも感じ取ることがなかった。 「ルードよ、我は敗れたぞ!」  デルネアは吐き捨てるように言った。 「忌々しくも貴様の言ったとおりだった。聖剣は我のものにはならなかったのだ。だがこれで、貴様達が勝ったわけでもない――貴様が聖剣所持者だというのならば、為すべきことをやってみせるがいい」  デルネアもまた、世界の行く末を見定めようとしている。彼自身の思惑どおりに世界が、そして人が動かなかったとはいえ、デルネアが世界を憂えているのに昔から変わりはない。 「その“力”を、我にみせてみろ」  いつの頃からか心に芽生えた増長が彼を曇らせたとはいえ、デルネアもまた本質的には純粋なのであった。 「ああ」ルードは返答した。「聖剣の答えを、聞いてみる!」  そしてルードはガザ・ルイアートの柄を両手で握り、目の前に戦うべき相手がいるかのように構えてみせた。  剣の柄を通して圧倒的な“力”が流入してくるが、すでにそれはルードにとっては馴染み深いものとなっていた。しかし、聖剣の意志はさらに強まっていく。“力”のみならず、何か音にも似た感覚がルードの体を駆け抜けていく。ルードはこの感覚には困惑したが、聖剣の“力”を受け入れるべく力を抜くと、体を流れる音が次第に一つにまとまっていくのを感じた。やがてそれは一つの音となり、鐘楼の鐘のようにルードの頭に鳴り響いた。 「ガザ・ルイアート……」  頭に直接入り込んでくるその音は、はじめ高らかなものだったが、次第に落ち着いた音色へと変えていき、優しくルードの心を包み込みながらも語りかけてくるようになった。ルードにとっては、その心地よい音が聖剣自身の声のように思えた。母親の子守歌のようにルードの心に染み入ってくる優しい音に、ルードは心の中で問いかける。 (“混沌”をうち倒せる方法があるというんなら、俺にそのやり方を教えてくれ!)  頭の中の音は瞬間、止まった。まるでルードの問いかけに対して考えているかのようだったが、今度は幾重にも共鳴する、明朗な和音が奏でられるようになった。ルードは調べに聞き入りながらも、ガザ・ルイアートの意図することを必死に探った。  ぽろん、と竪琴のように透明感ある音が鳴ったのを最後に、聖剣は語るのをやめ、ルードの頭に静寂が訪れた。  その瞬間、ルードは為すべきことが分かったような気がした。それは自分にしか出来ないことではあるが、けして難しいものではない。余計な念は捨て無心となり、純粋なままに向き合えばいい。 (俺がやること……分かったよ。ガザ・ルイアート。それでいいんだな?)  主人の問いに答えるかのように、ガザ・ルイアートは剣そのものから周囲に対して、きぃんと鳴り響く高らかな音を放った。  それが止んだと同時に、刀身が暖かみを帯びた光に包まれる。剣全体を包みこんでいくその光はさらにまばゆさを増していく。  ガザ・ルイアートは“聖剣”であることを放棄したのだ。 * * *  ルードは柄を握りしめつつも、剣の変わりゆくさまを呆然と見つめるほかなかった。気が付くと柄の持っていた金属らしい感触、さらには剣そのものが持っていた重さそのものすらなくなっていた。  有るものは、他を絶するまでの圧倒的な“力”。聖剣はここに至り、剣としてのかたちを放棄して、一つの絶対的な“力”としてのみ存在するようになった。  “光”そのもの。  ルードだけではなくデルネア、そしてその場に居合わせた全ての者が目を見張った。  ルードは手元にある、棒状となった“光”の存在を見つめた。膨大な“力”を秘めながらも、優しく暖かい感じを併せ持っている。 「すっ……ごい」  ディエルは一言漏らしたきり、言葉を失った。“力”を求めていた彼にとってすら、今のガザ・ルイアートを形容する言葉がないのだ。 「なんてこった……どれくらいの“力”を持ってるんだか、オレですら全然分からないなんてな……」 「まさか、あれは“光”だというのか?」  〈帳〉が驚きの声をあげた。  かつてのアリューザ・ガルドの魔導師達が、追い求めてついに得ることが叶わなかった魔導の究極、“光”の本質が今ここにあったからだ。  アリューザ・ガルドにおいては、あらゆる生命・物質に魔力を帯びた何かしらの“色”が内在している。魔導を行使する際には、それらの色を物質から抽出し、あたかも織物のようにあやまたず、呪文を唱えながら編み込んでいくことで力場を形成する。出現した力場に対して“発動のことば”を唱えることによって、術が発動するのだ。  “光”とは、全ての色を内包した究極の存在。世界に存在する全ての色を織り込んだ際に出来上がるとされている力場なのだ。  その究極が今、このフェル・アルムにある。  “礎の操者”、“最も聡き呪紋使い”と称された〈帳〉が、語るべき言葉を失うのも無理はなかった。 「ガザ・ルイアートは、いつの頃からか、僕らの想像を超越した存在になっていたんですよ」  ハーンは〈帳〉に言った。 「もともとはルイアートスが創り上げた、土の加護を持つ剣だった。それが冥王との対決を経て、剣は思いもよらない力、つまり“光”の力を内包するようになって――そして今の“混沌”との対峙によってそれが顕在化した。“光”そのものの存在にまで、あれは昇華したんだ」 「……確かに、あれほどの“力”を魔導のように発動させれば“混沌”を追いやることも出来よう」  〈帳〉の言葉にハーンが応じた。 「そればかりじゃあない。悠遠の彼方に封じられたかの黒き神――冥王ザビュールの存在を、今度は完全に滅せられるかもしれません」  そしてハーンは、ルードをそして周囲の者達をも鼓舞すべく、明朗な声で高らかに歌い上げるかのように語った。 「さあルード! これが僕達の切り札だ! “光”をどのように使えばいいのか、僕には分からないけれども、聖剣所持者の君だったら分かるはずだ!」 「……ああ、分かったとも! ガザ・ルイアートが俺に教えてくれたよ」  ルードは自信を持って答えた。ルードは天に向かって貢ぎ物を差し出すかのように、“光”をのせたまま両手を掲げた。 「行け、ガザ・ルイアート! その“光”をもって、“混沌”をうち砕いてくれ!」  その言葉は、複雑な抑揚を持つ呪文でも、人間には発音不能な神族の言葉でもない、ごく普通のアズニール語だった。  〈帳〉が訝しむ様子が見て取れる。しかしルードは分かっていたのだ。ガザ・ルイアートに対しては、事物の摂理や詠唱の法則などといった難しいことを考える必要などない。純粋に祈る気持ちのみが、この膨大な“光”を、大いなる“力”と変えて発動させる源になるのだ、と。 * * *  果たして、ルードの感覚は的中した。  ガザ・ルイアートであったその“光”は、主の命を受けたと同時にその手元から離れると、長く延びる一条の“光”となって天高くまっすぐ突きあがっていくのだった。“光”は凄まじい速度で上空に突きあがっていく。時折、樹から枝分かれした筋のように光の線が放たれ、そのたびにウェスティンの地一帯は明るく照らし出された。  “光”の先端が槍のごとく尖る。そしてほどなくその穂先は、ウェスティンの大地を今や飲み込もうとしていた“混沌”の波の中心部に音もなく衝突する。大地に押し寄せようと、低くたれ込めてきた忌まわしい波は、“光”の突入と同時に動きが鈍り、やがて氷になったかのように動きを止めざるを得なくなった。  “光”はなおも“混沌”の中へと突き進もうとする。だが“混沌”も必死に抗い、深々と突き刺さった“光”の穂先を強引に引き抜こうとする。“光”の侵入していく一点に力を凝縮させるべく、波を螺旋状に歪ませた。  両者の接点には、この世のいかなる者すらも想像し得ないまでの超越した力が結集しているのだ。  地上に残った者達は一同固唾をのんで、終末の空の様子に見入っていた。声をあげることすらままならないが、おそらくは誰しもがルードと同じ願いを持ち、状況を見つめていることは違いないだろう。  突如、世界そのものを揺るがさんばかりの轟音が、地上と空を支配した。  それは“光”と“混沌”の、両者があげる勝ち鬨の咆哮のようでもあり、またお互いの力に抗うべくして発する苦悶の叫び声のようでもあった。  やがて、“混沌”に突き刺さった“光”の中心部から放射状に、幾千に及ぶとも思われる稲妻のような細い光の筋が放たれる。その各々は空に沿うように筋を伸ばしていくと容赦無く“混沌”に襲いかかる。暗黒に包まれていた空一面が煌々と輝きを放った。  “光”の力が徐々に“混沌”の内部に浸透し――そして空そのものが大きく揺らぎ、大地も呼応するかのように激しく揺れ動いた。見上げていた者達も、もはや立っていることが叶わず、地面にへばりついた。  大地の鳴動に耐えきれず、ルードも突っ伏した。腐りかけた大地の粘質はやはり気色悪いものだったが、すぐ近くには、暗黒へと続く穴を空けたままの断崖がある。またしてもあの奈落の底に落ちるわけにはいかない。ルードはその場に踏みとどまろうと、必死で手近の土を握りしめた。地に伏せたルードが感じていたのは、体が引き裂かれるような轟音と、激しく波打つ大地の揺れ。それらは永遠に続くかのように繰り返されていく。  ルードは恐怖におののいたが、意を決して体を返し、上空のさまを見上げた。  ルードの目を捉えたのは、くらむばかりの“光”が空全域に広がっていくさまであった。それを見た途端に、まるで意識が吸い取られるかのように、ルードは動けなくなった。  “光”と“混沌”がせめぎ合う戦いはなおも続いていたが、ついに天上で大音響が轟きわたった。その音は断末魔のようであり、この世の何ものもが出しえないような邪悪と、憎悪と恐怖を兼ね備えた、恐るべき音であった。しばらく大地も空も、その鳴動に任せるままに揺れ動いていたが、やがて静まり、静寂が訪れた。  そうして、ルードが我に返った時、空からは黒い色が払拭されており、ただただ虚ろな灰色のみをぼんやりと映していた。この空虚な薄墨は、もはや空とも天上ともつかぬ、何ものも存在しない空間となってしまったが、これが一つの結果であることをルードは知った。  “光”が、“混沌”を追いやったのだ。 九. そして、為すべきことへ 「助かった……」  世界の破滅を想起させる天変地異の鳴動が止み、しんと静まりかえった周囲に、男のつぶやきが響いた。空のさまを恍惚と見上げていたケルンは、はっと我に返った。  避難民の列は歩みを止めていた。ケルンと同じように空を見上げている人も、うつ伏せになったまま震えていた人も、たった今、災いが過ぎ去ったことに気付いたようだ。緊迫していた雰囲気が消え、安らぎに満ちている。騒ぎ立てる者、涙をこぼす者――人々はそれぞれの思うままに、喜びを表している。  やがて人々は南方に対してひざまずき、祈りを捧げはじめた。ユクツェルノイレへの祝詞《のりと》を発する声が次第に増えていく中、ケルンは冷静に周囲の様子を窺うのみ。ひざまずく人の群を見て苦笑を漏らした。 「みんな、分かってんのかよ。神様が、なんかしでかしたわけじゃあないってのにさ……あれ?」  ふと横をみると、ミューティースが目をつぶり――地に伏せたりはしないまでも――手を胸の前で組んで、静かに祈りを捧げていた。 「ミュートまで……。神君のおかげなんかじゃない。結局のところ、ユクツェルノイレなんて、いないっていうんじゃあないか。こうなったのはルード達のおかげなんだぜ?」 「分かってるよ。ルード達にありがとうって、祈ってたんだよ、あたしは」  ミューティースは目を開け、ちらりとケルンを一瞥した。 「ケルンの言いたいことも分かるけれどね。でも、『神君が見守って下さっている』って、みんなはまだ信じてるのよ」 「ああ、でも、祈ってる人らが本当のことを知ったら、どうするのかね? 本当の歴史を聞いた時、俺だってにわかに信じられないって動揺したのに」  言葉の変遷、魔物の出現、そして“混沌”の襲来――。フェル・アルムの民は数々の異変に直面した。常識というものに囚われている人々の中には、それら異常きわまりない災禍にどう対処すればいいのか分からず、自分自身の壁を乗り越えれずに苛んでいる人も多い。  今まで伝わってきた歴史が、嘘に塗り固められたものだといずれ公表されるだろう。それは緩慢な平和に依存してきた人々を覚醒させる薬ではあるが、いささか強過ぎる薬でもある。反動、副作用もまた伴うものだろう。 「……そうね。あたし達にとってはこれからこそ、本当に大変なのかもしれない。今までだって南のほうは混乱してるって話、シャンピオから聞いてるからね……」  ふと、二人は申し合わせるかのように、北方を見やる。 「スティンが……無くなっちまったんだなあ、ものの見事に」  ケルンがぽつりと言った。人智を越えた変動を目の当たりにしても、喪失感が実感として、今はまだ湧いてこない。 「あそこでもう羊を飼って暮らすことなんて出来やしないけど……それでも俺は、羊飼いをやっていきたいんだ!」  スティン。そこにはつい昨日までは山々が連なり、麓には青々とした草原が広がっているさまが見えていた。羊達が牧草をはみ、羊飼いはただ平凡な日々を送る――そんな純朴な暮らしが確かにあったのだ。しかし今、スティンには何もなかった。“混沌”に飲み込まれた大地の痕が、否定の叶わない現実であることを語っている。  それでも、ミューティースはケルンに笑いかけた。 「大丈夫! あんたとあたしならやっていけるよ。今度、セルのほうに行こうよ? 羊がいれば、あそこの高原でも暮らせていけるもの」  ケルンは照れ隠しのためか、ミューティースからすっと離れた。そのため彼女から不平の声があがる。 「ま、羊はさ……大人達がスティンから連れてきた何匹かを、分けてもらわなきゃな。あっちに行くんなら」  ぶっきらぼうな口調でミューティースにそう言いつつ、ケルンは自分が歩いてきた方角を見据えた。ウェスティンの地ではどうなっているのだろうか。そして自分の幼友達は? 重圧に耐え抜いた親友のところに今すぐにでも駆けつけ、やや乱暴に称えてやりたかった。 (無事なんだよな? ルード。本当に世界が終わっちまうのかと思ったけれど……実際、まだ俺は心臓が破裂しそうなほど驚いてるんだが、どうやらお前がうまくやってくれたに違いないと思ってる。あとは……俺達のことは心配しなくても大丈夫だ。ありがとうよ! お前ってやつは……)  そのように思いを馳せながら、知らず知らずのうちに祈るように手を組んでいたのに気付いたケルンは苦笑した。ひょっとしたら、そこかしこでひざまずいている人々の想いも、自分とまた同じなのかもしれないな、とケルンは思った。  盲信的な祈りではなく、感謝のあらわれ。 「なに、手なんか組んじゃってさ。ん? 神君なんていないんじゃあなかったっけ?」  ミューティースがケルンをからかうように、彼の周囲をぐるりと回った。 「俺だって、たまにはルードに感謝することだってあるさ」  ケルンは素っ気なく言った。 「けど、あいつめ。いつの間にやらとんでもなく大物になっちまったんだな。俺なんか、相も変わらず冴えない羊飼い見習いだってのによ」 「そんなことないよ。あの子はいたって普通の子だよ。それにひょっとしたらケルン、もしライカと最初に出会ったのが君だったら、君が運命ってのに巻き込まれていたのかもしれないよ?」 「そうかもな。そう考えれば考えるほどやれやれ! つくづく運命ってやつは不思議なもんだよなぁ。俺達は運命に縛り付けられてるのか、それとも切り開いていってるのか、分かんなくなってくるぜ」  言いつつもケルンは、おそらくどちらも間違いではないであろうことを直感していた。ケルンはそこで考えを断ち切り、スティンの仲間達の様子がどうなっているのかを探りに、人々の中をかき分け歩き始めた。 * * *  ぼうっと立ちつくして空を仰いでいたルードは、ふと周囲を見渡した。それまで地に伏せていた仲間達もようやく立ち上がり、一様に空のさまを見上げている。ルードも彼らにならうように、再び灰色の空を見上げた。  “混沌”が追いやられたことを象徴するかのような鈍色《にびいろ》の空に今、光の薄い皮膜が出来ていた。おそらくガザ・ルイアートの光の産物であろうその膜は、風に揺れるカーテンのように、輝きながらゆらゆらとうごめく。ライカの故郷、アリエス地方では“極光《オーロラ》”という空の現象をまれに見ることがあるという。その美しさを彼女から聞いたことがあるが、ルードの頭上に揺れるカーテンもまた幻想的な美しさを醸し出していた。 「極光……?」  言葉が漏れる。それを聞いたライカは小さくうなずいた。 「やった!! やったんだね!!」  沈黙を破り、真っ先に凱歌《がいか》をあげたのはジルだった。ジルは無理矢理に兄の両手をつかむと、ぐるぐると回り始めた。ディエルも最初は困惑していたが、しだいに今度は弟を振り回してやろうと躍起になった。  それがきっかけとなったのか、張りつめた雰囲気が氷解していく。 「ルード……」  サイファは、双子のじゃれ合う様子に顔をほころばせながら、ルードに声をかけた。彼女は、口を開いたまま次の言葉を探していたようだが、的を射た言葉が浮かんでこない様子だった。  それはルードも同様。ガザ・ルイアートの力を行使した彼とは言え、自分自身が“混沌”を追いやった実感を未だ感じ取れないでいた。 「どうやら、“混沌”を追っ払ったらしい……な?」  自分の為したことがどうしても確信出来ないためか、ハーンの顔を伺いながらサイファに答える。 「そのとおり。“混沌”は去ったんだ。君のおかげだね……」  ハーンは言った。レオズスたる彼にとって“混沌”を目の当たりにしたのはこれで二回目だ。自分は“混沌”に魅入られてしまったのに、聖剣は――そしてルードはそれを打ち破ったのだ、どこか感慨深いものがあるのだろう。ハーンは口を真一文字にしめて黙りこくった。 「……羊飼いのみんな、これからどうしていくんだろうな」  ルードは、何もかも消え失せた北の情景を見つめながら、ぽつりとこぼした。 「それは私の考えることでもある。避難民の救済が最優先だろうな」  サイファが言った。 「アヴィザノの執政官や地方領主達、それにみんなの力を借りて、これからのフェル・アルムの有り様を考えていかなければならないんだ。色々なことがあったけれども、私はここまで来て、良かったと思っている」  才覚に欠ける凡庸な君主だと、彼女自身ぼやくことがあるが、サイファこそがこれからのフェル・アルムに相応しい指導者になっていくのだろう。 「ふむ。“混沌”は去ったか」  聞き覚えのない声。ルードは――ライカ達も――周囲をあらためて見回した。  すると、ハーンの横に老人と女性の姿があった。  いつの頃から彼らはここにいたというのだろう? 先ほどまでは確かに、自分達を除いては誰もいなかったというのに。ハーンも、目を丸くして、突然のこの訪問者に驚いている。  老人は目を細めてハーンの肩を叩いた。 「わしのことが分かるかね? 少し前には一緒に演奏をやっていたじゃろうに、まさか、もう忘れたとは言わせんぞ?」 「え……。あなたは確か、ディッセ?」  ハーンは記憶の中にある名前を思い出した。ずいぶんと昔のようにも思えたが、あれはほんの十日ほど前のことだった。ディエルを連れてクロンの宿りからスティン高原に向かう途中の野営地にて、年老いたタール弾きとともに曲を奏でた。その時、レオズスの記憶が“ディッセ”と囁いたのだった。  老人はにこりと笑った。 「見事、闇をぬしの力としたようじゃの、宵闇の公子よ。“混沌”と決別したそなたを見るのはまこと嬉しいことじゃ! われらディトゥアの長、イシールキアも喜ぶに違いないぞ。かつての裁きの時は、彼もそうとう心を痛めたのだからな」 「あ……マルディリーン?!」  ルードは女性に向かって言った。彼女はルードの姿を確認すると、微笑んで手を小さく振ってみせた。 「お久しぶり、となるのかしらね、ルードにライカ。ここフェル・アルムで、こうやって会えるとは……嬉しいものね」  そうしてマルディリーンはルードとライカに、またディッセはハーンに対し、相手を紹介した。  ディトゥア神族のなかでも賢者として知られる慧眼のディッセ。その娘がイャオエコの図書館の司書長マルディリーンなのであった。 「ほれ。おぬし、これを忘れていったじゃろう?」  ディッセは背におぶっていたものをハーンに手渡した。 「これは……僕のタールじゃないか!」  ハーンは両腕にタールを抱えると、その感触を懐かしむかのように撫で、そして弦をつま弾いた。やや調子を外していたが、暖かみのある音がこぼれ出ていく。 「ありがとう! スティンで僕が……“混沌”を抑えようと家を飛び出してから、どうなったもんかって気になってたんだ!」 「まったく、タール弾きがなんたることよ! 命の次に大切な楽器を置いていくとはの」  ディッセが高笑いをした。 「でも、なんであなた達がこの世界に入ってこれたんだい?」  ハーンがディッセに問うた。ディトゥアとはいえ、閉鎖されたこの世界に入ってくることなど叶わない。ディエルとジルが訪れたのは意図的ではなく、半ば偶然によるものだった。 「空間の閉鎖が全て解かれたからよ、レオズス。だからこそ、普段は世界に干渉しないわしらも、ここに入り込めたんじゃ」  ディッセは答えた。 「さあて、“混沌”を追いやるとともに、この世界を覆っていた結界――“見えざる天幕”が完全に瓦解したわけじゃ。しかし今のフェル・アルムは、きわめて不安定なものとなっている。しかし結界がなくなった今こそが、還元の時! “混沌”が再びやって来ぬうちにことを起こさねばならん。時機を逸すれば今度こそ、“混沌”に飲まれてしまうだろう」 「否。遅かれ早かれ、いずれは終焉を迎えるしかない」  唐突にデルネアが言葉を放った。一同の視線はデルネアに集まる。デルネアはそれを気にかける様子もなく、ディッセに問いかけた。 「還元と言われたな。その方法を御身らはご存知なのか?」  デルネアの問いかけに、ディッセもマルディリーンもかぶりを振った。 「わしは“慧眼”と言われておるが、わしの知識は全てイャオエコの図書館の蔵書によるもの。そして知る限りでは、書物の中には還元のすべは載っていなかった。そもそも世界を切り離す手段自体、アリューザ・ガルドには存在し得ぬもの。だからこそデルネア、かつて異次元――“閉塞されし澱み”に赴いたお前さんの知識が不可欠なんじゃ」 「我の知識だと。ふん。そのような矮小なものを、“慧眼”と称される御身が欲されるとはな」  デルネアは口を歪ませ、自嘲するように小さく笑った。 「還元のすべを知るのが我だけだというならば、それはやはり絶望しか与えぬものだろう。――一週間! そう、一週間の猶予が必要なのだが、その間“混沌”が手ぐすね引いているとお思いか?」 「わしの読みでは――そなた達の時間にして一週間はとうてい保たぬじゃろう。今しゃべってる時間すら惜しい――」 「ならば全ては詮ないことだ。滅ぶほかない。還元のすべは、遙か南方のトゥールマキオの森においてのみ発動する」  ディッセの言葉を塞ぐようにデルネアが言い放ち、地面に横たわった“名も無き剣”をつかんだ。剣はなおも蒼白く光を放っている。 「デルネア!」  それを見たハーンの表情は硬くなる。デルネアを制止するため腰に差した剣をいつでも抜けるように、剣の柄に手をかけた。 「レオズス。御身が懸念するほどのことはない。我には戦う意志もなければ、それだけの“力”も失せた。……今はただ、剣を握っているに過ぎん」  デルネアは言った。 「――フェル・アルム創造に際して、我はこの“名も無き剣”をトゥールマキオの大樹の根本に置き、術の発動に臨んだ。あの大樹は、さながらエシアルル王の住まう世界樹のごとく、大地の力を流出させていた。そこに剣の力が加えることで、転移の儀式が発動し得たのだ。“名も無き剣”。これこそがフェル・アルムを切り離したすべを発動させる媒体。そして逆もまた真なり。しかしその力は、大樹においてでなければ発揮出来ぬ。もっとも、我らがその地に赴くのに一週間はかかろうがな……」  その時、ルードの裾がくいっと引っ張られた。見ると、ジルが何やら含みがありそうな表情でルードを窺っている。  ルードには、ジルの言いたいことが分かった。 「……いいや。おれ達はやってのけるよ、デルネア。まだまだ不可能なんかじゃない。俺達には出来るよ。さ、ジル」  ルードに背中を押されたジルは、てくてくとルードとデルネアの間に割って入り、わざとらしく咳き込んだ。 「おっほん! そりゃ、普通だったら間に合わないんだろうけどさ。でもだいじょうぶ! ここにおいらがいる限りね!」  なるほど、とサイファが小さく相づちを打った。 「小僧?」  何者だと訝しむようにデルネアが言った。 「ああ、おいらはジル。こう見えてもトゥファール様の使いなんだ。んで、おいらは遠かろうと何も気にせずに、空間を渡れるわけなんだよなぁ」  ジルはさも得意げに胸を張ってみせた。その割に、神の使徒であるということを何事もないようにさらっと言いのけるあたりは実に彼らしいが。 「あんまり役に立つしろもんじゃねえけどな」 「ぐ……」  ディエルに話の腰を折られたジルは小さく呻くが、それでも気を取り直してデルネアに言った。 「どう? おいらに大樹の場所を教えてくれれば、今すぐにみんな連れてくよ?」 「ジルの言葉は本当だ、デルネア。この子にはそういう力があるのだ」  サイファがジルの両肩に手を置き、デルネアと向き合った。 「私達は表向きの考え方こそ違えど、根本では一致するはずだ。……今さっきルードも言っていたように、悲劇を免れるためにフェル・アルムを創造した貴君にとって、世界が消え去るのは耐えられないと思うけれども、いかがだろうか?」  デルネアはぎろりとサイファを見やった。 「もとより、小娘に説教されるいわれなど無いが――小僧、場所を教えろと言ったな」 「うん。でもどこそこにあるって言葉で説明されても、おいらにはぴんと来ないから……かといって地図なんてここじゃあ書きようがないし……そうだね、頭の中で強く念じてちょうだい。おいらはそれを読みとるからさ」  デルネアは否定しなかったので、ジルはそれを了解の印と見たのだろう。 「よっし! それじゃあみんな集まって、おいらにしっかりとつかまって! 転移してる最中に、誰かが空間の狭間に取り残されても、おいらにゃあ探しようがないからね。最後の大仕事、みんなで見届けよう!」 「オレは行かない」 「そう……ええっ?!」  ジルは飛び上がらんばかりに激しく驚いた。当然、ディエルも一緒に行くものとばかり思っていたのだろう。 「ちょっと兄ちゃんてば。どうして?」 「……なあデルネア。このおっきな空間を元に戻すっていうんだから、相当な反動ってのが発生するんじゃないのか?」  ジルの喚き声をよそ目に、ディエルは冷静にデルネアに訊いた。 「創造した時と同様の力は起こり得るだろう。そしておそらくはこのウェスティンの地に多くの力が集中して巻き起こる。空間の切れ目がすぐそこにあるわけだからな」 「……ジル、聞いただろう? オレはここに残って、その反動とやらを抑えてみせる」 「そんな、兄ちゃんとまた会える自信なんて……」  涙目になるジル。ディエルはそんな弟の額を軽く小突いた。 「だったら! 間違いなくみんなを送って、きちっとやってのけて、それからここまで戻ってこい! ……オレを送った時みたいに、突拍子もない場所に行っちまうんじゃあないぞ」  ジルは黙ってうなずいた。 「というわけだ、ハーン兄ちゃん。こいつのこと面倒見てやってくれよ? さすがに間違いをやらかすなんてことはないと思ってるけどさ」 「ディエルも気を付けて。多分、凄まじい力に立ち向かうことになるだろうから無理は禁物だよ。……また、落ち着いたら今度、タールを聴かせてあげるからさ」  ハーンが言った。 「うん……いつになるかは分かんないけど、そうしたいよ」  ディエルはやや複雑な笑みを作った。 「まあ、兄ちゃんにだったら会えるだろうね……」 「ねえ……ジル。君には申しわけないんだけれども……私もここに残るよ」  サイファは、ジルの肩に置いた手を、彼の頭に持っていき愛おしむようにそっと撫でた。 「姉ちゃん……?」  サイファを見上げたジルの顔はすでに涙に濡れていた。兄の激励に心打たれたものがあったのだろう。それゆえに、サイファは言うべき言葉を言ってしまうのをはばかれたが、それでも言うしかなかった。 「私はドゥ・ルイエだ。国王として、まだ私にはここでやるべきことがある。北方には戦い疲れた烈火がいるだろう。私は彼らに撤退の命令を下さなければならない。私の命令なくして彼らは動けないからな。それから、避難していった人達にも、みんなの無事を伝えなければ。だからここで……」  つうっと、サイファの頬に涙が伝った。 「……また、宮殿に遊びに来てくれれば、いつでも歓迎するぞ? リセロやキオルの困った顔っていうのも、それはまた面白いものだしね」  ジルは肩を震わせながらうなずいた。が、おそらくそれは叶わないであろうことを二人は分かっていた。サイファがドゥ・ルイエの名を冠しているように、ジルもまた、全てが終わったあかつきには彼本来のいるべき場所に還らなければならないのだから。そしてそこは人の住まう地ではない。  サイファはジルと固く握手をすると、すっと離れた。ジルは目をこすり、しばらくうつむいていたが、気を取り直して――しかしやや寂しげな――笑みを浮かべた。 「じゃあ今度こそみんなで行くからね! さあ、おいらにしっかりとつかまっていてよ!」  トゥールマキオの森へと向かう面々――ルード、ライカ、ハーン、〈帳〉と、デルネア、それに隷達がジルを取り囲んだ。ルードは、ウェスティンの地に残る仲間達を見つめる。 「じゃ、行ってくるよ……ディエル、サイファ。本当にありがとうな」  サイファとディエルはともにうなずいて返答した。 「父様と私も、ここに残ることにするわ。微力ながら、ディエルの手伝いが出来ると思う。それにこちらのお嬢さん――サイファの手伝いもね」  マルディリーンが言った。 「ルード、それにライカ。もう私には貴方達に助言するものは何一つないのだけれど……あとは貴方達自身で見届けなさい。そして今度、イャオエコの図書館においでなさいな。貴方達とはゆっくりとお話がしたいものだわ」 「さあ、デルネア。おいらに場所を教えてちょうだい」  ジルに促されると、デルネアは何も言わずに目を閉じた。ジルはデルネアと向き合う。しばし瞬き一つせずにデルネアの顔を見上げていたが、 「うん……分かったよ。じゃあ、いよいよ大樹に行くからね!」  赴くべき場所を把握したジルは、明るく言ってのけた。それが、から元気だとあからさまに分かってしまうのは不憫だった。  ルード達はそれぞれ、ジルの腕につかまる。ジルは回りの様子を見て、最後にサイファのほうを見て、そして口を開き――ひとこと“音”を発した。  その瞬間。  ルード達の姿はウェスティンの地から忽然と消え失せた。 十. トゥールマキオの森  異変は“音”とともに起こった。  周囲の様相がとぐろを巻きながら、ぐるぐると溶け合っていく。あまりに奇妙なさまにルードは驚きながらも、ジルの肩をぎゅっとつかんだ。ライカも同様にジルの腕にしがみつく。ジルは顔をしかめて二人を見た。 「痛いってば! ……そんなに強くつかまなくたって空間の隙間からは落ちやしないって……」  やがてウェスティンの情景が跡形もなく消え失せた。かわってルードの視界に映るのは、まるで目を閉じて太陽を見上げている時感じるような、曖昧としたまばゆさ。それすらも、奇妙な浮遊感が訪れるとともに暗転していった。 * * * 「ルード、だいじょうぶ? ……おーい! 返事しろってば」  ジルに声をかけられて意識を取り戻したルードは、自分が呆然と立ちつくし、深緑の空間を見ていることに気付いた。  果たしてどのくらいの時間が経ったのだろうか。それは一刻ほどとも、ほんの瞬きをする間とも感じられた。  目に映る、この緑色はなんだろう?  ルードが疑問を感じると同時に、焦点のぼやけたかのような曖昧な様相は、次第に鮮明な風景へと移りゆく。  大地を感じる力――セルアンディル特有の力と嗅覚が、遠く離れた地に辿り着いたことを彼に告げた。  森の緑と匂いは、静寂とともにルード達を包み込む。それらはどこか暖かく柔らかい印象があり、スティンの森の雪山特有の装いとはどこか異にしているのが感じ取れる。  そして――眼前には、他の木を圧倒するまでの存在が――大樹があった。  ルード達は、運命の旅の終着地、トゥールマキオの森に転移したのだった。 * * *  畏怖。  人は大樹に畏れの心を強く抱くことだろう。 「わあ……」  周囲からも誰となく、自然と声が漏れる。  ルードにとっても、この木の雄大さにはただ圧倒されるだけだった。幼少期、故郷で遊んでいた大きな木よりも、またスティンの山で目にしているどんな木よりも遙かに大きいそれ。幹の中にルードの家一件くらいはやすやすと入ってしまうかもしれないほど太い。  ごつごつした木肌からうかがえるのは、木が数えたであろう歳月の深さ。大樹はフェル・アルムが創造されるよりもさらに前から、アリューザ・ガルドの歴史を静かに歩み、このうっそうとした森を見つめてきたのだ。  見上げると巨大な幹からは無数の枝が四方八方に伸び、青々とした葉を覆い繁らせている。ルード達のいる場所が薄暗く思えるのは、これらの枝によって空が遮られているからだ。おそらくこの上空は、ウェスティンの地と同様の虚ろな灰色を映しているのだろうが、その様子を伺い知ることは叶わない。  そしてセルアンディルの感覚がルードに伝えてくる。広大な大地の力が凝縮されて樹の中に蓄えられており、どっしりとした木の根本からは、数多の大地の力――龍脈が森の全てを包むかのように放たれているのだ。  ルードの足下にある大地は、水を吸って湿っており、じとじとした感触が靴底からも伝わってくるが、それは心地よいものだった。この感触は“混沌”によって腐ってしまった大地のぬめりとは違う。確固たる生命の躍動はルードに、この森が持つ力強さと優しさを教えてくれる。  〈帳〉とデルネアは、大樹の根本にて静かに対峙していた。  沈黙が周囲を包む。  両者はもはや威圧感を発せず、ただ向き合うのみ。緊張した感など無く、むしろ穏やかさすら感じられるものの、今この両者に口を挟める者などいないだろう。人なつこいジルが〈帳〉に声をかけようとしたが、その雰囲気のためにためらった。ルード達には、固唾をのんで両者を見守るしかなかった。  歴史はついに、二者に委ねられる。  大地を転移し、空間を閉鎖する天幕を創り、そして悲しみのあまり隠遁した〈帳〉。  虚構の歴史を捏造してまで、望む世界を築いたデルネア。  フェル・アルムを創造した両者によって、フェル・アルムは還元されようとしている。  還元。  それは〈帳〉にとって、自らが“罪”と感じていることの浄化だろう。またデルネアにとっては悲劇であり敗北だった。 「ここが還元の舞台、トゥールマキオの森。そしてわが住まいたる大樹だ」  デルネアが木を見上げて語る。その口調からは傲慢さを感じさせなかった。 「ふむ……私がこの森に来るのも十三年ぶりとなるのか。あいも変わらず美しい森だ。私がエシアルルであることを実感させてくれる……」  と〈帳〉。感慨深そうに両の目を細めた彼は、このトゥールマキオの森と大樹に自分の過去を重ねているのに違いなかった。  アリューザ・ガルドにはアブロットの大森林という広大な森が広がっていると聞く。そこが“森の護り”エシアルルの故郷である。その森の中央に存在する巨木は“世界樹”とよばれ、彼らの長にしてディトゥア神族のファルダインが住まうのだ。 「とうとう私達は、フェル・アルムの結末を迎えることとなるのだな。デルネアよ。慧眼のディッセが語ったことは真実だ。空間の封鎖が解かれた今こそが還元の唯一の機会であるが、いずれ再来するかもしれない“混沌”から世界を守るすべなど何もない。だからこそ猶予がないのだ。私達は――」 「分かっている」  〈帳〉の言葉を遮って、デルネアが言った。 「このフェル・アルムを創り上げた時と同様、還元のためには、術者達の魔力と、大地の力。そしてアリューザ・ガルドには存在し得ない異世界の力を使用することとなる。この三つの力があってこそ、還元のすべは発動する。術者とはすなわち〈帳〉よ、お前と隷どもだ。大地の圧倒的な力を持ち得ているのは大樹。そして異世界の力は我の剣が有している。我はこの剣の力と、大樹の力とを増幅させよう」  かつてデルネアが“閉塞されし澱み”という異空間で得た“名も無き剣”は、主の意志を感じ取ったかのように、ぼおっとした蒼白い光を刀身にまとった。 「剣の力に、魔導の威力を相乗させるのだな」  〈帳〉が言った。 「では、われら術師が発動させることばを教えてほしい」  それを受けてデルネアが口を開いた。 「六百年前、魔導師達とお前が転移の際に唱えた言葉を覚えているか? 還元を発動させるには、転移の際と対になって存在している“原初の色”を紡ぐこととなっている。我は魔導には明るくないが、お前ならば分かるだろう。どういった“色”を、ことばを紡ぐべきかを」  かつて“最も聡き呪紋使い”とも“礎の操者”とも称されていた魔導師はうなずいた。 「そう。転移のすべを発動する際には、アリューザ・ガルドに存在する“原初の色”を何色も複雑に編み上げて術の力場を作りあげていた。あの時抽出した“原初の色”と対となる“色”を、この森から抽出すればいい。そうして作りあげた力場を、残り二つの力と融合させ……発動、となるのか」  〈帳〉はぐるりと周囲の景色を眺め、しばし感慨に耽っていたが、口を開いた。 「では、還元のすべを発動させる!」  〈帳〉の言葉を聞くやデルネアは剣を携え、ひとり巨木のうろの中へ入っていこうとする。うろから上ったところに彼の住まいがあるのだ。 「デルネア、貴公は我々とともに立ち会わないのか?」  〈帳〉が呼び止めた。 「……我はこの中に入り、大樹の力を喚び起こすのだ」  デルネアは振り向くことなく言って返した。 「力を喚び起こすのならば、ここにいるままで十分ではないのか? なぜわざわざ樹の中に入るというのだ」  〈帳〉は怪訝そうな顔でデルネアに問いかけた。  デルネアは歩みを止めたがやはり振り返らず、〈帳〉に背中を向けたまま言った。 「――〈帳〉よ。我は、敗れたのだ。もはやそのことについては語りたくもないが。……だがな、我《われ》が一つの世界を望みのままに創造し調停していた、ということ。しかもこの世界には魔物が存在せず、さらには貧民街と呼べるものもない理想の国家であるということ。これらの事実を覚えておくがいい。何より、遙か太古にアリュゼルの神々が行った世界創造を、我は成し遂げたのだ! 我は実に至福であったぞ!」 「まさかデルネア。貴方は……」  その言葉に感じるものがあったのか、〈帳〉の表情は急に険しいものとなる。 「待て、デルネア!」  彼はデルネアの左腕をつかみ、その場に押しとどめようとした。 「ならば私も貴方と同様の行動をとろう。この大樹の中に入り、貴公とともに術を発動させよう……」  その言葉は〈帳〉らしくなく、せっぱ詰まったかようにもルードには聞こえた。  不意に、ルードは急に胸元が痛くなるような感覚を覚えた。それが何によるものなのか当のルードでも分からないが、深い哀しさを感じた――。  デルネアは強引に〈帳〉の手を振りほどいた。 「デ……ルネア……」  〈帳〉は呆気にとられたまま、空となった自分の手をじっと見つめるほかなかった。  デルネアは再び歩き始める。〈帳〉やほかの者に背を向けたまま、彼は木のうろの中に姿を消そうとしている。うろに入る手前で彼は立ち止まり、皆のほうを振り返った。  その表情――デルネアの顔からは険しさが一切消え去り、清々しさすら伺える。だが彼の眼差しはルード達を見ているのではない。トゥールマキオの森すら越えた、どこか遙か遠くを見据えているようだった。  デルネアの表情を見てルードは、なぜ自分の胸がきりきりと痛むのかを悟った。これは訣別なのだ。デルネアと〈帳〉は、今生出会うことはあり得ない。 「――“ここ”にとどまるのは我ひとりのみだ。他の者の介入は――ならぬ。それがたとえウェ……〈帳〉であってもな」  デルネアの言葉を聞きながら〈帳〉はぐっと堪えるように、唇を一文字に結んでいる。 「……分かった。デルネア……」  震えそうになる声を抑えているのが傍目からも分かった。 「〈要〉《かなめ》様ぁ!」 「どうか、どうかおひとりだけで行かないで下さいまし! 我らもお供つかまつります!」  口々に隷達がデルネアに呼びかける。主に対する忠誠心以外、感情という概念そのものすら放逐してしまった彼らに感情がよみがえったのだ。皆一様に銀色の仮面で覆っているため、彼らの顔を見ることは出来ないが、声を聞くに彼らの中には老人もいれば、まだ声も変わらないような年端のいかない少年も、女性もいるようだった。彼らは突如わき起こった感情を抑えられずに、幼子のように泣き喚きながらデルネアの名を呼んでいる。  デルネアはそんな哀れな彼らを見やった。 「隷どもよ。我ではなく、今は〈帳〉の助力となってくれ。彼の魔力ではいささかこと足りぬからな。貴様らの魔力が必要なのだ。では、な……」  そう言うと、彼は小さく手を挙げ――大樹の中へとひとり消えていった。  それは友人に、再会を期した別れをする時のような、ほんのさりげない仕草であった。 「ついに……ついに、フェル・アルムで貴方は私の名を呼ぶことがなかったな。我が友よ……」  隷達が慟哭する中、ぽつりと〈帳〉が漏らす。  ライカは木のうろを見つめたままつぶやいた。 「デルネア……悲し過ぎる人なのね……」  その言葉は、ルードの胸奥にしみた。  ウェスティンの地でデルネアと剣を交え、そして“名も無き剣”が自分の体に突き刺さった時、ルードはデルネアの過去の姿をかいま見た。  彼の傲慢さの影には、どれほどの悲しみが潜んでいたというのだろうか? * * *  還元のすべが始まる。  まずは〈帳〉によって“呼び出しのことば”が放たれた。〈帳〉や隷達を取り囲むようにして、緑色の力場が半球状に形成される。  〈帳〉は奇妙な抑揚をもってさらに詠唱を続けていく。彼の腕が踊り子のようにしなやかに宙を舞う。その都度、周囲に形成された半球状の力場には、トゥールマキオの森が内包する魔力の“色”が塗り込まれていく。  半球の中に“色”を織り込んでいく〈帳〉を、ルード達は静かに見守っていた。ライカはルードの袖をつかむと、大樹の上方を見るように、と彼に促した。大樹を見上げたルードは、その生い茂る葉の全てが、煌々と蒼白い光を放っているのを見た。  蒼い光は、デルネアが所持していた剣が放つ蒼白い光を想起させるもの――おそらくデルネアは幹の中で、大樹の持つ力と剣の持つ力を融合させたのだろう。光はやがて枝、そしてついに幹までを覆い尽くし、さらに周囲の木々にまで広がっていく。薄暗い深緑の木々はいつしか、幻想的な蒼白い光を放つようになった。  ふと〈帳〉は詠唱を中断し、木々の様子一本一本を見て取る。そして彼は大樹に向き合う。楽師達の奏でる楽曲が予期せぬ事故によって中断されたかのような、そんな奇妙な静けさ。詠唱を止めたまま〈帳〉は無言を押し通している。彼は樹の内側にたたずんでいる旧友を見ているのに違いない。〈帳〉の胸中はいかなものなのだろう。そしてデルネアは今、どのような表情を浮かべているのだろうか?  ほうっと。〈帳〉はゆっくりと息を吐き――意を決したように身を翻した。彼は両手を力強く天に突き上げる。  一瞬にして魔導の力場は膨張し、大樹を、そして森そのものをも覆い尽くした。わあん、と、巨大な鐘が幾重にも鳴動するような音が周囲を包み、森の蒼が半球に溶け込んでいく。  音はなおも大きくなり、耳を塞いでいても容赦なく響いてくる。蒼白い光をも取り込んだ半球は、今度は奇妙に収縮を繰り返すようになった。  いよいよその時が訪れたのだろう。  還元の時が。  そう思ったルードはとっさに〈帳〉の名を呼んだ。巨大な音圧に阻まれ、自分自身の声すら聞き取れないが、〈帳〉は意を介したのか、ルードにうなずいてみせた。  そして――〈帳〉によってもたらされるのは魔導の締めくくり。“発動のことば”。  〈帳〉の放ったその声は、鳴動する音よりも遙かに大きく周囲に響き渡る。  と同時に、包み囲む天幕のような球は一気に凝縮し――〈帳〉の手の中で一点の白い光となり――そして爆ぜた! 十一. 発動  ルードの足下から地面の感触が消え失せたかと思うと、次の瞬間とてつもない衝撃が――ガザ・ルイアートが“混沌”をうち破ったのと同様か、それ以上の衝撃が――空間を揺さぶる。まるで足下で爆発が起こったようにルードの体は宙に舞った。  四肢に言いようのない激痛を覚えながらも、ルードは皆の姿を探した。ほんの一瞬、ライカとハーンの姿を見いだし、お互いの顔を見合わせる。が、安堵するいとますらルードには与えられず、彼らとは遠ざかってしまう――  もはや自分自身の意志だけではどうしようもなかった。ルードはなんとか彼らを見つけだそうと精一杯もがくものの、やがて視界は濃霧に包まれたように何も見ることが出来なくなった。またも爆風のような衝撃が起こり、無情にも彼を吹き飛ばす。  そして――ルードの体は放たれた矢のように、猛烈な速さでまっすぐ吹き飛ばされていく。周囲の全ては白一色となり、ルードの体はその空間を突っ切り、飛んでいくのみ。  人が雲の中を飛ぶとしたら、このような感覚を覚えるのかもしれない。あるいは翼を得たライカも――。  奇妙この上ない空間である。こんなにも速く飛んでいるのに周囲は全くの静寂に支配され、風を切る音すら聞こえてこないというのだから。  この空間はトゥールマキオの森でも、ウェスティンの地でもなく――もはやフェル・アルムでもなかった。  自然の理《ことわり》からかけ離れたここに存在するのは、“白”という単色のみ。それ以外の色も音も存在しない純白の中にあって、ルードだけが異質の存在となっている。  先頃のデルネアとの戦いの最中、ルードは混濁とした暗黒の空間に陥ってしまった。もしかすると今自分がいるこの空間は、その時の暗黒と表裏一体となっている世界なのかもしれない。  四肢を襲っていた激痛も、この空間を飛んでいく中でいつしか消え去っていた。否、視覚を除いた感覚の一切が、この空間では拒絶されているようである。  ただ一つ明らかなことは、自分が今までどおりの自分として――肉体を持った一人の人間として――生きているということ。今のルードが感じるのはそれが全てであった。  ルードは心のなかで何度となく悪態をつき、沸き上がってくる焦りを必死にひた隠そうとしていた。  十七年の人生の中で、自分の意識が明瞭であることが、これほど疎ましく思ったことはない。どうあがこうとも今の状態が好転しないということに絶望するしかないのだから。このまま自分はどこへ向かって行くのだろうか? 空間はどこまで行っても白一色のみ。果てなどありはしないのかもしれない。  そして何よりルードの心を締め付けるのは、自分以外に誰もいない、という孤独感。それを意識するたびにルードの胸は張り裂けそうになるのだった。〈帳〉や隷達、ハーンもそしてライカも、還元のすべが発動したと同時に散り散りとなってしまい、今となっては所在など分かろうはずもない。 (まさか、還元のすべは失敗したんじゃないか?!)  ふと浮かんだその不安は、次第次第にルードの心を陰鬱に覆い尽くす。  またルードは、かつて〈帳〉が語った言葉を思い出していた。 『――ついに空間の隔離、転移の術は発動したのだ。だがそれと同時に、予期せぬ強大な反動力が働いた。かたちを持たぬ力が我々に襲いかかり、幾多の者が衝撃のため吹き飛ばされて空間の狭間の餌食になり、力を直撃した者は跡形もなく消え失せてしまった――』  アリューザ・ガルドからの転移に際して、途方もない反動が襲い、そのために〈帳〉の愛する人は亡くなったのだ。  ルードはかぶりを振った。 (ろくなことが思いつかない! いっそのこと、こんな意識などふき飛んでしまえばいいのに!)  白一色のなかを猛烈な速さで空を切りながら、ルードの心はさらに苛まれていく。  いやだ。  いやだ。  せっかくここまで辿り着いたってのに、あと一息のところで全てが無駄になってしまうのはいやだ。 (何より俺は……失いたくないんだ!)  白い空間の中で彼は、薄い紫色のさした銀色を――彼女の柔らかな銀髪を想起していた。ルードの唇から幾度となくこぼれでる言葉は次第次第に確固とした音となっていく。それは彼女の名前であった。 「……ライカ!」  ついにたまらなくなり、ルードは大声で叫んだ。音の存在しない空間の中で“ライカ”という響きが唯一の音となって支配する。そして彼女の名を呼んだ途端、ルードの体は彼の望むとおりにぴたりと止まり、宙に浮遊するようになった。  天も地もあり得ない世界の中で、彼はひとり立ちつくす。  何かが起こるに違いないという期待を持ち、ただ待つ。  その時。 「見つけた! ルード!」  ジルの声が頭上から聞こえた。  途端――白い空間はいっぺんに霧散した。 § 最終章 万象還元  そして今――ルードは真っ青な空間にたたずんでいた。  天上からは澄明《ちょうめい》な光が注ぎこんでいる。体が震えるほど冷涼なこの場所にあっても、光は暖かくルードを包む込む。光には、聖剣が持ち得ていた畏怖などかけらも感じさせない、自然のありのままの姿があった。 「ルード!」  再び頭上からジルの声。見上げると、まばゆいまでの光がルードの目をくらます。それが陽の光だと気付くには少し時間がかかった。太陽の存在など、ここ数日忘れていたのだから。  すっと、光を遮る影。それはジルだった。そして傍らにはルードの仲間達が――。  彼らもまた宙を浮遊しており、音もなくルードの高さまで降りてきた。 「やあ、ルード君!」  茶目っ気たっぷりにハーンは片目を閉じて、自分達の無事をルードに伝える。〈帳〉は力なく、ハーンの肩に寄りかかっていた。おそらくは自身の魔力を使い果たしてしまったのだろう。  そしてライカが――今までいつもそうであったようにルードに笑いかける。言葉にならない。ルードの唇はわなわなと動くほかなかった。 「やれやれ、間一髪で間にあったよ! ルードってば空間の歪みに落ちかけてたんだよ? もうちょっとでおいらの手に負えないところまで行っちゃうとこだったんだから、存分に感謝してちょうだいよ」  ジルは自慢げに胸を張ってみせる。 「……“還元のすべ”ってやつが働いた、そこまではいいんだけれどさ。反動で空間に大きな歪みが出来ちゃって、みんな空間の狭間に落ちちゃいそうになったんだ。――げんに、デルネアの家来達はみんなその中に落ちてしまったんだけど――なんとかライカ姉ちゃん達はおいらが見つけ出せたんだ。けど、気が付いた時にはルードがどっかに吹き飛ばされちゃってて、実はどうしようもなかったんだけどね――なんと、ライカ姉ちゃんがルードの声を聞きつけたんだってさ!」  ルードはライカの顔を見る。照れくさそうにはにかむ、そんなライカの表情がとても愛らしく映った。 「――でその時、おいらもルードがどこら辺にいるのか分かったんだ。しかも運が良かったんだよね。ルードが歪みの手前で止まっててくれたんで助かったよ! それに、ウェスティンにいるディエル兄ちゃんが、ちょうど反動の力を抑えてくれてたし。だからおいらも空間をかいくぐってルードをたぐり寄せることが出来たってわけだけど……ねえってば……ひょっとしておいらの言ってること、全然聞いてないんじゃあないの?」  ジルがぼやくのも無理はない。ルード達、運命の最中にあった仲間達は肩を寄せ、嬉しそうに抱きしめあっていたのだ。 「まったく……。まあ、また会えてよかったよなぁ。うん」  やれやれと、ジルは大げさに両手を横にあげてみせた。 「……さて、と! おいらもやることはきっちりやってのけたし……ぼちぼちと行くとしましょうかね。ねえ、ハーン!」  ハーン達はジルのほうを見た。 「なんだい、ジル」 「あとのことは任せたからね! おいらはディエル兄ちゃんのところに還るから! ええと、あと色々言いたいこともあったんだけど……あはは……いざとなるとうまく言えないや。……じゃあ、またいつか会えるといいね!」  感きわまりそうになる感情を抑えようとしているジルがいじらしい。 「分かったよ。あとのことは僕に任せていいからさ」  ハーンは笑った。ジルは肩をすくめ、おどけてみせる。 「それじゃ! おいらはここからおさらばするよ!」  そう言ってジルは“音”を発して、透明な球体を作りあげた。それは風船のように膨張し、ルード達をすっぽりと覆うように広がった。 「こいつは、おいらからの置きみやげだよ。この中にいる限り、まっさかさまに落ちることなんてないからさ。――じゃ、さよなら、だね!」  そしてジルは陽気に宙でとんぼ返りをすると、空間を割るようにしてふっと消えてしまった。 「ジル、本当に色々と、ありがとうな!」 「最後に、サイファにもちゃんと会ってあげてね」 「ディエルにもよろしく言っといてちょうだいな!」  ジルが渡った空間は今にも閉じようとしていたのだが、ルード達の呼びかけに応じるように、ジルの片手だけが隙間からにゅっと現れ――まかせてくれと言うようにひらひらと舞い――そして空間が閉じた。 「ほんと、あの子も明るい子だったねえ」  ぽん、とハーンの手が後ろからルードの頭にのせられた。彼は自分の子供達をあやすかのようにルードとライカの頭を優しく撫でるのだった。 「ハーン、くすぐったいって。それにちょっと恥ずかしいよ」  ルードは、そしてライカも照れたように笑う。しかしハーンは撫でるのを止めず、当惑する二人の表情を楽しんでいる。 「なんと言っても本当、よくやったよ。……さあ、ごらんよ。僕らの下にある景色を、さ!」  言われるままに、ルードは真下を見た。それまで白い空間だったそこにあったものは――。 「わわっ?!」  ルードは驚き、ハーンの上衣の裾をきつく握った。あまりの仰天のためか、ルードの口はぱくぱくと開くものの、そこから言葉が紡がれることはない。 「きゃっ!」  ライカもまた小さく悲鳴を上げる。瞬時に状況を見て取った彼女はとっさに翼を広げ、ルードのほうにぐるっと回り込むと、彼の身体を支えようとする。 「ちょっと! まさか……わたし達、空にいるわけなの?!」  そう。彼らのいる青い空間は大空だったのだ。  天空と呼ぶに相応しく、見渡す限り澄み渡る青。頭上にはさんさんと太陽が輝いている。“混沌”の襲来の最中、半ば忘れかけていた、当たり前ながらも美しい自然の風景の最中にルード達はいるのだが――彼らの足下には何もなかった。  慌てふためくルード達のさまを見て、ハーンはくっくっと声を殺して笑った。 「大丈夫だよ。ジルが言っただろう? あの子が残してくれたこの球の中にいる限りは、落ちるなんてことないんだからさ」  ルードはばつが悪そうにハーンの裾から手を離すと、おそるおそる真下を見ることにした。その横でやはりルードを支えるようにしながら、ライカも眼下を見やる。 「わ……」  小さく、ライカから感嘆の声があがった。 * * *  そこには――世界が広がっていた。  遙か下には広大な平野があり、ところどころに街らしきものが見える。それらは中枢都市群と呼ばれる南部の街の集まりであろう。つと視線を北方へずらすとそこは湖。太陽の光を受けたユクツェルノイレ湖の水面はきらきらと輝いて見えた。そこからさらに視線を移す。うすぼんやりと見える平原は――決戦の地、ウェスティン。 「驚いた……な」  ルードは目を丸くしながら、大地の様子をきょときょとと見て回った。 「俺達は今、フェル・アルムの上にいるってわけなのか!」  スティン山地、ムニケス山頂で目にした景色よりも、さらに多くの風景が映っている。 「そう。僕達は今フェル・アルムの空高く、しゃぼん玉のような球に包まれて、大地を見渡してるってわけさ。だけれどもね、それだけじゃあないんだ。ほら、今度はこっちのほうを見てごらんよ。……どう? 見えるかな?」  ハーンの指さす方向を、ルード達は見た。 「海……か? こうしてみると、やっぱりでっかいんだな! スティンから見るシトゥルーヌ湖も大きいもんだと思ってたのに、それすらちっぽけに見えてくるなんてさ……」 「そう、海。もちろんそれもそうなんだけど……見えるかなあ? 僕の指さす先のずっと向こうだよ」  ルードは目を細め、食い入るようにして凝視した。延々と続く海の彼方――そこにあるものを目にした時、ルードははっとなってハーンに振り向いた。 「……!! まさか――俺達はとうとう……」  ハーンはにっこりと笑ってうなずいた。 「僕達がいるのはフェル・アルムの上空ばかりじゃない。還ってきたんだよ。アリューザ・ガルドにね!」  ルードはライカと顔を見合わせ、そして――。 「やったぞ、ライカ!」  ルードは破顔してライカに飛びついた。ライカは一瞬驚くものの、ルードと顔を合わせ笑いあった。 「見ろよ! とうとう俺達はやったんだ! ほら、ライカ……俺達は今、アリューザ・ガルドを見てるんだぜ!」  ライカから離れると、興奮冷めあがらぬままにルードはまくし立てる。そしてルードとライカは視界に入るもの全てを見ようと、再び周囲をぐるりと回った。  広大な青い海。やがて海は陸地へと繋がり、その彼方にちらりと見えるのは、雪をいただいた高山。そこがライカの故郷、アリエス地方というところなのかもしれない。  目を右へと転じると、トゥールマキオの森など比べものにならない大森林が見えた。エシアルルの住むというウォリビア、アブロットの二大森林であろうか。その森の奥、うっすらと雲が覆っており見渡すことは叶わないが、ライカが語ってくれたようにあの雲の向こう側には、バイラルが築いた国家があるのだろう。ルードはまだ知らぬ世界を目の当たりにして身震いした。  なんという大きさなのだろう! このような美しい世界の中で、人は歴史を紡いできたというのか。 * * * 「あれ? なあ、俺達、だんだんと落ちてやしないか?」  先ほどから人の歩く速さ程度ではあるものの、ゆっくりと球が降下していくのにルードは気付いた。 「……この球体を作ったジルがアリューザ・ガルドからいなくなり、もといた世界に戻ったからだろう……」  憔悴しきった声を放ったのは〈帳〉だった。 「〈帳〉さん! だいじょうぶですか?!」  〈帳〉は首を縦に振るものの、その顔色は青白く、生気が失せているかのようだった。 「……私の持てる魔力全てを注ぎ込んだのだからな……もうこのような大魔法を行使することもあるまいが……」  ルードは心配そうな表情を浮かべるが、それを見た〈帳〉は、それでもかすかに口元をゆがめ、無事であることを伝えようと笑ってみせた。 「……そうか……還元のすべは発動したのだな……」  〈帳〉は周囲を見渡し、そしてやや翳りを落とす。 「発動と引き替えに、もう一方の目をも失うのかと思っていたが、景色を目の当たりにしているというのは、私に災厄は降りかからなかった、ということか」 「ディエルが反動の力を押し返してくれたんでしょう。フェル・アルムの人々も無事だと思いますよ。……僕達が為そうとしたことは成功したんです」  ハーンは努めて朗らかに、〈帳〉に語りかける。 「見てください〈帳〉さん! ほら、わたし達はアリューザ・ガルドに戻ってきたんですよ!」  ライカもまた、喜色満面に浮かべつつも、一方では球が降下しはじめているのに不安を感じているようだった。彼女は未だに翼を広げているようで、時折きらりとした粒子がこぼれ落ちるのだった。 「ふふふ。ライカ。球が降下してるからって、そうおっかなびっくりしなくても大丈夫だよ。まさかジルもこの球の効き目がなくなるような、やわなことはしていないだろうしさ」  ハーンが言った。 「そりゃあ、わたしだってジルの力を信頼してないわけじゃないわ。でも、念には念を入れたほうがいいでしょう? だからわたしは翼を広げてるのよ」  ライカは誇示するかのように自らの翼を現すと、大きくはためかせて空中を舞ってみせる。そのさまはいかにも心地よさそうであった。 「それにね。フェル・アルムでの色々なことを通して、“絶対”なんてことは絶対にないっていうのが分かったの」  蝶のようにふわりと周囲を飛び回りつつライカは言った。 「へええ。上手いこと言うね!」  ハーンはライカの言葉がいたく気に入ったようで、自分の口から反復した。 「あのあと――デルネアはどうなってしまったんだろう?」  ルードは思い出したように言った。 「……彼はトゥールマキオの森とともにあるのだ……」  〈帳〉はそう答えると、それ以降口を閉ざした。  球体はゆっくりと降下し続ける。それにつれ、寒々とした空気がだんだんと暖かくなる。遠方の風景は徐々に霞んで見えなくなり、その一方で眼下に広がる景色は輪郭を鮮明にしていく。  そして――ついにルード達は地面へと降り立った。  ここはアリューザ・ガルドの大地。  フェル・アルムという世界、“永遠の千年”とうたわれた世界は、もはや無い。  ただ、人々の記憶に刻まれるのみ。 * * *  足下が大地に触れると同時に、球はしゃぼん玉が割れるかのように、ぱちんと小さく音を立てて割れた。  降り立った場所は断崖だった。潮の匂いが鼻につく。  すぐ目の前には見渡す限りの海が広がり、波は規則正しく音をあげて岸壁に打ち付けている。  だが、この辺り一帯の絶壁に、ルードは不自然さを覚えた。  岩肌が露出しているところもあれば、樹木が不自然に海面に向かって突きだしているところも、土砂が崩れ海面にぼろぼろとこぼれ続けているところもある。まるでつい最近、地面が丸ごとえぐり取られたかのようなのだ。ルードは興味深そうに周囲を眺める。 「ここは、トゥールマキオの森の入り口。ここから先には、うっそうとした森があったのだ。ほんの先ほどまでは、な」  〈帳〉は大きく息をつくと、がっくりと力なくひざまずいた。トゥールマキオの森は消え失せてしまった。フェル・アルムの還元に際して、森の持つ全ての力が解き放たれたのだろう。 「デルネアは……再び空間を閉じ、彼は未来永劫あの空間から出ることはない。トゥールマキオの大樹とともに、彼は永遠にも等しい時間をひとりで紡ぐこととなるのだ……」  〈帳〉はそう言うと同時に、突如地面に伏せて泣き崩れた。感情をひた隠しにしてきた〈帳〉は、ここにいたって堤が決壊したかのように自らの悲しみに襲われたのだ。  〈帳〉はひとしきり泣いたあと、涙に濡れた顔を起こし、本来は目の前に広がっていたであろう森に向かって言った。 「なぜ! なぜ私ひとりだけがおめおめとアリューザ・ガルドに戻ってきたというのだ! かつての仲間達を失った私には、もうすでに残っているものなどない――デルネアとともに、あの地に残るのが罪人たる私の望みであり、責務であったのに、それすら果たせなかったとは!」  ハーンは〈帳〉に近づき、真正面から彼と向き合った。 「しかし、結局のところ、デルネアはあなたに残ることを良しとはしなかった。デルネアもまた、悲しい人間であったのだけれども、せめてあなたにはアリューザ・ガルドに戻ってほしかったんですよ。それがデルネアの持っていた、人の心の現れだと思ってください」  ハーンはひざまずいて、〈帳〉と目線をあわせた。 「そして僕もまた、あなたを残すべきではないと思ったんです。あなたは術が発動したその時、隷達と同じように空間の狭間に落ちようとしましたね? 自らを破滅に追い込むことが赦しを得る唯一の方法だと思っていたから」  うつむいたまま〈帳〉は、言葉もなくうなずいた。 「そんなあなたを止めたのは、僕なんですよ」 「罪を滅ぼすためにも、私はここに戻ってきてはならなかったのだ。アリューザ・ガルドに戻る資格など、私にはない……」  ハーンははっきりと、しかし優しく否定した。 「それは違いますね。資格がないと考えているのはあなた自身のみです」  ハーンは〈帳〉に立つよう促す。その表情はいつものハーンでありながら、またディトゥア神族のレオズスとしての威厳も見せていた。 「アリューザ・ガルドに戻ったあなたには、これからつらいことが多いのかもしれません。けれどね、あなたはデルネアとは違う道を生きなければならない。彼は最後まで理想にこだわるあまりに、ついには自らの世界に籠もってしまったけれども――あなたにはフェル・アルムの現実を見据えることが出来る。フェル・アルムの人々とともに未来を築き上げていくというのは、あなたにしか出来ないことです。そしてあなたが自分の為したことを罪と感じているのならば、まさにこれこそが罪を償う手段なのですよ。……ウェインディル」 「その名前……」  臙脂のローブをまとった彼は複雑な表情を浮かべ、ハーンを見た。 「ウェインディル・ハシュオン。あなたの本来の名前です。もうあなたは〈帳〉という呪縛から解き放たれるべきでしょう」  〈帳〉という名を失ったエシアルルは小さく震え、うなずいた。 「分かった……。貴方の言うとおりなのだろうな……。私は今、〈帳〉の名を捨て、かつてのように……ウェインディルと名乗ろう。私はフェル・アルムの未来を見定めていく。だが、人々が真実を――今まで闇に葬られてきたフェル・アルムの真実を知った時、その衝撃に耐えられるのだろうか……」 「え……と、ウェインディルさん」  ルードはやや戸惑いながらも白髪のエシアルルの名を呼んだ。 「フェル・アルムの人達だって弱くなんかない、と思います。スティンに向かう途中で、俺のふるさとに立ち寄ったじゃないですか。あそこはニーヴルの戦いにのまれ、もう人なんか住むようなところじゃあないって思ってた。でも、廃墟となった村に人々が住むようになってたんだ」  ルードは北方へ目を向けた。いくら目を細めても、連なっていた山々の姿を目にすることなど出来ないが。 「……スティンだって無くなってしまった。けれど、羊飼いのみんなは、これからどうしようか、っていうのを多分一生懸命考えてるに違いないです。……うまく言えないけど、そういった強さってのをみんな持ってると思う。俺はそれを信じたいし、あなたにも信じてもらいたい……」 「そうだな……君達の前向きさには、いつも教わることばかりだ。私は……そう、サイファのもとを訪れよう」  ルードの言葉を聞き流すかのように、呆然と目の前の海を見つめていたウェインディルだが、言葉は彼の心に確実に届き、揺り動かしていた。  ルードは聖剣所持者として、運命の中心に存在していた。しかし、過去のアリューザ・ガルドにおいて『英雄』と賞された人物のような才覚や、人を超えた技量を彼は持ち得なかった。たしかにセルアンディルとしての力を身につけ、また、おそらくはライカと同じく二百年の時を生きる長い寿命を持つようになった。だが、その変化によってルード自身の心が、デルネアのように変容していくことはなかった。彼は自身を貫いたのだ。聖剣ガザ・ルイアートが、彼を所持者として選んだのは、もしかしたらルードの純粋な心を知ったゆえなのかもしれない。  そして――デルネアと渡り合い、ウェインディルの心を動かしたのは――結局のところ、一介の羊飼いの少年だった。 * * * 「さあて! いつまでもここにいても埒《らち》があかないんじゃないかなあ?」  ルードの言葉に満足したのか、ハーンは場の雰囲気を明るくしようと努めているようだった。 「……ねえ、ルード。この後、あなたはどうするつもりなの?」  ライカはルードを上目遣いで見ると、つぶやくような声で尋ねた。 「そうだなあ……」  ライカの言葉から彼女の不安を感じ取ったルードは、彼女に向き直った。 「俺は、というよりは、俺達がどうするか……ってことでいいんだよな?」  ライカが殊勝にうなずくのをみて、ルードの顔はほころぶ。ルード達の旅はまだ終わらないのだ。 「まずはサラムレに行こうと思う。叔父さん達やケルン達が、あそこに避難してるだろう? もちろんサイファにも会って、礼を言っておきたいし。……それからは……そう、ライカとの約束を果たしにいかないとな……」  アリエス地方――ライカのふるさとに行き、ライカを無事に送り届けること。これこそが最後に残っている約束だった。  だがそれはライカとの別れを意味する。どうにもやるせない寂しさに葛藤する日がいつかは来るだろうと旅の最中も思っていたが、その時は迫り来る困難に直面していたために心の片隅へと追いやられていた。しかしアリューザ・ガルドに還ってきた今、ほど遠くない未来に別れは現実のものとなるだろう。  けれどもライカは――今度は不安を吹き飛ばすように、にっこりと笑って――ルードにこう訊くのだった。 「……で、それからはどうするつもりなの……わたし達は?」  意外な言葉だった。  ルードはぽかんとした表情をしたままライカを見る。 「え……約束を果たしたあと、俺達がどうするのかってこと?」  彼女の沈黙は、つまり肯定。今さらわたしに言わせたいわけ? といった面もちをして、ルードの答えをじっと待っている。 「そ、そうだな……」  ルードはライカへの愛おしさを深く感じながら、照れくさそうに鼻を掻いてみせる。 「この世界ってのを俺は見てみたい。それは前から思ってたんだけど、今こうやって空からアリューザ・ガルドを見ると、もうたまらなくなったんだ! 大きな森にも、そのまた向こうにある国々にも俺は行ってみたい! ……そう思ってる」 「それは面白そうね、ルード!」  ライカはそう言うと、嬉しそうにルードの腕に絡まる。 「フェル・アルムでの旅って、たしかに危険なことや分からないこともたくさんあったけど……いろんなところに行って、いろんな人に会えた……。今はまだ実感が湧かないんだけど、多分あとになって振り返ったら、わたしにとってすごく意義のある時を過ごせていた、そんなふうに思えるんじゃないかしらね。だからこれからも――」  ――世界の情景に触れたい。さまざまな人に会ってみたい。  それは彼らが、フェル・アルムでの旅を通じて膨らませていった情熱。その情熱が希望を生み出していったのを知っているからこそ、ルードとライカはさらに旅を続けていくのだ。  お互いへの想いも募らせ、はぐくみながら。 「ふふふ。いいねぇ……」  二人に置いてけぼりを食う感になったハーンは肩をすくめてみせる。 「でもそうしたらさ。今となっては島となった、このフェル・アルムから、エヴェルク大陸に渡る方法ってのを考えないとね」 「あ――」  ルードとライカは立ち止まってしまった。 「ライカの翼で飛ぶっていうのは……?」 「うーん……とてもじゃないけど無理よ。アイバーフィンだって一メグフィーレも飛べればいいほうなのに、ここからエヴェルク大陸の端っこまで、そうね……少なくみてもその十倍はありそうだもの……」  首を傾げつつ、難題に思い悩む二人にハーンは声をかける。 「ま、今悩んだってしかたないよ。だいじょうぶ。なんとかなるって。ほら、今までもそうしてきたようにね!」 「ハーンも気軽だねえ、相変わらず」  ルードは苦笑しつつもハーンに同意した。 「〈帳〉さん……いや、ウェインディルさんは、これからどうするんですか?」  しばらくうつむいて考えたあと、ウェインディルは言った。 「そうだな……君達とともに過ごしてこられて、今まで本当にありがたいと思っている。けれども私は……君達とここで別れることにしたい」 「え……〈帳〉さん?! なぜです? 俺達と一緒に行ったほうがいいんじゃないですか?」  ルードは素朴な疑問を投げかけるが、ウェインディルの表情を見た途端、それがひとりよがりな考えであることに気付いた。 「今はただつらいばかりだが……。さすがにこの岸壁から身を投げたりはしない。私はエシアルルの理に従って生き続けるよ。けれどもしばらくは……この胸の底からわき起こる気持ちの整理がつくまでは、この地にてひとりでいたいのだ……頼む」  哀しみを必死に堪えつつ、ウェインディルは言う。そしてそれきり、再び海のほうを見て押し黙った。どのような表現でも言い尽くせないほどに、彼の哀しみは計り知れなく深いのだろう。  ルード達は、その背中に別れの声をかけ――彼の哀しみがいつの日か癒されることを願いつつ――岸壁をあとにしていくのだった。  まず目指すのは南部のいずこかの街。そこからフェル・アルムを北に巡っていくのだ。 * * *  こののち、ルードとライカはフェル・アルム東方に位置する大陸、エヴェルク大陸へと渡っていく。  一つの大地しか存在し得なかったフェル・アルム世界では、航海術は発展するはずもなかったが、海を渡るにおいてハーンがレオズス自身の力を行使したものとも思われる。  そしてなお、二人の旅は続いていく。  ティアー・ハーンはルード達を見送ったあと、ウェインディルのもとに赴く。宵闇の公子は陰ながらに、フェル・アルムの地を支えていこうというのだ。もっとも奔放な彼のこと、いずれはアリューザ・ガルドの何処かへと旅立つのだろう。  彼らの物語はひとまず幕を閉じることになる。  イャオエコの図書館。林立する本棚のいずこかに、この物語は書物となって、ひっそりとたたずむこととなるのだろう。いつの日か、図書館を訪れた誰かによって、ひもとかれるその時までは。 * * *  それから季節は巡り――。  荒涼とした大地にも、再び春が訪れようとしていた。  春。  北方のスティンの山々が“混沌”に飲まれて消滅してしまった今、もはやそこに羊飼い達の姿を見ることはない。  上流の山を失ってしまったクレン・ウールン河の流れもすっかり枯渇してしまった。流域の平原――ウェスティンの地は痩せ細り、かつての面影はない。  しかし望みが失われることなどない。  羊飼い達は東部域、セルと呼ばれている山地にて新たな生活を送ろうとしている。  そしてこの地にもかすかに、だがしっかりとした、新たな希望が生まれようとしているのだ。  ウェスティンと呼ばれていた荒野の中にひとり、彼女は立ちつくし、思いを巡らすように目を閉じていた。  目の前の土はやや盛り上がっている。そこに友が、やすらかに眠っているのだ。  墓には一振りの剣が置いてある。近衛隊長だった親友の生前には、美しい銀色を放っていた剣。長いこと墓標の役割を果たしていたため、今となってはすっかり赤錆てしまっていたが、この錆は剣の価値を無くすものではない。“混沌”の襲来をはねのけたものの、すっかり荒れ果ててしまったこのウェスティンの地に、恵みの雨がもたらされた証にほかならないのだから。  彼女は目を開けると、ひざまずいて剣の柄を手に取る。この剣で自らの髪を切ってから、九ヶ月が経とうとしている。彼女の艶やかな黒い髪も、元どおりの長さにまで伸びていた。  こうして春が巡ってくるまでの間に、色々なことがあった。  まず、遙か昔より隠蔽されてきた、本当の歴史が公開された。  それまでにも、アズニール語の復活や、魔物の襲来によって苦しんでいた人々だが、真実に直面することによってさらなる混乱に陥った。しかしながら、今は人々もそれらの現実を――アリューザ・ガルドの世界にいるということを受け入れ、立ち直りつつある。  彼女自身も帝都アヴィザノに帰還してのち、枢機裁判に身をおき、ドゥ・ルイエの絶対的権限を自ら放棄した。今の彼女は、幼少の頃よりの名前でもって、この地を治め導いている。  そしていずれはこの大地にも、東方の国々から人々がやってくるのだろう。彼女の友人達が東方に渡り、今なお旅を続けているように。 「――ルミ。そろそろ私は行くよ。また近いうちに来るからね。こんな……何もない寂しい場所に、あなたが眠っているのは私にとってつらいんだけど……」  サイファはしかし、ふと笑みを浮かべる。気付いたのだ。それまで剣の置いてあったところに何があるのかを。  彼女は魅入られたようにそれを眺めつつ、言葉を紡いだ。 「でも……枯れてしまってるのは今だけね。色々なことがゆっくりだけれども動いている……。ここもいつの日か、緑豊かな大地へと育っていくに違いないのね……」  サイファはゆっくりとかがむと、そこに芽生えようとしているほんのちっぽけな草を――しかし確かな生命をはぐくむ、希望をもたらす若芽を――愛おしむようにそっと撫でるのだった。  数多に存在する物語の一つ。  ――閉ざされた大地“フェル・アルム”と、  運命の渦中にあった者達、そして聖剣の物語――ここに終わる。      フェル・アルム刻記 〈完〉